2017/11/28

世界樹の意思

 

この記事を書いている人 - WRITER -

広大な海のただ中にある孤島、そこは他の土地では感じられないような、強い清浄な空気に満ちていた。
この孤島は辛うじて地図上には描かれるものの、余程の物好きか何かでなければその孤島に近づく理由すら見当たらないような場所にぽつんと位置する。まるで世界とは切り離された異世界の雰囲気が、そこには漂っていた。
孤島に船をつけ、島に降りれば足は砂を踏みしめる。海岸だけに押し寄せた砂ではなく、それは島に砂漠が広がっていることを教えている。来るものを拒むその殺伐とした環境も旅人たちの進む意欲を失わせ、足を止めさせる。
乾いた砂の光景を、どこから発生したのか分からない霧が包み、訪れる者の視界を阻む。その光景は、この先に何があるのかという人間の探究心に火をつけるのではなく、この先に何があるのか確認するのも恐ろしいと言う人間の恐怖を呼び覚ます。そんな近寄りがたさが岩山に囲まれた孤島全体を包み込んでいた。
砂漠の中央に位置する場所に今、三人の旅人が訪れていた。孤島を包み込む異世界感や、えも言われぬ恐怖をものともせずに、勇者ロトの末裔である三人の旅人は、まるで空を突き破る勢いで真上に伸びる大樹の根の近くに佇んでいた。
三人を見下ろすのは、世界で唯一の大樹。その巨大な木を隠すように周りに纏わりつく霧の景色は、この大樹の上にはその存在さえも許さないとでも言うように晴れている。大樹の下からは白い雲の浮かぶ青空を仰ぐことができる。
命そのものを象徴するかのような青く瑞々しい葉を多分につける大樹。信じられないほどに育ったこの木が周りの養分を全て吸い上げ、その結果この土地が砂漠化してしまったのではないかと想像させられる。そんな大樹を見上げながら、カインはその命の象徴の回りに漂う浄化された空気を胸いっぱいに吸い込んだ。それだけで心も身体も癒されるような気がした。

「よくこの場所を見つけたね」
カインの声をこの場所で聞いていることに、話しかけられた二人は今ひとつ実感の沸かない様子でゆっくりとカインを振り返る。夢うつつのような視線を向けられたカインは、手を叩いて大きな音を鳴らし、ぼんやりとしている二人の目を覚まさせた。
「ほら、起きて起きて。確かにここは天国みたいに気持ちがいいかもしれないけどさ、立ちながら眠って夢を見るなんてのはナシだよ」
「……バカ野郎。天国とか、縁起でもないことを言うな」
「縁起でもないことを考えているのは二人じゃないか。僕はちゃんとここにいるのに」
「でも、そうさせたのは、あなたなのよ、カイン……」
小さなマリアの声が清浄な空気を震わす。マリアの心はまだ悲しみから解放されていない。挑戦的とも言える彼女の表情をじっと見ていることはできず、カインはすぐに目を逸らして俯いた。マリアだけではない。アベルもまた同様に鋭い目つきで自分を見ているのが分かったカインは、二人の仲間から逃れるように大樹の景色を真下から眺めた。

カインはついこの間まで、美しい水の都ベラヌールで呪いに身体を蝕まれ、幾日にも渡って意識が混濁しているような有様だった。床に伏せったまま眠り続けていたカインは、時折呼び覚まされそうになる意識も押しのけて、二人の仲間の下へ戻ることを諦めようとしていた。自分一人が進むことを諦めれば済むのだと、弱い意思に潰されそうになっていた。
自分一人が旅から外れたところで、心身ともに立派に成長した二人がいれば何の問題もないだろう。カインは二人に絶対的な信頼を置き、呪いの闇に身を委ねようとしていた。
しかしそんなカインの意思など夢にも見ていないアベルとマリアは、日に日に弱っていくカインの呪いをどうにかして解くために奔走し、手掛かりを得られればとりあえず前に進み、打倒ハーゴンという目的を一瞬忘れてしまうほど必死になって仲間を救い出そうとしていた。アベルとマリアの間に、カインのような諦めという選択肢はなかった。カインが死に向かっていくのを打ち消したい一心で、彼らは我を忘れて仲間救出の為に進み続けた。
そしてこの孤島を地図上の目的地に定め、彼らは世にも珍しい大樹に辿り着いた。
人の命を吹き返すほどに力があるという伝説の世界樹の葉は、その時、樹の周りには一枚も落とされていなかった。時折砂漠を吹く風に砂が煽られ、立ち尽くすアベルとマリアの頬や旅装にバチバチと当たった。
この樹は恐らく年老いても枯れることを知らないのだろう。周囲が砂漠の景色であろうとも、この樹は自らが生の力に漲っている。命を象徴する樹は、その枝から葉を落とすことも許さないのかも知れない。そんな絶望的な考えが、世界樹を見上げるアベルとマリアの頭の中を支配し始めたその時。
世界樹は、彼らの仲間を助けるためにと、一枚の葉を枝から落とした。たった一枚、瑞々しい葉がアベルとマリアの目の前に落ちた時、張り詰めていた気が一気に抜けて、二人はその場に倒れこんでしまったという。

「あん時は本当に信じられなかったよ。世界樹の周りはこんな砂しかなくて、樹に登ろうと思ったって枝が高すぎて掴まれねぇし、足掛かりも何にもないだろ。マリアは横で泣き出すわで、にっちもさっちも行かなくてよ。よっぽど剣でもぶん投げて枝ごと切り落としてやろうかと思ったんだよな。……というかやってみたんだけど、剣ごと弾き返されちまった」
アベルは苦い顔をしながら大樹を見上げてそう言った。
「私も呪文で葉を落とそうとしたのよ。何度も挑戦してみたけど、やっぱりダメだった。それもそうよね、私の呪文なんかがこの世界樹に通用するようだったら、ずっと昔にこの樹は魔物の手で滅ぼされていたはずだもの」
マリアは大樹の巨大な幹に背を預けながら、遥か上方に青く繁る世界樹の葉を透かし見た。
三人揃った旅人の前には今、世界樹の葉は一枚も落とされていない。
「ここに連れてきてくれてありがとう。何だかすっきりしたよ」
呪いから解放され、この場所へ連れてきて欲しいと言い出したのはカインだった。
その時二人の仲間には「お礼参りみたいなものだよ」と言っておいたカインの胸中には、まだ形にもならない不安が隠されていた。不安の中身はカインにも分からない、漠然としたものだ。
カインは両手を上へと伸ばしながら思い切り空に向かって伸びをした。そうして大樹の葉に手を伸ばすだけで、直接命に触れられるような不思議な感覚を得ることができた。
「これからの旅も険しい道のりだから、一枚くらいオマケで落としてくれるといいんだけどね」
いつものように軽い調子でそう言うカインに、アベルはほんの少し間を置いてから、同調するように笑って答えた。
「そうだよなぁ。俺たちだって好き好んでこんな旅をしてるわけじゃないんだから、この樹にそれくらいの慈悲深さはあったっていいよな。『よく頑張ってるあなたたちには、もう一枚この葉をあげましょう』なんて言ってさ」
「アベルの中では世界樹は女性なんだな」
「そんな気がしねぇか? しかもとんでもなく美人だよ、俺の想像では」
二人がそう言いながら世界樹を見上げて笑っているのを、大樹に寄りかかっていた背を離したマリアが強く首を横に振りながら否定する。
「そんな縁起でもないこと言わないで。もし世界樹が私たちに葉を落としてくれたら、それはまた私たちに危険なことが起こるかも知れないということだわ。嫌よ、そんなの」
マリアの思いも寄らぬ弱々しい発言に、カインは笑みを強張らせた。一方アベルは溜め息をつきながら、マリアを宥めるように言い返す。
「どうしてそう後ろ向きの考えになるんだよ。葉が一枚落ちてきたって、『もうけもの』くらいに思っておけばいいじゃねぇか」
「アベル、あなたも見たじゃない。この世界樹は必要な時にしか葉を落とさないのよ。私たちがカインを助けたいって必死で思っていたから、世界樹は一枚だけ葉を恵んでくれたのよ。助けなきゃいけない人がいる時にだけ、葉を手に入れることができるの。それを『もうけもの』だなんて、この樹がそんな間違いをする訳がないわ」
「誰にだってミスすることぐらいあるだろ。この樹だってもうずっと前からあるんだろうから、モウロクしてるんじゃねぇのか。うっかり一枚落としちゃったよ、ってこともあるかも知れないだろ」
「世界樹は綺麗な女性じゃなかったのか」
「考えてみりゃ、しわくちゃの婆さんかも知れないや。伝説として語られてるくらいだからな」
アベルは頭を掻きながら大樹を見上げ、一瞬にして婆さんになってしまった世界樹の前で鼻に皺を寄せて顔をしかめた。
「アベルじゃないんだから、そんなミスなんかしないわ、世界樹は」
「何だと? 俺がいつミスなんかしたんだよ。別にマリアに責められるようなことなんか何もしてないぞ」
憤慨するアベルに、マリアは鋭い視線を返しながら淀みなく言う。
「最近のアベルは集中力に欠けてるわ。魔物に向かっていく時もよく攻撃をかわされているし、町でも人の話なんか聞いちゃいなくて、いっつも後からカインに聞いているでしょ」
「町の人の話を聞かないって……それは今に始まったことじゃないだろ」
堂々と言い返すアベルを見ながら、カインは吹き出しそうになった。
「それが前よりもひどいと言っているのよ。もう少し旅に集中して欲しいのよ」
マリアはどういうわけだかアベルに対して厳しい言い方をする傾向がある。それはマリアが彼を信頼し、色々とものを言いやすい仲間だからだろうと、カインは彼女の幾分きつい話し方も容認している。
しかしアベルの方は言われるだけで終わらせるほどの度量は備えていない。言われたら言い返す。それもアベルが彼女のことを信頼し、また言い返すにしても彼はマリアの心の琴線に触れるようなことは決して言わない。
度々行われる二人の喧嘩は、そんな信頼関係に基づくものだと、カインはいつも二人のやり取りと苦笑しながら見ている。
「あのなぁ、じゃあ言わせてもらうけど、お前だって人のことなんか言えるかよ。前までは余裕もあって周りも見えてたのに、今じゃカインしか見てねぇだろ。骨を折りそうな怪我してるのに、傷口に薬草塗りこんでる俺の身にもなれよな。ムチャクチャ痛えんだぞ」
「それは……仕方ないじゃない。カインはアベルみたいに自分からぎゃあぎゃあと騒がないんだもの。こっちがちゃんと見ていないと、カインは何も言ってくれないから……」
「こいつは自分の怪我くらい自分で治せる。放っておいても自分でどーとでもするだろ」
「放っておけないわよ。カインが呪いになんかかかって、あんなに苦しい思いをしていたのを思い出すと、とてもじゃないけど放ってなんかおけないでしょ。心配なのよ」
「マリアに子供扱いされるとは思わなかったな」
カインは苦笑しながらマリアにそう言ったが、そんなカインの柔らかい雰囲気さえも壊してマリアは必死な表情で言葉を紡ぐ。笑い事なんかじゃないのだと、マリアは半ば怒るような顔つきで言う。
「カインが子供だったらこんな心配なんかしないわ。あなたが大人だから心配してるんでしょう。何でも我慢しちゃう大人だから、何かまた隠してるんじゃないかって、何か大事なことを私たちに伝えてないんじゃないかって、始終不安になるのよ」
半泣きの状態で喚くように言うマリアを見て、アベルとカインはようやく表情を固くした。肩を震わせて俯くマリアに、アベルがその場を取り繕うように言う。
「……まあ、確かにこいつは正直者ではないな。何のかんのと俺たちに嘘をつく。お前、本当に聖職者か?」
「正直ばかりが良いことだとは言えないだろう。仲間のためを思ってつく嘘もあるさ」
「だけどそんな嘘は結局俺たちのためにはならない。そんなことをしたってバレる時の衝撃が増すだけだ。今回のことでそれが分かっただろ、お前にも」
そう言いながらアベルはマリアに視線を移す。再び世界樹の太い幹に背をもたせかけたマリアは、顔を両手で覆い隠していた。仲間が涙する姿を見るのは、どんな境遇であろうともやはり気持ちが塞ぐ、とカインは自分を見ていないマリアに思わず頭を垂れた。
見ているだけで彼女の辛さや苦しみが伝わり、思わず彼女を正視していられなくなる気持ちに苛まれるが、そんな懺悔の気持ちとは逆光するようにカインは声も立てずに涙するマリアの姿から目が離せなくなっていた。

そしてカインは自分がハーゴンの呪いに蝕まれていた時のことを思い出す。旅の最中、彼女の涙を初めて見たのは、呪いから解放された直後のことだった。

旅を始めてからかなりの月日が経ち、旅の疲労も溜まりに溜まった頃、彼ら三人は水の町ベラヌールに到着した。旅の道中、ベラヌールに訪れる以前より、カインは自分たちを取り巻く敵の呪いの気配を感じ、そしてその気配が日増しに大きくなっているのを肌に感じていた。
聖職者の端くれだと自覚しているカインは、自らを大神官などと呼ばわる罰当たりな邪教の親玉に対し、共に旅する二人よりもその気配に敏感であることを知っていた。サマルトリアを旅立ち、ローレシアの城に足を伸ばした時も、城のどこかにハーゴンに通ずる意識がどこかに存在していることを感じた。ムーンペタの町では僅かなものではあったが、身も心も安心し休まる場所であるはずの町の中で、胸の辺りをチクリと針で刺されるような悪の気配を感じていた。そしてその双方の場所に、邪教に染められた魔物の姿があった。その気配に気づいていたのは、三人のうち、カイン一人だけだった。
仲間の二人も魔物の気配には敏感だが、それは魔物全てに総じてのことで、カインのように神に対する悪魔に通じる魔物に特に敏感と言うことはない。悪の存在に特に敏感になるのは、聖職者特有のものだ。ベラヌールでカインたちに突然「悪霊が憑いている」とのたまった町の神父も、その特性を持っているに違いなかった。
旅も序盤の頃から、敵ハーゴンは伝説の勇者ロトの子孫が世界を巡っていることに気がついていたのだろう。世界が危機に瀕した時、再び勇者は現れる、という世の人々の希望に溢れる予言はハーゴンの耳にも及んでいるはずだ。
一方、ロトの末裔として生まれ育ってきた三人は、世界が危機に瀕した時には必ず動き出さなければならない意思を幼い頃より植えつけられ、いつかは強大な敵にも相対しなければならないことは三人共に無意識にも覚悟をしていた。
そして勇者の末裔が揃い、旅を進め仲間としての絆が深まる中で、カインは己の為すべきことを悟る。
アベルとマリア、二人の力や思いの強さは敵を倒す刃となり、進むべき道を切り開く力を備える。比べてカインは、敵を倒そうとする力や意思を、二人ほど強くは持ち得ないと自覚していた。それはやはり、万物の命の尊さを教えられた聖職者としての意識が強く働いていたせいだった。邪教に染められ、世界中の人々を不安に陥れている張本人に対しても、その敵にも命があるのだと考えるだけで、カインは二人ほどの打倒ハーゴンの意識を強くは持てないでいた。
ならば自分は二人が前に進めるよう敵の攻撃に耐え得る鎧となり、いざと言うときには二人に代わって攻撃を受ける盾となろうと、カインはそんな思いを抱えながらアベルとマリアとの旅を続けてきた。二人を守り切って鎧が砕かれ、盾が割れようとも、それで二人が意思を曲げずに前に進めるのなら何も問題はないと、己の役割を冷静にとらえていた。

呪いから解放されたばかりで、まだ精神的にも回復していない時、カインは自分のそんな思いを二人に正直に吐露してしまった。旅の最中、そんな己の考えを話すつもりは全くなかった。しかし憔悴していた精神はカインの思いを胸中に封じ込ませることをさせてはくれなかった。
ハーゴンの呪いの波動が以前から、旅もかなり序盤の頃からあったことに話が及ぶと、その時、アベルはカインを嘘つき呼ばわりした。
『お前はとんだ嘘つき野郎だな。奴の呪いの気配に気がついてたんなら、ずっと前に言うべきだったんだよ。そんな嘘をつき続けて、俺たちを欺いて……』
『欺くなんて、そんなつもりはなかったよ。僕はただ……』
『結局は同じことだろ。お前は何も言わなかったし、俺たちは何も気づかなかった。傷口が広がる前にお前は知っていることを言うべきだったんだ』
『混乱を招くようなことをわざわざ言うこともないだろう』
『今が一番混乱してるじゃねぇかよ、ほら』
アベルはそう言いながらベッドに半身を起こすカインの傍らを指差した。そこには泣き疲れてそのまま眠ってしまったマリアが、ベッドの端にしがみつくような体勢で寝息を立てていた。二週間ぶりに目にしたマリアは唯でさえ細い体がさらに小さくなり、髪も艶をなくし、やせっぽちな子供のようになってしまっていた。
意識を回復した直後に、マリアがうわ言のように『良かった、良かった……』と呟きながら泣き崩れたのを、カインはまだ意識もはっきりしないまま呆然と見つめるしかできなかったのだ。

その時と同じように、今もマリアは世界樹の幹にもたれながら静かに涙を流している。これで彼女の涙を見るのは二度目だと、カインはマリアに彷徨う視線を一度地面に落とした。
道中、この王女はどんなことがあっても涙を流すまいと必死に歯を食いしばって様々な苦しみに耐えてきた。自分の国が滅ぼされ、一瞬にして何もかもを失った少女は、そんな凄まじい過去を持ちながらも、二人の仲間の前でメソメソ泣くようなことはしなかった。それは恐らく彼女の王女たる気質から為し得たことなのかも知れない。それとも泣いてしまったら、とことんまで悲しみを解放させ、意識がおかしくなってしまうと、そんなことを彼女は恐れていたからかも知れなかった。
しかし仲間が危機に瀕した現実に突然晒されたマリアは、完全に涙の壁を取り払ってしまった。一度外れた箍は修復もできないようで、今も世界樹の下で静かに涙を流している。だが堪えるように俯いて顔を隠す彼女は、まだ泣くという行為そのものを恥じているようだった。

紫の艶の戻った髪で横顔を隠し、ひたすら俯いて肩を震わせるマリアの姿を見ながら、カインは今まで彼女に抱いていた親愛の情とはまた異なる感情が胸の内に湧きあがるのを感じた。

今までもう一人の妹のように思ってきた彼女は、冷静に考えれば直接の血の繋がりなどなく、ただ三つ下の他所の国の王女様だ。妹ではない。子供でもない。彼女は一人の立派な女性だ。
涙を流す彼女に、ただ純粋に触れたいと思う。
いつものような感覚で、と強引に思おうとするカインの手は、少し震え強張った。
カインは湧きあがるありえない感情を息を止めて押し留めようとする。そんなことがあるわけがない、あってはならないと、他には何も考えられないまま自分の感情に真っ向から否定する。
しかし視線の先にはさめざめと涙する王女の小さな姿。離せなくなった視線をどうにも出来ない事実、それと同時に湧きあがる胸が締め付けられる想いを拒もうと、カインはその場を取り繕うように一言口にする。
「ごめん、二人とも」
口の中が渇いて、言葉運びがたどたどしくなる。
「それだけか?」
アベルの声に答える前に、カインは唾を飲んで渇き切った喉を潤す。
「これから僕に何かできることがあったら何でも言ってくれ」
「とりあえず死ぬなってことだな」
「ああ、約束するよ」
「そうだ、何があっても自分から絶対に諦めるんじゃねぇぞ」
「うん、分かった」
「……だそうだ。聞いたな、マリア。安心しろ。カインはもう大丈夫だ。いつまでもメソメソ泣くな、辛気臭い」
アベルの大きな声を聞いても、マリアはまだ俯いたまま世界樹の巨大な幹に寄りかかり、微動だにしない。
世界樹の葉が風にさらされて涼しげな音を立てた。巨大な樹に守られながら、鳥たちが清らかに囀りを交わしている。この樹の枝や幹を住まいにしている鳥は多いようで、まだ幼い雛鳥のたどたどしい鳴き声も混じって聞こえる。
そんな樹を見上げながら、カインは改めてこの世界樹が命そのものだと肌に感じていた。陽光に晒される巨大な樹には神々しささえ感じられる。
「カインは嘘つきだもの」
蚊の鳴くような声でマリアがそう呟いた。世界樹を背にしてそう言うマリアの言葉は、まるで神から下される審判のようで、カインはその言葉の意味に身震いした。
「マリア、すまなかったね。これからは嘘をつかないようにするよ。よかれと思ってしたことだけど、かえって二人には迷惑をかけたみたいだしね」
「信じたいけど、信じられないわ」
弱々しいながらも断固とした拒絶。この王女が頑固者だとは分かっていたが、こうも明らかに拒まれるとカインは二の句が継げなくなった。
考えてみれば、この王女が自分にここまで反抗してきたことはないと、カインは今までの旅のことを一瞬にして振り返った。いつでもマリアはアベルと喧嘩をする一方で、カインの言葉には素直に耳を傾ける傾向があった。だから尚のこと、カインはマリアの目も合わせない反抗に、どうしたら良いのか途方に暮れ、思わずアベルと視線を合わせていた。そんな見た事もないカインの狼狽ぶりに、アベルは肩を竦めて見せ、溜め息をついた後に話し始める。
「とりあえず信じてやろうぜ、マリア。今度またこいつが馬鹿なことでも考えたら、そん時は俺がこいつのことぶん殴ってやるからよ」
そう言いながら豪腕な右腕を振り上げるアベルに、カインはそれは勘弁してくれとでも言うように、両手を挙げて降参のポーズを示した。アベルが自分に合わせてくれているのがありありと分かったが、ここは甘えておこうとカインは彼の調子に便乗した。しかしマリアはまだ暗い表情で地面を見つめ、やがてその視線は世界樹の樹に繁る無数の葉の景色を仰ぎ見た。
「信じられるように、努力してくれるわよね?」
「うん、僕に出来ることなら何でもね」
カインはそう答えながら努めて明るく振舞った。それもこれも彼女を安心させたい為で、ただでさえ人よりも苦しみを味わっている彼女に笑顔でいてもらいたい、それだけを願っていつものように笑って見せた。
しかしそんなカインの笑顔が余計に彼女の心を沈ませることに、まだカインは気づいていない。いつも兄ぶって、ただ妹を安心させるために作る家族への笑顔をマリアは望んではいなかった。これまでと変化のないカインの笑顔を見たところで、マリアは心の底から安心することなどできなかった。
マリアの心情が自分と同じような変化をしていることに、カインは気がつかない。
「ま、俺たちはまだまだ先に進まなきゃなんないんだからさ、考えたって仕方ない。つーことで、もう行くぞ。葉っぱが手に入らないんなら、ここにいたって意味ないしな」
軽口を叩きながら世界樹を見上げるアベルの表情は、ほっとしたような安堵の感情が表れていた。蘇りの葉が欲しいとは口にしながらも、アベルも恐らくマリアと同じ懸念を持っていたに違いない、そうカインは解釈した。
アベルも世界樹の葉を再び手に入れることを心の底では恐れていたのだ。
それは悪い予言なのだと。

だから、カインは黙っていた。
世界樹の信じられないほどに太い幹の向こう側で、ちょうど仲間二人の死角の位置に、一枚の青々しい葉がハラハラと落ちてきたのだ。
砂の上に落ちた葉は、今にも風に吹かれてどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。
そんな景色を知らないアベルは既に世界樹を離れ、再び霧の中へと戻ろうとしている。
「アベル、マリアを置いていくな。一緒に行かなきゃダメだろ」
声が震えないように、カインは冷静を装ってそう呼びかけた。アベルは振り返り、大げさな溜め息をついてマリアに視線を預ける。
「早く来い。置いてくぞ。俺はどうもこの世界樹ってのが苦手だ。とっとと船に戻るぞ」
「アベルは前に来た時もそんなことを言っていたわ」
「じゃあ、お前は平気なのかよ」
「平気……なわけないでしょう。私だって、嫌よ、ここは」
「だろ? ここにいると嫌でもカインのげっそりした顔を思い出すからな」
「……そうね」
「なら行くぞ。早く二人も……って、カインはどこに行った?」
アベルの言葉に、マリアは目を見開いて後ろを振り返った。今までそこに立っていたカインの姿がない。
「カイン……、どこ……?」
今にも泣きそうな声で呟くマリアと、慌てて辺りを見渡すアベル。カインを救おうと二人でこの場所を訪れた時の絶望にも似た気持ちが一気に押し寄せる。今まで普通に話していたカインの姿は幻だったのかと、アベルとマリアは互いに不安の表情を隠そうともせずに目を見合わせた。
そんな二人と世界樹の幹を挟んで、カインは砂の上に落ちていた世界樹の葉を拾い、こっそりと懐にしまった。そして二人が視線を泳がせている反対側に回りこんで、姿を表す。
「あ、ごめんごめん。せっかくこんな場所に来れたんだから、ちゃんと世界樹を拝んでおこうかなって思って、一周してみた」
ひょっこりと世界樹の幹から現れたカインに、アベルは詰めていた息を吐き出し、マリアはその場でへたり込んでしまった。
「……お前、いつか本当にヤキを入れてやる」
「恐いことを言うなよ、アベル」
「そうさせてんのはお前なんだよ。いい加減、自分の行動を自覚しろ。そのマイペース、何とかしろ」
「あんまりアベルに言われたくない言葉だな、それは」
「うるせぇ。見ろ、お前のせいでマリアが立てなくなっちまったじゃないか。責任持ってお前が連れてこいよな。俺のせいじゃねぇからな」
アベルはそう言い捨てて、さっさと世界樹を離れていってしまった。もう一秒たりともこの場所にいたくないという彼の不安がカインにも伝わっていた。
「マリア、ごめんね。僕が負ぶっていくよ。肩に手を回してくれるかな」
彼女の前にしゃがんで、両手を後ろに持っていくと、突然マリアが後ろから抱き付いてきた。
突然の衝撃にカインは一瞬視線を泳がせたが、自分の腹に回されたマリアの細い腕に、カインはゆっくりと自分の手を添えた。
「それじゃ負ぶっていけないよ、マリア。さ、アベルともあんまり距離を置いちゃいけないから、ちゃんと手を……」
「もう、嘘はつかないのよね?」
そう言うマリアの手は今、カインが拾ったばかりの世界樹の葉を服の上から押さえつけている。カインはその感覚を得ながらも、一瞬の間も空けずにマリアに再び約束するように、一度だけ首を縦に小さく振った。
「本当はあなたのことを誰よりも信じたいんだからね」
マリアの掠れる様な声が背中を通じて響くのを感じ、カインは再び沸きあがりそうになる感情を必死に押し留めた。感情とは裏腹な普段の明るい声を出す。
「ありがとう。これからも二人の信頼回復に努めるよ」
カインがそう言うと、マリアはようやく彼の肩に両手を回した。マリアを背負ったカインは、急いで霧の中を進んでいるはずのアベルの後を追う。

二人の仲間の信用を回復すると約束しながらも、カインは彼らに対して二つもの秘密を抱えることになった。
一つは、彼らの運命にどう作用するか分からない、世界樹の葉。
もう一つは、気がつかなければ楽でいられた彼女への想い。
生きることを約束し、自ら生きたいと思う反面、拾った世界樹の葉は彼らにどのような命運を授けようとしているのか、カインにも分からない。
しかし、その葉がもし仲間二人の危機を表しているとしたら、やはりカインは二人の鎧となり、盾となることを覚悟する勇気はいつでも持ち合わせている。
想い人の近くで生きたいと思う欲と、仲間のために身を挺する覚悟の、矛盾するような気持ちの狭間で、カインの懐に潜む世界樹の葉はその役目が決定される時を、これからもじっと待ち続ける。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.