始まりのお話

 

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グランバニアは森の奥深くにその城の威容を隠している。今は城下町を丸ごと城の中に収めてしまうという大規模工事の真っ最中で、町の人々は初めその工事に反対を示したものの、若き王子の粘り強い説得や態度に耳を傾けている内に彼の強い意見に引っ張られ、こうして工事に着手する手筈となった。
グランバニアの若き第一王子パパスは父王の面影を濃く映し、国を継ぐ者として育てられた彼は国民の人心を掴む術もその教育の中で身に着けた。元来の性格も実直なもので、城下町に度々姿を現しては国民と肩を並べて杯を交わすなど気さくな一面も彼の魅力の一つだった。彼は一国の王子として、一人の人間として、愛する国の者たちとともにあることを強く望んだ。自身はいずれこの国の王となり、この国を守って行かなくてはならないのだと、王子としての教育の中で学び、城下町で言葉を交わす国民との触れ合いにその想いを強めていた。
ただ一つ、第一王子としての自覚がないと父王を悩ませていたのは、国外の調査と理由をつけては兵を引き連れて国を飛び出し、あちこちへと歩き回ってしまうことだった。第二王子のオジロンは性格的にも大人しく、城の中で教養を身に着けることに嫌な顔などしなかったが、兄パパスは真面目である性格以上にその心の中には常に冒険心が渦巻いていた。
第一王子として友好国とは確かな関係を築いておかなくてはならないと、パパスは国の船を出し、やはり数名の頼れる兵を引き連れて半ば強引に遥か北の大陸にまで出かけたこともあった。父王が城での執務に勤しんでいる間に秘密裏に出かけて行くのだから、その突飛な行動を止められる者もいなかった。まだ外での魔物の数は少なく、船旅も天候にさえ恵まれればそれほどの危険を伴わない時だ。しばらくしてキメラの翼で戻って来た息子パパスが、『やはりラインハットへ行ってみて良かったです。良き友人もできました!』と意気揚々と告げれば、父王はただ溜め息を漏らすだけだった。弟オジロンはそんな兄を羨望の眼差しで見つつも、心の底から尊敬していた。
まだグランバニアの城下町の建設が道半ばの時だった。森深いグランバニアへも旅人は訪れる。それは南のチゾットの山を越える者もいるが、大半は北の内海に泊まる船に乗ってくる者が多い。チゾットの山は夏でも雪が解けず、雪山を越える旅をするには必要以上の荷が必要だったり、体力も並の旅人では追いつかない。それに比べ、北の内海を通じて入る船に乗ることができれば、深い森の中の道を歩くだけでグランバニアの城にたどり着くことができる。北の大陸のラインハットとの交易も当然のように北の内海を通じて船を往来させている。
船を乗って来た旅人が、寄港した大陸で魔物の集団を見たという。その旅人は世界を巡る商人であり、自らの船を出して海を渡っていた。船の調子がおかしくなり、止むを得ず寄港した北の大陸で、今までの旅の中では見たこともないような魔物の群れを空に見たという報せを受け、グランバニア王は神妙な顔つきで唸った。
北の大陸は未開の地で、そこに人間が住んでいるという話はこれまでの旅人の話からも聞いたことはない。グランバニアやラインハットと言った大きな国を築いていれば、自ずとその話はグランバニアの国王の耳にも入るはずだった。そのような噂話など一度も耳にしたことはなく、北の大陸を旅する者がそもそもほとんどいなかったため、然したる危険もないだろうと特別調べるに値しないと考えていた。
しかしそこに魔物の群れがいるとなれば、一国を治める国王としてその事態を放ってはおけない。この世界には魔物が存在するが、その数は極めて少なく、時折その姿を目にしてもむしろ魔物の方が逃げて行ってしまうほどに、人間に対する脅威とはなっていない。それが群れを成し、人間の生活を脅かすようになってきてから動いたのでは遅いのだ。
グランバニア王が旅する商人の話を吟味し、派遣する兵を厳選しようとしていた頃、既に第一王子は旅支度を調えていた。この国で最も旅に慣れているのは自分だと、剣技の腕前にも自信があり、不得意であった呪文も必死の努力で一つだけ身に着けることができたからと、実直な彼は父王に直談判をしてその調査に向かうことの許可を得ようとした。父王は息子の日に焼けて傷んだ黒髪を見下ろした。意志の強い黒の瞳を見れば、そこには確かな未来の国王としての気品と自信が感じられた。国の兵たちを連れて度々、旅に出てしまう困った第一王子だが、旅に出ている間の王子の話を兵たちにこっそりと聞けば、その行動は非常に手堅いものなのだと誰もが素直に吐露した。誰一人傷つけることなく、無理をせずに慎重に慎重に、パパスは半ば強引に連れ出している兵たち一人一人の状況を見て、確実に守りの態勢で行動しているらしい。
父王は決して無理はしないこと、危険を危険と感じる前に撤退することを念頭に置くことを言い聞かせ、息子パパスを北の大陸へと旅立たせた。その頭の中には国王としての冷静で現実的な思考も一つの癖のように置かれている。万が一、パパスの身に危険が迫り、失うことがあっても、この国にはもう一人の王子がいる。国の存続を第一に考えなければならないグランバニア王は自身のそんな冷めた思考に多少の嫌気を感じつつも、その考えと向き合わなくてはならない国王としての立場を弁え、静かに玉座の上で一つ溜め息をついた。



「航海も順調だった。船を見張る者をここに三名残す。他の者は俺と共に調査へ向かうぞ」
旅の商人から詳しい話を聞いていたパパスは、グランバニアの紋章が織り込まれた帆がたたまれた船に目をやる。既に着岸を終え、船は穏やかな波にわずかに揺れているだけだ。手にしている地図には調査場所付近に印をつけてある。着岸した船よりやや北寄りに進むのが良いだろうと、パパスは人差し指と親指とで地図の距離をおおよそ図る。
パパスは北の大陸の調査団として十五名の兵を連れて来ていた。彼自身はもっと少ない兵で十分だと父王に告げていたが、決して無理はしないことの義務を果たすためにも、父王の勧めで同行させたのがこの人数の兵士たちだった。船を見張るのに三名を残すのは、もしこの大陸を目指して船を着ける旅人が他にいるとすれば、グランバニアが国として保有する大型船が目の前でぷかりと浮かんでいるのを見て、盗まない訳がないという懸念からだ。今のこの世の中、魔物の脅威よりも、悪人の脅威の方が強かった。
目的の地点へ到達するのには数日の日数を要した。パパスが連れている兵士たちは旅慣れている者ばかりで、数日の野宿にも微塵も疲れた様子など見せなかった。むしろパパス同様、外を歩き回れる自由をその身に楽しんでいる気配すらあった。グランバニアで警備をする任務に就くよりも数段、この快活な王子と共に旅に出る方が楽しく、野宿の際には手持ちの酒を酌み交わして好きに騒いでしまうこともあった。
地図の印の地点にたどり着いた時、パパスたちは目の前の景色に唖然とした。手にしている地図は凡その地形が書き込まれているだけのものだ。しかもこの北の大陸の地に関しては地形の詳細などほとんど書き込みがなく、ただ大陸の外枠と、船から見える景色が少々描かれているだけだった。
今、彼らの眼下には霧に包まれたような白くけぶった景色が広がっていた。パパスが一歩前に踏み出してその景色を覗こうとすれば、その腕を兵に強く後ろに引かれた。一歩踏み出せば、その足は宙を飛び出し、空気を踏みぬく。そして体勢を崩して、崖の下に真っ逆さまに落ちてしまうと、パパスは崖下に落ちて行く小石の行く先を見つめた。小石は間もなく霧に飲まれ、それが果たしてどこまで落ちて行ったのかなど、誰の目にも映らなかった。
「この霧の中に魔物の群れがいたと言うのだろうか」
グランバニアを訪れた商人はこの辺りで魔物の群れを見たと証言していた。しかし目の前に広がる霧の景色は、その中にあるものを全て覆い尽くし、パパスたちから崖下の景色全てを遠ざけてしまっている。
意気揚々とグランバニアを出て、現地調査を確かに終えて国に戻るのだと思っていたパパスは、目の前の霧の景色にしばし思案した。周囲を見渡しても、崖下に下りるような手段はないに違いないと、切り立つ崖の岩肌を見て思わず背筋を凍らせる。剣を手にして魔物と渡り合うことは想定していても、これほどの断崖絶壁を真っ逆さまに落ちることなど微塵も想定してはいない。
この崖がどこまで続くのかを確かめてみようと、パパスは兵を引き連れて崖の周りを西へと歩き始めた。時折風に流され霧がパパスたち一行を包み込もうとする。霧の中に身を置けば、視界が奪われ、うっかり崖を踏み外してしまう可能性があると、パパスは皆を崖から離れるようにと促す。もしかしたら旅の商人が見た魔物と言うのは、この濃い霧そのものではなかったかと考えるが、それを調査結果としてしまうのは何も確認していないも同然だと、パパスは兵たちを後ろに連れたまま西へと歩き続ける。
日が傾き、西からの陽光が柔らかな時間帯となった。空には雲がぽつりぽつりと浮かぶだけで、天候が悪くなる心配もなさそうだった。旅の経過は順調だ。ただ調査の目的である魔物の群れの気配は感じられない。もしも崖の下に広がる濃い霧の中に魔物たちが多く棲息しているとすれば、そのものたちはこの濃い霧の外へは出られないのではないだろうかと、自国グランバニアにとって都合の良い想像を頭の中に巡らせる。霧の中から出ずに過ごしてくれているのなら、特別人間がその地域に入り込み、魔物を制圧する必要もないだろうとパパスは夕方の穏やかになりつつある陽光を目にしながらそう考えていた。
後ろで兵の声が上がった。その声にパパスは崖下に広がる景色の一点を見つめる。白い霧に包まれて何も見えないと思っていた中に一つだけ、尖る建造物の一端が夕日に煌めくのを見た。しかしそれは一瞬のことで、まるで生き物のような霧が再び辺りに立ち込め、崖下にあるであろうその建造物の姿をすぐに隠してしまった。
「魔物の群れが成すような場所に、あれほど立派な建物があるのだろうか」
束の間目にしただけの尖る建造物だったが、はるか遠くから見てもその建造物が古びてはいても洗練されたものだということは彼にも分かった。兵士たちにも異論はない。見つけてしまったからには、そのものがどのようなものなのかを知りたいという欲求が強まるのは必然だった。それを国を代表する者たちで調査をしなければならないという理由に発展させるのは、都合よいと知りつつも真っ当な理由だろうとパパスは見えなくなった建物の光を今一度瞼の裏に思い起こす。
崖下に下りる手段を具体的に考えようと、パパスは兵たちと円陣を組むようにして頭を突き合せた。荷の中にロープはあるが、深い霧に包まれた崖下の地の底が果たしてどこまで続いているのか分からない状況で、手にしているロープはあまりにも短い。今のところ、崖下に下りるような坂道や階段などはない。梯子が架けられているわけでもない。しかしこの崖下に人工的な建造物があるとすれば、必ずその地にたどり着く箇所があるはずだと、パパスは兵たちとの話し合いを元に再び崖の周りを調べるべく歩き始めようとした。
その時、パパスたち一行を見下ろすような鳥の影が地に映った。その影の大きさに、皆が一斉に空を見上げる。ただの鳥ではない。怪鳥とも呼べる全身を真っ赤に染めた巨大な鳥が三羽、平和な青空を背景に旋回している。パパスを筆頭に、兵士らも腰の剣を抜き、怪鳥の襲撃に備える。
全身に炎を纏ったような火喰い鳥らは手に手に剣を持つ人間たちを見下ろし、敵と認めるとすぐさま鋭い嘴を大きく開けた。兵士たちは揃って第一王子をその中に守り固め、盾を構える。パパスもまた左手に盾を持ち、火喰い鳥が吹きつける火炎の息を防ごうとする。
予想通り、怪鳥は火炎の息を吐き散らし、人間たちに浴びせた。三体揃って火炎の息を吐いても、兵士らが構える盾の防御で大した損傷はないままに済む。その内一体が急降下をして兵士に飛びかかるが、剣で牽制し攻撃をいなす。
兵の一人が呪文を唱える。眠りの呪文に誘われた怪鳥一体が長い首をがくりと折り曲げ、そのまま地面に落ちて来る。しかしそこに地面はなく、火喰い鳥はそのまま崖下の霧の中へと姿を消してしまった。残る二体が落ちる仲間の姿を見て、悔しそうに顔を歪めたかと思うと、その思いを吐き出すように宙で高らかに鳴いた。
崖下の霧の中から赤い点がぽつぽつと現れる。それらは皆、仲間の鳴き声に呼ばれた火喰い鳥たちだった。その数十体ほど。いくら盾で火炎の息を防ごうとも、十体が揃って火炎の息を吐き散らせばそれは忽ち灼熱地獄となりかねない。パパスは兵に指示し、とにかくその数を減らすために眠りの呪文を可能な限り唱え、鳥を霧の中に埋めてしまおうと考えた。
火喰い鳥たちも人間がこの場に姿を現さなければ、至って穏やかに斬り深い崖下の場所で生きていただけだった。魔物である怪鳥は、余所者である人間が現れ領域を荒されることがあれば、当然のようにその存在を排除する魔物としての本性がある。人間と魔物、互いに長年の間に植えつけられた敵対する関係は、この場限りで解消することなどできるはずもない。
火炎の息を吐き、宙から降下して攻撃を仕掛けてくる火喰い鳥を相手に、パパスたちも剣を振るった。パパスは自身の剣技には自信があった。剣筋を確実に怪鳥の首に当て、一撃で絶命させる技術があった。兵たちを守るため、兵たちが守ろうとする自身の命を守るため、パパスは容赦なく敵に剣を振るった。
火喰い鳥は残り一体になっても果敢に人間たちに戦いを挑んだ。一方、パパスたちは一人たりとも失ってはいない。二人の兵が回復の術を習得している。傷をこさえればすかさず回復させ、決して深手を負うことのないようパパスは状況を冷静に見た。人間にはこのように細かな連携が取れる、仲間を思いやる心がある、貴様ら魔物とは違うのだと、パパスの心の中にはどこか魔物と言う存在を侮蔑した思いがあった。
その思いに隙があったのか、パパスの背中にぶつかる者がいた。火喰い鳥が最期の一撃と言わんばかりの猛攻を見せ、一直線に突っ込んできた鳥の一撃に兵が一人打ち負かされたのだ。その勢いのままパパスにぶつかり、そしてパパスもまた前にいた兵に体当たりのようにぶつかった。
目の前の兵の身体がぐらりと宙に浮かんだように見えた。いつの間にか崖近くまで移動していた。兵士が崖を踏み外したと理解する前に、パパスは咄嗟に兵の腕を強く掴んだ。渾身の力を込めて、鎧兜に身を包む重装備の兵士を引っ張る。一方、王子を危険に晒すわけには行かないと、パパスに腕を掴まれた兵士はその手を離してパパスの身体を崖上に残そうとした。
「誰一人、失わんぞ、俺は」
呻くようにそう言うと、パパスは前に出した左足に思い切り力を込め、一気に兵の腕を強く引いた。よろめくようにして兵が崖上の地に戻り、代わりにパパスの身体が宙に放り出された。体重をかけた左足が、崖の脆い部分を踏み抜き、小さながけ崩れを起こしていた。
一人の兵が王子の身体能力を信じてロープを投げた。パパスもそのロープがしなる光景を見て、手を伸ばす。崖下に落ちる寸前でロープの端を強く掴んだが、汗で滑った。何も自分を支えるものを無くしたパパスの身体は宙に放られ、崖下に広がる霧の中へと向かう。兵士たちが後を追おうとするかのように崖に身を乗り出す。グランバニアの国を守る兵士の命を一つたりとも無駄にしてはならないと、パパスは自身を顧みずに叫ぶ。
「三日だ! 三日待機しろ! その後国へ帰還! 俺も何としてでも国に戻る! 国で待ってろ!」
兵たちに伝わったかどうかなど分からない。切り立った崖の岩肌だけが飛び荒ぶように見えている。このまま死んでたまるかと、パパスは間近の崖に手を伸ばすが、落下の速度に適わず、岩肌に激しく手を打ち付けただけだった。その内王子の身体は深い霧の中に飲まれ、崖上から叫ぶ兵士たちの声も聞こえなくなった。



どう助かったのかは分からない。ただ気づいた時には視界に見たことのない森の景色が広がっていた。グランバニアの広大な森とは異なり、どこか寒々しい森だ。見上げる木々の葉が鋭利で、森の上部は白い霧に飲まれて空を見上げることはできない。仰向けに寝転がる背中には積み重なった葉が広がり、自然のベッドの様相を呈している。
身体を動かそうともどこもかしこも痛みが走り、容易に動かすことはできない。霧に遮られ、目では確かめられないほどの崖の上から落ちたというのに、全身の骨が無事繋がっている感覚があった。ただ落ちる過程で崖の岩肌に強く打った左肩だけは酷く出血しており、パパスは必死の思いで右腕を上げて回復呪文を唱え、どうにか止血するに至った。しかし彼が身に着けている回復呪文はホイミという初級呪文のみで、束の間の止血には成功したが、再び派手に腕を動かせば同じ箇所から再び出血してしまい兼ねない。他に為す術もなく、パパスはただぼんやりと遠くに見える森の景色を眺めていた。
その内に目を閉じ、耳を澄ませる。森の中を吹く弱い風の音、聞いたことのない涼やかな鳥の声、辛うじて感じ取れた小川のせせらぎの音にパパスは閉じていた目を開く。水があれば数日は生きることが可能だと、仰向けのまま首だけをそちら側へ向けようとする。みしみしと音を立てそうなほど動きの悪い首をゆっくりと動かし、目の端に映るものに焦点が合うと、パパスは驚きに目を見開いた。
森の中で、まるでその場に昔からある遺跡か何かのように、一体のゴーレムがパパスを見下ろしていた。膝を抱えている姿は幼子の様だが、膝を抱えて座っていてもその高さはパパスの身長の倍以上は悠にある。明らかにパパスを人間と認めているようだが、ゴーレムの顔を見ても敵意を感じなかった。外での旅にも慣れ、これまでに魔物との戦いにも慣れているパパスにとって、敵意を感じない魔物との遭遇は初めてだった。魔物の方がパパスたちを恐れ逃げてしまうことは幾度もあったが、こうして魔物と向かい合って、ただ静かな時間を過ごすことなど想像したこともない。
葉のベッドの上に寝転がりながら、パパスはただじっとゴーレムの様子を眺めていた。どうせ身体を動かすこともできない。運よく剣は腰の鞘に収まったまま共に落ちてくれたようだが、たとえ立って剣を構えても、果たしてこの巨大なゴーレムに一人でどこまで太刀打ちできるか、それを考えれば無暗に動くものではないと彼は冷静に状況を見た。
ゴーレムに口はない。言葉を交わすのは難しいだろうと考え始めたパパスは、自分が魔物と会話をしようとしていることに思わず視線を泳がせた。しかしただ両膝を抱えて座り込むゴーレムを前に何もせずにじっとしていることにも限界がある。何か言葉をかけてみようと口を開いたところで、ほぼ同時にゴーレムがその巨大な手をパパスの方へと伸ばしてきた。
ゴーレムの人差し指が遠慮がちに、パパスの左肩をつつく。先ほど回復呪文で止血こそ成功したが、まだそこには傷の痛みが残っている。パパスが呻き声を上げて顔をしかめると、ゴーレムは無表情の中にも驚いたような光る目の明滅を見せて、素早く手を引っ込めた。その動作だけで、魔物がパパスの傷を痛めつけようとしているのではないと分かる。その表情は無表情なものだが、パパスにはゴーレムが傷の心配をしてくれているのだと感じた。
「大丈夫……と言いたいところだが、あまり大丈夫ではないな。俺ももう少し、呪文の特性があれば良かったのだが、生憎と呪文は苦手でな」
力なく笑うパパスだが、少し笑うだけでも全身に痛みが走る。果たして自分の小さな声がゴーレムに届いているのかどうかも分からない。第一、ゴーレムが人間の言葉を解する魔物かどうかもよく分からない。それでも今は一人となってしまったパパスは、誰でも良いから話し相手を欲した。人間、完全に一人で取り残されると不安をどうにかしようと、独り言が多くなるのかも知れない。
「もしかして、お前が私を助けてくれたのか?」
あれほどの高さの崖から落ちて命が助かっただけでも幸運だったが、身体のどこも骨が折れていないのはただの幸運だけでは済まされない気がした。崖から落ちる途中で、この巨大なゴーレムが手を伸ばしてパパスを拾い上げてくれたのだとしたら、これがただの幸運ではなく、魔物の手によってもたらされた幸運だったのだと理解できる。
パパスが顔を横に向けて見上げているゴーレムは、その視線をゆっくりとパパスから離し、寝転がる人間を挟んだ向こう側へと向けたようだった。パパスもまた顔を動かそうとするが、やはり痛みに顔をしかめ、思うようには動かせない。ただゴーレムが視線をやる方向から、森の木々を大きく揺らす気配が迫ってくるのを感じ、身に迫る危険に思わず全身から汗が噴き出す。
「お目覚めのようですね」
ゴーレムと言う魔物は女性だったのかと、パパスはその声にもう一度膝を抱えるゴーレムを見遣る。積もる葉の上でゴーレムを見上げるパパスの後ろから、今度は同じ声がいかにも可笑しそうにくすくすと笑い声を立てる。
「ゴーレムに声があるとしたら、そうね、私のような声なのかもしれないわね」
突然近くに感じた声に、パパスは身体の痛みも忘れ、慌ててその場に飛び起きた。全身に激しい痛みが走るが、今は自分一人で自分の身を守らねばならない。思わず呻き声を上げるが、その鋭い視線ははっきりと目の前の女性を捉えた。
三歩も歩けば手が届くような位置に、一人の娘が立っていた。
森の精と思わせるような深い緑色のゆったりとしたローブに身を包み、袖や裾から覗く手足は透き通るように白い。明らかに魔力の込められている指輪をはめ、頭にも魔力のこもる髪飾りをあしらっている。顔も透明感が感じられるほど色白だが、頬には娘らしい仄かな赤みを帯び、化粧を施しているわけでもないのに唇には紅を塗ったかのような色味があった。腰まで伸びる黒髪にはたった今洗ったばかりのような艶があり、それでいて一本一本が風にそよいでいる。彼女の全てが一瞬にしてパパスの脳裏に焼きつき、彼の今後の人生においてそれはずっと脳裏に留められることになる。
「ゴレムスたちと一緒にこの辺りを歩いていたら、上で騒がしい声が聞こえて……とにかく生きていてくださって良かったです」
そう言って微笑む娘の姿に、パパスはこれまでに感じたことのない熱情に身体が苛まれたと感じた。不躾と思いながらも、娘の姿から一瞬たりとも目が離せなかった。全身に走る痛みも忘れ、その場に立ち続けることができるのは、それ以上の想いが一瞬にして溢れてしまったからだ。
「薬草を摘んできたんです。お水も汲んできたので、これであなたの怪我が少しでも良くなると良いのですけど……」
娘はそう言ってゴーレムの大きな指先に積んできた薬草を乗せ、近くに落ちていた石で薬草をすり潰し始めた。まるで森の精のような現実味のない娘ならば、得意の回復呪文か何かで一息にパパスの怪我を治してしまいそうな雰囲気があったが、その娘が真剣な顔つきで薬草をすり潰す健気な姿に、パパスは思わず破顔した。が、笑えば力の入った全身に痛みが走り、情けなくも呻き声を上げながらその場に両膝をついて背中を丸めた。
「どうぞ横になっていてくださいね。あ、でも薬草を飲む時には身体を起こしてもらわなきゃいけませんね」
パパスと娘の周りには四体のゴーレムがおり、それら全ては二人の人間を囲んで静かに見守っている。非常に不思議な光景だが、今のパパスにはもうこの光景に不思議を感じなかった。彼女の纏う独特の雰囲気に比べれば、魔物であるゴーレムが大人しく二人を見守っていることなど普通のことではないかと思えるほど、娘には唯一無二の空気がまとわりついていた。
パパスは再び葉のベッドの上に寝転がりながら、娘が真面目な顔つきで薬草をすり潰している姿を見上げる。ゴーレムの指の上で潰された薬草をかき集めると、汲んできた水の入る木の器に入れ、地面に落ちる枝を拾ってそれでかき混ぜる。娘のその仕草一つ一つに目を奪われ、パパスは夢を見ているような心地に陥る。自分を振り返る娘に笑顔で応えたいと思いつつも、全身を襲う痛みにぎこちなく笑うことしかできなかった。
「怪我が治ったら……この地のことは忘れて、あなたの戻る場所へ戻ってください」
突然、夢から醒めるような言葉を告げられ、パパスは途端に焦燥感に駆られた。
「何故ですか。俺はもう、このことを忘れることはできない。こんな……魔物と意思を通じ合わせるような体験を、忘れることなんて無理だ」
「貴方は今、夢を見ているんですよ。これは夢。ただの不思議な夢です」
そう言って娘はパパスに木の器を差し出した。パパスはゴーレムの大きな手の助けを借り、その場に身を起こす。片手に器を受け取り、薬草を溶かした水を喉に流し込む。その苦さに顔をしかめるが、この苦さも決して忘れないと強く意思を持つ。
「こんな苦くて不味いもの、夢で味わえるわけがない。これは紛れもない現実です。俺は夢を見ているわけじゃない」
「でも貴方はこの場所を、私を忘れなきゃいけないんです」
「貴方のことは他言しません。このゴーレムたちのことも絶対に誰にも話しません。だから……」
「上で貴方のお仲間が待っているのですよね。ゴレムス達が協力して貴方を上まで運びましょう」
「ちょ、ちょっと待って……あいたたた! まだ、ほら、こんなに怪我が酷くて、とても動けそうもない。もうしばらくここにいさせてくれないだろうか」
嘘を吐くことなど誰よりも嫌うパパスだが、今は嘘をついてでもこの場に留まりたいと思った。このまま上に運ばれ、別れを告げれば、彼女との関係はあっさりと終わってしまう。今はどのようなこじつけを作ってでも彼女との時間を終わらせたくないと、パパスは嘘のつけない視線を明らかに彷徨わせながらより良いこじつけに思考を巡らす。
娘はそんな青年をまじまじと見つめる。友達のゴーレムとこうして村の外を出歩くことに、村人たちは決して良い顔をしない。彼女は村の未来を背負うべき存在で、その使命を娘自身が受け入れている。しかしそれだからと言って、あの小さな村の中だけで一生を過ごすことに彼女は本能的な抵抗を感じている。ましてやあの祈りの部屋の上にある小部屋に閉じ込められる生活など、彼女には耐えられなかった。閉じ込められた部屋から飛び出すように彼女はこうして時折、村の外の森の中をゴーレムたちと共に気ままに過ごす時間を作っている。
今までこの森の中で村の人以外の人間に遭うことなど一度もなかった。この辺りには他に人間の住むような集落もなく、村人以外の人間には一生出会わないだろうと彼女は分かっていた。それは予言めいたもので、強く巫女の性質を持つ彼女には自身の中にあるその予言にも似た思いが確かなものだと思っていた。
それ故に、崖の上に騒がしい声を聞いた時には初め、その武骨な男の声に慄き、ゴーレムたちと共にその場から逃げ出そうかと思ったほどだ。恐らく出遭ってはならない者たちだと、彼女はその身を森の中に隠そうとゴーレムたちと崖から離れようとしたその時に、崖の上から男が降って来た。逃げ出そうとしていたというのに、彼女は咄嗟にゴレムスにその男を助けてと叫んだ。
「……あなたは、誰?」
娘が自分に興味を持ち、名を尋ねられたことに、パパスは葉のベッドに身体を横たえながら胸の内が熱く湧き上がるのを感じた。今はまだ腕も碌に動かせず、娘との距離を詰めることも叶わないが、幸い言葉を交わすことはできる。
「俺は……いや、私はパパス。グランバニアの王子だ」
「王子様……本でしか読んだことがないのでよく分からないけれど、何だか……想像していた人とは違う気がしますね」
「まあ、そうかもな。無理はない。崖から落ちて満身創痍の王子など、物語の中には出てこないだろうから」
そう言って笑うパパスだが、笑えば身体に痛みが走り、顔を引きつらせる。その姿を見て娘は思わず傍に寄り添い、青年の脇に膝をつく。心配そうに眉根を寄せてパパスを見つめる娘の瞳は、その妖精のような透明感漂う雰囲気とは異なり、恐ろしいまでの漆黒だった。全てを飲み込んでしまいそうな底の見えない漆黒に、パパスは心も体も一息に飲み込まれそうになる。
「名をお聞きしても良いだろうか」
夢見心地の状態で、パパスは自分の顔を覗き込む娘に尋ねる。娘は束の間逡巡した様子を見せたが、迷いを吹っ切るように小さく首を横に振ると、パパスの投げ出された腕に白い手を乗せた。その手は確かに血が通い、温かな一人の人間の手だとパパスは感じた。
「私の名は、マーサ」
これが二人の物語の始まりのお話。

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