2017/12/03

急ぐ旅

 

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テルパドールの夜は寒く、空気が澄み切っている。宿の部屋から見える星空は美しく、欠けた月がテルパドールの国全体を照らしている。ビアンカは窓を開けてその美しい夜の景色を眺めたいとも思ったが、窓を触るだけで感じる外の冷気に、窓を開けようとする手を止めた。旅をしている最中は避けることもできない外の冷気だが、暖かな部屋の中にいると夜の冷気を怖いとすら感じる。
「守られた場所にいると、少しのことでも怖くなるのかしらね」
ビアンカは誰かに話しかけるように呟く。しかし今、部屋にはビアンカの姿しかない。リュカはまだ学者との仕事が終わらず、小さなランプの明かりの中、図書室の一角で学者の男と二人で話し込んでいたのをビアンカは見て来ていた。厨房での仕事の後、図書室に立ち寄ると、リュカが真剣な顔をして分厚い本を読みこんでいるのを見て、邪魔をしてはいけないとそのまま話しかけもせずに一人で宿室に戻ったのだった。
厨房で働いていた時に既に夕食も済ませ、宿室に戻ってから入浴も済ませてしまい、あとは寝るばかりの状況だった。しかし仕事に疲れて帰ってくる夫を待つのも妻の務めだろうと、眠い目を擦りながら椅子に座って、旅の最中持ち歩いている呪文書に目を通していた。いつもなら新しい呪文を覚えようとする時は、心も弾み、集中力を持って呪文書を見ることができるのだが、今は堪えられない眠気に襲われ、テーブルに肘をつきながら何度も舟を漕いでいた。慣れない厨房での労働がかなり体に負担になっているのだろうかと、ビアンカはもう何度目になるか分からない欠伸をした。
机の上に突っ伏して寝そうになっていた時、宿室のドアがノックされ、ビアンカははっと飛び起きた。慌ててドアを開けると、目の前には山と積み上げられた本が現れた。
「ごめん、ビアンカ。もうちょっとドアを開けて」
「どうしたの、こんなに本を持って来て……」
「気になるのを選んで持っていこうと思ったら、こんなになっちゃったんだ」
「こんなに持ってきたって、今から全部読めるわけないじゃない」
リュカが抱える本を上から数冊手に取り、ビアンカは呆れた様子で本をテーブルの上に置く。リュカも残りの本をその上に重ねて置き、早速ぱらぱらと見始めた。持ってきた本はグランバニアに関する本はもちろん、勇者の伝説が載っている本、見たこともない分厚い呪文書、砂漠の旅に関する本、船旅の本などなど、これからの旅に役立ちそうだと思った本は手当たり次第に持ってきたようだった。図書室の本は図書室管理の者との手続きを行えば、数日間借りることができる。リュカは学者の男に手続き方法を聞いて、早速その手続きを済ませて本を借りてきたというわけだった。
リュカが手に取ったのは、グランバニアに関する記述のある本だった。次の旅の目的地であるグランバニアについて調べるのは当然必要なことだが、リュカにとってはそれだけではない。彼の頭の中にはアイシス女王の言葉が鮮明に残っている。
『この地より海を越えた遥か東の国、グランバニア。その国のパパス王が攫われた王妃を助けるため、幼子を連れ旅に出たと……旅人の噂に聞いたことがあります』
旅人の噂だけなのかも知れない。しかしリュカたちの旅は、旅人の噂も重要な情報で、手探りの状況で旅をするには旅人の噂は非常に重要な行動理由となる。そしてこのテルパドールには幸いにも多くの文献が揃い、様々な情報を旅人の噂ではなく、本と言うより確実なものから得ることができる。リュカはとにかく早くグランバニアの情報が知りたくて、学者にグランバニアの記述のある本を教えてもらい、それらを借りて来たのだった。
「私も一緒に見てみるね」
「うん、ありがとう」
「でも、その前にあなた、食事は済んだの? お風呂にも入っちゃいなさいよ。それからの方がいいわ」
「食事は済ませて来たよ。風呂かぁ……面倒だなぁ」
「そんなこと言わないで、せっかく宿に泊まってる時くらい体はキレイにしておいた方がいいわよ」
ビアンカはそう言いながらも客用のタオルと着替えを出すと、リュカに押し付けるように渡した。リュカは頭を掻きながらも、もう一度『面倒だなぁ……』と言いながら浴室に向かって行った。
彼の人生の中で今日ほど頭を使った日もなかった。学者の扱うような古文書にはリュカの知らない文字もたくさんあり、とても一人では読めないものだった。それを土台にして勇者に関する議論を進めるのは、初めリュカには到底できないことだと感じた。しかし仕事を引き受けたからにはやらなければならない。それに仕事をしなくては報酬も望めず、旅の資金はおろか、この宿に泊まる代金すら捻出できなくなってしまう。リュカはこれを読めるようにならなくては明日自分は死んでしまうかもしれない、と自らを追い込みながら必死になって学者の仕事の手伝いをしていたのだった。身体を動かすことは大してなかったが、頭がしびれるほどに疲れていた。
それほどの疲労を感じていても、全く眠気は訪れなかった。学者の仕事を手伝うのは苦痛ではなく、むしろ自分にはない様々な考えに触れることができ、新しい世界が開けたようだった。リュカはぬるい風呂に浸かりながら、風呂を出たらまずどの本を読もうかと、図書室から借りてきた本の選別を頭の中で始めていた。
身体がさっぱりすると、頭の中もさっぱりしたようで、リュカはこれからまた一仕事できそうだと意気揚々と浴室を出た。タオルで髪をがしがしと拭き、部屋の中にいるビアンカに呼びかける。
「ビアンカ、持ってきた本は面白い?」
彼女の返事はなく、部屋には弱いランプの明かりが灯り、チリチリと火の音が聞こえるだけだ。彼女のことだから恐らく本に夢中になって自分の声が聞こえていないのだろうと、リュカは妻を驚かせようと静かに部屋に入っていく。
しかしリュカの予想を裏切り、ビアンカはテーブルの上に開いた本に突っ伏していた。両手を枕にしてすやすやと寝息を立てる妻の姿に、リュカは彼女を労わるような笑みを浮かべる。
「ビアンカも働いてきたんだもんな。疲れてるよね」
リュカの呟きにも、ビアンカは起きる様子を見せず、すっかり眠りこけている。彼女にしては珍しく、かなり深い眠りに就いているようだった。外気はかなり冷えており、部屋の中にも少なからずその影響はある。このまま寝かせていたら風邪を引いてしまうと、リュカはビアンカを抱き上げるとベッドへと運ぼうとした。しかしその拍子に目を覚ましたビアンカが、自分の体が浮いていることに違和感を覚え、リュカの腕の中で暴れた。
「なっ、何!?」
「うわっ!」
バランスを崩したリュカだったが、彼女を床に落としてはいけないと、必死にベッドに倒れ込んだ。ビアンカは無事にベッドの上に寝転んだが、リュカはベッドの淵に腕をぶつけ、思わず唸り声を上げる。
「いててて……」
「え? リュカ! 大丈夫!?」
「うん、大丈夫だけど、痛かった……」
そう言うと、リュカは腕にできた傷に回復呪文をかけた。腫れも痛みもないまま、腕の怪我はすぐに治った。
「ああ、回復呪文って便利よね。私にも使えたらいいのになぁ。そうしたらリュカの怪我も治せるのに」
「ビアンカは攻撃呪文を頑張ってよ。その為にこれを見ていたんだろ?」
リュカが指差す先には、先ほどまでビアンカが読んでいた呪文書が置かれている。ビアンカはリュカが図書室で借りてきた本の中から立派な呪文書を見つけると、顔を輝かせてすぐにそれを読み始めたのだ。しかしそれほど読み進まない内に眠気に襲われ、気づいたら机の上に頭を乗せて眠ってしまっていた。
「どうして寝ちゃったのかしら。面白~いと思って読んでたはずなのに」
「疲れてるんだよ。これまで長旅をしてきたし、今日だって働いたんだし」
「うん、まあ、そうなんだけどね。何かね、納得がいかないのよね……」
そう言いながらも再び欠伸をするビアンカを見て、リュカは「今日はもう休んだ方がいいよ」と声をかける。しかしビアンカは首を横に振り、ベッドから起き上がって再び机に戻ろうとする。身体に力が入らず、ふらふらとする妻の姿を見て、リュカは心配そうな視線を向けて言った。
「借りてきた本はこの国を出る時までに返せばいいみたいだから、慌てて読まなくても大丈夫だよ。明日もここに置いておくから、読めそうな時に読んだらいいよ」
「じゃあベッドで読むから、取って」
目を擦りながらも強情さを見せるビアンカに、リュカは仕方なく彼女が読み始めていた呪文書を手渡した。リュカはテーブルに置かれている水差しからグラスに水を注ぎ、一気にそれを飲み干すと、再び彼女を見やった。本を腿の上に置いて読もうとする彼女の頭は既に舟を漕ぎ始めている。再び眠ってしまうのも時間の問題だった。
リュカはあえて声をかけず、彼女の様子を見守った。いつもならリュカの視線にはすぐに気がつくビアンカも、強い眠気に襲われてそれどころではなく、何度か舟を漕いだ後、川岸にも着かない内に舟を停めてしまったようだった。これほど眠気に弱い彼女を、リュカは初めて見たような気がした。先ほどよりも用心深く彼女の体をベッドに寝かせると、上掛けをかけ、ベッドの淵に座って彼女の肩を優しくぽんぽんと叩いた。安らかな寝息を立てるビアンカは、完全に眠りの世界に行ってしまったようだ。
「無理させちゃってるかな……ごめんね、ビアンカ」
リュカはそう言うとビアンカの頬に口づけ、彼女が手にしていた呪文書を持ってテーブルへと戻った。まずはグランバニアについて調べてみようと思っていたリュカだったが、ビアンカが手にしていた呪文書がふと気になり、開いてみた。旅の最中持ち歩いている簡易呪文書とは異なり、一つ一つの呪文についてかなり事細かに書かれている。そして今までは目にしたこともない呪文も載っており、リュカはパラパラとめくる内、最後の章に書かれている呪文に目を留めた。
「命の呪文……」
まるで本の中から誰かに呼ばれるかのように、リュカは最後の章に書かれた呪文について読み始めた。



通常、砂漠の雨季中には旅を避けるものだとリュカたちは聞いていたが、話を詳しく聞いて見ると雨季は数カ月続き、その間雨が全く降らない日もあったり、突然大洪水になるような大雨が降ったりと、全く予測不能の天候が続くということだった。
既にテルパドールで二週間ほど働き、宿代はもちろん、旅の資金もある程度貯まったところだった。すぐにでも旅を再開したいリュカだったが、それ以上に旅を急ぐ気持ちを強く持つのはビアンカだった。
「ねぇ、私思ったんだけど、ルーラで船まで戻れないかしら」
当初、テルパドールに着いた時は、船に戻る砂漠の旅も考えて旅の資金を貯めようとしていた。その為には後半月ほど働けば、おおよそ砂漠の旅も含めた旅支度ができるだろうとリュカはビアンカや仲間の魔物たちと話していた。
「ルーラね……。僕もそれは考えてたんだけどさ、上手くできるか自信ないんだよね」
「でも早く旅に出ないと……何だかこのまま砂漠の暮らしに慣れて、ここに住んじゃいそうよ」
「僕はここで暮らすのはちょっと遠慮したいなぁ。暑すぎるよ。それだったら他の町や村に……」
「リュカ、真面目に答えて。グランバニアに早く行きたいでしょう? 行けばパパスおじさまのことも、あなたのこともきっと何か分かるに違いないわ」
怒るような表情をしているが、その中に彼女の焦りが見えたようで、リュカは反省するように気まずい顔をする。ビアンカは誰のためでもない、リュカのために旅を急ごうとしているのだ。アイシス女王から聞いたグランバニアの王パパスがリュカの父パパスと同じ人物なのか、それはグランバニアに行って確かめてみないと分からない。アイシス女王も旅人から聞いた噂話をリュカに伝えただけなのだ。勇者や母を捜す手がかりがまだない今、父がいた可能性のある国に旅立つのはもはや必然のことだった。
「グランバニアのことだって一応は調べたじゃない。図書室の本全てを調べるまで旅立てない、なんて言わないでしょうね」
「そんなこと言わないよ。だって無理だもん。時間がいくらあったって、それはできないよ」
「そうでしょ? じゃあそろそろ旅立った方がいいと思うわ。明日までには準備を終えて、明後日には旅立ちましょう」
まるで既に決めていたかのように具体的に話すビアンカに、リュカは少しの違和感を覚える。昨日までは何もそのような雰囲気はなかったはずだが、彼女は急にテルパドールを旅立とうと意思を固めてしまっているようだ。
「ビアンカ、何かあった?」
リュカの言葉に固まる笑顔のまま「何が?」と聞き返す。
「だってあまりにも急だなぁと思ってさ。昨日までは何もそんな話はしてなかっただろ」
「でもずっと考えてたわよ」
考えたらすぐ言葉にするのがビアンカだとリュカは思っている。それほど彼女は行動的で、むしろ思うよりも先に手が出ることもある。そんな彼女がずっと考えていたことを胸に秘めたまま言わず、今になって急に言うのは何か訳でもあるのだろうかと、リュカは思わず疑いの目を向けてしまう。
「昨日、僕が寝てから何かあった?」
「何を言ってるのよ。昨日も私の方が先に寝ちゃったじゃない」
リュカは学者の仕事を、ビアンカは厨房の仕事を手伝い、旅の資金とここテルパドールでの生活費を稼いできた。仕事が終わるのはビアンカの方が早く、リュカは連日夜遅くまで学者との研究に勤しんでいる。学者との仕事を終えてからも、リュカは一人図書室に残り調べ物をしたり、本を片付けたりと、何かと時間がかかってしまい、結局宿に戻るのは夜遅い時間になってしまっていた。
宿に戻ると、仕事を終えて食事も風呂も済ませたビアンカが休もうとしているところだったり、既にベッドで寝息を立てていたりと、二人で宿室で話をする時間はあまりないのが現状だった。リュカとしては部屋に戻ってきてからビアンカとゆっくり話をしたりして過ごしたかったが、彼女も仕事をして疲れているため無理をさせてもいけないと、先に寝る彼女を起こすようなことはしなかった。それ故、仕事へ行く直前の今しか、言葉を交わす時間がなかった。
「今日、厨房の人たちに明日までということで挨拶してくるわ。それでいいわよね」
テルパドールではリュカたちの外にも旅人たちがそこここで働いて旅の資金や生活費を稼いでいる。テルパドールの民も旅人と仕事をする利点と欠点を承知の上で、彼らと共に働いている。たとえ明日、仕事を終えて旅に出ると言っても、彼らはそれを理解してくれるだろう。
「リュカも今日行ったらすぐに話をした方がいいわ。それで明日、昼までには仕事を終えて、旅の準備に……」
「ビアンカ」
「何?」
「もう一度言っておくね」
「何よ」
「何かあったら僕に言って。僕たち、夫婦なんだから。ね」
リュカの優しく真剣な眼差しに、ビアンカは口を開いたまま言葉を留めてしまった。リュカは特別なことを言ったわけではない。彼はいつでも妻のことを気にかけている。仕事や旅のことに集中するあまり、その時は少々周りを見失うこともあるが、彼は常にビアンカのことを最優先に考えている。その想いに触れ、ビアンカは思わず目の奥が熱くなるのを感じた。
「何にもないわ。別に、何もないの」
堪え切れない涙が零れ落ちる前にリュカに背を向け、ビアンカは宿室を出ようと扉に向かう。
「さあ、行きましょう。あと一日、頑張りましょう」
扉を開けると、そこは既に砂漠の灼熱が始まっている。雨季とは言え、その期間中ずっと雨が降っているわけではない。雨季の最中もこうして大よそ日が照り続け、砂漠は砂漠であり続ける。ビアンカが清々しく太陽に向かって伸びをする後ろ姿を、リュカは少し不安そうに見つめていた。



「そうですか……。とても残念ですが、まあ、仕方ないですよね。元々そういう話でしたしね」
「急にすみません。僕もできればもっと色々と話がしたかったんですけど、旅も急がなくちゃいけなくて」
「しかしまだ雨季が明けていないのに、旅に出て大丈夫ですか? 雨季の旅は水には恵まれますが、危険も増えるんですよ」
「それはどうにかするつもりです。何か危険じゃない方法で……」
学者の男にはリュカの使える移動呪文ルーラのことについては話していなかった。ルーラは古代の呪文で、一般には知られていないものだ。もしそれをリュカが使えると知ったら、学者魂に火がつき、リュカに根掘り葉掘り聞いてくることは目に見えていた。
リュカはどうしてもそれを避けたかった。リュカとしても、ルーラが使えるようになったのは呪文書を見て学んだわけでもなく、ルラフェンに住むベネットと言う老人の研究の結果、偶然にも使えるようになったというだけなのだ。ルーラの呪文について聞かれても、リュカには何も答えようがないのだ。
「何だかあなたの役に立てたのかよく分からないですけど、仕事をさせてもらってありがとうございました」
そう言いながらリュカが頭を下げると、学者は首を横にぶんぶんと振り、「とんでもない」とリュカの言葉を打ち消す。
「あなたのおかげで今まで以上に勇者様を身近に感じることができました。勇者様は雲の上の存在、と、それだけではきっと研究もそれ以上は進まなかったでしょう。しかし勇者様は実際にこの世界をお救いになり、この世界にいらっしゃったんです。そして勇者様には共に立ち向かう仲間がおり、その仲間の一人が我らテルパドールの祖先だったと。よくよく考えてみれば、私たちと勇者様はとても近い存在だったんですね。そのような意識が芽生えただけで、これからの研究姿勢がまるで変わってくるのです。これはもう、大革命なんですよ」
熱く語る学者の姿はいつもと変わらないものだった。熱が入ると滔々と話し続けるのは、リュカが手伝う学者だけではなく、この図書室にいる他の学者も同じような傾向があった。それだけ自分の世界を持ち、世界に入り込めるのが、学者の性格なのかも知れない。
リュカは昼近くまでいつも通り学者の手伝いをし、それからいつものように早めに食堂に向かい、昼食を取ることにした。たった数時間、図書室で読み物を読んだり学者と話をしたりしているだけだが、リュカにとっては毎度頭がしびれるほどの疲労を感じる労働だった。
食堂に向かう途中、城の廊下には同じように昼食を取りに行く人々の姿があった。しかし食堂に近づくと何故か人の群れができており、食堂の中の様子を窺うばかりで中に入ろうとしないでいる。リュカは共に来た学者と目を見合わせると、近くにいる人に話を聞いた。
「どうかしたんですか?」
「ああ、何だか女の子が一人、悪いヤツに絡まれちゃってるみたいでね」
「悪いヤツ?」
「テルパドールに来た旅の人なんだろうけど、たまにああいうのがいるんだよなぁ。困ったもんだ」
悪い予感を抱えながら食堂を覗くと、予感通り、絡まれているのはビアンカだった。リュカは彼女のことだからこの食堂を吹き飛ばすほどの火炎呪文でも出してしまうのではないかと、そちらを心配したが、そういう気配はない。恐らく彼女は世話になった食堂の人々に迷惑をかけまいと、店の中を壊さぬよう配慮しているに違いない。
絡んでいる悪漢は明らかに酒が入っており、ビアンカへの絡み方が執拗に見えた。リュカはここで見物している理由もないと食堂の中に入ると、まっすぐビアンカのところへ向かって近づいて行った。
「あの、どうしたんですか?」
リュカの他に悪漢の男に話しかける者はいない。それだけに男としては話しかけられたことが意外で、驚いた顔でリュカを振り向き見た。そして彼の表情を見て、体が凍り付いたように動かなくなり、口もまともに聞けなくなってしまった。
「僕の妻に何かありましたか?」
聞いたこともないリュカの冷たい口調に、ビアンカでさえも彼にかける言葉を失っていた。言葉は丁寧なものの、リュカの全身から不穏な空気が溢れ出していた。
「な、なんだ、妻って。あんた、人妻だったのかよ。それだったらそうと早く言ってくれよな」
「何よ、人妻だと何の問題があるのよ」
「人妻じゃあ売り物に……」
「売り物ってなんですか?」
悪漢の言葉にリュカがすかさず反応する。過去の記憶が一瞬にして脳裏に蘇り、リュカはこの男をこのまま逃してはならないと直感的に感じた。
「あ、いや、まああれだよ。俺だって好き好んでやってるわけじゃねえんだぜ。でもよ、それを求めるヤツがいるからさ、俺は仕方なくこの仕事を……」
「あなたの仕事は人を売ることなんですね?」
あまりにも正面から問いただしてくるリュカの言葉と雰囲気に、悪漢は冷や汗を垂らしながらもごもごと口の中で「ああ……」と答えた。その一言でリュカの理性が吹き飛び、彼の中でこの男を許さないという感情だけが沸々と沸き起こった。
「ちょっとこっちへ」
そう言いながらリュカは男の腕を強くつかむと、そのまま強引に食堂の外へ連れ出してしまった。テルパドールの国には色々と世話になり、この国を傷つけることはできないと、リュカは男を城の外まで連れ出していった。悪漢の男は見た目よりも力強いリュカの力に逆らうこともできず、ただただ城の外まで連れていかれる。まだ食堂で働いている途中のビアンカだったが、夫を放っておくこともできず、不安そうに他の野次馬と共について行く。
城の外に出ると、リュカと悪漢の姿は忽然と消えていた。野次馬としてついてきた者たちも、姿を消してしまった二人にざわついている。
「何かの呪文を唱えたみたいで、空を飛んで行っちゃったんだよ」
野次馬の一人がそう話しているのを聞き、ビアンカはリュカがルーラを使ったのだと分かった。しかし悪漢を連れてどこへ行ってしまったのか、何も説明がないまま行ってしまった夫をただ待つしかないと、ビアンカは城の外でしばらく待つことにした。
すると間もなく、まるで大きな鳥が飛んで下りてきたように、砂漠の砂の中に一人の人間が降り立った。ビアンカ以外の者はまさか空から人が降ってくるなどとは思いも寄らず、城の陰にリュカが戻ってきたことにしばらく気づかないでいた。
「おかえりなさい。どこに行ってたの?」
無事に戻ってきたリュカにビアンカが話しかけると、リュカは左手に持つもので顔を仰ぎながら答える。
「東のオアシス。ルーラで行けるかどうか、ちょっと試してみたかったんだよね」
「じゃあ行けたんだ。馬車もみんなも一緒に大丈夫そうかしら?」
「うん、大丈夫だと思うよ。これで砂漠の旅は最小限で済むね」
「良かったぁ。ありがとう、リュカ」
仲良く話をする夫婦の姿を見て野次馬たちも安心したのか、その場で離散していった。
「リュカ、ところでそれって……」
「ああ、これ? キメラの翼だよ。知ってるよね」
「うん、そうだけど、それ、どうしたの?」
「あの男が持ってたから取り上げて来たんだ。だってこれがあったらまた人のたくさんいる場所に行っちゃうかもしれないだろ。そうしたらまた悪さをしそうだからね」
リュカは先ほどの悪漢を東のオアシス近くに置き去りにしてきたのだった。東のオアシスには好んで砂漠に住む老人しかおらず、人攫いをしようにもできない環境だ。そんな場所に悪漢を置き去りにし、男の荷物にあったキメラの翼だけを取り上げ、悪さなど何もできないようにしてきたのだった。
リュカはビアンカと共に再び食堂に戻り、世話になった人々に共に挨拶をした。昼を大分過ぎた時間帯で、食堂も落ち着いており、一人一人が挨拶に応えてくれた。
「すまないねぇ、トラブルに巻き込まれるようなことになって」
食堂を取り仕切る女性が最後に代表して言葉をかけると、ビアンカは首を横に振り、申し訳なさそうに応えた。
「こちらこそ、皆さんに嫌な思いをさせてごめんなさい」
「あんたが来てからちょっとしたウワサになってたからねぇ。いずれこういうことが起こるかなとは思ってたんだよ」
「ウワサですか?」
「そうだよ。あんたみたいに綺麗な娘が食堂で働いてたらそりゃウワサにもなるってもんだよ」
「だけどこんなにカッコいい旦那様がいるんだものね。他の男が来たって見向きもしないわよねー」
ビアンカと共に働いていた娘がリュカを見ながらうっとりするのを見て、ビアンカは思わず微笑む。小さい頃から憧れていた冒険に出られて、大好きな人と一緒にいられて、魔物の仲間たちもいて、見知らぬ土地でも国の人々に良くしてもらって、そう考えると自分は何て恵まれているのだろうとビアンカは改めて幸せを感じた。
「そろそろ旅に出るんだね。お給料は明日渡すよ。しかしまだ雨季が明けてないからねぇ、十分気を付けていくんだよ」
「はい、ありがとうございます。急に仕事を辞めるなんて言ってごめんなさい」
「この国じゃあ珍しいことじゃないからね。旅の人がお金を稼ぐのに数日働いてまた旅に出る。良くあることなんだよ。あんたとは元々、そういう話だったしね」
「それよりもさっきあなたが連れていた男はどこに行ったんですか? 私も外までついて行ったんですが、外に出たらあなたを見失ってしまって……」
リュカと昼食を取りに来ていた学者の男がずっと気になっていたことをリュカに問いかけた。リュカは彼と仕事をするのも明日までだしと、彼には話していなかったルーラの呪文について少しだけ教えることにした。
「食事をしながら少しお話しますね」
学者の男はリュカの言葉に何かを感じ取ったようで、学者魂に火をつけ、鼻息も荒くリュカと食事の席に着いた。そんな二人を見ながら、ビアンカもすぐに食堂での仕事に戻り、厨房に山積みにされた食器を片付け始めた。



翌日の昼過ぎ、リュカとビアンカはテルパドールの市場に向かっていた。市場はテルパドールの城の北東にあり、そこにはまるで広い湖のような水場があり、その周りに市場の店が立ち並んでいるという。市場は年中通して開かれているが、雨季の期間はその規模を拡大してかなりの賑わいを見せ、テルパドールに旅してきた者たちも各々市場を楽しむらしい。
「市場には水があるのかも知れないけど、行くまでがかなり堪えるわね」
ビアンカはそう言いながら、砂漠を照らす太陽を眩しそうに仰いだ。相変わらず雲一つない空に輝く太陽は、まるでそれ自体が悪魔のように感じられる。昼過ぎの今の時間帯、城の建物に沿って歩けば日陰の中を歩くことができるが、それも途中までで、市場に向かうにはどうしても日差しを浴びて進まなくてはならない。暑さにうなだれるビアンカに、リュカは自分のターバンを貸して彼女への負担を和らげようと努める。
「うっかりすると、市場に着くまでに倒れちゃいそうだね」
「私たちも気を付けましょう。水も持ってきたし、無理しないで行きましょうね」
リュカとビアンカは厨房の人々の話から、市場に行くまでにも水を持って行った方が良いと、それぞれ水を携帯していた。昼の暑い時間帯に市場に向かうには、水を持ち歩くのが常識のようだった。
しばらく歩くと、木が立ち並ぶ景色が見え、人々の賑わいがあるのが見て取れた。市場は夕方が最も賑わうという話だったが、昼過ぎのこの時間でも人々が楽し気に買い物をしたり飲み食いしている様子が遠くからでも眺められた。その景色にリュカとビアンカは安心し、残っていた水を飲むと、二人で元気に市場へと足を速めた。
しかしその途中、砂の上に寝そべる人の姿を見つけ、二人は互いに目を見合わせる。背中に大きな荷物を背負っているところを見ると、恐らく彼もテルパドールに旅をしてきた者なのだろう。好き好んでこの暑い砂漠の上に寝そべる人間はいない。現にその男は、震える手を伸ばして、どうにか前に進もうとしていた。
「うう、暑い……。うう、ノドが渇いた……。み、み、水を……。だ、誰か……私を……水の所まで……」
「大変! えっと、水はどこにあったかしら? 連れて行ってあげましょうよ」
リュカもビアンカも市場が見えた時に手持ちの水を全て飲んでしまい、倒れる男にすぐに水を分け与えることができない。とにかく見える市場に向かえば水が得られるだろうと、リュカは男を背負い、ビアンカと共に急ぎ足で市場へと向かった。
市場の賑わいの中に入り、リュカはその中心に広がる湖に辿り着くと、男を下ろして木陰に座らせた。ビアンカが持っていた水入れに湖の水を入れると、すぐに男に手渡す。男は意識が薄れながらも手渡された水を飲み、そのまましばらくじっとしたまま湖の景色を見つめていた。ビアンカはハラハラしながら男を見ていたが、リュカの男を見る目は落ち着いていた。喉の渇きを訴えていたとは言え、死にそうなほどの様子には見えなかったのだ。リュカは過去に、大神殿建造の地で、限界に達した人々を多く見て来ている。目の前にいる旅の商人と思われる男にはまだ余裕があるようにリュカには見えた。
「やれやれ、助かりました」
しばらくして体中に水が行き渡ったのか、男は涼しい風が吹き抜けるこの場所で背中の荷物を下ろし、大きな布包みを前に広げた。中には様々なものが詰め込まれており、道理で男を背負った時に見た目よりもかなり重かったはずだと、リュカは一人遅れた疲労を感じる。
「私は旅の道具屋です。はい、いらっしゃいませ! ここは道具屋。どんなご用でしょう?」
先ほどまでのぐったりとした状況から一変、旅の商人は人懐こい笑みを浮かべながら、二人に商品を勧め始める。そんな商人の様子を見て、ビアンカは呆れるようにため息をついた。
「助けた恩人相手に商売を始めるなんて、しっかりしてるわよね」
「でも少し安く売ってくれたら買ってもいいかもね。僕たちだってこれから旅に出るんだから、必要なものもあるかもしれないよ」
そう言って「ねぇ」と笑いかけてくるリュカに、商人の男は冷や汗を垂らしながら「そ、そりゃもちろんお安くしますよ」と請け合った。
道具屋ということで残念ながら食料品の扱いはなかったが、リュカは一つ見たこともない赤い瓶を手に取ると、商人に尋ねた。ビアンカはその瓶に貼られているラベルを見て「名前が怪しいんですけど……」と呟いていた。
「これを飲めば力が沸き上がってくるんだよ。あんたも旅をするんなら一つ二つ持っておいても損はないよ。魔物と戦う局面もあるだろ? そういう時にこれをグイッと飲めば、力が沸いてきて、手強い魔物も一瞬でやっつけられるってわけさ」
「それって私が使えるバイキルトと同じようなものなのかしら」
「おお、あんたは魔法使いかい? そうそう、そのバイキルトって呪文と似てるね。ただコイツにはその呪文ではできない効果もあってね……。ところであんたたちは恋人同士? 恋人二人で旅をしてるのかい?」
「いえ、夫婦です。あと他に仲間もいます」
「そうかいそうかい。夫婦かぁ。それじゃあコイツはきっと必要だね。何でもこの『ファイトいっぱつ』のおかげで冷めた夫婦仲も直ったって話もあるんだ。きっとあんたたちにも役に立つと思うよ」
そう言いながらどこかニヤつく笑みを浮かべる商人に、リュカは首を傾げる。
「バイキルトで夫婦仲が直るってどういうことなんだろう?」
「……私たちには必要ないわ、リュカ。早いところ旅の支度を済ませましょう。どうもこの道具屋には私たちが必要なものは売ってないみたい」
やけに冷めた口調で言い切るビアンカに、リュカは眉をひそめる。まだ大して品物を見ないまま他の店へ行こうとするビアンカに、旅の商人は慌てて付け加える。
「ああっ、そんなに怖がらなくても大丈夫だって。そこまでのモノじゃない……」
「うるさいわねっ、私たち、仲が良すぎて困っちゃうくらいなの! いらないったらいらないわよ」
「ビアンカ、どうしたの? そんなに怒ることでもないと思うんだけど……」
「あんたはどこまで鈍いのよ! さあ、行くわよっ!」
顔や頭から湯気が出そうなほど怒っているビアンカに逆らうこともできず、リュカは彼女に腕を引かれてその場を後にした。旅の商人は「使ってみればいいのになぁ」と呟きつつ、その場で本格的に商売を始めていた。
大きな湖の周りには様々な商店が立ち並び、テルパドールの国の人や旅人たちで市場はかなり賑わっていた。リュカとビアンカは旅人向けに品物を取り揃えている店を見て回り、保存の利く食料などを物色し、買い揃えていった。これからの旅を考えると、とても一度では買い切れないと、二人はそれぞれ大荷物を背負いながら一度仲間たちの待つ馬車に戻ることにした。
灼熱の砂漠を歩き、仲間の魔物たちがいる離れたオアシスに向かうと、二人の様子に気づいたメッキーがいち早く駆けつけてくれた。そして仲間の魔物を呼びに行くと、プックルが嬉しそうに二人の元へと駆けてきた。
「プックル、お待たせしたわね。明日にはまた旅に出るわよ」
ビアンカの言葉に、プックルはまるで溜め息をつくように大きな頭をもたげる。それと言うのも、またあの苛酷な砂漠の旅が始まるのかと、砂漠の旅の辛さを思い出しているのだろう。
「大丈夫。東のオアシスまでは僕のルーラで飛んでいけそうなんだ。だから前の旅よりはかなり楽になると思うよ」
「どうせなら船のある所まで飛んでいけないかしら」
「それができればいいんだけど、どうも人のいる場所じゃないと上手くイメージができないんだよね」
ビアンカが背負っていた荷物をプックルが背に乗せて運び、二人と一匹は人気のない小さなオアシスへと砂漠の灼熱の中歩いていく。
ちょうどテルパドールからは見えない小高い砂丘の陰に馬車が止められ、その陰の中で仲間の魔物たちはゆっくりと休んでいた。メッキーやガンドフは日向に出て二人を迎えたが、他の仲間たちは日陰から出ないままリュカとビアンカが来るのを待っていた。それほどにまだ日差しが強い。ピエールなどは義務感でリュカの荷物を持って手伝わなくてはと思いつつも、どうしても熱された砂漠の砂に踏み出すことができずにいたようだ。
パトリシアと馬車は既にクラリスの父から五日前に引き渡されていた。修理を終えた馬車は元の形よりも頑丈に直され、壊れていなかった荷台の中までもキレイに一新されていた。見たこともない大きな白馬を目にしたクラリスの父が、張り切って馬車の修理をしてくれたようだった。
そして修理代を受け取ろうとしない彼の見ていないところで、リュカは彼の息子をそっと呼び寄せ、「お父さんへの手紙を宿の人から預かってたんだ。後で渡してね」と封筒を一つ渡しておいた。その封筒の中に、お礼の手紙と心ばかりのお金を入れておいたが、その後彼らとは会っていないため、封筒の中身がどうなったのかは知らない。しかしそんなことはリュカとビアンカにはどうでも良いことだった。ただ十分すぎるほど馬車をキレイに仕上げてくれたお礼をしたかっただけなのだ。
「まだまだ買って来なきゃいけないから、馬車を持って行った方が良さそうだなぁ」
「そうね。私たちでこうして荷物を持ってくるのも限界があるものね。一度に済ませましょう」
リュカとビアンカの言葉に、パトリシアの耳がピクリと動く。テルパドールまでの砂漠の旅で最も疲弊していたのはパトリシアだったはずだ。彼女は砂漠の旅をしている間ずっと砂で進みづらい馬車を引き、重い荷物を延々と運び、仲間たちの休む日陰を作り、テルパドール手前ではかなりの急坂となる砂丘を上り下りしてきたのだ。そんな彼女が再び砂漠の旅に出るという話を聞いて、嫌にならないはずがない。
「パトリシア、行けるかな」
リュカがそう言いながらパトリシアの目を覗き込むと、彼女はすぐに「ブルルルッ」と返事をしてテルパドールの市場を遠くに見据えた。今まで目的地も見えず、いつまで続くか分からない砂漠の旅に比べたら、今は目的地も眼前に見えており、歩けばすぐに着く距離だ。砂漠は暑い日差しに照らされ、空気がゆらゆらと揺れているが、その中をリュカは既に重い荷物を背負って歩いてきた。何も不平不満を言わず、それどころか彼の目はこれからの旅を既に楽しみ始めているようだった。
そんな主人の顔を見て、パトリシアはこの旅がとても楽しいことを改めて思い出した。たとえリュカが「旅が辛ければこのテルパドールに残ってもいいよ」と勧めてきても、パトリシアは即座に断ってしまうだろう。それだけリュカと言う人物に惚れ込んでいるのだ。
パトリシアがリュカに頬を寄せてくると、リュカも安心したように彼女の首を撫でた。
「ありがとう、パトリシア」
「あなたには本当に頑張ってもらってるね。あ、そうだ。市場で欲しいものがあったら知らせて。きっと美味しい果物も売ってるはずよ。それくらい買う余裕はあるわよね」
「うん、意外なほど貰っちゃったからね、お金」
そう言うリュカの懐には予定していた額よりも二割増しほどの金が入っていた。それと言うのも、昨日学者の男にルーラの呪文の話をしたら、予想通りかなりの興味を示し、リュカは一度ルーラで学者を東のオアシスへと連れて行ったのだ。学者の男は腰が抜けるほど驚き、感動し、テルパドールに戻ると貴重な体験をさせてくれたお礼だと言って謝礼金を渡してくれた。その額に今度はリュカが驚き、こんなに貰っていいのかと聞いても、学者の男は感動に浸っていてとてもまともに話ができる状態にはなかった。
「みんなにも何か美味しいものを買ってきてあげる。市場には肉もあると思うんだ」
リュカの言葉にプックルが興奮したように「がうがうがうっ」と立ち上がって前足をばたつかせた。この旅の中で半ば草食動物と化してしまったかのようなプックルだが、久しぶりに肉が食べられると考えただけで口から出る涎が止まらなくなってしまった。
「これからの旅も色々とあるだろうけど、楽しく行こうね」
「そうそう、それが私たちのモットーだもの。何だって楽しまないと損よ」
テルパドールのオアシスですっかり英気を養ったリュカたちは、買い出しを終えた夕方ごろ、皆でささやかな宴を開いた。楽しい時間の中で彼らはこれからの旅についての話をし、リュカはマーリンとピエールに船の針路について、城の図書室で調べたことを伝え、相談した。仲間たちは一様に、目の前の砂漠の景色のことは忘れるように努め、船で海に出た後の旅を想像して、その水の景色に憧れの気持ちを抱くようなうっとりとした表情を見せたりしていた。

「そうですか、今日旅立つのですね」
「はい、色々とお世話になりました」
翌朝早く、リュカとビアンカはテルパドールの女王アイシスの元を訪れていた。旅立つ時には再び挨拶に来るようにと言われていた二人は、女王への礼も忘れず彼女が主に過ごす地下庭園に来たのだった。
「この国はこうして砂漠のただ中にあるため、他の国との交易がほとんどないのです。その為、私自身、東の国グランバニアのことをほとんど知りません。しかしこの国を訪れる旅人たちから様々な話を聞き、その中にグランバニアに関する話もいくつか耳にしています。グランバニアのパパス王が幼子を連れて旅に出たこと、私はこのことは事実だと感じています」
アイシス女王には未来を予知する特別な能力があるが、その能力は恐らく彼女の一部に過ぎないのだろう。リュカやビアンカには計り知れない何かが、彼女の中には備わっているに違いない。そんな女王がはっきりと「事実だ」と述べることで、リュカはこれからグランバニアに旅立つ動機づけが確かなものになるのを感じた。
「早くあなたのお母様が見つかるよう、心より願っております。神のご加護があらんことを」
アイシス女王は決して呪文が使えるわけではない。しかし彼女が目を閉じて祈る仕草をするだけで、リュカもビアンカもまるで何か見えない力に包まれ、守られるのを肌に感じていた。
「母が見つかったら、女王様にもお知らせします」
「そうですね。もしあなたがパパス王の連れた幼子ならば、グランバニアの王子ということ。そうと分かれば、このテルパドールとも仲良くしていただけるようお取り計らいいただけると嬉しく思います」
そう言いながら微笑むアイシス女王を見て、リュカはこの人は女王という立場に縛られているだけで、本当はとても人間味のある冗談の分かる身近な人なのかも知れないと思った。
アイシス女王との別れを済ませると、リュカとビアンカは地下庭園をゆっくりと眺めながらその場を後にした。テルパドールで世話になった人々には既に挨拶を済ませており、旅支度も整えた今、あとは仲間たちの所へ行って旅立つだけとなっていた。
テルパドールでの滞在は大よそ二週間ほどだった。その間に十分旅費を稼ぎ、その旅費の半分ほどを使って旅支度を整え、テルパドールの滞在で十分に英気も養えた。グランバニアについても調べ、とりあえずはこの大陸の北東に停泊させている船の状態を確認してから、ほぼ真東の針路を取って東の大陸を目指す予定だった。
「まずはルーラが上手く行くかどうかだなぁ」
「あら、昨日あの男を東のオアシスに連れていけたんでしょ? だったら大丈夫よ」
「……うん、そうだね。着地にさえ気を付ければ大丈夫かな」
「平気平気。何とかなるわ。さあ、いざグランバニアへ!」
そう言って右手を上に向けるビアンカを見ると、リュカは彼女がまた冒険を楽しもうとしているのが感じられて、嬉しかった。
テルパドールにいる間、彼女は厨房の仕事の疲れか、仕事から宿に戻ると早々に寝てしまうことがほぼ毎日続いていたのだ。いくら疲れていても、彼女のことだからリュカの帰りを待ち、今日あった出来事をたくさん話すのがビアンカだと思っていた。厨房での仕事も忙しい時間帯を除けば、特別仕事に追われることもなく、のんびりできる時間帯もあったのだ。しかし彼女は連日疲れていたようで、リュカが部屋で分厚い本を床に落として大きな音を立てても、ピクリともせずぐっすり眠っていた。今までには感じられないほど、彼女の眠りは深くなっていた。
「今度は砂漠じゃないといいね」
「そうね。今回の砂漠の旅はなかなか辛いものがあったわ。でも今度ここに来る時はルーラで来られるから楽よね。早く勇者様を見つけて、またここに来ましょうね」
ビアンカはきっと砂漠の旅に、砂漠の国での滞在にかなり疲労していたのだろう。彼女自身は弱音を吐かないため多くを語らないが、彼女の体は疲れに正直だったのだ。リュカはそう思うことにした。
一方、ビアンカは既に強い日差しが照り付ける砂漠の景色を見て、口元をきゅっと引き締めた。そして小声で「頑張ろうね……私」と呟くと、日差しを避けるように体にマントを巻き付け、仲間たちの待つオアシスへ向かうため、砂漠に足を踏み出した。

Comment

  1. […] さて、本編を更新しました。 「急ぐ旅」 […]

  2. ケアル より:

    ビビ様!
    今回も、もりだくさんな内容でしたね。
    まず、ルーラ。
    なるほど、そう来ましたか、さすがに船までは無理でもオアシスまでなら行けると。
    まあ、ありな発想ですよ…うん!
    ただ…キメラの翼の存在をビビ様の小説に出しちゃうと…(汗)
    ビビ様の中でキメラの翼の効果は、どういう風に考えていますか?
    ゲーム内では、たしかドラクエ5の場合…以前にセーブした場所に飛ぶだったでしょうか(風の帽子)と同じ?
    あれ…忘れた(汗)
    ルーラと同じ効果だったでしょうか?作品によって効果が変わるから忘れました。
    そしてリュカの命の呪文の本、まさにメガザルですね!
    ファイト一発のくだりは笑いましたよ(笑み)
    まさか、夜の○○○○の効果もあるなんて(爆笑)
    面白い発想ですねビビ様!
    そりゃあビアンカも怒っちゃうね(リュカは疎いのは何時もどおり)。
    人売りの話は何かの複線?
    そして、ビアンカの焦る旅への描写…もしかしてビアンカ…妊娠しちゃっている?(ニヤリ)
    だから、ファイト一発の時も、あんな風に?
    旅ができなくなるのが妊娠が、ばれてしまうと、できなくなるから?
    ビビ様、今回は、こちら読み手側も色々な憶測ができて楽しかったですよ。

    • bibi より:

      ケアル 様

      毎度コメントをどうもありがとうございます。
      ルーラはもう、私の小説内では好きなように使わせてもらうことにしました(笑) キメラの翼はDQ5では最後に立ち寄った町や村に行けるという効果があるようですが……こちらもご都合主義で行こうかな~なんて(汗) ルーラ、ゲームの中ではとても便利な呪文ですが、小説の中だと何とも扱いづらい。そのうち辻褄が合わなくなったりして^^;
      命の呪文、まずリュカ君には覚えてもらわなければならない呪文があるので、そちらからですかね。ギャンブル蘇生呪文。生き返っても半分だけ元気になれるというあれです。
      ファイト一発はギャグで入れてみました。まあ、こういうのもアリかなぁと。
      えーと、恐らくケアルさんが思われるほど、話に伏線を入れてません(汗) ただ私が書きたいように書いているという……。後でがっかりさせてしまったらごめんなさい。先に謝っておきますm(_ _)m

      • ケアル より:

        ビビ様!
        ルーラはビビ様がやりたいようにして行けばいいと自分も思います。
        原作をそれなりに壊さぬようにすれば、たいして気にならないですね。
        ちなみに…メッキーも、そのうちルーラを?!…。
        う〜ん…妊娠の複線かな…て思っちゃいました(えへ)
        そっか…ザオラルでしたね忘れてました…。
        そうですねリュカにしか今の所復活呪文がつかえないですね。
        ビアンカは強い呪文を覚えたのでしょうか…。
        ザラキやベギラゴン…レラゾーマは、まだ早いけど…。
        戦闘の呪文や特技、いっぱい見たいです(笑み)
        m(_ _)m

        • bibi より:

          ケアル 様

          原作の世界観はなるべく壊さないように、自由に創作していければなぁと思います。よろしくお願いします^^
          呪文についても、ゲームの進行に合わせて、覚える呪文も増やしていければと。DSをプレイしながら書いているので。ビアンカさんや仲間たちも徐々に呪文を覚えていければいいなぁ。

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