2017/11/24
実権を奪われた国王
中庭に生える草は伸び放題で、ヘンリーが幼い頃に見ていた景色とは大分違っていた。地下通路からの出口は中庭の一角にあり、広い城の中庭全体が見渡せる。恐らく幼い頃であったなら、この丈高い草が茂る中庭全体を見渡すことすら難しかっただろう。城の中庭がこれほど荒れ、数年に渡り人の手が入っていない様子を見るだけで、城内の異様さも想像できた。
見れば、風に吹かれるでもない庭の草が、ところどころガサガサと音を立てて揺れている。それと共に、動物ではない何者かの鳴き声が聞こえた。リュカはかなり使い古して来た檜の棒を右手に構え、庭に潜むものへの警戒を始める。
「魔物がいるみたいだね」
「この国は城の中で魔物を飼うようになったみたいだな」
「スラりんやピエールみたいに、話が分かってくれる魔物だったらいいのに」
「そうもいかない雰囲気だ。なるべく避けて行くぞ」
二人は中庭の中央付近には寄らず、中庭を囲む城の外壁を伝うようにして移動を始めた。中庭にいる魔物は時折、草むらの中から黄色い頭を覗かせている。その姿を見て、リュカもヘンリーも庭に放されている魔物がドラゴンキッズだと分かり、尚更慎重に進んで行った。
「ところでどこかから入れるの?」
「中庭からだと、城の厨房に入れる」
ヘンリーの言葉に、リュカは幼い頃に一人で厨房に入って行ったことを思い出す。プックルが肉を全て食べてしまって本気で怒ったのがあの場所だったと、リュカは懐かしむように息を吐いて笑った。
「じゃあ僕たちは厨房で働く人みたいにして入ればいいってわけだね」
「察しが良くなったな。厨房には色んな服装の人間がいるからな、さらっと入れば怪しまれずに済むはずだ」
幸い、ドラゴンキッズに見つかることもなく、彼らは厨房に入る扉に行き着いた。扉の隙間から、厨房の窓から、既に美味い匂いが漏れ出ている。腹を空かす余裕などないと思っていた二人の腹が、同時に鳴った。
「ちょっとだけ、何かもらえたりしないかなぁ」
「身体ってのは正直なもんだ、こんな時に腹が減るなんて」
扉を開け、中を覗くと、幾人もの調理人や給仕の女たちがせわしなく働いている。何気なく扉を開け、厨房内に潜り込んだ二人に目を向ける者は一人としていない。カチャカチャと食器のぶつかる音や、香ばしいスープの煮える音、野菜を刻む音などが入り混じり、二人は目立たずに城へ潜入することに成功した。
厨房にいくつか並ぶ調理台の上に、多くの食材が用意されている。その中で、運ばれるのを待つだけになっている果物が盛られた銀色の器を目にし、ヘンリーはその器が乗っている台に向かって歩き出した。銀の器にはリンゴ、オレンジ、葡萄などが形よく盛られている。明らかに身分の高い者に対して使う器だと、リュカにも分かった。
しかしヘンリーがその器を手に取る前に、給仕の女性が先に器に手をかけた。中年の給仕の女性は、もうこの城に勤めて十年以上になるベテランの者だった。彼女は器を運ぼうとしていたわけではなく、ただ仕上がりをチェックするために、台の上で銀の器を回し、果物の盛り方を見ていただけのようだ。そして近づいてきた二人の青年と目が合うと、気さくに声をかけてきた。
「おや、今日はあんたたちが王様のところへ運んでくれるのかい?」
「ああ、そうだ。太后様の命令でね」
戸惑いのないヘンリーの応じ方を見て、リュカは彼が初めからそのつもりでこの銀の器に近づいたのだと知った。かつて、この銀の器に盛られた果物を、彼は食していたのだろう。
「太后様が? 珍しいこともあるもんだねぇ」
「珍しいことって、どういうことですか」
ヘンリーが銀の器を持つ横で、リュカが傍に置かれていた取り皿用の銀食器とナイフとフォークを手に取り、その女性に問い掛けた。すると女性はふと疲れたような表情で、愚痴をこぼし始めた。
「太后様も、王妃様の頃は息子のデール様をあんなにかわいがっていたのに……」
女性が零す言葉が真実だということは、ヘンリーのみならず、リュカも知っていた。リュカは幼い頃にこのラインハットを訪れた際、意図せずデールとその母に会ったことがあった。当時、王妃だった彼女が、リュカよりも幼い小さなデールに、目に入れても痛くないほどの愛情を注いでいたのは雰囲気で感じていた。小さなデールも、母の後ろに隠れてリュカの顔を窺い見るだけで、母から離れようとはしなかった。母子の愛情は、他人のリュカの目から見ても確かなものだった。
「デール様が国王になり、自分が太后になった途端、人が変ってしまって……。今では国王のデール様を邪魔にさえ思っているご様子。まったくどうしてしまったのかねぇ」
困ったように息をつく女性の話を聞いて、リュカもヘンリーも今の状況を確信した。地下牢にいるのは間違いなく本物の太后で、上で国の実権を握ってしまっている太后は、まさしく『人が変ってしまって』いる偽物だ。その偽物が魔物だということは、この城の庭にドラゴンキッズが放し飼いにされていることからも、推測できた。
デールが国王になってからと考えると、既に数年経っている。その間、太后が太后として一度も疑われることなく、国の実権まで握り始めてしまったのは、よほど巧みに国の内部に近づいて行ったのだろう。
しかしこの国を乗っ取ろうとすることだけにかまけ、魔物は大事なことを見落としてしまっていた。母の息子に対する愛情は、そう簡単には途切れることはない。先ほど、地下牢で顔を突き合わせてきた本物の太后がそれを証明していた。彼女は自らの事を「デールの母」と名乗った。地下牢に入れられて数年の月日が流れ、その間息子のデールとは会えなかったにもかかわらず、彼女はデールのことを片時も忘れたことはないという切実な表情で、リュカとヘンリーに告白した。魔物にはその母子の愛情を理解することができなかったのだ。
愚痴を聞いてだんまりしている二人の青年を見て、給仕の女性は慌てたように言い繕う。
「今のは聞かなかったことにしとくれ。こんなことが太后様に知られたら、大変だ」
女性は自分の持ち場に戻り、再び仕事を始めた。城の厨房ではほとんど一日中、仕事が尽きない。城にいる者たち全ての食事をここで作らなければならないのだ。人手も多いとは言えない状況で、女性にはすぐに次の仕事が待っているようだった。
城の中心にあるこの厨房は内部が円形になっており、この場所のちょうど真上、三階にあるのが王室だ。城の景色は思い出そうとしなくても、ヘンリーの頭の中に図が入っている。厨房の扉を出てすぐ、上へ上る階段がある。二階に出たら、再び円形の広間に入る。そこから螺旋階段を上れば、すぐに王室だ。
「堂々と行くぞ」
「うん、なるべく早く行こう」
厨房の出入り口の扉を開けると、大きな階段が見えた。幸い、兵の姿も、誰の姿も見当たらない。見つからないに越したことはないと、ヘンリーとリュカは小走りに階段を上って行った。
彼らの警戒心を裏切るかのように、城内の人は少ないようだ。城の人間らしく背筋を伸ばし、銀の器を持つヘンリーの後に、リュカが銀食器を持って続く。二階には一人、兵士が部屋の扉の前に立っていたが、彼が警護しているのは南側に位置する部屋だった。リュカもヘンリーもその兵士の姿に気付きながらも、目を合わせることなく、円形の広間に続く扉を開けた。二人の姿をしっかり目で捉えていた兵士だが、彼らが運ぶ果物類を見て、「もうそんな時間か」と呟いただけだった。
二階の円形の広間では、巡回中の兵士が二人、立ち話をしていた。リュカとヘンリーが広間に入ってきても、彼らが間食用の果物を持っているのを見ると、軽い敬礼をするだけでそのまま通してしまった。城の中に外部の者が入っているなどということは、予想もしていないのだろう。城への入り口は跳ね橋から続く正面のものしかなく、そこでは警備の兵士が交代で見張りをしている。それに加えて、城の内部にも入り口近くに警備兵を就かせており、城への侵入者はことごとく防ぐ態勢を取っている。入口近くを徹底して警備することで、かえって城の中の警備は手薄になっているようだった。
ヘンリーが早々と三階に向かって上がろうとすると、広間にいる兵たちが再び立ち話を始める。その表情は二人とも暗く沈んだものだ。
「今日もまた、国のやり方に反対する者を一人、処刑してしまった……。太后様の命令とは言え、一体いつまでこんな事が続くのだろうか……」
物騒な兵士の言葉を聞き、ヘンリーもリュカも思わず階段の途中で足を止めた。螺旋階段を上り、二階の広間にいる兵士からは死角となる場所で二人はしゃがみ込んだ。愚痴をこぼす兵士の小さな溜め息が聞こえた。
「俺たちは国の兵士だから、国の言うことには逆らえないんだ。仕方ない、お前のせいじゃない」
「国の兵である前に、私は一人の人間……」
「いや、兵士なんだ。そう考えないと、この国では生きていけない。いいな、お前はこの国の兵士なんだ。それだけを考えろ」
「本当にそれでいいのだろうか」
「そうしなければ、今度、処刑台に立つのはお前ということになる。まずは自分の身を守るんだ」
リュカとヘンリーは、人が慣れてしまう生き物だと言うことを知っている。今では国のやり方に疑問を持つ若い兵士でも、この国が異常である限り、次第にその環境に慣らされ、やがては疑問すら持たない思考停止の状態にまで陥るだろう。そのようにして生きる意味を見失った人々を、二人はあの大神殿建造の地で幾人も見てきた。
「このままじゃ手遅れになるよ。早く行こう」
「でもまだ、ああやって疑問を持つ奴がいるのは、救いがある。厨房にいたおばさんもそうだったしな」
螺旋階段の途中で足を止めていた二人は、続く上までの階段を落ちついて上って行った。
三階には王室前の広間がある。天井を見上げれば、今まで見てきた下の階と比べると倍ほども高く、それだけで広く開放的な印象を受ける。ラインハット国王は代々、性格的にも開放的な人物が多く、広く見渡せるこの王室を好んでいた。ヘンリーの父である先代の国王も、ここから更に階段を上ったところにある玉座から見渡す景色を気に入っていた。
玉座へ続く上り階段の脇には、特に衛兵の姿はない。一国の王がすぐそこにいるというのに、この警備の甘さを見て、ヘンリーはいかに国王が軽んじられているのかを嫌でも感じた。城の中への侵入者は城門で防いでいるかも知れないが、城の中で裏切り者が現れれば、これほど警護の薄い国王などひとたまりもないだろう。
銀の器を両手で持ち、姿勢よく階段を上るヘンリーの後ろから、リュカも真似をするように姿勢を正して一歩一歩上がって行く。ほとんど記憶になかったはずのラインハット城の玉座だが、この階段の上にはヘンリーと同じ目をした彼らの父が堂々と座っている景色が、一瞬リュカの脳裏に蘇った。目の印象が強いかつてのラインハット王は、ヘンリーと全く同じ空色の瞳をしていた。
大きな玉座に、まだ子供とも思えるような小さな人物が座っている。その目はかつての国王のものとは違う、茶色いものだった。風貌こそ子供じみているとは言え、その茶色い瞳は子供らしからぬ澱みを溜めこんでいる。ヘンリーの持つ銀の器に盛られた瑞々しい果物を見ても、表情一つ変えない。果物にちらと視線を移した後は、すぐにその視線を床に落してしまった。
玉座の間にも衛兵の姿はなかったが、代わりに一人の中年の男性が玉座の脇に立っている。国王の補佐をする大臣のようだ。王室に二人の給仕の若者が現れるなり、大臣は無言で王室の隅にあるテーブルを指差した。果物の入る銀の器を置けという意味らしい。ヘンリーとリュカはその指図の通り、テーブルの上に運んできた果物や銀食器を置くと、再び玉座に向き直った。
玉座に座るデールは、給仕の若者が見慣れない者だということに気付かない、というよりも、興味がないようだった。外見はまだ子供のように見える彼だが、その頬に子供のような張りはない。むしろやつれ、ややこけている。玉座に一日座っているのが仕事なのだと、魂の抜けたような顔つきで、じっとどこともない場所を見つめている。
いつもの給仕の者ならば、そのまま王室を静かに去って行くだけだが、ヘンリーはつかつかと玉座に向かって歩き出した。デールの傍に控える大臣が怪訝な顔つきでヘンリーを見るが、彼はそんな視線には気付かないふりをして、真っ直ぐにデールのところへ向かう。あまりにも迷いのない歩きぶりに、大臣も困惑した様子で、給仕の青年を止める手立てを見つけられないようだ。
玉座の前で片膝を立てて座る.ヘンリーのすぐ後ろで、リュカも彼の真似をして床に座る。ここで怪しまれて追い出されてしまったら、全てが水の泡だ。この国での振る舞いは、ヘンリーに倣えば間違いないと、リュカは常にヘンリーの後ろで彼の真似をした。
目の前に座る給仕の者を見て、さすがに違和感を覚えたのか、デールは虚ろな目をその者に落した。ヘンリーは頭を下げ、国王に対して無礼のないよう、目を合わせずにいる。そんな彼の姿を盗み見るようにして、リュカも頭を下げ続けていた。
「給仕、ご苦労。下がってよいぞ」
デールのごく小さな声を聞いても、ヘンリーはその場でピクリとも動かない。じっと座り、頭を下げ続けている。
「あちらの果物は、王様のためにと、苦労して取り寄せたものです。後ほど、必ずお召し上がりください」
「ふむ……しかし、私は今、さほど食欲もない」
「国の者は日々の生活に困窮しております。それなのに、あれほど瑞々しい果物を一口も召し上がらずに、お捨てになるということでしょうか」
「それも、致し方あるまい。食せないものは食せないのだ。私の代わりに、後で母上が……いや、何でもない」
「王様がすぐに召しあがれるように、今すぐ果物をお切りいたしましょうか。そうすれば自ずと食欲も沸いてくるかも知れません」
「良いのだ。もう構うな。……今日は誰とも話したくないのだ。下がるが良い」
「ですが、王様。子分は親分の言うことを聞くものですぞ」
そう言いながら、ヘンリーはゆっくりと顔を上げた。玉座に座るデールと目が合うと、片方の口の端を上げて笑った。給仕の青年らしからぬ、いたずら小僧のような表情に出会い、デールは思わず息を呑んだ。給仕の青年の空色の瞳は、今も忘れられぬ父と同じものであり、今も忘れられぬ兄と同じものだった。
「そんな……まさか……」
今まで封印していたも同然の幼い頃の記憶が、デールの頭から身体から全てに蘇る。今見える景色は全て灰色も同然で、その世界の中でデールは生きている意識がない。給仕の者が運んできた果物も、どれ一つとっても美味しさの欠片も感じられない、ただのモノなのだ。
それが、幼い頃の記憶が次々と蘇ってくると、王室内の景色も、目の前に座る給仕の者の服も髪も、全てが一挙に色づいて見えた。自分の心臓が脈打って動いていることもはっきりと分かるほど、デールは何年かぶりに生きた世界に戻ってこれたような気持ちになった。目の前の青年の、鮮やかな緑色の髪を見て、デールは身体が震えるのを止められなかった。
急に玉座を立った国王に、最も驚いたのは大臣だった。主である国王の様子を窺い、呆然と立ち尽くす様を見て、不安げに近寄る。しかしそんな大臣の怪訝な態度を吹き飛ばすような大声で、デールが命じる。
「おい、大臣。私はこの者と話がある。下がっておれ!」
「は?」
この王室には兵士の姿はなく、大臣が部屋を出て行けば、ラインハット国王は裸同然の状態で城の給仕の者たちと話をすることになる。政務に就いている間も帯剣しているものの、城の兵士に言わせれば、国王の剣術はお遊びも同然のものだ。国の主としての、形ばかりの剣を二つ腰提げているだけだった。
「ですが、国王……」
「良いから下がっておれ。この者たちは城の給仕の者だぞ。何を不安に思うか」
「……はい、分かりました」
大臣は国王の前で跪く二人の給仕の青年を疑わしげに見ながら、渋々王室を退室した。しかしこの王室は下の階と階段で直接繋がっており、その間に扉はない。大きな声で話せば全ての話が筒抜けになると、デールは一度息をついて冷静さを取り戻そうとした。しかし感動を抑えるのには少々無理があり、思わず声を高めてしまう。
「兄さん! ヘンリー兄さん、生きていたんだね!」
「ああ、ずいぶんと留守にして悪かったな」
「よくこの城に入れたね。まさか正面からは入れなかったでしょう」
「地下通路からな。……まあ、そんなことはいいんだ。それよりもお前に伝えておかなきゃならないことがある」
たかだか城の給仕の者と、大臣を外させてまで話をしているだけでも不信を買われる状況の上、長話をしては尚更疑念を呼ぶことになると、ヘンリーは手短に話をし出した。
「え! 母上が地下牢に!?」
「声が大きいぞ、デール。もっと静かに驚け」
「あ、ごめん。だって、母上は今、上の階にいらっしゃるはずだから、地下牢にいるなんてありえないよ」
「そいつは偽物だ。いつからすり替わってたのか知らないが、恐らく相当前から偽物がこの国を支配しようとしているんだ」
「そう言えば色々思い当ることがあるな……」
この国の王としてデールを擁立したのは紛れもなく彼の母だ。我が子可愛さに、義理の息子であるヘンリーを退け、若くしてこの世を去った先代のラインハット王に代わり、デールをこの国の王とした。しかしその後程なくして、彼女の態度は徐々に変化していった。
デールの母にとっては、可愛い息子が国王になっただけで幸せを掴んだはずだった。しかし彼女はその後、富国強兵策を打ち出し、国の軍事に口を出すようになった。周囲に敵となる国などどこにもないのだが、彼女は躍起になって国の軍事を強くしようとした。
そしてそれが転じて、やがては城の中で魔物の姿を見るまでになってしまった。デールには母の考えが見えなかった。一体何をしようとしているのか。しかしまるで取りつかれたような目をして国を動かそうとする血のつながりのある家族に、デールは何も口出しすることができなかった。母のしていることは、自分には見えない正しいことなのだと、国王としてしてはならないような無関心を貫いた。
外見だけでは、本物の母だと信じるに値する容貌なのだ。派手な化粧は相変わらずで、服装も毎日違うドレスを身にまとい、装飾品も目に痛いほどの煌びやかさを好む。顔も姿形も声も、何もかもが太后その人だった。ただかつての太后と違うのは、何よりも大事にしていたデールを疎ましく思うようになったことだ。しかしそれだけでは、彼女を偽物だと断定することはできない。
「偽物の正体を暴かないと、今の地下牢にいるあの人を連れて来ても、疑われるのはそっちかも知れないよ」
親しげな口調で話して来たもう一人の給仕係を装う青年を見て、デールはしばし彼を見つめた。そんな彼の疑問の浮かぶ表情を見て、ヘンリーが端的に説明する。
「俺のもう一人の子分だよ」
「僕は友達のつもりなんだけど……まあ、いいよ、今はそれで」
「こいつの言う通りだな。どうにかして偽物を偽物だって証明できないと、今のままじゃ何もできやしない」
いつの間にか立ち上がって話をしていたヘンリーが、腕組みをして唸るような声を上げる。すっかり成長した兄の姿を見て、感動の次には安心が心を占めてきたデールは、落ちついた様子で兄と同じように腕組みをして考えこむ。
ラインハットの王として玉座に座る毎日だが、国の実権を握っているのが母の太后であることは、デール自身自覚している。彼女が国の政治に口を出し、動かし、国の者も国王であるデールよりも太后の機嫌を注意深く窺っている。デールには国の政治に関わる一切の権限がないも同然で、勝手に軍国主義に走る自分の国を止める手立てもなかった。
それだけに、デールはひたすら書物に目を通していた。幼い頃より、本を読むことは好きだった。国王になりたいとは一度も思ったことはないが、国の政治を支える者として、知識はいくらあっても困らないだろうと、城の書庫に置かれている書物を片端から読み漁っていた。今でもその習慣は絶たれていない。
城の書庫だけあって、珍しい本も多く置かれていた。世界情勢や地図、名産品、各国の関係などにも意欲的に興味を持って本を読んでいたが、デールが心惹かれた本の中に、ある鏡について書かれたものがあった。その本がどのような形式のもので、信憑性があるのかどうかも覚えていないが、この世にそんなものが存在するのだろうかと、不思議に思った覚えがあった。
「いつだったか僕、読んだことがあるんだ、不思議な鏡の伝説を」
「不思議な鏡? なんだそりゃ」
「ここで僕が思い出しながら説明するより、実際に見た方が早いよ」
「見た方が早いって、どこかにあるんですか」
そう言いながらリュカが辺りを見回すのを見て、デールはばさりと真紅のマントを払い、服のポケットを探り始めた。
「ここにはありません。でも、この城の倉庫だったと思うな。この鍵で扉を開けられるはずだから、持ってお行きよ」
デールは手にした鍵をヘンリーに手渡した。人差指と親指でつまむようにして見るヘンリーは、その鍵に国の紋章が刻まれているのを見ると、改めてデールを見た。
「もし俺たちが城への侵入者だったら、大変なことだぞ、こんなもの渡すなんて」
「城への侵入者だったら、もう僕の前にいるんだから、僕に何かするはずだよ。一応、形だけでも王なんだから」
「お前は城への侵入者よりも、城内にいる奴らに気をつけた方が良さそうだ」
「僕を心配してくれるのはありがたいけど、兄さんたちはその格好で外を歩いてきたの?」
すっかり落ちついたデールは、改めて冷静な目で二人の旅人の姿をまじまじと見た。魔物がうろつく外の世界を歩いてきたとは思えないほど軽装の二人に、デールは不安げな眼差しを送る。二人とも武器らしい武器も持たず、身を守る術も特にないように見えた。
「何とか生きてきた、ってところか」
「お金もなくなっちゃったしね。でも、どうにかなるよ、きっと」
詳しいことは話さない二人だが、何度も窮地に陥ったことは、外の世界をあまり知らないデールでも想像できた。立ち上がったまま話をしていたデールは、常に腰に帯びている日本の剣をベルトから外すと、それを二人に差し出した。
「せめてこれを使って。どうせ僕にはいくらでも替えがあるから」
差し出された剣は、一つは刃の長い一般的な剣、もう一つは予備として身につけるような短めの刃のものだ。いずれも観賞用のものではあるが、リュカやヘンリーが身につけている檜の棒や小型のナイフに比べれば、その威力は雲泥の差ほどある。ヘンリーが二本の剣を受け取り、長い方の剣をリュカに渡した。
「それと、お金代わりにこれを」
そう言いながらデールは真紅のマントを留めていたブローチを一つ、ヘンリーに渡した。ブローチの宝石の輝きは本物で、町で売ることができれば破格の値段がつけられるような代物だ。
「こんなの、身に着けられるようなこと、僕は何もしてないからさ」
自嘲気味に言うデールの姿を見て、ヘンリーはふとラインハットの城下町にいた母子の姿を思い出した。一日食うに困るような生活を強いられている母子がいる国の王が、このような自信の欠片もないような若者であることに、ヘンリーは我が弟ながら怒りを覚える。
「お前は国王なんだぞ。もっとしっかり国王らしくしろ」
予想もしていなかったヘンリーの厳しい声に、デールは驚いたように兄を見た。
「だって僕は、国王になんかなるはずじゃなかった。本当だったら兄さんが……」
「そんなこと言ったってどうしようもないだろ。今はお前がこの国の王なんだ。王が自分のことで悩むなんて姿、見せるなよ」
十年以上も会っていなかったとは思えないほど、ヘンリーとデールの会話に不自然さはなかった。そんな二人のやり取りを聞いていて、リュカは初めてヘンリーに羨望の気持ちを抱いた。これが血のつながりというものなのだろうかと、不思議なものを見る気分だった。親子の関係とは違う、兄弟という横の関係があるヘンリーはやはり、自分とは根本的に何か違うのだと感じた。
その後速やかに、リュカとヘンリーは王室を退室した。兄弟の感動の場面は短く、味わっている時間はないのだと言わんばかりに、ヘンリーが階段を下りる速度に迷いはなかった。今、目の前にいる弟に長々と話しかけるのではなく、彼を本当の意味で救うには次の行動を移さなくてはならないと、彼の記憶の中にある書庫へと来た道を戻って行った。
厨房にまで戻り、リュカとヘンリーはそれぞれ人の目を盗み見ながらいくつか手頃な果物を懐に隠すようにして、素知らぬ顔をしてそのまま厨房を出た。扉の外で、マントの包みの中にリンゴやブドウやイチゴをごっそり溜めてきたリュカを見て、ヘンリーは呆れた顔で溜め息をついた。
「お前がそういうことを平気でする奴だとは知らなかったな」
「だってこの果物って、偽物の太后のところに運ばれるものなんでしょ。僕、悪いことなんてしてないよ」
「なるほどな、そういうことか。確かに悪い事じゃないな」
二人は中庭の一角でそれらを一気に食べ、空腹を満たすというよりも、喉の渇きを潤し、その場で一息ついた。中庭には相変わらず魔物の声が不気味に聞こえる。しかし家の番犬よりもよっぽど城を守る意識には欠け、二人の人間を襲って来る様子もない。そんな大人しい魔物の雰囲気に、リュカは手にしていたリンゴの欠片を試すような気分で魔物の気配のする方向へ投げてみた。草むらの中で、魔物はぎゃあぎゃあと騒ぎながら、リンゴを食べているようだ。思わず笑顔になったリュカは、そのまま魔物のいるところまで歩いて行こうと足を踏み出したところ、後ろから髪をむんずと引っ張られた。
「お前の興味ってのは底なしか。今は他にやることがあるんだ。魔物と戯れるのは後にしてくれ」
「ごめんごめん、つい」
「普通の人間だったら、“つい”そんなことはしないだろうけどな。行くぞ」
ヘンリーは既に城の廊下に通じる扉を開けていた。しかし何故か彼は扉の中に入ろうとしない。城の廊下にしては暗いようだが、何も見えないほど暗いわけではない。
「どうしたの」
「いや、ここはちょっとな、あんまり好きじゃない場所なんだ」
先に行けと顎をしゃくるヘンリーに怪訝な顔つきをしながらも、リュカは先に扉をくぐった。入ったところは城の廊下とは違う、ちょっとした広間のようなところだった。しかし普段誰かが使っている様子もなく、中庭に面しているにも関わらず、明かりに乏しい。一体何に使われているところなのだろうとリュカは辺りをぐるりと見渡した。扉を入って正面と、右手奥に同じような扉があった。扉の正面にはラインハットの紋章が彫り込まれ、その扉が特別な物であることが分かる。そして右手奥にあるその扉を見て、リュカは得体の知れない悪寒が背中に走るのを感じた。
「気付いたか」
「あの扉、見たことがある」
「思い出さないのならそれでいい。俺たちが今向かうのは、こっちの扉だ」
ヘンリーは既に正面の扉の鍵穴に鍵を差し込んでいた。デールより譲り受けた鍵で、普段施錠されている扉を開放する。城の人間、しかも王族に近い人間しか入れない書庫に、リュカはすぐに興味を移した。薄暗い中に見える右手奥の扉を見ていても、決して良いことは思い出さないだろうという予感がリュカにはあった。
扉の中の部屋は、書庫と倉庫を兼ねていた。埃っぽい空気は倉庫独特のもので、鼻をつんと突くような臭いは書庫特有のものだ。部屋にはテーブルと椅子が置かれており、時間さえあればこの場所でデールが読書をしていることが窺えた。
「懐かしいな」
「ヘンリーもこの部屋で本を読んだりしてたの?」
「本を読んでる間は怒られなかったからな。それに、本を読んでれば、何も考えなくて済んだんだ」
部屋はそれほど広くはないが、そこに収められている本は無数にある。しばらく眺めていると、内容によって区分けがされていることがリュカにも分かった。政治のこと、経済のこと、地理のこと、動植物のこと、哲学や思想など、本の表紙を見ただけで眠ってしまいそうな本も置いてある。一国の王ともなれば、ここにある本を全て読むのだろうかと、リュカは考えただけで気が遠くなりそうだった。
「この中にあるんだよね、鏡のことが書いてある本。どうやって探すの?」
「片端から……なんてやってたら何日かかるか分からないな。内容としては、多分、伝記とか伝説とか、その類だろ」
「じゃあこの政治とか経済とかは飛ばしていいね。こんなの、そもそも僕には読めないけど」
「ここら辺で絞ってみるか」
ヘンリーはいくつも立ち並ぶ本棚の中から一つだけに絞り込み、その背表紙をじっと見つめ始めた。伝説に触れそうなものを選び、一冊二冊と手に取って行く。本棚の上から見始めたヘンリーと対になるように、リュカは下の段の本を調べて行った。二人で両手に抱えられるほどの本の束を、テーブルの上にどさりと置いた。
「この中にあるといいね」
「一つくらいは載っててくれよ」
書庫の中が静まり返り、二人の読書の時間が始まった。国の学者が編纂したような書物は、びっしりと文字が刻まれており、遊びのない文体にリュカは即座に眠りそうになってしまう。世界の伝説について書いてある書物を見つけたリュカは、今の目的を忘れて、勇者についての話がどこかにないかと目を凝らして探しだした。
リュカが寄り道ばかりしている横で、ヘンリーは鏡という言葉だけを探し続け、頁をパラパラと素早く捲って行った。鏡のような挿絵のある本を見つけ、じっくりと内容を読んでみたものの、伝説のものではなく、この本の著者が普段使いしていたただの鏡だったようだ。
伝記の中には、日記形式のものもあった。他の本とは違う、一冊のノートのような冊子には、日付とその日の行動が簡単に書かれている。どのような目的で作られたのかは分からないが、日記にははっきりと鏡について書かれている個所があった。
『○月×日。今日、この城の旅の扉より南の地に赴く。南の地には古き塔あり。真実の姿を映し出す鏡がまつられていると聞く。しかし塔の扉は我には開かれず。その鍵は修道僧が持てり』
「リュカ、あったぞ」
ヘンリーが日記をテーブルの上に滑らせると、リュカは身を乗り出してその内容を見た。かつてこの城にいた者がこのような日記を残したことには違いないが、詳しいことは書かれていない。あくまでも日記に過ぎず、鏡に関する記述はその程度に留まっていた。
ただ日記の記述の横に、簡単な地図のようなものが書かれている。地図にははっきりとラインハットと書かれた場所があり、その場所から南西に向かって一つの直線が引かれている。この日記を書いたのは学者か何かだったのだろう。付近の地図は頭の中に入っており、それを簡略化して手書きで描いたに違いなかった。町や村を表すような印はないが、当時はオラクルベリーの町もなかった時代だ。地図を見る限り、南西に引かれた直線の先は、オラクルベリーよりももっと南を指しているようだった。
「この城の旅の扉って、なんだろう」
「旅の扉で南の地に、っていうのも意味が分からないな。何なんだ、この線は」
「でも真実の姿を映し出すなんて、今の僕らのためにあるような鏡だね」
「デールのやつ、よくこんなの覚えてたな。ただの日記じゃないか」
「もしかしたら他にも鏡について書かれた本があるのかもね。でもその本を探すより、この旅の扉っていうのを探した方が早いかも」
「そうだな、城のどこかにあるって書いてあるからな」
ヘンリーはそう言いながら、既にその場所の見当をつけていた。この書庫兼倉庫には幼い頃にも何度か足を運んだことがある。この場所で本を読んでいれば、余計なことは何も考えずに時間が過ぎて行ったのも事実だ。だが、幼くやんちゃなヘンリーがただ本を読むだけの時間を過ごすはずもなかった。
この部屋には一見壁のように見える扉がある。それが扉だと気付いたのは、幼いヘンリーには届かない位置に鍵穴があったからだった。まるで城の秘密を知った気になったヘンリーはその時、椅子を動かしてその上に立ち、鍵穴を覗こうとした。しかしあと少し背が足りず、隣にあるであろう秘密の部屋を覗くことはできなかった。
ヘンリーはテーブルの上に、先ほどデールから譲り受けた鍵を置いた。鍵は二種類ついており、この部屋に入る時に、その内の一つを使用した。デールは恐らく、隣の部屋の存在には気づいていないのだろう。ラインハットの鍵が二種類あることにも、特に違和感を感じないまま、この書庫にだけ日々入っていたに違いなかった。
「旅の扉は、ここにあるんだ」
ヘンリーの言葉にリュカは首を傾げた。テーブルの上に置いたラインハットの鍵を手に、ヘンリーは書庫の壁の前に立った。幼い頃には届かなかった高い位置にある鍵穴に、今では悠に手が届く。まだ使用していない方の鍵を差し込むと、重々しい音と共に鍵が開いた。
「そこが、旅の扉?」
「多分な」
まるで大理石の壁に見える木製の扉をゆっくりと押しあけた。扉の向こうから、何やら自然の光とは異なる明かりが漏れてくる。青白いその明かりは、ずっと封印されていたその部屋に長い間閉じ込められていたようだ。
部屋に入った二人は、窓も何もない閉鎖された部屋の中に、青白い明かりが満ちていることにまず驚いた。水が流れるような、風がそよぐような、はたまた虫の羽音のような、色々な音が混ざり合った音が部屋に響いている。決して耳障りな音ではないが、部屋に満ちる青白い光とその音とで、二人は何やら息苦しさを感じていた。
「この光、真ん中から出てるみたいだね」
「いかにもな台座がある。あれだな」
部屋の中央に三段ほどの石段に囲まれた広い台座がある。二人の位置からは見えないが、その中央から揺れるような青白い光が部屋中を満たしている。
二人は石段を上った。青白い光の源に目をやると、そこには渦を巻くような模様をした青と白の光が、独りでにぐるぐると動いていた。ずっと見ていると気分が悪くなるようなその動きに、二人ともたまらず目を逸らしてしまう。
「これが旅の扉ってやつなのか。ここから南の地に行けるって……」
「飛び込めばいいのかな」
「……本気か、お前」
「だって、それ以外に考えられないよ。あの直線は、『ここに飛び込んだらあの場所まで連れて行ってくれる』って意味に違いないよ」
そう言いながら再び旅の扉を見つめるリュカだが、やはりじっとは見ていられないようで、目を回す寸前で旅の扉から視線を外してしまう。ヘンリーなどは見つめる気にもなれないようで、ずっと天井を見上げている。
「それと、日記に書いてあったけど、塔への鍵は修道僧が持ってるんだよね。それってあの海辺の修道院のことを言ってるんじゃないの?」
リュカの閃きに、ヘンリーの動きが止まった。日記に描いてあった簡単な地図の上で示される直線は、南西に向かっており、その先はオラクルベリーよりも南、そして海辺の修道院よりも南に位置しているようにも見えた。
「海辺の修道院か……」
「修道院長様から何か話が聞けるかも知れない。とりあえずここに飛び込んでみよう」
そう言いながらリュカは意気込んで再び旅の扉を見下ろすが、すぐに目を回し、足元がふらふらしてしまう。見ていたら一生飛び込めないと、リュカは目を瞑った。
「じゃあ、お先に」
目を瞑ったまま、リュカが台座の上を飛んだのを、ヘンリーは信じられない思いで見た。渦の中心に吸い込まれて行ったリュカの姿は、あっという間に見えなくなってしまった。
「もう行くしかなくなったじゃねぇか。あいつ、どんだけ考えなしなんだよ」
何も正体のわからないものに足を突っ込むのは、心臓が引っこ抜かれるような恐怖感が身体を包む。躊躇すればするほど、恐怖感は増すばかりだ。もしかしたらこの恐怖感を味わう前に、リュカはあえて旅の扉に飛び込んで行ったのかもしれない。
「とりあえず、死ななきゃいいや」
ヘンリーもリュカの真似をして目を瞑り、なるべく何も考えないまま、台座を蹴った。宙に飛んだのと、旅の扉に入ったのと、感覚の違いは良く分からなかった。しかし旅の扉の渦に巻き込まれるなり、重力は感じなくなり、代わりに身体がばらばらになりそうな四方八方への浮遊感が身を包む。
移動しているのか何なのか分からない感覚だが、しばらくすると、前にリュカの姿が見えた気がした。いかにも気分が悪いような顔をしているリュカを見て、ヘンリーは安心したように渦の中で笑った。