2017/11/24

母の偏る愛情が

 

この記事を書いている人 - WRITER -

水路の入り口は狭く、リュカは折れてしまった櫂を使って、筏を操作しようと試みた。水路の側面に、折れて棒きれ同然になってしまった櫂を当てて方向を変えようとする。しかし、櫂は空を切り、どんなに伸ばしても側面には届かなかった。
リュカは、てっきり水路が続いていると思っていた前方を眺めた。たった今入ってきた入り口から陽の光が差し込み、内部全体の様子を浮かび上がらせる。辺りはまるで池のような大きな水場が広がっていた。ラインハット城の周りを巡る水路のような水の流れはなく、ここでは静かに水が溜まっているだけだった。そんな動かない水の上に、筏が行き場を失ったように、その場で漂っている。
幸い、陽の光がこの広い空洞を照らしていた。リュカもヘンリーもただの水路だと思っていたところは、やけに華美な印象を持つ場所だった。筏をどうにか進め、入口から正面のところに筏をつけ、二人は広間と思われる場所に下りた。桟橋こそないが、筏を繋ぎとめておく杭が立てられている。舫い綱を杭に軽く巻きつけ、外からの灯りが届く範囲に二人は目を向ける。
「俺、この場所を知ってる気がする」
ヘンリーは辺りを見回しながら、昔の記憶を辿った。いつものようにイタズラをして、父王に見つかった後、この暗く、無機質な場所に連れてこられたような記憶が蘇ってきた。その時のイタズラが何だったのかは思い出せないが、父王の怒った顔つきを今でも思い出せるのだから、かなりひどいことをしたのだろう。
『ヘンリー、しばらくここで反省していなさい』
そう言って、この城の地下に一時的に閉じ込められた。初めは威勢よく大声を張り上げて反抗していたヘンリーだったが、外にいる父王からの反応は何もなかった。
父はイタズラが過ぎる息子に、ほんの仕置きのつもりで地下に閉じ込めたのだろう。しかしヘンリーにとっては、ついに父に見放されたとはっきりと感じた初めての時だった。
父が助けてくれないと感じると、子供ながらに自棄になり、ヘンリーは地下通路を一人歩き始めた。壁に火が灯り、目の前の通路を仄かに照らす。自分の足音だけが響くような静かな地下通路を、ヘンリーは当て所もなく彷徨った。
「そう言えばここは地下牢も兼ねてるんだっけ……だんだん思い出して来たぞ」
「道は覚えてる?」
「さすがにそれは覚えてないけど、城の避難通路みたいなものだから、それほど複雑じゃないはずだ」
「避難って、お城の人が外に出るための通路ってこと?」
「城が攻められたら、地下通路を使って逃げるようになってるんだ。どこの城でも大抵はあると思うぜ」
「ヘンリーが王子で良かったよ、こんなこと普通は知らないよね」
「俺が王子でクソガキだったから、こんなこと覚えてるんだけどな」
そんなことを言うヘンリーの表情は、自嘲したものではなく、からっとしたものだった。そんな彼の明るい表情を見て、リュカは安心したように微笑む。
城の、しかも王族の避難通路と言うだけあって、通路自体の造りは堅固なものだった。長年使われていないはずだが、さほど古びた様子もない。城の外壁などと違って、風雨に晒されることもないため、保存状態が良いのだろう。
地下通路には窓も何もないため、壁に等間隔で燭台が取り付けられている。水路の入り口からの光が差し込む範囲に、リュカは燭台を数か所見つけた。
「あれに火をつけて行けば良さそうだね」
「行こうぜ。すぐに城の中へ行けるはずだ」
ヘンリーはそう言うと、手近にあった燭台から蝋燭を一つ、手に取った。埃をかぶり、蝋燭自体がかなり古くなっているが、埃を取り去ってしまえば使えないこともなさそうだ。メラの呪文を唱え、集中して芯に火を移す。松明やランプ代りにと、ヘンリーは火のついた蝋燭を手にしたまま、通路に向かった。人の住む城内であれば、魔物に遭遇する心配もないと、何の恐れも抱かないままヘンリーは地下通路を進み始めた。その後ろで、リュカはこの城内に漂う異様な雰囲気に気付き、蝋燭の灯りの届かない暗がりにも目を配り、慎重に歩いて行く。
同じ暗がりとは言え、自然に造られた洞窟とは違い、歩く道も石で平坦に造られ、通路も真っ直ぐで、いかにも進みやすい通路だ。王族の避難用として造られた通路だけに、壁にはところどころ装飾まで施されている。緊急時に避難するために、一体この装飾が何の役に立つのかと、リュカは思わず首を傾げていた。
壁の燭台に、ヘンリーは火を移していく。しかし中には古びて使えないものもあり、ところどころの蝋燭に火を移すにとどまる。それでも、手持ちの蝋燭の火よりは視界が安定すると、彼は道を進みやすくするためにもなるべく火を灯して行った。
「なんだろう、何かの気配がするね」
リュカはいよいよ濃くなってきた何者かの気配に、神経を集中させた。前方はまだ暗闇に包まれている。しかしその暗がりの中に、何かが動く気配が確かにあった。
「地下牢も兼ねてるって言ったっけ」
「ああ、そのはずだ。誰かがいても、不思議じゃない」
落ちついて言うヘンリーに対し、リュカは明らかに人ではない何かの気配に、足を止めた。
「どうしたんだ、行こうぜ」
「魔物がいる」
「ここは城の中だぞ、いるわけないだろ」
ヘンリーが笑いながら言うと同時に、彼らが進む先の通路で、激しい光が走った。暗がりに突然生じた眩しい光に、リュカもヘンリーも思わず目を瞑る。異常を感じ、すぐに目を開けようとするが、目が眩み、思うように目が開かない。
しかしその間にも、何者かが近づいてくるのをリュカは感じた。それも単体ではない、ざわざわと動く空気がそれを何かの群れだと気付かせる。まだ視界ははっきりとしないが、明らかに魔物の群れが近づいてきていた。
「何だ、あれは。魔法使いか何かか」
ヘンリーの言う通り、二人を取り囲もうとしている群れは、いかにも魔法を得意とする者が身につけるローブを身に纏い、続きのフードを目深に被っている。二人が視力を回復している間に、その群れは完全に二人を取り囲んでしまった。
その姿に、リュカは一瞬、背筋に悪寒が走るのを抑えられなかった。だが、必死になってあの魔導師との違いを見つけ、心が凍りつくような記憶から逃れようとした。
リュカよりも背丈は低く、身につけているローブも紫色ではない。身体に装飾品などは身につけず、黄色いローブだけを身にまとう姿に思ったよりも威圧感を感じない。しかしローブの袖から伸びる腕が真っ青で、それだけがかつて父を殺めた魔導師と類するものだった。
「お出迎えにしちゃ、雰囲気が物騒だな」
ヘンリーにはまだ冗談を言う気持ちのゆとりがあるようだ。目の前にいる群れが魔物だということに気付いていないわけはない。その証拠に、すぐに呪文を唱え始めた。
地下通路で爆発が起こり、魔導師の群れはそれぞれ吹っ飛ばされた。しかしかれらはすぐに起き上がり、再び二人を取り囲む。
リュカの後ろにいた魔導師が、リュカの背中に向けて手を向ける。その手から何かが発動されることはなかったが、ただリュカの身体が一瞬よろめいた。眉をしかめるリュカを見て、ヘンリーが何事かと声をかけた。
「どうかしたのか」
「いや、何でもないと思うけど、何となく気持ち悪かったような」
「六人も魔導師を相手にしてりゃ、気持ちも悪くなるかもな」
「これだけ数がいると、呪文で倒すのが良いね」
そう言って、リュカも真空呪文バギマを唱えようと、呪文の言葉を呟き始めた。そしていざ発動するという段になって、口が思うように動かなくなるのを感じた。ほとんど完成していた呪文が不発に終わり、リュカの身体から魔力だけが空しく消えて行った。
「おい、何だよ、そのフェイント」
「違うんだ、呪文が唱えられないんだよ」
自分の両手を見ながら首を傾げるリュカは、再び呪文を唱えようと、両手を前に突き出す。しかし今度は呪文を唱える前から、口が重く感じ、呪文を唱え終えることができない。
途中で呪文の言葉を止めてしまうリュカを見て、ヘンリーが苛立ったように言う。
「ふざけんのも大概にしろ」
「ふざけてなんかないよ。これって、呪文を封じ込められたのかな」
目の前の魔導師が、リュカもヘンリーも聞いたことのない呪文を唱え出した。耳障りな声が通路内に響く。しかし呪文を詠唱する魔導師の手には、呪文の効果らしきものが目に見えない。何も発動していないように見える青い手を差し出し、魔導師はそれで呪文を唱え終えたようだった。
それと同時に、ヘンリーの身体がぐらりと揺れた。何か飲みたくないものを飲みこんだような、歪んだ表情を見せたが、特に傷を負ったりはしていない。
「それだよ、ヘンリー。呪文が使えなくなってない?」
「何バカなこと言ってんだ。んなわけないだろ」
ヘンリーはリュカの言うことなど意に介さず、すかさずイオの呪文を唱えようと構えた。大分慣れてきたこの呪文は、詠唱時間も短くなってきている。しかし、さきほどのリュカと同じように、呪文の最後の言葉を言う段になって、急に口が重くなってしまった。尻切れトンボのようなもごもごとした言葉を床に落とし、呪文を最後まで唱えられない。
「ほら、僕の言った通りでしょ」
「胸を張ってる場合か。呪文を唱えられないとなると……リュカ、お前、回復呪文も使えないってことか」
「あ、そうか。それはマズイなぁ」
言葉こそのんびりしているが、リュカは本気で危機を感じていた。相手は魔導師だ。どんな呪文を唱えてくるのか分からない。下手な傷を負い、その場で治せないとなると、それだけで致命傷になる恐れがある。
「リュカ、叩いて叩いて叩きまくれ」
「そうするしかないね」
使えない呪文に固執していても時間の無駄だと、リュカは呪文で倒すことはすぐに諦めて、檜の棒を両手で構えた。ヘンリーも右手にナイフ、左手には明かり代わりの蝋燭を持っている。
ニタニタと笑う魔導師が、得意気に呪文を唱えてくる。揃いも揃って唱える呪文は閃光呪文ギラだった。一斉に唱えられたギラの呪文で、通路の先の先まで見通せるほどの明るさになる。必死になって呪文から逃げようとする二人だが、狭い通路では逃げるのにも限界があった。
しかし狭い通路なので、六体いる魔導師たちも逃げ場がないのは同じ条件だ。リュカは向かって来る炎をどうにか飛び越えて、魔導師の背後に回り込んだ。リュカに回りこまれた魔導師は、目の前にいるヘンリーと背後にいるリュカをキョロキョロと落ちつきなく見ている。集中力を失った魔導師の頭に、リュカは檜の棒を思い切り振り下ろした。鈍い音と共に、一体の魔導師がその場で崩れ落ちる。
二人が魔導師二体を挟み打ちしているのと同時に、ヘンリーはまだ魔導師の群れから抜け出せずにいる。魔導師の手に魔力が集まったかと思うと、すかさず炎が放たれる。方向を定めて避けるヘンリーだが、服の裾に炎が移り、燃えかけたのを何とか消し止める、と言った具合に防戦一方だ。
「ヘンリー、向こう側に行って」
「分かってるよ。できたらやってるって」
リュカの意図は分かっていた。魔導師たちに取り囲まれた状況から、逆に魔導師たちを挟み打ちする格好に持って行きたいのだ。
また炎が放たれた。ヘンリーは左手に持っていた蝋燭を、その炎の中を通して、魔導師目がけて投げつけた。自ら放った炎の中から現れた火の塊に驚く暇もなく、魔導師の黄色いローブに蝋燭の火が燃え移る。ギラの熱で一気に解けた蝋が、火の勢いを強くし、一体の魔導師を火に包もうとした。混乱した魔導師はそのまま通路を走って、どこかへ逃げ去ってしまった。
呪文の使えない二人は、魔導師一体ずつに的を絞りこんだ。リュカが檜の棒で殴ったり払ったりすれば、追い打ちをかけるようにヘンリーがナイフで切りつけたり柄で殴りつける。その間、他の魔導師たちが攻撃を仕掛けてくるが、二人はどうにか死なない程度に、その攻撃を交わし続けた。
魔導師たちが床に伸びている。どうにか魔物を倒した二人だったが、互いに満身創痍だった。声をかけることもできず、ただ荒い息をついている。リュカに至っては、檜の棒を杖代わりに床につき、まるで老人のように腰を曲げている。
「そもそも、なんで城の地下に魔物がいるんだよ」
呟くように言うヘンリーに、リュカはただ頷いた。
「ここに魔物がいるってことは、もしかしたら城の中にもいるのかも」
「どうなってんだよ、ラインハットは。どこまで狂っちまったんだ」
吐き捨てるように言うヘンリーの声には、気落ちしている感じではなく、苛立ちが表れている。それは彼がこの国に絶望していない証拠でもあった。
「早く城の中に行かないと。デール君が心配だ」
リュカはそう言うと、自身の怪我を治し始めた。いつも通りリュカの手から癒しの光が浮かび、ベホイミの呪文の効果で全身の傷がみるみる回復していく。
「おい、呪文が使えるのか」
ヘンリーに言われるまで、リュカはそのことに気付かなかった。どうやら呪文を封じ込めた当事者である魔導師を倒したことで、呪文封じの呪文、マホトーンの効果がなくなっていたようだった。
「呪文を使えなくするなんて、嫌な呪文があるもんだね。でも僕たちが覚えれば、今度この魔導師に遭った時に先手を打てるよ。こういう呪文ってヘンリーの方が得意そうだよね。後で本で確認してみようよ」
「なあ、頼むからさ」
「どうしたの」
「早いとこ、俺の怪我を治してくれねぇかな。死にそうなんだけど」
「あ、ごめん」
力のなくなってきたヘンリーの声に慌てたリュカは、急いで彼の怪我を癒した。ようやく苦もなく身体が動かせるようになり、ヘンリーは満を持してリュカの頭を叩いた。
「怪我を治したのに殴るなんて。ひどいよ」
「死にそうな仲間を放って、色々と講釈垂れてる方がよっぽどひどいだろ」
床に倒れている魔導師たちをそうっと避けて、リュカとヘンリーは更に奥へ続く通路を進むべく、歩きだした。
進んだ先に、更に地下へ下りる階段を見つけた。しかし彼らが目指しているのは城の中だ。地下への階段ではなく、むしろ地上に出るための上に上がる階段を見つけたいところだ。
「でも他に道はなかったよね」
「一本道だったな」
「とにかく、行ってみるしかないか」
「もしかしたら、この下が地下牢なのかも知れない」
「地下牢……悪い人が閉じ込められてるのかな」
「悪くない奴まで閉じ込められてるんだろう、きっと」
ヘンリーの手には、途中で手に入れた蝋燭が再び握られていた。火に照らされる階段を、迷いなく下りて行く。現れる魔物を怖がるよりも、早く城の中へ行きたいと言う焦燥感の方が強いようだ。
「できたら、助けられるといいね、牢に捕まってる人」
「生きてたらな」
階段を下りて行くと、上の階と同じような通路が続いていた。壁には燭台がところどころ取り付けられ、ヘンリーは数か所の燭台に手持ちの蝋燭の火を移していく。通路を進むこと自体は苦ではない。しかし時折、通路内を眩い光が走る。二人は一体何事かとくらくらする目を凝らして見渡すが、辺りに魔物の姿はない。
「なんだろう、さっきから」
「何か変なのがいるのは間違いないな」
二人の前には姿を現さないが、二人の頭上にその魔物はいた。壁に這うようにして、無数の触手を垂らし、その一本一本がうごめいている。だがそれだけで、通路を進む二人の邪魔をしようとはしない。ただ大きな一つ目のその魔物が時折、体中から眩い光を放っていた。それは本来、敵と戦うための手段の一つだったが、長年この地下通路に棲み、敵らしい敵にも遭遇せずに生きてきたその魔物インスペクターにとっては、習慣の一つに過ぎないものと化していた。
インスペクターが放つ目の眩む光に照らされ、通路の先が一瞬、見通せることに気付いたリュカは、なるべく目を閉じないようにして歩き続けた。強い光に照らされた通路の先に、壁ではない何かが見える。何者かがいる気配もする。リュカは更に目を凝らして、焦点を定めた時、眩い光に照らされた人のような姿を見て、思わずあっと声を上げた。
「人がいる。あそこが地下牢なんじゃないかな」
「本当に人か?」
「多分ね。さっきの魔導師たちとは違うように見えたけど」
油断せず、警戒しながら進む二人の前に現れたのは、地下牢の鉄柵だった。通路を左に折れ、その先のずっと奥まで牢屋が続いているようだ。腐臭もひどく、牢に繋がれたまま死んでしまった人がいることを推測させた。
ヘンリーが手に持つ蝋燭を揺らしながら、辺りの景色を探る。その火の光に照らされ、何者かが動く気配を感じ、リュカはその方向に目を凝らす。
「ん? 誰か来たのか……?」
聞こえるか聞こえないかくらいの、か細い声が牢屋の奥から聞こえる。リュカはヘンリーの持つ蝋燭の光の中に、老人の姿が浮かび上がるのを見た。幽霊ではない。しっかりとそこに立ち、息をしている。
「おじいさん、今助けます」
リュカは迷わずそう言い、牢屋の鉄柵に両手をかけた。風雨に晒されず、風化しないとは言え、この城が建てられて以来ずっとこの地下牢は存在していたはずだ。鉄柵はいくらか古びて脆くなっているに違いないと、リュカは鉄柵を握りしめて力いっぱいそれを曲げようとした。しかし鉄柵はビクともしない。
「何年もここにいて、目も耳もすっかり悪くなったわい」
リュカの行動には気付いていないらしい。ただ何者かが目の前にいる、という気配だけを老人は感じ取っているようだ。それがたとえ魔物でも、老人は今と同じ反応を示しただろう。
何年もここにいるという老人の言葉に、リュカは奴隷として過ごした十余年のことを思い出さずにはいられなかった。身体を酷使されることはないかも知れないが、この牢屋から出してもらえる望みもなく、生きるのに最低限の食事を出されるだけで、生きている意味も見失う劣悪な環境にこの老人はいたのだ。
陽の光も差さない真っ暗な牢獄の中で、何年も生き続けていること自体が奇跡と言っても過言ではない。よほどの生命力や、何かしらの意思が働かないと、この環境下で生き続けることは困難だと誰もが思うに違いなかった。
リュカはもう一度鉄柵を握る手に力を込めた。老人が生き続ける以上の奇跡を起こす勢いで、渾身の力を込める。しかし鉄柵はそんな奇跡など認めないと言わんばかりに、リュカの力などものともしなかった。
一度鉄柵から離れ、リュカが呪文の構えを取った時、老人が再び口を開く。
「しかしこれだけは言うとくぞ」
ヘンリーが持つ蝋燭の火に、老人の顔が浮かび上がる。その目は閉じられ、何も見ていないが、全身から妙な気魄が感じられる。リュカとヘンリーは鉄柵に近づき、老人の言葉に耳を澄ませた。
「ヘンリー王子を亡き者にしたのは、元王妃、今の太后様じゃ!」
予想もしていなかった老人の言葉に、リュカもヘンリーも息を呑んだ。とても目の前の、今にも死んでしまいそうなほど弱々しい老人が発した声には思えなかった。目も耳も弱くなっているようだが、その身に溜めた思いは長年の間に蓄積され、老人の一部になってしまったようだ。
「なのに自分もヘンリー王子の行方知れずを悲しむふりをし、全てパパス殿の責任に! パパス殿が住んでいたサンタローズの村にまで攻め込んだんじゃ」
鉄柵を掴むリュカの手が、力なく落ちた。老人の言葉は真実だ。そうでなければ、この老人が牢屋に入れられることもなかっただろう。
ヘンリーは老人の顔をまじまじと見つめた。今のラインハットから消し去られた過去を知る老人を、ヘンリーは知っているかも知れないと思ったのだ。しかしその顔を見ても何も思い出せなかった。
老人はかつて、城の重鎮の一人だったのだろう。今の太后がヘンリーを攫わせ、尚且つそれを誘拐容疑としてパパスに被せたという内部事情を、城下町の人間や、一般の城勤めの人間が知るわけがない。パパスを敬称で呼んでいるのも、彼が城の重鎮であった証拠の一つだ。たとえ城の者がパパスのことを知っていたとしても、ヘンリー王子誘拐の罪を負うパパスを敬称で呼ぶことなどありえない。老人には、パパスがかつてのラインハット王と交流があった者として、敬う気持ちがあるということだ。
老人の言葉の前に、リュカは両拳を固め、ヘンリーは脱力したように俯いていた。
「あんな性悪な女は見たことがない。今に天罰をくらうぞ!」
どこからそんな声が出るのかと思うほどの大声で、老人の叫びが牢獄の通路に響いた。だがその叫びを聞く者は、目の前にいる若者二人の他には誰もいない。ここでは誰が何を叫ぼうとも、地上に届くことはない。かつては罪人を閉じ込めておくための牢屋だったが、今ではラインハットに都合の悪い者を閉じ込めておくための場所になっている。
老人は思いを全てぶちまけ、力を使い果たしたのか、その場に力なく座りこんだ。鉄柵に骨のような身体を打ったようだが、その痛みも感じていないらしい。リュカは思い出したように、再び鉄柵を握って力を込めたが、ヘンリーがそれを止めた。
「今の俺らがこのじいさんを助けられるとは思わない」
「でもこのまま放っておけないよ。だって、何の罪もない人でしょ、どうにかしないと」
「じいさん連れて城まで行って、城の中でおんなじことを叫んだら、きっとその場で殺されるぞ」
「じゃあどうしたらいいんだよ。このまま放っておけって? もうイヤなんだよ、そういうの。あの山の上で懲り懲りしてるんだ」
リュカに言われるまでもなく、ヘンリーも同じことを考えていた。あの大神殿建造の地、自分らと同じく奴隷として働かされていた人々を見捨てた意識はなかったが、今となっては自分たちだけで助かったことが罪のように思う瞬間がある。それが今だった。
「今は無理だけど、後で絶対に助ける。今の俺らじゃ何も力がないんだ。助けようと思ったって、かえってじいさんを死なせてしまうかもしれない」
ヘンリーに言われなくても、リュカにもそれは分かっていた。しかし目の前の今にも死んでしまいそうな老人を、このまま見捨てて先へ進むことに、気持ちの整理がつかないのだ。
「俺が何とかする。だから、先に進もう」
ヘンリーは静かにそう言うと、鉄柵に寄りかかるように座る老人の前にしゃがみこんだ。何事かを呟いたようだが、その言葉はリュカにも老人にも届いてはいない。立ち上がると、ヘンリーは手にした蝋燭で通路を照らしながら、先を進み始めた。リュカは泣きたい気持ちで老人の前を離れ、離れて行く火の灯りに追いつこうと足を速めた。
無言で歩く二人の足音だけが通路に響く。二人が歩く両側には多くの独房が並んでいるが、それのどこからも人の声は聞こえない。彼らは力なく地面に横たわっているか、ものの気配に鈍感になっているか、若しくは既にこの世を去っているか。それだけに、先ほどの老人の思いの強さが一層感じられた。
「デールの母だし、信じたくはなかったが……」
ヘンリーの呟くそんな言葉が、リュカには信じられなかった。ヘンリーは自分を貶め、殺そうとした女を、まだどこかで信じているのかと、リュカは怒りさえ感じた。
「ヘンリー、君は本当に城に行く勇気はある?」
「どういう意味だ」
明らかに怒りを含んだリュカの声に、ヘンリーが怪訝な目を向ける。
「デール君には罪はないよ。だけど今の太后には罪を償ってもらわなきゃいけない。とんでもない罪を犯したんだから」
「そうだな……」
「君に迷いがあるようだったら、僕一人で行くよ」
リュカの怒りと覚悟は本物だった。父を殺したのは、今でも忘れないあのゲマという魔導師だ。しかしそのきっかけを作ったと言ってもおかしくないことをしたのは、太后なのだ。いつでもリュカは、原因など辿って行けば結局は「生まれたから」ということになると、どこか自分を言い聞かせるように思い込んでいる。しかし太后がヘンリーを誘拐させ、パパスに罪を着せるという大罪を犯したことは紛れもない真実だ。
リュカはヘンリーが持つ蝋燭を奪い取るように手に取った。そして通路をひたひたと進み始める。ヘンリーはその後をついて行くしかできなかった。もう後戻りなどできない。何の罪もない弟のデールのその母を、牢屋に入れることは今は考えないようにした。そうでないと、ヘンリーの足はその場で止まってしまいそうだった。
ヘンリーが最も憎むべき相手であるのに、あの幼い弟の泣き顔が脳裏にちらつくと、彼は義理の母を本気で責める気持ちになれなかった。リュカが怒るのも無理はない。それに、彼が怒ってくれることで、ヘンリーの気持ちは少し救われていた。
長い牢屋の通路を抜けても、先にはそのまま長い通路が続く。二人は無言で、分かれ道もなく迷いようのない一本道をひたすら進む。途中、道が折れたり曲がったりするものの、石造りの道は整然としており、暗さだけを除けば歩くのには困らない道だ。
何度か道を折れた先に、地下通路では見かけなかった明かりを前方に見た。か細い明かりではあるものの、リュカとヘンリーには十分な明るさだ。しかし同時に、そこに何者かがいるという知らせでもある。もしかしたらこの牢屋を監視する者がいるのかもしれない。用心のためにと、リュカは手に持っている蝋燭の火を吹き消した。
明かりに近づくに連れ、何ものかの気配が濃くなってきた。しかしそれは、魔物ではない。この地下通路に潜む魔物であれば、光を必要とはしないだろう。そして牢屋に入れられている人たちとも違う雰囲気がある。明かりが与えられていること自体、特別な待遇を受けているということだ。
通路を右に折れ、回りこんだところにその牢屋はあった。他の牢屋と同じような鉄柵の間から、明かりが漏れている。リュカとヘンリーは気配を消し息を殺し、牢屋の中を覗き見た。
明かりに浮かび上がるのは、女の姿だった。二人が想像していたような力ない囚人の姿ではなく、いつ牢屋の中に運び込まれたのか、テーブルと椅子、ベッドまであり、椅子に姿勢よく座っている。まるで普通に暮らしている人のようにさえ見えた。
あまりにも予想と違う囚人の姿に、リュカもヘンリーも呆気に取られ、身を隠すことに油断した。そんな二人の姿を目ざとく見つけた女は、しっかりとした足取りで鉄柵に近づいてきた。表情は、牢屋に似つかわしくない笑顔だ。やせ細り、着るものも擦り切れ、ぼろついているものの、それでも先ほどの老人に比べれば、生きることに余裕を見せている。
「おお! よくぞ来てくれた!」
高い声にも意外な張りがある。しかしその声に、ヘンリーの身体が震えた。
「わらわはこの国の太后じゃ! 早くわらわをここから出してたもれ!」
女の甲高い声が響く。鉄柵にしがみつくように寄る女を、リュカは驚きの目で見た直後、その目を鋭くした。ヘンリーの不幸の元凶とも言える彼女を、リュカは穏やかな心で見られなかった。実の子ではないということが何だと言うのか。彼女が母として二人の息子を見ることができれば、様々な悲劇は起きなかった。
彼女をこの場で糾弾したい気持ちに駆られるが、何から言えばいいのか、リュカには分からなかった。そんなリュカの無表情な顔を見て何を思ったか、太后を名乗る女は疑わしい目を向けてくる。
「どうした? わらわが太后だと信じられぬと申すか?」
彼女のその言葉にも、リュカはどう返事をして良いか分からなかった。彼女が太后でなければ良いと、それだけは心のどこかで思っていた。その後ろで、ヘンリーはただじっと牢屋の中にいる女を見つめている。ヘンリーの表情は、リュカ以上に無表情だ。
「ええい、歯痒い! 確かに十年前、ヘンリーを攫わせ、亡き者にさせたのはわらわじゃ。しかしそれも我が息子、デールを王にさせたかった哀れな親心から……」
他の誰でもない、太后でなければできない告白だった。
「今では本当に悪かったと改心しておる。だからお願いじゃ。わらわをここから……」
一気に思いの丈を述べた彼女は、鉄柵にしがみついたまま、その場に崩れ落ちた。よく見れば、かつては煌びやかであっただろうドレスを身にまとっている。汚れ、擦り切れたそのドレスを身にまとうかつての太后を見下ろし、リュカは彼女の小さな身体が震えていることに気付いた。
太后は泣いていた。派手で、堂々としていて、むしろ威圧的で、だが息子のデールを見つめる目だけは優しかった、ヘンリーの義理の母。昔の王妃としての威厳とも呼べる態度は見る影もなく、小さく背を丸めて、声を押し殺すように泣いていた。
リュカは鉄柵を強く握りしめた。顔を伏せ、泣き顔を見せまいとする太后の小さな姿に、彼女を糾弾する強い言葉が上手く出てこない。そんなリュカの隣に、ヘンリーが並んだ。鉄柵を握り、地べたに座り込む太后に合わせるよう、しゃがみ込んだ。
「どうしてあんたがここにいるんだ」
間近に聞こえた男の声に、太后は小さく肩を震わせた。ゆっくりと顔を上げ、泣き顔のままヘンリーを見る。牢屋の奥で明かりが二つ、揺れている。その明かりに照らされたヘンリーの顔が、太后にはしっかりと見えているはずだった。
「なんで城の中でふんぞり返ってるはずのあんたが、こんな地下牢にいるんだ」
ヘンリーは感情をどこかに置き忘れてきたように、目の前の現実だけを見ていた。ここにいるはずのない太后が現実に目の前にいるとしたら、城の中には太后はいないはずだ。しかしアルカパの町で青年たちが「実権を握っているのは太后」だと話していたのを、リュカもヘンリーも覚えている。
「あんた、一体誰なんだよ」
「わらわは……わらわは、デールの母じゃ。あの子は今、どこにおるのかえ。こんな暗く狭いところにおるのではないか。もしそんなことになっておったら、早く助けてやらねば……」
太后は自ら「太后」と名乗らず、「デールの母」と名乗った。それだけでヘンリーは、目の前にいる女が紛れもない本物の太后だと確信した。権力を振りかざすことを忘れるほど余裕をなくし、息子を心配し、不安になり、再び泣き出す小さく哀れな女は、間違いなくデールの母親だった。
「泣いて許されると思わないでください」
リュカはヘンリーと違う現実を見ていた。友人を、感情の赴くままに追い詰め、孤立させ、家族であるはずなのに死なせようとまでした彼女を、リュカは許すことができなかった。彼女の過去の過ちは、いくら償っても償い切れないものだと、リュカは怒りに震える拳を鉄柵にぶつけた。激しいその音に、太后もヘンリーも心臓を打たれたように息を呑んだ。
「彼が許しても、僕はあなたを許しません」
聞いたこともないほどの暗く低い声に、ヘンリーはそれがリュカの声だとは思えなかった。声にこもる恨みや執念と言ったリュカの負の感情に、ヘンリーはむしろ救われる思いがした。リュカこれほどが怒り、憎しみを露わにするというのは、偏にヘンリーのことを大事に思っているからなのだ。大事な友人を貶め、傷つけた彼女を許さないというリュカの断固とした態度に、ヘンリーはかえって心が浄化される思いがした。
「……わらわは、どうすればいい。死んで罪を償うべきか」
「そんなに簡単に罪を償えるわけがないでしょう。生き続けて、生きている限り、罪を償い続けてください」
「生き続ける限り、罪を償う……」
「そうだ、これからも生き続けるんだ。そして、デールを助けてやれ。国を救ってやれ。それがあんたの義務だ」
「わらわが国を救う? こんなところにいるというのに、どうやって」
「すぐに助け出してやるさ。だからそれまで、気を確かにして待ってろよ」
それだけ言うと、ヘンリーは太后に背を向けた。そんな彼の後ろ姿を見ても、太后はまだ目の前にいる青年がヘンリー王子だとは気付かない。彼女の記憶の中では、ヘンリーもデールもまだ幼い時のままなのだ。
「行くぞ、リュカ」
「それでいいの?」
「いいんだ、今は」
言葉少なに歩きだすヘンリーの後を、リュカは腑に落ちない表情をしながら歩きだした。彼らの後ろではまだ太后のすすり泣く声が聞こえる。今はか弱く、やせ細った身体をしている太后だが、彼女はこれからも生き続けるだろう。リュカが生きる絶望を与え、ヘンリーが生きる希望を与えた。太后はその胸に絶望を抱えながらも、希望を見出そうとする逞しさを兼ね備えているはずだと、ヘンリーは継母の強さを信じた。
通路を折れると、再び道は暗闇に包まれた。ヘンリーが手に持つ蝋燭に火を点ける。ちろちろと揺れる火の明かりの中に、昇り階段があるのを彼らは見た。
昇った先にはまだ地下通路が続いている。しかしこの通路には何故か、壁の燭台に火が灯り、ランプ代わりにヘンリーが持つ蝋燭の明かりを必要としなかった。真っ直ぐに伸びる通路の先に、明かりに照らされる大きな昇り階段が見える。その景色が、幼い時にこの地下通路に閉じ込められた時の記憶と重なる。地下通路を彷徨い歩き、疲れ、この階段の下まで戻った時に力尽き、その場で眠ってしまったのだ。その後、気付いたら城の中の自室のベッドで寝かされていた。父である当時のラインハット王が自ら我が子を抱き上げ、城の中まで連れ帰ったのをヘンリーは知らない。幼い息子の頬に乾いた涙の跡があるのを見て、苦しげな表情で「すまない」と謝っていたことを、ヘンリーは知る由もなかった。
「あの階段の上が、城の中庭のはずだ」
「ヘンリーはあの人を助けるの?」
リュカが何を言っているのかはすぐに分かった。
「たとえあんなとんでもなく罪深い女でも、デールの実の母親なんだ」
「優しすぎるよ、君は」
「どうかな。かえってひどいことをしてるかも知れない。あっさり死なせてやった方が、あの人は生きて苦しまなくても済むかも知れねぇんだぜ」
歩きながら話すヘンリーはもう、階段の手前まで進んできていた。昇った先の天井は石造りではなく、取っ手のついた分厚い木の板がはめ込まれている。上へ跳ねあげて開けるものだが、上から重しでも乗せられていたら、扉は開かない。子供の頃はそれで諦めるしかなかったが、もし開かなければ、ヘンリーは呪文で扉を吹っ飛ばそうと考えていた。
階段を上り、取っ手に手をかける。力を込めて押し上げると、木の扉はほんの少し上がり、隙間から外の光が差し込んできた。
「ここは君の国だから、君の好きにしたらいいよ。僕はついていくだけだから」
「この城では俺はわがまま王子で通ってんだ。言われなくても好きにするよ」
外から差し込む明かりに、ヘンリーが歯を見せて笑うのが見えた。そんな彼の表情を見て、リュカはあのわがまま王子が十余年ぶりに戻ってきたのだと、今すぐに城中の人たちに教えてあげたい気持ちに駆られた。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© LIKE A WIND , 2014 All Rights Reserved.