2017/12/03

それぞれの記憶を頼りに

 

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北にそびえる山々の景色が、もう眼前にまで迫ってきている。峻嶮な山の頂には、もう夏が近づいているとは言え、ほんの少し白く雪が残っている。昨日、道を歩いている途中に遠くに見たイエティは、普段はこのような平地に下りてくることはなく、白く雪が残る山に住んでいるのかもしれない。
「うっかりふもとに下りてきたもんだから、バテてそうだったんだな」
「彼らにとってはこれくらいの温度でも暑いんだね。夏場だけあの毛むくじゃらが取れたりしないのかな。そうすれば少しは涼しいだろうに」
「あんまり見たくねぇなぁ、つるっとしてるイエティ」
「見た目なんて、すぐに慣れるよ、きっと」
他愛もない会話をするのはいつものことだが、そんな二人の会話にもう一人、律義な態度で話に加わってくる。
「リュカ殿の仰る通り、見た目など後でついてくるものだ。貴様は何も分かっていない」
「なんだと、このスライム」
「スライムではない、スライムナイトだ。それに私にはピエールという名もある。まだ覚えていないのか」
「おい、俺とリュカとでその態度の違いは何なんだ」
「人柄、というものであろう。自分を顧みたら自ずと分かるはずだが」
「スライムのお前に人柄なんてものが分かる……うわっ!」
ヘンリーの言葉を遮るようにして、パトリシアの背に乗っていたスラりんが怒ったような顔をしてヘンリーに飛び掛かってきた。真横から不意打ちを食らったヘンリーは、よろよろとよろめいたものの、倒れずに何とか踏みとどまる。
「ピー!」
「スラりんが怒ってるよ。スライムを馬鹿にするなって」
笑いながらリュカがそう言うのを、ヘンリーは面白くなさそうに口を曲げて聞いていた。
リュカ達は森を東に見ながら、北に向かって進んでいた。進む道は依然として荒れている。関所で完全に外との行き来を塞いでいるため、ラインハット領地内から出ることも、領地内に来ることもどちらもできない状況にある。ほとんど人の往来が絶えてしまったこの道が荒れるのは、自然の結果だ。
昨日、仲間になったスライムナイトのピエールが馬車の前を行くのを、リュカとヘンリーが後ろからついて行く。この土地で生きてきたピエールはラインハット城までの近道を知っており、リュカ達がラインハット城を目指していると聞くや、ピエールは自ら進んで道案内役を買って出た。
一方、かつてラインハット城に住んでいたヘンリーは、幼い頃に外に出たことも数回しかなく、それも供の者や王子を守る衛兵が傍についている状況だったため、実質城から出たことがないも同然だった。地図上でこそラインハット領地内の景色は見ていたが、実際に自分の足で歩くと、これほど時間と体力がいるものなのかと改めて驚いていた。奴隷生活がなければ、とっくにへたばっていただろう。
というのも、ラインハット城は城というだけあって、その土地の自然に守られていた。城までの道は続いているが、続く道の先に城の姿は見えない。道が曲がりくねり、視界は森の木々が占め、地図がなければ一体この道で正しいのかと不安になってしまうような道のりだ。
「父さんはこの道を知ってたってことなのかな」
幼い頃、ラインハット城までの道を迷った記憶もなく、リュカはただ早足で歩く父の後を追いかけるだけだった。父が道に迷った素振りを見せた記憶はない。
「道もうねってるが、それよりこの坂が堪えるな。お前、ガキの頃、よくへばんなかったな」
「多分、必死だったんだと思うよ。それにお城に行けるっていうのが楽しみだったし」
城に続く森の中の道は、時折急坂があり、そんな地形が城を敵から守っていた。馬車を通せるかが不安だったが、パトリシアの馬力は普通の馬と比べても桁違いのようで、彼女は難なく荷台を引っ張り上げて、リュカ達の手を借りることもなくひたひたと進んで行った。
森の中には既に西に傾いた日差しが差し込んでいた。青々と色づく木々の葉から差し込む陽の光は、無数になって森の中を照らす。当然、森の中にも魔物が潜んでいたが、そのうちの何体かは、先頭を歩くピエールの姿を見て安心した様子で住処に戻って行った。
「夜になる前には城下町に着いておきたいね」
リュカがそう言った直後、森の道が開けた。急に大きく開けたところに、今まで見えなかったのが不思議なくらいの、巨大なラインハット城が眼前に現れた。城の南側であるリュカ達の目の前には、城下町があり、人々の姿がちらほらと遠目にも見える。その光景を見て、リュカとヘンリーは思わずほっと息をついた。
「私たちはここで待っていましょう」
先頭を歩いていたピエールがそう申し出た。振り向くと、彼はまだ森の中から出ておらず、馬車もまだ森の暗がりの中に止めてある。「どうして?」とはリュカは聞けなかった。彼は魔物で、町の中に入ろうとしたならば、人間たちに攻撃されてしまう。
「そうだね。スラりんとパトリシアをよろしくね」
「分かりました。近くに川があるようですから、その辺りで休むこととします」
「スラりんと馬車を連れて、どっかに逃げるんじゃねぇぞ」
「そんなバカなことはしない。無駄な心配をするな」
まるで口調を変えるピエールに、ヘンリーは面白くなさそうに顔を歪める。そんなヘンリーの姿を見て、スラりんがパトリシアの背の上で楽しそうに声を上げた。
「何日か戻ってこないかもしれないけど、大丈夫?」
「私たちは魔物です。外が、人間で言うところの町みたいなものなのです」
「そっか。じゃあ悪い人に捕まらないように気をつけてね」
用心深く森から出ないでいるピエールにそう言うと、リュカはヘンリーと共にラインハット城下町に向かって歩き出した。



石畳で舗装された城下町の様子は、十余年前とさほど変わったようには見えなかった。石畳の道は、城下町の入り口から真っ直ぐに城へと延びている。城下町の道は規則正しく東西南北に走り、城下町を入って中ほどの東西に延びる大通りに商店が軒を連ねている。
十余年前、リュカはこの城下町を父に連れられ歩いた。その時の城下町に対する期待が影響しているのか、今のリュカの目に映るラインハット城下町には活気と言うものが見られない。町に足を踏み入れたらまず聞こえるはずの、人々の話し声が聞こえないのだ。道端で会話をする人の姿が見当たらず、たまに人の声が聞こえたと思えば、お店の人と客との必要なやり取りだったりする。耳鳴りがするほどに静かなラインハット城下町の様子に、リュカは以前きたところとは別の場所だと思ってしまったほどだ。
町の人にリュカが話しかけるべく近づこうとすると、町の人は何かに恐れるように、下を向いて歩きながらリュカから逃げてしまう。関所を止められているため、外からの人の出入りがなく、旅人の姿が珍しいのかもしれない。しかし町の人々の警戒するような鋭い視線に、リュカもつい話しかけるのを躊躇してしまうほどだった。
「まずは城へ行ってみようぜ」
「その方が良さそうだね」
「夜になったら入れなくなっちまうからな」
「どういうこと?」
「お前、知らなかったのか。ラインハット城は夜になると、城の堀にかかる橋を上げちまうんだ。城には入れなくなるんだよ」
ヘンリーの言葉に、リュカは幼い頃、ラインハット城へ入るのに橋を渡ったことを思い出した。大きな鎖とそれを巻き上げる巨大な滑車を見た記憶がある。当時からそれらは古びていて、お城の飾りの一部くらいにしか思っていなかった。
この静かな城下町に、突如、けたたましい金属の音が響き渡る。町に時を知らせるような鐘の音ではなく、城に渡る木造の橋を巻き上げる鎖の音だった。それほど広くはない城下町全体に響く鎖の音は、町を一層暗く沈めてしまうようだった。
音のする方向を見れば、城に入る唯一の道である橋がゆっくりと上がっていくところだった。人々の出入りを完全に拒むような不快な音と巨大な橋の上がって行く様子を見て、リュカもヘンリーも道の真ん中に立ち尽くした。
「今日はもう無理だな。仕方ない、諦めて明日また来ようぜ」
「ヘンリーがヘンリーだって言えば、お城に入れてくれるんじゃないの?」
まるで普通のことのように言うリュカを見て、ヘンリーは溜め息をついた。
「あのな、俺はこの国に殺されてるんだ。いないはずの俺が『戻ったぞ!』なんて言ったって、おかしな奴だってその場でとっ捕まるに決まってるだろ」
「でも関所のトムさんみたいに、知ってる人だったら入れてくれるかもよ」
リュカの言葉に、ヘンリーは城の方へと目を向けた。橋を上げている兵士の姿も、もう一人の門番の姿も、ヘンリーの知らない人物のように見えた。たとえ知っている人物がいたとしても、さすがに城の中へは入れてくれないだろうと、その固い雰囲気から感じる。
「そもそも昼間でも城に入れてくれるのか分からないが、今はとにかく目立つことはしない方がいいと思う」
「僕が小さい頃はお城に入れたけどね。父さんがあそこにいる門番の人にちょっと話をしたら、すぐに頭を下げて入れてくれたよ」
「それも妙な話だな。普通の旅人にうちの兵が頭を下げて道を通すなんて」
今ほどではないだろうが、当時からラインハットはさほど開けた城ではなかった。馴染みの商人や友好国の貴人などは城への出入りもできただろうが、普通の旅人や一般庶民は城を入ってすぐ右手にある教会にこそ入れたものの、それより奥へは入れなかったはずだ。当時でそれほどの警戒をしていた国なのだから、今では城に渡るあの橋を歩くだけでも呼び止められるかもしれない。
「トムに金ももらったことだし、とりあえず宿に行こうぜ。ま、宿泊客でいっぱいなんてこともないだろうから、急がなくても平気だろうけどな」
「この様子じゃ、僕たちの他に泊まっている人がいるのかどうかも怪しいね」
リュカは自然と小声で話しながら周りを見渡した。町の大通りを通り過ぎて来た二人だが、過ぎてみてから「あの通りがメインストリートだったんだ」と気付くほど、人通りが少なかった。ましてやリュカ達のような旅人の姿は一人も見当たらなかった。
「旅人ってだけで目立っちまうのか。いっそ町の人になり済ますのがいいのかね」
「でも僕たちのこの格好じゃ、それも無理だよ。服が破れてるし汚れてるし、焦げてるし」
「……町の人がおかしな目で俺たちのことを見るわけだ」
「とりあえずヘンリーはその髪を切った方がいいと思うよ」
リュカの言う通り、ヘンリーの髪は左右で長さが違っていた。魔物との戦闘で自ら髪をばさりと切り落としてしまったからだ。片方は肩口まで、片方は肩を越えた長さにまで伸びている。
「城に入ろうってんだからな、少しは身ぎれいにしておくか」
「トムさんにお金を借りたことだし、宿代をあまり気にしなくていいね」
「あいつには後でちゃんと借りを返さないとな」
具体的に何をどうするなどという考えが今のヘンリーにはないが、それでも関所を通し、持ち金を全て預けてくれた彼に、カエルではない何かをお返ししようと頭の隅で考えていた。
大通り沿いに、宿屋が立ち並ぶ一角があった。その中でも比較的高価な雰囲気の宿を選び、リュカ達は受付を済ませた。フロントに立つ旅人はリュカ達だけで、宿の中もひっそりと静かで、それほど宿泊客がいないことが雰囲気で分かる。
二階の部屋に通されたリュカとヘンリーは、部屋の中央にある大きめのテーブルに向かう。テーブルの上には花が活けられており、部屋の中に瑞々しい花の香りが漂っている。
しかし男二人がそんな香りに気付くこともなく、ただ彼らは水差しを探した。テーブルの上にはなく、部屋の奥に水場があるようだった。水差しは一つだけではなく、代えも用意されていた。
「ヘンリー、ここで服が洗えそうだよ」
リュカが水差しを手にしながら戻ってくると、奥に水場があることをヘンリーに知らせた。それを聞いてヘンリーは、ベッドの上に用意されている部屋着を見て、まだ西日が差している今のうちに服を洗ってしまおうと、さっさと水場に入って行ってしまった。水場には一通りのものが揃っていた。石鹸もタオルも上質な物が揃えられている。壁には鏡も取り付けられ、身だしなみを整えるには丁度良かった。
鏡の前でナイフを構え、ヘンリーは器用に自分の髪を切り始めた。身だしなみを整えようと、まずはアンバランスな髪をどうにかするべく、調整しながら切り揃えていく。
「昔のヘンリーみたい」
水場からさっぱりした様子で出てきたヘンリーを見て、リュカは思わずそう言った。綺麗に切り揃えられたわけではないが、肩口辺りで無造作にも整えられた髪型は、幼い頃のヘンリーを彷彿とさせた。
「俺も鏡の前でそう思ったよ」
水場で洗い終えた服を手に、部屋の上部を見回しながらヘンリーはそう答えた。
「ここから外に出られるよ。外に干したらいいんじゃない?」
リュカが指差す先に、外のテラスに出られる扉があった。部屋ごとにあるテラスは宿泊客のための憩いの場所としてあるようだ。
「やっぱ高い宿は違うな」
この宿の宿賃はオラクルベリーでもアルカパでも支払ったことのないような高額なものだった。それだけに部屋の設備が、彼らには不必要なものまで揃えられている。テーブルの上に活けられた花がその一つだ。
「でもお城での暮らしって、こんなものじゃないんでしょ」
テラスに洗った服を干すヘンリーの後ろから、開いた扉を通してリュカが彼にそう聞いてみた。部屋の中からもそうだが、テラスからはラインハット城を一望できる。ヘンリーは間もなく夕闇に包まれようとしているラインハット城を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「さあな、俺にはよく分からないよ」
生まれながらの王子は、何不自由ない城での生活が当たり前のものだ。城下町での人々の暮らしなど、当時は想像だにしたことがなかった。金がなければ宿に泊まることすらできないことも、幼くわがままなヘンリー王子の頭に過ったこともなかった。生活というものは用意されているもので、何もせずとも生きていけるのがヘンリーの「普通」だった。
「俺はさ、こうして城を出られて良かったって思ってる」
何不自由ない暮らしだったが、ヘンリーにとっては不自由そのものだった。常に監視の目が行き届き、何をするにしても、ただ用足しに行くだけでも、自分の周りから人の目が離れることはなかった。
「お前とパパスさんには……どう頑張っても償い切れないだろうけど」
「ヘンリーのせいじゃない。君は僕よりもよっぽど苦しんでる。もう自分を責めるのは止めなよ」
リュカの言葉はいつも真面目だ。心の底から思っている言葉だから、ヘンリーの心にも直接響く。
リュカの言う通り、過去を振り返っても何も変わりはしない。それは分かっていたことだが、ヘンリーはどうしてもそこから先に進めなかった。ラインハットへ向かおうと決めた時も、心底ではまだ過去を引きずり、実際にラインハット城を目にするまでは、心のどこかで「まだ引き返せるかもしれない」と怖気づいていた。
しかし今目の前には夕闇に包まれようとしているラインハット城がある。この城を外から見ることはほとんどなかった。城で暮らしていた時は、何度も城を出たいと思っていた。それが今では、本心で城に戻りたいと願っている。悪い噂を立てられている故郷の実情を、ヘンリーは城を目の前にして、何の迷いもなく、ただ知りたいと思った。
「俺は俺で前を向かないと、償いにはならないよな」
背を向けながら言うヘンリーの明るい声に、リュカはテラスへの扉の脇に立ちながら、ふっと笑みを見せた。
「そうだよ、ヘンリー。僕らは生きてるんだから、ちゃんと生きていかないとね」
リュカが口癖のように言っている「生きてるんだから」という意味に、ヘンリーはようやく正面から挑める気持ちになった。自身のやるべきことがはっきりと目の前に見えている。約七年間暮らしていた城の中の景色が、十余年経った今でもありありと思い出すことができる。まずは何としてでも、城の中に入って会うべき人物に会わないと、前に進もうにも進めない。その決意が、ラインハット城を目の前にして、完全に固まったのをヘンリー自身感じていた。
「お前もその汚い服、洗ってこいよ。明日にはあの城に入るんだから」
部屋の中に入ってきたヘンリーは、窓の近くに置かれているゆったりとしたソファに腰を下ろした。水場にはまだ十分過ぎるほどの水が用意されている。リュカはベッドの上に置かれていた部屋着を手にし、部屋の奥へと向かう。そんなリュカの後ろ姿を見ながら、ヘンリーは短くなった自分の髪に手をやりながら呼びかける。
「髪も切ってきたらどうだ。これ、貸してやるから」
ヘンリーはそう言いながらテーブルの上に置いておいたナイフをリュカに差し出す。リュカは髪を結えていた紐を解きながら、その紐を手に取り、じっと見つめた。
「そう言えばお前、その紐を川で丁寧に洗ってたな」
「これ、僕のじゃないんだ」
リュカの手にあるそれは、よく見るとただの紐ではない。旅に出るようになってから使い出したそのリボンは、幼い頃にアルカパの町を離れる時、ビアンカが渡してくれたものだった。当時は女の子らしい模様も入った可愛らしいリボンだったが、今ではその模様も消え去り、擦り切れ、かなり古びたものになっている。黄色いリボンだったが、リュカの手に乗るそれは薄茶色に近い色をしていた。
「このリボンをつけておきたいから、僕はこのままでいいよ」
薄汚れたリボンを手にしながら微笑むリュカを見て、ヘンリーは目を逸らして気まずそうに言う。
「お前にそんな少女趣味があったなんてな。気付いてやれなくて悪かった」
「そういうのじゃないんだけど……」
「それにしても少し伸びすぎだ。本気で目覚められても困るから、少しは切ってこい」
「だから違うんだけど……まあ、いいや。じゃあちょっと切ってくる」
ヘンリーの差し出したナイフを受け取ると、リュカはそのまま水場に入って行った。髪を切るなどということが頭になかったリュカの髪は、既に腰に届くまでになっている。鏡に映った自分の姿を見て、リュカは「確かに長すぎるかも」と呟いた後、半分ほどの長さにばっさりと髪を切り落とした。すると、それだけで心の垢まで取れてしまったようなすっきりとした気持ちになった。
「ヘンリーがあんなにさっぱりした顔をしてたのは、こういうことだったのかな」
髪を大事に扱う少女のようなリュカの呟きは、幸い誰に聞かれることもなく、水場の中に響いただけだった。



翌朝、部屋に運ばれてきた豪勢な朝食を済ませると、リュカとヘンリーは早速城下町に向かった。昨夜のうちに洗って干しておいた旅装は、夜風に吹かれて乾き、二人は身ぎれいになった状態で城下町を歩いていた。
「これなら城にも入れてくれるよね」
「そもそも、入れるのかどうかだ。まずは向かってみるか」
宿屋を出て大通り沿いにしばらく歩くと、城へ続くもう一つのメインストリートに出た。城下町にいればどこからでも巨大なラインハット城を望むことができるが、城へ渡る橋は、このもう一つのメインストリートからでないと見ることができなかった。二人はまだ遠くに見える城の光景を目にし、その手前に橋が架かっていることを目で確かめた。城の入り口は既に開かれているようだ。
通りを歩く人の数は少ない。自然、旅装に身を包んだリュカとヘンリーの姿は目立つ。町の人々が遠慮がちにじろじろ見てくるのを、リュカは居心地悪そうに受け止めていた。
城へ続く道だと言うのに、華やかさは欠片もない。城にほど近い道の脇には色とりどりの花が咲いているが、その花もどこか物質的で、町の人も植えられている花に目を向ける余裕もないようだ。みな静かで、俯き、どうしようもない暗さを漂わせている。
橋を渡る直前に、国からの御触れを掲示する大きな立て札が立てられている。立て札自体、かなり古びており、昔からそこに立てられていたことが分かる。幼い頃に父とラインハットを訪れた時のことを思い出してみたが、リュカの記憶にはその立て札を見た記憶はなかった。そもそも、立て札に気付いていたとしても、文字が読めなかったため、当時のリュカには意味のないものだっただろう。
立て札には遠目からでも分かるほどの大きな文字で、こうかかれている。
『ラインハット王国に栄光あれ! すべては王国のために!』
堂々と書かれた大きな文字は、それだけで国民を畏怖しているようだった。その立て札を前に、リュカとヘンリーはいつの間にか立て札の文字を睨みつけていた。文字にも内容にも、自ずと怒りがこみ上げてくる。
「何が『王国のために』だ。ラインハットだけが発展したって、何にもならない」
「王国のためにって思うんだったら、ここにいる人たちを明るくしてあげてよ」
立て札そのものを破壊したい衝動にすら駆られたが、もう城が目前の位置にまで来ている。ここで下手に目立っても良いことはないと、二人は怒りを閉じ込めて前に歩きだした。
城の堀の近くまで足を進め、橋を渡るために石段を登ろうとした。その時、橋の下で子供の泣く声が聞こえ、リュカとヘンリーは同時に足を止める。上りかけていた石段を下り、何事かと橋の下を覗いてみると、陰になった場所に人影が見えた。向こうにも二人の人影が見えたのだろう。母親と見られる女性の影が泣き声を止めるように必死に子供をあやし始めた。
「あの、すみません、この子がちょっと転んでしまって……。ほら、いい子だから、泣かないの」
陽の当らない橋の下で、互いの顔も良く見えない状況だが、リュカとヘンリーにはその母子がやせ細り、薄汚れているのが分かった。この城下町で暮らしているとは言え、家はなく、この橋の下で死なない程度に生きている、と言った具合だ。
「安心してくれ、俺たちは兵士じゃない」
ヘンリーの一言に、女性が緊張から解かれるのを見た。二人の旅人をラインハット兵と勘違いしていたらしい。
「どうしたんですか、こんなところで」
リュカが覗きこむように問い掛けると、女性は言葉に詰まったように俯いてしまった。そんな母の代わりにと、子供が小さく呟く。
「おなかすいたよぅ……」
涙声の子供の声が、ヘンリーの胸に突き刺さる。陰になっていて互いの様子があまり見えないが、母親の隣に立つ子供は恐らく五、六歳ほどの歳だろう。やせ細り、手足が枝のように見える子供を見て、リュカもヘンリーもつい数か月前の己の境遇を思い出すように顔をしかめた。
「どうかしたんですか? ご主人はいないんですか?」
リュカがもう一度、窺うように女性に問い掛けた。ぼろ布を身にまとい、顔には全く生気が感じられない女性が、力なく言葉を落としていく。
「私の夫はかつてお城に勤めていたのですが、太后様に逆らったとのことで牢に……」
彼女の言葉に、リュカもヘンリーも言葉を失った。城勤めの人間であれば、それなりの身分の者だったはずだ。国に盾突くなどの行為に出れば、さすがに城勤めの人間でも仕事を解雇されることはあるかも知れない。しかし太后に逆らったことで、城を追い出されるわけではなく、牢に入れられるというのは、この国が異常だと言うことを知らしめている。
「太后に逆らったって、一体何をしたんだ」
「私にもわかりません。その話は噂で聞いただけなんです。会いに行こうにも、牢がどこにあるのかも分からないんです」
牢は城下町にあるわけではない。城のどこかにあるということを、ヘンリーも話でしか聞いたことがない。
そんなことを知らないリュカは、母子の窮乏しきった様子を見て居ても立ってもいられなくなり、ヘンリーに呼びかけるように話す。
「その牢、探そうよ。どこかにあるんでしょ。いるんだったら、会わないと」
生きているのなら会う望みはあると、リュカは城下町を歩き出そうとした。城に背を向け、足を踏み出したところで、女性の絶望した声がリュカの背中に届く。
「あれから八年にもなりますから、恐らく夫はもう……」
リュカの足が止まり、女性のすすり泣く声が橋の下に響いた。母の悲しみが伝わり、子供も隣で泣き始めてしまった。目の前の母子にどうすることもできないと、リュカもヘンリーも今の自分たちの無力さに、下を向くことしかできなかった。
だが、このままこの母子を放っておくこともできないと、ヘンリーは懐を探った。懐にはラインハット関所の門番であるトムから借りた金の残りがある。まだ宿代でしか使用していないため、ほとんど手つかずの状態だ。
「これ、やるよ」
ヘンリーは中身も確かめず、布に包まれた金をそのまま女性に渡そうと手を差し出した。泣き顔の女性は疑うような目を向けながら、じっと様子を窺っている。直接人に触れるのが、怖いのかもしれない。
そんな女性の様子を見て、ヘンリーは地面に布の包みを静かに置いた。女性は変わらず、疑いの眼差しをヘンリーに向けている。
「しばらくはそれで凌いでくれ」
警戒するようにゆっくりと近づき、女性は包みを恐る恐る開けた。中身を見た瞬間、卒倒しそうなほどの驚きで目を丸くし息を飲む。
「こんな大金……どうして」
ラインハット城の橋の下でひっそりと暮らす母子に、城下町の人間は気付いても手を差し伸べることがなかったのだろう。みな、明日は我が身というように、自らの身を守ることに必死なのだ。他人に手を差し伸べる大気な人間が、今のラインハットにはいない。
「俺たちにはもう、必要ない」
「そうだね、僕たちは僕たちで何とかなるから。困っている人たちで分けて使ってください」
目の前の母子以外にも、ラインハット城下町には生活に困窮しきった人々がどこかでひっそりと暮らしているはずだと、リュカも今の手持ちの金を惜しむ気にはなれなかった。金は必要としている人が使えばいい。ましてや小さな子供を抱えた母親が、この困窮した生活から抜け出すには、こうして唐突に金を手に入れる以外に手段がないように思えた。
橋の下は一日中日が差さず、そこにいるだけで気が滅入りそうな暗さだ。日向に出ればそれなりに暖かな風を感じる季節でも、リュカもヘンリーも寒気を感じるような冷たい風を肌に感じ、思わず風の吹いてくる方向をちらりと見遣った。
城の周りはぐるりと堀に囲まれており、正面の橋を通って堂々と入城する以外に、城の中に入る手段はない。堀を見下ろせば、その深さは人が三人縦に並んでも追いつかないほどだが、堀の中に流れる水の深さはそれほどではないように見える。安易に堀に飛び込んでしまえば、堀の底に身体を打ちつけるか、運良く助かったとしても、垂直に掘られた堀を上まで上るのは容易ではなさそうだ。
しかし風が吹いてくる方向を眺めた二人の目に映ったのは、堀ではなく、水路だった。騒がしい水の音と共に、水路から水が吐きだされてくる。水路の奥は暗くて全く見えないが、位置的に、どう考えてもその先は城の地下に繋がっているようだ。
「リュカ、行くぞ」
「えっ、飛び込むの? 僕、自信ないなぁ」
「俺もさすがにこの高さを落ちる勇気はない。この堀に下りる場所を探すんだ」
「ああ、それなら……あった、気がする」
リュカが考え込むように俯いて目を細めたのを見て、ヘンリーは首を傾げる。
「どうしてお前が知ってるんだ」
「分からないけど、何か、この場所を通った気がするんだ」
思い出そうとするリュカの顔つきが険しい。リュカが思い出すかも知れないとしばらく待ってみたヘンリーだったが、あまりにも辛そうな表情をしている彼を見て、その思考を止めさせた。
「とにかくこの堀の周りを回ってみようぜ。何かがあるかも知れない」
考えるより行動を、とヘンリーは先を歩き出した。二人の若者の不穏な会話を聞いていた女性は、子供を後ろに庇うようにしながら、リュカに話しかけた。
「あなたたちは一体誰なんですか。お城に忍び込もうとしてるの?」
怪訝な表情で見つめてくる女性に、リュカはただ笑って返す。
「違いますよ。お城に帰ろうとしてるんです」



橋の下から出ると、太陽の力は先ほどよりもずっと強まっていた。これから日は高くなり、抜けるような青空は、今のラインハットに起こっている出来事がまるで嘘のように清々しい。
リュカとヘンリーは一度堀から離れ、ラインハット城全体を眺め渡した。意外なところに城へ潜入する入口があるかも知れないと、遠目からくまなく城を見渡す。だがやはり、堀を飛び越えでもしない限り、城へ近づくことは不可能のようだった。
城を囲む堀の周りを、リュカとヘンリーは二手に分かれて調べ始めた。東側を歩いて行ったヘンリーが、城の側面の堀に階段を見つけたが、それは城側から下りるもので彼らがいる堀の外から使えるものではない。一方、西側を歩いて行ったリュカも堀へ下りる階段を見つけ、しかもそれは外から下りられるものだった。リュカは笑顔になって、階段の下の堀を覗きこんだが、そこには信じられない影があった。
堀の水の中には、普通の魚には見えない何か異様なものが泳いでいた。数こそそれほどいないようだが、生身の人間が堀に入れば、その異様なものは人間に襲いかかってきそうな不穏な雰囲気を醸し出している。
「やっぱり正面から入るしかないんじゃないかな」
城の正面に戻ってきた二人は、互いの意思を確認するようにそう言い合って頷いた。意を決してラインハット城の正面入り口に通じる橋へと向かう。石段をそろそろと上がり、だが他に手段がないのだと開き直って上まで上りきると、信じられないことに、門番の姿がなかった。
「拍子抜けだな。何やってんだ、門番は」
「でもおかげで助かった。今なら見つからないよ」
「見つからないったって、城に入らないことにはどうしようもない……」
二人が短い会話をしている内に、城の中から人の気配を感じた。リュカとヘンリーはそそくさと隠れるように、城壁にぴたりと身体を這わせる。ちょうど門番の交代時間だったのか、先ほど遠目に見ていた門番とは違う人物が現れた。門番は辺りを見渡すように一度その場でぐるりと回転して、周囲の異常を確認する。リュカもヘンリーも一瞬門番と目が合った気がしたが、彼らがいるのは城の入り口の脇で、今はちょうど日陰になっているところだった。どうやら門番の目には留まらなかったらしく、彼はそのまま橋の脇に立ち、城下町を見下ろすように南側を監視し始めた。
「今だ、行くぞ」
「城の中へ?」
「違う、こっちだ」
ヘンリーが指差す方向は、先ほど彼が調べに行った東側の方向だ。日向に出て、日差しと城壁の熱さに顔をしかめながら、二人は音を立てずに城壁伝いに歩いて行った。
東側に回りこむと、二人は同時に息をついた。草も伸び放題の城の周りには、幸い兵士の姿はない。今のラインハットに不用意に近づく人物などいないのだろう。兵士たちの身回りはここまでは及んでいないようだ。
ヘンリーが進んで行く後を追いかけるリュカは、徐々にその時の記憶が蘇ってくるのを感じた。この道をかつて歩いたわけではない。しかし今進む草に覆われた道を、リュカは知っている感覚に襲われる。
当時も今のような、夏を目前にした季節だった。ラインハット城内の壁がひんやりと冷たかったのを肌で覚えている。進む先には、堀に下りる階段があるのだろう。その階段の手前で、リュカは連れ去られるヘンリーの姿を見ていた。
咄嗟にリュカは、ヘンリーの手を掴んだ。唐突な馬鹿力に抑えつけられたヘンリーは、思わず短く大声を上げた。
「何するんだよ、リュカ!」
目の前にいるヘンリーは、意識もはっきりしていて、自分の足で地面に立っている。強靭な体つきをした男に小脇に抱えられ、ぐったりしているわけではない。リュカは自分で何をしたのかも分からず、しかしヘンリーの手を掴んだまま握りしめていた。
「いててて、離せよ。なんなんだよ、一体」
「そうか、君は覚えてないんだね」
「何の話だ」
「ううん、いい。行こう、今なら大丈夫だよね」
そう言って、リュカは彼の手を離した。ヘンリーの手首は赤くなり、彼はその手を抑えて擦った。
「僕たちも強くなったんだし」
「何言ってるんだ、リュカ」
訝しむような目を向けてくるヘンリーには応えないまま、リュカは城壁に沿って先を歩き出した。進んだ先に堀へ下りる階段を見つけ、二人は静かに下へ下りて行った。
堀の水に、小さな筏が一つ、浮かんでいた。筏は古びた舫いで杭に繋がれており、まるで何かを待つように、不気味なほど静かにそこにあった。
「ちょうど良すぎて気持ちが悪いな。まあ、気にせず使わせてもらうけど」
ヘンリーが舫い綱をぐるぐると解いていく横で、リュカはこっそりとヘンリーの様子を窺っていた。何か変わった様子はないかと見ていたが、ヘンリーはただ筏に乗ることに夢中で、他には何も見ておらず、何かを思い出すような素振りもない。
「おい、ぼけっとしてねぇで、行くぞ」
「二人で乗っても平気だよね、これ」
「意外に丈夫そうだぞ。大人が四、五人乗ったって平気なんじゃねぇの?」
「そうかも、そうだね」
リュカはそれ以上何も言わずに、素早く筏に乗りこんだ。堀を進むための木の櫂も用意されており、それを使ってヘンリーが筏を漕ぎだす。元々水の流れも計算されているのだろう。特に強い力を使うこともなく、初めだけ漕ぎだせば後は水の流れに沿って筏は進んだ。両脇の堀は高く、堀を覗きこむような者がいなければ、見つかる心配もない。城へ忍び込むには最適の方法と言えた。
「意外に無防備だったんだな、この城。こうして城へ入れるなんて」
櫂を持つ手を止めて、ヘンリーが明るい声を出す。筏は順調に水路の流れに沿って進んで行く。水路の角まで進むと、ヘンリーは櫂を堀の一角に突き当て、筏を器用に操作した。北から南に流れていた水が、今度は東から西へと方向を変える。流れに乗る筏は速さを増し、ラインハット城正面に通じる橋の下を目の前にして、容易に方向転換できないほどの速度になっていた。
「ヘンリー、まずいよ。スピードを下げないと、あそこに入れない」
「分かってる。お前も手伝え」
ヘンリーが櫂で水の下の地面を突くように、筏を止めようとする。何度も繰り返したが、筏の進む速度はさほど落ちない。ヘンリーの持つ櫂をリュカも両手でぐっと握り、地面を突くのではなく、リュカはそのまま櫂を地面に突き刺してしまった。水路の底に突き立った櫂が障害となり、筏が突然そこで止まり、リュカもヘンリーも筏の外に放り出されそうになった。
しかしリュカはまだ櫂を両手で掴んでいた。みしみし音を立てる櫂に力を込めて、リュカは筏の進む方向を強引に曲げた。全力を込めた瞬間、櫂は折れたが、筏は水路の流れから解放され、城の地下へ通じる暗がりの中へと引き込まれて行った。

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