2017/12/03

ラインハットの関所

 

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アルカパの町を出て二日目、二人は北側に山の景色を望みながらも、正面から水の気配が流れてくるのを感じた。まだ水の気配を漂わせる川に辿りつくには時間がかかりそうだが、サンタローズの村に立ち寄ることもなくそのまま進み続けてきた二人には、その川が間違いなく進む先にあることを知っている。
「本当にサンタローズに寄らなくて良かったのか」
ラインハットの関所に向かって歩き続ける二人は、途中サンタローズの村を横目に見つつも、立ち寄ることはしなかった。馬車が進む速度は一定で、草が茂る地を転がる車輪は騒がしい音も立てずに静かに進む。途中、何度となく魔物に遭遇したが、大分戦うコツを思い出したリュカと、戦うことに慣れてきたヘンリーとで、今のところは魔物を退けている。
「里ごころってやつがつくといけないと思ってさ」
本気とも冗談とも取れるリュカの言葉に、ヘンリーは困ったような笑顔を向けただけで、返事をしなかった。
リュカの足元では草むらからぴょんぴょんと姿を消したり現したりしている物体がいる。水色の半透明のスライムが、自らの足で進むのだという意気込みを見せたいようで、馬車の荷台には乗らずに懸命に地面を跳ねて進んでいる。何度もリュカが手を差し伸べたが、その度にスラりんはその手から逃れて、先頭に立って進んで行ってしまった。
「ピキー」
たまに後ろを振り向いて一声鳴くスラりんを見て、リュカは今やしっかりとした仲間意識を持っていた。スラりんの言葉こそ分からないが、恐らく魔物である自分が先頭に立って危険をいち早く察知し、リュカたちに伝える役目を負うことにしたのだと、その小さな姿で語っているように見えた。
だがスラりんの行動範囲はそもそもそれほど広くはなく、リュカたちの足で半日歩き続けるのに付いて行くのがやっとだった。今はまだ日が東の空から昇っている最中で、スラりんの調子も上り調子だが、午後になり、夕刻前くらいには恐らく体力が尽きてしまうだろうとリュカは予測している。
昨日、アルカパの町を出て、同じようにぴょんぴょんと跳ねて進んでいたスラりんだったが、そんな彼の元気の良い様子に安心していたのも束の間、昼過ぎくらいからペースが落ち始めた。そして西日が差す頃になって、草むらの中でぐったりしていたスラりんを、リュカが慌てて拾った。スライムの身体の素となる水を、大きな革袋の半分ほど与えると、スラりんは再び目を覚ましたが、その日はもう動ける状態にはなく、馬車の上で休んでもらうことにしたのだ。
「昨日のことがあったってのに、アイツは何にも反省してないな」
「でももうすぐ川に着くだろうから、そこで思う存分水浴びでもしてもらおう」
「俺たちも水浴びしてこうぜ。暑くなってきたから、汗もかいてるし」
「まずはラインハットの関所を越えないといけないね。その手前でいきなり水浴びなんてしたら、すぐに捕まるよね、多分」
「……そうだな、不審者もいいとこだ」
そんな話をしているうちに、二人の目の前にはラインハットの国旗がたなびく大きな建物が見えた。古びて苔の生える砦のような建物の向こう側には、一瞬海かと見紛うほどの大きな川が流れている。対岸の景色が霞むほど遠くにある。だがヘンリーの目にはラインハットの関所にたなびく国旗と、対岸の景色すらもしっかりと映っていた。霞む大地が故郷のラインハットだと思うと、既にラインハット城さえも見えるような気がして、ヘンリーはさらに目を凝らした。
馬車が進む音は静かだが、馬車を引く大きな白馬は嫌でも目立つ。関所の周りは道がいくらか舗装されており、石畳の道に馬車が踏み入れた時から、その音も周囲に響き渡るものになった。いくらかこそこそと関所に入ろうとしていたリュカもヘンリーも、この音を響かせては堂々と行くしかないと、足を止めずにそのままの勢いで関所に向かう。
「予定通り、行くぞ」
「ラインハットの兵士として雇ってください、ってことだね」
「そうだ。よそ者でも兵士としてなら受け入れてくれるみたいだからな」
「とにかくラインハットに入れないとどうしようもないからね、仕方ないか」
嘘をついて進むのはリュカにとっては不本意のようだったが、今のラインハットを相手にまともに話ができるとも想像できなかった。しかし兵として志願するにはあまりにも装備が軽いのも事実だ。リュカは檜の棒を持ち、ヘンリーも小さなナイフを一つ手にしているだけだ。
「俺たちは魔法使いと僧侶だ。何か特技を見せろって言われたら、呪文を唱えろ」
「うん。関所の人、どこか怪我してくれてるといいんだけどな」
関所周辺の石畳を、じりじりと日差しが照りつける。初夏に近い陽気になり、川上から吹いてくる風が心地よい。日差しに当てられた石畳が熱いと言った調子で、前を進んでいたスラりんがたまらず馬車の荷台に飛び込んだ。その慌てた後ろ姿を見て、リュカもヘンリーも少し緊張していた心が和むのを感じた。
関所には大きな鉄柵の門があり、それが今はぴたりと閉じられている。そしてその鉄柵の門の前に一人、ラインハット兵が大きな槍を片手に持ち、門番として立っている。しっかりと二人の旅人が見えているはずだが、門番はその場所から微動だにしない。それもそうだろう。見知らぬ旅人に気さくに話しかけてくるような人間が、今のラインハットにはいない。
ラインハットの紋章が入った帽子を目深に被る門番の表情は、リュカとヘンリーには全く見えなかった。だがその鋭い視線だけがこちらを捉えていることは、その張りつめた雰囲気から分かる。
門番から少し離れた場所で、リュカが馬車を止めた。賢いパトリシアは一つ尻尾を振っただけで、後は大人しく待ちますと言った様子で、一度リュカに首を寄せた。リュカは彼女の首をさすり、荷台の中でちらと見えたスラりんが眠っているのを確認してから、ヘンリーと共に門番のところまで歩いて行った。
リュカが話しかけるまでもなく、門番の兵士は顔を上げて、リュカとヘンリーを威嚇するような高圧的な視線を向けて一方的に言ってきた。
「ここから先はラインハットの国だ。太后様の命令で、許可証のないよそ者は通すわけにいかぬぞ」
「許可証? なんですか、それは」
まるで予想していなかった展開に、リュカは思わず素直に兵士に問い掛けた。高圧的な態度を取る兵士だが、意外にもリュカの問いかけに丁寧に応じてくれる。
「我が国の太后様が特別だと認めた者だけに発行する証だ。我が国への寄付を募れる者ならば、許可証発行の権利を得ることができる」
「寄付って、お金のことですよね。いくらぐらい……」
「少なくとも十万ゴールド。これ以下では話にならん」
「じゃあ話になんないや……。ところで僕たち、ラインハットで兵士を募集してるって聞いたから、それでここへ来たんですけど、募集してないんですか」
「兵の募集は一時取り止めとなっている。とにかく無用の者をここから通すなという太后様からのご命令だ」
「参ったなぁ、兵の募集があるからってここまで来たのに」
リュカが一人頭を悩ませている横で、ヘンリーはじっと兵士の顔を食い入るように見つめていた。間近で見る兵士の顔は立派な口髭を生やす割にはそれほど年は取っておらず、せいぜいヘンリーよりも十歳ほど上に見えるだけだ。軍を強化しているような物々しい国の兵士だが、その割には案外頼りなさそうな顔つきをしている。視線だけは鋭く、高圧的な雰囲気を醸し出そうとしているが、どこか無理をしているような無表情さがある。自然に眉尻が下がる顔つきはどことなく優しい。一国の兵士という割には身体の線が細い。
ヘンリーの名を呼びそうになり、思わず口を抑えたリュカだが、そんな慌てるリュカの横からヘンリーが前に進み出た。ラインハット兵が訝しげな視線を向けるが、そんなことにはお構いなしにヘンリーはあろうことか、兵の頭をゲンコツで小突いた。
「あたっ!」
間の抜けた声を上げ、兵士が前のめりに転びそうになる。まさか見も知らぬ旅人に突然殴られるとは思わなかった兵士は、一瞬唖然とするばかりで、怒ることを忘れていた。
「あいたた、タンコブが……」
一瞬でタンコブまで作るような荒っぽい殴り方をしたヘンリーを、リュカは信じられないと言った顔つきで見ている。予定と違うことをした彼の行動に、リュカは為す術もなくただヘンリーの次の行動を待った。何か考えがあってのことだろうと、ささやかに期待した。
頭を両手で押さえながら、ラインハット兵は殴ってきた旅人を顔をしかめたまま見る。ゲンコツを振りかざしてきた旅人がニヤニヤ笑っているのを見て、兵士は思い出したように怒りを沸き起こらせる。
「随分偉そうだな、トム!」
「無礼なヤツ! 何者だ!? どうして私の名前を?」
殴られた次には名を呼ばれ、兵士はまたもや怒りを置き去りにした。ラインハットの関所の門番として勤めている彼だが、最近ではここを訪れる旅人の数も減り、一度ここに来た旅人の顔は一人残らず覚えている自信があった。しかし今目の前で笑っている青年を、兵士はまだ見たことがない。ただ特徴的な緑色の髪に、頭のどこかで記憶の欠片が引っ掛かるだけだ。
「相変わらずカエルは苦手なのか?」
「カエル……」
「ベッドにカエルを入れておいた時が一番傑作だったな」
言われた瞬間に、兵士トムはその時のおぞましい感触を思い出し、身震いした。
まだ城詰めの召使として働いていた頃、夜遅くまで王子のイタズラの後始末に追われる日がほぼ毎日のことだった。ようやく身体を休められると部屋に戻り、ベッドに入り枕に頭を沈めた瞬間、仰向けの顔の上にべちゃっと何かが乗ってきたのだ。何が何だか分からぬ状態で、身動きもできないままでいると、顔の上に乗る何かは明らかに生き物のように動いた。次いで聞こえた「ゲコゲコ」という、彼がこの世で一番恐れている鳴き声が顔の上に聞こえ、彼は少女のような悲鳴を上げてベッドから飛び上がったのだ。
恐怖の記憶というのは鮮明に残るもので、トムは思わず自分の顔を掻きむしるように両手で払った。もう十年以上も前の出来事だというのに、イタズラに成功した時の王子の満面の笑みを鮮明に思い出し、それが目の前の青年に自然と重なった。
記憶の一部に引っ掛かっていた緑色の髪は、ラインハット第一王子の特徴の一つだった。毎日イタズラばかりを仕掛け、要領良く逃げ回り、たとえ捕まっても反省の一つもしない、そんなヘンリー王子は髪だけは亡くなった王妃譲りで美しい緑色をしていた。
「そ、そんな……まさか……」
口をパクパクさせているトムに、ヘンリーは小さい頃の憎らしい笑顔そのままに言う。
「そう、俺だよ、トム」
「ヘンリー王子様! ま、まさか生きておられたとは……」
それだけを言って、トムは言葉を詰まらせた。嫌というほど苦労させられたラインハット第一王子に十余年ぶりに再会し、まさか感動を覚えるとは彼自身思いもよらなかった。もうこの世にはいないと思っていた人物が生きていたという奇蹟を見て、それだけでもう涙ぐんでいる。
トムは鼻水をすすり、涙をこらえながらも、一国の王子の前で呆然と立ち尽くしている非礼にはっと気付いた。慌てて地面に片膝をつき、ラインハット王子であるヘンリーに頭を下げて、足元に言葉を落とす。
「お懐かしゅうございます! 思えばあの頃が楽しかった。今の我が国は……」
「何も言うな、トム。兵士のお前が国の悪口を言えば、何かと問題になるだろう」
「はっ……」
「凡そは耳にしてる。だけどな、噂だけじゃなく、俺は実際に確かめたいんだ」
もうラインハットの関所にまで来てしまったヘンリーは、逃げるなどということは微塵も考えていない様子だ。彼はただひたすらに、故郷の状況を知りたかった。人の噂では悪い話しか聞かないラインハットだが、それでも何かまともな部分を残してくれていることを期待しているからこそ、トムが口にしかけた国の悪口をも未然に防いでしまったのだ。
「立てよ、トム。俺は今、王子でも何でもない、一人の旅人なんだ。かしこまる必要なんてない」
「しかし……」
「こいつを見習えよ。こいつなんて俺が元王子ってこと知ってるのに、すげぇ馴れ馴れしいんだぜ」
「ヘンリーを王子って意識したことはないなぁ。だって僕たち、友達でしょ」
「いつから友達になったんだよ。俺とお前は元々友達でも何でもないだろ」
「そんなの、みんなそうだよ。誰だって最初から友達のわけはないんだから」
わがままで、ラインハット城のあらゆる人をてこずらせたかつての王子は、今は友達と自称する年も同じ頃の青年に親しげに話しかけられても、嫌な顔一つしない。表面上は煙たい顔をしながらも、実はその友達との距離に安心感すら覚えているようだった。誰一人、周りに寄せ付けない雰囲気を漂わせていたヘンリー王子は、見た目も性格も、見違えるほどに成長していた。
トムは被る帽子を直しながら、ゆっくりと立ちあがった。反射的に頭を守るように両肩をすくめたのは、またヘンリーに殴られると身体が反応してしまったからだった。恐る恐るヘンリーの顔を窺うと、彼は腕組みをしながら、自然に笑っていた。
「通してくれるな、トム」
すっかり声変わりし、落ち着いた様子で言うヘンリーに、トムは笑顔で応える。
「はい、よろこんで! どうぞお通りください」
「ありがとう。じゃあちょっと、行ってくる」
トムはしばらくの間誰も通すことのなかった鉄柵状の大きな門を、けたたましい音を立てて開け放った。本来この関所は、ラインハットへ人や物の流通をするためには欠かせない場所なのだ。この関所を通じなければ、外からの物資が全く入らず、国自体が困窮する恐れさえある。
「これだけ広ければ問題ないね」
リュカは関所の手前で止めていた馬車を動かし、鉄柵の門が開けられた場所を通ろうとその手前まで来た。馬車を引く白馬の大きさに、トムは口をあんぐりと開けてぼうっと見つめた。
「こんな大きな馬、城でも見たことがありませんね。相当値の張る馬だったのでしょう」
「俺たちがそんな金を持ってると思うか?」
「いくらだったっけ。馬にしてはかなり安かったんだよね」
「あっ、そうだ。お前カネ持ってるか?」
「え、あ、はい、少しばかりなら……」
そう言いながら、慌てて懐を探るトムだが、取り出した小さな袋の中身を見て、首を横に振った。
「あの、本当に少ししかないのですが」
「俺たちなんてもうほぼすっからかんだよ。宿に泊まる金もあるかどうかってところだ。だから悪いけど、ちょっと貸してくれねぇかな。後でちゃんと返すからさ」
まさかラインハットの第一王子に金を無心されるとは思わなかったトムは、何が何だか分からないまま、手にしていた袋ごとヘンリーに預けた。
「これ全部、いいのかよ」
「構いません。私が持っていても役に立ちませんから」
「悪いな。出世払いってことで、勘弁してくれ」
ラインハットで威張り散らしていた第一王子が、今目の前で頭を下げて金を借りようとしている。そんなヘンリーの姿に、トムはどうしたらいいのか分からず、ヘンリーよりも深く頭を下げるだけだった。
「王子が出世払いって、どれだけ出世するつもりなの」
粛々としかけた雰囲気を、リュカがぼんやりとした一言で破った。頭を下げていたトムが思わず笑い声を漏らす。ヘンリーもつられて笑いだした。
「元・王子だよ、俺は。今は金も地位もない単なる旅人だ。だから今よりは出世してやるよ」
「ヘンリーが出世してくれれば、僕たちの旅も少しは楽になるかも」
「お前も頑張れよ。いつもそうやって俺に押し付けようとするのは何なんだ」
「だってヘンリーの方が僕よりはお金儲けが上手そうだから」
「お前は……そうだな、金儲けは上手くなさそうだ。だけどその馴れ馴れしい態度でどこぞの大富豪と友達になるとか、できるんじゃねぇの? 俺が出世するよりよっぽど近道かも知れないぜ」
「馴れ馴れしいって、なんなのさ。嫌な響きがするよ」
「俺には羨ましい限りだけどな、お前のそういう性格」
「褒められてる気がしないな」
かつてラインハット城でどれだけ人を困らせたか分からないヘンリー王子が、今は共に旅をする友人をからかって遊んでいる。しかしそれは人を困らせてやろうと言う悪意から来るものではなく、友人同士の関係であればごく普通にあるやり取りだ。表情こそ昔のいたずら王子を彷彿とさせる笑みを見せるが、そんな表情を見ていても、むしろ心がすっと清々しい気にすらなることに、トムは自ら驚いていた。
馬車が車の音を響かせて渡って行く。川を渡るには、地下に通じる道を通っていく。陽の差さない地下道には、俄かに灯りが灯されているようだ。誰もこの関所を通らなくなって数日経つが、それでも関所の門番であるトムは毎日欠かさず、地下道の灯りを点けていた。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
ヘンリーが気軽に手を振る姿に、トムは改めて沸き上がる感動に涙腺を緩ませながら、泣き顔など見せまいと頭を下げてヘンリーとリュカを見送った。こうしていると、また頭を殴られるんじゃないかと自然、肩に力の入ったトムだったが、顔を上げた時にはもうヘンリーたちの姿は地下道に消えていた。



地下道を抜けた先に広がっていたのは、茫々たる荒れ地の風景だった。かつてはラインハット城までの道は行商人や旅人達で行き交っていたため、舗装こそされていなかったが、人の通れるような道が続いていた。それが今では辛うじて道と分かるような部分が続いているだけで、その風景を見ているだけで嫌に物悲しくなってしまう。
荷台に積んでいる水用の皮袋に、川で水を補給し、スラりんにも水を与えた。リュカはこれまでにも何度かスラりんに食べ物を勧めたことがあったが、スラりんはそれらを一つも口にしたことがない。どうやら完全に水だけで生きられる魔物のようだ。
そんなスラりんを見ていると、リュカは「魔物って一体なんなんだろう」と考えこんでしまう。人間のように何かの動物の肉を食べたり、生あるものを食すのではなく、魔物であるスラりんは水だけでこの世に生きられる。どちらが悪いのか、リュカには分からなくなる。
リュカとヘンリーも川の水で一度身体を清めた。初めは冷たく感じた川の水だが、すぐにそれにも慣れた。近頃の陽気は夏に近づいている。まだ暑い季節になったとまではいかないが、それでも川の水に入るのにそれほど抵抗はないくらいの陽気にはなってきている。
川から上がり、二人はすっきりした状態で再び進み始めた。
馬車の車が草に覆われた地面を進み始めると、石畳で造られた関所の地下道を通ってきた車輪はその音をすっかり潜めた。音で自分たちの存在を魔物に知られないためにはかえって好都合だと、ヘンリーは現実的に考えることにした。
「魔物も多くなったって言うしな。静かに進めるのはいいことだ」
「だけどこれだけ草深いと、僕たちが魔物を見つけるのにも苦労しそうだね」
「アイツみたいにちっさいと、余計だな」
馬車の荷台に乗っているスラりんに目を向けたヘンリーだが、当のスラりんは白馬の背にちょこんと乗っていた。川で水を補ったスラりんは、心なしか少し大きく膨らんでいるようにも見える。
そのスラりんが、らしくない真面目くさった顔をして辺りをキョロキョロと見渡している。明らかに何かに警戒する様子に、リュカがスラりんに話しかけた。
「魔物?」
リュカの端的な言葉に、スラりんが短く小さく鳴いた。進み続ける馬車を止めずに、リュカも同じように辺りを確認し始めた。気配はまだ感じられない。しかし落ち着かない様子のスラりんを見ていると、間違いなく魔物は近くにいるようだ。
「リュカ、お前は前を見てろ。俺は後ろを見てくる」
「うん。こんなところでやられたくはないからね。もう、目の前なんだから」
馬車を挟んで、リュカは前方を、ヘンリーは後ろに回って後方を確認する。荒れ地に暖かな風が流れ、一見平和そうな景色が広がっている。よく見れば、馬車がすれ違うほどの広さで、荒れ地の中にも微かに道らしきものが続いているようだ。ラインハットまではこの荒れ地の道を行けば、自ずと着くのが分かり、リュカはパトリシアの手綱を握りながら、迷わず馬車を進めて行った。
リュカたちの他に、旅人や行商人が通る気配は全くない。その代わり目に見えるのは、遠くを悠然と歩く魔物の姿だった。リュカの横を歩くパトリシアと同じほどの大きさで、白いもこもこの毛皮に包まれたその姿は、まるで雪男のようだ。夏の気配が漂い、日差しも日増しに強くなっているこの時期、その魔物イエティはけだるそうに大きな舌を垂らしながらゆっくりと歩いている。
「ヘンリー、このまま進んで行くと、あの魔物と戦うことになりそうだよ」
「何? 魔物がいるのか」
「まだ距離はかなりあるけど、こっちに気付いてるみたいだね」
緊張感を感じられないリュカの口調だが、ヘンリーは彼の魔物に対する無防備さを知っている。自分の目で確かめなくてはと、ヘンリーは素早く馬車の前方に目を向けた。
イエティが立ち止まってリュカ達を見ていた。リュカやヘンリーを、というよりも、パトリシアがあまりにも目立ち過ぎるのだ。白く大きな馬を見て、イエティは敵ではないと判断したのか、それとも馬との距離を詰めるのが面倒なのか、特に襲って来る様子はない。だが、このまま道を進んで行けば、そのうちイエティと顔を突き合わせることになるだろう。
「仕方ない。森に入るか」
彼らの進む道の東側には森が広がっている。身を隠すには格好の場所だが、魔物も同じように身を隠しながら突然襲い掛かってくるという危険度も増す。
「しばらく歩いて、あの魔物の場所を通り過ぎたら、また道に出よう」
幸い、森の中の木々はまばらで、パトリシアの引く馬車が通れるほどのゆとりはある。枝木も馬車の幌が到底届かないような高い位置にあり、森の中にしては幾分見通しも良かった。
森の中を歩いている時、何度か空から小さなドラゴンの襲撃を受けた。森の枝木に止まっていたドラゴンが、縄張りを荒された動物のようにリュカたちに襲いかかってきたのだ。
黄色い身体に、青緑色の目をキョロリとさせて襲いかかってくる小さなドラゴンキッズに、リュカはとりあえず追い払わなくてはと檜の棒で撃退しようとした。しかしドラゴンの鱗は檜の棒では大したダメージを与えられない。
そのうちドラゴンキッズたちは口から火を吐いて、馬車の幌を焦がした。慌てて火を消したリュカは、檜の棒を地面に投げ捨て、真空呪文を唱えて魔物たちに浴びせた。呪文の力で生み出された刃はドラゴンの皮膚を切り、思わぬ人間の攻撃に、ドラゴンキッズたちは一斉に飛び上がり、高い枝木の上に再び止まった。
「今のうちに、行くか」
「お城まではまだまだ歩かなくちゃならないからね、ここで足止めを食うわけにはいかない」
リュカは幼い頃の記憶を引っ張り出し、父と歩いたラインハット城までの旅路を思い出していた。ラインハットの関所を出て一日では辿りつかない距離なのだ。父と途中、野宿をして過ごし、二日間をかけて城まで行った記憶が蘇ってきた。
「ただあいつらは空を飛ぶからな。パトリシアの足でも一気に駆け抜けることはできなさそうだ」
「注意しながらゆっくり進むしかないよ」
リュカがそう言いながら森の木々を仰ぐと、目の端に何かが動くのを捉えた。水色の小さな仲間がぴょんぴょんと跳ねながら、器用に幌馬車の幌の上に乗っかって行く姿だった。
「スラりん、どうしたの」
リュカが呼びかけてもスラりんは返事をしない。幌馬車の屋根の部分に乗ってしまったスラりんの姿がリュカとヘンリーには見えない。心配になったリュカが馬車の荷台に足をかけ、屋根の上を覗き込むと、スラりんが枝木に止まるドラゴンキッズたちに飛びかからんばかりに幌の上で跳ねていた。だが、もちろん遥か上にいる魔物たちには届かない。
「ピキー、ピキー」
スラりんなりに威嚇しているのだった。枝木に止まるドラゴンキッズたちは互いに顔を見合わせて、同じ魔物であるスライムに威嚇されていることに戸惑っている様子だった。キィキィと小さな声を立てながら、何やら会合を始めている。
「おい、今のうちだ」
「うん、行こう」
スラりんが注意を惹きつけているうちに、リュカは静かに馬車を進め始めた。森の中にも草地は広がり、馬車の進む音を吸い取ってくれる。静かに進み始めた馬車に、ドラゴンキッズたちも、幌馬車の屋根の上でぼふんぼふんと跳ねているスラりんも気付かないまま、リュカとヘンリーは魔物の群れから逃げ出すことに成功した。気付けば、ドラゴンキッズたちの縄張りから抜け出していたようだった。
「ああいう群れがところどころにあるのかも」
「今回はスラりんのおかげで助かったな。たまたまだろうけど、よくやった」
ヘンリーの褒め言葉に気を良くしたのか、再びパトリシアの背に下りて来ていたスラりんは胸を張るような仕草で、水色の身体の前面を突き出した。
しかしドラゴンキッズから逃れてすぐ、森の中に新たな魔物の気配を感じた。いち早くその気配を察知したスラりんが、パトリシアの背に乗ったまま騒ぎ始めた。
「うん、僕にもわかるよ。近くにいるね」
魔物は気配を隠しているつもりなのかも知れなかったが、近くの木々に姿を紛らせている魔物の雰囲気がリュカにもありありと分かった。相手も近くの人間の緊張した様子を感じ取ったのか、木の幹に隠れていたその姿を現した。
草地の上に現れた鎧兜を身につけた魔物の姿に、リュカは油断なく檜の棒を構える。横に来ていたヘンリーも片手にナイフを構えるが、その目は騎士の姿をした魔物が乗る物に釘づけになっている。
「なんだ、こいつ。スライムに乗ってるのか」
鎧兜に身を包み、盾に剣を装備するいっぱしの騎士の姿をした魔物だが、彼がまたがるのは馬ではなく緑色のスライムだった。ただスラりんよりはかなり大きい。しかしそのスライムにまたがる騎士はリュカたちよりも二回りほど小さい。
「格好だけなんじゃねぇの、コイツ」
「いや、強かったよ、確か」
「確か? 何だそりゃ」
「僕、この魔物と戦ったことがある」
リュカは幼い頃の父との旅路を思い出す。今と同じようにラインハットへ向かう途中、リュカはこのスライムナイトと出くわした。そしてその時、父ではなく、自分で戦った記憶がありありと蘇ってくる。リュカは両手で持っている檜の棒を見下ろす。子供の頃の自分が手にしていたものも、これと大差ないような木の枝だった。
それ以上リュカに思い出させる隙を与えないように、スライムナイトは地面に弾みをつけてリュカに飛びかかってきた。緑色のスライムが馬とは違う跳躍を見せる。弾力のあるスライムの跳躍は馬のそれよりも勝っているほどの勢いがあった。
ギラリと光るスライムナイトの剣先を、リュカは地面に転がり避けた。魔物が手にしているのは恐らく人間から奪ったのであろう精錬された鉄の剣だ。リュカが手にしている檜の棒では到底太刀打ちできない。魔物の剣を檜の棒で受けたところで、一瞬で真っ二つにされるのがオチだ。魔物が持つ武器にしては、丁寧に磨きこまれているのだ。
スライムナイトの注意がリュカに向いている隙に、ヘンリーが横からナイフを突き出した。しかしスライムナイトは悠々とそれを盾で受け止め、そのまま弾き返す。まだ旅に出て間もないヘンリーよりは数段、魔物は戦い慣れているようだ。
「見た目とエライ違うな」
「見た目で判断するなど、素人のすることだ」
リュカらしくない言葉だなと、ヘンリーは横にいるリュカを怪訝な顔で振り向き見た。リュカは首を横に振っている。
「僕じゃないよ」
「じゃあ誰だよ。スラりんが喋ったのか」
「ピキー」
リュカの足元にいたスラりんは、草地に隠れながらも敵の魔物にいつ飛びかかろうかと構えていたが、ヘンリーの声に思わず声を上げてしまった。
「何だ、貴様ら、スライムが仲間なのか」
「なんなんだよ、その口調は」
「だから僕じゃないって」
ヘンリーとリュカが互いに顔を見合わせた後、そろりと目の前の魔物を見遣る。スライムナイトは剣先をリュカ達に向けながら、兜の奥から声を発した。
「人語を解するのが人間だけだと思うな」
「お前か。お前が喋ってんのか」
「そういえば、あの時も話したよね。僕、君と話した記憶があるよ」
リュカが思い出したように声を上げると、スライムナイトは兜を斜めにして首を傾げた。
「何を言っているんだ、貴様」
「話ができるんならちょうどいいや。僕たちラインハットへ行きたいんだ。だからそこを通してくれないかな」
かつての記憶を思い出したものの、リュカはその時とほとんど同じ問答をし始めていることには気づいていなかった。魔物に臆することなく、むしろ気軽に話しかけてくる人間に、スライムナイトは戸惑ったように剣先を下に下げる。
「いや、そういうわけには……」
「どうして?」
「どうしてって、魔物と人間は相容れぬ者同士だ。通すわけがないだろう。潔く私と戦え」
「魔物と人間が相容れないって誰が決めたのさ。仲良くすることもできるんだよ。ねぇ、スラりん」
リュカは足元で様子を窺っていたスラりんに話しかけた。スラりんは返事をするように草地の上に元気良くジャンプする。すっかり人間に懐いているスライムを見て、スライムナイトは腑に落ちないような様子で再び首を傾げる。兜の奥の表情は見えないが、よく見てみると、騎士がまたがる緑色のスライムが思案顔をしていた。
「下のスライムが表情担当か?」
「いや、違うよ、あれは上の人と下のスライムが一体なんだ」
「ってことは、下のスライムを叩けばいいんだな。助かった、上の鎧兜には俺らの武器じゃ歯が立たないからな」
言うなり、ヘンリーはナイフを下に構え直した。スライムナイトの土台のスライムが、ヘンリーの戦闘態勢を見て、表情を引き締める。それと共に騎士の格好をした上のナイトが剣先をヘンリーに向けた。リュカの言う通り、上と下は一心同体のようだ。
ヘンリーがリュカを振り向いて、視線を送る。リュカは頷いて無言の返事をした。
直後、ヘンリーがスライムナイトに向かって走って行った。まるで自暴自棄になったような人間の攻撃に、スライムナイトは一瞬虚を突かれたが、戦いに慣れている彼は落ち着いていた。向かって来る人間の直線的な攻撃を避け、更に剣で振り払おうとした。
しかしその剣を、リュカが檜の棒で横から思い切り叩いた。鈍い金属の音が森の中に響き、スライムナイトはしびれる手から剣を取り落としそうになる。
取り落とすことこそなかったが、スライムナイトが剣を握り直す隙に、ヘンリーがナイフで緑色のスライムを切りつけた。短い悲鳴と共に、スライムナイトが後ろに飛び退る。
飛び退った後ろ魔物の後ろから、今度はリュカが檜の棒で緑色のスライムを叩きつけた。普通のスライムより多少固い感触に、今度はリュカの手が少々しびれた。
「まだ戦下手な若造だと思っていたが、これは闘い甲斐がありそうだな」
スライムナイトはどこか楽しげな口調で言いながら、次には呪文を唱え始めた。リュカとヘンリーが驚く暇もなく、魔物は自身の傷を癒してしまった。
「回復呪文か。厄介な奴だ」
ヘンリーが緊張のためか、ひきつった笑いを浮かべながら呟いた。
「見た目だけで判断するなと言ったろう」
スライムナイトはヘンリーの言葉を笑うように、次には違う呪文を唱え始めた。ヘンリー自身、覚えのある呪文の言葉に、思わず耳を疑う。
「リュカ、伏せろ!」
彼の言葉が聞こえると同時に、リュカもその気配を察知し、草地の上にべたりと身を伏せた。スライムナイトの唱えた呪文が発動し、辺りに爆発音が轟く。身を伏せていた二人だが、間近に起こった爆発に、たまらず吹っ飛ばされた。
木に身体を打ちつけたリュカは、鈍い痛みを背中に感じながら立ち上がった。目の前に剣の煌めきを見た瞬間、肩から腕に鋭い衝撃が走った。痛みを感じないことに違和感を覚え、リュカは恐る恐る自分の腕を見る。おびただしい出血が始まっているものの、腕はまだ肩から繋がっていた。
「何ぼうっとしてんだ! 早く治せよ!」
ヘンリーの声が飛んできて、リュカはようやく自分が重傷を負ったことを実感した。だが相変わらず痛みは感じない。傷が深過ぎるのだ。
「戦う時に、迷いを感じているからだ」
スライムナイトの鋭い声が響く。リュカは痛みを感じないまま意識が遠のきそうになるのを、必死に堪えた。冷たい汗が背中に流れるのを感じながら、どうにかベホイミの呪文を唱え、傷を癒した。 「そうだった。戦う時に迷ってたら、死ぬだけだもんね」
血に濡れた左腕を確かめるように動かし、感覚が戻ったことを実感する。リュカは表情を一変して、敵と認識したスライムナイトをひたと見つめた。
「真面目に戦う気になったか」
「ここでやられるわけにはいかないから」
真面目に戦う気になったとは言え、リュカが構えているのは所詮、檜の棒だ。スライムナイトはそんな軽装備の人間を見て、気の毒そうに笑っている。
スライムナイトとの戦いに集中するリュカの頭上で、何やらギャアギャアと騒ぎ始める鳴き声が聞こえた。先ほど遭遇した一群とは違う、ドラゴンキッズの群れだ。どこかに行っていた一群が、普段テリトリーとするこの場所に戻ってきたようだった。
「本当かよ、このタイミングで……」
頭上を見上げ、太陽の光を透かす木々の葉の中にドラゴンキッズたちを確認すると、ヘンリーは冷や汗をこめかみに垂らしながら呟いた。リュカもスライムナイトを牽制しながら、ちらと頭上の敵を認めた。すると二匹のドラゴンキッズが飛び降りて来て、揃って口から火を吐き出し、リュカもヘンリーもその火に巻き込まれた。二人とも地面に転げ回り、どうにか火は消し止めたが、顔や腕にやけどを負った。
間髪入れずに攻撃をしかけてくるドラゴンキッズに、果敢にもスラりんが飛び出して行った。低空飛行してきたドラゴンキッズに、スラりんは文字通りの体当たりを喰らわせた。スライムの予想外の攻撃に、ドラゴンキッズの黄色い身体がどさりと地面に落ちる。近くに落ちた魔物の姿に驚く余裕もなく、ヘンリーは手にしていたナイフを魔物の身体に突き立てた。ドラゴンの堅い鱗には少々威力が足りなかったが、それでも皮膚を切られた魔物は痛さに騒ぎ、逃げるように上に飛び去って行ってしまった。
「あーあ、全く冗談じゃねぇな。これから城に入ろうってのに」
ヘンリーは焦げて縮れた髪の毛を左手で掴んだ。そしてそのままナイフでばさりと切り取ってしまった。顔は煤けて、服も首元が茶色く焦げている。
リュカも咄嗟に庇った両腕を火傷していた。ひりひりとした痛みがあるはずだが、今の彼はそれを感じていない。傷をこさえたまま、リュカはヘンリーに呼びかける。
「ヘンリー、一気に行くよ」
すっかり本気になったリュカの様子に、ヘンリーは彼の言葉の意味を汲み取る。打ち合わせを必要としない彼らは同時に、呪文を唱え始めた。
木々を荒すような大風が吹き荒れ、葉も枝も見えない刃に切り裂かれた。木の枝に止まっていたドラゴンキッズたちも真空呪文バギマの鋭い刃に巻かれ、立て続けに起こった爆発に、たまらずぼたぼたと地面に落ちた。
三体のドラゴンキッズは地面に落ちるや、すぐに羽根をはばたかせるが、飛び上がろうとするその黄色い魔物に、またしてもスラりんが飛び掛かる。はばたく竜の羽根に飛び込んでしまったスラりんは、運悪く羽根に弾かれ、地面に飛ばされた。しかし羽根に衝撃を受けたドラゴンキッズも安定を失い、同じように地面に転がった。そこにリュカの振り下ろす檜の棒が迫る。脳天に直撃した檜の棒の攻撃に、ドラゴンキッズはその場で気を失った。
ヘンリーも腕に噛みついてきた黄色い小さな竜に、痛さに顔を歪めながらも、その首の辺りにナイフを立てる。噛みつく力はすぐに弱まり、ヘンリーの腕にくっきりと歯型を残して、ドラゴンキッズはそのまま地面に落ちた。
力の入らなくなった右腕をだらりと下げていたヘンリーに近づき、リュカは素早く彼の怪我を癒した。先ほどのリュカの切り傷に比べれば、かすり傷とも呼べるものだった。歯型も綺麗に消え、ヘンリーは腕を振り回して状態を確認する。
「悪いな」
返事をしたヘンリーを、リュカは唐突に突き飛ばした。その直後、彼らのいたところに銀色の刃が振り下ろされる。
「油断は禁物。まだ戦いは終わってはいない」
スライムナイトが息をつく暇もない攻撃を仕掛けてくる。その対象はリュカだった。執拗にリュカに剣を向けてくる。
剣ではなく檜の棒を両手に持つリュカは、次第にその剣筋を読めるようにまでなってきた。巧みにスライムナイトの剣を横から薙ぎ払って交わす。
「だんだん分かってきた」
幼い頃から、ずっと父の戦う姿を見ていた。自ら剣を振うことはなかったものの、父に憧れ、強くなりたいと思っていた子供の頃、戦う父の姿を真似て棒を振り回すこともままあった。ただの檜の棒をまるで剣のように巧みに扱うリュカの姿を、ヘンリーとスラりんは入りこむ余地もないままただじっと見ていた。
「なんなんだ、あいつ。剣なんて扱ったことないだろうに」
ただ、リュカが持つのはあくまでも檜の棒だ。スライムナイトの鋭い太刀を受けると、剣の刃を受けたところから、檜の棒がスパッと切れて短くなってしまった。
リュカが劣勢になる前に、ヘンリーはスライムナイトの緑色のスライム目がけて、火の球を発した。真後ろから狙ったにもかかわらず、後ろにも目がついているのかと思うような動きで、スライムナイトはメラの火を飛んで避けてしまった。
「小癪な。貴様はこれでもくらっておけい」
そう吐き捨てると、スライムナイトは再び呪文の構えを取った。爆発呪文イオの文句を素早く紡ぎ、発動する間際、スライムナイトの身体が激しく吹っ飛ばされた。檜の棒で思い切り背後を突かれたのだ。
すぐに態勢を立て直そうと、草地に緑色のスライムが弾む。しかしその隙すらも与えないように、リュカが追撃をかける。檜の棒では魔物の鉄の鎧には太刀打ちできない。横から殴りつけるのにも無駄な力が要る。下のスライムを狙えば、上の騎士が巧みに檜の棒を剣で避けてしまう。
リュカは棒を突き出すようにして、スライムナイトの鎧の継ぎ目に狙いを定めた。剣を振う腕が上から振り下ろされる瞬間、肘の辺りに鎧の隙間が生まれる。リュカはその隙間目がけて、檜の棒を素早く突き出した。
振り下ろされた剣先が、リュカの脳天ぎりぎりに止まった。肘を曲げたまま動かなくなってしまったスライムナイトのその腕を、リュカは思い切り蹴飛ばした。スライムナイトの手から剣がこぼれ落ち、次いで檜の棒も鎧の継ぎ目から外れ、地面に転がった。
檜の棒と剣を拾い上げ、リュカは両手に武器を持った状態で、スライムナイトに向き直った。
「僕の勝ちってことで、いいかな」
まるで子供のような無邪気な笑顔を見せる人間に、スライムナイトは何も言い返せないまま、ただその場に立ち尽くした。武器を失った手を前に出し、呪文の構えを取ろうとしたが、その手を横からむんずと掴まれる。
「潔くないな。負けを認めたらどうだ」
スライムナイトの手を掴みながら、ヘンリーは下の緑色のスライムにナイフを突き付けた。緑スライムが怯えたような表情でヘンリーを見上げる。騎士の格好をした上とは違い、緑スライムは幾分臆病なようだった。
「負けと言うのは、どちらかが死ぬことだ。魔物と人間とは、そういうものだ」
「だから誰が決めたの、それ。僕、そんなこと望んでないよ」
「それでは私の気が済まぬ。ひと思いにやってくれ」
「負けたって認めたならそれでいいよ。逃げてくれても構わない」
「馬鹿にするな! 逃げるなど、情けないことができるか」
偏にこの場で果てることを望んでいる様子のスライムナイトだが、リュカには目の前の魔物を仕留めてやろうなどという考えはさらさらない。せっかく話せる魔物なのだから、もう少し話をしたい、くらいにしか考えていない。
「君はずっとこの辺りにいるの? 僕、小さい頃にこの辺りで君と同じ魔物に会ったことがあるんだよね」
「……始まったか」
呆れ顔のヘンリーは、こうなっては構うのも無駄だと、スラりんと共にその場で待つことにした。パトリシアは優雅に地面に生える草を食んでいる。
「この辺りは我らスライムナイトが多くいる。昔からだ」
「だから会ったことがあったんだ。ねぇ、ところでどうして人間の言葉が話せるの?」
リュカの問いに、スライムナイトは考えるように首を捻った。騎馬代わりの緑スライムが思案顔をしている。
「人間だって、生まれた時から話せるわけじゃないんだから、君だって頑張って覚えたんだよね」
「そう……だったかな」
そう答えたものの、いつから話せるようになったのかは分からない。それはごく小さな子供の頃から言葉を使い始める人間と同じだ。周りはそれを覚えていても、当人はいつの間にか自然と言葉を話している。
「私たちの仲間は皆、言葉を話せる。だから私も話せるようになったのだろう」
「僕よりよっぽど言葉が上手そう。君の仲間はみんなそんな話し方をするの?」
「そんな話し方とは?」
「どことなく堅苦しいっていうかさ、かっこいい戦士みたいな話し方をするよね。君は男なんだよね」
「人間のような男女というものはない。そいつを見ればわかるだろう」
スライムナイトはそう言いながら地面に落ちた雫のようなスラりんに手を向ける。リュカがすぐ近くにいるスラりんを見下ろすと、スラりんは魔物であることが嘘のような邪気のない目で見上げてくる。そんなスラりんを男女の別には分けられないとリュカは感じた。強いて言うなれば、赤ん坊か、まだごく小さな子供というところか。
「でも君は……そうだ、名前はあるの?」
「私の名はピエールだ」
「ピエールか、やっぱり男みたいだね」
「貴様がそう思うのなら、そうかも知れんな」
人間と魔物が普通に会話する光景を、ヘンリーは小指で耳をほじりながらのんびり見ていた。話に夢中になるリュカと、その雰囲気に飲まれているピエールは、既に馬車が進み始めていることに気付いていなかった。
「食べているものは何? スラりんみたいに水だけで平気なの?」
「その鎧や盾って、どうやって手に入れたの?」
「剣の磨き方も仲間に教えてもらったの?」
リュカの興味は尽きない。話せる魔物に出会えて嬉しいようで、次から次へとピエールに質問を投げかける。絶え間なく問いかけられるピエールも、嫌な顔もせず、丁寧に答えている。戦いに負け、情けをかけられたから、せめてもの恩返しといったところかも知れない。
ゆっくりと馬車を進めながら、途中、魔物と遭遇した。森の中はドラゴンキッズが多く生息しているようで、突然頭上から攻撃を受けた。その時、あろうことか、リュカは手にしていた剣をピエールに渡し返した。
「はい、これ」
「うむ、かたじけない」
そして共に戦い始めるリュカとピエールの姿を、ヘンリーは唖然としながら見つめていた。
更に進み、傾いた陽は既に濃いオレンジ色に染まり始めた。ラインハット城まではあと一日歩かなくては着かない距離だ。ということも、ピエールが丁寧に教えてくれた。
「なあ、一つ聞いておきたいんだけど」
ヘンリーが後ろからピエールに問い掛けた。リュカとは気さくに話すピエールだが、ヘンリーに対してはまだ敵意に近いものを見せている。後ろを振り向かないまま、端的に聞き返す。
「なんだ」
「俺たちはもう、仲間ってことでいいのか」
「え? 僕はもうそのつもりだったんだけど」
リュカが驚きも隠さずにピエールを見る。ピエールの表情担当、緑スライムが困ったような顔をしている。まだ一日と一緒にいたわけではないが、いつの間にか行動を共にし、ラインハット城間近まで進んできていた。
その間、リュカは自分たちの旅の意味を簡単にピエールに説明していた。幼い頃に父を亡くし、父が死ぬ間際に遺した言葉を頼りに、魔界に連れ去られた母を捜しているということを、包み隠さずリュカは話した。幼い頃に経験したそんな暗い過去を、大したことではないと言った様子で話すリュカを見て、ピエールはある種の感銘を受けたらしい。それからはリュカのことを『リュカ殿』と呼ぶまでになっている。すっかり尊敬の対象になってしまったようだった。
「今さら敵として戦えないよな」
「……そうかも知れん」
ピエールも頷く以外に方法がなかった。リュカに出会うまでは人間は全て敵だと思っていたが、話してみたら何とも居心地が良いと、ついふらふらとここまでついてきてしまったのだ。ピエールの心の中では、リュカは主人のような位置にまで上っている。
「じゃあ、これからよろしく、ピエール」
「こちらこそ、よろしくお願いします、リュカ殿」
リュカが手を差し出すと、ピエールが小さな手を出して握手を交わした。人間と魔物が握手を交わす姿が夕陽に照らされ、一枚の絵のように映る。一見美しいその光景に、ヘンリーは滑稽さを感じ、一人笑っていた。

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