2017/12/03

わがままからの脱却

 

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部屋で目覚めた時、まだ白々と夜が明ける頃だった。昼間には爽やかな青い色が広がる空も、まだ白っぽく霞みがかったように見える。朝も早い時間帯、町全体がまだ起き出していないように思ったが、町の人々はゆっくりと一日を始めようとしていた。
ベッドに寝転がりながら、開いた窓から空を見上げていたリュカは、ふと部屋の中に香ばしい匂いが漂っているのを感じた。油で炒める卵の匂いを敏感に鼻が感じ取ると、リュカは一気に目を覚まして布団を勢いよくめくった。
「起きたか、リュカ」
隣のベッドで寝ていたはずのヘンリーが、既に椅子に座り、グラスに注いだレモン水を飲んでいた。まだ朝日の届かない部屋の中では彼の表情があまり分からないが、さほど眠れていない雰囲気をリュカは感じた。
「いつから起きてたの」
「ちょっと前からだよ。なんとなく目が覚めてな。いい匂いもしてきたし」
朝から言葉数が多いことからも、彼がかなり前から起き出していたことが、リュカには分かった。グラスに注がれているレモン水もほとんどなくなり、水差しの水も底を尽きかけている。
「この宿では朝飯も早くに食えるみたいだぞ。さっきから何人か廊下を歩いて下の階に行ってるみたいだ」
「食べるところは下の階だったっけ。好きなだけ食べられるって聞いてるけど、本当かな」
「早く言った方がたくさんあるかもな。行こうぜ」
グラスに残った水を飲み干すと、ヘンリーは椅子から立ち上がって、さっさと部屋を出て行ってしまった。まだ起きたばかりのリュカも、寝ぐせの残るぼさぼさの髪の毛をかき集め、いつも通り後ろに無造作に結えると、慌ててヘンリーの後を追いかけた。
一階のロビーに出ると、丁度朝食を終えた二人連れの客とすれ違った。若い男女の客だったが、身なりを見る限り、リュカたちと同じように旅をしているように見えた。世界に魔物が多くなったとは聞いているが、それでも人々はそれぞれの理由で世界を旅しているのだと、リュカはどこかほっとする思いがした。
二人連れの客が出てきたところの扉上部に、『食堂』の文字があった。扉を開けてみると、そこは宿の外だった。二階のテラスとは違い、洒落た柵で囲われた広い庭のような場所に、幾席かのテーブルと椅子が並べられている。庭の一角に、宿の厨房とは別に、外で調理するための火や鉄板、食材が置かれ、飲み物も水や葡萄ジュースがいくつかの水差しに入った状態で置かれている。宿の調理人が鉄板の上で卵を落とし、その横で切ったパンの表面を香ばしく焼いている。そしてそれらが焼き上がると、調理人の前に立っていた女性の持つ皿に、手際良く乗せた。
「あそこに並べばパンと卵が食えるんだな」
ヘンリーは早速皿を手にして、舌なめずりしながら調理人のところまで歩いて行った。リュカも皿を手にしたが、調理人のいる台の他にも、野菜や果物、既に調理済みの料理が並べられてるテーブルもあり、思わずその場で目移りするようにキョロキョロと見渡した。するとリュカの視界に先ほど調理人からパンと卵を受け取った女性が入り、彼女がもう一つの皿にサラダを盛り付け始めるのを見た。
「本当に何を食べてもいいんだ。……いや、あの人は特別にそういうお金を宿に払っているのかな」
様々な食材を目の前にして食べられないことは考えられないが、食べた後にお金を請求されるのは尚悪い。リュカは女性の姿が、海辺の修道院で見ていた修道女たちの服装に似ていることから、安心して話しかけに行った。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」
リュカに話しかけられた尼僧はサラダを盛り付ける手を止め、ゆっくりと振り向いた。リュカよりも五つか六つ上だろうか、神に仕える者という理由だけではない落ち着いた雰囲気を漂わせている。
「はい、なんでしょうか」
「この食堂って、何を食べても怒られないんでしょうか」
リュカの聞き方がおかしかったのか、尼僧は小さく笑いながら「怒られることはないでしょうね」と優しく答えた。
「こちらの食堂は旅人に優しいことで有名ですからね。旅をする人に元気になってもらおうと、食事にはかなり力を入れてらっしゃるようですよ」
「あなたはこの町の方なんですか」
「いいえ、私は旅の尼です」
「女の人一人で旅をしてるんですか?」
リュカが驚いたように聞くと、その尼はまた小さく微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、連れがおります。さすがに女一人ではこの魔物が多くなった世界を旅することはできませんからね」
「ああ、良かった。今はその人は一緒にいないんですか」
「連れは朝に弱くて。これほど早い時間には起きられないと部屋で休んでいます」
「言われてみればそうですね、まだ早い時間ですよね」
「あなたはどうしてこれほど早くに食堂へ?」
修道服を着た女性にそう問いかけられ、リュカはさきほどのヘンリーの言葉を借りて答える。
「早くに来ればたくさん食べられるって思ったんで」
「まあ。まだお若いものね。たくさん食べて、たくさん動けるようにしないとね」
そう言うと濃紺の長衣をまとう尼僧は静かに席へ移動し、皿をテーブルの上に置くと、すぐにリュカのところへ戻ってきた。リュカがきょとんとしていると、彼女が「好き嫌いはありますか?」と聞いてきた。
「食べられるものなら何でも食べます」
「では私が適当にお皿に盛り付けてあげましょう。貴方はこういう場所に不慣れなんでしょう?」
「良く分かりますね。僕、こういう場所には初めて来たんで。助かります」
「食事もご一緒できれば、お互い旅人同志、お話でもしながら朝食をいただきましょう」
「……おい、何してんだよ」
ヘンリーが両手に皿を乗せ、皿の上には片っ端から料理を乗せ、見た目にはあまり美味しくなさそうな食事の皿を持って立っていた。皿の端に乗る燻製の肉が今にも落ちそうに垂れさがっている。
「この人が僕の皿を作ってくれるって言ってくれたから、お願いしてたんだ」
邪気なく笑うリュカを見て、ヘンリーは思わずため息をつく。
「あの、こいつ結構図々しいヤツなんで、相手にしなくていいよ」
「あら、図々しいんですか?」
「そうかな」
「そうだよ。図々しいっていうか、馴れ馴れしいっていうか」
ヘンリーがそう言いながら用心深く皿を持ち、適当な席を見つけに行こうとするのをリュカが止めた。
「席はこっちだよ。この人と一緒に食事することになったんだ。いいんですよね?」
「もちろん。私もあなた方の旅の話を色々とお聞きしたいですから、ぜひご一緒させてください」
「あんた、旅をしてるのか」
驚いたヘンリーが一瞬、注意力を失った。と同時に、手にしていた皿から、大事な肉の燻製が床にぼとりと落ちてしまった。食堂中に響くような声を上げ、食堂にいる人々の視線を一気に集めると、ヘンリーは床に落ちた肉を恨めしげに見てから近くのテーブルの上に皿を置いた。
「諦めてなるものか」
「床に毒でも塗られてない限り、死にはしないよ」
ヘンリーが床に落ちた肉を拾い上げ、埃を落とす気持ちで息を吹きかける。大した意味はないがヘンリーは手でつまみあげた肉を眺め回し、納得した様子でテーブルの上にある皿に乗せた。
「食べ物を大事にするというのは良いことです」
尼僧は笑いをこらえながら、勝手の分からないリュカのためにと、再び空の皿を手にして料理を取りに行った。



「お母様を探す旅をしてるんですね。ご苦労されて……」
「まだ探し始めたばかりなんで、苦労っていう苦労はしていないんですけどね」
リュカは口の中にパンを頬張りながら、尼僧と話をしていた。その場で焼いてくれるパンは、まだ温かい。パンを乗せる皿の横には、湯気の立つスープのカップが置かれている。そして上品に盛り付けられたサラダに、香ばしい焦げ目のついた燻製の肉。もちろん、パンの上には目玉焼きが乗っている。
朝早い食堂にはリュカ達の他に、片手に収まるほどの宿泊客しかおらず、さほど騒がしくない。リュカが使うフォークの音がカチャカチャと目立って響くほどだ。もう少し時間が経てば、目覚めた宿泊客が押し寄せ、会話をするにも声を張り上げなければならなかっただろう。話の内容として、三人ともさほど大声で話したくはないものだったため、この状況は丁度良かった。
「何かお母様の手がかりはつかめたんですか」
「手がかりって言うのかどうかわからないけど、ただ『魔界に連れ去られた』と父の手紙に残されていました。僕には魔界なんてどこにあるのかさっぱりですけど、きっとあるんでしょうね」
リュカの言う一言に、その尼僧は食事の手を止め、口の中のものを一気に飲み込んだ。つかえそうになったものを慌てて水で流し込み、一息ついてリュカに問う。
「魔界、お父様はそう仰っていたんですか」
「手紙に、そう書かれていました。父は魔界に連れ去られた母を救うために、僕を連れて世界中を旅していたようです」
リュカがさほど緊張感のない様子で、サラダに盛られた豆をフォークでつつきながらそう言うと、旅の尼は静かに目を閉じて息をついた。リュカの隣に座るヘンリーがつぶした芋の塊を口の中に放り込み、尼僧を注意深く見つめる。
「私は旅の尼です。まだ世界中を旅してきたわけではありませんが、私には感じることができます」
突然真剣に話し出した尼僧の様子に、リュカもヘンリーも食事の手を止めて彼女に向き直る。
「かつて神が閉ざしたという魔界。その封印の力が次第に弱まりつつあります。もし封印が破られれば、世界は再び闇に覆い尽くされるでしょう」
まるで独り言のように、尼僧はテーブルの上を虚ろに見つめながらそう言った。目の前にいる青年二人の存在を一瞬忘れてしまったような様子に、リュカもヘンリーも尼僧の信念の強さを感じる。
「封印の力が次第に弱まるって、どういうことですか」
食事の手を止めたまま、リュカは彼女に問い掛ける。せっかく温まっていたパンもスープもすでに冷え始めている。
「魔物の力が強くなってきているのは、お気づきでしょうか」
「僕にはよく分からないけど、旅をする人たちや町の人たちはみんなそう言っていますね」
「魔界の力が強まり、封印を押しのけようとしている。若しくは神の力が弱まり、封印を守りきれなくなっている。私はそのどちらかではないかと思っています」
「どちらも、ってこともあるんだろうな」
ヘンリーは再び食事の手を動かし始め、冷める前にとスープを一気に飲み干した。温くなっていたスープは何の苦痛もなく彼の喉を通り抜けた。神の存在自体を信じていないヘンリーは、真面目そうなこの尼僧の話を話半分に聞くことにしたようだ。
「神の力が弱まっているとしたら、それってどうしたらいいんでしょうか。それって、神様に頑張ってもらわないとどうしようもない気がするんですけど」
「魔界を封印したのは神です。しかし私は聞いたことがあります。どこかに魔界の封印を守っている一族がいると」
「一族? 人間がその封印を守ってるってのか」
「私も色々なところを旅してきましたが、その話を聞いたことがあるだけで、一体世界のどこにその一族がいるのか、本当にいるのかどうか、真偽は定かではありません」
尼僧はそこまで話すと、一度水を口にした。話をしているだけで、彼女はどこか緊張しているらしい。グラスを持つ手が少しだけ震えている。
「ただ聞いたことがあるのは、その一族の人たちは魔物たちとも心を通わせることができたと言われています」
想像もしていなかった尼僧の言葉に、ヘンリーは驚いたように目を大きく開け、そして隣のリュカを見た。リュカは呑気に少し固くなったパンにかぶりついている。
「魔物と心を通わせるなんて、まるでお前みたいだな」
「え、どういうこと」
当の本人がその事実を忘れていることに、ヘンリーは呆れたように溜め息をつく。
「スライムが仲間になったじゃねえか。もう忘れてるのかよ」
「ああ、そうか、スライムって魔物だったっけ」
「そもそもお前にはあいつが魔物って意識がないんだな」
「あ、あの、スライムが仲間にというのはどういうことでしょうか」
尼僧が急きこむように二人の顔を交互に見ながら問いかける。普通の人間から見れば、魔物が人間の仲間になるなど微塵も考えられないことだ。旅の途中で聞いてきた『魔物と心を通わせる一族がいる』という噂を、信心深い尼僧でさえ疑う気持ちで聞いていたのは間違いないことだった。
「僕たちの旅の仲間にスライムがいるんです。近くの村に行った時に懐いてきて、そのまま仲間になりました」
まるでそこら辺の犬か猫が足元にじゃれついてきて離れないので、旅に連れて出ることにした、くらいの気軽さでリュカが話す。リュカの話を聞いている尼僧は目を丸くして、言葉もなく、風聞に聞いていた噂が事実になったことを理解しようとしている。
「そういえばモンスター爺さんも魔物と仲良くなれるんだっけ。ひょっとしてあの爺さんが魔物の封印を守る一族? ……そうは見えないよな」
「何とも言えないけど、もしそういう使命を持っていても気にしてなさそうだね。でも実はすごい人なのかもしれないよね、あれだけの魔物と仲良くなれるんだから」
「あの爺さん自身が実は魔物だったらどうする」
「問題ないよ、ああして町の中で人を楽しませてくれてるんだから。町を襲おうと思えば、とっくに襲ってるはずだよ」
「それもそうか」
そう言うと、二人は各々食事の残りを掻き込むようにして一気に食べた。みるみる皿がきれいに片付いて行くのを、尼僧はそんな二人の様子をぼんやりと見つめながら、まだ何事かを考えこんでいるようだ。
「オラクルベリーの町には行ったことがあるのか」
尼僧の思考を遮るように、ヘンリーが水を飲みながら問い掛けた。食事を終え、グラスに入っていた水も底をついている。尼僧は彷徨いかけた思考を落ちつけるために、まだほとんど飲んでいないグラスの水を一口飲む。
「オラクルベリー、町の名は聞いていますがまだ行っておりません。大きな町なのでしょう」
「ここと比べてもかなり大きな町だ。そこにコイツとおんなじように、魔物を手懐ける爺さんがいるんだよ。もし興味があったらその爺さんに話を聞きに行ってみたらどうだ」
旅をしていると言う尼僧には良い話だろうと、ヘンリーは彼女にそう提案した。尼僧はまたしても驚いた様子で目を大きくし、勢い込んだ様子で「では早速旅の連れにも話してみます」と笑顔で応えた。
リュカとヘンリーが朝食を終える頃に、尼僧の連れの男性二人が食堂に姿を現した。一人は体つきの大きい戦士風の男、もう一人は眼鏡をかけ神経質そうな顔をした魔法使いの男だ。朝に弱いのはどうやら魔法使いの男で、まだ上手く開かない目を何とか凝らして尼僧の姿を見つけると、無表情のまま近づいてくる。
「じゃあ僕たちはこれで。町を回ってきますので」
「あら、そうですか。ではまた会う機会がありましたらお話でも聞かせてください」
「物騒だからな、くれぐれも命には気をつけろよ」
「貴方がたにも、神の祝福があらんことを」
まだ食事の半分も済ませていない尼僧だが、リュカとヘンリーのために祈りを捧げてくれた。神の存在を信じない二人にとっては意味のないことのようにも思われたが、人の祈りの気持ちは二人の心にも届く。リュカとヘンリーは二人してゆっくりと頭を下げ、そのまま食堂を後にした。そんな二人の後ろ姿を見ながら、尼僧は二人の旅人に、見た目では到底想像できないような、どこか高貴な雰囲気を感じていた。



朝まだ早い時間、町がようやく起き出す頃だ。まだ武器屋や防具屋など、店舗は開いていない。町の大通り沿いに立ち並ぶ店先には人の姿はなく、代わりに店の周りに夜の散歩を終えた猫がうろついているだけだ。店舗周りを掃除する人が現れる前に、野良猫は食べ物が何かおちていないかと、猫らしい注意深さで姿勢を屈めて歩いている。
「干し肉は持ってないよね」
「あえてやる必要もないだろ。こいつはこいつで逞しく生きてるさ」
「もしかしたらここで毎日餌を見つけるのが日課なのかも知れないね。邪魔しちゃ悪いか」
「俺たちも、人のこと……じゃなくて、猫を構ってるほど金に余裕があるわけでもないし」
まだ早い時間の大通りには、ちらほらと散歩をしている人がいるだけだ。周りの家では朝食の支度をしているのか、家の屋根の上の煙突から生活の煙が空に向かってたなびいている。町の一日がこれから始まろうとしていることに、リュカはここアルカパの町は生きているのだと、嬉しさがこみあげてくるのを感じた。
ビアンカはこの町からいなくなってしまったが、彼女との思い出はまだ胸の中にちらほらと残っている。リュカは幼い頃、ビアンカに町の広場に連れて行ってもらったことを思い出した。広場は町の入り口を入ってからすぐ左手に広がっているはずだ。
それを思い出したのは、ちょうどリュカの目の前を横切った猫が、そのまま足早に大通りの端をとっとっと走り、茂みの中に姿を消したからだった。猫の後ろ姿が、リュカにはプックルにしか見えなかったのだ。あの時も、プックルの後を追いかけて広場まで行った記憶が、鮮明に蘇ってきた。
「どうせまだ店も開いてないし、広場に行ってみよう。そこなら人がいるかも知れない」
「広場か。まだ町の人も朝の散歩をしてるみたいだし、散歩のついでに広場に集まってるかもな」
町の広場へ行くには、途中、周りをぐるりと囲む堀を渡す大きな板橋を渡って行く。リュカはこの時になって初めて、広場が堀に囲まれていたことを知った。まだ幼かった頃はそこまで周りの景色に目が行かず、ただ必死にビアンカやプックルの後を追いかけていただけだったのだと、我ながら苦笑する。
早起きしてすでに朝食を済ませてきたのだろうか、数人の子供たちが早々と遊び始めていた。かけっこや木登りなど、遊び方は昔と変わらない。そこに二人の青年が足を踏み入れても、子供たちは警戒心を持つこともなく、一度ちらと見ただけで、何事もなかったように遊びを止めない。つい十数年前のことだが、リュカは懐かしむ思いで子供たちを見つめていた。
広場の中には子供たちの他に、リュカ達と同じくらいの青年の姿があった。広場の一角で二人は檜の棒を持って対峙し、棒を構えてじりじりと間合いをはかっている。広場の平和な雰囲気の中では異様な光景だっただけに、リュカとヘンリーは二人してその青年たちを見遣った。
どうやら剣の稽古をしているらしかった。剣に見立てた檜の棒を打ち合い、小気味良い音を広場内に響かせている。広場で遊ぶ子供たちはそんな状況に慣れているのか、珍しいと言った目も向けず、遊びに集中している。
「行ってみよう」
自分たちと同じくらいの年の人間になら話も聞きやすいだろうと、リュカは迷わず青年二人に向かって歩き出していた。躊躇ないリュカの行動にはいつも度肝を抜かれるが、否定する理由もないヘンリーは彼の後を早足で追いかけた。
二人の青年は、リュカとヘンリーが近づいてくるのを見るなり、構えを解いて、近づいてくる旅人二人を怪訝な顔つきで見た。そんな警戒心を出す青年二人の様子には構わず、リュカは気さくな雰囲気を出して彼らに話しかけた。
「朝から稽古ですか。どこかの兵士さんなんですか」
何の邪気もないまるで子供のような問い掛けに、声をかけられた青年二人は呆気に取られている。
「こいつは兵士だったんだけどな」
比較的体つきの大きい青年が、茶色い短い髪を掻きながらそう応えた。まだ顔にニキビがあるのを見ると、やはりリュカたちとそれほど年は変わらないようだ。
一方、元兵士と言われた少し小柄な青年は、どこか少し気弱そうな表情で、茶色い目をリュカに向けてくる。兵士だった割には線が細く、よほどもう一人の大きい青年の方が兵士には向いていそうだった。
「こいつ、ラインハット城から逃げ出してきたんだぜ」
その一言に、リュカとヘンリーは思わず息を飲んだ。ラインハットという言葉をここで聞けるとは露ほども考えておらず、何も返事ができずに青年の次の言葉を待つことしかできなかった。
「噂には聞いてたけど、あの城がそれほどひどくなってるとは知らなかったな」
「ひどくなってるって、どういうことだ」
まるで掴みかかるような勢いで聞くヘンリーを、リュカが彼の肩を押さえて落ち着けようとする。いつも通りヘンリーを名で呼ぼうとしたが、突発的にそれは避けなければならないと脳が判断する。ラインハットの話をする時にヘンリーを名で呼ぶことを、リュカは咄嗟に避けた。
茶色髪の青年が、小柄なもう一人の青年に目を向ける。「お前、実際に行って見て来たんだろ。話してやれよ」と促されると、小柄な青年はあまり思い出したくないと言った様子で嫌々話し始める。
「君たちは、ラインハットには行ったことがある?」
そう問い掛けられ、リュカもヘンリーも答えに詰まった。行ったことがあるどころか、ヘンリーがその国の王子だったなんてことは間違っても話すことはできない。
「まだ行ったことがないんだけど、僕たち旅をしてるからこれから行くかも知れないね」
リュカがそう言いながらヘンリーを見たが、彼はリュカに応えるどころか、その視線から逃れてしまった。
「そもそもどうしてラインハットから逃げてきたの? 逃げるなんて、普通だったらしないよね」
「普通じゃないんだ、あの国は。富国強兵をうたって片っ端から兵士を募ってるんだ。だから僕はラインハット兵として志願したんだよ」
ヘンリーがいたころのラインハットと、富国強兵というラインハットが結びつかず、本当に同じ国のことを話しているのかさえリュカには不安になった。もしかしたら同じ名前の違う国のことをはなしているのではないかと思ったが、その望みもすぐに消え去った。
「まいっちゃったよなぁ。わがまま王子がいなくなって弟が王位を継いだと聞いたから、あの城の兵士になったのに……。実権を握っているのは王様の母親の大后様で、これがとんでもないんだ! あの城ももうおしまいだな」
「バカ! そんな大きな声で言うなよな。あの国の悪口を言っただけでとっ捕まるかも知れないぜ」
「あっ、そうだね。何をされるか分からないから気をつけないと」
友人にたしなめられ小声になったとは言え、小柄な青年は吐き捨てるようにそんなことを言った。ラインハットの良い噂をこれまでに聞いたことのないリュカとヘンリーだが、ここまで決定的に打ちのめされる話を聞いたのは初めてだった。
小柄な青年の話すラインハットは間違いなく、ヘンリーがいたラインハットだ。そこでのわがまま王子がヘンリーで、王位を継いだ弟がデール、母親の大后がヘンリーの継母。その中に、ヘンリーの父であるラインハット王の話が出てこないのは、既に父がこの世にいないということを物語るのを、ヘンリーもリュカも当然のように感じていた。
思い出せば、オラクルベリーの町でも「北の城」の話を聞いている。その話の中では先代の王が亡くなったという内容が含まれていた。その時は「北の城」がラインハットだと知らなかったが、本当はサンタローズを訪れる時にその事実に気付いていたはずだった。だが、リュカもヘンリーもサンタローズの惨劇に目を奪われ、ラインハットの真実に目を向ける余裕を失っていた。
ヘンリーが何も言えずに俯いているのが、リュカは見ないでも分かった。心の準備もせずに、故郷の変貌を聞かされ、少なからず頭が混乱しているに違いないと、リュカは彼を連れて話を聞いていた青年二人から離れようとした。
しかしヘンリーがリュカの優しさを振り払う。目を向けたくない故郷の現状だが、これ以上目を逸らすわけにはいかないと、元兵士の小柄な青年に問いかける。
「なあ、ラインハットは今でも兵を募ってるのか」
真剣なヘンリーの表情に、青年二人は顔を見合わせる。小柄な青年が首を縦に振って答える。
「あの国は若い男が兵士と志願してくれるのならいつだって歓迎するよ。国を強くしようと躍起になってるんだから」
「じゃあ俺たちが志願しても、簡単にパスできるもんかな」
「志願するの? あまりオススメはしないけどな。だってあの国は人間を人間とも思えないような……」
「しーっ! 声を抑えろよな。……あんたたち旅人さんだろ。悪いことは言わないからあの城には近づかない方がいいぜ。俺は実際に見たわけじゃないけど、こいつの話だと城の中に魔物がいたって話だからな」
「魔物がいるだと? どういうことなんだ」
「知らねぇよ。ただ城の中に魔物がいるなんて、それだけで異常だろ。もう魔物に乗っ取られてるんじゃねぇのか、ラインハットは」
身体は大きい割に慎重な青年は、周りに誰もいないと言うのに内緒話をするかのように声を小さくして話していた。広場の中央には子供たちがぎゃあぎゃあ騒ぎながら駆けまわっている。ラインハットの物騒な様子とは正反対で、遊ぶ子供たちは至って平和だ。
「そうか、そんなひどいのか。ありがとな、話聞かせてくれて」
力なく礼を言うと、ヘンリーはゆっくりと広場の奥へと歩いて行った。リュカも青年二人に礼を言い、ヘンリーの後を追いかけ、すぐに追いついて共に歩いて行った。二人の旅人の姿が広場の奥へと消えると、青年たちは再び棒を構えて、チャンバラごっこさながらの剣の稽古を始めた。兵士に志願しただけあって、小柄な青年は稽古自体は好きなようで、体格では負ける大柄の友人にその剣技で優勢の立場を取っていた。
広場の隅に、人々が憩いの場所として使う丸太の椅子と一枚板のテーブルが置かれている場所があった。近くには売店があり、既に営業を始めている。水は無料で飲めるようで、リュカはうなだれるように丸太の椅子に座るヘンリーを置いて、水をもらいに売店近くまで歩いて行った。
水を手にとってテーブルのところに戻ると、ヘンリーがテーブルの上に突っ伏していた。大きなテーブルの端に、小鳥が二羽跳ねるように移動している。まるでヘンリーに寄りそうように近づいて行く小鳥を見て、リュカは幼い頃にラインハットのヘンリーの部屋を訪れた時のことを思い出した。あの時彼は、小鳥にパンくずをやっていた。窓辺に集まる小鳥の姿を見て、リュカは初め不思議に思ったのだ。その後すぐに小鳥たちを追い払ってしまったヘンリーだが、本当は小鳥に傍にいて欲しかったのかもしれない。それだけ彼は、孤独だった。
リュカが席に座ろうと木の小さなコップをテーブルの上に乗せると、小鳥たちは驚いたように飛び去ってしまった。近くの木に止まった小鳥たちにリュカは「ごめんね」と小さく謝り、ヘンリーの向かいの席に腰を下ろした。
しばらく声もかけずに、リュカはぼんやりと空を眺めていた。白い元気な雲が空にたなびき、一日一日と夏に向かう日差しが強さを増してきている。朝早くから起き出して行動していた二人だが、時間は朝をとうに過ぎた。
広場には親子連れの姿も見える。まだ二、三歳ほどの子供を連れた母親が、元気に走り回る我が子を穏やかな表情で見つめている。たとえ魔界の封印が弱まろうとも、それとは構わず人々はその日その日を暮らしている。誰しも、目の前のことをやるしかないのだ。
目の前でまだ顔を上げないヘンリーの頭を見て、リュカは再び視線を空に投げる。太陽は東の空からすでに南に行き着きそうな位置にまで昇っている。東の空は鮮やかな青に染まり、山々の稜線が東への視界を遮る。山のはるか向こうにサンタローズの村、そして不穏な噂の聞こえるラインハットがあるとは想像できないほど、空は晴れ渡り、清々しい。
「どこへ行ってもラインハットのいい噂は聞けないんだな」
突っ伏しながらヘンリーが言うのを、リュカは黙って聞いていた。独り言として流して欲しい、そんな彼の気持ちが読みとれて、リュカは水を口にしながら今度は広場の様子をぼんやり眺め始めた。
突っ伏していたヘンリーがその姿勢のまま顔だけ横に向ける。広場の方へ向けた視線は、広場を見渡すのと同時に東の方角へ向いている。リュカはヘンリーが広場を見ているわけではないことに気付いたが、やはり何も言わなかった。
「俺がこんなことを気にしてもどうしようもないんだよな。俺はもうラインハットの人間じゃないんだから」
「本当にそう思ってるの、ヘンリー」
思わず言葉を挟んだリュカだが、言わずにはいられなかった。リュカの思わぬ鋭い声に、ヘンリーがぱっと顔を上げる。
「君はラインハットの人間だよ。それも国を代表するような人なんだよ」
「それは昔の話だろ。今になって誰がそんなことを思ってくれるんだ。親父だって、もういないんだ」
十余年も前、イタズラばかりする我が子に手を焼くラインハット王は、毎日幾度となく息子を叱り、諌めようとしていた。イタズラをすれば構ってくれると気付いた息子は、毎日毎日父親に叱られようとも、懲りることなく次から次へとイタズラを考え出し、仕掛けていった。何をしても許されると、当時のヘンリーは高をくくっていた。
ある日、城の中では見かけない親子連れの旅人が姿を現した。ヘンリーとさほど変わらない年頃の息子を連れた旅の戦士に、ラインハット王は我が子の子守りを頼んだ。ヘンリーはその事実を聞いた時、恐らくラインハット王には想像もできないようなショックを受けていた。イタズラばかりする息子にとうとう愛想を尽かし、見捨てたのだと、ヘンリーがそこまで思いつめてしまったことを、ラインハット王はついぞ知ることはなかった。
ヘンリーにとって、父親であるラインハット王は唯一の強い味方だったのだ。最後には自分を守り、庇ってくれると、彼は父を最も信頼していた。ただ、その気持ちが上手く伝わらなかっただけだった。
「もう一人、血の繋がってる弟がいるんだよ、君には」
忘れているわけではない。リュカに言われなくとも、ヘンリーの頭の隅には常にその存在がある。今しがた、広場で町の青年と話していた内容にも、わがまま王子の弟の話は出てきた。それが自分の弟デールだということは疑いようもない。今もデールは生きて、ラインハット王の地位についているらしい。
「あいつとは……半分しか繋がってないよ」
「そんなの関係あるの? 弟だってことは間違いないでしょ」
「でも今さら俺が戻ったところで、あいつが俺を覚えてるとは思えないな」
「いつまで逃げるのさ、ヘンリー」
妙に喧嘩腰の口調になってきたリュカに、ヘンリーも少々頭に来たように、身体を起こしてリュカを睨む。
「逃げるって何なんだよ。俺は、俺が今さらあの国に行ったところでどうしようもないって事実を言ってるだけだ」
「事実とか、そういうことじゃなくて、ヘンリーがどうしたいかだけだよ。血が半分しか繋がってないとか、覚えてないだろうから行く必要もないとか、そういうことじゃなくってさ」
「どうしたいかなんて分からねぇよ。どうしたらいいのかも分からないんだ。ただ……もどかしいだけで……」
ヘンリーはそう言いながら、テーブルの上をドンッと強く拳で叩いた。テーブルの上に乗っていた木のコップが倒れ、テーブルの上に水が広がる。売店の人間が驚いた様子でリュカとヘンリーを恐る恐る見ている。
リュカは倒れたコップを立て直し、静かにテーブルの上に置いた。しかし表情は怒ったように鋭い目をしている。
「君がラインハットに行きたくないんなら、無理にとは言わないけど……もう届くところにいるんだよ、デール君」
デールの名を聞くと、ヘンリーの顔が歪む。頼りない、後を付いてくるしか能のないような弟の情けなく幼い顔が目に浮かぶ。
「二度と会えないわけじゃないのに、会いに行こうとしないなんて、わがままだよ」
「……なんだよ、それ」
「だって、僕もヘンリーも二度と父さんには会えないし、今、海辺の修道院にいるマリアさんだって、ヨシュアさんとは会えない場所にいるんだよ」
予想もしていなかったマリアの名に、ヘンリーは思わずたじろいだ。リュカの言う通り、マリアは今もあの海辺の修道院で祈りを捧げる毎日を送っている。彼女にはそうすることしかできないのだ。奴隷として働かされていたあの大神殿建造の地に、行こうと思っても行ける場所ではないし、そもそも場所が分からない。マリアは自分の無力さを感じながらも、毎日、奴隷の人々の解放を願い、兄のヨシュアと再び会えることを夢見ているに違いない。
それに比べて、行こうと思えばいつだって足を伸ばせるラインハットから、むしろ足を遠ざけようとしている自分は一体何なのだと、ヘンリーは身体の力が一気に抜けて行くのを感じた。椅子から立ち上がりかけていた腰を椅子に下ろし、深く息をつく。だがそれだけで、まだ頭の中はまとまらず、様々な思いが交錯している。
一方で正面に座っていたリュカが席を立った。ヘンリーが力なく見上げると、リュカは無表情のまま彼に言う。
「僕一人でちょっと町を回ってくるよ。今日もあの宿に泊まるつもりだから、気が向いたら来ていいよ」
いつもの穏やかなリュカの口調ではなかった。突き放すような冷たい口調に、ヘンリーはリュカが本気で怒っているのを感じた。直接言われたわけではないが、いつまでも我儘を言ってるんじゃないと、叱られた気分だった。
リュカが立ち去り、ヘンリーは広場の隅にある憩いの場で一人、広場の様子をぼんやりと眺める。しかし目に映るのは広場の景色ではなく、過去のラインハット城の中庭の景色だ。十年以上経った今でもこうして鮮明に思い出せる景色を、今後忘れ去る自信がヘンリーにはなかった。
「兵を募ってるって、言ってたよな……」
ヘンリーの呟きは、再びテーブルの上に下りてきた小鳥たちにしか聞こえていない。



夜空は晴れ渡り、欠けた月の光が周りの星々と共に地表を照らす。その光は窓からも入り込み、宿の部屋の中を群青色に染めていた。町の灯はすっかり消え、もう真夜中になろうとする時だ。月の灯りが一際輝いているように見えるのは、地上の灯りが失せているからだろう。
町が眠りに就いてしばらくの後、ヘンリーは宿に戻ってきた。部屋は昨日と同じで、静かに扉を開けると、既にリュカは寝息を立てて眠っていた。町や村の外にいる時はどんな小さな異変が起こってもすぐに目を覚ますリュカだが、こうして宿で眠りに就いている時はよほどのことがない限り目を覚まさない。ヘンリーが部屋の扉を閉める時に軋む音を立てても、変わらず一定の寝息を立てて眠りこんでいる。
部屋のテーブルの上には手書きの地図が広げて置かれていた。月光に照らされるその地図には、オラクルベリーからサンタローズまでのごく狭い範囲しか描かれていない。オラクルベリーでこの地図を描いた時はまだ、北に目指す村がサンタローズだということすら知らずにいた。知らなければ、そのままで良かったのかも知れないとふと考えるヘンリーだが、旅を続けるのであれば、サンタローズもアルカパも、ラインハットも知らずに通れない場所にいたのだと、諦念の気持ちで小さく息をつく。
腰掛けたベッドは宿の者の手によって丁寧に整えられ、清潔な香りがした。靴を脱いで中に潜り込むが、恐らく眠気は襲って来ないだろうと、ヘンリーはちょうど見上げる位置にある月を眺める。見える月は遥か遠く、到底人間の手には届かないところにある。まだ人間が月に到達したという話はお伽噺の中でもきいたことがない。
「もう届くところにいる……そうだよな」
ごく小さな声で呟いたヘンリーだが、その声に反応するようにリュカが身じろぎをした。
「おかえり、ヘンリー」
「起きたのか、リュカ」
起きてたよ、とはリュカは言わなかった。いくら月光が部屋の中に届いていても、互いの顔がはっきりと見えるほど輝いているわけではない。ただそこにいる、という空気だけを感じ、リュカは見えない相手と話をする。
「そろそろ寝た方がいいよ。眠れない?」
リュカの言葉に、いつもだったら真っ先に否定して、すぐにでも眠りに就こうとするヘンリーだが、思いとどまるように口を噤んだ。自分の我儘は自覚しているつもりだったが、リュカの言葉を否定すること自体が我儘なのだと気付く。
「ちょっとお城のことを思い出していてな」
素直に口にしてみれば、案外素直になるのは簡単なのかもしれないと、ヘンリーは勢いに任せて話し続けた。
「親父が死んでたなんて、ちょっとショックだったな」
思っていても、リュカの前では言ってはいけない言葉だったと、少し前ならそう考えていただろう。リュカの父を殺したのは他でもない自分だと、ヘンリーは常に心の奥底に自戒の念を持っている。しかし反省し、リュカからその気持ちを遠ざけたところで、同時に自らもその事実から逃げていたのだとふと気付いた。
「僕もショックだったよ。君のお父さんともう一度話してみたかった」
リュカは幼い頃、ラインハット王と話をしたことを覚えている。あの時見た王の空色の瞳が、ヘンリーそっくりだった。王様という割には構えた様子もなく、リュカのような小さな子供にも気さくに話しかけるような王だった。
「デールのやつが王になったけど、あんまり評判も良くないみたいだし」
「デール君って、本当は王様なんかになりたくなかったんじゃないかな」
「……多分な。だけど母親があいつを王にしようと躍起になってたから、逃げられなかったんだよ」
言いながら、ヘンリー自身、もう逃げ場はないのだと覚悟をした。ラインハットを避けて旅を続けたとしても、行く先々でラインハットの噂を全く耳にしない、という選択はできない。人々は嫌でもヘンリーの耳にその噂を聞かせるだろう。
「ちょっとだけ帰ってみるかな」
ごく小さな声だが、静まり返った部屋の中にははっきりと響いた。ヘンリーは胸中にある思いを、全て素直に吐きだした気持ちがした。素直に言うことと、我儘を通すことはこれほどまでに気持ちが違うのかと、新しい世界を覗いたような気にさえなった。
「じゃあ決まりだね、次に行くところ」
「悪いな、寄り道させて」
「僕たちの旅は寄り道ばっかりだよ。だってどこに行ったらいいのかわからないんだからさ」
「思い立ったが吉日って言うな」
「うん、明日にはアルカパを出よう」
「ここからだとラインハットの関所までどれくらいかな。二日くらいあれば……そこからラインハットまでは……まあ、いいや。大した距離じゃないだろ。行けば着く。今夜はもう寝よう寝よう」
真夜中にも関わらず頭が回転を始めたが、ヘンリーは今色々な計画を立てたところで、予定通りにことが進むとは限らないと、考えるのと中止した。旅の進み具合は天候にも左右される。たとえば明日嵐になったら、町を出ることも叶わない。旅の計画は大まかに考えておけばいい。
ヘンリーはベッドの上に仰向けに寝転がり、再び月を見上げた。欠けた月は雲ひとつかかることなく、相変わらず夜空は晴れ渡っている。
隣のベッドにいるリュカは、早くも寝息を立てていた。「アルカパを出よう」と言った瞬間に眠りに落ちたのかと思うほどの素早い寝入りように、ヘンリーは苦笑した。昼間、怒りの表情を見せたリュカも本当のリュカだが、こうして何も考えずにすぐに寝入ってしまうのもリュカだった。彼はいつでも素直で邪気なく、だから人の心も魔物の心も動かしてしまうのではないかと、ヘンリーにははっきりとリュカを羨む気持ちがある。
しかしラインハットへ行くことを決めた今、その羨む気持ちがいくらか凪いだのを感じた。素直に自分の気持ちを言うことはこれほどに清々しいものなのかと、ヘンリーはしばらくの後、心地よい眠りに就いた。

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