2017/12/03

枝分かれする道(後編)

 

この記事を書いている人 - WRITER -

「あ、兄上」
「どうした、デール」
「探したんですよ、部屋にいないからどこにいったんだろうって」
「ちょっとくらい息抜きさせてくれよ。あの部屋にずっといたら息が詰まって死んじまう」
城の二階、東側に位置する幼い頃のヘンリーの部屋は今、彼の執務室として一時的に使用している。ヘンリーにとってはあまり良い思い出のない場所ではあるが、一人で作業をするにはこの場所が適していると、自らこの部屋を執務室とすることにした。
広い廊下の両脇にはいくつか明かりが灯され、大窓からも月明かりが差し込んでいる。まだ夜の早い時間ではあるが、季節が進み、日が落ちるのが早くなっている。
「ちょうどいいや、兄上の部屋で話をしましょう」
「おいおい、国王が王室を離れてていいのか」
「僕は大臣に伝えてありますから大丈夫です。兄上こそ、誰にも何も言わずに勝手にどこかへ行かないでくださいよ」
「大した影響はないだろ、俺一人いなくなるくらい。十年以上もいなかったんだから」
「冗談でもそういうことは二度と言わないでください。怒りますよ」
「悪い悪い」
本気で怒りを滲ませるデールの声に、ヘンリーは苦笑いしながら執務室の扉を開けた。部屋の中は薄青い月明かりが差し込み、扉を開けたと同時に風が流れ込み、机の上に重ねられた書類が風に煽られ落ちてしまった。
ヘンリーが机の上に置かれた燭台に明かりを灯すと、デールが書類抑え用の丸く透明な石を積まれた書類の上に乗せ、床に落ちた数枚の紙を拾い上げた。本来は全てデールが決済するべき事案だが、国王一人に任せてしまうのは今までのラインハットの独裁政治を反省していないことになると、ヘンリーや大臣、数人の見識者にも書類を回覧し、それぞれから承認を得ることになっている。
「よくもまあ、こんなに細かいことをちまちました文字で書けるもんだよなぁ」
「実際に国を動かすとは言っても、やることは地味なんですよね。でもこういう積み重ねをしていかないと、国民からの信頼を取り戻せませんから、僕は頑張りますよ」
「ところで何だよ話って」
ヘンリーは書類の山を指先でペラペラと手持ちぶさたに捲りながら、数枚の紙を抱えるデールに言った。デールは手にした紙を書類の山の上に乗せると、窓際に寄り、大きく開かれた窓を少し閉じた。窓の外には細い月が見える。
「あと一週間以内には、ビスタ港に船が入るそうです」
デールの事務的な報告に、ヘンリーは表情を変えずに「そうか」と一言呟いた。
「兄上からリュカさんに伝えてもらえますか。旅の支度もあるでしょうから、なるべく早い方が良いと思います」
「旅支度なんてとっくに済ませてるよ、あいつは」
「気持ちの支度ですよ。兄上だって見送りする気持ちの支度が必要でしょう」
「大丈夫だ、それもさっき済んだ」
「そうなんですか」
デールが意外そうにヘンリーの顔を覗きこむと、ヘンリーは余裕を見せる笑みで一度頷いた。
「あいつにはあいつのやるべきこと、俺には俺のやるべきことがある。互いにそれに向かうだけだ」
幼い頃の兄の境遇を、デールはおぼろげながらに覚えている。決して良い環境ではなかったはずだ。ヘンリーの義母に当たるデールの実母が、ヘンリーに常日頃辛く当たっていたのを目にしている。それだけではなかっただろうが、幼い頃のヘンリーはひねくれ者で、何一つ物事を正直に捉えることはなかった。全てに疑いの目を向け、何も信じようとはしていなかった。
しかし十余年の後に戻ってきたヘンリーはすっかり変わっていた。ラインハットの窮地を全力で救おうと、正面から挑んできた。父王譲りの空色の瞳は澄みきり、周囲にいる人間全てを疑うような敵意のある眼差しをどこかに捨て去ってしまったようだった。
そんな人間に兄を変えたのがリュカという青年なんだと、デールは心の内でリュカに秘かに嫉妬を覚えていた。しかし同時に深い感謝を覚えた。異母兄弟である自分には到底できないことだったと、その事実に歯噛みしながらも、新しく生まれ変わったような兄の姿にデールはリュカにこの上ない感謝の念を感じていた。
この十余年に兄やリュカに何が起こったのか、デールは詳しい話を聞いてはいない。それを聞く権利が自分にはないのだと悟っている。もし兄が自ら話してくれる時が来れば、その時に聞けば良いと、デールはこの先数年、数十年とその時を待とうと思っていた。
「リュカには明日にでも言っておくよ」
「そうですね、ビスタ港に行くまでにも数日かかるでしょうし。それと兄上、マリアさんはどうするんですか」
「どうするって、何だよ」
「彼女も修道院に戻らなくてはならないんでしょう。リュカさんが旅立たれる時と同じ日に馬車を用意しましょうか」
「マリアは……もう少しここに残ってくれるみたいだ」
「そうなんですね。それなら安心しました、まだ間に合いますね」
「間に合うって、何の話だ」
デールの考えに思い至らず、ヘンリーは窺うようにランプの灯に照らされた弟の顔を見る。デールは大窓を背にしながら、足を組んで椅子に座るヘンリーに無邪気な笑顔を向けた。
「できればマリアさんにはここに残って欲しいと思っているんです」
まるで自分の口から出た言葉かと、ヘンリーは一瞬息を呑んだ。つい先ほど、教会でマリアと話していた会話を、デールに聞かれていたのではないかとこっそりと訝しんでしまう。
「城内での評判もいいんですよ、マリアさん。彼女と話すのを目的に教会に通う兵士もいるとか」
「そんなヤツがいるのか」
「教会には神事に慣れたシスターもいますが、シスターとはまた違う角度で人々の話を聞いてくれるんでしょうね」
「修道女としてもまだ見習いみたいなもんだから、身近に感じるのかもしれねぇな」
「そうなんですか?」
「つい数カ月前だよ、マリアが修道女として洗礼を受けたのは。それまでは……普通の女の子だったんだ」
ヘンリーはデールに、ラインハットから失踪していた十余年の出来事をまだ話していない。雲海を望むような山の頂で、大神殿建造のために奴隷として働かされていたなどと話したら、デールはヘンリーを今の仕事から追い払ってしまうだろう。兄が味わった苛酷な労働の日々を聞いたら、デールはラインハットを建て直すために奔走している兄の行動を無理にでも止めてしまいかねない。そして兄に十分な休息を与え、一方でデールは最大級の自責の念に駆られることになる。
明るくヘンリーに接しているデールだが、かつてヘンリーを追い詰めていたのが自分の存在だったということを、デールは消えることのない傷として常に腹に抱えている。異母兄弟であるヘンリーが幼い頃から不遇の人生を送ってきたのは自分がこの世に生れてしまったからだと、デールはふとした時に考えこむこともある。
「それではどうしてマリアさんは修道女になったのでしょうか」
「流れってヤツなんだろうな。まあ、人生なんて大方流れだ」
「ではこのラインハットに残って欲しいと頼めば、残ってくれますかね」
「……さあ。それはマリアが決めることだ」
まさかつい先ほど、自分がマリアにラインハットに残って欲しいと打診しているなど、デールに言えるはずもなかった。話したところで何か問題になるようなことでもないが、彼女にそう頼んでいるという気持ちをデールに悟られたくはなかった。
「だけどどうしてそんなにマリアにこだわるんだ」
「それなんですけどね、実は母上が彼女のことをいたく気に入っていまして」
デールの話を聞きながら、ヘンリーは頷きながらも思わずうなり声を上げていた。
デールの母、太后は今やラインハット国民にとって最も疎んじられる存在となり下がっている。国民の前で反省や自責の念を述べ、十余年に渡る悪政を詫びた彼女だが、その彼女の言葉だけで国民の信頼を全回復するには到底及ばない。身なりも質素にし、常に国王であるデールの後ろに静かについている姿は、それまでの華美な太后の印象を一新したものの、十余年の間に国民の間に染みついた不信を払拭するにはこれからさらなる年月が必要なのは確かだ。
そんな太后に対して、唯一偏見を抱かない人物がマリアだった。リュカもラインハットのことをほとんど知らない人物だが、彼は人一倍太后に対して敵意を抱いている。ヘンリーの命を奪おうとした敵として、恐らく彼はこれからも太后を許すことはないだろう。
その点、マリアはラインハットのことを何も知らない。ラインハットという国に純粋な目を持っているマリアにとって、太后というのは国王の母親であって、世間一般の母親と同様に我が子を一番に愛する一人の女性でしかない。ラインハット国内では誰に責められようとも受け入れるしかない太后が唯一、心の拠り所としているのがマリアなのかも知れなかった。
「マリアさんさえ良ければこのままラインハットに残ってもらって、母上の話相手として……」
「あのなぁ、それはさすがにマリアの負担になると思うぞ」
「不自由はさせません。寝食については今まで以上のものを用意しますし、教会に通うことを制限することもないですし、服だって今着ている修道服よりももっと良いものを……」
「マリアはそういうのを求める女じゃない」
言葉を遮られるようにきっぱりと言ったヘンリーに、デールは驚いた様子で息をのんで言葉を止めた。執務机の上で揺れる明かりに照らされる兄の表情は、怒るというのではなく、どこか苛々したもので、デールはそれだけで兄の気持ちの一部を覗いた気がした。しかしその気持ちを正面から聞いたところで、恐らくヘンリーは自分の気持ちを誤魔化すようにその場から逃げ出すだろう。デールはヘンリーが話から逃げ出す前に、自らこの話題を追いやろうとした。
「まあ、マリアさんにとって一番良いものを選択してくれれば、僕は何でも良いです」
「恐らく、修道院に戻ることになるだろうけどな」
マリアにラインハットに残って欲しいと直接言ったヘンリーだが、彼女がこの城に残らないであろうことは予測している。彼女をラインハットに繋ぎとめる関係は、彼女と海辺の修道院の関係に比べて希薄過ぎる。人生の救いを見出した修道院にこの上ない恩義を感じているマリアは、結局のところ、修道院に戻ることになるのだろう。もしラインハットに残って欲しいとなれば、半ば強引にでも彼女の手を引かなくてはならない。しかし今のヘンリーに、そこまでする意志はなかった。
「母上は残念がるでしょうが、仕方ありませんね」
「馬車はすぐにでも手配できるよな?」
「マリアさんの分は優先的に用意しますよ、何せこの国を救ってくれた方の一人なんですから」
「……助かるよ」
「では僕は部屋に戻ります。兄上もお疲れでしょうが、そこにある書類だけ今日中にお願いしますね」
「分かった、サインを入れときゃいいんだろ」
「一応目を通して下さいよ」
「できる限りはしておくよ」
デールが部屋を去ると、ヘンリーは窓を少し大きめに開けた。夜の涼しい風が流れ込んできて、それと共に秋の虫の音も響いてくる。細い月は既に窓から見えなくなり、夜空には小さな星がいくつも瞬いている。今宵はいくらか風があるようで、執務机の上に乗る書類の束をパタパタと風が騒がしく捲る。
夜の秋風に当たるように、ヘンリーは首元を手でぐっと引き、くつろげた。気付かぬうちに、首元にじんわりと汗をかいていたようだ。
「まだ夏の名残りがあるのかもな」
いかにも秋らしい涼やかな虫の音を聞きながら、ヘンリーは言い訳じみた独り言を呟いていた。



城内一階の回廊の大窓から中庭を覗くことができる。魔物に乗っ取られかけていた時には荒れ放題だった中庭の景色も、偽太后を倒した後すぐに庭師が入り、まだ元通りとまでは行かないが、城の中庭としての体裁を取り戻しつつある。偽太后を倒したと同時に城の中にはびこっていた魔物の姿もなくなり、中庭には穏やかな鳥や虫の鳴き声がちらほらと聞こえる。
荒れて、丈高い草に覆われていた中庭の中にいた小さな黄色い竜の姿を思い出しながら、リュカは中庭を歩いていた。澄み渡った空は高く、中庭に吹き抜ける秋風がいかにも心地よい。今まで慣れない兵役に就いていた城付きの庭師が、ようやく本来の仕事ができると、口笛を吹きながら中庭の木々に鋏を入れていた。
ヘンリーの取り計らいで既に旅装を新調してもらったリュカは、同時に渡された旅の資金を手に城下町に買い出しに行こうと考えていた。ヘンリーの行き過ぎる厚意をリュカは一度断ったが、押し切られる形で旅の資金やら旅装まで調えてもらい、ビスタ港から船に乗り込むための積み荷用木箱まで用意されていた。積み荷用の木箱の中身は空であり、そこにはスラりんとピエール、ガンドフが入る予定だ。流石に人間の操舵する船に魔物を乗り込ませることは不可能だと、ヘンリーが貿易商から大型の木箱を一つ買い取ったのだ。その木箱は今、ラインハット近くに止めてある馬車の荷台に乗せてある。
城下町で買い足すべきものは薬草などの道具類だ。リュカとピエールが回復呪文を使えるとは言え、船に乗り、見知らぬ土地に降り立つことを考えれば、万全の準備を整えて行かなければならない。まだ午前中の早い時間だが、道具屋が開店する頃に一度城下町に足を向けようとリュカはぼんやりと考えていた。
「あら、リュカさん、どうされたのですか」
ラインハット城中央に位置する城の厨房から、マリアが姿を現した。小脇に分厚い本を抱えているところを見ると、どうやら借りていた本を書庫に返しに行くところのようだ。
「もうちょっとしたら城下町に行ってみようと思ってるんだけど、時間があるからぶらぶらしてたんだ」
「今は気候が良いですから、お外で陽に当たるのも良いですね。私もこちらで本を読ませていただこうかしら」
中庭にはいくつかのベンチも用意されている。午後のティータイムを楽しむためのテーブルと椅子の組もいくつか並べられている。それらは主に城内に住む貴族たちが使用していたものだが、今は城内に訪れる人全てに解放されている。午後になるとこの場所では何人かの人が思い思いに余暇を過ごしている。
今は木陰になっているテーブルに移動すると、リュカとマリアは向き合うようにして椅子に座った。日差しを遮り、じっとしていると肌に寒さを感じるほどだ。マリアは椅子を少し陽の当たる場所に移動させた。
「城下町へは何をしに行く予定なんですか」
「道具屋をちょっと見に行こうかなって思ってね」
「城下町ってどんなところなんでしょう。私、町って歩いたことがないんですよね」
「じゃあ一緒に行ってみようよ。僕も一人で行くのもなぁって思ってたんだ」
「ご一緒してもよろしいんですか? では本を返してくるのでお待ちいただけますか」
「町のお店が開くのにもう少し時間があるだろうから、ゆっくりでいいよ」
座ったばかりの椅子から立ち上がり、急いで書庫に向かうマリアの後ろ姿にリュカは呼びかけた。振り向いて笑顔を見せるマリアに、リュカは彼女が何やら楽しんでいるのを感じた。小走りに庭園を横切って行く姿も、どこか跳ねているようだ。
マリアが書庫への扉を開ける寸前、再び厨房に通じる扉が開いた。そこから現れた人影に、マリアは思わず胸に抱えていた分厚い本を足元に落としてしまった。書庫に向かうのも忘れ、その場で立ちつくす。
「珍しいな、こんなところにいるなんて」
ヘンリーが口をもごもごとさせながらマリアに話しかける。見れば右手に作られたばかりのサンドイッチが握られていた。左手に大きな紙が丸められた状態で握られているのを見ると、どうやら中庭でも仕事の続きをするような雰囲気だ。
「ヘンリー様こそ、どうしてこちらに」
「いつもあの閉ざされた部屋で鬱々と考えてると病気になると思ってな。せっかく中庭があるんだ、こういう時に使わないとと思って来たんだ」
「毎日お仕事お疲れ様です。ちょうどあちらにリュカさんがいらっしゃいますよ。お仕事も大事ですけれど、リュカさんとの時間も限られているでしょうから、ゆっくりお話でもなさったらいかがでしょうか」
「リュカもいるんだな。そうだな……せっかくだから……」
そこまで言うと、ヘンリーは喉を抑えて前かがみの姿勢を取った。顔を真っ赤にし、呻くような声を上げている。見れば、先ほどまでヘンリーの右手にあったサンドイッチがなくなっている。どうやら水もなしに一気にかき込んだため、喉に詰まらせたようだ。マリアが慌ててヘンリーの背を叩くと、ヘンリーは何とか喉に詰まっていたサンドイッチの塊を一思いに飲みこんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「悪い。あー、苦しかった」
「今、厨房からお水をもらってきます。リュカさんのところへ行っていてくださいね」
「水より美味い葡萄ジュースがあるから、それをもらってきたらいいよ。マリアの分とリュカの分もな」
「あ、はい、分かりました」
マリアは足元に落とした本を拾い上げ、小脇に挟むとそのまま厨房の扉を開いて入って行った。ヘンリーは既にこちらに気付いていたリュカと目を合わせると、片手を上げて彼の座るところまで大股に歩いて行った。
「何してるんだ、こんなところで」
「ちょっと時間潰し。もうちょっとしたらマリアと一緒に城下町に行ってみようって話してたんだ」
「そうか」
短い返事をすると、ヘンリーは先ほどまでマリアが座っていた椅子に腰を下ろした。そして脇に抱えていた丸めた大きな紙を手にすると、それをテーブルの上に広げた。目の前で広げられた一面の紙の上に描かれる地図に、リュカは思わず身を乗り出す。
「これって、世界地図?」
「そうだ。結構細かく描かれてるだろ」
陸の形こそ大まかなものではあるが、各々の大陸や島にある山脈や川、森、砂漠、そして主要な国や町、村の名前が書き込まれている。書き込まれている事柄の中には、書き加えられたばかりの個所もあるようだ。その中の一つが、ビスタ港の位置だった。
「ビスタ港にそろそろ船が到着するみたいだ」
ヘンリーが地図上に書かれたビスタ港を指差しながらそう言った。サンタローズより南西に位置するビスタ港は地図の上では点で示されているだけで、あまり重要な場所だとは認識されていないようだ。
「じゃあ明日にでも出発するよ。ビスタ港まで何日かかかるし」
「それと、この地図はお前にやる。ビスタ港に行くまでにも役に立つだろう。それに西の大陸でポートセルミについてからも使えるだろうしな」
「これってお城のものなんでしょ? 僕がもらってもいいの?」
「安心しろ、それは複製したものだ。この十日くらいで暇な学者に描かせたんだ」
「暇な学者って……まあ、いいや。ありがたくもらっておくね」
そう言いながら、リュカは大きく描かれた地図の城や町の名前を目で追って行く。ラインハット、サンタローズ、アルカパ、西の大陸に移ると、まずはポートセルミがあり、遥か西にはサラボナという名の町がある。はっきりと町の名前が書かれているところを見ると、それなりに大きな町なのだろう。オラクルベリーの町の名はこの地図には刻まれていない。どうやらここ十数年ほどでできたような町や村などは書き込まれていないようだ。
これからどこまで旅を続けるのかは分からないが、リュカの頭の中でぼんやりとしていた旅の形が、世界地図を見るだけでかなりはっきりとしてくるのを感じた。
二人が無言で地図を眺めていると、マリアが盆にグラスを乗せて戻ってきた。グラスの中には紫色の瑞々しい液体が入っている。
「葡萄ジュースをいただいてきました」
マリアが盆からテーブルにグラスを移すと同時に、リュカもヘンリーもグラスを手に取り、ほぼ同時に一気に半分ほど飲み干した。味わう気配もない二人の様子を見て、マリアはやはり水で良かったのではないだろうかと少し困ったように笑った。
「これは大きな地図ですね。リュカさんがお使いになるのですか」
「うん、ヘンリーにもらったんだ。海辺の修道院は……ああ、やっぱり載ってるね。古くからありそうだもんね、あの修道院」
「ちゃんと地形まで描き込まれていて、とても見やすいですね」
修道院の位置から西に目を向けると、やたらと目立つ大きな島がある。そこには世界でも一際高い山があり、目立つ字で「セントべレス」と書かれていた。その名を見た瞬間、マリアは聞いたこともない山の名前だと言うのに、身体が自然と震えるのを感じた。その地名の意味を考える前に、興味が沸く前に、マリアはその個所から目を離した。
「明日はここで朝ごはんをもらったら出るよ。せっかくだから美味しいものを食べて旅立ちたいし」
「旅の食料も用意させるよ。馬車にはお前が運んでおけよ、魔物がいる馬車に城の者から運ばせたら騒ぎになる」
「え、リュカさんは明日旅立たれるんですか」
驚いたように問いかけるマリアに、リュカは残りの葡萄ジュースを飲み干してから応える。
「数日中にビスタ港に船が着くみたいなんだ。僕はそれに乗らなくちゃいけないから明日には出ようと思っててね」
「そうなんですか。明日は私もお見送りしますね」
ゆったりとそう言いながら、マリアは内心焦りを感じていた。ヘンリーはこの国の復興に向けて多忙な日々を送り、リュカは当初の目的通り母親を捜す旅に出る。修道院に戻るか、このままラインハットに残るか決めかねている自分だけ二人に置いて行かれているようで、マリアは今すぐにでも自身の進路を決めてしまいたい衝動に駆られた。
考えてみれば、ヘンリーはこの国のためにこれから献身的な働きをすることを心に決め、リュカは父の遺志を継いで母を捜すため、いつ終わるとも知れない旅に出る。二つ三つしか違わない青年二人は、自分ではない何かのためにこれからの人生を生きようとしているのだ。そんな彼らの意志に気付き、マリアは今自分が悩んでいる進路について恥じる気持ちを抱いてしまう。
ラインハットに残ることと修道院に戻ることとを悩む自分は、果たして誰かのために献身的に生きようとしているのだろうか。修道女という身でありながら、修道院に戻らずにこの国に残ることを迷うのは、どれだけ我儘に生きようとしているのかを思い知らされる。ラインハットに残りたいと思うこと、それはヘンリーに「傍で支えて欲しい」と言われ、人から必要とされるという喜びももちろん沸き上がっていたが、それ以上に彼女自身がヘンリーの傍にいたかったからなのだと、マリアはこの時唐突に気がついた。
その瞬間、マリアは決意した。自身が最も納得の行く生き方は、やはり修道女として海辺の修道院で暮らすこと、そしてそこで兄や残された奴隷の人たちの無事を祈り続けることなのだと、初心に返った思いだった。あの悲惨な大神殿建造の地から逃れてまだ数カ月しか経たないと言うのに、ラインハットでの暮らしを一瞬でも夢見てしまった自分を恥じる気持ちがマリアを襲った。
「リュカさんをお見送りしたら、私も修道院に戻ろうと思います」
ぽつりと言ったマリアの一言に、リュカは自然な笑みを彼女に向ける。
「そっか、戻るんだ。僕は見送りできないけど、気をつけて戻るんだよ」
「はい、リュカさんもどうかお気をつけて」
「数日中に馬車を手配しておく。護衛の兵士と、世話係の女性もつけよう」
ヘンリーの言葉に表れる厚遇に、マリアは慌てて首を振る。
「そんな、お気遣いなく、私一人のために」
「俺はヨシュアさんに『マリアを無事なところまで連れて行く』って約束したんだ。その約束を守るだけだよ」
唐突に兄の名を出され、マリアは言葉に詰まった。兄の名を出せばマリアが何も反論できなくなることを、ヘンリーは知っていてわざと口にしているのだ。その事実に気付き、マリアはヘンリーを責めるどころか、泣きそうなほどの感謝の念を抱く。
「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません」
「俺の方こそ、マリアがいなければこの国を救うことができなかった。何度礼を言ったって足りないくらいだ」
「なんだかまだ実感が沸かないけど、明日でお別れだね。せっかくだからさ、三人で城下町に出てみようよ。ヘンリーだってたまにはしっかり息抜きした方がいいと思うんだけどな」
リュカの明るい提案に、マリアは飲みかけていた葡萄ジュースを一口飲みこんで止めた。
「ヘンリー様が町に出たら騒ぎになるんじゃないでしょうか」
「ちょっと変装すればバレないよ。その緑色の髪の毛は目立つから、僕のターバンを貸してあげようか」
「お仕事が大丈夫であればご一緒したいですけど、国王様や大臣様たちにお話をしておかないといけませんよね」
「そんなのどうにでもなるよ。後でヘンリーががむしゃらに頑張ればいいだけの話なんだから」
勝手なことを言うリュカにヘンリーは睨むような目を向けるが、その視線は本気ではない。ヘンリー自身、リュカ以上に今のこの時間が惜しいと思っていた。
「……そうだな、ちょっと本気で息抜きしちまうか。裏口から出ようぜ。兵士の目をごまかせる」
そもそもその気だったのではないかと思えるほど、ヘンリーの行動はスムーズだった。リュカにビスタ港に船が入ることを告げると決めていた時から、ヘンリーは今日一日きっぱりと仕事をしないつもりだったのかも知れない。改めて見れば、ヘンリーの今日の姿は王族の正装ではなく、そのまま町歩きをしてもさほど目立たないくらいの服装だ。リュカのターバンを借り、地味なマントでも羽織れば、すっかり変装は完了になる。
「ここがオラクルベリーの町だったらなぁ」
「さすがにそこまでは足を伸ばせられないね。だけどマリアみたいな修道女が行くような町じゃないかも」
「噂には聞いていますが、かなり賑やかな町のようですね、オラクルベリーは」
「マリアは修道院に戻る途中で寄ることになるかもな。その時に世話係の女たちとでも楽しんできたらいい」
「その時はあまり羽目を外さないように気をつけますね」
「そうだな、マリアが羽目を外したら、ラインハットに戻ってきた世話係からそういう噂が漏れることになるだろうからな。気をつけるんだぞ」
三人はそんな会話をしながら席を立ち、ヘンリーを先頭に中庭を横切って行った。回廊への扉を抜け、城の裏手に出る出口に向かう。この出口は、かつてヘンリーが攫われた忌まわしき場所でもあった。ヘンリーはもちろん当時の記憶と共にそれを覚えており、リュカもこの時にはその事実に気が付いていた。
「よくこの扉を使おうって気になったね、ヘンリー」
「嫌な思い出は良い思い出で消してしまえばいいと思ったんだ」
あの時はリュカもヘンリーも何も予期していないタイミングで扉が開き、柄の悪い男たちが現れ、ヘンリーを連れ去った。城の書庫に行く度にちらっと横目でこの扉を見ていたリュカだが、見るだけで、扉に近づいたり触れたりすることは決してなかった。今はもう、あの頃のように幼くもないし、柄の悪い男に連れられようと腕を掴まれても振り払う自信がある。しかしそれでも、幼い頃の記憶は痛烈で鮮明で、リュカもヘンリーも薄暗い中に浮かび上がるように見えるその扉に好んで近づこうとは思わなかった。
「どうかされたんですか」
書庫に立ち寄り、手にしていた本を返したマリアが直立している二人に問いかけた。その声を合図に、ヘンリーが扉に向かう。しかしそんなヘンリーをかばうようにリュカが前に進み出る。
「ここでまた、あの時みたいに君が連れていかれたら、僕はここで発狂するかも知れない」
「……大袈裟な奴だな」
半ば呆れるように呟いたヘンリーだが、自分の前に進み出たリュカを止めはせず、そして彼の前に出ようとも思わなかった。そのことが、リュカ以上に過去のトラウマに囚われている証拠だと、ヘンリー自身心の中で認めていた。二人の事情を知らないマリアは、そのただならぬ雰囲気に息を潜め、言葉も発せずにじっと後ろで二人を見つめていた。
リュカが勢いよく扉を開ける。薄暗い廊下に朝の光が強く差し込む。当然、そこには柄の悪い男たちが待ち構えているはずもなく、城外に広がる穏やかな草原が広がっていた。朝陽を浴びて淡い色に染まる草原の近くでは、水路に流れる水の音が聞こえた。城の周りを囲む水路の音ですら、リュカとヘンリーには忌まわしい記憶を呼び起こすものでしかない。当時はそんなことにも気がつかなかったが、聞こえてきた水路の音に、二人はあの暑い夏の時を思い出し、身体中が一瞬にして汗ばむのを感じた。
「ここからお城の外に出られるんですね。まるで今の私たちのためにあるような扉ですね」
場違いとも思えるような明るいマリアの声が、水路を流れる水の音にかぶさる。彼らの恐怖の記憶と、彼女の弾んだ声が調和するはずもなく、彼女の声をきっかけにその場は夏から秋へと姿を変え、二人の過去の記憶は一瞬にして消し飛んだ。
「一緒にいられる時間も残り少ないですから、早く町に出て一緒に遊んできなさいって、きっと神様の思し召しですよ」
「そんな都合の良い解釈をしてもいいのか、マリア」
「いいんです、今だけは」
どこか力強く言い切るマリアは、もしかしたら一番今の時間を惜しんでいるのかも知れなかった。町に出られるという楽しみ以上に、リュカとヘンリーと共に過ごせる貴重な今の時間を、彼女は大事に過ごしたかったに違いない。
「誰もいないみたいだよ。大丈夫だよ、ヘンリー」
リュカは既に扉の外側に出て、まだ廊下で立ち尽くしているヘンリーに呼びかける。緊張の抜けない宙に浮いたヘンリーの手を、マリアが心配そうに両手で掴んだ。取られた手が同じ右手でも、幼い時の記憶と重なることはなかった。あの時は男の一人がヘンリーの右手を掴み、問答無用の力強さで引っ張り上げた。しかし今は、緊張に汗ばむ彼の手を、マリアが優しく包んでくれる。
ヘンリーは思わず泣きそうになる目を手の甲で擦り、マリアの手を強く握りしめた。そして彼女と共に、この扉をくぐった。過去の忌まわしき記憶が書きかえられたような感覚に、ヘンリーは一瞬浸り、身に染み込ませた。
「さあ、行こうぜ」
「もし見つかったらどうする?」
「城下町の視察をしていたことにする」
「王族の視察のお供が、僕たち?」
「誰にも文句なんか言わせるかよ。とりあえずデールを押えとけば平気だろ」
「それもそうだね。じゃあ遠慮なく遊びに行こう」
「遊びではなくて、リュカさんは買い出し、ヘンリー様は城下町の視察、ですよね」
「じゃあマリアは?」
「私は……後学のために、ということにしておいてください」
「咄嗟に言い訳を考えるなんて、とんだ不良修道女だ」
城の裏口近くにヘンリーの笑い声が響く。一緒になって笑うリュカに、マリアは抗議の目を向けながらも、思わず自分でも笑ってしまっていた。
まだ昼までには時間がある。秋の青空は高く、薄い雲がちらちらとたなびいている。町歩きをするには丁度良いと、三人は楽しむような忍び足で城下町へ向かった。



ラインハット城の二階回廊を歩いていると、大窓の外に中庭の様子が見える。まだ上がったばかりの朝陽を浴びながら、年配の男性が中庭を散歩しているのが見えた。厨房近くでは、桶に水をくみ出している女性の姿がある。平和を歩み出したラインハットがまた一日を迎えようとしている光景を、リュカは大窓の外に見ながら、回廊を歩いていた。
朝の城内はひんやりとしており、廊下を歩きすれ違う女性たちは肩にケープを纏るなどして、寒さから身を守っていた。リュカと目が合うとにこやかに会釈をしていく姿は、数日前までは魔物に乗っ取られかけていたラインハットを早くも記憶の彼方に追いやろうとしている雰囲気を感じる。平和を歩み出した国に、彼女たちは心の底からその幸せに浸ろうとしているのだろう。
リュカは王室に向かっていた。王室に着くまでに、数人の城内を警備する兵士とも顔を合わせたが、ヘンリーの友人であるリュカのことを認識していない兵士は一人もおらず、皆一様に笑顔でリュカを王室まで通した。
王室に通じる階段を上ると、そこには玉座に座るデールの他、大臣、太后、ヘンリーがいた。厨房では今、彼らのための食事の準備をしている時間帯で、まだ食事をする前にこうして彼らが王室に揃っているのは通常ないことだ。リュカが今日旅立つこと、朝早くに王室に挨拶に来ることを知っていて、彼らはこうして王室でリュカを待っていた。
玉座の前で跪き、リュカはデールに向かって頭を垂れた。しかしその所作を、ラインハット国王であるデールが止める。
「リュカさん、そういうのはナシにしましょう。貴方はこの国を救ってくれた人の一人なんですから、頭を下げなければならないのはむしろ私の方なんですよ」
デールの言葉に、リュカは素直に垂れていた頭を上げた。玉座に座るデールはまだ幼く、大きく豪奢な玉座にはまだ似つかわしくない雰囲気さえある。デール自身、その自覚があるのか、リュカに向ける笑みは国王のそれではなく、まだ頼りない少年のようなものに見える。
「改めて言わせてください。兄上と共によくぞ母上の偽物を倒してくれました。心から礼を言います」
「僕はヘンリーの手伝いをしただけです。彼が国を救いたいって言い出さなければ、僕は何もしていません」
リュカは素直な気持ちを包み隠さずデールの前で述べた。ヘンリーを苦しめ、追い出したラインハットを、リュカは自ら進んで救いたいと思ったことはなかった。苦い思い出しか残らないような祖国に、ヘンリーが向き合ったからこそ、リュカは彼を応援する気持ちで付いて行っただけというのは紛れもない真実だった。
「しかしあのままだとこの国がどうなっていたか……。全くボクは王様としては失格ですね」
数年、玉座に座るだけだったデールは今でも王としての自信を持ち得ていない。実母である太后の言われるがままに国を動かし、あまつさえ太后が偽物であることにも気付かずにいた現実に遭い、デールはただでさえなかった自信をさらに失くしてしまっている。
「だからリュカさんからも頼んでくれませんか? 兄上が王様になるように」
玉座に座りながらすがるような目をしてくるデールは、今のリュカにはただのヘンリーの弟にしか見えなかった。彼の今の姿に、国王と言う威厳は微塵も感じられない。デールの傍では、大臣が嘆息している。
「王様、その話はお断りしたはずですが」
言葉こそ丁寧だが、その表情はニヤニヤしており、玉座の横で国王よりも威厳を見せるようなヘンリーの態度に、リュカは思わず笑ってしまう。腕を組んで仁王立ちしているヘンリーこそ、本来は玉座に座るべき人間なのだろうが、彼自身全くそのつもりはない。世の権力者の多くが手に入れたいと思うような国王の座を、ヘンリーは面倒なものでしかないというくらいにしか思っていないのだろう。
「しかし兄上……」
「子分は親分の言うことを聞くものですぞ」
デールの言葉を遮り、ヘンリーは少々ふざけたような丁寧な言葉で弟に言い含める。半ば必死に懇願しているデールに対してそんなふざけた態度を示すヘンリーに、リュカは思わず声を出して笑ってしまった。
「親分の言うことは絶対ですよ、デール国王。結局は逆らえないんです、親分には」
リュカの口調はヘンリーの強引さを責めるようなものではない。逆らえないヘンリーの親分気質は、全て彼の優しさから出ているものなのだ。国王の座を得て、国政を掌握することが面倒だという彼の思いは本当だが、それ以上にラインハット国王としての座にいるべきなのはデールなのだとヘンリーは冷静に状況を理解していた。
デールは幼い頃から得体の知れない劣等感を持ち合わせていた。それは生前の父王が常に手をこまねいていた兄ヘンリーに対する愛情を大きく感じていたからだった。実母である太后の愛情を一心に受けていたデールだが、尊敬していた父王の愛情が兄のヘンリーに向かっているのは幼いながらも感じていた。いたずらばかりして、城内の皆を困らせるヘンリーを父王が叱っている姿を見るだけで、デールはその状況を羨ましいとすら感じていた。それだけ、デールは父王と気持ちをぶつけて話をしたことがなかった。
ヘンリーはそんな弟の心情を理解していた。だからこそ勧められても自らは王座に就かず、デールに玉座に座らせ、これからのラインハット王国復興を全力で支えようと思っていた。自ら先頭に立って指揮を執るよりも、父王に憧れながらもその存在に近づけなかったデールを父王と同じ王座に就かせ、自らは支援する側に徹する方が、ヘンリーにとってはよっぽど国政に対して本気の姿勢を取れる状況なのだ。弟の劣等感を大きくしないためにも、敢えて彼を王座から逃れさせないのが良いと、ヘンリーは考えていた。
「もちろんこの兄もできうる限り王様を助けて行くつもりです」
半分ふざけたような笑みで、半分真剣な表情で、ヘンリーはデールにそう告げる。本来、王位継承権を持つ兄に全く取り合わない態度を見せられ、デールは諦めたように溜め息をついて玉座の肘かけに肘を立て、手で顎を支えた。
「お前とは旅を続けられなくなっちゃったな」
ヘンリーが名残惜しそうに言うと、玉座の前に跪いていたリュカはその場で立ち上がり、首を横に振る。
「僕は母さんを捜す旅だけど、ヘンリーはみんなと国を建て直す旅に出るんでしょ。僕よりずっと辛いかも知れないよ」
「常に命がけなのはお前の方だ」
「王族だって、いつ命を狙われるか分かったもんじゃないよ」
「心配するな、今の俺を貶めようとする奴はこの国にいないはずだ」
ヘンリーのその言葉に、リュカは彼の後ろに静かに立つ太后の姿をちらりと見た。落ち着いたドレスを身にまとい、装飾品の類も最小限に抑えた太后の表情はかつての煌びやかなものではなく、二人の息子を見守る穏やかな母親の眼差しを持っていた。長年、地下の牢獄に繋がれ、実際の年齢よりも年老いて見えるものの、それを隠そうともせず晒している姿は、妙なプライドを捨て去った証でもあった。
「そなたには本当になんと言ったら良いか……。お礼の言葉もないぞよ」
リュカの視線を感じて、太后が自ら言葉をかけてきた。ヘンリーの斜め後ろに立つ彼女にはもう、かつてのようなこの王国を牛耳り動かしてやるといった欲望の塊は片鱗も見えない。彼女自身、一体あの時の自分はどうしていたのだろうと思えるほど、昔の彼女とは別の人間として今の場所に立っているようだった。
ラインハット国王の后として迎えられた時、彼女は既に奢りを持ち始めていた。そしてデールが生まれ、ラインハット王国に自分の居場所が確実になると、その奢りはますます高まった。しかし夫であった国王が次期国王として考えていたのは第一王子のヘンリーであり、己とは血の繋がりのないヘンリーを疎ましく思った。いなくなってしまえばいいと思い、実際にヘンリーを消すように謀った。
その時は実の息子のデールを愛するが故という逃げの理由を身に纏い、己の意思を母の愛情という殻で正当化しようとしたが、実際はそうではなかった。結局、彼女は自分自身を守りたかっただけだった。息子のデールを盛りたてて国王に仕立てることが、母のこの上ない愛情なのだと思い込んでいただけで、本当は自己愛の強さから全ての行動を誤ってしまったのだ。
「全てはわらわの思い上がりから出たこと。今度という今度はそれが骨身に染みたわ」
「あなたのせいで、数えきれない人たちが人生を狂わされました」
面と向かってはっきりと批判の言葉を述べる人物は恐らく、リュカの他にこの国にはいない。ラインハット国民も太后に各々批判的な目を持つことはあっても、実際に彼女を目の前にして一対一で批判の言葉を述べられるような勇気ある人間はそういない。かつての太后を目にしていれば、その恐怖から、彼女を追い詰めるような言葉を正面からぶつけることはそうそうできないことなのだ。
太后はリュカに向かって深々と頭を下げた。その顔には不満など微塵もなく、ただ苦悶の表情が表れている。
「そなたの言う通りじゃ。返す言葉もない」
「だけどここにいる人たちはあなたがこの城に残ることを許してくれました。本当だったら国外追放されたっておかしくない」
「そうじゃな、皆の者には礼を言っても言い尽せぬ」
「僕はこの国に残ってずっと生き続けることがあなたへの罰なんだと思います」
リュカの言葉に、顔を伏せていた太后がはっと頭を上げた。
「大きな罪を犯したこの国から、あなたはもう逃げられないんです。それって一番の罰なんじゃないかと思います。ずっと自分の罪と向き合わなきゃいけないんですから」
怒るでもなく泣くでもなく、ただ無表情に太后はリュカに目を向けていた。彼の、ヘンリーに対する強い思いに触れると、太后は再び深々と頭を下げた。
「いや、わらわはまだ幸運な方じゃ。こうして息子の傍にいられるのじゃから」
太后の言葉に、今度はリュカが息を呑んだ。太后は頭を下げたままだが、その細い肩が小さく震えていた。己の過去の罪と真摯に向き合う彼女の姿勢は厳然たるものだが、そんな彼女の辛い心を支えているのはやはり子供への愛情なのだ。母の子に対する愛情だけは、何があってもぶれることのないものなのだろう。
リュカはその心に触れると、何も言えなくなってしまった。彼はこれから見も知らぬ母を捜す旅を再開する。自身の母も、今の太后のような思いなのだろうかと想像すると、真剣に過去の罪と向き合い、子供の傍にいられることを幸福に思う一人の女性に対して、かける言葉を失ってしまった。
「これからは出しゃばらず、陰ながら王を助けてゆくぞよ。安心してたもれ」
ゆっくりと頭を上げた太后の表情は、リュカのこれからの旅を応援するような優しさを湛えていた。長年の牢獄生活の間に彼女が囚われていた権力欲はすっかり消え去り、今の彼女に残ったものは目の前の息子ほどの青年のこれからの旅路を応援するような素直な心だった。
「リュカ、もう大丈夫だ。この人も……母上もこれからはラインハット復興に向けて尽力してくれる」
「万が一、母上がまた道を逸れそうになったら、ボクたちが絶対止めてみせます」
二人の兄弟が力強く言う姿を見て、リュカはこの時初めて二人の口元がそっくりであることを発見した。異母兄弟とは言え、やはり二人は似ている。笑った時の二人の口元が似ていることに、リュカは理由のない安心を得た気がした。
「じゃあそろそろ行くよ」
「外まで送る」
「いいよ、ここで」
「水臭いことを言うな」
リュカはもう一度跪いて玉座に向かい頭を下げると、そのまま踵を返して王室を後にした。続いて出てきたヘンリーが、リュカの先に立って廊下を進み始める。廊下ですれ違う城内の者は皆、リュカのことを国を救った立役者の一人で、ヘンリーの友人であることを当然知っている。今日でラインハットを旅立つリュカの姿を見るなり、皆一様に立ち止まり、頭を下げたり敬礼をしたりしていった。
一階の回廊を歩き、城正面の出入り口まで進むと、そこには姿勢を正して彼らを待っていたマリアの姿があった。いつもであれば教会の勤めを手伝っている時間帯だが、神父に許しを得てリュカの見送りに来たのだろう。
「リュカさん、良かったです、最後にお会いできて」
「最後ってわけでもないだろうけどね。でも今度いつ会えるか分からないか」
そう口にするなり、リュカは途端に一抹の不安を覚えた。これから凡そ船で一カ月ほどもかかる西の大陸に向かい、そこから更に西に向かう予定だ。ラインハットやサンタローズ、アルカパのあるこの大陸からはどんどん遠ざかって行く旅を予定していることに、リュカはこの時になってはっきりと寂しさを感じた。
しかし自分のやるべきことは初めからはっきりしている。伝説の勇者を捜し、母を捜し、助け出す。それだけに向かってできることをやるだけだ。寂しさなどの感傷に浸っていても、人生は少しも進まない。
「リュカさんはお母様を助けるために伝説の勇者様を捜す旅とか」
「うん、今のところ全く当てもないんだけど、とりあえず行ってみるよ」
「リュカさんやヘンリーさんと旅ができてとても楽しかったです。きっとこの先も楽しい旅が待っていますよ」
「仲間が仲間だからな。あっちの大陸で新しいヤツが仲間になったりしたら、手紙でも寄越して知らせろよな」
「いい人が仲間になってくれるといいんだけどなぁ」
「悪い魔物は仲間になんかなりゃしねぇよ」
十年以上かけて、知らぬ内に築かれた、いつも通りの会話だった。ラインハット城を出ればこんな会話をする人物はいなくなる。そして今後、もしかしたら一生ヘンリーともマリアとも合わずに過ごすことになるのかも知れない。考えただけで前に進めなくなりそうな現実から、リュカは目を逸らすことにした。
「じゃあ、またね」
「ああ、くれぐれも死ぬなよ」
「ご無事を祈っております」
もう言葉を交わす必要はないと、リュカは二人に背を向けて歩き出した。城の出入り口は既に開放されており、脇に立つ兵士が揃ってリュカに敬礼をする。まだ朝早い空には薄雲がかかっているが、これも昼前には風に流れて取れてしまうだろう。薄雲はゆったりと東に向かって流れている。
城門から城下町へと真っ直ぐ一本の大通りが走っている。大通りを早歩きで歩く内、城下町の人々の雑踏に紛れ、城門からリュカの姿は見えなくなった。まだ朝の早い時間帯だが、ラインハット城下町に住む人々の一日は既に始まっている。
「生きてさえいれば、また会える」
くれぐれも死ぬなというヘンリーの言葉が、リュカの心に深く残る。死んでしまったら、全てがそこで途絶えてしまう。それは本人にとっては当然のことだが、周囲の人間にとっても同じことだ。
「ヘンリーに友達って言ってもらえるまで、絶対に生きてやる」
未だ子分としか言われていないリュカは、ふと笑みをこぼしながらそう呟いた。そして目から雫が落ちる前に、もう一度秋の青空を見上げた。思わぬ眩しさに目を瞑ったと同時に、涙が頬を伝った。

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