2017/12/03

夫婦の愛情

 

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「お待ちしてましたわ、リュカ様。どうぞお入りください」
部屋の入り口まで迎えに来たマリアと共に、リュカは王室上階の部屋に再び招き入れられた。奥にいるヘンリーと目が合うと、リュカは思わず一度目を逸らしてしまった。ヘンリーも同じように目を逸らしていたことに、リュカは気付いていない。
「そちらにお掛けになってお待ちくださいね。今、お茶を淹れますので」
そう言って、マリアはいそいそと部屋の奥へと姿を消した。部屋に残されたリュカとヘンリーは、もう一度目を合わせると、どちらからともなく笑みを見せた。
「ヘンリー、宝箱に記念品なんてなかったよ」
「え? 入ってなかったって? わっはっは! お前は相変わらず騙されやすいヤツだな」
高らかに笑うヘンリーは、どこか安心したような様子だ。宝箱の蓋の裏に書いたリュカ宛てのメッセージを、リュカが気付かずに読まないまま部屋に戻って来たと思っているのだろう。決して言葉には表せない素直な気持ちを、いざリュカに知られるのは決まりが悪いと思っているに違いなかった。
「あったのは記念品じゃなくて、手紙だった」
リュカが率直にそう言うと、ヘンリーはぐっと詰まったように固まった。
「ちゃんと受け取ったよ。多分、失くすことはないと思う」
そう言いながらリュカは自分の胸に拳を当て、二度トントンと叩いた。宝箱に刻まれたメッセージはしっかりと胸に刻まれたと、リュカはその手で表現した。茶化すことなく受けとめたリュカの様子を見て、ヘンリーも真面目な顔つきで言う。
「……旅の間も大事に持っておけよ」
「うん、失くそうにも失くせないからね、大丈夫」
「ともかくせっかく来たんだから、ゆっくりしていってくれよな。……って、そもそもお前、ここまでどうやって来たんだよ」
「ああ、そうだ。そこから話さないとね」
「お茶が入りました。私も一緒に頂いてもよろしいでしょうか」
マリアが盆を運んでくると、部屋中に上質な茶の香りが広がった。今までに嗅いだ事のない香りに、リュカは思わず犬のように鼻を動かした。
「もちろん、いいに決まってるだろ。お前だってリュカと色々と話がしたいだろ」
「はい、ではお邪魔しますね」
マリアが手際よく並べた茶と焼き菓子に目が釘付けになっているリュカに、ヘンリーは笑いながら言う。
「お前はとりあえず話よりも食いたいみたいだな。食って落ちついたら話をしようぜ」
「え、いいの?」
「旅先でこんな菓子なんかつまむ機会もないだろ。またしばらくは食えないんだから、存分に味わっておけ」
まだ立ち話をしていたリュカとヘンリーだが、そう言われた途端、リュカはすぐにソファに座り、さっそく焼き菓子を一つつまんだ。口の中に広がる甘さに、真夜中のルラフェンの町を出てから一睡もしていない疲れも吹き飛ぶようだった。
「これ、いくつか持って帰ってもいいかな。みんなにも食べさせたいんだ」
「あら、ではまだ沢山あるのでそちらもお持ちください。あとでまとめてお渡ししますね」
「で、そのみんなは今どこにいるんだ。あいつら、元気か?」
ヘンリーもリュカの向かいに座ると、同じように焼き菓子に手を伸ばし、一つを口にした。リュカは飲み慣れない上質な茶を、ふうふうと冷ましながらゆっくりと口につける。
「今はルラフェンって言う町にいるんだ。そこで待っててくれてる」
「ルラフェン? 聞いたことはあるけど、どこにあるんだ」
ヘンリーにそう聞かれ、リュカは懐からボロついた世界地図を取り出してテーブルの上に広げた。旅の間中、肌身離さず持っている世界地図からは、土埃がパラパラと落ちたが、ヘンリーもマリアもそんなことは気にする様子もなく、リュカのさし示す地図の一点を見つめる。
「ポートセルミから大分西に行ったところだよ」
「もうそんなに遠くまで行かれていたんですね」
「こんな遠いところからどうやってここまで戻って来たんだよ。船だってまだろくに出てないだろうに」
「もう僕にとってはそう遠いところじゃなくなったんだ」
リュカはそう言うと、新しく習得したルーラの呪文のことをヘンリーとマリアに話し始めた。今では失われてしまった古代呪文であるルーラは、一瞬にして行ったことのある場所に移動でき、その呪文を使ってルラフェンからラインハットまで一瞬にして来られたことを話すと、二人はすんなりとその話を信じた。長い時間船に乗ってラインハットまで戻って来たという話よりも、よっぽど信じられる内容だったようだ。
「じゃああっちに戻るのも一瞬なんだな。エライ便利な呪文があったもんだな」
「昔の人って案外楽してたんだね。ただもの凄い速さで移動するから、時間の感覚がおかしくなるけど」
「どういうことだ」
「あっちを出た時は真夜中だったんだよ。でもルーラで移動していく内に、みるみる太陽が昇ってきて、今ではこんな時間になっちゃったんだ。おかげで僕、全く寝てないんだ」
「なんだか不思議な呪文ですね。身体がとても疲れてしまいそう」
マリアはそう言いながら、気遣わしげにリュカを見た。今のリュカはルーラの呪文を使って疲れていると言うよりも、ルラムーン草を探す旅が予想以上に長く厳しいものになってしまった故の疲れが顔に出ているだけだった。
「スラりんさんもピエールさんもガンドフさんも、みなさんお元気でしょうか」
「うん、みんな元気にしてるよ。あっちの大陸に移ってから、新しく仲間になった魔物もいるんだ」
いつの間にか茶を飲み終えたリュカのカップに、マリアが茶を注ぎ足す。そんなマリアの足元には、いつの間にか一匹の猫が寄ってきていた。この部屋に一緒に住んでいるようで、マリアの顔を見上げて「にゃ~おん」と足元に懐いている。
「そう言えば、プックルに会えたよ」
リュカが猫に目をやりながらそう言うのを見て、ヘンリーは過去の記憶を辿り、あの時化け猫と呼んでいた猫のことだと気がついた。
「プックル……あのデカイ猫か。無事だったんだな」
「うん。もう猫じゃなくて、キラーパンサーって言う立派な魔物だけどね」
「猫じゃないって言うのは……」
「虎になっちゃったんだ。僕が乗れるくらい大きいよ。今度連れてくるね」
当時でもかなり大きな猫だと感じていたが、今では虎になってしまったプックルを想像して、ヘンリーは思わず顔をしかめた。猫と虎ではまるで違う生き物だ。
「……いや、まあ、気が向いたら連れて来てくれ。ただしあの時みたいに町や城の中に平気で連れてくるんじゃないぞ。猫なら平気だろうけど、虎じゃあなぁ」
「そうだね、僕は平気だけど、城にいきなり連れてきたら、みんなびっくりしちゃうね」
リュカはカボチ村での出来事を思い出しながらそう言った。普通の人間であれば、プックルのような魔物にはまず近づかない。魔物にも様々な種別がいるが、最も恐れられる種別の一つがプックルのような獰猛な性質の魔物だ。順調に復興を遂げているラインハットに、再び魔物の姿が見られるようになってしまえば、国民は皆、また不安を抱えるようになってしまう。
「伝説の勇者のこと、何か分かったか?」
ヘンリーがカップの茶に口をつけながらそう言うと、リュカは視線をテーブルに落とした。
「まだ良く分からない。一度、伝説の勇者に会ったことがあるって人がいて話を聞いたけど……」
「なんだって?」
「聞いてみたら、父さんの話だったんだ。そのおじいさん、父さんを伝説の勇者と勘違いしたみたい」
笑顔で話すリュカに、ヘンリーは喜びの感情を見た。父パパスを誇りに思うリュカにとって、父が伝説の勇者と間違われるのは、素直に嬉しい気持ちが湧き出てきたのに違いなかった。赤の他人に勇者だと間違われるのは、リュカやヘンリーや周囲の人々だけではなく、まだ出会ってもいない多くの人にも父は強く逞しく勇ましい人物に見えるのだと、リュカは父への尊敬の念を強めたのだろう。
「お前の親父さんだったら、勘違いされて当然だよ。きっと、大昔いた勇者ってのも、お前の親父さんみたいな人だったんじゃないのか」
「どうなんだろうね。でも男かも女かも分からないなんて言われてるんでしょ。男っぽい女の人だったり、女っぽい男の人だったりしたのかも」
「止めてくれよ、想像すると願望が崩れる」
「さっき下でデール君に聞いた話が一番の情報だったよ。サラボナに勇者の使った盾があるって」
「ああ、その話は俺も聞いてる。サラボナはラインハットとも物のやりとりがあるんだ。お前がビスタ港を出る時の口実も、そういうことにしておいただろ」
数ヶ月前、リュカがビスタ港から船に乗る時、リュカは行商人を装い、サラボナまでラインハットからの物資を運ぶという役目を負うという名目で魔物の仲間と共に船に乗ることができた。すべてヘンリーが手はずを調えてくれたことだった。
「サラボナにはいずれは行こうと思ってたから、ちょうど良かったよ」
「サラボナは美しい町だと聞いてます。南国の町で、年中温かいところだとか」
ヘンリーの隣に座るマリアが、思い出すように頬に手を当てながらそう言った。彼女はこのラインハットで様々な書物を読んでいる。修道院にいる時から、知識欲がかなりある女性だった。
光の教団に入団し、そこで無知のまま過ごしていたあの時間に、多くの人々が教団の犠牲になり、今もまだ犠牲者は増え続けている。自身が奴隷の身に落とされて初めてその事実を知り、無知と言うのはとても罪なことなのだと、彼女は深く思ったのだ。国王の兄の嫁と言う立場になった今でも、彼女は城の図書室や教会に通い、様々な知識を得ようと努力を重ねている。
それから三人は、リュカの旅の話やラインハットの近況、ヘンリーとマリアの結婚式の様子など、多くを語り合った。プックルの他にもマーリンと言う魔物が仲間になったことや、ポートセルミの町でクラリスと言う女性に結婚して欲しいと言われたこと、カボチ村で依頼された化け物退治がきっかけでプックルに再会できたことなどをリュカが話すと、ヘンリーもマリアも生き生きと話すリュカの様子に嬉しさを顔に滲ませた。ヘンリーから、ラインハットの復興は順調だが、まだ国民への税金の負担が重いことや、関所解放後に人の往来が増えたことで国外でのラインハットの悪い噂も払拭されつつあること、自分たちの結婚後は更に復興に拍車がかかっていることなどを聞くと、リュカも二人同様、顔に笑顔を滲ませた。
話が尽きない中、ヘンリーはリュカに旅の疲れが見てとれるのを感じた。数ヶ月前にラインハットを出た時よりも身体はかなり痩せ、一時的なのかも知れないが目の下には黒いクマだか影が見られる。
「リュカも色々と苦労してるみたいだな」
気遣わしげに言うヘンリーに、リュカは大欠伸をして返事をした。真夜中にルラフェンを出て、それから既に数時間と起き続けているリュカは、ヘンリーとマリアと平和な時間を過ごしている内に、忘れていた眠気を思い出したらしい。二ヶ月ほどルラムーン草を探す旅に出て、戻ってきてすぐにベネットの家で呪文を復活させ、そのままこうしてラインハットへ来てしまったリュカは、ほとんど休んでいないに等しい状態だった。
「苦労……どうなんだろう、これって苦労なのかな」
「お前はそういうところ鈍感だから、よく分かってないかもしれないが、お前ほど苦労しているヤツもなかなかいないと思うぞ」
「あんまり分からないけど、そうなのかもね」
「しかしリュカ、その苦労を共にする女性が欲しいとは思わないか?」
眠気に襲われそうになっていたリュカは、ヘンリーの言っている言葉の意味がすぐには分からなかった。しかしヘンリーの隣で気遣わしげにリュカを見ているマリアの視線に気づき、リュカはその意味を理解した。
「結婚ってこと?」
「ああ」
ヘンリーの問いかけを聞いたリュカは、ポートセルミで会ったクラリスのことを思い出した。彼女はポートセルミの舞台でも人気の踊り子だったようだが、結婚することに憧れを抱いているようだった。若いうちにお嫁さんに行くのが女性の幸せなのだと思っている彼女は、踊り子の仕事をしながらも、真剣に結婚相手を探している。実際、リュカに結婚してほしいと申し込んできた彼女だったが、リュカは旅を続ける自分が結婚することなどできないと、彼女の申し出をきっぱりと断った。
「僕の旅っていつ終わるか分からないからね。結婚しても、相手の女の人が幸せになれるとは思えないよ」
「お前らしい答えだな。自分の幸せよりも、相手の幸せをってことか」
「うーん、そう言うわけでもないんだけど。僕は母さんを探す旅をしているわけだから、危険な旅につき合わせるわけには行かないよ」
「母親を助け出すのが先決と言うわけか……」
「そうだね。そんな旅に女の人を連れて行くのはちょっと考えられない」
リュカの言葉には、いつ命を落とすか分からない危険がこれからもずっと続くのだという意味が含まれている。普通に話しているとその緊張感が感じられないリュカの雰囲気だが、その実彼は常に死と隣り合わせの旅をしている。もし誰かと結婚をしても、共に旅をすることは考えられないし、そうなるとそもそも結婚をする意味がないのではないかと、リュカは思った。
リュカにはまだ、女性を愛すると言う感情が分からないのだと、ヘンリーはリュカの冷静な様子を見てそう思った。リュカの中で結婚というのは、単に女性と共に行動するぐらいのことでしかないのかも知れない。特定の誰とも想像できない女性を一緒に旅に連れて行き、危険な目に遭わせることは良くないことだと、感情からではなく事実としてそう思っているだけなのだろう。
ヘンリーは自分が先に知ってしまった愛情と言う感情を、リュカに教えてやりたかった。心の底から幸福な感情が沸き上がる感覚を、リュカに知って欲しかった。愛する人が隣にいれば、できないこともできるようになるのだということを、リュカに理解して欲しかった。
愛と言う感情は、夫婦のみならず、親子にももちろん存在する。もしかしたら、夫婦よりも強い愛情が、親子の間にはあるのかも知れないと、ヘンリーはリュカとパパスやデールと義母を思い浮かべながらそう思った。それはきっと、リュカの探す母親も同じことだろう。懸命に自分を探す息子の姿を見たら、リュカの母親は何を思うのか。幼くして生き別れ、成長した息子が危険を冒してまで旅を続けることを、本当だったら止めたいと思うのかも知れない。
「しかしリュカよ、その母親が一番お前の幸せを願っているはず。まず自分が幸福にならなきゃ……。それからでも遅くはないぜ」
「私もそう思います。きっとお母様は誰よりも、リュカ様の幸せを望んでいらっしゃいますわ」
そう言う二人の表情は、穏やかで満ち足りたもののようにリュカの目に映った。彼らは結婚し、人生を共に歩み始めたことで、これまで得たことのない幸せを手に入れた。彼らの幸せは、ラインハット国民にまで広まり、ラインハット国全体が明るい雰囲気に包まれている。幸福な結婚は、周りにも幸福が行き渡るのだと、リュカは二人を見ながら素直にそう思った。
ただ母親が自分の幸せを願っていると言われても、今のリュカには父の遺した言葉を継ぎ、使命を果たさなくてはならないと言う思いの方が遥かに強い。むしろ自身の幸せを犠牲にすることで、父の遺志を果たせるのなら、それが一番の幸せだと考えている。母親に会いたいと思う気持ちももちろん持ち合わせているが、記憶にない母親に会うことよりも、父の夢を実現させたい思いが今のリュカを支えていた。
「僕にはまだ良く分からないよ、そういうの。もしそんな機会があったら、まあ、考えてみてもいいかもね」
さして気のない返事をするリュカに、ヘンリーは小さく溜め息をつきながら頷いた。
「ま、お前はまだまだガキだからな、恋だの愛だのが分からないんだろ」
「きっとそうなんだろうね。何となく、一生分からない気がするよ」
「そんなことありませんよ。リュカ様にだってそのうち素敵な女性が現れますよ」
マリアにそう言われても、リュカには自分が結婚するという想像が全く沸かない。ヘンリーの言う通り、恋愛という感情がリュカにはてんで分からず、想像しようにも何をどう想像したら良いのかも分からなかった。もし自分が結婚する時が来るとしたら、それは自分で相手を選ぶよりもむしろ、誰かに決めてもらった方がいいのではないかと、リュカはそれくらい結婚に興味が沸かなかった。
温かな雰囲気を醸し出すヘンリーとマリアを見るラインハット国民の多くは、結婚というものに憧れ、自分もいずれは幸せな結婚をしたいと夢見る。しかしリュカにとっては、親しい友人が二人で幸せになってくれたことが嬉しく、それだけで満足だった。羨ましいといった感情や、憧れのような気持ちは芽生えず、常にどこか暗い気持ちを抱えていた二人が心から笑い会える相手に巡り合えたことが、リュカにはただ嬉しかった。
「いつ終わるか分からない旅だろうが、もし無事に母親に会えたら、お前の晴れ舞台もちゃんと見せてやれよ。それが親孝行ってもんだ」
「そうだね。そうできるよう頑張るよ」
「リュカ様の奥様になる人ってどんな人でしょう……。リュカ様の結婚式にはぜひ私たちも呼んでくださいましね」
「いつになるか分からないけどね。その頃にはもしかしたらかなりおじさんになってるかもなぁ」
「早く見つかるといいな、お前の母さん」
「……うん」
ヘンリーにもマリアにも、既に実の親はいない。ヘンリーの実母は彼がまだ赤ん坊の頃に亡くなり、実父である先王は恐らく、ラインハット国を乗っ取ろうとした魔物の陰謀により殺されている。マリアも実兄のヨシュアに連れられ、あの大神殿建造の地に向かった以前の記憶は幼過ぎて残っていない。まだ記憶も定かではないほど幼い頃に、彼女は両親とも失っている。そんな二人に温かい言葉をかけられると、リュカは少しいたたまれない気持ちになった。
父パパスの遺言を果たしたいと言う己の目的のため、魔物の仲間を初め、ヘンリーやマリアにも世話になり、ラインハット国王であるデールにも情報をもらい、様々な人の手を借りて、ここまで生きてこられている。リュカは改めて目の前の二人に感謝の気持ちを抱いたが、それは言葉にはならずに、ただリュカの胸の中で形として残った。
その時、部屋の扉が小さくノックされ、扉の前に立つ兵士の声が聞こえた。
「ヘンリー様、大臣殿がいらしてますが、いかがいたしましょう」
その声を聞くなり、ヘンリーは溜め息をついて部屋の机に置かれている紙の山を見遣った。それは本日中に目を通しておくべき書類の山で、ヘンリーはまだ半分も見終わっていない状況だった。
「今日中には絶対にやるからって伝えてくれ」
「本当に今日中に終わるのですか、ヘンリー殿。まだかなりの量が残されているのではないですか」
今度は兵士の声ではなく、大臣本人の声が返って来た。ヘンリーは後頭部を搔き毟ると、机に向かって歩き出し、引いたままだった椅子にどかりと腰を下ろす。
「今日中ってのは、今日の日付が変わるまでの時間のことだ。それまでに終わればいいだろ」
「いつもギリギリでは私が苦労しますのでな、なるべく急いでいただきたい……」
「わかったわかった。じゃあ、日付が変わる一時間前までには持って行くよ」
「……まあ、ご友人がいらっしゃってますからな、私もあまり無理を言いたくはありません。では、お願いしますぞ」
そう言って、大臣は部屋の前から去って行ったようだった。猛然と書類に目を通し始めたヘンリーを見て、リュカはこのラインハットがまだまだ復興の途上にあるのだと実感した。ヘンリーの飲みかけのカップを机に移動させ、机の上に乱雑に置かれた書類をまとめるマリアは、しっかりと夫を支えている妻の雰囲気が漂っている。
「リュカ、悪いな。ちょっとこいつを片づけちまわないと」
「うん、忙しいところ急に来たから、邪魔しちゃったね」
「いや、そんなことはどうでもいいんだけどさ。……あ、そうだ、お前、まだ腹が減ってるだろ」
「うん、ぺこぺこ」
「ちょうど今の時間だと兵の詰め所で食事が出される時間だと思うから、お前も一緒に食ってこいよ。せっかく来たんだから、俺らの他にも色々話を聞いておいた方がいいんじゃないのか。兵士たちは兵士たちで、色々と情報を持っているかも知れないからな」
「そうだね、そうさせてもらうよ。ところで兵士の詰め所ってどこ?」
リュカはヘンリーに場所を教えてもらい、食事が終わったら部屋に戻ってくると言って、早々に王室上階の部屋を出て行った。足早に去って行ったリュカの後ろ姿を見ながら、ヘンリーもマリアも顔を見合わせて笑った。
「リュカ様、こんなお菓子じゃとても足りなかったんですね」
「ろくに食いものを食ってなさそうだったもんな、あいつ。ここにいる間はたらふく食わせてやらないと」
「そうですね、またいつ会えるか分かりませんものね」
しんみりしそうになる空気が漂うが、ヘンリーもマリアももう一人ではない。互いに同じ空気を共有しているだけで、彼らは幸せを感じることができる。
「マリアも食事してきていいぞ。俺は後で取るから」
「いいえ、あなたのお仕事がひと段落するまでお待ちします。一緒に食事をしたいですもの」
そう言いながらにっこりと笑うマリアを見て、ヘンリーは目の前にある書類の山を投げ出しそうになったが、どうにかこらえて机に向かう。
「じゃああと十分くらいでこいつを片づけてやる」
「私もお手伝いしますね」
ヘンリーの机の端に置いてある書類の山を抱え、マリアはそれらの仕分けを始めた。すぐに真剣に手伝いに取り組み始めたマリアを見て、ヘンリーも雑念を払って書類に目を通し始めた。



「ここは来たことがなかったなぁ」
数ヶ月前、ラインハットに数日間留まっていたリュカだが、ラインハット兵の詰め所があると言うこと自体知らずにいた。城の二階、南側に位置する詰所には既に食事が運ばれているらしく、多くの兵士たちが食器を鳴らしながら食事を始めていた。出入りの多い詰め所の扉は常に開かれており、リュカがそこに立ち入っても特に誰も気にすることなく、まるでリュカはラインハット兵の一人であるかのように、自然に詰所の中へ入って行った。
食事は配給制だが、食器を持って並び、各自自由に好きな分だけ取り分けることができる。周りを見渡せば、兵士の他にも城の人間がここで食事を取っているようだった。詰め所の奥にはまた別の部屋が設けられているようで、食事はそこにも運ばれている。救護施設も兼ねているこの場所には、怪我人や病人などを受け入れる設備も整っており、奥にはそのような部屋があるようだ。
「本当に僕も食事をもらって大丈夫なのかな」
ヘンリーに聞いたこととは言え、リュカは流石に不安になった。この場所にラインハット国民以外の姿は見られない。余所者の自分が果たしてこの詰め所で勝手に食事を取って良いものかその場で立ち止まっていると、近くを通った若い兵士に声をかけられた。
「どうかしましたか?」
悪いことをしているのが見つかったかのような気持ちになり、リュカはすぐに返事ができなかった。しばらくその場で立ち尽くしていると、訝しげにリュカを見ていた若い兵士が、急に表情を一変させた。
「やや! あなたがニセの太后さまをやっつけてくれた人ですね!」
リュカの旅装は多くの旅人の中でも少々特徴的だ。濃紫色のターバンにマントを身につける青年の姿は、一度その姿を目にした者ならばそうそう忘れることのないものだ。若い兵士は明るい笑顔を見せながら、リュカの両手を取り、ぶんぶんと嬉しそうに振った。
「おかげでこの国ももとどおり。どうもありがとうございました!」
「いや、僕はヘンリーを手伝っただけだから……」
「あっ、そうか、ヘンリー様のご友人なんですよね。すみません、こんな馴れ馴れしいことしちゃいけなかったんだ」
慌てて手を離し、何度も頭を下げる兵士に、リュカは困ったような笑顔を向ける。しかしこの場に自分を知っている人物がいて助かったと、リュカは兵士にこの場所について尋ねることにした。
「僕もここで食事を取っても良いってヘンリーに聞いてきたんだけど、大丈夫なのかな」
「もちろん! 僕もこれから食事なので、ご一緒させてもらってもいいですか?」
「その方が助かるよ。ありがとう」
「では食事を持ってきますので、この辺りの席で待っててくださいね」
そう言うと、若い兵士は足早に食事の配給の列に並びに行った。リュカは言われた通りに席に着いて待つことにし、空いている椅子を引いて腰掛けた。若い兵士を目で追っていると、彼の同僚と上司と思われる人物と共に食事を盆に乗せて受け取り、席に戻ってくるのが見えた。兵士たちの食事の時間は交代制で、親しげに話す彼らは、いつも食事をする時の仲間のようだった。若い兵士が二人に話をしながら、席に座っているリュカをさし示している。彼らが席まで来て、運んできた盆を広いテーブルの上に置くと、若い兵士の上司と同僚がリュカに握手を求めてきた。リュカは椅子から立ち上がって、状況が良く分からないまま彼らの握手に応じた。
「その節は本当にお世話になりました。あなたのおかげでこの国も救われました」
「国を救ったのはヘンリーですよ。僕は何も……」
「しかしあなたがいなければ、ヘンリー様もこの国に戻ってくることはなかったのだと思います。あの事件以来、太后様もすっかり大人しくなって。頼りなく思えたデール様ですが、今では本当に立派な王におなりです」
兵士の言う通り、太后は東の小部屋で一日の多くを過ごし、デールは精力的に国王としての務めを果たしている。実際に二人に会ったリュカには、そのような日々の状況が良く分かった。太后は地下牢生活に長い年月を費やし、疲れ切ってしまったのだろう。実年齢よりも年老いて見える太后は、立派に国を統治するデールの姿に喜びこそすれ、自らしゃしゃり出て国政に口を出すような力はもう持ち合わせていないのかもしれない。デールも、たとえ母親に何か口うるさいことを言われたとしても、もう一人前に言い返すことができるはずだ。頼れる兄が国に戻った今は、デールも自信を取り戻している。自らの意思で考え、行動できるようになった今、デールは国民から立派な王になったと称えられているのだ。
「ヘンリー様のご結婚祝いでこちらにいらしたんですか?」
若い兵士がそう問いかけてくると、リュカは「そんなようなものかな」と曖昧に答えた。
「ここに来るまで、本当に結婚したのかなって疑ってたんだけど、まさかマリアと結婚してたなんて思いもしなかったよ」
「そうか、あなたもマリア様をご存じなんですよね」
「うん、てっきりマリアは海辺の修道院にいるんだと思ってた。それが今じゃしっかりヘンリーの奥さんなんだもんなぁ。まだ信じられない」
数ヶ月前、マリアはラインハット城に滞在していることを息苦しく感じていたはずだった。お城での暮らしなどしたことがないマリアにとって、華やかな服を着飾った城の人間が城内を歩いているのを見るだけで緊張してしまうほどだった。しかし今では自らドレスを身にまとい、城の最上階の部屋で夫のヘンリーをしっかり支えている。
今の彼女にとっては、愛する夫と共にいることが唯一の真実であって、もはや外面に惑わされることはないのだろう。ヘンリーがいる限り、彼女は自身の真実から目を逸らすことはない。
「お二人とはもうお会いになったのですか?」
若い兵士の先輩に当たるもう一人の兵士がそう尋ねてきた。席に着くリュカの前には既に食事が並べられ、リュカは一言礼を言うと、早速パンに手をつけながら答える。
「さっき上で会ってきて、ここで食事がもらえるだろうからって言われて来たんだ。ヘンリーも仕事で忙しそうだし、邪魔しちゃ悪いから、僕も部屋を出た方がいいだろうなって思って」
王兄であるヘンリーの身分から考えれば、客人が部屋に来ているのだから、部屋に食事を運ぶことももちろんできたはずだ。しかし今のヘンリーは、リュカには計り知れない山積みの仕事を抱えている。突然ラインハットに現れたリュカと時間が許す限り話をしていたいが、国のために働く責務を自ら課している彼にとって、仕事をさぼるわけにはいかない。止むなくヘンリーは、一時的にリュカに部屋を出てもらい、集中して仕事を片づけることを選択した。リュカも彼のその気持ちが分かったから、素直にこの詰め所へと向かったのだ。
「邪魔しちゃ悪いって、あれですか、ヘンリー様と奥様のってことですか?」
「え?」
若い兵士がにやつきながら言う言葉の意味が分からず、リュカは豆のサラダを口いっぱいに頬張りながら聞き返す。すると、二人の兵士の上司と思われる年嵩の男が、スープに入った芋をフォークでつつきながら言う。
「本当にヘンリー様と奥様は仲が良くて……。独り者には目の毒だな。わっはっはっ」
「たまに中庭でお二人が一緒にいらっしゃるところを見ますが、ご夫婦と言うよりは、何だか恋人同士みたいで、見ていて羨ましくなりますよ」
「まだまだ新婚だからな。それにしてもあのやんちゃだったヘンリー様に、マリア様のような素敵な女性が来てくれるなんてな。昔のヘンリー様を知る者は誰も予想していなかったと思うぞ」
「そうなんですか?」
聞き返す年若い兵士は、恐らくリュカやヘンリーとそう変わらない年齢の青年だ。幼い頃のヘンリーを知らずに、ラインハット兵として働き始めたのだろう。
「幼い頃のヘンリー様に手を焼かされた者は数知れず、ってやつだ。城にいる者は一人残らず困らされたんじゃないのか」
「あなたは小さい頃のヘンリー様を知ってるんですか?」
若い兵士の先輩である青年に聞かれ、リュカは曖昧に頷いた。リュカが知っているヘンリーと、ラインハットの人たちが知っているヘンリーとでは、恐らく印象が大分違うだろう。イタズラばかりしていた頃のヘンリーを、リュカはほとんど知らない。リュカが知っているヘンリーは、パパスがいなくなり、一生消えることのない罪を負ってしまったと思いこんでいるヘンリーだ。
「ヘンリーは昔からいい奴です」
リュカはそう答えることしかできなかった。リュカのその言葉に、先輩兵士と上司の二人は共に頷いていた。
「そうだったんでしょうね、私たちが気付かなかっただけで」
「それだから修道女であったマリア様も、ヘンリー様に惹かれたのかも知れんな」
悟るような二人の言葉に、若い兵士は一人小さく首を傾げていた。
詰め所の奥から、車いすに乗せられた一人の老人が、看護をする者の女性に押されて部屋に入って来た。傷病人は他にも数人見られるが、ほとんどが自力で歩くことができるほど回復しているようだ。しかしその老人はまだ体力が十分に回復していないようで、看護の者の手を借りてようやく食事の席に着くことができる状態だった。
リュカがそれとなく老人の姿を目で追っていると、その視線に気づいたように、この詰め所では珍しい旅人の姿に老人も目を留めた。しばらくぼうっとリュカを見る老人だったが、はたと気付いたように目を大きく開くと、後ろから車いすを押す看護の者になにやら必死に訴え始めた。近づいてくる老人を見ながら、リュカはどこかで会ったことのある人だっただろうかと、記憶を頭の中に巡らせていた。
「おお! あんたは!」
間近にまで来て、今一度リュカの姿を確認した老人は、その弱々しい見た目とは裏腹に驚くような大きな声を上げた。パンを詰め込んでいた口に水を流し込み、リュカは口をもごもごさせながら席を立つ。
「えっと、お会いしたことがありましたっけ?」
「わしですじゃ。地下牢にいたジジですじゃ」
今にも車いすから立ち上がってしまいそうなほど元気な様子の老人を見ながら、リュカは老人の言う暗い地下牢を通った時のことを思い出した。ラインハットへ潜入する際、王族だけが使用できるという地下通路をヘンリーと通り抜け、途中にあった地下牢で出会った老人が今目の前にいた。老人は太后の正体に気付いており、恐らくそのことに言及したがために地下牢に閉じ込められたに違いなかった。
気がつけば、詰め所にいる兵士全員が席を立ち、老人に身体を向けていた。そして小さく頭を垂れている。詰め所の中の雰囲気が先ほどまでのゆったりとした感じからガラリと変わり、一瞬にして緊張が走ったのが分かる。それと言うのも、目の前にいる老人一人の影響なのだと、リュカはすぐに悟った。
「今は地下牢から出してもらい、こうして手厚い看護を。これもあんたのおかげじゃ」
話すうちに涙声になってしまった老人は、続けて「ありがとう、ありがとう……」と声を詰まらせながら、リュカの両手を固く握った。周りにいる兵士がその様子をじっと見ている雰囲気を、リュカは肩身を狭くしながら感じていた。
「おじいさんが無事に出られて良かったです。きっとヘンリーがちゃんと手はずを整えてくれたんですね」
「あの時はよく分からなかったが、まさかヘンリー様が地下牢を通ってお戻りになるとは。そしてあんなに立派になられて。幼い頃のわしの教育の賜物と言うものじゃ」
「教育?」
「この方はヘンリー様とデール様の教育係をされていたのです。それがある日、忽然と姿を消してしまわれて……。まさか地下牢に閉じ込められていたとは誰も考えておりませんでした」
若い兵士たちの上司がリュカに説明し、再び彼は老人に向かって頭を下げた。周囲の緊張を解くために、老人は一度皆に席に着くよう指示をすると、兵士たちは老人に敬意を表したままそれぞれ席に着いた。
老人が教育係だったと聞いて、リュカは老人が地下牢に閉じ込められていた理由が分かった気がした。王子を教育するほどの教養溢れる人物であれば、太后のおかしな様子にもいち早く気付いたに違いない。事実、老人はあの地下牢でヘンリーを亡き者にしたのは太后だと訴え、恐らくそのせいで彼は地下牢に閉じ込められてしまった。太后が魔物に入れ替わっていたことには気付いていなかったかも知れないが、太后の異様な行動に対し素直に言及したため、彼は長い月日を地下牢で過ごすことになってしまったのだろう。
「おじいさん、大分回復したみたいですね」
「目も見えるようになったし、耳も聞こえるようになったわい。それもこれもヘンリー様とあんたのおかげじゃ」
「あなたを救えて、ヘンリーも喜んでると思います」
世の中には自分の手では救えない命が沢山ある。その中で、目の前の老人のように、一つでも自分の手で救える命があるのなら、それはヘンリーにとってもリュカにとっても喜ばしいことだ。二人はあのセントベレス山の頂で、多くの命が失われて行くのを目の当たりにし、己の無力さを感じた。そして多くの人たちを置き去りにしてあの場所から逃げて来てしまったことに、ずっと心の奥底で罪の意識を感じている。罪滅ぼしと言うのは罪深いが、それでもリュカもヘンリーも元教育係という老人を助けだせたことで心が軽くなったのは事実だった。
「ヘンリー様は幼い頃から孤独なお子じゃった……。しかし今はマリア様という素晴らしい方を得られて、ようやっと幸せを手に入れられた。わしはそれが嬉しくてのう……」
「いつもお忙しそうですが、マリア様と一緒にいらっしゃる時は本当に幸せそうな顔をしてらっしゃいますよね」
若い兵士も元教育係の老人に合わせるように、言葉を運ぶ。リュカにも二人の言う言葉の意味が分かるような気がした。先ほど、王室上階で会ってきた二人の周りには、数ヶ月前にラインハットで別れた時と比べて、溢れるような明るい雰囲気が漂っていた。それが結婚によるものだということはリュカにも分かったが、どうして結婚することが二人を明るくさせたのかは良く分からなかった。
「食事を終えられたら、またヘンリー様のところへお戻りになるのかね?」
二人の兵士の上司に当たる男にそう問われ、リュカは頷いて答えた。
「仕事がちょっと忙しそうだったんで、僕だけここで食事をして、終わったらまた話をするつもりです」
「折角来られたのだからゆっくりされたらよい……が、あまりのお二人の熱々ぶりに逃げ出したくなるかもしれんがな」
そう言うと、上司の男はまた大口を開けて笑い声を上げた。元教育係の老人もこもるような声で笑う。二人の笑いがどういうものなのかも良く分からないまま、リュカは曖昧に笑顔を見せ、皆と一緒の食事を進めた。



兵士との食事を終えたリュカは、堪え切れない眠気に襲われ、ヘンリーたちのいる王室上階に戻るよりも先に昼寝をしようと、ラインハット城の中庭に来ていた。春の気配が感じられる穏やかな日差しの下、しっかりと手入れされた中庭の草地の上にゴロリと寝転がる。中庭には他にも城の人たちの姿があるが、皆午後のひとときを読書をしたり、日光浴をしたり、猫と遊んだりしながら、思い思いに過ごしている。リュカが昼寝をしても、誰にも何も言われることはなかった。
「ヘンリー、まだ仕事終わらないんだろうなぁ」
リュカはそう呟くと、ちょうど上に見える王室上階の場所に目をやった。今もヘンリーは部屋でせっせと難しい書類に目を通しているのだろう。マリアはそんな夫を助けるべく、何かしら彼女にできる手伝いをしているに違いない。
「やっぱり今日はここに泊まらないで、すぐにルラフェンに戻ろうかな」
国のために奔走するヘンリーの仕事が尽きることはない。今日、突然現れた自分のために時間を割いてくれたが、それでどれだけ仕事を止めてしまったかと思うと、リュカは少しいたたまれない気持ちになった。それこそ、今日は一日不眠不休で大臣に依頼された仕事を片付けるのかも知れない。
昼寝をしに中庭にきたリュカだったが、いざ草地に横になって目を瞑っても眠ることはできず、ただ王室上階の部屋にある南向きの窓をぼんやりと眺めていた。すると、そこに人影が現れ、中から窓を大きく開けた。マリアだった。木の枝をほんの少し揺らす程度の風が中庭に吹いているが、その風が窓から中に入り込んだのだろう。マリアは一瞬、身を震わせたように見えた。まだまだ冬の寒さを感じる冷たい風だ。温かい部屋の中にいるマリアが浴びれば、身を震わせるのも無理はない。
リュカは寝転がりながらマリアに手を振ろうかと手を上げかけたが、途中でそれを止めた。マリアの後ろからヘンリーが両手を頭上に突き上げて伸びをしながら、姿を現した。かと思ったら、そのまま後ろからマリアを抱きしめたのだ。二人にはリュカの姿が見えていないらしく、ただそのままの姿勢でじっと時を過ごしている。そんな二人の表情は、とても満ち足りているようにリュカには見えた。恋愛の感情など知らないリュカでも、彼ら二人が互いに大事に思い、それを今伝えあっているのだと、分かった。
そんな二人の感情を目の当たりにし、リュカは初めてそんな二人を羨ましいと思った。そして以前に二人と旅した時のことをふと思い出した。
偽太后の正体を暴くため、真実を映し出すと言う鏡を探しに神の塔に入った時のことだ。マリアの祈りにより、扉の開かれた塔に入り、その中庭でリュカは父と母の幻影を見た。ぼんやりと見えた若かりし父が母を見る眼差しは、今リュカが見たヘンリーの眼差しに似ていた。先ほど、詰め所で会った兵士たちも老人も、口を揃えてヘンリーとマリアの仲の良さを噂していた。リュカの知らない父と母も恐らく、今のヘンリーとマリアに負けないほどの仲睦まじい夫婦だったのだろう。
父は一体どんな気持ちで母を探し続けていたのか。魔界と言う想像もつかないような場所に連れ去られ、ほとんど手がかりも得られないまま幼子を連れて旅を続け、そのまま数年の時を過ごす中で母の生存を信じ続けるのは、途方もない努力が必要だっただろう。窓に見えるヘンリーとマリアがもし引き離されてしまったら、ヘンリーは、マリアは、どれだけ悲しむのだろうか。仲睦まじく寄りそう二人が離れ離れになったら、恐らく互いに生きた心地がしないに違いない。
草地に寝転がっていたリュカは、唐突にその場に立ち上がった。もうとても昼寝をする気にはなれなかった。一刻も早くルラフェンに戻り、かつて勇者が使ったという盾があるサラボナに向かわなくてはならないと、リュカは大きな声を上げた。
「ヘンリー!」
中庭にいる人々が一斉にリュカを見る。名を呼ばれたヘンリーはまさかリュカが中庭にいるとは思わず、驚いて窓から身を乗り出した。
「リュカ! お前、そんなところにいたのか」
「僕、もう戻るよ」
「なんだって!?」
「ヘンリーもマリアも、お互いに大好きなんだなって分かって良かった。教えてくれてありがとう」
「なっ……」
リュカのストレートすぎる言葉に、ヘンリーは顔を真っ赤にし、マリアは笑って頷いていた。
「また何か困ったことがあったら来るかも。また突然来るだろうけど、よろしくね」
そう言うなり、リュカはルーラの呪文を発動させるべく、ルラフェンの町の様子を頭の中に思い描いた。中庭の人々が見守る中、リュカの周りだけに異様な風が起こる。濃紫色のマントが不自然な形に持ち上がったかと思ったら、リュカの身体が地面から浮きあがり、周りにいる人々は一斉にざわざわと騒ぎ始めた。窓からリュカを見ているヘンリーとマリアも、初めて見るルーラという呪文を口を開けたままじっと見ていた。
徐々に浮き上がったリュカの身体は、窓から顔を覗かせているヘンリーとマリアのいる王室上階の高さまで上った。近くまで来たリュカに、ヘンリーが声をかける。
「今度来る時は仲間も連れてこいよな」
「うん、きっとスラりんもピエールもガンドフも会いたがってるよ」
「リュカさん、これを」
そう言ってマリアが投げて寄越した布包みを、リュカはバランスを崩しながらもどうにか受け取った。
「皆さんで召し上がってください」
先ほど部屋で話していた時に、リュカが美味しい美味しいと食べていた焼き菓子だった。布の中から何とも言えない香ばしい匂いが漂う。
「ありがとう、マリア。みんなも喜ぶよ」
そう言うリュカの身体は更に高みに上り、ヘンリーとマリアから見るリュカの姿は、ちょうど太陽の位置と重なった。
「じゃあ、またね」
「くれぐれも死ぬんじゃないぞ」
手を振り、笑顔のまま、リュカの身体は猛然と西に向かって飛んで行った。ヘンリーの言葉に返事をする間もなく、リュカの目に映るラインハットはあっという間に小さくなってしまった。情緒の欠片もない呪文の効果に、リュカはむしろ助けられたと思っていた。旅立ちの別れは丁寧にするよりもあっさりした方が良い。その方が悲しさや辛さを感じる隙がない。
どんどん飛び退って行く景色を見ながら、リュカは改めて早く父の夢を叶えたいと思っていた。神の塔で見た父と母の姿が、今目にしていたヘンリーとマリアの姿に重なる。父の無念が今になってようやく形として見えてきたような気がした。愛する妻と会えないまま、無念の死を遂げることは、どれだけの悔しさが滲んでいたのだろう。
幼かった頃の自分の非力を責めると共に、その罪滅ぼしのため、リュカはサラボナにあるという勇者の使った盾をなんとしてでも手に入れようと、心の中で父に誓った。

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