2017/12/03

山奥の村に住む娘

 

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「大分慣れてきたみたい。ただ、まだ気は抜けないけどね」
「出る時はひやっとしたからのう」
「船を岸から離す時に、早速ぶつけそうになりましたからね」
「あそこでぶつけてたら、いきなり大破するところだったよ、危ない危ない」
リュカはマーリンとピエールと共に、船の操舵室にいた。操舵とは言っても、一度海に出てしまえば、下手に暗礁にでも乗り上げない限り、何かにぶつかって事故になる心配はさほどなく、舵を切るのもそう不安になることはなかった。天候は晴れが続き、風も穏やかで、初めて船を操舵するには好条件の日和だった。この辺りの操舵する水域は外海の影響を受けることもなく、年中静かで穏やかな水面が周囲に広がる。
リュカの操舵する船はサラボナのある陸地を離れ、今は東に山々の景色が広がる陸地を望みながら北上を続けていた。しばらく海のような広い場所での操舵だったが、地図で確認したところには、この先また川幅が狭まり、操舵にいくらか気を遣う場所に入るようだった。
ルドマンから借りた船は、彼曰く「小さなもの」だったようだが、パトリシアの引く馬車など悠々と入り、尚且つ船員用の寝室や備え付けの台所、浴室にトイレと、旅支度さえしっかりしておけばここでしばらく生活するのが快適と感じるほど、設備の整った船だった。船の動力は魔力で、リュカ達は交代でその魔力を捻出する必要があったが、どういうわけか船を動かす動力だと言うのにそれほどの魔力を必要としないらしく、リュカやピエールがホイミを二、三回唱える程度の魔力で数日間の運航が可能だった。
「お金持ちになると、こんな船が手に入るようになるのかな」
「それよりも、こんな船があることの方が驚きじゃ。一体誰がどうやって造っておるのか……」
「ヘンリーもこういう船を持ってるのかもしれないね。いいなぁ、便利だなぁ」
「便利と言えば、リュカ殿が唱えるルーラの呪文の方が便利だと思いますが」
操舵室で話をしていると、前方を見張っていたガンドフが船の甲板からリュカ達に合図を送る。前方に魔物の気配があるという合図だった。穏やかな水面に感じる魔物の気配は、ガンドフでなくとも分かるほどはっきりとしている。丁度進む方向に、妙な渦が起こっているのが、リュカ達のいる操舵室からも見えた。幸い、今進んでいる場所は海のように広く、リュカは舵を少し操作して魔物の群れを回避することにした。それでも食らいついてくるような魔物なら、戦わなくてはならないと、リュカは慎重に操舵しながら前方の様子を窺う。魔物の群れが海面に現れたら、操舵をマーリンに交代して、リュカは甲板に向かうつもりでいた。
ガンドフが甲板から海を覗きこむ。そして再びリュカ達のいる操舵室を見上げると、にっこりと目を細めて微笑んだ。どうやら魔物を回避することに成功したようだ。リュカはほっと胸を撫で下ろした。船での戦闘となると、自分や仲間の身を守るだけではなく、船自体を守らなくてはならない。船の操舵に関してはさほど問題とはしていないが、魔物との戦闘は極力避けて通らなければならなかった。
「このまま川を北上して、内海に出るんですね」
操舵室にはリュカが常に懐に収めていた世界地図が広げられている。北上を続け、狭い川幅を抜けたところに、ピエールの言う内海がある。
「そう、その内海に出て、さらに北上しようと思ってるんだ」
「水のリングとやらを探すのじゃったの」
「僕の勘だけど、多分この辺りにあるんじゃないかと……」
リュカが指し示す場所を見て、ピエールもマーリンも苦々しい顔をする。二人ともルラムーン草を取りに行った時のことを思い出したようだ。
「あの時は酷い魔物の群れに襲われましたね」
「だから怪しいと思ったのか?」
「うん。あれだけの魔物がいるって、あの場所は特別な場所なんじゃないのかって思ってさ。何かを守ってるのかなって」
「たまたまかも知れんがのう」
リュカ達の向かう大きな湖の傍を、数ヶ月前旅をしていた時期がある。その時、リュカ達はスモールグールの大群に襲われ、酷く消耗する戦闘に巻き込まれたのだ。あの時、パトリシアやプックルがいなければ、敵の群れを抜けられず、リュカの旅はそこで終わっていたかもしれなかった。
川を北上すること二日、リュカが狭い川の操舵にも慣れた頃、進行方向に自然の景色とは違う人工的な四角い形をした何かが川を横切っているのが見えた。それは先にある内海と川とを隔てる大きな水門だった。水門はぴたりと閉じられており、それを開ける術を東の大陸から来た余所者のリュカ達が持つはずもなく、リュカは目の前で進路を遮る水門を眺めながら唸り声を上げた。
水門手前に船を着けられる岸壁があり、そこには数隻の舟が停泊していた。リュカが操舵する船よりもずっと小振りで、恐らく川で漁を行うための舟と思われた。この辺りで漁を行うということは、近くに町や村があるのかもしれないと、リュカは空いている岸壁に船を近づけ、一度水門前で停泊して辺りを探索することにした。
馬車で船を降り、岸壁沿いに馬車を進めていると、ほどなくして大きな立て看板があるのを目にした。

『無用の者 水門をあけるべからず 用のある者は ここより北東 山奥の村まで』

リュカ達のいる岸壁より東はずっと険しい山道が続いている。水門を開けて船を先に進めるためには、この険しい山道を登り、山奥の村まで行かなければならないらしい。リュカは村のおおよその位置を確認しようと、世界地図を広げて眺めてみた。すると、ちょうどリュカ達が今いる場所より北東の位置に、一つの点が記されており、そこには既に「山奥の村」と書かれていた。
「これって……僕が書いたんだよなぁ。なんだったっけ」
「何じゃ、忘れてしもうたのか。頼りないのう」
「しかし場所が分かって良かったじゃないですか。とにかく行ってみましょう」
「そうだね。パトリシア、きつい坂道が続くけど、頑張ってもらえるかな」
リュカの言葉に、パトリシアは問題ないと言わんばかりに首を近づけてリュカにすり寄った。彼女の長い首をぽんぽんと軽く叩くと、リュカは手綱を握って山道の中、馬車を進め始めた。



山奥の村に着いたのは、船を岸壁に停泊させてから翌日の昼頃だった。険しい山道と思っていた道だが、途中途中で休憩できる平らな道もあり、魔物との戦闘さえなければそれほど消耗もせずに村に辿りつけたはずだった。しかし山には当然のごとく魔物の姿もあり、リュカ達は夜通し交代で戦闘と休憩を繰り返し、山奥の村に着いた昼ごろには皆それぞれ体力や魔力をかなり消耗していた。疲労した体で山奥の村を見つけた時、リュカは思わず村を目前に地面に寝転がりそうになり、プックルの大きな前足で肩を揺すられてどうにか起きた状態だった。
「ああ、プックル、ありがとう。本当に寝ちゃうところだった」
「ふにゃあ、ゴロゴロゴロ……」
「どうしたんだよ、猫みたいな声を出して」
何の前触れもなく突然甘えるような声を出したプックルに、リュカは思わず眉をひそめた。プックル自身にもどうしてそんな声を出したのか分からないようで、小さく首を傾げている。
「プックルは鼻が利くから、この妙な臭いで調子が狂ったのかも知れんぞ」
「妙な臭い?」
「あそこに煙が上がっていますね。恐らくあれが臭いの原因なんじゃないでしょうか」
ピエールが指差す方向には、黄色がかった煙が立ち上るのが見える。村の中で火事が起きているわけではなく、山肌から直接立ち上っているようだった。その煙の色を見たリュカは、途端に鼻に異様な臭いを感じ、顔をしかめる。
「本当だ、何だか気持ち悪くなる臭いだね」
「言われるまで気付かないくらいだから、大したことなかろう」
「まあ、そうかも。それにここに人だって住んでるんだし、体に悪いものじゃないよ、きっと」
リュカはそう言いながら、足元にすり寄るプックルの赤いたてがみをがしがしと撫でつける。プックルは目を閉じて、黄色いリボンをつけた尾をゆるゆると振った。
「とにかくお主は村で休んでくるといい」
「私たちは適当に近くで休める場所を探します」
「うん、いつもありがとう。じゃあちょっと休んできます」
パトリシアの引く馬車をピエールたちに任せ、リュカは一人山奥の村へと入って行った。
これほど人里離れた村を訪れるのは、カボチ村以来だった。カボチ村での経験で、リュカの心には今、警戒心が生まれていた。決して悪い人たちがいるとは思わないが、余所者のリュカに対してはいくらか冷たい対応をするかも知れない。リュカは水門の鍵を借りられたら早々にこの村を出ようと、足早に村の中を歩き始めた。
村全体が山の一部のようで、村の奥へ進むには山道を登る必要があった。村の入り口近くには広い畑があり、それは山の斜面に沿って段々に作られていた。通常、平地に作られる畑とは違い、太陽の光を満遍なく当てるには、段々に作る必要があったのだろう。畑には様々な作物が育てられ、中でも目立ったのは太陽のようなオレンジの実がなる木が植えられる広い畑だった。美味しそうなオレンジの実を見ながら、リュカはサラボナのルドマン邸で飲んだオレンジジュースを思い出していた。しかしサラボナの町にオレンジの畑は見当たらなかった。もしかしたらこの山奥の村からオレンジを仕入れ、作っていたのかも知れないと、ふとそんなことを考えながらリュカは畑の景色を眺めていた。
すると、ちょうど畑仕事をひと段落させた村の人間が、リュカの方に向かって歩いてくるのが見えた。リュカは小さく会釈をし、警戒心は隠したままその男性に近づいて行った。リュカが話しかけるまでもなく、畑仕事をしていた男性は人懐こい笑みを見せながら、自らリュカに近づいてきた。
「旅人さんだべか?」
「はい、東の大陸から来ました」
「ここは名もない山奥の村だ。けんど温泉がわいてるから、旅人はけっこうやって来るだよ」
「そうなんですか?」
「こんな小さな村だけんど、世界でも湯治ができる村として有名なんだ。この村の温泉で病を治した人は数えきれないほどいるんだぞ」
話し好きな男性はこの山奥の村を自慢に思っているらしく、旅人であるリュカにその良さを滔々と説明し始めた。男性の話を聞いているうちに、リュカはこの村が閉塞的だったカボチ村とは違い、旅人に慣れた解放的な村なのだと理解した。恐らく、山奥の村に住む人々の多くが、目の前の男性のように旅人に親切に接してくれるに違いないと、リュカは村に入った時に張りつめ気味にしていた気をふっと抜いた。
男性に村の温泉に入るには宿に泊まれば何度でも入り放題だと聞き、リュカはとりあえず体を休めるためにも村の宿屋に向かうことにした。男性に宿屋の場所を聞き、リュカは更に坂道を登りながら、硫黄の黄色い煙の出る場所を目指して歩き始めた。
村の中を歩く人の数はそれほど多くは感じなかったが、温泉に入るために宿屋を訪れる人は多いようで、小さな村の割には大きな宿を構えているなと、リュカは宿屋の建物を見上げながらそう思っていた。木造の素朴な建物だが、かなりの部屋数を揃えており、リュカの他にも湯治に来ている旅人たちが多くいたが満室になることはなさそうだった。
既に宿泊手続きを終えた一人の戦士が宿のロビーで一息ついている姿を目にし、リュカは自分の宿泊手続きも済ませると、話しかけようと近づいて行った。旅の戦士もすぐにリュカに気付き、読んでいた本をテーブルの上に閉じると、茶色の口髭の下に笑みを見せた。
「君も旅をしているようだね」
「はい、東の大陸から来ました」
「ではポートセルミからここまで来たのか?」
「途中、ちょっと寄り道しながらですけどね」
「旅に寄り道はつきものだ。そうそう近道はできないさ」
リュカよりも一回りほど年上に見える男性は、年季の入った武器防具を身に付け、年の割には落ち着いた雰囲気を醸していた。何の目的で旅をしているのかはあえて聞かなかった。旅の目的は相手に聞くものではなく自ら話すものだと、リュカは戦士と旅の中で得た情報を交換するだけの会話を楽しむことにした。
「昔に比べて魔物の数も多くなって、この山奥の村を訪れる旅人も減っているそうだよ」
「そうなんですか。それでもこれだけの人が来ているんだから、ここの温泉ってかなり有名なんですね」
「命懸けで来なきゃならんがな。しかし病を治す効能があると聞けば、命懸けでこの村を訪れるのも分からないではない」
戦士の言う通り、山奥の村を訪れる人々は今や命を賭けて旅をし、湯治をするためにここまで来ているのだ。それと言うのも、そのまま生きていても体を蝕む病から逃れることはできず、未来への希望が持てないため、それならばと命懸けでこの村の温泉を目指して各地から旅をして来るのだ。恐らくこの村に辿りつく前にその命を落としてしまっている旅人も、少なくないはずだ。
「最近、どこかの教団が光の国をつくるためと言って、寄付金を集めているらしい」
「光の国?」
リュカは言いながら、体に悪寒が走るのを感じた。光と言う言葉にこれほど嫌悪感を感じたことはなかった。本来、全てのものを照らす力を持つ光だが、戦士の言う光の国には微塵もその力を感じることはできなかった。
「世界の終わりがきても、教団にさえ入っていれば助かるという話なのだ」
「……あなたはそれを信じているんですか?」
「いや、ちっとも信じていない。そんな上手い話があるものかと、その話をした者に言ってやったが、どうもその者は信じ切ってしまっていたようでな。その後どうしたのかは知らんが」
長年旅をしているだけあって、旅の戦士は冷静な判断力を持っていた。彼も本能的に、光の国という話にとてつもない胡散臭さを感じているのだ。至って冷静に考えればすぐに分かる嘘臭い話も、信心深い者や判断力に欠ける幼い子などにとっては、救いの手だと信じきることができてしまう。そんな彼らを本当に救わなくてはならないのは、嘘の真実に気付いた者の役目なのではないかと、リュカは旅をする自身の役目について考えさせられた。
世界の終わり、光の国などというはっきりとしているようで曖昧模糊とした言葉を使い、人々を誘導しようとしているその話は、明らかに邪な者の手が加えられてるのだと、リュカには分かっていた。まるで光に照らされているようなその話の裏側で、一体どれだけの人々が苦しく辛い思いをしているのかが想像できる。
「もしそんな人に出会ったら、僕もそんなものには入らない方がいいって止めるように話してみます。だって世界の終わりなんかが来て、もし自分だけが生き残っても、そんなに空しいことはないよ。教団に入る入らないじゃなくて、みんなで生き残らないと意味はないんだって気付いてもらえるように」
「君はまだ若いのにしっかりしているようだな、安心したよ。きっと色々と苦労してきたんだろう」
「苦労してきたのは多分、僕じゃなくて周りの人たちだと思います。僕はみんなに助けられてばかりだから」
「そう思える君だから、周りの人間は君を助けたくなるんだろう。世の中、持ちつ持たれつ。旅をする上で、生きる上で最も重要なことだ」
戦士の男性はそろそろ部屋に戻り、体を休めるためにも温泉に入ると言ってロビーを去って行った。リュカも既に宿のカウンターで受け取っていた部屋の鍵を手にしながら、指定された部屋へと階段を昇って行った。
部屋の扉が並ぶ廊下で、エプロンをかけた一人の女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。宿の女将のようで、温泉に向かう客に愛想よく応対していた。辺境の地にあると言っても過言ではない山奥の村だが、温泉の効能を求めて各地から旅をしてやってくる者が多くいる。世界的に有名な湯治場と言うだけあって客の数は多く、女将はその一人一人に丁寧に話しかけ、今は足を悪くした老人の介助を自ら進んで引き受けていた。ただ進む先には下へ降りる階段があり、一人の介助では危険だと感じたリュカは、女将と老人に近寄って介助を手伝うことにした。
「ああ、ありがとう、お客さん。階段を下りるところまで手伝ってもらえると助かるよ」
「僕が負ぶって下まで行きますよ。おじいさん、それでもいいかな?」
リュカがそう問いかけると、老人はしゃがれた声で「ありがとう」と小さく礼を言った。子供ほどの体重しかない老人をおんぶして、リュカは来た道を引き返す。女将は老人がこれから湯治で使用する着替えやタオルを手に、リュカと共に廊下を歩いて行った。
「村に着いたばかりなんだろう? 疲れているのにすまないねぇ」
旅の汚れにまみれたリュカの姿を見て、女将はその汚れに対して嫌な顔一つせず、ただ申し訳ないと言った様子でリュカに謝る。
「疲れているんだろうけど、僕よりも女将さんの方が疲れているのかも。だって休みなくここでこうして働いてるんですよね」
「そりゃあ、それがあたしの仕事だからね。それにあたしなんかはまだこの宿の切り盛りだけなんだから、大したことはないよ」
女将は宿の仕事を誇りに思っているのだろう。疲れを感じる意識はなく、ただ目の前のことを懸命にこなしているだけで、それで客に良いサービスができれば彼女はそれが一番嬉しいのだ。客から一言でも「ありがとう」という言葉がもらえたら、彼女はそれだけで次の仕事を頑張れる。
「村の奥に住むダンカンさんの娘のビアンカちゃんは本当によく働くよ」
「……え?」
「ダンカンさんの身体が弱いからとはいえ、女の身で村の外にまで出かけてねぇ。本当にしっかりした娘さんだよ」
女将の言葉に、廊下を歩くリュカの足が止まる。横を歩いていた青年が動きを止めたことに、女将は困惑した表情で「どうしたんだい?」とリュカの顔を見上げて問いかける。
「今、誰の話を……」
「ああ、旅人さんには誰だか分からないよねぇ。数年前にこの山奥の村に越して来たダンカンさんって言う人がいてね、その娘さんが一人でちょくちょく村の外に出かけるような勇ましい女の子なんだよ。器量も良いから村でも有名な娘さんで、ここにもたまに手伝いに来てくれるんだよ」
「宿の手伝いを?」
「何でも引っ越してくる前は町で宿を切り盛りしていたんだって。とは言っても、切り盛りしていた頃はビアンカちゃんも小さかっただろうから、ダンカンさんが仕事をしているのを見ていただけなんだろうけどね」
女将の話に、リュカは頭が混乱しそうだった。しかし女将の話は、リュカの過去の記憶とぴたりと合致する。むしろリュカの記憶の方が曖昧で、女将の話でその記憶が鮮明になるようにさえ感じられた。
「多分、手伝ってましたよ」
リュカの記憶の中に、二つの三つ編みをぴょんぴょんと跳ねさせて元気に走り回る女の子の姿が蘇る。顔はまだはっきりとは思い出せない。しかし彼女の澄んだ水色の瞳は、見ているだけで元気にさせられるような雰囲気を持っていたことは、はっきりと思い出せた。アルカパの宿で、彼女はそんな元気を宿の客に惜しみなく振りまいていたに違いなかった。
アルカパの町を訪れたのはもう数カ月も前になる。その時、リュカは彼女に会えるのを心から楽しみにしていた。サンタローズの村が滅ぼされた現状から気力を回復するには、彼女との再会が必要だと感じていた。それだけにアルカパの町で彼女が引っ越してしまったことを知った時には、目眩がするほどのショックを受け、ヘンリーに身体を支えられたほどだった。
その彼女が今、この村にいる。ビアンカという名の女性が世の中にどれだけいるのかは知らないが、女将の話と合致するビアンカは恐らくこの世に一人しかいないだろう。村の外に女の身一つで出かけてしまうような女性は、世界中を探してもそうそういないに違いない。彼女は相変わらずそんな危険なことをやってのけているようだ。幼い頃と変わらない印象に、リュカは今までの旅の疲れも忘れ、気がつけば女将にダンカン宅の場所を聞いていた。
女将と共に老人を一階の湯治場まで連れて行くと、リュカは予約を取った部屋に寄ることもなく、宿を飛び出して行った。ダンカンの家は村の奥にあるらしく、まだまだ坂道を上らなくてはならなかった。しかし疲れを忘れたリュカにとって、村の上り坂は大した問題にはならなかった。上り坂を上っている意識すらリュカにはなかった。
村はまだ昼前の清々しい日差しに照らされていた。山奥の村に来る時には険しい山道をずっと登ってきたが、村自体はそれほど高い場所にあるわけではなく、山の肌寒さを感じることはない。村人たちの多くは農作業に従事しており、彼らは皆長袖長ズボンを着用しているが、それは単に直射日光を避けるための服装であり、寒さから身を守るためのものではない。長く旅をするリュカにも、直射日光を.長く受け続けることの危険は良く分かっていた。太陽は恵みのものでもあるが、一つ間違うと命が危険に晒されるものでもある。
坂道を上って行くと、前方に傾斜を上るための急な階段が見えた。階段の先の景色は見えないが、宿の女将はダンカン宅が村の奥にあると言っていたため、リュカはひたすら村の奥へと早足で歩いて行く。階段の手前、右手にふと視界の開ける景色が広がり、その風景にリュカは速めていた足を思わず止めた。そこには村の墓地があり、その場所だけが穏やかで平和な村の雰囲気とはかけ離れた物悲しい空気に包まれていた。昼間の太陽に照らされる明るい景色のはずだが、墓地だけは常に夕闇を迎えていそうな寂しさが漂う。
墓石が並ぶ中、遠くに一人の女性が墓石の前にしゃがみこんでいるのが見えた。目の前の墓石にはたった今摘み取ってきたばかりの花が添えられ、村で採れたオレンジがお供えされているようだ。墓石の表面を手で撫でながら何やら話している様子の女性は恐らく愛する誰かを失い、亡くなった者の魂が寂しさを抱えないようにと、優しい口調で語りかけているのだろうとリュカは想像していた。
女性はずっと墓石に向かって語りかけ、時折手で目を擦って、堪え切れない涙を払っているようだった。村を訪れた旅人であるリュカに気付く様子は全くない。大事な人との語らいを邪魔してはいけないと、リュカは静かにその場を立ち去ることにした。
目の前の階段はかなり急で、しかし長年に渡って人の足で固められた階段はしっかりしており、危なげなく上ることができる。しかも階段の一段一段が小さく、急とは言え村の老人でもゆっくりであれば上れるような作りになっていた。リュカはその階段を二段飛ばしで上って行く。
階段の上には村人たちの住居が点在しているようだった。もちろん、村の至る所にある畑もあった。その中で一際大きな家が、リュカのいる場所から最も離れたところに見えた。宿屋の造りもそうだったが、この山奥の村の建物の造りの多くは高床式の住居で、最奥にある住居もその造りだった。村の地盤が水を多く含むため、湿気から逃れるために建物の床を地面から離す必要があるのだ。そんなことなど知らないリュカは、ただ「不便な造りだな」くらいにしか思わず、わざわざ村に湯治に来る老人などには尚更不便だろうと思っていた。
途中途中会う村人たちは皆、明らかに旅人であるリュカを見ても笑顔で挨拶を交わしてきた。その中の一人にリュカはダンカン宅の場所を尋ねると、リュカの予想通り、奥に見える最も大きな家がダンカン宅だと分かった。リュカの足が更に速まる。
ダンカン宅の目の前まで来ると、リュカは高床式部分の下で何やら作業している青年と目が合い、他の村人たちへの対応と同様に笑顔で挨拶をする。しかしその青年は他の村人たちとは違い、怪訝な目でリュカを見つめ、持っていた箱を運び終えると、明らかに友好的ではない顔つきでリュカに近づいてきた。
「なんだ、おめえは。人んちの床下に何か用か?」
青年が運んでいる箱の中には、村の畑で採れた野菜が入っており、それらをこの場所で保管しているようだった。年の頃はリュカよりも少し上に見え、青年の言う「人んち」という言葉に、リュカは少し胸に引っ掛かりを覚える。
「あなたはこの家の人ですか?」
「まあ……そんなようなもんだ」
青年がそっぽを向きながらそう答えると、リュカは少なからず自分が動揺するのを感じた。ビアンカは自分よりも二つ年上だったはずだ。もう彼女が結婚して、所帯を持っていてもおかしくはない。もしかしたらこの青年はビアンカの夫なのかも知れないと思うと、リュカはどう話をしていいものか分からなくなってしまった。アルカパの町でほんの数日彼女と一緒に時を過ごしただけのリュカと、目の前の青年がこの村で彼女と過ごした時を比べると、その差は歴然としている。青年に彼女のことを聞けば色々なことが分かるだろうと思うが、彼の口からビアンカの話を聞きたくないような気にもなる。
リュカが勝手に一人で想像を巡らせ、黙ったまま立っていると、青年はしびれを切らしたように声を上げた。
「仕事のジャマだ。用がないなら出てってくれ」
「あ、すみませんでした。じゃあ、また……」
青年が追い払ってくれたことに、リュカは何故か胸を撫で下ろしていた。青年の突き刺さるような視線を背中に感じながら、リュカはダンカン宅の住居部分に通じる梯子階段に手をかけた。
階段を上ったところでリュカを出迎えてくれたのは、一匹の猫だった。しかしこの家で飼われているわけではなく、ただ居心地が良い場所を求めてここで寝そべっていたようだ。リュカを見ると、猫は「にゃ~う」と甘ったれた声を出して、リュカの足元にすり寄ってきた。薄い黒ぶちの模様に、リュカは小さいころのプックルを見ているような気になった。
玄関の扉をノックしたが、中から返事はなく、家の中は静まり返っているようだった。下で作業している青年に再び話しかければ中に人がいるのかどうか教えてくれるのかも知れないが、リュカはそうはせず、鍵のかかっていない扉を少しだけ開き、声をかけてみることにした。
「こんにちはー。誰かいますかー」
リュカの呼びかけに答えたのは、家の奥から聞こえる苦しそうな咳だった。喉に絡むような咳を聞いて、リュカは家の中の住人に大事があってはいけないと、勝手ながら中に入ることにした。
玄関を開けると広々とした部屋があり、そこには食事や会話を楽しむようなテーブルとキッチンがあるだけで、人気はない。咳がするのは奥の部屋の用で、リュカはわざと足音を立てながらその部屋に近づいて行った。
「すみません、勝手にお邪魔します」
そう言いながらひょっこりと部屋を覗くと、ベッドの上で身体を横たえながら咳をする男性の姿があった。背中を丸めて苦しそうに咳をする男性は少ししてからようやく落ち着いたようで、気付いていた人の気配に返事をする。
「ゴホンゴホン! ……ん? 誰か来たのか? よっこらしょっと」
ベッドから身を起こす男性のすぐ近くには、飲みかけの水がグラスに残っていた。それは咳止めの薬を溶いた水だったが、そんなことは知らないままリュカはグラスを持つと男性にそっと差し出した。身を起こした男性も相手を確認しないまま、グラスを受け取り水をゆっくりと飲み下す。ふっと息をついて、ようやく落ち着いたところでリュカを見上げる男性は、初めて怪訝な顔をして首を傾げた。
「はて? どちらさまで? どこかでお会いしたことがありましたっけ?」
「あなたが、ダンカンさん、ですか?」
ビアンカの顔もはっきりと覚えていないリュカが、ダンカンの顔を覚えているわけがなかった。リュカは素直にそう尋ねるほか、ダンカンか本人かということの確認のしようがなかった。
「はい、そうですが……村の人じゃあないですよねぇ」
そののんびりとした口調にはどこか聞き覚えがあった。リュカの記憶の中でダンカンと妻の口喧嘩、と言っても妻が怒鳴る一方でダンカンは妻の大声などどこ吹く風と言った調子で気にしない、そんな様子が断片的に思い出された。
「お久しぶりです、リュカです。……って言うよりも、パパスの息子です、の方が分かるかな、おじさんには」
「……え? 何だって? パパスの息子!?」
つい先ほどまで咳に苦しんでいたのが嘘のように、ダンカンは目を丸くしてベッドから飛び起きた。予想していなかったその勢いに、リュカも思わず飛び上がる。
「どひゃー!! こりゃおどろいたよ。リュカ! 生きとったのか!」
「はい、何とか」
「いやー、大きくなったなあ! あの頃はまだほんの子どもで、ビアンカとよく遊んでたっけ」
ダンカンの中でアルカパでの思い出は深いらしく、目を瞑りながら過去の彩られた記憶を振り返り、まだ幼かった娘と一緒に元気に遊んでいた男の子の姿を思い出していた。娘のビアンカは町の子供たちみんなと仲が良かったが、その中でも無謀にも町の外にまで一緒に冒険したのは目の前のリュカしかいない。そしてリュカの父パパスは、アルカパの町に住む時分、ダンカンにとって腹を割って話せる友人の一人だった。
「……で、父さんは? パパスは元気なのかい?」
ダンカンの記憶の中では、リュカはパパスと共に旅をし、そのままサンタローズを離れたところで途切れている。その後、無残にもサンタローズの村はラインハット国によって滅ぼされてしまったが、旅をするパパス親子は難を逃れて旅を続けているに違いないと、家族ともよく話をしていた。
「父さんは、亡くなりました。あの後一年もしないうちに」
「なんと……。そうか、パパスはもう……」
ダンカンはリュカに詳しい話を聞き出そうとはしなかった。かつてパパスは親しい友人の一人だと思っていたが、妻を救う旅を続けるという理由の他にも、彼には何か得体の知れない秘密が隠されていると感じていたのも事実だ。一介の戦士にしてはあまりにも堂々たる振る舞いに、ダンカンはよくパパスを眩しく感じていた。
「あの後、一年もしないうちにということは、その後はずっと一人で旅を?」
「仲間に助けてもらいながら、ここまで来ることができました」
ダンカンの記憶にあるパパスの息子リュカはまだほんの子供で、未来への希望にきらきらと目を輝かせるような純真無垢の一人の男の子だった。今もその面影が残るものの、今ダンカンの目の前にいる青年となったリュカにはどこかひっそりとした影を感じた。それは父パパスが死んだことに由来することはすぐに想像できたが、果たしてそれだけなのだろうかとダンカン心の中で首を傾げる。しかしリュカ本人にそれを問うたところで、彼が答えられるとも思わなかった。人が内包する悲しみは聞き出すものではなく、語るのを待つべきだとダンカンは思っている。語られないのならば、それでいい。
「リュカもずいぶん苦労したろう。たった一人でよく頑張ったな」
自身の過去の一片を知るダンカンに掛けられる労いの言葉に、リュカは喉の奥がぐっと詰まるのを感じた。ダンカンが言葉にした「たった一人」という言葉に、自分がずっと抱える寂しさが露わにされたようで、リュカは目に浮かびそうになる涙を堪える。仲間に支えられ、常に仲間と共に行動してきたリュカ。しかし父を目の前で亡くし、父に母を救う願いを託されたことで、かえって父に置いてけぼりにされ、完全に一人になってしまったと感じていたことを気付かされたようだった。
「うちでも母さんが亡くなってね……」
「え……」
「あんなに丈夫だったのに分からないもんだよ」
ダンカンがそう言いながら再びベッドに腰掛ける姿に、リュカはアルカパの町を離れてからのダンカンの過去を見た気がした。リュカの記憶の中でも、ダンカンの妻は元気そのものの女性で、アルカパでの宿の切り盛りも精力的に行っていた。ダンカンの経営していた宿だったのだろうが、あの宿はむしろダンカンの妻の力で繁盛していたのではないかと、今でこそそう思えた。そんな彼女がどうして亡くなったのか、リュカは聞こうとしてすぐに口を噤んだ。自分が話したくないことを、ダンカンに語って欲しいとは思わなかった。
「おじさんは身体の調子、大丈夫なんですか? さっき辛そうな咳をしてましたけど……」
「ああ、たまにあんな咳が出るくらいで、普段は調子が良いんだよ。この村に引っ越してきてから大分身体の具合も良くなってね。リュカも後で村の温泉に入ってきたらいいよ、旅の疲れも取れるというものだ」
「さっき宿で泊まる手続きをしてきたから、後で入ってみます」
「おや、宿に泊まる予定なのかい? 旅で使うお金も大事だろうから、今日はうちで泊まって行ったらいい。……そういえば、来る途中でビアンカを見なかったかい? 母さんのお墓に参ってるはずだが……」
ダンカンの言葉に、リュカはここに来る途中で見た墓石の前にしゃがみこんでお参りをしている女性の姿を思い出した。墓石に語りかけ、手で目を擦るはかなげな女性の姿と、過去の元気いっぱいのビアンカの記憶が結びつかない。
そんなことを考えていると、リュカの過去の記憶と結びつくような元気で快活な声が、家の中に響き渡った。
「ただいまー!」
玄関の扉を開けたと同時に大きな声で帰ったことを知らせるのは、母を亡くしてからの彼女の習慣だった。ベッドに横になることの多い父に、元気な自分の存在を知らせるためにとそうしていたことが、今では日常となっていた。
隣の部屋のテーブルにどさりと荷物を置く音が聞こえ、その後彼女は姿を現した。部屋の中に入り込んでいる旅人の姿にビアンカは少し驚いたように目を丸くし、そしてベッドから元気に起き上がっている父の姿にまた目を丸くする。
「父さん、横になっていなくて平気なの? この時間はいつもまだ……」
「ビアンカ! リュカだよ! お前の友達のリュカが生きてたんだよ」
いつにない父の元気な声に驚きを隠せないビアンカだが、父の言葉に今度は旅人の青年に目を移す。特徴的な濃紫色のターバンにマントは、それだけで彼女に過去の記憶を呼び起させた。ターバンもマントもかなり色褪せ、元の色とはもはや違う色になってしまったようだが、ターバンから出る黒髪に、優しげだけど意思の強そうな独特の黒い瞳を見ると、ビアンカは手で口を覆って、「まあ……」と言ったきり、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。
そんなビアンカを見るリュカも、すっかり見違えた彼女の姿に言葉を失っていた。透明感のある金色の髪をゆるく編んで肩から流し、動きやすそうな服装から伸びる手足は女性らしくほっそりとしているもののほどよく引き締まり、太陽の光を惜しみなく受ける肌は健康的にほんのり焼けている。そして彼女の水色の目と目が合うと、その中に意識が吸いこまれるような感覚に陥った。記憶の中にあった幼い頃の彼女に対して、その容姿にそれほどの記憶が残っていなかったが、今の彼女を目の前にするとどうして覚えていなかったのだろうかと不思議になるほど、彼女は美しく成長していた。
立ち尽くす二人の内、先に我に返ったのはビアンカだった。みるみる顔を輝かせ、突然リュカの両手をぎゅっと両手で握りしめてきた。
「リュカ! やっぱり無事だったのねっ! サンタローズの村が滅ぼされてリュカも行方不明になったって聞いたけど……私は絶対にリュカは生きてると信じてたわ!」
ビアンカがリュカの両手を持ってぶんぶんと上下に振ると、その嬉しさがリュカにも伝わり、ようやくリュカの顔にも笑みが浮かんだ。
「だってあの時また一緒に冒険しようって約束したものね」
「そうだったね。アルカパの町にも寄ったんだけど、ビアンカがいなくてちょっとがっかりしたんだよ」
「町に残れればその方が良かったんだけど、父さんのためにもこの山奥の村に引っ越すのがいいってことになって、それでこっちに移ってきたのよ」
「そうだったんだ。でも、本当に会えて良かった。生きてて良かったよ」
リュカがそう言いながらビアンカの手を少し強く握ると、彼女もその言葉に答えるように握り返してきた。
「でももうあれから十年以上か……色々積もる話を聞きたいわ。ゆっくりして行ってよね」
ビアンカにそう言われ、リュカは突然現実に引き戻される思いがした。山奥の村に立ち寄ったのは、船で進むことのできない水門を開けてもらうためだ。ちょうど水門近くにあった立て看板に書かれた通り、水門の鍵を管理するこの山奥の村に立ち寄り、鍵を借りられれば再びすぐにでも旅立つ予定でいる。その過程で、こうしてたまたまダンカンとビアンカに再会し、喜びも束の間、リュカは再び彼らと別れなければならなかった。
サラボナの町でルドマンから借りた船で旅を続け、水のリングを早く見つける必要があった。今も火傷の痛みに苦しんでいるアンディと、彼を看病するフローラのためにも、リュカは水のリングを探し出し、ルドマンに渡して、とにかくフローラとの結婚条件を果たし、それから落ち着いてルドマンと話をするつもりでいた。一度提示した結婚条件を撤回することのないルドマンと話をするには、兎にも角にも水のリングを見つけ出さなくてはならないと考え、リュカはこの山奥の村にまで来ているのだ。
「ちょっと、急いでるんだ」
「え? そんなにゆっくりもしてられないの?」
「うん、水のリングってものを探してて、それを見つけて結婚することになっていて……」
「何ですって? 結婚するために水のリングを探してる? まあ……!」
リュカの思いも寄らぬ言葉に、ビアンカはまた目を丸くして息を呑んだ。まさか自分より二つ年下の彼の口から結婚という言葉が出てくるとは思ってもいなかった。途端に激しくなった鼓動に戸惑いながらも、ビアンカは静かに深呼吸をして、頭や心を整理する。
「旅をしているのに結婚を考えているのかい?」
ダンカンも同じように驚いた表情を見せていたが、リュカの今の状況を考えて冷静に話しかける。
「ちょっと理由があって……」
水のリングを見つけ出すことは、あくまでもフローラとの結婚の条件であり、彼女との結婚と共に手に入る天空の盾のためではない。しかしリュカが水のリングを探し出そうとしたきっかけは、ルドマン家が所有する天空の盾を手に入れるためだ。もし正直にその状況を話そうものなら、恐らく目の前のビアンカは怒り出すのではないかとリュカは思った。結婚というものを軽んじていると、彼女の口からよどみなく溢れる言葉によって散々に怒鳴られそうだと、リュカはこの場はフローラと本気で結婚するという気持ちで話をすることにした。
「もし結婚できても、結局サラボナの町で待っててもらうことになるとは思います。女の人だから一緒に旅には出られないし。でも結婚したいって思ったんです」
「そうか……リュカもそういう年になったんだな」
リュカの言葉を聞いて、ダンカンは小さな声でそう呟いた。時の流れを感じる彼の声には、少し寂しい響きが含まれているようだった。
「でも急いでるったって、今日の今日すぐに旅立つほど急ぐものでもないんでしょ?」
「うん、まあね」
「それなら今日はうちに泊まって行けばいいわ。長旅で疲れてるんでしょ。ちょっとは身体を休めないと、これからの旅だって上手く行かなくなっちゃうわよ」
そう言って早々に食事の準備に取りかかるビアンカを見て、リュカは彼女の変わらぬ強引な雰囲気にどこか安心感を覚えた。すっかり美しく成長してしまったビアンカだが、その中身は昔と変わらず頼りになるお姉さんと言った雰囲気だ。
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ。ありがとう、ビアンカ、ダンカンさん」
「本当はもっと長く留まっていて欲しいところだけどな。まあ、あまり無理強いはできないか」
「そうよ、リュカにはリュカの人生があるんだもの。邪魔しちゃいけないわ」
ビアンカはリュカ達に背を向けながら、テーブルに置いてあった食材から今晩の食事に使う材料を選り分けていた。彼女の背中を見ながら、リュカはまるで自分の家に帰ってきたかのような温かさが心の中に染みわたるのを感じていた。

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