2017/12/03

星の海の記憶

 

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山奥の村を出ると、ビアンカの案内により、来た道とは違う山道を通ることになった。彼女は村に訪れる旅人にはこの道を教えることが多いのだと、軽い足取りで山道を下って行った。魔物も出現する山奥の道だが、その状況に彼女は警戒を緩めずにはいるものの、少しも怯えてはいなかった。そんな落ち着いた様子を見ているだけで、ビアンカが外歩きに慣れていることがリュカにも自然と分かった。
今のビアンカの横には、まるで彼女を危険から守るのが役目であるかのように、プックルがぴたりと付いている。大きな猫に過ぎなかったプックルが大きなトラやヒョウのような獣に成長していたことに、ビアンカは初め、そのあまりの大きさに言葉を失っていたが、赤い尾につけられた黄色いリボンが尾の動きに合わせてゆらゆらと動いているのを見ると、その表情を一変させた。獰猛な獣のような姿をしたプックルに駆けよると、彼女はプックルの大きな首に細腕を巻きつけて再会を喜んだ。プックルもそんなビアンカの顔を舐めまわし、無事に再会できたことをこの上なく喜んでいるようだった。
それからはまるでお姫様を守る騎士のように、プックルはビアンカの傍を離れずに歩いている。
「プックル、僕と再会した時はそこまで喜んでなかったような気がするんだけど……」
リュカがむすっとしながら呟くのを、ビアンカは明るい笑顔で聞いている。
「そんなことないでしょう。ただ、私が女だからってプックルなりに気を遣ってくれてるんじゃないかしら」
「そうかなぁ、そうとも思えないんだけどなぁ」
「リュカがそんなに不機嫌にしていたら、プックルだって近づきたくなくなっちゃうわよ。ねぇ、プックル」
「にゃう」
「ほら、そんなに甘ったれた声なんか出してさ。絶対に僕とビアンカとは違うよ、プックルの反応」
「リュカ、それっていわゆるヤキモチなんじゃないの?」
「ヤキモチ? 僕が?」
「そうよ。私にプックルを取られたと思って悔しいんでしょ」
ビアンカの言葉に、リュカはうーんと唸り声を上げてその気持ちとやらを考えてみる。あまりにもすんなり落ち着くその言葉の感情に、リュカは否定できずに黙り込んでしまった。
「安心してよ。私との旅はほんの少しの間なんだもの。無事に水のリングを見つけて、山奥の村に戻ってきたら、またお別れなんだから。その間くらい、こうして仲良くさせてもらってもいいでしょ?」
ビアンカにそう言われるまで、リュカは彼女との旅が一時的であることを忘れていた。山奥の村を出てまだ一日と経たないと言うのに、ビアンカはすっかり仲間の魔物に馴染んでしまっていた。
彼女にとってリュカの仲間は魔物である前に、単にリュカの仲間であるらしく、馬車で待機していた仲間を紹介すると彼女は怯えることや恐れることは全くなく、まるで初めての体験に心躍る子供のように水色の瞳をキラキラとさせて順番に挨拶を済ませて行った。そんなビアンカの堂々たる態度に、むしろ魔物の仲間の方が戸惑っていたほどだった。
山を下り、船着き場に泊めてあるルドマンの船を見ると、またビアンカはその瞳を輝かせた。リュカたちが使う馬車を乗せる必要があるのでそれなりに大きな船だと予想していたようだが、目の前に停泊するルドマンの船は大きいだけではなく、船の中の設備も申し分なく整っており、彼女は乗船するなりすぐに船内に備え付けられた台所の状況を確認していた。船の動力が魔力であるとリュカに教わると、ビアンカは自ら魔力を捻出するから台所は自由に使わせて欲しいと願い出た。彼女の申し出にリュカは快く頷き、船を進ませる今では早速台所で食事の準備を始めている。その様子にリュカはビアンカがもう既に旅を楽しんでいるのだと、彼女の後姿を見ながらどこか嬉しい気持ちを抱いていた。
船着き場から離岸し、間もなく水門の場所まで船は進んだ。操舵室でリュカが船を泊め、ピエールやガンドフが海の魔物の気配に警戒する中、ビアンカはマーリンに呼ばれて甲板に姿を現した。目の前に見える大きな水門はぴたりと閉じられ、開錠しない限り先へ進むことはできない。甲板の舳先にまで歩いて行くと、ビアンカはくるりと振り返り、仲間の皆に「水門ね。大丈夫。私に任せて」と言うや否や、そのまま海に飛び込んでしまった。リュカ達が声を上げる間もないような素早い行動だった。
慌てて舳先に立って下に広がる水面を覗きこむリュカや魔物の仲間たちの心配も他所に、ビアンカはまるで魚のように海に潜って行くと、水門の鍵ですんなりと水門を開錠した。開錠された水門にはどうやら魔力が宿っているようで、まるで自動で開く扉のようにゆっくりと横に開き、リュカ達が使用する小型の船なら悠々と通れるほどの道が広がった。しかし水門が開くのを見ていたのはピエールやマーリン、ガンドフにメッキーで、リュカとプックル、それにリュカの肩に乗るスラりんはまだ水面に現れないビアンカの様子を冷や冷やしながら見ていた。リュカとプックルが今にも海に飛び込みそうになるのをスラリンが必死に止めている内に、ビアンカは何事もなかったかのように再び水面に姿を現した。
「この辺りにはちょうど魔物もいなかったみたい。良かったわ」
「良かったわって……いたらどうするつもりだったんだよ」
「いなかったんだからいいじゃない。それよりもロープか何かあるかしら。引き上げてもらわないと」
彼女にそう言われるまで何も用意していなかったリュカに、ピエールが既に用意していたロープを手渡した。リュカは急いでロープを落とし、ビアンカがロープを掴むのを確認すると、慎重に彼女を引き上げて行った。
「さあ、行きましょう!」
全身ずぶ濡れのビアンカが服のあちこちを絞りながら言うのを見て、リュカはこの先も不安が絶えることはないだろうと深い溜め息をついていた。
水門を通過した先には、広々とした海が広がっていた。地図で確認すると、ここはまだ外海ではなく内海に過ぎない。しかし見渡す限り海の景色に、まるで大海原に冒険に出るかのような高揚感と、この先何が起こっても不思議ではないと言う得体の知れない不安が入り混じり、リュカは不安を払拭するためにも冷静に地図を読み、船を進めて行った。
海にももちろん魔物は棲息している。海の魔物のせいで、未だビスタ港とポートセルミの間では船の往来が制限されている現実もある。海の魔物に沈められてしまった船も、世界中にはいくつもあるのかも知れない。リュカは船の操舵室から、魔物の仲間が船の周りを警戒している姿を注意深く確認しながら、何故かもう旅の疲れを感じていることに一人首を傾げていた。
「それにしてもリュカが連れてる魔物ってよく懐いているわね」
操舵室に姿を現したビアンカが、強い日に照らされてほとんど乾いた服を風にはためかせながらそう言った。彼女の後ろについて来ていたプックルは、操舵室に入るのはあまり好きではないようで、そのまま甲板に戻って行き、他の仲間と共に周囲の警戒に努めることにした。
「懐いているというのもまたわしらを動物か何かと勘違いしておらぬか?」
リュカと共に操舵室にいるマーリンが少々憤慨するように声を荒げる。そんなマーリンにビアンカは言葉の選び方を間違えたと素直に謝った。
「マーリンが怒るのも無理ないわよね、失礼なことを言ったわ。ごめんなさい。あなた達はリュカと一緒に旅をしてきた仲間だものね」
「そうじゃ、ぼーっとしておるリュカを今までどれだけ助けてきたことか」
「……そう言われると何も言えないよ。マーリンの言う通りだからね」
「でも思わず助けたくなるほど人望……と言うか何と言うか、そういうものが厚いんでしょう。放ってはおけないのよね、何となく分かるわ」
「そうなんじゃろうなぁ、単に頼りないだけの人間ならわしらも助けることなぞしないんじゃが、こやつには何かそれだけではないものがあるんじゃろうなぁ」
そう言うとマーリンはビアンカが籠に入れて持ってきたオレンジを一つ手に取ると、操舵室を出て行ってしまった。操舵室はかなり狭く、人間が三人もいるとそれだけで窮屈な場所になってしまう。普段、外にいることに慣れているマーリンやプックルのような魔物の仲間にとって、この操舵室はかなり居心地の悪い場所なのだろうかと、リュカは操舵室外の階段を下りて行くマーリンの後ろ姿を見ながらそう考えていた。
「リュカって昔から不思議な感じがしたけど、それを魔物たちも感じているのかしら」
ビアンカがそう言いながらオレンジの皮を一つ剥いて、リュカに半分手渡した。まだ少し酸味の強いオレンジだったが、少し操舵に疲れたリュカにとっては丁度良い眠気覚ましになったようだった。
「不思議な感じって、どういうこと?」
「プックルだってすぐに懐いちゃうし、レヌール城に行った時にはお化けと遊び始めたり、誰とでも仲良くしちゃう雰囲気が昔からあったと思うわ」
「誰とでもってわけではないだろうけど、プックルもレヌール城のお化けも悪い子たちじゃなかったからじゃないかな」
「悪い子たちじゃないって分かっても、プックルはともかくも、レヌール城の時は相手はお化けよ。仲良く遊ぶなんて誰も考えないわ」
ビアンカがそう言って身体を震わせるのを、リュカは眉をひそめながら見た。
「どうしたの? まだ服が乾ききってないんじゃないの? 着替えを持ってきてるんだったら、風邪をひいちゃいけないから着替えてきたらいいよ」
「ううん、大丈夫よ。それにあれくらいで風邪なんか引かないわよ」
「うん、まあ、ビアンカならそうだろうけど、でもあんまり風邪を甘く見ない方がいいかも知れないよ」
「そうね……うん、ありがとう、気を遣ってくれて」
てっきり彼女からは「風邪なんて……」と再び気丈な言葉が返って来るものだと思っていたリュカは、あまりにも素直な彼女の言葉と態度に、かえって不安になってしまった。しかしビアンカの母が風邪をこじらせて亡くなった話を聞いたことを思い出すと、リュカは操舵室の窓から外を眺める彼女にかける言葉を失ってしまった。彼女の抱える哀しみを引きずり出してしまったようで、リュカはビアンカの髪に隠れた横顔を窺うようにちらりと見ると、そのまま彼女と同じように前方に広がる海を見渡すことしかできなかった。
「水のリング、湖の場所で見つかるといいね」
操舵室に置かれる小さなテーブルには今、リュカが旅の最中ずっと懐に入れている世界地図が広げられている。船が向かう先はこの広い内海を過ぎ、北に延びる川を北上したところにある大きな湖だ。誰に確認したわけでもないが、リュカは直感的にこの湖の辺りに水のリングが隠されているに違いないと考えていた。
「もしそこにないとなると、また振り出しに戻っちゃうけどね」
「この大陸のどこかに、なんて言われてるだけだものね。なかったらなかったで、また考えればいいのよ」
「その間中、ビアンカを連れ回すわけには行かないから、湖の場所になかったら一度山奥の村まで送るよ」
「何を言ってるのよ。私は水のリングを探すお手伝いをするって言ってついて来たのよ。探し出すまで帰るわけないでしょ」
「そうは言っても……」
「水のリングを探すだけなら、レヌール城のお化け退治よりずっと簡単よね」
「簡単って、どういうこと?」
「だってあの時はまだ私たち二人とも子供で、外には魔物もいるのに勝手に外に出て、本当にお城にいたお化けと戦うことになって……あの時、死んでいてもおかしくなかったって今さらながらに思うわ」
ビアンカがそう言いながらオレンジを食べるのを見て、リュカも同じように手にしていた残りのオレンジを口に放り込んだ。やはり酸味が強く、思わず口がすぼまってしまう。ビアンカは長旅に備えて敢えて若いオレンジをたくさん用意していたのかも知れないと、リュカは彼女が長旅になることも厭わない覚悟で来てくれていることを改めて実感した。
「本当に、あの時は必死だったよ。ビアンカがいてくれないと、僕だけじゃとてもじゃないけど戦えなかったと思う。君が『悪い魔物をやっつけてやる!』って強く言ってたから、僕も戦えたんだと思うよ」
そう言葉にしてリュカは徐々に昔の記憶を思い出して行った。レヌール城を探検したことはしっかりと覚えているが、探検している間中ずっとビアンカの手を離さなかったことを思い出すと、自分がどれだけ頼りない子供だったのかを痛感する。城にいるお化けを怖いとは思わなかったが、リュカはとにかく一人になるのが怖かったのだ。
「……じつはあの時、怖くて泣きそうだったのよ」
「え?」
「私、暗いところもお化けも苦手なの」
ビアンカではない人物が発した言葉のように聞こえ、リュカは思わず彼女を振り向き見た。前方に広がる海を眺めていたビアンカも、リュカの視線を感じると、決まり悪そうに彼を見る。
「気付かなかった?」
「うん、だってプックルを助けるためにレヌール城のお化け退治に行くんだって言い出したの、ビアンカだったよね」
「プックルを助けるためには『レヌール城のお化けを退治してこい』って言われたんだもの。仕方がないじゃない。それに誰も好き好んであんなお化けのいるお城になんて行きたくないわよ」
「てっきり楽しんでるのかと思ってたよ」
「外に出られるのは楽しかったけど、お化けは見る度に震えていたわ。あのお墓に閉じ込められた時も、本当はしばらく中で泣いていたのよ」
「でも泣き声なんか聞こえなかったような……」
「そのうち、泣いていてもどうしようもないって思ってね。そうしたら段々腹が立ってきちゃって、それで中から怒鳴っていたら、リュカが来てくれたってわけ」
「……やっぱり、ビアンカだね」
彼女が怯えるだけで終わるはずがないと思っていたが、あまりにも思っていた通りで、リュカは思わず笑ってしまった。常に前向きな彼女は、どうしようもないと思う窮地に立たされてもきっとどうにか先に進める道を見つけ、何とかしてしまうに違いない。この旅に彼女がついて来てくれて最も不安を抱えているのもリュカだが、最も安心しているのもリュカだった。彼女が頼りがいのある人物であることはどうやら幼い頃から全く変わっていないようだ。
「それで、今はどう?」
「どうって?」
「この旅にもしお化けが出てきたら、やっぱりイヤかな」
「そりゃあ良い気持ちにはならないに決まってるわ。嫌いなものは嫌いなんだから。あんたこそ、どうしてお化けが平気なのよ」
「お化けが平気っていうよりも、お化けだって元々は生きていた人たちだって思うと、怖いとは思わないかな。僕たちとそんなに変わらないって思うだけだと思うよ」
「……リュカのその考え方、ちょっと見習うようにするわ。そうすれば色々と怖いものはなくなるかも知れないわね」
ビアンカにそう言われ、自分は果して特別な考え方でもしているのだろうかとリュカは首を傾げた。魔物が仲間になるのは特別なことかも知れないが、お化けを怖がらないことは特に変わったことでもないと彼は思っている。
その時、甲板にいるガンドフがリュカに向かって大きく手を振っているのが見えた。その大きな一つ目に緊迫感が漂い、船の周りに魔物が現れたことを知らせてくれた。リュカは舵に手をかけながら、ガンドフの指し示す方向へと視線を向ける。そこには明らかに異変を感じさせる渦が発生しており、渦の中心から予想だにしない大きな竜の頭が見え始めていた。
「リュカよ、わしがここに残るから、お主は皆と一緒に行ってこい」
ガンドフの合図を同じように見ていたマーリンが操舵室に再び姿を現すと、リュカにそう呼びかけた。
「うん、よろしく、マーリン。ビアンカもここに残っていて」
「いいえ、私も行くわ。私の呪文もきっとお役に立てると思うから」
「駄目だよ。残って……」
リュカの言葉など聞く耳持たずといった感じで、ビアンカは颯爽と操舵室を出て行ってしまった。まるで彼女の旅の楽しみの一つに魔物との戦闘が入ってでもいるかのように、意気揚々とした様子で行ってしまった彼女の後姿を、リュカは慌てて追いかけた。
甲板に出ると、既に船の目の前には首の長い竜の姿がはっきりと見えていた。マーリンが舵を操りながらなるべく正面に向かわないようにと船の舵を右に切っているが、竜はリュカ達の船を標的と定めたらしく、同じように横へと移動してくる。逃げることは不可能のようだと、リュカはピエールと共に呪文の構えを取った。
「奴は深海竜じゃ。うっかり海の上に上がってきてしまったようじゃの」
操舵室の窓からマーリンの大声が響く。
「それじゃあまた海の下に戻ってもらえばいいのかな」
「そうできれば良いがのう」
「話が通じるかな」
そう言いながらリュカはまだ距離のある海上に見える深海竜の巨大な姿を眺めた。海上に出ているのは深海竜の首だけだが、長く真っ青な首を左右にぶんぶんと振り、大きな口を開けて鋭い牙を見せ、大きな雄たけびのような声を上げている様子を見ると、リュカは思わず眉をしかめる。
「……通じなさそうだね」
「そうですね。あれは戦う気満々です。我々の呪文で牽制しながらやり過ごすようにしましょう」
剣で戦うことは不可能だと、ピエールは剣を手にもしていない。直接攻撃を与えるには自ら海に飛び込みでもしない限り、戦うことはできない。しかし海の魔物と戦うために海に飛び込むなど、自殺行為も甚だしいため、リュカは海に飛び込むことも厭わないと言った様子のプックルを後ろに下がらせ、戦闘には加わらないように指示した。
青い巨体に、藻などから色素を吸収したのか、緑色のたてがみを頭から首へと生やした獰猛な顔つきをした深海竜が、明らかにリュカ達を倒そうと息巻いている状態でそこにいた。餌を求めて海上に現れたと言うよりも、深海にいる時からリュカ達の乗る船の存在に気付き、興味本位でそれを見に来たと言ったところだ。深海竜が近づいてくるだけで海が荒れ、船が揺れる。小さな船ではないため転覆の危機には陥らないだろうが、それでもうかうかすると揺れと共に海に投げ出されそうになる。
「牽制ってことは、あの竜の近くに呪文を放てばいいのね」
気付けばビアンカがリュカの隣で既に呪文の構えを取っていた。両足でしっかりと甲板の上に立ち、彼女は今にも火炎呪文を放ちそうな気配を発していた。
「ビアンカ、だから君は下がっててって……」
「今さら何を言ってるのよ。早くしないと、あの竜に船をダメにされるわよ」
狙いをつけて集中しているビアンカは、深海竜から目を離さないままきびきびとそう言った。
「ビアンカ嬢は炎の呪文が使えるのですか?」
「ええ、一応ね」
「海の魔物は炎を最も苦手とするはず。リュカ殿、ビアンカ嬢にも協力してもらいましょう」
ピエールの一言を聞くなり、ビアンカはすぐに火炎呪文メラミを深海竜に向けて放った。狙いは海面に隠れた深海竜の背の辺りだ。海水に触れた瞬間に爆発したかのように暴れたメラミの呪文に、深海竜は見るも明らかに驚き、長い首を海面に隠し、姿が見えなくなってしまった。
「メッキー、奴がどこにいるか確認してください」
「キッキ」
甲板の上を飛んでいたメッキーはピエールの言葉を聞くなり海上に飛び出し、海面に潜ってしまった深海竜の姿を捉える。そして羽でその方向を指し示すと、マーリンはその方向と逆に舵を切り始めた。旋回する船は傾き、リュカ達は甲板の上で倒れないように姿勢を低くしてしばらく様子を窺っていた。
「キーッキーッ!」
メッキーの切羽詰まった声に、リュカは深海竜がすぐ近くにいるのだと分かった。マーリンの操舵でどうにか振り切れそうな気配だが、相手は海の魔物、船の速度に追いつけるほどの泳ぎで迫ってきているらしい。リュカは揺れる甲板の上でメッキーの指し示す方向に目を向け、そこに深海竜の緑色のたてがみが見え隠れするのを見つけた。
「ピエール、あそこだ」
「撃退しましょう」
リュカとピエールが短く言葉を交わすと、同時に呪文を唱え、まだ海面に姿を現さない深海竜に向かって呪文を放った。一部、小山のように盛り上がる波が切り刻まれ、その上で大きな爆発が起こる。呪文の効果に驚いた深海竜が思わず海上に顔を現し、今まさに横を通り過ぎようとするリュカ達の船に向かって長い首を振り回してきた。船体に大きな衝撃があり、リュカ達は甲板の上で立っていられず、思わずその場に身を伏せざるを得なかった。
「もう一度食らったら、マズイな」
そう言いながらリュカは海上で様子を確認しているメッキーを仰ぎ見た。深海竜はまだ船のすぐ近くにいるようで、メッキーは警告するような声を発してリュカに知らせている。
「あまり気が進まないけど……」
「攻撃するしかないわね」
リュカの意図を素早く汲んだビアンカは、すぐに甲板の上で立ち上がると、メッキーの示す方向に向けて駆けだして行った。彼女の姿を見てリュカも慌てて立ち上がり、追いかけるようにして駆けだした。
甲板の縁から海上を見ると、ちょうど深海竜の長い首が再び現れていたところだった。大きな牙を剥き出しにして、今にもリュカ達に襲いかかってきそうな雰囲気だ。リュカとビアンカは互いに言葉を発するでもなく、しかし同時に真空呪文と火炎呪文を唱え、放った。火炎が渦を巻いて、倍以上の威力となって深海竜に襲いかかる。目の前で見る見る大きくなった火炎の渦に、それまで牙を剥いて威嚇していた深海竜もたまらず再び海の中に隠れ、その瞬間に緑色のたてがみを少し焦がしていた。海の中にまで入り込んだ火炎の渦の威力に、深海竜は恐れを為したのか、それからはリュカ達の船につきまとうことはなく、そのまま姿を消してしまった。
しばらく揺れていた船体が落ち着いた頃、リュカは思い出したかのように船の揺れに酔ったのを感じ、気分が悪くなってしまった。揺れが落ち着いたというのにその場に座り込んでしまったリュカを見て、ビアンカは首を傾げた。
「どうしたの?」
「ビアンカは平気なの?」
「平気って、何がよ」
「……ああ、平気そうだね。良かった」
見れば、戦闘に加わっていなかったプックルも、甲板の隅の方でじっと身を伏せてぐったりしている様子だった。戦闘に加われなかったことで尚更、プックルは船酔いしてしまっているようだった。そんなプックルの船酔いを覚まそうと、スラリンがプックルの首の上に乗って冷やしている。
「リュカ殿、一度船室で休まれてはどうですか」
「ううん、船を動かしていた方が気が紛れるから戻るよ」
揺れの収まった甲板の上でふらふらと立ち上がるリュカを見て、ビアンカはようやく彼の状態に気がついた。
「ああ、リュカ、船酔いをしてるのね。じゃあ後で酔い冷ましの飲み物でも持って行ってあげるわ」
まるで平気そうな彼女の様子を見て、リュカは羨ましいと思うと同時に、心のどこかで安心していた。この旅にビアンカを連れてくることに反対していたリュカだが、果たして彼女が一緒に来てくれなければ一体この旅はどうなっていたのかと思うほど、既にリュカはビアンカに頼り始めていた。



山奥の村を出て五日が経過した。リュカ達の船旅は天候に恵まれ、順調に進んでいた。船の操舵はリュカとマーリンとピエールが交代で行い、日が西に傾き、海がオレンジ色に染まる今の時分はピエールが船を動かしていた。この五日間で魔物との戦闘も数度とあったが、その度に撃退に成功し、どうにか船体も魔物の攻撃から守り抜くことができていた。
「メッキー、少しは休んで。ずっとそんな調子で見回ってたら、疲れてひっくり返っちゃうよ」
「メッキッキ」
唯一空を飛ぶことのできるメッキーは、暇さえあれば船の周りを飛び回り、海の魔物の警戒に当たっていた。メッキーのおかげで事前に魔物の気配に気づき、魔物を撃退できたこともあったが、今のメッキーは見るも明らかに疲労を溜めているようで、飛び方にも今までのような元気さが感じられなかった。リュカに声をかけられたことで、メッキーは己の疲れに気付いたようで、リュカの言葉通り少し船の中で休むことにしたようだ。
「ピキ」
「代わりにスラりんが頑張ってくれるって。安心して休んできていいよ」
「ッキッキ」
メッキーは安心したように甲板の上に降り立ち、そんなメッキーの疲労を労うようにリュカは手にしていたオレンジを差し出した。メッキーはオレンジを大きなくちばしで受けると、そのまま丸呑みするように飲み下してしまった。リュカから見ると美味しく食べているようには感じない食べ方だったが、メッキーは十分オレンジの甘みと酸味を感じているようで、目を瞑ってその味を堪能していた。
「スラりん、船から落ちないように気をつけてね」
「ピッピ」
リュカにそう言われ、船の縁に上るスラりんはその身体を縁の部分に吸着させているところをリュカに見せた。船の縁に乗っているのではなく、くっついているようなスラりんの形に、リュカは「スラりんの体は便利だねぇ」と笑いながら甲板の上を歩いて行った。
船の後方に回ると、ガンドフがうつらうつらと大きな一つ目を細めながら船の後方の警戒に当たっていた。ちょうど見張りの交代の時で、近くで寝そべっていたプックルが大欠伸をして起き上がると、寝かけていたプックルの大きな茶色の背中を前足でトントンと叩いて知らせた。大きな一つ目をぱちくりとさせ、後ろを振り向いたガンドフの目には、プックルとその後ろに立っていたリュカの姿が映った。
「ガンドフ、お疲れ様。これを食べて、あっちで休んできて」
「がうがう」
リュカがオレンジを差し出すと、ガンドフはにっこりと目を細めてそれを受け取るなり、すぐさま口に放り込んだ。メッキーと同じく、さほど美味しそうに食べているようには感じられなかったが、ガンドフは目を細めたまま「オイシ」と感想を述べていた。プックルの視線も感じたリュカは、懐からもう一つオレンジを取り出すと、それをプックルに与えた。プックルはむしゃむしゃと美味しそうにオレンジの果汁を床に滴らせながら食べ、床に落ちたオレンジの果汁もきれいに舐め取ってしまった。
「もし船室で休むならそうしてね。僕の場所を使って構わないから」
「ガンドフ、ココデ、ホシミル。キョウモ、ホシ、キレイ」
そう言いながら甲板の上に寝転がるガンドフを見て、リュカはガンドフの大きな一つ目に映る星空はさぞかし美しいのだろうと、想像した。東の空には既に星が散りばめられ始めている。美しい星空を見上げながら眠りに就くことが、ガンドフにとっては最も体も心も休まる休息方法なのかも知れない。
「プックル、見張りよろしくね」
「がうっ」
言われなくても分かっていると言わんばかりのプックルの様子に、リュカは安心して見張りを任せ、再び甲板の上を歩き始めた。海は穏やかで、さほど揺れない船の上は快適で、リュカは潮風を浴びながら、今度は船内にいるパトリシアの元に向かおうと考えていた。
「リュカ、あなたはいつ休んでるのよ」
ふと後ろから声をかけられ、リュカは思わず驚いて後ろを振り向き見た。ビアンカがパンやチーズ、それに豆や野菜の入ったスープが入った器が入った籠を持って、そこに立っていた。
「ビアンカ、どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ。リュカが食事も取らずにずっと外にいるもんだから、少し後をつけてみたら、あなた、仲間のみんなを気遣うばかりで自分は全く休んでないじゃない」
「そんなことないよ。僕もみんなのおかげで十分休ませてもらってるよ」
「その割にはすっかり疲れた顔をしちゃって。少しは食べた方がいいわよ。持ってきたから、これを食べて少しは休みなさい」
ビアンカに差し出された籠に入っているスープからはもう湯気が消えていた。リュカを追いかけているうちに冷めてしまったようだった。
「旅の最中はあまり食べないでも平気なんだ。身体がそうなっちゃったみたいなんだよね」
「見ていて不安になるほど食べないのね。でもせっかく持ってきたから、無理しない程度にでも食べて」
「無理なことなんかないよ。じゃあ、ありがたくいただきます」
ビアンカに言われる前に、既にリュカはほとんど湯気の立たなくなったスープの匂いですら腹が鳴りそうだった。食事をしないで平気な割には、いざ目の前に食事を出されると急に胃が反応してしまうのは不思議なことだった。
「ガンドフに船室を勧めるのもいいけど、リュカ自身、全く使ってないわよね」
ビアンカの言う通り、リュカが船室で休憩を取ったのは初日の昼間にほんの少しベッドに寝転がっただけだった。それからと言うもの、リュカは常に甲板で寝るようになり、船室のベッドはきれいに整えられたままだった。
「ここでも十分休めるし、それにガンドフも言ってたけど、星空がきれいなんだよね」
「まあね。船の上から見る星空なんて、ここでしか味わえないものね。これはこれで贅沢なのかも知れないわ」
東の空を望むリュカに並んで、ビアンカも星空が広がり始めた東の紺色の空を眺める。潮風も大分涼しくなり、夜ともなればマントを羽織っていないと肌寒いほどの気温になる。しかしリュカもビアンカもそんな肌寒さなど感じないほど、今の船旅を互いに内心楽しんでいた。
「星の海……」
「え?」
「あの時、リュカが言ったのよ。星の海みたいだって」
ビアンカの言うあの時がどの時なのかさっぱり見当がつかず、リュカは眉をひそめながら彼女を窺う。ビアンカは遠くの海と星空を眺めながら、遠い過去を思い出すように話し始めた。
「おじさまとリュカとでアルカパの町まで私と母さんを送ってくれた時、リュカと一緒に宿の部屋からこうして星空を見上げたのよ」
「……そうだっけ?」
「おじさまとリュカが一日だけうちの宿に泊まっていくって言ってくれて、それで私がリュカを連れて宿の二階の部屋に上がったのよ。部屋から見える星空がきれいだから見てみてって……」
ビアンカが話すうちに、リュカはその時のことを徐々に思い出して行った。彼女に連れられ上がった二階の部屋の窓から見上げた星空は、リュカが想像していたよりも数段美しいもので、思わずそんな言葉が出てしまったのだろうと、当時の星空の景色を思い出していた。それまで夜の星空を見上げてきれいだと思ったことはなかった。ビアンカに星空がきれいだと教えてもらわなければ、星空は星空のままで終わっていたのかもしれない。
「あの時の星空もキレイだったけど、まさか船の上でこんなにキレイな星空が見られるなんて思わなかったわ」
「完全に日が沈んだら、また星の海が広がるよ」
「そうね。……こうしてこんな貴重な経験ができるなんて、私は幸せ者だわ。ありがとう、リュカ」
「どうしたの? なんか、ビアンカらしくないなぁ」
昼間は魔物との戦闘に意気揚々と参加していたビアンカだが、日が沈みかけた今の時分、彼女の陽気さもすっかり落ちついてしまい、むしろ旅の疲れでも出ているのではないかと思うほど元気を失っているように見えた。彼女に似合わない雰囲気に、リュカはふと不安を覚え、おどけた笑みを引っ込めて真顔で彼女の様子を窺った。そんなリュカの視線にも気付いているはずだが、ビアンカは彼を見ることはなく、ただ広がりかけている夜空をぼんやりと眺めている。
「山奥の村にまさかリュカが現れるなんて思ってなかったから、また会えて本当に嬉しかったの」
「僕もだよ。アルカパの町にいなかった時は本当にがっかりしたんだ。君を頼ってあの町に行ったも同然だったからね、あの時は」
アルカパの町を再び訪れた時、リュカはヘンリーと共に旅をしていた。サンタローズの村が焼かれ、滅ぼされ、それがラインハットの仕業と知り、リュカもヘンリーも心と体がぼろぼろになっていた時だった。そんな時、かつて頼りになったビアンカがいてくれればと、リュカはすがる思いでアルカパの町を訪ねたのだ。しかしそこに彼女はおらず、ずいぶん前に町を出て行ってしまったと聞き、リュカはその場で倒れそうになるのをヘンリーに支えてもらったほどの衝撃を受けたのだ。
「実は私……サンタローズが襲われたって聞いた後、一人でサンタローズへ行ったのよ」
波音に消されそうな小さな声だったが、彼女の言葉はしっかりとリュカの耳に届いた。リュカがビアンカを見ると、彼女は微かに体を震わせているようだった。その水色の瞳は今、美しい星空でもなく、遥か遠くまで広がる海でもなく、過去の惨たらしい記憶を見ていた。
「家が焼けてぼろぼろだったけど、その中にリュカはいなかったから、きっと生きてるって思ってたの」
当時のビアンカはまだ八歳の幼い少女だ。そんな少女がたった一人ですっかり荒廃してしまったサンタローズを訪れ、一人で村の中に入り、パパスとリュカとサンチョの住んでいた家を確認することなど、到底できることではない。しかし幼いながらも勇敢な彼女は、アルカパの町でじっと待っていることができなかった。自分の目で確かめなくてはと、サンタローズの村に近づくに連れ溢れそうになる涙をこらえながら、ビアンカは一人で村に向かったのだ。恐らく、そのことを彼女は両親に何も告げずに勝手に行ったに違いなかった。
「一人でなんて……どうしてそんな危ないことをするんだよ」
「だって町にいたって嫌な噂を聞くばかりだったんだもの。パパスおじさまもリュカもサンチョさんも……死んじゃったに違いないって……。そんなの、耐えられなかったのよ」
「それで君がもし魔物に襲われでもしたら、ダンカンさん、悔やんでも悔やみきれなかったと思うよ」
「そうね……あの時は父さんにも母さんにも悪いことをしたと思ったわ。でも、それでも、町で情報を待ってるなんてできなかったの」
当時はラインハットの情報操作で、サンタローズの村は完全に滅ぼされ、ヘンリー王子をさらったという謂れのない罪でパパスは殺されたという噂がアルカパの町に流れていた。パパスを知るダンカンなどは、『あのパパスが王子を誘拐するはずがない』と信じ、ましてや犯してもいない罪のせいで殺されるなどあるはずもないと考えていた。しかし当時のラインハットが狂気に満ちていたのは事実で、あるはずもないと思っていたことが、徐々に『あるのかもしれない』と思うようになり、次第に『パパスもリュカも、狂ったラインハットに殺されてしまったのかも知れない』と、考えたくもないことを考えさせられるようになっていた。
そんな父や母の現実的な思いに、ビアンカは一人抗っていた。あの勇猛なパパスがラインハットの兵たちに負けるわけがない。パパスならたった一人でもラインハットに勝てるのだと、幼いビアンカは信じて疑わなかった。だから周りの人間が皆、パパスたちを諦めようとしていた時、彼女はサンタローズの彼らの無事を確認するためにと一人で村に向かったのだった。
「今でも夢に見るほど……ひどい光景だったわ」
リュカがヘンリーと訪れた時のサンタローズは既にラインハットに滅ぼされてから十年以上が経っていたが、それでも目を覆いたくなるような惨状がそこにあったのをリュカははっきりと覚えている。しかしビアンカが見たサンタローズの惨状はその比ではなかった。サンタローズの村全体から黒い煙が立ち上り、村の畑は汚泥にまみれ、建物はことごとく破壊され、教会近くでは女の子の泣き叫ぶ声が延々と響いていた。ビアンカは涙を堪えることもできず、しゃくりあげながら村の中を歩き、一直線にパパスとリュカとサンチョが住んでいた家を目指して歩いて行った。
思わず通り過ぎそうになるほど、そこに存在していた家は破壊され尽くしていた。村の中を歩いていて、明らかに最もひどい攻撃を受けたのがここなのだと幼いビアンカにも分かった。ビアンカは震える声でパパスやリュカ、サンチョの名を呼び、止まらない涙を拭いながら、地下室に下りて確認したりもした。しかしどこにも彼らの姿はなく、彼女は『三人とも上手く逃げたに違いないんだ』と強く思うことで、どうにか精神を保つことができた。
「生きてるって信じてたけど、やっぱり私も他のみんなと同じようにどこか疑っていたのかも知れない」
「それは……仕方ないよ。現に父さんは死んでしまったし、サンチョはまだどこにいるのか分からないんだ。僕だって、死んでいてもおかしくない状況だった」
リュカはまだビアンカに、ヘンリーと過ごした奴隷生活の話を一切していない。恐らく彼女の想像を絶するリュカの十余年の話は、彼女に恐怖しか与えないだろうとリュカは今後も当時の話をするつもりはない。ただでさえ自分のせいで彼女の記憶の一部を汚してしまったという思いに、リュカはこれ以上彼女の人生を邪魔したくはないと思った。
「でも僕がこうして生きていられてるんだから、きっとサンチョもどこかで生きて僕を待ってくれてるはずだよ」
リュカが努めて明るく言うその姿を見て、ビアンカは決して笑みを返さなかった。真剣な表情のままリュカに近づくと、両手を取って固く握った。
「リュカ、絶対に幸せになるのよ」
「え?」
「あなたは私に話してくれないけど、きっととてつもない苦労をしてきたんでしょう。おじさまが死んでしまったことでさえとても辛いことなのに、きっともっともっと苦労してきているのよね。そんな苦労をしてきたリュカは、これから絶対に幸せにならなきゃいけないのよ」
ビアンカの言葉はいつでも強く、そしてそれは必ず現実になるとリュカは思っている。彼女にはそれだけの力と行動力があるに違いないのだ。両手に感じる彼女の手は冷たかったが、彼女の言葉と共に送られる気持ちは、今まで何にも感じたことのない温かさがあった。その温かさに、リュカは思いがけず目頭を熱くする。更にビアンカが強く手を握って来ると、リュカは目から涙をこぼし、肩を震わせた。さすがに決まり悪いと思い、リュカはビアンカから手を離して背を向ける。そんなリュカに彼女は敢えておどけた言葉をかけて、彼の心を追いこまないようにする。
「声も体も大きくなってすっかり大人になったけど、やっぱりリュカには涙が似合うわ」
「……何だよ、それ」
「今までずっと背伸びして頑張ってきたんでしょ。私はあなたのお姉さんなんだから、私の前では遠慮なく泣いていいのよ。背中くらいさすってあげるから」
「いいよ、やめてよ、子供扱いするなよ」
「残念ながら年は永遠に追いつけないからね。リュカは私にとってはずっと弟みたいなものよ」
ふふんと鼻を鳴らすビアンカを見て、『どっちが子供何だか』と思うと、リュカは今度は思わず笑ってしまった。幼い頃から彼女は二つの歳の差を自慢するように、いつもお姉さん気どりでリュカの手を引っ張っていた。
「弟の幸せを願うのは姉として当然のことよ。だから、早く水のリングを見つけて、あなたの愛するフローラさんと結婚できるように、お姉ちゃんも強力するからね」
リュカ自ら、結婚のために水のリングを手に入れるのだと公言していると言うのに、改めてビアンカからそう言われると、そう言えばそうだったと水のリングを手に入れる理由を忘れていたことに気付かされる。そして結婚と幸せとがまだ結びつかず、実感もまるで湧いていないリュカにとって、ビアンカの言葉はふわふわと浮いていて、自分ではない誰かの話をしているような気分になるほどだった。
しかし結婚と幸せが結びつくのは、ラインハットにいたヘンリーとマリアの様子を思い出せば、自ずとその雰囲気が分かるような気もした。そんな幸せな雰囲気を自分とフローラとで生み出すことができるのだろうかと、リュカはふと想像してみたりした。
「それが僕の幸せなのかな」
「そうよ、決まってるじゃない」
間髪入れずに断言するビアンカの強い言葉に、リュカはフローラとの結婚を現実的に考えてみても良いのかも知れないと思い始めた。懸命にアンディの看病をしていたフローラだったが、そんな彼女の姿にほんの少し嫌な感情を抱いていたことに、リュカは今になって気がついた。それはもしかしたら、プックルを取られたとビアンカに嫉妬したような、子供じみたヤキモチに似た感情だったのかも知れない。
アンディが心の底からフローラを愛していることは誰の目にも明らかだったが、それを理由にリュカがフローラを好きになってはいけない理由はどこにもないのだ。既に炎のリングを見つけ出し、これから水のリングを探そうとしている自分は、フローラを好きになっていて当然なのだと、リュカは清楚で可憐なフローラのことを思い出し、彼女のことを真剣に考え始めた。
「そうか、ビアンカが言うならきっとそうなんだね」
「お姉ちゃんの言うことに間違いはないわ」
「うん、そうだね。そんな気がする」
まだ泣き笑いのような顔をしたリュカを、ビアンカは見てみないふりをし、かなり暗くなってきた空を見上げた。まだ少し明るい夜空だが、既に多くの星が散りばめられ、これからさらに暗くなれば一層多くの星が空一面に散りばめられるだろう。これまでにも美しい夜空は何度も見てきたはずだが、恐らくこれからリュカと見る星空は人生で一番美しい記憶になるに違いないと、ビアンカはリュカの広い背中をぽんぽんとあやすように叩きながらそう思っていた。貴重なこの一瞬の時を記憶の奥深くに刻もうと、ビアンカは一人、心の中で己に言い聞かせていた。
彼女はこの時、単に冒険の旅での美しい星空を見ることが貴重な体験だと思っていた。感動的な美しい星空に、自ずと目に涙が浮かぶのも当然のことだと考えていた。しかし星空を見上げる彼女の目に浮かぶ涙に、本当はそれ以上の意味があることを、彼女自身まだ気付いていなかった。

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