2017/12/03

滝の洞窟

 

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山奥の村を出てから内海を北東に航行し、大陸北の大きく長い川を二日ほど北上したところで、前に広がる景色に変化が生じてきた。ルドマンから借りている船は決して大型船ではないが、馬車を積めるほどのそれなりに大きな船だ。上流に進むに従って川幅が狭まったら船を下りて進まなければならないと考えていたが、その必要なないほどの川幅を保ったまま、川は北にずっと伸びていた。
川は突然終わり、船の前方に広がる景色は視界全てを遮るような台地と、大きな滝だった。リュカは皆と協力して広い川の上で船を東西に移動させ辺りを探ってみたが、川は完全に行き止まりで、これ以上北に進むことは不可能だと分かると、再び地図とにらめっこを始めた。
「川に飛び込んで探してみるしかないのかな」
「皆で手分けして探してみましょうか」
リュカの独り言のような呟きにピエールが同調して言葉を重ねると、マーリンが横で溜め息をついて言葉を挟んだ。
「わしはご遠慮願うぞ。こんなだだっ広い川の中をくまなく探せるものか」
「そうよ、探すのは小さな指輪なんでしょ。こんなに広い川の中を探すなんて、見つけるのに何年もかかっちゃうわ」
川底をくまなく探すのが現実的なのか、マーリンやビアンカが言うことの方が現実的なのか、リュカにはよく分からなくなっていた。ほとんど手がかりのない状態で、リュカの直感のみでここまで進んできてしまい、そもそもこの辺りに水のリングがあるのかどうかも全く分からない状況なのだ。とにかく思いつくことはやってみるしかないとリュカは考え、川に入って探すことも厭わない気持ちでいる。一方でビアンカの言う通り、それこそ小さなリングを見つけるために川の中を探すなど、果たして何年かかるかも分からない。
「タキ、キレイ」
船の前方で見張りを続けていたガンドフは、その大きな一つ目に毎時何トンにもなる水量を放出している滝を眺め、うっとりと目を細めていた。昼前の明るい太陽の光を燦々と浴びる滝は、光を照り返して、まるで輝く壁のようにガンドフの目には映っていた。幻想的なその景色に目を奪われるのは、人間も魔物も関係なく、甲板から景色を望むリュカ達全員の目を釘付けにしていた。雄大な自然はそこかしこに存在するが、これほどの巨大な滝は恐らく世界を巡ってもまたと巡り合えないだろう。
ガンドフがピンク色の耳をへにゃりと寝かせ、すっかりリラックスしている様子を後ろから見ながら、リュカは自然と笑顔になっていた。気付けば、他の仲間の皆も、ガンドフの様子に和んでいるようだった。
「水のリングって、伝説の秘宝みたいなものなのよね」
「うん。だからどこかに隠されてるんじゃないかって思うんだ」
「そう言えば炎のリングも火山洞窟に隠されていて、尚且つ溶岩の魔物にも守られていましたね」
ピエールの言う通り、炎のリングは厳重に隠され、守られていた。伝説の秘宝は自ら簡単には人や魔物の手には渡らないといった意思を秘めているかのように、その存在を地中深くに隠していた。それこそ、火の真っただ中に守られていたといっても過言ではない。
「水のリングだから、水に守られているはず……って考えると、やっぱり川の中を……」
「それじゃあただ隠されているだけで、守られてるということにはならんように思えるのう」
「だから、あの滝よ。滝に守られてるに違いないわ」
ビアンカが自信を持って指差す先には、近くに寄るのも憚られるような巨大な滝がごうごうと音を立てて大量の水を放出し続けている。無暗に船で近づこうものなら、その勢いに飲まれ、一気に川底へ引きずり込まれてしまいそうだ。
「あの滝の中に指輪が?」
「そうなのかも知れないわよ。船で行ってみましょうよ」
「それは……あまりにも無茶ですね」
ピエールがゆっくりと首を横に振るのを見て、リュカもうんうんと首を縦に振って同調した。
「あんな大きな滝、近くにすら寄れないよ。水の勢いに船が飲みこまれるよ」
「じゃあ飛びこんで探すしかないかしら」
真剣な顔つきで無謀な言葉を発するビアンカの横で、プックルは小さな唸り声を上げて彼女の言葉を小さく否定していた。
「飛びこむのは無理にしても、滝に隠されているというのはいかにも考えられそうなことじゃのう」
「マーリンもそう思う?」
「炎のリングがある火山洞窟の前にも爆弾岩の群れがいたのを思い出すのう。この滝があやつらと同じ役割を負っているのかも知れんぞ」
「そうだとしても、どうやって調べたら……」
「ッキッキ」
じっと近くで話を聞いていたメッキーが「任せろ」と言わんばかりに、その場で宙を舞った。船でも近くに寄れない、滝近くに飛び込むわけにも行かないとなると、メッキーのように水の影響を受けない宙から確認するしかない。しかし不用意に滝に近づこうものなら、たとえ宙に浮いていても、ごうごうと流れる滝の勢いに飲まれ、滝壺に叩きつけられるに違いない。
「メッキー、無理はしないで。できるだけ滝から離れて見て来てもらっていいかな」
「メッキッキ」
リュカに快く返事をすると、メッキーはまるで滝に突っ込んで行くような勢いで飛びだして行ってしまった。慌ててもう一度メッキーに「気をつけて!」と声をかけたリュカだが、その言葉が届いているのかどうかも分からないほど、メッキーはまるで攻撃でもしかけるかのような勢いで飛んでいく。滝の近くに行ってしまったメッキーにはもう誰の声も何の音も聞こえないに違いない。ただ聞こえるのは耳が壊れるような凄まじく大きな滝の音だけだ。巨大な滝の周りをメッキーの小さな身体が飛び回っているのを、リュカ達はただ見守るだけだ。
ふと、滝の端にメッキーの姿が隠され、見えなくなってしまった。滝の勢いに飲みこまれてしまったのかと、リュカは甲板の縁に手をかけて身を乗り出した。滝壺に叩きつけられるメッキーを想像して居ても立ってもいられなくなったリュカがいよいよ川に飛び込もうとした時、再びメッキーは何でもないような様子で滝の中から姿を現した。見れば、特に水を被った様子もなく、至って普通に宙を飛んでいる。そしてそのままメッキーは勢い良く船に向かって戻ってきた。
「メッキメッキ!」
「滝の裏側に洞窟があるじゃと?」
「ッキ!」
「まるで炎のリングと同じですね。伝説の秘宝は厳重に守られているということでしょうか」
「でもどうやって見てきたの? まるで滝に飛び込んだように見えたけど……」
リュカの言う通り、メッキーは一度滝の流れに飛び込んで滝の裏側を見て来たらしい。しかしこの大きな滝の裏側は水の流れが薄く、勢いはあるものの流れに飲みこまれることはないようだ。メッキーの先導でリュカは船を滝の流れの裏側が見えるところまで移動させることにした。
台地からドドドドッと流れ落ちる滝の裏側に回ると、激しい轟音で耳がおかしくなりそうだったが、メッキーの言う通り一部水の流れの薄いところがあった。どうにか船が通れそうな幅はありそうだったが、メッキーのように宙を飛べない船は、やはり滝壺に飲まれてしまう可能性が高い。川に落ちる滝はまるで巨大な魔物のように、近づくものを飲みこもうとしている。
「でも行ってみるしかないよね」
「きっと大丈夫よ。もしこの奥に水のリングがあれば、リュカを通してくれるはずだわ」
根拠があるのかないのか分からないが、ビアンカは自信たっぷりにそう大声で応えた。滝の轟音に阻まれ、通常の会話ができないため、リュカもビアンカも声を張り上げて会話をする。
「僕を通してくれるって、どういうこと?」
「だってあなたはリングを見つけてフローラさんと幸せにならなきゃいけないんだもの。きっと水のリングだって、あなたに探してほしいって待ってるはずよ」
ビアンカはリュカとフローラの運命の出会いを信じ、彼らが幸せになることを信じていた。パパスという偉大な父を亡くし、それからのリュカの人生を考えると、彼は特に幸せにならなければならないと強く思っていた。リュカが人生の苦労をとつとつと話して聞かせたことはないが、ビアンカは彼の語られない苛酷な人生を想像し、それを打ち消すほどの幸せが彼に訪れて欲しいと切に願っていた。
そんな彼女の思いが伝わり、リュカは船を進めることを決意した。魔物の仲間の中に、リュカの意思に逆らう者は誰一人としていない。それほど魔物の仲間も、彼のことを信じ、彼の幸せを信じていた。
「みんなを巻きこんで申し訳ないけど、行ってみる」
「巻きこむなんて、今さらな話じゃな」
「誰も巻き込まれるだなんて思っていませんよ。リュカ殿がそう思うなら行きましょう」
仲間の温かい大声が飛び交う。リュカは操舵室に入り、ゆっくりと船を動かし始めた。ずっと傍で話を聞いていたスラりんは急いで船室に向かった。船室に入っているパトリシアに状況を説明しに行ったようだ。船全体が轟音に包まれるのが目に見えているため、パトリシアを怯えさせないよう気を遣っての行動だった。
滝に近づくにつれ、船の操舵は困難になった。舵を握るリュカの手に汗が滲み出て、進む方向に狂いのないよう慎重に動かす。仲間の皆は甲板の上で、張られた帆で滝の水を受け流せるよう帆の角度を変えていた。もはや会話をすることは不可能なほど、滝の轟音が辺りを包んでいた。
滝の流れの薄いところとは言え、滝の一部に船を突っ込むわけで、当然甲板の上には大量の水が落ちてくることになる。あまりに多くの水を船が抱えれば、当然船は沈む。リュカは進行方向に狙いを定めると、そこから一気に加速して船を進めた。甲板の上に斜めに張られた帆が、滝の水を受けて一気にしなる。しかし水は帆の上を流れ落ち、川へと流れ出て行った。全ての水を船から追い出すことは無理だったが、それでも甲板が水に溢れ、船が沈むことは避けられそうだった。
滝壺の爆発的な勢いに何度か船が傾き、飲まれそうになったが、大きく船体を揺らしながらも滝の裏側に進入することに成功した。そこに洞窟の景色が広々と広がっているのが見え、リュカは全速前進で滝壺と反対側に船を進めた。皆が息を詰めて見守る中、船は唸りを上げて前に見える洞窟に向かってゆっくりと進んで行った。
滝の轟音が遠くなり、広い洞窟内に船を進めると、前方に船では進めない陸地が広がっているのが見えた。滝から透ける太陽の光で洞窟内は照らされ、視界は良い。洞窟を形成する地質に特別なものでも混じっているのか、洞窟全体が青白く浮かび上がるように見え、幻想的な雰囲気が漂う。
「近くまで船を寄せることはできないみたいだね。この辺りで船を泊めて、少し泳いでいかないと行けないな」
船を停泊させるにはある程度の水深がなければ、船底を擦って座礁してしまう。陸地の見える洞窟近くまで進めてしまうと浅瀬にかかるため、船を少し陸地から遠ざけて停泊させる必要があった。
「では馬車で行くことは不可能ですね。パトリシアには留守番をしてもらいましょう」
「そうだね、さすがにパトリシアも馬車を引いて泳ぐなんてことはできないだろうからね」
「パトリシアだけで留守番をさせるわけにもいかんじゃろうから、わしも船に残って待っていることにしようかの」
マーリンの言う通り、船をこの場所に置いて行くからにはここで待ってくれる仲間を選抜しなければならない。奥に広がる洞窟を探索して、戻ってきた時に船が魔物に壊されでもしていたら、そこでリュカ達の旅は詰んでしまう。船を守るための仲間と、リュカと共に洞窟探索に向かう仲間と、二手に分かれなければならない状況だ。
「私はついて行くからね」
一番初めに目が合ったビアンカは、リュカが言葉を発しようと口を開けた瞬間に、先手を打ってそう言った。リュカの考えていることが目に見えて分かっていたようで、彼女は真っ先に洞窟探索の仲間に入ることを希望した。
「どっちにしたって、危険なことには変わりないでしょう。だったらせっかくだもの、この洞窟を見てみたいわ」
ビアンカが前方に広がる洞窟を見る瞳は、真剣と言うよりも冒険心に満ち溢れ、好奇心の塊のように見えた。彼女のすぐ傍には、ビアンカが行くのなら当然一緒に行くと言わんばかりのプックルが、同じような瞳でリュカを見つめている。
「……確かに、どっちが危険かってことになると、どうなのかは分からないな……」
「そうでしょう? じゃあ決まりね。じゃあリュカと私とプックルと、あとは誰が一緒にこのキレイな洞窟を見てみたいのかしら」
ビアンカの口調が明らかに洞窟探索を楽しみにしている雰囲気を醸していることに、リュカは内心溜め息をついていた。しかし彼女の言うことももっともで、船で待つにしろ、洞窟探索をするにしろ、危険なことには変わりない。どちらにいても危険なのならば、自ら行動を決めるビアンカを阻止する理由もなかった。
「キレイな洞窟を見たいわけではありませんが、私も洞窟探索に共に向かいたいと思います。回復役は二手に分かれた方が良いと思いますので」
ピエールの言う通り、回復呪文が使えるのはリュカ、ピエール、ガンドフ、それにメッキーで、洞窟探索に向かう組と船を守る組とに分かれる必要がある今、回復役を二手に分けるのは当然の対応だった。ピエールの意見にガンドフもメッキーも賛同の声を上げたので、リュカは残るスラりんにどちらに付きたいかを問うことにした。
「スラりんは僕たちと一緒に先に進みたい?」
リュカの言葉にキューと唸るような声を上げたスラりんだったが、しばらく考えた後、船に残ると言うようにガンドフの頭の上に飛び乗った。今ではすっかりパトリシアと仲良くなり、船に残る彼女を置いて洞窟を探索する気にはなれないらしい。滝の洞窟に辿りつくまでの航海の途中も、スラりんは見張り役の時間以外は船内にいるパトリシアのところへ行って、楽しくおしゃべりをしているらしい。
「そっか、じゃあこれで決まりだね。荷物を整理して、洞窟に向かうことにしようか」
「泳いで行くのは構わないけど、荷物が濡れないようにしないと行けないわね」
「そう言えばこの船には救命用の小舟がありませんでしたか? それで陸地まで乗りつければ良いのではないでしょうか」
ピエールに言われるまでリュカはルドマンに借りた船の設備のことをすっかり忘れていた。ある程度大型の船ともなれば、いざ沈没の危機に陥った時にも助かるよう、救命用の小舟がつけられているのだ。さすがにパトリシアと馬車を運ぶには無理があるが、リュカ達を運ぶには十分な大きさの小舟だ。
「そうなの? じゃあ服も濡れずにあっちまで行けるのね。良かった」
ビアンカが安心する言葉に合わせて、プックルも喜ぶように赤い尾をふりふりと揺らしていた。プックルはあまり水が得意ではないのだ。それがキラータイガーに備わる元々の性質によるものなのか、過去のトラウマによるものなのかは、リュカも聞いたことがない。
「この洞窟がどれほど広いかは分からないけど、三日以内には一度船まで戻るようにするね。三日経って戻らなかったら、その時はよろしく」
明るい調子でマーリンたちに告げるリュカだが、その内容は『三日経って戻らなければ、僕たちは魔物に倒されてしまったということだから、船で引き上げてくれ』ということだ。マーリンたちも何食わぬ顔でリュカの言葉を受け止めているが、その内容にはもちろん気付いている。突然目の前に現れた現実に、ビアンカは思わず顔が強張るのを感じた。リュカ達の旅の覚悟と言うものは、それほどにいつも秘められているものなのだと、己の冒険心を少々反省した。
「洞窟内にもこの場所のように日の光が差し込んでいると良いのですが」
「もし光がなくても、プックルなら僕たちよりも正確に時間の経過が分かるだろう?」
「がうがう」
長い間、カボチ村西の洞窟奥深くに棲んでいたプックルは、暗闇にいても時間が分かる能力を身につけている。それはキラータイガー特有の能力と言うよりも、プックル特有の能力のようなものだった。
「ビアンカ、一つだけ言っておくけど」
「なによ」
「絶対にみんなから離れないでね。単独行動は禁止」
「まるで子供扱いね。まあ、私はリュカ達に比べて旅の経験なんてないから、そう言われるのも仕方がないけど」
「分かった?」
「分かったわよ」
「本当に?」
「くどいわね。絶対に一人でどこかに行ったりしません。約束します」
「絶対だよ。君にもしものことがあったら、ダンカンさんに顔向けできないからね」
「悔しいけど、ここはリュカの言うことにちゃんと従うわ。でもせっかくだから景色を楽しむぐらいいいでしょう?」
「みんなから離れなければいいよ。許してあげるよ」
どこか楽しむようなリュカの口調に気付き、ビアンカは思わず頬を膨らませた。リュカはビアンカよりも優位に立てることを無意識の内に少し楽しんでいた。言葉でも行動でもいつも先に行かれてしまい、常にやりこめらる状況に陥ってしまうが、今では逆の立場に立てることがリュカには面白いらしい。
「ピエール、さっさと準備しましょう。こうしている間も時間がもったいないわ」
そう言うと、ビアンカは荷物を整理するためにさっさと船室に姿を消してしまった。呼びかけられたピエールは首を傾げながらも、慌ててビアンカの後をついて行く。プックルもリュカの背中をバシッと強く尾で打った後、船室へと歩いて行った。残されたリュカは彼らの後ろ姿を見ながら、ピエールと同じように首を傾げながらゆっくりと後を追って行った。



「こんな広い空洞があるなんて!」
小舟で乗りつけた陸地から少し進んだところには、想像を遥かに超える巨大な空洞が広がっていた。上を見上げるとところどころ岩に亀裂が走り、その間から外の光が差し込み、洞窟全体を明るく照らしていた。当面は火などの明かりは必要なさそうだ。
「岩の割れ目から明かりが漏れて暗くないし……」
「そうだね、これならプックルだけに頼らなくても時間が分かるし、こんなところが続いてくれればいいんだけどなぁ」
「明かりが必要になったら、ビアンカ殿にお願いすることになりますね」
「任せて。それくらいならちょちょいのちょいだから」
火の呪文メラはビアンカが幼い頃から使える得意呪文の一つだ。道具として松明を一つ持ってきているが、それを使いきる前には一度洞窟を出ようとリュカは考えていた。しかし今のところ、松明の出番はないため、リュカは松明を水に濡らさないようしっかりとマントの内側に収めていた。
「レヌール城の時の暗くてカビ臭い場所の冒険とは大違いよね」
そう言って楽しそうに笑うビアンカを見て、リュカは一抹の不安を覚えるのと同時に、彼女が楽しんでいることに安心もしていた。ここで彼女らしくもなく神妙な顔つきで洞窟探索を始められたら、それはそれでリュカは今以上の不安を抱えることになったのかも知れない。
「お二人はそんなに小さな頃に町の外に出られたのですね」
「今考えると、とんでもないことだよ。今の僕が昔の僕に会ったら、必死に止めるね」
「でも無事に生きて戻ってこられたんだから、今となってはいい思い出よ。あの冒険がなかったら、十年以上も経って、これほどリュカのことを覚えてることもなかったと思うわ」
ビアンカの言うことももっともだった。彼女とのあの冒険がなければ、リュカもビアンカのことをこれほどしっかりとは覚えていなかったに違いない。そして大人になってからも彼女を頼ろうとアルカパの町を訪れることもなかっただろう。
「それにレヌール城でお化けを退治してきたから、こうしてプックルとも会えたわけだし。やっぱりある程度の冒険って必要なのよね」
「がうがうっ」
ビアンカと再会してすっかり彼女に甘えるようになってしまったプックルは、その言葉に同調するように勢い良く返事をする。そんなプックルを見ると、リュカも過去の彼女との冒険は必要な人生経験の一つだったのかもしれないと思えた。
先には下り坂の道が続いていた。洞窟の岩盤の割れ目から光が差し込んでいるため、ある程度先を見通すことができ、続く道が一本道であることが分かる。迷いようのない広い道が続くが、道の両端には壁も何もなく、踏み外してしまったらそのまま下まで真っ逆さまに落ちてしまう。リュカ達は広い道の真ん中を進みながら、どこにも隠れようのない状況で魔物との遭遇に備えていた。
洞窟内を徘徊する魔物も道を踏み外すのが怖いのか、リュカ達と同じように道の真ん中を堂々と歩いていた。見晴らしの良い洞窟内で互いに道の真ん中を進むため、互いに奇襲を食らうということはないが、逃げることも叶わない状況だ。
初めに遭遇した魔物は、洞窟内の青白い景色とは対称的なピンク色をした巨体を持つ魔物だった。のっしのっしと歩いてくるその魔物は、身体のあちこちから緑がかった妙な煙のようなものをプシュプシュと噴き出している。いかにも鈍重な動きの魔物だが、決して近づきたくはない雰囲気がありありと漂っている。
「あっちも僕たちに気付いてるから、逃げようもないね」
「何という魔物なんでしょうね。マーリン殿がいれば分かるのかも知れませんが」
「呪文で倒した方が良さそうね。プックルは下がっていた方がいいかも」
ビアンカの言葉よりも前に、プックルはガスダンゴという毒ガスを体内に溜めこんでいる魔物を見て、明らかに戦闘意欲を失っている。身体のあちこちからガスを放出する突起を持っているため、直接攻撃をしかけるとなると、どこを攻撃しても毒ガスの返り討ちに遭うことは目に見えている。
ガスダンゴは人間二人と魔物二匹の異色の組み合わせに疑問を抱くこともなく、ただこの洞窟に入ってきた者たちを追い払うためだけにリュカ達に向かってきていた。その表情は好戦的で、侵入者たちを待っていたかのような空気さえ漂う。リュカはなるべく戦闘を避けたいと考えているが、徐々に足を速めて向かって来るガスダンゴを見ると、ビアンカの言う通り呪文で攻撃を仕掛けた方が良いと判断せざるを得なかった。それほどリュカ自身も、ガスダンゴの身体から噴き出す毒ガスを避けたいと考えていた。
「相手が呪文を使うかどうか分からないけど、とにかく倒そう」
リュカの言葉を確認するなり、まずはビアンカがメラミの呪文を唱えた。リュカの言葉が出る前に準備していたタイミングに、リュカは呆れるやら尊敬するやらで、複雑な気持ちだった。
大きな火球が彼女の手から飛んで行くと、洞窟全体が一瞬、橙色に染まった。ガスダンゴは向かって来る火球に危機を感じているのかいないのか、単に鈍重で避けられないだけなのか、メラミの呪文をまともに食らった。メラミの火に反応した毒ガスがガスダンゴの周りで燃え、緑色の煙が上がる。ガスダンゴ自身もピンク色の巨体に大きな焦げ跡を作り、大声で悲鳴を上げた。しかし痛みにも鈍いのか、すぐにまたリュカ達に向かって歩き始めた。その足は先ほどよりも速まっている。
「次々と攻撃しないと、どんどんこっちへ来るわよ」
ビアンカの声はどこか相手を毛嫌いするような苦々しいものだった。明らかに体に有毒な緑色のガスを身体中から噴き出しているのだから、それも無理はなかった。
リュカとピエールもそれぞれ呪文を唱え、ガスダンゴのピンクの巨体は真空の刃に切り刻まれ、爆発の中にその身体が隠れた。しかし再び現れたガスダンゴの身体は、傷跡をしっかりと残しつつも、まるで痛覚そのものが欠如しているかのように、足取りはさらに速まっている。
「倒せる魔物なのかな」
「倒せない魔物なんているの?」
「いや、見たことはないけど、今まで出遭ってなかっただけなのかも知れないし」
「倒せないということもないとは思うんですがね」
「道の端から落ちてもらうしかないかな。落ちてもあの身体なら、何となく平気そうだし」
リュカ達が素早く言葉を交わしている間にも、ガスダンゴはずんずんと坂を上って来る。慌ててビアンカが再びメラミの呪文を唱えようとした時、ガスダンゴはピンクの巨体を振るわせ、身体中にある突起という突起から緑色の毒ガスを勢いよく放出した。まるで洞窟全体が緑色に染まったかと思うほどの毒ガスに、リュカもビアンカもピエールもプックルも毒ガスを吸い込まざるを得なかった。咄嗟にマントで口と鼻を覆ったリュカだったが、あまりにも強い毒に身体が蝕まれ始めてしまった。
胃の中にぽたぽたと徐々に毒液が流し込まれるような感覚に、リュカは身体が鉛のように重く感じた。それはビアンカも同じようで、言葉を発することができないほど身体を丸めて苦しそうにしている。元気で明るい彼女の姿しか印象にないリュカには、彼女のぐったりした状態が衝撃的で、思わず駆け寄って様子を確認する。
「ビアンカ、大丈夫? 苦しいんだよね?」
自身も毒され、苦しみが身体に染みわたっているにも関わらず、リュカはそんなことにはお構いなく、ただビアンカの身体を案じた。彼女は身体を折り曲げながらも首を横に振って「大丈夫」と小さく応えた。
「リュカ殿、解毒呪文は使えますか?」
ピエールに言われるまで、リュカは自分が解毒呪文キアリーを唱えられることを忘れていた。思い出すなりすぐにビアンカに解毒呪文を施し、彼女の様子が元に戻るとほっと息をついた。
「ああ、良かった。これでもう大丈夫だ」
「リュカ、早く自分にも呪文をかけなさい! どんどん毒が回っちゃうわ!」
ビアンカの切羽詰まった声に、リュカは既に立てなくなって地面に膝をついていることに気がついた。自ら解毒呪文を唱えようとするが、頭が上手く働かず意識がもうろうとしてくるのを感じる。歪んだ視界の中にピエールの姿が映り込んだ瞬間、リュカは身体中にまとわりついていた重しのようなものが取り払われた感覚を得た。ピエールが解毒呪文キアリーを唱えてくれたようだ。
「プックルが先に行ってしまったので私も向かいます。リュカ殿はまず体力を回復してから来てください」
ピエールはそう言うなり、ガスダンゴに向かって走り出した。どうせこの距離でも毒ガス攻撃を食らうのなら、呪文での攻撃と合わせながら、直接攻撃で道の下まで魔物を落とそうということらしい。リュカも素早く回復呪文で体力を回復すると、ピエールの後をすぐに追った。しかし後ろから同じように駆けてくる足音を聞くと、下り坂を勢いよく走りながらも大声で話しかける。
「ビアンカ、君はあまり近づかないで。後ろから呪文で攻撃してくれるだけでいいから」
「でもみんなで直接攻撃した方が早く……」
「いいから、近づかないで! ここにいてくれ!」
リュカの強い口調に、ビアンカはびくりと身体を震わせ、その場に立ち止まってしまった。毒ガスの攻撃もさることながら、ガスダンゴのピンク色の巨体は恐らく力強い直接攻撃も仕掛けてくるはずだと、リュカはビアンカを魔物から遠ざけたい一心でそう言い放った。あれほどの巨体から繰り出される直接攻撃に、ビアンカのような女性が耐えられるわけがないと、リュカは彼女の安全を確保するのに必死だった。
ピエールの解毒呪文を受け、すっかり元の調子に戻っていたプックルが、息をつめながらガスダンゴに飛びかかる。見るからに毒ガスを溜めこんでいる膨らんだ腹への攻撃は避け、プックルは魔物の顔目がけて鋭い爪を立てた。流石に毒ガスを吐き出す魔物に噛みつこうとは思わなかったらしく、前足でどんと殴るように顔を引っ掻くとすぐに魔物から離れて行った。やはり痛覚は鈍いらしく、ガスダンゴはさほど痛みを感じていないようだが、プックルの勢いに押されよろよろとよろめいた。直後にピエールのイオラの呪文が炸裂し、爆発の勢いでガスダンゴを道の端の方へと追いやる。
毒ガスを身体の中に充填するには時間がかかるようで、再び毒ガスを噴き出す様子は見られない。しかし近くにいたプックルに飛び上がってのしかかろうとするなど、食らえば大ダメージを免れない攻撃を仕掛けてくる。プックルは素早さを生かしてその攻撃を避けることができたが、自分だったら今頃下敷きになっているだろうと、リュカは想像して脂汗をかいていた。
剣を手にしたリュカも、まだ膨らみ切っていないガスダンゴの腹を見て毒ガス攻撃はないと判断し、飛び上がってガスダンゴの顔を斬りつけた。片目の視力を奪い、ガスダンゴは巨体を支えるバランスを崩し始める。リュカに向かって飛びかかってこようとするが、的を得ない攻撃は地面に穴を開けるだけだった。
呪文と直接攻撃の応酬で、ガスダンゴの身体は徐々に道の端へと追いやられ、最後はプックルの一撃でピンク色の巨体は道の下へと落ちて行った。リュカが想像した通り、身体の中に溜めこんでいる毒ガスがクッションとなり、遥か下の地面に落ちても勢いよく跳ね返って毒ガスを噴出して身体がしぼんだだけで、息絶えることはないようだった。
再び毒に侵されていたプックルに解毒呪文を施し、体力を回復させると、リュカは仲間の状態を見回した。後ろを振り向くと、ゆっくりと坂を下りて来ているビアンカと目が合い、彼女の様子に変わりのないことを見て取ると、安心して息をついた。しかしビアンカと言えば、リュカ達の戦い慣れている姿に圧倒され、いつものような笑顔も出なければ言葉も出ない状態だった。
「とりあえずここにはもう魔物はいないみたいだね。先に行ってみよう」
「リュカ、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
ビアンカの言葉にリュカは至って普通の様子で聞き返す。そんなリュカを見て、ビアンカは開きかけた口を一度閉じて、視線を外すと、ゆるゆると首を横に振った。
「ううん、何でもない。さあ、先に進みましょうか」
そう言って先頭切って歩き出すビアンカを、リュカは慌てて追いかけた。歩く後ろ姿はいつもの通り元気でしゃきっとしている彼女だが、その内心に複雑な思いを抱えていることにリュカが気付くことはなかった。



坂道を下りきった所には明らかに人の手によって作られた階段が続いていた。下ってきた坂道も振り返ってみれば自然にできたものとは違い、人間が歩きやすいようかなりならされていた。外からの明かりも入るため、外を歩いているのとさほど変わりない感覚で洞窟内を進むことができる。
「それにしても不思議な場所ね。道や階段があるってことは誰かが作った場所なのかしら」
「そう言えば炎のリングがあった火山洞窟も橋が渡してあったりしたから、どっちのリングも人間の手で隠されたものなのかも知れないね」
「結局炎のリングは溶岩の魔物の手に渡っていましたけどね。水のリングも覚悟しておいた方が良いかも知れません」
「炎のリングが溶岩の魔物だったら、水のリングは水の魔物? どんな魔物なのかしら」
「ビアンカ、そこでわくわくするのはやめて」
「してないわよ。ただどんな魔物なのかしらって想像してみただけじゃない」
「想像する顔が楽しそうだから心配してるんだよ。言っておくけど、僕たち、炎のリングを取りに行く時だって死にかけてるんだからね」
「はいはい、分かったわ。じゃあこーんな顔で想像すればいいのね」
そう言いながらビアンカが極度のしかめっ面をして見せると、そんな彼女の顔を見て思わずリュカは笑ってしまった。世間一般ではいわゆる美人の彼女だが、本人はまるでその事実に気付いておらず、お構いなしにおかしな顔をする。見ればピエールも仮面の奥で含み笑いをしているようだった。
長い階段を下った先には、広い湖が広がっていた。しかし湖の水はただそこに静かに留まっているわけではなく、ごおーっという轟音と共に滝となって下に流れ落ちていた。少しでも湖に足を入れたら、滝の勢いに引きずり込まれかねない様子に、リュカ達は湖から離れて歩くようにした。
巨大な滝が落ちるところから日の光が差し込み、輝くような景色に思わずビアンカは見惚れていたが、一方でリュカはその滝の音にどういうわけだか気分が悪くなるのを感じていた。胸が締め付けられるような、張り裂けそうになるような、壮大な景色を見ているのに何故か息が詰まるような苦しい感覚に、リュカはビアンカとは対称的に滝から目を逸らしていた。
するとリュカと同様に滝を恐怖に感じているプックルが、気遣うようにリュカの顔を下から覗きこんできた。赤い尾を地面に擦りつけるようにして歩くプックルは、リュカよりも更に滝から距離を取って歩いていた。リュカの顔を下から覗きこんでいるプックルを見て、ビアンカも同じようにリュカの顔を覗きこむ。
「リュカ、どうかしたの? 顔色が悪いみたい。プックルも心配してるみたいね」
「がう……」
「いや、何でもない……」
そう答えながら、リュカは何故この場所に恐怖を感じているのかということに気付いてしまった。
滝の流れ落ちる激しい音と共に思い出されるのは、あの奴隷生活を送った大神殿建造の地から逃れる時の大樽の中で聞いた音と同じだったからだ。マリアの兄ヨシュアの手で大樽のふたが閉じられ、マリアの悲痛な叫びと共に滝を流れ落ちて行った時の、これからの希望のための絶望を感じた場所と同じ音がこの場に轟いているからだった。自然と滲み出る脂汗を震える手で拭い、リュカは吐き気すら覚えるこの場所から早く逃れたい一心で、足を速めた。
「早く先に進もう。この場所だってどこから魔物に襲いかかられるか分からないよ」
「そうですね、湖に棲息する魔物もいるでしょうから、油断は禁物です」
リュカの言葉に呼応したピエールが湖から離れて警戒しながら、リュカと同じように足を速め進んで行く。景色などまるで楽しむ様子もないリュカ達に、ビアンカは少し残念そうに美しく陽光に照らされる滝を目に焼き付けるように見ていた。こんな景色を見るのは恐らくこれが最初で最後だろうと、ビアンカは思わず湖に近づいていることにも気付かずに、滝の景色をまじまじと見つめていた。
突然、湖の中から伸びてきたものに、ビアンカは気がつかなかった。素早く伸びてきたタコの足のようなものは、ビアンカの足を絡め取ると、そのまま彼女の身体を倒した。湖の縁に彼女に襲いかかろうとしているタコの魔物の姿を見ると、リュカは心臓が握りつぶされるような思いがした。ビアンカは咄嗟にメラミの呪文で魔物を退けようとしたが、タコの魔物はしぶとくビアンカの足に足を絡みつかせている。
一気に湖に引きずり込まれそうになったビアンカの手を、リュカは渾身の力を込めて掴んだ。その勢いにビアンカは全身がばらばらになりそうな痛みを感じたが、リュカの手をしっかりと両手で掴み、滝に流されないよう必死に踏ん張る。リュカは左腕だけでビアンカの手をぐいっと引っ張ると、彼女の足に絡みついているタコの足を剣でばっさりと切り落とした。魔物の悲鳴が上がり、ビアンカを捕えて滝に引きずり込もうとしていたタコの魔物はそのまま湖の中へと再び姿を消した。
「ごめんなさい。油断したわ……」
ビアンカが力なくそう言うのを、リュカは息を切らしながら静かに見つめた。彼女があのまま滝へと引きずり込まれていたらと想像するだけで、リュカは生きた心地がしなかった。無言のまま彼女の足に回復呪文を施して傷を癒すと、リュカはそのまま「行こう」とだけ呟いて歩き始めてしまった。そんな彼の様子に、ビアンカは返す言葉もなく、静かについて行くことしかできなかった。
道は入り組んでおらず、ずっと一本の道が続いていた。階段があるなど、人の手が入っているものの、基本的には自然に造られた洞窟には違いなかった。自然に造られたこの洞窟があまりにも美しかったため、この場所に神聖なものを感じた人間が伝説の秘宝である水のリングを隠したのかも知れないと、リュカは改めて洞窟の幻想的な雰囲気を見渡していた。
階段を下りたところにはまた広い空洞が広がっていた。ここにも外からの光が差し込み、空洞全体を見渡すことができる。右手には水が広がっているようだったが、池とも湖とも言えない、大きな水溜りのような場所だ。リュカはビアンカに念を押すように「近づくな」と言い渡した。
「さっきは運よく助けられたけど、何度もそう上手く助けられるとは言い切れないからね」
「分かってるわ。気を抜かないように気をつけます」
「ゴロゴロゴロ……」
「プックルだって心配してるよ」
「大丈夫よ、プックル。同じヘマはしないわ」
そう言いながらビアンカがプックルの赤いたてがみを撫でると、プックルは目を細めて「にゃう」と猫のような声を出した。
「それだけビアンカのことが大好きなんだよ」
リュカの言葉に、ビアンカは思わずプックルを撫でる手を止めた。急に止まったビアンカを、横につき添うプックルが不思議そうに見上げる。
「がう?」
「どうかしましたか、ビアンカ殿」
後ろを歩いて来ていたピエールが右手に広がる水場に注意を払いながら、立ち止まるビアンカに声をかける。一瞬、呼吸をするのも忘れていたビアンカは、途中で止めていた息を静かに吸い込むと、少し震える息をゆっくりと吐き出した。
「いいえ、なんでもないわ」
「本当に? 何かに気付いたら教えてね」
前を歩いていたリュカが振り返りそう言うと、ビアンカは彼の顔をしばし見つめた後、視線を洞窟内に巡らせながら話し出す。
「それにしてもリュカったらすごく逞しくなってるんだもの。びっくりしちゃった!」
途端に明るい声で話し始めたビアンカに、リュカはいつもの彼女の元気さを見た気がして、安心したように笑顔を見せた。
「さすがパパスおじさまの息子よね。しっかりおじさまの血を引いているのね」
「そうだといいんだけど。でもまだまだ父さんには敵わないと思うよ」
リュカがずっと追い続けている父の背中。幼い頃に見ていた父の背中はただただ大きく広く、遠くに感じるものだったが、ビアンカの一言で少しその距離が近づいたような気がした。
「リュカはあんまり話してくれなかったけど……色々苦労したんだね」
彼女に他意がないことは分かっていたが、それでもリュカは彼女に話していない自分の過去を覗かれた気がして、思わず言葉を失ってしまった。幼い頃に母親を失ったとは言え、明るく元気に育った彼女にリュカは己の闇に覆われたような暗い過去を教えたくはなかった。話せばきっと、彼女の人生の一部に影を落とすことになると、リュカはヘンリーと過ごした奴隷時代のことを一切誰にも話すつもりはなかった。
「父さんを亡くしたのは辛いけど、でもビアンカだってお母さんを亡くしてるんだから、辛いなんて言ってられないよ」
「でも辛いものは辛いわ。私だって毎日村で母さんのお墓に行ってるけど、その度に辛くて涙が出そうになるもの」
言葉とは裏腹に明るい調子で話すビアンカだが、彼女の悲しみをリュカは既に知っていた。山奥の村に到着した日、ダンカン宅を訪れる途中で見た墓参りをする女性、それがビアンカだった。その時は彼女と気付かずただ遠くから見ていただけだったが、墓に向かって話しかける女性が涙を流していることにリュカは気付いていた。涙が出そうになるという言葉は彼女の強がりで、本当は毎日涙を流しているのだろう。
常に明るく元気に振る舞う彼女だが、己の中に悲しみを閉じ込めしまっているだけなのだ。それは、リュカが過去の奴隷時代のことを晒したくないと思っていることと、同じようなことなのかも知れない。他人に晒してしまうにはあまりにも深く辛い感情で、それは相手を悲しみに引きずり込むのと同時に、自身も再びその悲しみに落ちて行ってしまう危険性をはらんでいる。リュカもビアンカも、無意識の内にその危険性から逃れたいと感じていた。
互いに明るく元気でこの旅を続けられるのなら、それが一番だと、リュカもビアンカも同時に笑顔を見せた。
「でも悲しんでいても母さんはきっと喜ばないし、それに私がこうして冒険を楽しんでいるのを見てきっと喜んでいるんじゃないかしら」
「そうかも知れないね。元気じゃないとビアンカじゃない気がするよ」
「リュカも小さい頃を思い出して、もっとぼーっとしていてもいいんじゃない?」
「……僕、そんなにぼーっとしてた?」
「してたと思うわよ。もうちょっと気を抜いてくれたら、私だってもうちょっと自由に……」
「やっぱりぼーっとはしないことにする。本当に君は油断も隙もない。さっきのこと、本当に反省してる?」
「ねぇ、ピエール、いつからリュカはこんなにオカタイ人になっちゃったの?」
「さて、私たちと旅をしている時はそうでもなかったと思うのですが」
ビアンカに問いかけられ、真面目に考えながらピエールがそう答えて首を傾げていると、リュカも「そうかなぁ」と一緒に首を傾げる。
「貴女を守るのに必死なので、そう感じるだけではないでしょうか」
考えた末のピエールの率直な意見に、リュカとビアンカは互いに顔に笑みを張りつけたまま固まってしまった。
「それだけビアンカ殿のことが大事……・」
「あっ! ねぇ、この先にも階段があるみたいよ。行ってみましょうよ」
「本当だ。じゃあ僕が先に行くから、後についてきて」
いかにも今気付いた様子で言葉を発したビアンカと、それに素直に応じるリュカに、ピエールは再び首を傾げた。前方に見える階段にはかなり前から気付いていたはずだと再び口を開けかけたが、プックルに小声で「がうがう」と話しかけられ、ピエールは大人しく彼らの後をついて行くことにした。何やら人間二人の間で、見えない心の動きがあることに、プックルだけは気付いているようだった。
下り階段に向かって進み始める二人の後ろ姿を、ピエールは不思議そうに眺める。プックルに彼らに何か起こったのかと問いかけても、プックルは口笛でも吹くかのようなとぼけぶりで、ピエールには何も話さずにビアンカのすぐ後ろをついて歩いて行った。

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