2017/12/03

水のリング

 

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滝の洞窟の内部に広がる大きな空洞の中を探索していたリュカ達は、前方からふと不思議な風が流れてくるのを感じた。風が起こると言うことは、この空洞からどこか外に通じているということだ。風の出所を探るように、一行は歩みを進めて行った。
進んだ先にあったのは、地面にぽっかりと口を開けた大きな穴だった。洞窟内に棲む魔物の仕業だろうか、地面の一部が崩落しており、長年に渡ってそのまま放置されたようだった。下を覗くと、洞窟の道は続いているようだが、飛び降りるには高すぎるとリュカは皆に他の道を探すよう話をした。
「水のリングが隠されているなら、ちゃんと階段で下りる道があるはずだよ。それを探そう」
「そうですね。プックルなら何とかなる高さかも知れませんが、我々が落ちたら少々の怪我では済まないでしょう」
「近道っぽい気もするけど、仕方ないわね」
そう言って後ろを振り向くと、仲間ではない魔物と目が遭い、ビアンカは思わず息を呑んだ。洞窟のごつごつした天井を背景に、ばさばさと高いところから彼らを見下ろす魔物が三体。鮮やかな緑色の身体に、蝙蝠のような羽の内側は対照的に鮮やかなオレンジ色で、かえってその鮮やかさが毒々しく見えるような気味の悪い魔物だった。口からは長い舌をちょろちょろと出し、顔だけを見るとまるで蛇のようだ。
一気に急降下で近づいてくる魔物に、ビアンカは一瞬ひるみ、その場に立ち尽くした。するとすぐ脇にいたプックルが彼女の様子にいち早く気付き、彼女目がけて飛んでくる蛇蝙蝠の攻撃を横から飛びかかって阻止した。プックルの強烈な爪の一撃を食らった蛇蝙蝠は、そのまま地面を滑るように吹っ飛んだ。
「ぐるるる……」
「ありがとう、プックル。助かったわ」
プックルの助けで冷静さを取り戻したビアンカは、早速戦闘態勢に入る。リュカとピエールもすぐに他の二体の魔物を目で捉えると、ビアンカが攻撃しようとしている一体はプックルとビアンカに任せ、宙に留まる二体の蛇蝙蝠に向け呪文を唱え始めた。
洞窟内に呪文の激しい音が鳴り響く。ビアンカを襲ってきた蛇蝙蝠には彼女の火炎呪文が、宙に留まっていた二体にはリュカの真空呪文とピエールの爆発呪文が炸裂する。ビアンカを襲ってきた一体には火炎呪文が命中し、そこにプックルの追撃が決まり、比較的楽に倒すことができた。しかしリュカとピエールが放った呪文を食らった二体の内、一体が辛うじて生き残り、力なく地面によろよろと下りてくる。回復用に魔力を温存しておきたいリュカとピエールはこれ幸いと、地面に下りてきた蛇蝙蝠に直接攻撃を仕掛けようと同時に駆け出した。次いでプックルも攻撃に加わる。ビアンカは彼らの邪魔にならないよう、再びいつでも呪文が唱えられるよう後方で待機していた。
まずは自分がと、リュカが剣を振り上げて攻撃を仕掛けようとした時、蛇蝙蝠が蛇のような口を大きく開けて妙な音を出した。ガラガラガラと耳障りな音を発し、その息を浴びたリュカとピエールは身体中から感覚が奪われるのを感じた。ゆっくりと地面に倒れ、動かなくなってしまったリュカとピエールに、ビアンカもプックルも唖然としたまま彼らを見つめた。
「ちょっと、二人ともどうしたのよ!」
ビアンカの叫びに近い大声に、リュカもピエールも返事もできず、為す術もない状態だ。ただ仰向けに倒れたリュカがビアンカを見て何事かを必死に言おうとしているのは見て取れる。ビアンカは彼が言おうとしていることが分かった瞬間、憤慨して怒鳴りつけた。
「バカ! 私たちだけで逃げられるわけないでしょ!」
リュカは自分の身体が完全に麻痺してしまったことに気付き、ビアンカとプックルだけでもと『逃げろ』と言おうとしていたのだ。ピエールも同様に、横向きに地面に寝そべりながら無事な二人だけでもと、リュカと同じことを言おうとしていた。
「何だか妙な攻撃を食らったのね。大丈夫、私たちで何とかしてみせるわ」
「がうっ」
窮地に陥ったことでかえって戦闘意欲を増したビアンカを見て、リュカは尚も必死に彼女に逃げろと訴えようとした。ビアンカとプックルまでこの麻痺攻撃を食らっては、その後は魔物の餌食となって、彼らの躯が滝の洞窟に残されるだけだろう。想像するだけで身体中が震えるような光景に、リュカは早く身体の麻痺が消えるよう手に力を込めようとした。しかし指先にも全く力が入らないまま、ビアンカが残る一体の魔物に向かって行くのを息が止まる思いで見つめることしかできなかった。
火炎呪文を唱えるビアンカに、蛇蝙蝠は再び焼けつく息を吐いた。彼女の横から飛び出していたプックルはその息を食らうと一瞬顔をしかめ、突進する動きを止めたが、身体の動きが制御されることはなかった。呪文を唱えるビアンカにも焼けつく息が届き、そのビリビリとした空気に彼女も呪文の言葉を止めてしまった。
「……私がやられるわけにはいかないのよ」
そう呟くと、彼女は目にも見えるような気力で麻痺の効力を打ち破った。為す術もなく、自分の身はさて置いて仲間に逃げろと言うリュカとピエールを守らねばならないと、ビアンカは身体中から気力をほとばしらせていた。
プックルが飛びかかって吹っ飛ばした蛇蝙蝠に、ビアンカは追い打ちのように火炎呪文メラミを放った。炎に包まれた蛇蝙蝠は黒焦げになって地面に倒れ、そのまま動かなくなった。
そこで戦闘が終わったと思い、ビアンカは「ご苦労様、プックル」と言いながらプックルの太い首を撫でた。しかしプックルはまだ低い唸り声を上げ、宙を見上げている。ビアンカが彼の視線を追うと、そこには新たな蛇蝙蝠の群れが姿を現していた。彼女のこめかみから冷たい汗が流れ落ちる。
「どうにかしないと……」
「ビアンカ嬢……」
小さく聞こえた声に、ビアンカはまだ地面に倒れたままのピエールを振り向いた。麻痺の効果が薄れてきたようで、ピエールは微かに動きながらも、ビアンカに指示をしていた。彼が指す方向には先ほど見つけた地面に大きく開けられた穴がある。彼が伝えたいことに気付いたビアンカは迷うことなくそれを実行しようとピエールに近づいた。
「あそこから下に行けば、流石に追ってこないってことよね」
「恐らく……奴らには縄張り意識が……」
「プックル、リュカをお願い。私はピエールを連れて行くわ」
「がうがうっ」
ピエールの身体を拘束していた麻痺の効果が薄れてきた一方で、リュカはまだ言葉を発することができずにいた。ビアンカが自分の身体を持ち上げてプックルの背に乗せるのも、あまり身体に感じないほどだ。二人一組になったビアンカ達を、宙で賑やかにばさばさと羽の音を立てる蛇蝙蝠は注意深く見ている。何か新しい攻撃でも仕掛けてくるのかと、人間と魔物の組をじっと見つめていた。
「プックル、一緒に飛び込むわよ」
「がう……」
落とし穴のすぐ脇まで移動したビアンカとプックルは、そこから下の階を覗いてみた。プックルには着地の自信があったが、ビアンカにはそのような自信はさらさらない。骨の一本や二本は折れる覚悟だ。むしろそれで済めばまだ良いとすら彼女は考えていた。しかしリュカとピエールが麻痺から解放されればすぐにその傷も癒してくれるだろうと、一時の痛みには耐えるつもりでいた。
人間と魔物の組が逃げるつもりだと気付いた蛇蝙蝠の群れは、獲物をすぐに仕留めようと彼らに向かって急降下をしてきた。それを機に、ビアンカは色々と考える余地を失くし、もう目の前の穴に飛び込む以外の道はないと、ピエールを抱きかかえるようにして地面を蹴った。彼女の意志に呼応して、プックルも同時に飛び込む。
プックルの背に乗りながら麻痺から解放されたリュカは、まだぴりぴりとする手をビアンカとピエールに向かって伸ばす。落ちながらもビアンカの身体に手が届いたリュカは、懸命に彼女の身体を引きよせる。四人が一体となって下の階に落ちる中、彼らの周りに見えない守護の力が働いた。それがピエールの唱えた防御呪文スクルトの効果だと分かると、リュカは落ち着いて下の階を見ることができた。そして迫る地面に向かって手を伸ばし、自らも呪文を放つ。地面に向かって放たれた真空呪文は、彼らと地面との間に空気圧を作り、地面に激突する直前、彼らの身体を宙にふわりと浮かせた。
プックルが軽やかに地面に着地し、背に乗るリュカもさほど衝撃を受けることはなかった。彼の片腕に抱きかかえられていたビアンカも、彼女がしっかりと抱きかかえていたピエールも、無事に地面に下りることができた。一瞬の出来事だったが、皆が皆、長い時間を感じていた一瞬だった。
「ああ、良かった。みんな無事なのね」
「良かったじゃないよ!」
ビアンカの安堵の声に、リュカの怒鳴り声が被さった。驚いてビアンカがリュカを見ると、彼は両拳を震わせて彼女を睨むように見ていた。
「あんな高さから飛び降りて、無事に済むと思ってたのか!」
聞いたこともないリュカの怒鳴り声に、ビアンカは身をすくませた。
「どうして逃げてくれなかったんだよ。僕の言いたいこと、分かってたんだろ? ピエールだって、そう思ってたはずだよ」
「そうですね……そうするしかないと思っていました」
リュカの言葉にピエールは素直に同調した。実際、ピエールもプックルとビアンカだけでも無事でいて欲しいと思い、ビアンカがプックルに乗って穴から下に飛び降りることを想定していたのだ。プックルならば彼女を無事に下の階に運べるだろうと、託したのが事実だった。
「分かってたわよ。分かってたけど、そうするわけにいかないじゃない。仲間を見捨てて逃げるだなんて、自分だけが助かったって、その後は何も残らないわ」
「ピエールと僕が呪文を唱えてなければ、今頃君とピエールは……」
そこまで言って言葉を詰まらせたリュカに、ビアンカは掛ける言葉を失った。リュカの目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
リュカは怖かったのだ。大切なものを失う恐怖がリュカを包み、心を凍らせようとしていた。自身が命を落とす覚悟は、心の奥底でいつでもできている。それと同時に、死ぬわけにはいかないとも常に思っている。しかし自分以外の誰かが旅の犠牲になることは、彼の頭の中には思い描けない現実なのだ。誰かが犠牲になるくらいなら、自ら率先してその役を引き受けるつもりでいる。それがリュカだった。
その意識は恐らく、父パパスを失ったその時から芽生え、以来培われてきたものに違いなかった。リュカの心の奥底で、自分はいつ死んでもかまわないと言う自棄な思いが常に存在している。
「みんなが助かる道を探すべきよ。誰がいなくなってもダメなんだから」
リュカのそんな悲しい考えを否定するように、ビアンカは強くそう言い放った。
「そんなのは理想に過ぎない」
「理想を追い求めて何が悪いのよ」
「現実をちゃんと見て行動しなきゃいけないことがあるってことだよ」
「だからってすぐに諦めるのは良くないわ」
「諦めたわけじゃない。君とプックルだけなら助かると思って……」
「それって、リュカとピエールのことは諦めたってことでしょ? そんなの、認められないわ」
「認めるも認めないもないよ。どう考えたってそうしなきゃならない状況だっただろ」
「でも結果的にこうしてみんな助かったじゃない」
「こうなったのは運が良かっただけだ。僕とピエールがまだ麻痺していたら、どうにもならなかったんだから」
「でも……」
そう言いかけたところで、周りの気配が変わったことに気付き、ビアンカは口を噤んだ。同時にリュカも周囲を警戒の目で見渡した。言い合いをしている場合ではない雰囲気が咄嗟に彼らの周りを包んだ。
彼らが落ちた場所にも魔物はいた。上階からの蛇蝙蝠の追撃はなかったものの、今リュカ達を取り囲む猪の顔をした魔物たちは揃って好戦的な顔つきをしていた。手には使いこんだ槍を持ち、プックルよりも大きな身体でのっしのっしとリュカ達に歩み寄って来る。その数は五体。オークと呼ばれるその魔物の群れの向こう側に、洞窟の外に出られる道が続いていた。しかし魔物の群れにその道が阻まれた今、リュカ達に逃げ道はなかった。
「戦うしかないね……」
「察するに、かなりの強敵です。心してかかりましょう」
「ぐるるる……」
リュカ達がすぐに臨戦態勢に入るのを見て、ビアンカも遅れじと呪文の構えを取る。オークたちはその巨体に見合わぬ素早い動きでリュカ達に迫って来る。かなり戦い慣れている魔物のようだった。恐らく、魔物間でも戦いを好むほど、戦闘を好んでいるのかも知れなかった。
戦い慣れているオークたちが初めに狙う標的は、当然一番弱く見える敵だ。すぐに最も弱そうな敵であるビアンカに狙いを定めて距離を縮めてくる。気付けばビアンカはリュカ、ピエール、プックルに周りを囲まれ、守られている状況だった。リュカ達もオークに負けず劣らず戦い慣れているのだと、ビアンカは己の甘さや不甲斐なさに歯ぎしりする思いだった。
「私に構わず……」
「みんなが助かる道を探すべきだって言ってたのは君だよ、ビアンカ」
ビアンカが言おうとしている言葉が分かっているかのように、リュカは彼女の言葉を遮って言う。彼女に背を向けたまま、リュカは自分でも気付いていない本心を口から零す。
「それに……君を失うなんて、考えられない」
そう言うと、リュカは近くにまで迫っているオークに向かって剣で切りつけた。鋭いリュカの一撃にも、オークは難なく槍で応戦してくる。使いこんだ槍は当然のように盾の役割もこなし、次いで素早く槍の先をリュカに突き出す。リュカも父の剣を盾代わりにして、槍の攻撃を薙ぎ払って凌ぐ。それらが一瞬一瞬に閃く光景に、ビアンカはしばし呼吸も忘れて見入ってしまった。
プックルの牙の攻撃もオークには致命傷にならない。むしろ果敢に飛び込んでくるプックルを槍先を向けて待ち構えるような余裕を見せる。オークの肌は分厚い毛と皮に覆われていて、少しの直接攻撃はものともしないようだった。
ピエールも剣で巧みに攻撃を繰り出しつつも、爆発呪文を放つタイミングを窺っている。しかしオークは巨体の割に素早い動きを見せ、なかなか呪文を放つことができない。剣だけで戦うには、五体のオークは苦戦必至の敵だと分かっていた。徐々に劣勢になることを、彼は嫌々ながらも感じていた。
息を切らしながら戦闘が続く中、リュカは再び辺りの気配が変わったことに気付いた。洞窟の外の光が漏れる道から、仲間のオークが姿を現したのだ。既に戦っている五体のオークに加え、新たに姿を現したのは七体のオーク。まだ一体も倒していない今、十二体のオークを相手に戦い、勝利することはかなり難しいと、リュカはこめかみから冷や汗を垂らしながらピエールを見た。
「逃げますか?」
「そうしないと、多分マズイね」
短く会話をするリュカとピエールの雰囲気を察し、プックルが小さな声で「がうっ」と呼びかける。プックルの視線を追うと、そこには上階と同じように地面に穴がぽっかりと空いていた。てっきり逃げ道はオークが姿を現した外に続く道しかないと思っていたリュカは、プックルの頭を撫でるとすぐに地面に空いた穴に向かってじりじりと後退を始める。
「今度もちゃんと無事に下に下りられるようにしないと……」
「皆、プックルにつかまって行くのが良いかと」
「そうだね。プックル、頑張ってくれるかな」
「がうがう」
問題ないと言うように答えるプックルだが、いざ穴から下を覗いてその高さに目を丸くした。先ほど落ちた高さの、悠に二倍はある高さなのだ。リュカもピエールもその事実に気付き、プックルが二の足を踏む気持ちに納得すると同時に、二人も穴に飛び込むことをためらった。
「しかしこれではどちらにしても……」
ピエールがそう言った時、相談する間も与えないと言ったように、二体のオークが同時にピエールに攻撃を仕掛けてきた。一体の槍をピエールが、もう一体の槍をリュカが素早く払い、オークを瞬間的に押しのける。しかしすぐに他のオークたちも呼応するように次々と攻撃を繰り出して来た。もはや相談する余地もない状況に、リュカは「飛びこめ!」と大声で叫ぶと、すぐ後ろにいたビアンカの手を握って、自らも穴に飛び込もうと後ろを振り向いた。
その時、リュカの表情が苦痛に歪むのを、ビアンカは正面から見てしまった。オークの槍を背から受けたのだ。脇腹に感じる激しい鈍痛に、リュカの全身から脂汗が噴き出す。ビアンカが叫び声を上げる。しかしその声はリュカの耳には届かず、ただ彼は必死にビアンカを守ろうと身体を抱きかかえると、ピエール、プックルと同時に穴に飛び込んだ。
凄まじい勢いで地面が迫る。ピエールの防御呪文スクルトの効果は得ていたが、リュカは自ら真空呪文を発することができない。リュカは残る意識で必死に呪文を試みようとするが、全身を支配する激痛に、意識を保つだけで精一杯だった。抱えるビアンカが泣きながら自分にしがみついていることが、リュカの意識を辛うじて保っていた。
地面と思っていた場所に水の気配を感じたと思った瞬間、リュカ達は皆、激しい水しぶきと共に水の中に落ちた。水の中で上も下も分からず、頭も体もぐるぐると回る。水の中でリュカが意識を失ったのを目にしたビアンカは、必死に彼の手を掴んだまま上に見える光を目指して泳ごうとする。しかし自分よりも重いリュカの体重を持ち上げるほどの腕力はない。息が限界に達し、口から漏れる息が光に向かって浮かぶのをぼんやり見つめる。
その時、強い力で光に向かって持ち上げられるのを感じ、ビアンカはその力に負けぬようリュカの手をしっかりと握り直す。見れば自分とリュカを、プックルの大きな身体が支え、水の外へと運ぼうとしていた。
水面に顔が出ると、不足していた空気を一気に補うようにビアンカは大きく息を吸い込んだ。しかしプックルの背の上に乗るリュカは何の反応も見せない。傷の深さと、水を大量に飲んだことで、呼吸を止めてしまっていた。その状況に身体が震えるビアンカだが、気を奮い立たせ、水から上がった所でプックルの背からリュカの身体を地面に下ろす。脇腹からはおびただしい出血が続く。
「リュカ! リュカ! しっかりして!」
「とにかく傷の手当てをします。リュカ殿、こんなところで倒れてはなりません!」
状況をいち早く察したピエールが、すぐさま回復呪文ベホマを唱える。強い癒しの光がリュカの全身を包み、脇腹の傷を塞いだ。出血は止まったものの、リュカの意識はまだ戻らない。呼吸も止めたままだ。
ビアンカは仰向けに寝るリュカの上に乗り、胸に両手を乗せた。回復呪文を唱えることのできない彼女にできる最善の蘇生法を試みようと、両手に力を込めリュカの胸を圧迫する。山奥の村からちょくちょく外に出るビアンカは一通りの救助法を身につけていた。未だかつて実践したことはないが、失いたくない人間を目の前にして、彼女は必死だった。
十数回ほど胸を圧迫した後、リュカが突然水を吐き出した。再び水を飲まないよう、彼の身体を横にする。
「リュカ!」
苦しそうに咳き込むリュカの背をさすりながら、ビアンカは大きな声で彼の名を呼ぶ。うっすらと意識が戻ってきたリュカに彼女の声が届くと、リュカも力なく「ビアンカ……」と名を呼んだ。自分の声に意識が徐々にはっきりとしてくるのを感じ、リュカはぼんやりと見ていた彼女が泣いていることに気付く。ビアンカもピエールもプックルも、自分もずぶ濡れで、プックルが頬を舐めてくるとそれがやけに温かく感じられた。
「僕、もしかして……」
「危ない所でした。ビアンカ嬢の蘇生術が上手く行ったので助かったんです」
ピエールの言葉は冷静に事実を伝えていたが、彼の声は微かに震えているようだった。いつにないピエールの雰囲気に、リュカは自分が本当に死の淵に立たされていたのだと実感した。記憶にない死の淵の記憶は、思っていたよりも怖くも何ともないと感じた。それはあの火山洞窟で炎のリングを見つけに行く際に人食い箱に食らった死の呪文ザキの時と同じような感覚だった。しかし目の前の仲間の様子を見ると、自分の死の恐怖は、自分よりも仲間の方が強く感じていたのだと分かった。
「良かった、リュカ……」
目の前でぼたぼたと涙を流すビアンカは、リュカが死ぬと言う恐怖からは解放されたはずだ。しかし未だ涙を流し続けている。それはリュカが助かったという安堵から出てくる止まらない涙だった。
意識が戻れば、既にピエールに傷の処置もしてもらっていたリュカは身体の痛みも感じず、いつも通り起き上がることができた。身体を起こすと、傍で両膝をついて座るビアンカに手を伸ばし、頬の涙を拭う。
「何だかこの洞窟じゃ、君の泣いてるところを良く見るね」
こう言えば彼女が泣きやんでくれるのではないかと、リュカは本能的にそう感じて言葉を口にした。元来気の強いビアンカには、やや挑発的な言葉をかけるのが良いと、リュカはあえて冗談交じりにそう言ってみた。しかし彼女は一向に泣きやむ気配がない。俯いたまま、尚もしゃくりあげるように、子供のように泣いている。
そんな弱々しい彼女を見ていると、リュカは得も言われぬ不安に駆られた。思い返せば、この滝の洞窟に入ってからのビアンカはどこか様子がおかしかった。山奥の村を出た時には冒険の旅に出られることを喜び、楽しみにしていた。洞窟に来るまでの船旅でも、彼女は広々とした海原を眺めながら、旅を楽しむ笑顔を見せていた。しかし洞窟探索を続けるうちに彼女の表情から徐々に笑みが消えて行き、代わりに彼女は思い悩むように俯くことが多くなっていた。
「……泣かないでよ、ビアンカ」
そう言いながらリュカがビアンカの肩に手を置くと、彼女はびくりと身体を震わせた。まるで怯えるようなその態度に、リュカは素直に戸惑う。そしてリュカから離れるように立ち上がり、ビアンカが息を整えながら荒っぽく頬の涙を両手で拭うと、彼に背を向ける。彼女が自身の全てを隠すように背を向けたのを見て、リュカは訳も分からず息苦しさを感じた。
「ごめんなさい……」
ビアンカが何故謝るのか、リュカには全く分からなかった。彼女は瀕死に陥っていたリュカの命を救ったのだ。謝る理由など、どこにもない。むしろリュカが感謝の言葉を伝えなければならない状況のはずだった。彼女の中に何が隠れているのか、リュカは手の届かないところにある彼女の感情を知りたいと強く思った。
しかしビアンカはリュカから自身の全てを隠したかった。リュカが瀕死に陥っているのを見て、何が何でも助けなければと思った気持ちに間違いはない。彼が助かって良かったと思う気持ちにも偽りはない。しかし彼が助かったことで、また水のリングの探索を続け、彼の結婚の手助けをしなくてはならないと考えると、一体何が自分の本心なのか分からなくなる。リュカが助かって嬉しい、その気持ちで流れたと思っていた涙は、実は彼がまた結婚に向かって進んで行くことを哀しむ涙なのだろうかと、ビアンカは己の中に芽生えて消えない汚い感情を捨て去りたかった。水のリングの探索をしていると言うのに、リングなど見つからなければ良いと思っている。こんな感情があることを、リュカに知られたくなかった。
ふと自分の前に温かな気配を感じ、ビアンカは視線を下に向ける。プックルが青い瞳を揺らして、心配そうにビアンカを見上げていた。プックルの気遣わしげな瞳を見て、恐らくプックルは気付いているのだろうと彼女は感じた。プックルに人間の色恋が分かるようには思えないが、それでもビアンカがリュカを想う気持ちには気付いている。足に身体を摺り寄せてくるプックルの背を撫でると、ビアンカの心も徐々に落ち着いた。しかしまだリュカの顔を正面から見る勇気はなく、ビアンカは彼に背を向けたまま言葉を口にする。
「リュカが平気なら、先に進みましょう。きっともうすぐ見つかるわ、水のリング」
「君は平気じゃないんだろ?」
「何言ってるの。私はリュカたちのおかげで怪我一つないわ」
「そういうことじゃなくて……何か僕に隠してない?」
リュカの鋭い言葉に、ビアンカは思わず自分の心を吐露しそうになる。
「ちゃんと知りたいよ、ビアンカのこと」
素直なリュカの言葉がまるで口説き文句のようで、彼の意図しないその雰囲気にかえっておかしくなり、ビアンカは噴き出してしまった。
「リュカってきっと、天然の女たらしなんだわ」
ふざけてそんな言葉を口にすると、ビアンカはリュカの顔を見られる気がして、後ろを振り向いた。振り向いたところに、眉をひそめるリュカの顔があった。
「どういうこと、それって」
「あなたはあなたが知らない内に女の子を口説いてるのよ、きっと今までにも」
「僕が? 女の子を?」
「そうよ。『君のことをちゃんと知りたい』だなんて言われたら、女の子はきっと口説かれたって思うわ」
「……ビアンカもそう思ったの?」
「私はあなたのお姉さんだから、そんなこと思わないけどね」
予想できたリュカの言葉に、ビアンカは直前に準備していた答えを伝えることができた。自分でも満足の行く偽りの気持ちに、ビアンカはようやく笑顔を見せることができた。
そんな彼女の笑顔を見て、リュカが息を呑んだことに、ビアンカは気付かない。
やっと笑顔を見せてくれたビアンカに、本当だったら自分も笑顔を返せるはずだった。しかしリュカはビアンカの笑顔に、彼女のふざけるような言葉に、応えることができなかった。
彼女が見せた笑みを、初めて可愛いと感じた。今までは客観的にキレイな顔立ちをしているとは思いこそすれ、今リュカが感じた感覚は主観的なものだった。その感覚に気付くと同時に、リュカは胸の辺りが締め付けられるような感覚に襲われた。息苦しいが、嫌な感覚ではない。むしろこの感覚の先に何があるのか、知りたいような気にもなる。しかしそれを知るにはどうしたら良いのか、リュカには分からない。
「ビアンカ」
「何?」
彼女が返事をしただけで、その声が耳の奥の方でこだまするようだった。ビアンカの名を呼んだ理由も忘れて、しばし彼女の顔をじっと見入ってしまった。実際に彼女の顔を見つめていたのは一瞬だったのかもしれない。しかしリュカの中ではその瞬間が時を止めたように脳裏に残り、ビアンカの澄んだ水色の瞳に魔力でも宿っているのかと思うほどの力を感じていた。それは決して威圧的なものではなく、自らその魔法にかかりたいと思うような魅惑的な力だった。
「どうしたのよ。まだどこか具合が悪いの?」
気遣わしげに自分を見上げるビアンカに、リュカは慌てて首を横に振った。するとビアンカは安心したように再び笑みを見せて、リュカに背を向ける。
「それなら先を急ぎましょう。水のリング、早く見つけないとね」
「うん……」
洞窟内の道は先に続いており、幸い魔物の気配はないようだった。ビアンカがプックルと共に先を行く後ろ姿を、リュカは今までに感じたことのないような息苦しさを覚えて見つめる。
「リュカ殿、大丈夫ですか?」
ふとピエールに声をかけられ、リュカはすぐ傍にいた彼に生返事をする。
「うん、大丈夫」
「魔力の使い過ぎで調子が悪いこともないですか?」
ピエールの言葉に、リュカは洞窟に入ってからの魔物との戦闘を思い起こして見た。彼の言う通り、この洞窟内では剣での戦いよりも呪文を使うことが多かった。穴から下に飛び込む時も、真空呪文の使用している。しかし呪文の使い過ぎで身体の調子がおかしいなどということはない。
「そういうことはないみたい。ありがとう、ピエール」
「かなり前に、呪文の使い過ぎで体調を崩した仲間がいましたからね」
ピエールがどこかおかしそうに言う姿を見て、リュカは彼が言った時のことを思い出してみた。まだ東の大陸を旅している頃、神の塔に向かう山道で熱にうなされた仲間がいたことを、リュカもすぐに思い出した。
「それって……ヘンリーのこと?」
「今のリュカ殿を見ていると、どういうわけだかあの時のヘンリーを思い出します。無理をして呪文を唱えているのではないかと、少し心配しておりました」
当時、神の塔に向かう山道で、ヘンリーは覚えたばかりの呪文トヘロスを頻繁に唱えていた。いつの間にか覚えた魔除けの呪文を必要以上に唱えていた理由は、共に旅をするマリアの存在だった。ヘンリーはあの時からマリアのことを好きになっていたのだろう。彼女を危険な目に遭わせないように、絶対に守り抜くためにと、ヘンリーは自分でも気付かぬうちに無理をして呪文を唱え続け、そして熱に倒れてしまった。
「くれぐれも無理はなさらないでください。旅はリュカ殿一人でしているのではありません。私たちを頼ってくださいね」
「十分過ぎるほど頼らせてもらってるよ。ありがとう、ピエール」
ピエールがどうして当時のヘンリーを思い出したのかは分からない。ピエール自身も、良く分かっていないのだろう。しかし魔物である彼は、人間であるリュカよりも雰囲気を察知する能力に長けている。そんなピエールが感じ取った雰囲気は、恐らく何かを見抜いたものなのだろう。
リュカはピエールと共に、先を行くビアンカとプックルを追いかけて歩き始めた。前を歩くビアンカの背中を見ると、早く彼女に追いついて、すぐに隣を歩きたいと思う。しかしそれと同時に、水のリングの探索を続けるに当たり、彼女の隣を歩くのは怖いような気もする。また手を繋いで一緒に歩きたいと思う反面、今までのような感覚で手を繋ぐことはできないような気にもなる。相反する感覚が同時に脳裏を巡り、そのどれもが真実の気持ちであることに、リュカは頭がおかしくなりそうだった。
「……リングを見つけたら、何か分かるかも知れないな」
「何か仰いましたか?」
「ううん、何でもないよ。さあ、早く行かないとプックル達に置いて行かれる」
そう言いながら、リュカはピエールとともに足を速めて前を行く二人を追いかけた。リュカ達の足音が近づいてくる気配に、ビアンカが振り返って笑顔を見せた。可愛らしい彼女の笑顔がまた一つ記憶に焼きつけられたのを、リュカ自身まるで気付かないでいる。



進んだ先には再び広い空洞が広がり、そこには陽の光が岩盤の隙間から幾筋にも伸びて、洞窟内を明るく照らしていた。洞窟を探索していると言うよりも、教会のような神聖な場所を訪れているような気持ちになる。洞窟内の青白く照らされた景色に心が澄み渡るようだった。空洞内には大きな滝の音が響き渡るが、それさえも神々しさを演出するような雰囲気を醸していた。
道は岩盤沿いに続いていたが、大きな滝の裏側を通る道は狭く水浸しで、うっかりすると足を滑らせ滝に飲みこまれてしまいそうだった。
「うわー! なんだかとても神秘的ねっ」
滝の裏側を通る時、滝の向こう側に広がる洞窟の景色が全て滝のカーテンに隠され、代わりに滝の水が受ける太陽の光が透けて見え、一面青白い光に包まれるようだった。洞窟探索を忘れさせ、異世界に来たような雰囲気に、ビアンカは少し立ち止まって滝の裏側に広がる幻想的な青白いカーテンをじっくりと見つめた。そんな彼女の横顔を、リュカは自然と笑みを浮かべながら見つめる。
「でも滝の水しぶきでビショビショになっちゃいそう。気をつけようね、リュカ」
そう言いながらすぐ傍で見上げてくるビアンカから、リュカは何故か視線を逸らしてしまった。まともに視線を合わせたままでは、上手く喋れないような気がした。
「ビアンカはこっち側を歩いて」
彼女の腕を引きながらそう言うと、リュカはビアンカを岩盤側へと移動させた。道の端を歩いて景色を間近に楽しもうと思っていたビアンカは残念そうに口を尖らせたが、素直にリュカの言うことに従う。
「もう迷惑はかけられないものね。危ないことはしないようにするわ」
「迷惑なんて思ってないけど……」
「リュカが幸せになるお手伝いをしたいのに、それを邪魔しちゃ悪いもの。早く水のリングを見つけなきゃね」
穏やかなビアンカの言葉に、リュカは訳も分からず胸をえぐられるような思いがした。自分はこの洞窟で水のリングを見つけ、サラボナに戻り、フローラと結婚する未来がある。天空の盾も手に入れ、父の遺志である母を探す旅をこれからも続けることができるだろう。ルドマンという富豪の後ろ盾も得て、もしかしたらこれまでよりも旅が楽になる可能性もある。
己の現実的な未来を想像すると同時にビアンカの未来にも想像が及ぶ。彼女はこの旅を終えて村に戻り、これまで通りの生活を送るのだろう。父の面倒を見て、村人たちと協力し合いながら仲良く暮らす。山奥の村にはリュカのような旅人も多く訪れる。もしかしたらその旅人の中に彼女の未来の夫となる男が現れるのかもしれない。彼女もいずれは家庭を持ち、あの山奥の村で静かに平和に暮らしていければ、それが彼女の幸せな未来なのだろう。
「ビアンカにも……幸せになって欲しいな」
そう口にしたリュカだったが、自分の言葉に腑に落ちない思いがした。本当に口にしたい言葉はこんなことではない、そう分かっているものの、本当に口にしたい言葉は見つからない。
「何言ってるの。私は十分幸せよ」
すぐに返した彼女の言葉は、紛れもない本心だとリュカにも伝わった。
ビアンカは山奥の村で父と村人たちと日々を過ごし、無事を祈っていたリュカとも再会でき、今はこうして彼と共に夢のような冒険の旅に出ることができたことに、この上ない幸せを感じていた。リュカに恋をしたことにも、ビアンカは喜びを感じていた。たとえひと時の恋であっても、胸が締め付けられるような独特の高揚感を味わうことができ、ビアンカは彼に感謝の言葉を述べたいほどだった。
「大人になってからこんな冒険に出られるなんて思っていなかったもの。連れて来てくれてありがとう」
素直なビアンカの感謝の言葉に、リュカはまるで彼女の言葉を打ち消すように首を横に振る。
「まだ終わってないよ、無事に帰るまで、まだ何にも終わってない。だからそんなこと言わないで」
彼女の感謝の言葉を受け止めてしまえば、何かが途切れてしまうような気がして、リュカは真剣な表情でビアンカにそう告げる。
「どうしたのよ、そんな怖い顔をして。私が素直にお礼を言うのがそんなに嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど……でも、何となく嫌なんだよ、そういうの」
「へんなの」
「とにかく、そういうのは無事に帰ってからにしてくれないかな。今は聞きたくないんだ」
「分かったわ。じゃあお礼の言葉は取っておくわね」
「うん……」
歯切れの悪いリュカの様子に首を傾げながらも、ビアンカは彼の隣を歩く。リュカの向こうには青白い滝のカーテンが広がり、時折角度によって虹色に輝く部分もあり、ビアンカはその景色を目に焼き付けた。滝のカーテンを眺めながらも、ちらりとリュカの横顔を見上げる。幼い頃のあどけなさも少し残しつつも、すっかり逞しい大人の男性に成長した幼馴染は、警戒を緩めずに常に周囲に気を張り巡らせている。まるで自分の視線には気付かない様子のリュカに、ビアンカは安心して彼の隣を歩いていた。
しかしリュカは気付いていないわけではなかった。間近に感じる彼女の視線を、正面から受ける勇気がなかったのだ。彼女の水色の瞳と出会えば、心が落ち着かなくなるのではないかと、仲間の皆を危険な目に遭わせないためにもリュカはビアンカの視線を避けていた。洞窟探索をしている今は常に冷静に行動しなければならないと、リュカは彼女の顔を見たいと思いながらも彼女から目を逸らすようにしていた。
滝の裏側を通り、更に進むと、道が途切れていた。前には水が広がり、一見すると泳いで行かないと進めないような場所にも見えた。しかし透き通る水の中を覗きこむと、水深の浅いところもあり、注意して進めば歩いて行ける道も続いているようだ。長い年月を経て水による浸食が進み、昔は地続きだった道にも水が広がってきているのかも知れなかった。
目を凝らして水の中を覗きこむと、魚がちらほらと泳いでいた。しかし魚だけではなく、水の中には魔物の気配ももちろんあった。慎重に進まなければならない場所だが、ゆっくり進んでいては魔物に足を取られる可能性もあった。水の表面を滑るように移動できるピエールが先に道を確認しながら進み、その後をリュカ達が走って追いかけ、水浸しの道を進んで行った。すぐ傍に魔物の気配を感じることもあったが、幸い好戦的な魔物ではなかったらしく、リュカ達がバシャバシャと激しい水音を立てて走っても、少し気にする程度で水の中から姿を現すことはなかった。
再び地面に上がり、更に続く道を進む。複雑な枝分かれするような道はなく、ひたすら一本道が続く。しかも道は広く、たとえ魔物と戦闘になっても途端に窮地に立たされることもないだろうとリュカは周りを見渡してそう考えていた。それこそオークの大群にでも取り囲まれなければ比較的安全に道を進むことができそうだった。
太陽が西に傾いてきたようで、洞窟内にはオレンジ色の太陽の光が漏れていた。自然にできた大聖堂のような美しい空間に、リュカもビアンカも思わず溜め息が漏れる。しかし互いに言葉を発することはなく、神聖な教会にも似た空気を、表立って共有することはない。
「あっちにまた道が続いてるね」
リュカが指し示す方向には、水浸しの道を挟んで再び陸地になった道が続いていた。他に陸地の道は見当たらず、リュカの指し示す道以外に進むべきところは見当たらなかった。
「行ってみましょう」
そう言いながらピエールはまた先を行き、水の道の状態を確認して進む。昔は陸続きであったと思われる道は幅も広く、いきなり深みにはまる心配もなさそうだった。再び陸地に上がると、また広い幅の道が先に続いていた。分かれ道はなく、まるでここまで探索を続けてきたリュカ達を労い、誘うかのようだった。幸い魔物の気配もなく、リュカ達は景色をゆっくり楽しむ余裕すら見せていた。
徐々に上り坂になる道の先には、もう何度目になるか分からない下り階段があった。何の変哲もない階段だが、下を覗いてみると今まで進んできた道とは違い、光が届かない暗闇が広がっているようだった。
「魔物の気配はないようですが……」
「何だか、今までと様子が違うわね」
「こんな真っ暗な場所、初めてだね」
常に光に照らされ、灯りを必要としなかった洞窟探索だったが、初めてビアンカの火の呪文を必要とする局面に、自ずと期待が高まる。今までの洞窟の雰囲気とは異なる特別な空気に、もしかしたらこの先に水のリングがあるのかもしれないと、口にはしないが誰もがそう期待していた。
リュカは持ってきていた松明にビアンカから受けた火を移し、階段をゆっくりと下りて行った。前をプックルが進み、赤い尾を目印にして周りに火の灯りを向け、暗がりの中の景色を見渡す。特に何もない空間で、何か神聖な空気が漂っているわけでもなかった。ただ真っ暗な空間はごく狭い場所だったようで、すぐに目の前に更に下に下る階段を見つけた。そこからは微かに灯りが漏れ、下の階には再び外からの明かりが差し込んでいるのが分かった。
階段を下って更に下の階に下りると、そこには再び水の景色が広がり、夕陽が差し込む空洞内は松明の火を必要としなかった。リュカは松明の灯りを消すと、煙が昇る松明を手にしたまま魔物の気配に警戒しながら歩いて行った。
「リュカ、あれって……」
ビアンカが小さく呟いて指で指し示す方向には、まるで誰かに開けられるのを長年待っているかのような宝箱が置いてあった。水と仄かに差し込む太陽の光で苔むした宝箱を見て、リュカは神妙な顔つきになる。
「きっと、そうよ。違いないわ」
ビアンカは水のリングとは口にしなかった。しかし彼女が思っている通り、まさしくこの洞窟の宝物が入っていそうな宝箱だ。しかしリュカの中からは警戒の信号が消えない。
それと言うのも、炎のリングを見つける際に一度、宝箱の魔物である人食い箱にまんまと騙されたことがあったからだった。間違いなく炎のリングが入っているに違いないと近づき、開けようとした宝箱に突然襲いかかられ、死にかけたのだ。死の呪文を浴びせられ、一時死の淵に立たされたおぞましくも安らかなあの感触を思い出す。
その経験を共有しているプックルとピエールは、リュカと同じように目の前の宝箱から警戒の目を緩めていない。彼らも当時の記憶を呼び起こし、突然襲いかかって来る宝箱に備えて、戦闘態勢を取っている。もし宝箱が人食い箱だった場合、マーリンがいない今、魔力を吸い取る仲間はいない。即時に倒してしまう必要があると、リュカも剣を構えてじりじりと宝箱に近づいて行く。
「ビアンカは下がっていて」
「どうしたの? そんなに怖い顔をして……」
「もしかしたら魔物かも知れないんだ。君は後ろにさがっていて」
「じゃあ後ろで呪文の準備だけはしておくわ。私だって戦えるのよ」
少々憤慨するように言うビアンカを振り向き見て、リュカは少し心がほぐれるのを感じた。彼女はまだ人食い箱の恐ろしさを知らない。しかしそれがかえってリュカの緊張しすぎた心をほぐした。
「そうだったね。僕たちに異常を感じたらすぐに呪文を唱えて」
「ええ、分かったわ」
ビアンカのしっかりとした返事を聞くと、リュカは落ち着いて宝箱に向かって進み始めた。プックルとピエールも同じ速さで宝箱に向かって行く。
「リュカ殿、異変を感じたら一度すぐに後ろに下がってください」
「うん。みんなもね」
一見すると何の変哲もない古びた宝箱だ。長年、水のリングが収められていそうな年月を感じる。しかし期待が高まるのと同時に、リュカは不安を胸に抱く。それが人食い箱かもしれないと言う不安だけではないことに、リュカは気付いていない。彼の中に、宝箱に水のリングがなければ良いと思う心が潜むのを、彼自身気付かないでいる。
苔むし、じめじめした宝箱の蓋を剣先で叩いてみる。何の反応もないが、魔物はもっと近づいてくるまでじっと待ち続けているのかも知れないと、既に錠が外れている宝箱の口に剣先を差し入れて見た。何の反応もないまま、宝箱の口はリュカの剣先を何事もないように飲みこむ。リュカの記憶では人食い箱にはギザギザの凶暴な歯があるはずだった。
思い切って剣先を跳ねあげ、宝箱の蓋を開けた。中から魔物の鋭い歯が現れることはなく、宝箱は口を開けたまま静かにそこに置かれたままだ。リュカはそろそろと宝箱の中を覗きこみ、中に何が入っているのかを確認する。そこには植物の美しい装飾が施されたごく小さな水差しのような物が置かれていた。水差しの口には同じような植物の装飾が施された蓋がついており、中には薄紫色の液体と葉が一枚浮かんでいた。
「へんね……。水のリングじゃなかったの?」
横から顔を出して来たビアンカが美しい水差しを見ると、何とも言えないような表情をしながらそう呟いた。
「これは何でしょうね。とりあえず持ち帰ってマーリン殿に聞いてみましょうか」
「そうだね。気をつけて持って行かないと割れちゃいそう」
リュカが慎重に持つ水差しはガラス製のように見え、少しでも衝撃を加えればすぐにでも割れてしまいそうだった。注意して腰に下げた道具袋に入れようとした時、水のリングではなかったことからの緊張から解放された思いと共に、リュカは手を滑らせてしまった。剥き出しの岩の地面に落ちたが、水差しは割れることなく、心地よい音を響かせて地面に転がった。どうやらガラスでできたものではなく、何か強度のある素材で作られた容器のようだった。
「ちょっと……気をつけてよね、リュカ」
「うん、ごめん。でも良く割れなかったな」
「とても貴重なものなのでしょうね。それを守るための容器なので、かなり特殊なものなのかも知れませんね」
「それにしてもてっきりここに水のリングがあると思ったのに……。まだどこかに隠された宝の部屋があるのかしら……」
今リュカ達がいる場所も、滝の洞窟を探索してきた者にとっては十分隠された部屋だった。そしてその部屋に置かれた宝箱に入っていたのは美しい装飾の水差し。もしこの場所に隠された宝物が水のリングだと知らない者であれば、この水差しを見つけたところで洞窟探索を終えていただろう。
「もう一度ここを出て探してみよう。ここまで来たんだから、きっとどこかにあるはずだよ」
リュカは地面に落ちてしまった水差しを拾い上げ、道具袋にしまうと、来た道を引き返して行く。その後にピエールが続く。ビアンカはしばしその場に立ち止まったまま宝箱を見下ろしていたが、プックルが足にすり寄って来ると、首を横に振ってすぐにリュカ達の後を追った。



再び大きな空洞に出たリュカ達は、先ほどまで洞窟内を照らしていた夕陽の力が弱まり、洞窟全体が薄暗くなり始めているのを目にした。夕陽が落ちてしまえば、火を灯さない限り洞窟探索を進めることはできない。いつもであれば火を灯して探索を続けるところだが、リュカはむしろここで休息を取っておこうと考えていた。そして明日中に見つからなければ、一度呪文で洞窟を出ようと考えていた。
「暗くなったらまた休まないとね」
「えっ? でももう少し調べて回れば見つかるかも知れないわよ。頑張ってみましょうよ」
「無理は禁物です、ビアンカ嬢」
「そうだよ。第一、ここに水のリングがあるかどうかも分からないんだから」
「絶対にあるわよ。この洞窟にいた盗賊みたいな男だって言ってたじゃない、ここにあるって」
「信用できないよ、あんな男の言うことなんか」
そう言いながら、リュカは盗賊風情の男を思い出し、胃の辺りがムカムカするのを感じていた。
三人が話をする中、プックルはじっと岩の割れ目から覗く夕陽を見上げていた。細く差し込むオレンジ色の陽光はその力を弱め、一日の仕事を終えようとしている。夕陽が落ちるのは早い。見る間に移動する夕陽はそろそろ岩の割れ目からも消えそうだった。
その時、プックルは思わずきつく目を閉じた。見ていた夕陽が突然強い輝きを放ったのだ。ちょうど岩の割れ目が大きく開いていた場所だったのかも知れない。一日の最後の力を振り絞るかのような夕陽の強さが洞窟全体を照らし、プックルだけではなく、直接夕陽を見ていないリュカ達も思わずその強い光に目を閉じた。
再び目を開けると、洞窟は薄暗くなっていると言うのに、何故か太陽の光とは別の光が洞窟内を照らしていた。青白い光の元、それは洞窟内を流れる巨大な滝だった。もう陽の光を浴びているわけではないのに、一度浴びた太陽の光を溜めこんだかのように、キラキラと青白く神秘的に輝き続けているのだ。
しばらく言葉もなく青白く輝く大きな滝を見つめていたリュカ達だったが、滝が光を失い、洞窟全体が一気に暗くなると、リュカは詰めていた息を吐き出した。
「……滝が隠しているんだ」
「守っているのね、大事な宝物を」
あまりにも不思議で美しい光景に、リュカもビアンカも、ピエールもプックルも、そこに水のリングが隠されているのだと確信した。伝説の宝と呼ばれるほどの物なのだ。水のリング自体が強い魔力を持ち、リング自身が強い輝きを放っていても何らおかしいことはない。それが一時の夕陽に照らされ、一日の中でのほんの一瞬、抑えきれない輝きを放ち、滝を輝かせる。そう考えるのがもっともだと、誰もがそう思っていた。
「行きましょう。まだ洞窟内を見渡せるほどの明かりはあります」
そう言ったのはピエールだった。夕陽はまだ落ちておらず、薄暗いながらもまだ少しの間は洞窟探索をするのに不都合はない。しかしピエールの言葉に対して、返事をする者がいない。リュカもビアンカも、ただただ滝をぼうっと眺めるばかりだ。
「どうかしましたか?」
ピエールに顔を覗きこまれ、リュカは我に返ったように瞬きをした。
「そうだね、行ってみよう」
そう言葉にしたリュカだったが、その言葉が自分から発せられたものには感じられなかった。滝の洞窟に入り、水のリングの探索を続け、ついにその在り処を突き止めたかも知れないと言うのに、何故か喜びを感じない。滝の裏側に宝物が隠されているのかも知れないと考えても、それに対する高揚感が得られない。むしろ代わりに何か大事なものが失われて行くのではないかと、リュカは胸中に広がる不安を抑えられずにいる。
「水の中に入らなきゃいけないみたいだけど、なんとしてでも行かないと」
ビアンカの言葉は力強く、すぐにでも水のリングを見つけたいという強い意志を感じた。そんな彼女の意志の力に、リュカの不安は増すようだった。
「ぼうっとしてないで、行くわよ、リュカ」
プックルと共に先を歩きだす彼女の後姿を見ながら、リュカは心が張り裂けそうになる思いがした。水のリングを見つけるために入った洞窟で、ビアンカが水のリングを見つけるために急ぐ姿を見て、リュカは理不尽な不満を抱く。そんなに慌てて行くことはない、急いで行かなくても間違いなく水のリングは滝の裏に隠されている、リングが勝手にどこかへ逃げたりはしないと、彼女の背に言葉をかけたい気持ちに駆られる。しかしそのどれもが言葉にはならないまま、リュカの胸中に渦巻くのみだ。
同時に何故このような思いが自身の中に渦巻くのか、リュカは訳が分からないでいた。洞窟で水のリングの探索を続け、ついにその在り処を突き止めたに違いないという状況で、何を不満に思うことがあるのか、冷静に考えれば自身の中に矛盾が広がっているのが分かった。ビアンカとプックルが共に歩く後ろ姿を見ながら、リュカは胸の中に広がる不安を抱えたまま、ピエールと共に歩き始めた。



膝まで水に浸かることはあったが、透き通った水の中を注意深く見ながら進めば深みにはまることもなく、道はずっと続いていた。先ほどまで歩いてきた陸続きの道沿いに歩き、リュカ達は全ての音をかき消してしまうほどの勢いを見せる大きな滝に向かって進む。まだ距離はあると言うのに、激しく流れ落ちる滝の水しぶきを感じ、リュカは思わず目を細める。もう滝は強い光を失っていたが、まだ洞窟内を照らす夕陽の光を宿し、仄かに輝き続けている。巨大な滝の滝壺がすぐ目の前まで迫って来ると、水の流れが激しくなり、うっかりすると足元を取られて滝壺に引きずり込まれそうになる。リュカ達は壁伝いに慎重に一歩一歩、滝の裏側に向かって進んで行った。
「やっぱり道があったのね」
ビアンカの言葉に、リュカは小さく頷いた。滝のベールに薄く隠されてはいるものの、先に進める道が続き、その先の岩盤には大きな穴がぽっかりと空いている。穴の中から静かに漏れている青白い光は、明らかに太陽の光を借りていない。日中、滝の洞窟内は太陽の光に照らされた青白い光で満ちていたが、夕陽も沈もうとしている今、洞窟の岩盤の中から青白い光が漏れ出ることはないはずだ。
「行こう。間違いなく、あの中にある」
リュカの言葉と共に、一行は揃って滝のベールをくぐりぬけ、滝の裏側に入った。激しい音に全てがかき消される状況で、彼らはもう一言も言葉を交わさなかった。ただ目の前に見える青白い神秘的な光に導かれるように、足を進めるだけだった。
岩盤に空いていた穴の中に入ると、そこには小さな部屋のような空間が広がっていた。入った途端、滝の音が消え、妙に静まり返り、今までの滝の轟音が耳に残るリュカはしばらく耳鳴りのような感覚を味わった。それは他に仲間も同じで、しばらく皆揃って小部屋の入り口で立ち尽くした。
小部屋の景色は、今までの洞窟内の景色とは一変していた。部屋全体がまるで青白い光を宿した宝石でできているかのような、美しい景色が広がっていた。岩盤の代わりに宝石の床と壁が部屋を包み、それら一つ一つが仄かな輝きを放っている。
人の手が加えられているのは明らかで、リュカ達にそう思わせたのは正面に見える石柱だった。石柱は正面の一本を中心に合計五本、半円を描くように整然と並んでいた。石柱を背に、半円の中心には巨大な結晶のような岩がある。岩まではまだ距離があり、その詳細など分かるはずもないのに、皆一様に、その岩の上に乗る小さな輝きを目にしていた。
岩に向かって歩くリュカは、ほとんど歩いている感覚がなかった。ただ目の前に見える小さな青い輝きに吸い込まれるように、ふわふわと宙にでも浮いているような感覚で前に向かって行った。
岩の上に乗る小さな青い輝き、それは紛れもない水のリングだった。台座となる岩の小さな割れ目にはまるリングは、遥か長い時を経て人間を迎え入れた。この場所でどれほどの時を過ごしたか分からない水のリングだが、まるで古びておらず、周りの宝石のような岩盤を従えるほどの輝きを内に秘めている。
「やったわね、リュカ。これでフローラさんと結婚できるはずよっ」
ビアンカの弾んだ口調に、言葉に、リュカは素早く彼女を振り向き見た。彼女はただ穏やかな笑みを浮かべてリュカを見上げている。その目から涙が落ちていることはない。
「……どうしたのよ、そんな怖い顔をして」
リュカは全く同じセリフを彼女から聞いていたのだ。滝の洞窟を散策中、踊る宝石という魔物に混乱呪文メダパニを受けた彼女は、まだ見つけていない想像上の水のリングを手にして、今の祝福の言葉と全く同じセリフを口にしていた。その時、彼女の目からは止まらない涙が溢れていたのを、リュカは鮮明に覚えている。
「どっちが……本当なの?」
「え?」
ビアンカが分からないというように聞き返すが、それに対してリュカも答える言葉を持たない。祝福の言葉を口にしながら涙する彼女と、同じ言葉を口にしながら微笑む彼女。リュカは今、目の前で微笑みを浮かべているビアンカを見て、心の中で未だかつて感じたことのない寂しさを覚えていた。
彼女に祝福の言葉などかけて欲しくなかったのだと、この時初めて気がついた。当初は水のリングを探索することに何も特別な感情を持ち合わせていなかった。ただリングを探さなくては自分は前に進むことができない、父の思いのためにも水のリングを探すことは必要なことなのだと、それだけを考えて洞窟探索をしていた。水のリングを見つけ、フローラと結婚し、天空の盾を手に入れることは、己の人生の中で決まっていることなのだと、そこに感情は宿っていなかった。
しかし今、リュカは今まで胸の内に徐々に育っていた感情が弾けたのを感じた。フローラとの結婚を、誰よりも彼女に祝福して欲しくなかった。むしろ彼女に止めて欲しいとさえ思っている。水のリングを見つけた今、彼女を連れての旅の終わりが見えてしまった。水のリングが見つからなければ、ビアンカとずっと一緒にいられると心の奥底で考えていたことを、今になって自覚する。
山奥の村で再会した時から、もしかしたらこの感情は育っていたのかも知れない。ダンカン宅でビアンカと再会した時、彼女を一人の美しい娘だと思ったのは、もしかしたら既に彼女に特別な感情が芽生えていた証だったのだろうかと、リュカはその時の光景を思い返す。
遡ればいつから彼女のことを特別に思っていたのか分からないほどだった。大神殿建造の地で奴隷としてヘンリーと共に生きていた時も、ビアンカとの思い出を糧に生きている節があった。あの残酷な地から逃れ、ヘンリーと旅をしていた時も、良く彼女の事を思い出し、ヘンリーにその話をすることもあった。彼女との思い出を語るだけで、身体の内から元気が沸いてくるのが不思議だった。
それもこれも、彼女への恋の始まりだったのだろうかと、リュカは揺れる瞳でビアンカを見つめる。しかし彼女がふっと視線を逸らすと、リュカは繋いでいた手を急に離されたような寂しい感覚に包まれるのを感じた。
「リュカ殿、慎重にリングを取ってください。あの火山洞窟のように、リングを守る魔物が現れるやも知れません」
ピエールの言葉はいつも現実的で、その雰囲気にリュカもビアンカも助けられた思いがした。誰かが話しかけてくれなければ、この場でどうしたら良いのか、二人には分からなかった。
「そうだね、気をつけるよ」
ようやく見つけた水のリングをこのまま放っておくわけには行かず、リュカは台座となる宝石のような岩に手を伸ばし、水のリングをそっと手に取った。ピエールとプックルは辺りを警戒しつつも、リュカが手にする水のリングを見つめている。真っ青な宝石を支えるリングと爪の部分は炎のリングと全く同じ作りで、宝石部分には水の力が閉じ込められている。宝石の中にまるで大海原を思わせるような波があり、それはリングの揺れと共にゆっくりと揺れている。リュカはしばらく水のリングの中に収まる不思議な景色を眺めていたが、隣で同じようにリングを見つめるビアンカの視線に気づき、彼女にリングを差し出した。
「ビアンカが持っていてくれないかな」
「え……?」
「君に持っていて欲しいんだ」
リュカに差し出された水のリングを見ながら、ビアンカは思わずリングに手を伸ばしそうになる。しかしその手は途中で宙に浮いたまま止まり、再び下に下ろされた。
「私が持つのは良くないと思うわ。だってこれって結婚指輪になるんでしょう? あなたが持っているべきよ」
「でも僕なくしちゃうかも知れないし」
「指にはめて行けばいいじゃない、指輪なんだから」
ビアンカはそう言いながらリュカが手にする水のリングを見つめるが、リングは小さく、女性用に作られたものなのだろうと察せられた。リュカの指には恐らくはまらないものだ。
「何にせよ、私が持つべきものじゃないわよ。大丈夫、きっとなくなったりなんてしないわ」
「分からないよ。だって、僕だよ?」
「何言ってるのよ、自信持ってよ。それに、このリングだってようやく持ち主が見つかったんだから、そう簡単に消えたりなくなったりしないと思うわ。リング自体、魔力が宿っているみたいだし、せっかく見つけた持ち主にぴったりくっついて来てくれるわよ」
明るい調子でそう言うビアンカだが、どこか頑なにリングを持つことを拒むのを見て、リュカは彼女が困っているのだと分かった。自分の結婚指輪になる水のリングを彼女に拒まれることは、自分自身を拒まれるも同然のような気がして、リュカは胸がえぐられるような思いがした。彼女への恋心に気付いた今、彼女の拒絶の態度にリュカは生まれて初めて女性に振られた感覚を味わっていた。
一方で、ビアンカがそれ以上に傷つきながら必死に言葉を口にしていることなど、リュカには気付く余地もなかった。そんな彼女の足元に、プックルが彼女の心を慰めるようにすり寄っていることにも、リュカは全く気がつかない。
「魔物も出ないみたいだし、早くこの洞窟を出ましょう」
「リュカ殿、脱出呪文をお願いできますか」
「うん……分かった」
既に出口に目を向けているビアンカの後ろ姿を見ながら、リュカは小さくそう呟いた。そもそもビアンカはリュカとフローラの結婚を祝う気持ちでこの水のリング探索の旅についてきたのだ。そんな彼女に恋心を抱いても、彼女を困らせるだけなのはリュカにも想像できた。ビアンカから見た自分はあくまでも弟の域を出ないのだと、リュカは自分自身に言い聞かせるように頭の中で反芻する。しかし繰り返しそう思うほど、息苦しさが増すのはどうしようもなかった。
「みんな僕の傍に来てくれるかな」
「歩いて帰るんじゃないの?」
「洞窟を抜ける呪文があるんだ。この洞窟は道も複雑じゃなかったから、簡単に抜けられると思う」
「そんな便利な呪文があるのね。私にも後で教えてくれる?」
「いいけど……いつ使うつもりなの?」
リュカにそう言われ、ビアンカはこの旅がもう終わりに向かっていることに気付かされた。リュカ達と別れた後は、山奥の村に戻り、今まで通り父と村人たちとの平凡で穏やかな生活に戻るのだ。洞窟脱出の呪文を教えてもらったところで、それを使う機会は恐らく訪れないだろう。
「私だってまたこうして誰かの旅について行くことがあるかも知れないじゃない。その時にそんな呪文が使えたら、誰かさんの旅の助けになるでしょう?」
「また強引について行くつもりなんだ……」
「何よ、その言い方。カンに障るわね」
「君がついて行くとなったら、その誰かもきっと色々と苦労するだろうなぁと思ってさ」
「そ、そりゃあ色々とご迷惑をおかけしたかも知れないけど、でも冒険ってそういうものも付き物よね」
「リュカ殿、ビアンカ殿のおかげで色々と救われたのも事実です。もしビアンカ殿がいなければあの時……」
「うん、分かってるよ。ちょっと言ってみたかっただけだから」
リュカは笑いながらピエールにそう言うと、ビアンカに向き直って改まった調子で言う。
「ビアンカ、ついて来てくれてどうもありがとう。おかげで色々と助けてもらったし……教えてもらったよ」
突然のリュカの素直な言葉に、ビアンカは思わず目を泳がせた。しかし彼から視線を外すと、すぐに冷静になり、答える言葉の準備ができる。
「まだ冒険は終わってないのよ。私は村に、リュカはサラボナに戻るまで気を抜けないんだから、まだそんな『ありがとう』なんて言わないで」
「うん、そうだね。じゃあまた後で言うことにするよ」
ビアンカの強気な言葉や表情に、リュカはもう終わりの見えている彼女との旅を惜しむように、一瞬一瞬の彼女との思い出を脳裏に焼き付ける。
リュカが脱出呪文を唱えると、一行の周りに呪文の効果がぼんやりと現れる。丸く包まれた彼らの身体は地面から浮き、一気に洞窟の中を出口に向かって戻り始めた。初めての呪文の効果に少々怖がるビアンカを見て、リュカは彼女の手を取り、固く握った。こんな時は二度と訪れないのだと、早くも別れを惜しむように手を握り返してくるビアンカの本心には全く気付かないまま、リュカはただ彼女の傍にいられる今を全身で感じようとしていた。

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