2017/12/03
六年分のプレゼント
翌日、リュカは窓際に戯れる鳥のさえずりで目を覚ました。相変わらず外は冬の寒さを残し、リュカはしばらくベッドの中でじっとして、外気に肌を晒さぬように掛布団の中に潜り込んでいた。窓の縁には小鳥が寒さなど感じないかのように元気にさえずり、その声を聞いている限りではまるで春が訪れたかと錯覚してしまいそうだった。
「うーん、でも寒い」
父と旅している時は野宿することもあったというのに、いざこの暖かい家の布団に入れば、それに甘えてしまうのは当然のことだった。リュカは再び眠りに就くことはできないと分かりつつも、ただただ布団の温もりが恋しいばかりに、そこから抜け出せずにいた。鳥たちがリュカと遊びたいと表現しているのか、くちばしで窓をコツコツと叩いても、リュカは「もうちょっと後でね」と布団の中でくぐもった声を出し、返事にもならない返事をするだけだった。
「リュカ、朝だぞ。もうそろそろ起きなさい」
リュカの部屋の前でそう呼びかけると、パパスはドアを開けて部屋の中へと入ってきた。まだ朝早いというのに、父の姿はすぐにでも外に出られるような格好をしていた。父のその姿を布団の中から覗き見て、リュカは慌ててベッドから起き上がった。
「もうそんな時間なの?」
「いや、父さんは今日早めに出かける用事があって支度をしたんだ」
「ねぇ、ぼくはいっしょに行けない?」
リュカが布団を体に巻きつけながらそう尋ねると、パパスは表情を曇らせてしまった。そして息子に柔らかく諭すように言う。
「あと十年もしてリュカが大人になったら、父さんの仕事を少し手伝ってもらおう。それまでは色々勉強して、力をつけておくんだよ」
「うん、ぼくがんばるよ。まほうのお勉強だってがんばるし、お父さんには剣のおけいこをしてもらいたいな」
「そうか。しかしいつまでもそうやって布団にくるまってては、剣の稽古もできないぞ。ほら、冷たい水を一口飲んでみなさい、頭がすっきりするぞ」
パパスはそう言いながら、部屋のテーブルに置いてあった水差しからガラスのコップに勢いよく注ぎいれると、それをベッドの上のリュカに手渡した。リュカは布団の中からおずおずと右手を出し、それを受け取ると、思いの外冷たいコップの温度に一瞬息を呑んだ。しばしそれに戸惑いつつも、リュカは水を一気に喉に流し込んだ。同時に頭の一部が圧縮されるようなキーンとした痛みに苛まれる。
「じゃあ父さんは先に下に降りているからな。一緒に食事をしよう」
目をぱちくりさせている息子に笑みをこぼしながら、パパスは部屋を出て、階段をトントンと下りていった。リュカも包まる上掛けを勢いよく跳ね除けると、椅子の背もたれにかけてあった紫色の外套を手にしてそれを小さな肩に掛ける。そしてまだ窓の外でコツコツと窓を叩いていた鳥に挨拶をすると、ぼさぼさの頭のまま部屋を出て行った。
「坊ちゃんの席はこちらですよ」
一階に下りると、すでに朝食の支度は整っており、リュカの席には白い湯気を立てたミルクが用意されていた。少々高い椅子に登ると、リュカは父とサンチョと合わせて食前の祈りを済ませる。日課の祈りが終わると同時に、リュカは待ちきれないようにミルクを飲んだ。あまりの暑さに目を白黒させながら、舌先を少し火傷していた。
「慌てて飲むからだ。落ち着いて食べなさい、リュカ」
父に諌められると、リュカは素直に頷き、サンチョがすぐに用意してくれた水で口の中を冷やした。しかし火傷は治らず、猫特有の舌のようにざらついた感触が残る。
「そうだ、坊ちゃん。こんな時こそ魔法を使うんですよ」
サンチョが千切ったパンを手にしたまま、小さなこげ茶色の目を輝かせてそう言った。その言葉にリュカはしばし首をひねって考え込んだ。
「ほら、この村に着いた一昨日の晩に、坊ちゃん、ビアンカちゃんと一緒に魔法の練習をしていたでしょう。あの時に使っていましたよね、魔法」
サンチョにそう言われるまで、リュカの頭の中からは自分が魔法を使ったことなどすっかり消し飛んでしまっていた。リュカは言われるままに一昨日の晩の記憶を呼び覚ますと、魔法を発動させたあの時の感覚を両手に思い出させようとした。独特の暖かく柔らかい感覚こそすぐに思い出したが、肝心の魔法の文句が思い出せずに、リュカは眉間に小さな皴を寄せてうんうん唸っていた。
『精霊よ、癒しの風となりてこの痛みを和らげたまえ』
パパスが焼いた卵にフォークを伸ばす手を止め、小さな声でリュカにそう教えた。途端にリュカは顔を綻ばせて、父の言った文句を一字一句間違えずに繰り返した。すると、リュカの手に小さな青白い光が浮かび上がり、魔法の文句通りに癒しの風となってリュカの舌先を掠めた。その直後にはリュカの舌は元通りになり、ざらついた感触はきれいさっぱり無くなっていた。
「うわぁ、ぼくにもケガが治せた」
リュカはそう言いながら、たった今魔法の風を送った自分の手をしげしげと見つめた。そして手を叩いて喜んでいるサンチョに、治った舌をべーっと出して見せた。サンチョは、「さすが坊ちゃんです」と、しきりにリュカの才能に賞賛の拍手を送っていた。そのやり取りを見ながら、パパスは最も満足そうな表情を見せていた。
朝食後、パパスは昨日と同じく村の洞窟へと出かけるべく、常に携えている剣を背中に背負った。村から出るわけではないと言うのに、父がしっかりと装備を固めていることに、リュカはふと疑問を感じた。思い出してみれば、昨日も父は剣を手にして出掛けていった。父が仕事と呼んでいるものは何なのか、リュカはこの時初めて父の仕事について考えを及ばせた。
まだ東の空低く太陽が昇っている最中、パパスは足早に家を空けた。サンチョがパパスの後姿を見送り、留守を一手に引き受ける。時間帯こそ昨日よりは早いが、昨日と全く同じ光景が目の前で繰り返される。リュカはサンチョの隣で父を見送り、北風の吹く中父の姿が小さくなっていくのを見ると、リュカは自分の体がうずうずしてくるのを止められなかった。昨日と同じように紫色の外套を二階から持ってこようと踵を返した瞬間、隣のサンチョに声を掛けられた。
「坊ちゃん、今日はこのサンチョと買い物に行きましょう」
サンチョのその言葉に、リュカは黒い瞳を瞬かせながら彼の方を振り向いた。サンチョはその大きな胴回りに巻きつけてあった前掛けを外してくるむと、それを小脇に抱えて話した。
「昨日、旦那様が話していらっしゃったんですよ。坊ちゃんはもう六歳になるのに、旅を続けているせいで誕生日プレゼントを一度も買っていないとか」
「たんじょうびプレゼント?」
リュカがそう言って首を傾げるのを見たサンチョは、眉尻を下げて微笑を浮かべたまま、一瞬言葉を失くした。しばしの後、サンチョは膝を屈めてリュカに視線を合わせると、その嬉しい行事を説明する。
「生まれてから一年ごとにお祝いをするんですよ。豪華な食事をしたり、その人が喜ぶようなものをあげたり、とっても楽しい日なんです。ですからこれからお店に行って、坊ちゃんが欲しいものをこのサンチョが買って差し上げます。旦那様にもちゃんと許可をいただきましたので」
「ぼくがほしいものをくれるの?」
「ええ、そうです。これからお店に行って一緒に色々見てみましょう。商店街には歩いて二刻ほどで着きますから、今から行ったらゆっくり選べますね」
サンチョの言葉を聞きながら、リュカは想像もしていなかった行事に想像を膨らませた。自分の欲しいものが買ってもらえる、その言葉を頭の中で反芻していたリュカだが、自分の欲しいものが全く考え付かずにそのままたたずむばかりだった。
「とにかくお店に行かないことには始まりませんよね。では出かける支度をしましょう。私が一階で食事の片づけをしている間に、坊ちゃんは出かける支度をしてくださいね。外は寒いですから、いつもの外套を羽織った方がいいですよ」
「うん。何か楽しみだね。ぼく、何か買ってもらえるなんて初めてだな」
リュカが無邪気に笑いながらそう言うのを、サンチョは何とか笑顔で見守っていた。そしてリュカが二階に駆け上がっていく後姿を見ながら、サンチョはこっそりと悲しげな溜め息をついていた。
外に出た二人は連日のように吹く冷たい北風に身を震わせながら、商店街への道を歩いていた。商店街とは言っても所詮小さな村にある店が軒を連ねるだけで、子供向けの商品がおいてあるような店はこれと言ってなかった。
目的の場所に着いた二人は、こじんまりとした商店街をうろうろしながら、リュカの欲しいものがないかキョロキョロと視線を配っていた。そんな折、朝の買い物に来ていた母娘の姿を見た。恰幅のよい黒髪の母に手を引かれたおさげ髪の少女の姿があった。彼女はリュカたちに気が付くと、顔をほころばせて遠くから大きく手を振った。そして魚を選んでいる母の手を強引に引っ張って、リュカたちに方へと駆け寄ってきた。
「サンチョおじさま、こんにちは。リュカと一緒にお買い物?」
「こんにちは、ビアンカちゃん。今日はね、坊ちゃんの誕生日プレゼントを買いに来たんだよ」
「今日ってリュカの誕生日なの? おめでとう、リュカ。七歳になったのね」
「ううん、ぼくのたんじょうびは七月だから、まだ先だよ」
リュカが首を横に振りながらそう言うのを見ていたビアンカは、眉をひそめて小首をかしげた。
「坊ちゃんはずっと旦那様と旅に出ていましたから、誕生日にプレゼントを贈られたことがないんだそうです。ですから今日は坊ちゃんの六年分のプレゼントを買いに来たんですよ」
「まあ、そうだったの。ねぇ、じゃあ私も一緒に選んであげる。六年分かぁ、いいな、いっぱいもらえて」
ビアンカはそう言いながら横にいる自分の母親を見上げた。しかし母はそんな娘の上目遣いに動じることもなく、娘に容赦ない言葉をかける。
「ビアンカの誕生日は秋でしょ。それまで待ちなさい」
「でもリュカは六年分だよ。わたしそんなにもらったことないよ」
「毎年ちゃんとお祝いしてるでしょう。我儘言うとこれからもう誕生日プレゼントはあげないわよ」
「……いいなぁ、リュカ」
恨めしそうにリュカをじっと見ていると、突然サンチョが堪えていた笑い声を上げた。
「じゃあこのサンチョがビアンカちゃんのプレゼントも買ってあげましょう。私はビアンカちゃんのお誕生日をお祝いしてなかったですからね」
「ホント、サンチョおじさま?」
「サンチョさん、あんまりこの子を甘やかさないでくださいな。すぐに図に乗るんだから、この子ってば」
母が溜め息をついてサンチョの行動を止めようとする隣で、ビアンカはすでにリュカと手をつなぎ、一緒に買い物に行く気になっている。そんな娘の姿を見て、母親はさらに大きく肩で息をつく。
「本当に困った娘だよ、あんたは。サンチョさん、本当にいいんですか」
「もちろんです。ビアンカちゃん、坊ちゃんと一緒に何がいいか選んできてくれるかな」
「ありがとう、おじさま。リュカ、行こっか」
リュカが返事をするまでもなく、ビアンカはつないでいた手を引っ張りながらリュカと共に商店街をうろうろし始めた。村の中には北風が吹き、二人の外套を騒がしくなびかせているというのに、二人はそんな寒さなどお構いなしに、店に陳列される商品をゆっくりと観察し始めた。仲良く手をつなぎながら歩いている二人の子供の後姿を、母は困ったように笑いながら、サンチョは平和な笑みを浮かべて見守っていた。
「昨日はちゃんと一人で帰れた?」
店を見て回りながら、ふとビアンカがリュカにそう問いかけた。リュカはそう言われて頷くと同時に、今度はビアンカに問いかける。
「ビアンカは大丈夫だった? こわくなかった?」
「あら、わたしは平気よ。ちょっと遅くなったからママに怒られたけど、それも慣れてるしね」
昨日別れ際にちらと見せた不安な表情など欠片も見せず、ビアンカはからっと笑った。彼女のその表情を見て、リュカもつられて笑っていた。ビアンカはリュカと話をしながらも、店に並ぶ商品に目を向けて、水色の瞳をキョロキョロとせわしなく動かしている。
「うーん、ここにはあんまり欲しいのがないな。アルカパの街に戻れば、もっと色々ありそうなんだけど」
「アルカパのまち? どこなの、それ」
「わたしが住んでる隣町よ。この村よりもおっきな町よ。お店ももっとたくさんあるわ」
そう言いながらビアンカは色鮮やかな赤いリボンを手に取り、自分の透けるような金髪に当ててみたりしている。耳飾とも合わせているのだろう、その色は元気な彼女によく似合っていた。
「リュカは何が欲しいの? 一緒に探してあげるよ」
「ぼくはね、お父さんみたいな強い剣がほしいんだ。それでがんばってお父さんみたいに強くなりたいんだ」
「リュカが剣を持つの? 危ないんじゃないかしら。剣ってものすごく重いのよ」
「へいきだよ。ぼくは男の子だもん。男の子は力だって強くなるんだってお父さんが言ってたよ」
「でもリュカはまだ子供じゃない。大人になれば力も強くなるけど、今はまだ無理よ」
ビアンカの決め付けたような言い方に、リュカはむすっとして、ビアンカとつないでいた手を強く引っ張った。ビアンカは思わぬ勢いに転びそうになるが、リュカは構わずに武器が陳列されている店のカウンターの前に立った。リュカがむきになっているのを見て、ビアンカは不思議そうに首をかしげながら彼と共に武器屋の前に並ぶ。
「いらっしゃい。おや、小さなお客さんだね。今日は何の御用で来たのかな」
「このお店で一番強い武器を見せてください」
リュカが迷わずそう言うと、武器屋の店主は少し驚いたようにリュカを見返した。そしてしばらくリュカの様子を見た後、ぱっと表情を変え、リュカに笑顔で話しかける。
「そうか、パパスさんの息子さんだね。リュカ君と言ったね。この店で一番強い武器を見せてだなんて、お父さんに買い物を頼まれているのかな」
「ううん、ぼくがほしいんだ。だから見せてください」
リュカのはっきりとした物言いに、武器屋の店主は改めて驚いた表情を見せ、カウンター越しにリュカの顔を覗き込んだ。リュカは特に物怖じもせずに、まっすぐに店主の顔を見上げている。隣にいるビアンカがかえって落ち着きなく、手で髪を弄んでいたりした。
「でもリュカ君にはまだ早いんじゃないかな。剣はもう少し大きくなってから……」
「そうよ、リュカ。おじさんの言うとおりだわ。もっと大きくなってからじゃないと、剣なんて持てないわ」
武器屋の店主とビアンカが止めようとする傍らで、リュカは店に並べられていた銅の剣を見てみようと手に取ってみた。それは父が旅の間中常備しているようなすらりと伸びた剣ではなく、刃の長さも父の剣の半分ほどで、手にした重さもさほどではなかった。困惑顔の店主には気が付かず、リュカは銅の剣を父がいつもそうしているように縦に思い切り振ろうと、一度頭上に振り上げた。陽光にさらされ、鈍い光を放つその剣は、リュカの頭上でふらついた。と同時に、リュカの重心も不安定になり、彼は銅の剣を持ったまま尻餅をついてしまった。剣は彼の手から離れ、土の地面に突き刺さっていた。
「リュカ、大丈夫? ケガはない?」
ビアンカが心配そうに傍に寄ってくるのを見て、リュカは恥ずかしさで顔が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを感じた。しかし歯を食いしばって何とか涙を止めると、リュカは少し震える手を地面について、ゆっくりと立ち上がる。店主も心配そうにリュカの顔を窺った後、地面に刺さっていた剣を手に取り、再び店の棚に元のように並べた。
「……ごめんなさい。ぼく、やっぱり剣はいらないです」
「坊やがもっと大きくなったら、きっとこの剣も軽く使えるようになるよ。それまで違うのを持ってたらどうだい。武器だって剣だけじゃないからね」
「そうよ、リュカ。ねぇ、こっちの樫の杖なんかどう? 何だかこれを持ってるとたくさん魔法が使えるようになりそうじゃない。イダイな魔法使いって感じがしてカッコイイわ」
ビアンカがそういって手に掲げるのは、リュカの背よりも少し低いくらいの丈夫な樫の杖だった。リュカはビアンカからそれを受け取ると、剣に比べてその軽さを実感した。先ほどのように上に振り上げても、重心が崩れることもなく、またその硬さは半端なものではなかった。小さな拳で樫の杖を叩いてみると、拳がじんじんと痛む。
「坊ちゃん、欲しいものはありましたか」
リュカが拳の痛みに顔をしかめていると、後ろから近づいてきたサンチョがそう声を掛けた。リュカは後ろを振り向き、手にしている樫の杖を両手で差し出して見せる。
「サンチョ、ぼくこれがほしいな」
「おや、武器が欲しいのですか。樫の杖でしたらそれほど危なくないですし、大丈夫でしょう。他にも見て回りますか」
「ううん、これだけでいいよ」
「まあ、リュカ、もったいないじゃない。六年分おねだりできるんだから、もっと色々見てみましょうよ」
「こらっ、あんたが言うことじゃないでしょ、ビアンカ」
母親に頭を小突かれ、ビアンカは口を尖らせて黙りこんでしまった。ビアンカのすねた表情を見てリュカが笑うと、ビアンカは彼にも口を尖らせたまま怒った視線を向けた。そんな幼い二人の様子を見て、サンチョとビアンカの母もこっそり笑っていた。
「ビアンカちゃんは何か欲しいものがありましたか」
「うーん、あんまりいいのがないのよね。ちょっと気に入った赤いリボンがあったんだけど、でも、こう、ちょっと違うのよね。アルカパにならいっぱいありそうなんだけど」
「アルカパの町はここよりもずっと大きいですからね。そちらで選んでもらったほうがよかったですかね」
「じゃあサンチョおじさま、これから一緒に行きましょうよ。今からなら行って帰ってくることもできる……」
「いい加減にしなさい、ビアンカ。サンチョおじさまはこれからお家で色々お仕事があるのよ。あんたもこれから母さんと一緒にお父さんの看病に行くんでしょう。勝手なことばかり言ってるんじゃありません」
母親にぴしゃりと言われ、ビアンカは再び口を尖らせてうつむいてしまった。しかしその手はしっかりと母親の前掛けをつかんでいる。
「ダンカンさんの病気はまだ治らないんですか」
「薬を取りに行ってくれた薬師さんがまだ洞窟から戻らないみたいでね。なにせ洞窟の中に薬剤の用具を全部おいて、その場で調合をするんだそうだね」
「それにしても時間がかかりすぎですよね。もう洞窟に入ってから二日経つんじゃないですか。かなりマイペースな薬師さんだとは言われてますけど、そこまで時間のかかるものじゃないと思うんですけどね」
サンチョが思案している表情を見上げて見たリュカは、買ってもらったばかりの樫の杖を両手に持ちながら、同じように考え込むように首をひねった。少年の正面ではビアンカが母の前掛けを掴みながら、いまだうつむいたまま水色の瞳を地面に落としている。
「あんまり長いこと戻らないでいると、主人が怒り出しますので。ビアンカ、そろそろ行きますよ」
「はーい、ママ」
母親が宿に戻ろうと促すと、ビアンカは意外にも素直にいつも通りの返事をした。買い物かごを腕にかけている母親のスカートの裾をつかみながら、リュカに笑顔でバイバイと手を振る。
「また一緒に遊ぼうね、リュカ」
「うん。またね、ビアンカ」
「どうもお世話になりました、サンチョさん」
「いえいえ。でも結局ビアンカちゃんには何にも買ってあげられなかったね。ごめんね、ビアンカちゃん」
サンチョがかがみこみながらそう言うと、ビアンカはお下げ髪をゆらゆらと揺らしながら首を横に振る。彼女らが宿屋へと戻っていく後姿を見ながら、リュカの頭の中では先程のビアンカの褒め言葉がこだまする。『イダイな魔法使いみたいでカッコイイ』、その言葉にリュカは笑みを浮かべると、手にしている樫の杖をぶんぶんと振り回した。
「ねぇ、サンチョ、ボクかっこいい?」
「坊ちゃんはいつでもかっこいいですとも」
サンチョの言葉に更に気をよくしたリュカは、しっかりと握り締めた樫の杖を振り回しながら、まだ買い物をしようとするサンチョの後を付いて行く。
「坊ちゃん、もし退屈なようでしたら、昨日みたいにお散歩してきてもよろしいですよ。あとは今晩のおかずを買ったりするだけですから」
サンチョの提案にリュカは素直に頷き、買ってもらったばかりの樫の杖を大事そうに握り締めたまま、村の中を歩き始めた。朝早くに商店街で買い物をしていたため、まだ太陽は真上に昇りきるずいぶん前だった。時期的にはとっくに春の気配が村中を包んでもいい頃なのだが、辺りを覆う草は寒さに縮こまり、春の象徴である花々は蕾を膨らませていない。しかしリュカは村を覆う寒さなどものともせずに、紫色のマントを翻らせ、風を切って村の中を歩いていた。
しばらく歩き、村一番の大きな橋を渡ると、右手には大きな宿屋の建物が見えた。旅人を迎える扉は教会のものよりも大きく、この小さな村にはいくらか不釣合いな感じもした。この宿屋には先ほど分かれたばかりのビアンカも泊まっている。リュカは宿屋の前まで行くと、ビアンカを誘おうと扉に手をかけようとしたが、ビアンカが母親のスカートを皺にして掴む手を思い出し、扉から手を離した。
「ビアンカのお父さんは病気なんだ。お父さんのこと、心配なんだよね」
リュカは小さな声でそう呟くと、宿屋の大きな扉から離れ、一人で散歩を続けようと、土手沿いにその大きな宿屋をぐるりと回っていった。高台から川を見下ろすと、太陽の光を受けてきらきらと宝石のように輝いていた。昨日ビアンカが怖がりながら帰っていった真っ暗な道と同じとは思えないほど、川沿いの道は明るく穏やかに照らされていた。
宿屋の裏手に回ると、リュカはそこに川沿いへ降りる階段を見つけた。石や木で作られたような階段ではなく、人が上り下りするために簡易的に土を段々に固められただけの階段だった。リュカはその階段を軽やかに下りていき、目の前できらきらと輝く川を見つめる。気持ちよさそうだったので、川の水に触れてみたが、まだ冬の寒さが残る季節、リュカはその冷たさに水の流れに任せそうになった手を思い切り引き上げた。入ってきたと思ったら引っ込められた子供の手に、川の中を優雅に泳ぐ魚が驚いていた。
階段を下りた正面を眺めると、昨日ビアンカと別れた渡り橋が見えた。川を挟んだ左手には昨日話をした老人の小さな家がある。それらを確認したリュカは、ふと自分の後ろを振り返り見た。
後ろには川沿いに続く道がずっと伸びており、先の方は丈高い草が道を覆っている。樫の杖で草を掻き分けながら、リュカはその草むらに分け入っていった。草むらはずっと続き、その高さも徐々に高くなっていく。自分の胸の辺りまで覆う草に辟易しながら、リュカは単なる好奇心で道が続く限り進もうと歩いていった。
「おや、坊や、こんなところに何の用だい」
草をかき分けるのに必死になっていたリュカは、突然頭上から響いた野太い声に驚いて、思わずその場で飛び上がった。見上げると、目の前には剣を肩に担いだひげ面の男が立っていた。
「この先には洞窟があるだけで、他には何にもないよ」
男が言う『ドウクツ』という言葉に、リュカの黒い瞳が輝いた。父はきっとこの先の洞窟で仕事をしている、とリュカは決め付け、満面の笑顔をその男に向けた。
「おじさん、ありがとう。じゃあ、ボク行ってみるね」
「行くって、おい、そっちは洞窟しかないって……」
男の言葉などこれっぽっちも聞かずに、リュカは再び草を分け入りながら川沿いの道を進み始めた。丈高い草に阻まれながらも草の上を滑るように移動するリュカの紫色のターバンは、さながら水辺をすいすいと移動するアメンボのようだった。まさか一人で洞窟には入らないだろうと、男は手にしていた剣を両手に持つと、中断していた剣の稽古を再開した。
山の斜面が高く高く立ちはだかる手前に、洞窟が川の水を飲み込むようにぽっかりと口を開けていた。リュカの身長の何倍も高いその洞窟の入り口を見上げ、彼はあんぐりと口を開けてじっと見つめていた。洞窟の中からは外気よりもひんやりとした空気が流れているようだった。漂うその冷たい空気にリュカは身を震わせるが、父がこの先にいると考えるだけで、彼を動かすには十分な動機が揃っていた。目を凝らすと、洞窟の内部にはところどころ明かりが灯され、明らかに誰かが通った形跡が見て取れた。
「村の中のドウクツだから、マモノは出ないって言ってたよね」
まるで自分の隣にいるように話すリュカだが、もちろんそれに答える幼馴染の少女の姿はない。リュカは散歩の延長のような軽い気分で、洞窟の中へと足を踏み入れた。