2017/12/03

父の目的

 

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村に帰郷して翌日、昨日と同じように空は晴れ渡っていた。白い薄雲が空にかかって多少空の青さを弱めていたが、天候が良いことには変わりなかった。旅の疲れから開放されたこともあり、リュカはその日の昼近くまでぐっすりと眠っていたようだった。起き抜けに窓から見えた太陽が、やたらと大きく感じたのはそんな時間に起きたせいかもしれない。
「坊ちゃん、おはようございます」
リュカの寝起きに合わせるようにして部屋に入ってきたサンチョは、その丸っこい顔に笑みを浮かべてリュカのぼんやりとした寝起きの顔を見ていた。寝癖もひどい少年の黒髪を、サンチョは何かを懐かしむように見ている。
「うん、おはよう、サンチョ。お父さんはどこ?」
「旦那様は隣の部屋で調べ物をしてらっしゃいますよ。ところで朝ご飯は召し上がりますか」
「うん、おなかペコペコ」
「では朝ご飯、と言ってももうお昼ご飯になりますかね。すぐ暖めますからちょっとお待ちくださいね」
にこやかにそう話したサンチョは横に大きい体を揺らして階段を下りていった。リュカは再び閉じそうになる瞼を必死にこじ開け、両手を挙げて息を詰めて思い切り伸びをすると、ベッドから飛び起きる。そしてあまりの肌寒さに思わず実を奮わせた。椅子の背もたれに掛けてあった紫色のマントを小さな手に取り、それを体に巻きつけると、リュカは大きな欠伸をしながら階段を下りていった。
暖炉がともる一階にはサンチョが用意してくれた暖かい昼食が、テーブルの上にずらりと並べられていた。リュカはこれほど豪勢な食事を旅の最中もあまり目にしたことがなく、不安な表情で料理を運んでくるサンチョを見上げる。するとサンチョは笑いながらリュカに語りかける。
「大丈夫ですよ、坊ちゃん。このサンチョめも一緒に食事を取らせていただきますから。私にかかればこの量の食事もあっという間にやっつけてしまいますからね」
「よかったぁ。とってもおいしそうだけど、ぼく一人じゃ食べきれないなって思ってたんだ」
まだ寝ぼけ眼のリュカがそう言うのを聞いて、サンチョはリュカの向かいの席に着くと、笑いを隠さずにリュカにスプーンとフォークを取ってやった。そして二人で同時に食膳の祈りの言葉を口にすると、リュカは待ちきれないような落ち着きない表情でスープをすくった。
食事を終えた頃はすでに昼を過ぎ、リュカはずっと二階から降りてこなかった父の元へと足を運んだ。部屋の扉をノックしても何の返事も返ってこず、リュカは静かにドアを少し開けてみた。父はドアに背を向けて、じっと考え事をしているようにこめかみに拳を当てながら、肘を机についていた。本のページをめくる音とドアのきしむ音が重なり、パパスは後ろを振り返った。
「リュカ、今日はずいぶんと寝坊だったな」
「うん、ごめんなさい。お父さん、何してるの」
「父さんはちょっと調べものがあってな。もう少ししたらちょっと出かけてくるが、お前はいい子にして待っているんだよ」
「ぼくは一緒にいっちゃダメなの」
「父さんはお仕事で出なきゃいけないんだ。サンチョと一緒にお留守番できるだろう」
「うん、分かったよ。……ふわぁ、でもまだ眠いみたい。もう少し寝ようかな」
暖かい食事を終え、午後の陽だまりの部屋にいれば、自然と眠気が襲ってくるのは無理もなかった。目をごしごしとこすっているリュカに、パパスは開いていた古びた本を閉じ、椅子の背もたれに腕を掛けながらリュカに言う。
「昼間にそんなに寝てしまったら、夜眠れなくなるぞ。夜ちゃんと寝ない子供のところには怖いお化けがくるんだ」
「お化け? いやだよ、ぼくお化けなんかにあいたくないよ」
「じゃあ今は起きていなさい。今日はいい天気だから村の中を散歩するのもいいかもしれないな。村の人たちはみんなお前を知ってるから、一人で散歩に出ても平気だぞ」
「うん、そうしようかな」
「ひとまずその寝癖を直してきなさい。それと冷たい水で顔を洗うと、その眠そうな顔もすっきりするぞ」
パパスに言われた通り、リュカは階下に降りると、サンチョに桶へ水を汲んでもらって顔をばしゃばしゃと洗った。あまりの冷たさに身を震わせ、リュカはサンチョに渡されたタオルにしばらく顔を埋めていた。そして火の絶えない暖炉に当たると、リュカの鼻と両頬はあっと言う間に赤くなった。
「サンチョ、留守を頼む」
「はい、旦那様。行っらっしゃいませ」
一階に降りてきたパパスは、旅をして来た時と同じように背中に剣を背負い、腰に道具袋をつけ、まるでこれから村の外にでも行くような格好をしていた。父のその姿を見て不安な面持ちを見せるリュカに気づかず、パパスはそのまま家を出て行ってしまった。父の背中を見送った後、リュカはすぐ隣にいるサンチョの顔を見上げた。サンチョは笑顔のまま首をかしげてリュカを見下ろしている。
「どうかなさいましたか、坊ちゃん」
「ううん、何でもない。ぼくちょっと上に行ってるね」
リュカはそう言うと、階段を駆け上がって自分の部屋へと一度戻った。転びそうになりながらも二階へと消えてしまったリュカの姿を見送ると、サンチョは水汲みに行こうと、鼻歌交じりに玄関前の井戸へと足を運んだ。
二階の部屋の窓からリュカは身を乗り出して父の姿を探した。村はそれほど広くはないため、リュカの家からも村の様子をほとんど窺うことが出来た。あまり多くはない人が行き交う中、リュカはすぐに父の背中を見つけた。父はすれ違う人々と挨拶を交わしながら、西に傾き始めた太陽と同じ方角へ歩いていく。
やがて父は正面を花で飾られた教会の前にたどり着いた。教会前で一度立ち止まると、父はその重い扉を開いて、教会の中へと姿を消した。教会前では小さな女の子が猫と一緒に遊んでいるようだ。しばらくその光景を窓から見ていたリュカだったが、父の姿はなかなか教会から出てこない。
「お仕事って教会でだったのかな」
その後もじっと父が出てくるのを待っていたリュカだったが、父が一向に現れないのを見ると、居ても立ってもいられなくなり、紫のマントをいつものように羽織って肩のボタンを留めると、今度は階段を駆け下りていった。玄関のドアを開けると、サンチョが井戸の前で村の人と何やら話をしているのが見えた。二人で肩をすくめて「今年の春はまだまだ来ないんですかね」などと、晴れた寒空の下で話し込んでいる。井戸から汲み上げられた水は、桶に移されてからずいぶんと時間が経っているようだ。リュカは紫のマントを翻してその二人の脇を通り過ぎようとした。
「おや、坊ちゃん、お散歩ですか」
「うん、ちょっと行ってくるね」
「このサンチョもお供いたしましょうか」
「ううん、ぼく一人でだいじょうぶだよ。お父さんもだいじょうぶだって言ってたもん」
「そうですか。ではお気をつけて行ってらっしゃいませ」
お辞儀をしているサンチョにリュカは手を振って、「いい子でお留守番しててね」と言うリュカは、サンチョと彼と話をしていた村人の笑いを誘っていた。
土の中から見え隠れしている石畳の上をリュカは歩き続け、父がまだいるであろう教会に向かって進み続ける。途中、リュカを見知った人々に会い、少し話をしたりしたが、それでも広いとは言えない村の中で父に追いつく自信は揺らがなかった。
石畳の道が導いてくれる父へ続く道の途中で、買い物籠を下げた親子連れに会った。その女の子はリュカの顔を見るなり、金髪のお下げ髪を元気よく跳ねさせながら走ってくる。
「リュカ、どうしたの一人で。パパスおじさまは?」
「お父さんはお仕事で今いっしょにいないんだ。ぼくはお散歩してるんだよ」
「あら、一人でお散歩してるの? じゃあ私が一緒に付き合ってあげる。リュカ一人じゃ危ないもの」
「だいじょうぶだよ、ここの人たちってとっても優しくしてくれるんだ。だから一人でもだいじょうぶ」
「ううん、そうじゃなくてここには崖もあるし川だって流れてるでしょ。だから子供一人じゃ危ないわ」
ビアンカが自分のことを子ども扱いすることに、リュカは下唇を突き出してむすっとした表情を返した。
「この子ったらすっかりお姉さんぶっちゃって。リュカ君、ビアンカはね、ただリュカ君と一緒にお散歩したいだけなのよ。そうでしょ、ビアンカ」
「そんなこと、そんな……そうだけど。そうよ、ねぇリュカ、一緒にお散歩しよう。いいでしょ?」
「初めからそう言えばいいでしょうに。全く見栄っ張りなんだから」
そう言いながらビアンカの母は娘の頭を軽く叩くと、次には両膝を折ってリュカに視線を合わせた。リュカはサンチョと同じようにふっくらとしたその顔をまじまじと見上げると、膨らませていた頬をすぐに直した。
「リュカ君、こんなお転婆娘だけど一緒に遊んであげてくれるかい?」
「うん、いいよ」
「まぁ、何よリュカったら。私おてんばなんかじゃないわ。お手手つないであげようと思ってたのに、もうつないであげないんだから」
母の言葉に同調したリュカに腹を立てたビアンカは、深緑色のマントをばさりと音を立てて踵を返し、さっさと一人道を行ってしまった。あっと言う間に遠くなる幼馴染の姿に慌てたリュカは、すぐに追いかけるように駆け出していった。ぴょこぴょこと跳ねる金色のお下げ髪からも彼女がへそを曲げているのが分かる。リュカはビアンカに追いつくと、すぐに彼女の手を握って一緒に歩き始めた。リュカが謝ったのか、ビアンカの機嫌がすぐに直り、二人は楽しそうに散歩の続きを始めていた。そんな二人の後姿を見送りながらビアンカの母はにこやかに溜め息をついていた。そして二人に背を向けると、教会から譲り受けたお守りを握り締め、薄く広がる青い空を見上げた。まだ冬の風が吹く中、肩をすくませてビアンカの母は村の宿屋へと戻っていった。



「パパのお薬を取りに行った人がまだ帰ってこないみたいなの」
ちょうど道を左に曲がって教会が見えた頃、ビアンカがリュカにそう話した。リュカの手を引きながら、ビアンカは不安な面持ちで前に続く道を見つめている。
「帰ってこないって、どこへ行ったの?」
「この村にある洞窟にそのお薬を取りに行ったみたいなんだけど、昨日取りに行ったっきり戻ってこないんだって」
「昨日から? じゃあそのドウクツってとっても広いのかな」
物心付く前から父と旅をしてきた少年の発想は、街の中でずっと平和に暮らしてきた少女の発想とはかけ離れていた。ビアンカはリュカのその発想に驚き、そうかと納得すると、途端に表情を明るく変えた。
「広い洞窟ってそんなに時間がかかるものなの?」
「うん、ぼくもお父さんに連れて行ってもらったことあるけど、何日かずっとお空を見れなかったこともあるよ。とってもつかれたけど」
「いいなぁ。わたしもそんな洞窟に行ってみたいなぁ」
薬師が無事だと決め付けたビアンカは、先ほどまでの不安な面持ちはどこへやら、目を輝かせながら街や村の外への憧れを前面に出していた。手を繋いでいるリュカの手をぶんぶんと振り回しながら、ビアンカは期待を込めた目でリュカを見る。一方リュカは目の前に見えてきた教会の扉に目をやりながら、今にも父が出てくるのではないかとじっと見続けていた。しかしその重々しい扉はずっと動かずに、教会前の花壇に水遣りをしている女の子を見守っている。その子の足元ではネコがじゃれついている。
「お薬取りに行った洞窟って村のどこにあるのかしら。リュカ知ってる?」
「ううん、知らないよ」
「そうよね、リュカは昨日村に来たばっかりだもんね」
明らかにがっくりと肩を落として、繋いでいるリュカの手にも伝わるほど気落ちしたビアンカは、今度は何やら悩むように首をかしげている。目まぐるしい幼馴染の変化に、リュカは今度は何だと言わんばかりにビアンカの様子を窺い見る。リュカのその視線に気が付いたビアンカは、その視線に返すようにリュカの黒い瞳を覗き込むと、すぐに笑顔を見せた。
「ま、いいか。でも見つけたら絶対に探検したいな。その時はリュカも一緒に来る?」
「でも、ドウクツにはマモノが出るからあぶないよ。子供だけで行っちゃいけないんだよ」
「大丈夫よ。村の中の洞窟だもの、魔物なんて出ないわ」
ビアンカにそう笑い飛ばされると、リュカは恥ずかしそうに肩をすくめてうつむいてしまった。ビアンカはリュカのそんな様子には気が付かず、教会の前を通り過ぎようとする。しかしその彼女の手を引っ張って、リュカは教会の大きな両開きの扉の前で立ち止まった。
「さっきお父さんがここに入ってくのを見たんだ。だからぼく、ちょっと探してくるね」
「パパスおじさまが? わたしも一緒に行くわ、リュカ一人じゃ大変でしょ」
二人は繋いでいた手を離して、両側からそれぞれ重い扉を開けた。風雨に晒されて古びているのか、軋む音も大きく響き、教会内で祈りを捧げている人のうち、二、三人が後ろを振り返った。開けた扉から逆光に照らされた小さな影を二つ目で確かめると、彼らは再び十字架に向かって手を合わせた。
小さな村の教会はそれほど広くはなく、入り口からざっと全体を見渡すことが出来た。リュカが背伸びをしながらキョロキョロと遠くまで見渡している横で、ビアンカは教会を彩るステンドグラスをじっと見上げている。ちょうど西向きの彩り豊かなステンドグラスが陽光を直に取り込み、まるで宝石のような眩い光を放っている。ビアンカは立ち止まって、赤や青や黄色にきらめく装飾窓を、それにも負けないくらいきらきらした空色の瞳でじっと見つめていた。
「ビアンカ、お父さんはいないみたい……って、どうしたの」
教会に入った目的を忘れて窓を見上げていたビアンカは、リュカのその言葉にふと我に返って彼を振り向き見た。
「あら、でもさっき教会に入っていったって言ってたよね。じゃあ、神父さまに聞いてみようよ。きっとパパスおじさまのこと知ってるわ」
不安そうに自分を見上げるリュカを見て、ビアンカは何事もなかったように笑顔を見せると、リュカの手を取って教会の中を歩き始めた。しかし彼女が頼みにしていた神父はちょうど村人と話しこんでおり、言わば彼の仕事の真っ最中だった。しばらく村人から解放されそうもない神父の様子を見て、二人は困惑顔で再び教会の中を見渡した。そんな折に奥の部屋から出てきた一人のシスターとリュカはふと目が合った。少年のその視線に気が付いたシスターは、にっこりと微笑むと彼の方へと歩き近づいてきた。
「どうしたの、坊や。お姉ちゃんと一緒にお祈りしに来たの?」
「お父さんを探しに来たんだけど、ここにはいないみたい」
リュカの独り言のような言葉を聞いて、シスターは微笑んだ顔のまま首を少し傾げて見せた。そのシスターの様子を見て、ビアンカが補足説明をする。
「パパスおじさまを知ってますか? さっきまで教会にいたみたいなんだけど、来てみたらいなくなってて。どこに行ったか知ってたら教えてください」
「ああ、パパスさんの息子さんね。名前は、リュカ君と言ったわね」
シスターの言葉にリュカはただうんと言って頷いて見せた。シスターは二人を教会の最後列の長椅子に座らせると、自分もリュカの隣に腰を下ろした。外は日差しが出ていくらか暖かいと言うのに、教会の中は時折白い息が出るほど寒い。腰を下ろす長椅子もひんやりとしていて、二人は思わずその冷たさに飛び上がりそうになっていた。
「確かに先程までいらっしゃいましたよ、パパスさん」
「そうなんだ。それでどこに行ったか知ってる?」
「私も直接聞いた話ではなく、パパスさんが神父様とお話しているのを、少し立ち聞きしてしまったんですが。何やら村の北にある洞窟の様子を見てくるっておっしゃっていたようですよ」
シスターの洞窟と言う言葉に、ビアンカの空色の瞳は再び輝きを集めた。ビアンカのその様子にリュカは少なからず不安を覚えたが、父の目的地を教えてくれたシスターに一先ずお礼を述べた。シスターに促されるまま、二人は前方の祭壇に飾られている十字架に向かって手を合わせ、お祈りをした。
父パパスは旅に出る前に必ずこうして村や町の教会を訪れ、神の加護を得るためだろうか、祈りを捧げていく。まだ六歳のリュカも父のその習慣にはさすがに気が付いていた。村や町に寄れずに野宿を強いられる時も、父は手で十字を切り、まるで目の前に祭壇があるかのように神に祈る。しかし父は祈りの言葉を口にはせず、ただ無言で長い時間目を瞑り、リュカの与り知らぬ祈りの文句を胸の中だけで唱えていたようだった。父のその表情がやけに真剣で、時には険しくなっていたことをリュカは思い出していた。
教会を後にした二人は、とりあえず今来た道の逆方向へと歩き始めた。正面からは西に傾きかけた日差しが柔らかく二人を照らしていたが、風の冷たさに二人はそれぞれ外套を内側から両手でしっかりと巻きつけて、風から身を守っていた。
程なくして土手を下って川に続く階段をみつけたビアンカは、リュカに下りてみようと誘い、作られてから相当の年月が経過している木の階段を下りていった。川岸に降り立ったリュカは、川の水面が陽にきらきらと照らされ、川の本当の色が分からないくらい白く波打っているのをじっと見つめた。傍らでは、ビアンカも同じように川の眩しさに目を細めている。
ふと太陽の方向に人の気配を感じ、リュカはその方向を見やった。そこには彼ら二人と同じように、川を見つめている老人の姿があった。老人は樫の杖をつきながらも、二人の子供にはとんと気が付かない様子で、たださらさらと流れ行く川に目を落としていた。リュカは川に魚でもいるのかと、再びきらきらと光る水面に目を落としたが、無色透明な川の中にはまだ冬の寒さから目覚めた魚は見当たらなかった。
「ねぇ、ビアンカ、あのおじいさんに聞いてみようよ。ドウクツがどこにあるのか知ってるかもしれないよ」
「そうね、じゃあ行ってみよっか」
ビアンカはそう言うと、危ないからとリュカを川岸から遠ざけ、代わりに自分が川岸側を歩き始める。川の流れこそ穏やかだが、その深さは二人の背丈などゆうに越えている。普段母親が自分にすることを真似て、ビアンカはリュカの保護者気分で誇らしげに歩いていった。
間もなく老人の住まう家の前まで来ると、じっと川に目を落としていた老人はようやく二人の気配に気が付いたように、ゆっくりと顔を二人へ向けた。しわくちゃの顔で、真っ白な眉毛が目の上にかぶさり、老人の瞳の様子はよく窺えない。果たして目の前の二人が見えているのか不安になるほど、老人の瞳がいったい何色をしているのかさえ分からなかった。
「おや、君はパパス殿の息子じゃな」
突然自分のことを名指しに近い状態で呼ばれ、リュカはほとんど無意識に身を引いた。自分たちのことが見えているのか確認している時に、相手方から自分の名を呼ばれたも同然のことをされたのだ。驚くのも無理はなかった。
「パパスおじさまを知っているんですね」
大した衝撃も受けていないビアンカは、その老人の言葉に顔を輝かせて問いかけた。老人は真っ白な眉毛に隠れた目を向け、ビアンカに答える。
「そりゃあ知っとるとも。この村でパパス殿を知らぬ者はおそらくおらんじゃろう。リュカ君、君のお父さんは村の若者に剣を教え、時には簡単な魔法の指導もしてくれたんじゃよ。村人はパパス殿に感謝してもし切れんほど有難く思っておるんじゃよ」
父への賞賛を受け、リュカはまるで自分のことのように胸を張って誇らしげな笑顔を見せた。隣にいるビアンカも「ステキだわ、パパスおじさま」と呟きながら、老人を見上げるでもなく、何もない空間を見つめている。そこにパパスが若者に剣術の指南をしている姿でも思い浮かべているのか、しばらくビアンカは空間に目を放しながらぼうっとしていた。
「お父さん、今日見ませんでしたか」
ビアンカが本来の目的を忘れてぼうっとしている横で、リュカは彼女の口調を真似て老人に問いかけてみた。すると老人は虚を突かれたように一瞬鼠色の瞳を覗かせたが、すぐにその表情は読めなくなった。無論、リュカが老人のその変化に気が付くことはなかった。
「さぁて、今日は見なかったのう。探しとるのか」
「うん。お仕事で家を出て行ったんだけど、どこに行ったのかなって」
「お仕事で出たのなら、夕刻には戻るじゃろう。ほれ、もうこんなに日が傾いてきておる。お父上が家に戻ったときにリュカ君が家にいなかったら、さぞかし心配するじゃろうて。早めに家に戻るんじゃよ」
老人が見上げた先には、すでにオレンジ色に染まりつつある太陽が空の彼方に滲み始めている。まだ冬の寒さを引きずる季節、日が延びたとは言えまだ日の入りの時刻は早い。リュカは老人の忠告を素直に受け止め、一言礼を述べると、ビアンカと一緒にその場を後にした。
日差しを背中に浴びながら、リュカはもと来た道を戻ろうと、土手沿いの階段を昇ろうとする。しかしビアンカがそれを遮り、リュカの手を引きながら、もう片方の手で川沿いに続く道を指差す。そこは西からの日差しが差し込まず、すっかり日陰になっており、川の上を滑る風も冷たそうだった。
「どうしたの、ビアンカ。ぼくたちが来たのはそっちじゃないよ」
「うん、そうなんだけど、私とママが泊まってる宿屋ってたしかこっちの方なの。だから私はこっちから行くね。リュカは一人で帰れる?」
「ぼくはだいじょうぶだけど、ビアンカはだいじょうぶ?」
「あら、私は一人で平気よ。あなたより二つもお姉さんだもの」
ビアンカはそう言うと、いつものごとく腰に手を当てて胸を反らし、リュカとの身長差を確認させるように彼を見下ろした。しかし今回の彼女の語調にはあまり元気がなかった。その証拠に、その後行こうとする薄暗い道を見た彼女の空色の瞳は、不安そうに揺れていた。
ビアンカの気持ちをはっきりと汲み取ったわけではないが、リュカは彼女の右手を両手でしっかりと掴むと、日陰になっている川岸を歩き始めようとした。ビアンカは慌ててリュカの手を引っ張り、知らせる。
「ちょっと、リュカはあっちでしょ。一人じゃ帰れないんだったら、私も一緒に行ってあげるよ」
「ううん、ぼくはだいじょうぶ。だからビアンカを送っていってあげるよ」
想像だにしていなかったリュカの言葉を聞き、ビアンカは驚きの表情を見せた後、すぐに憮然とした表情に変えた。
「なによ、その言い方。私は一人で大丈夫だってば。リュカに送ってもらわなくっても大丈夫」
「だってこわそうに見えたから」
「そ、そんなことないわよ。怖いわけないでしょ。ここは村の中なんだから、魔物だって出ないし。何にも怖いことなんかないわ」
そう言いながらビアンカはリュカの小さな手を離した。暖かかった手の温もりが、川を吹き抜けていく風に晒されて一気に熱を冷ましていく。リュカは大きな黒い瞳を瞬かせてビアンカを見つめていたが、ビアンカは幼馴染のその視線からすぐに逃れ、くるりと後ろを向いてしまった。
「じゃあね、リュカ。バイバイ、気をつけて帰るのよ」
ビアンカはそれだけ言い残すと、深緑色のマントをバサバサとなびかせながら川岸を走り去っていった。土手で陰になった川岸に架かる橋を軽やかに渡り、一度も後ろを振り返ることなく彼女はそのまま帰途に着いた。一人取り残されたリュカは、小さな肩を落として、まだ低い日差しを浴びている川岸をとぼとぼと歩き始めた。彼女があれほど機嫌を損ねた理由が皆目見当も付かないリュカは、帰りの道の中ずっと戸惑ったような表情で歩き続けていた。



家に戻ると、すでに父は帰宅しており、サンチョがいそいそと夕食の準備をしていた。すっかり暗くなっていた外から家の中に入ると、暖気に包まれ、外の厳しい寒さを改めて実感した。頼りない月明かりだけで歩いてきたリュカは、家に戻ると部屋の明かりの強さに思わず目を細めていた。
「坊ちゃん、お帰りなさいませ。ずいぶんと遅かったですね。お父様が心配していらっしゃいましたよ」
「うん、ごめんね。ビアンカとお散歩してたら遅くなっちゃった」
「早くお父様にお顔を見せてきた方がよろしいかと。まぁ、ビアンカちゃんと一緒だったと分かれば、さほど心配されないでしょうけどね」
サンチョは微笑みながらそう言うと、紫色のマントをまだ羽織って寒そうにしているリュカのために、暖かいミルクを用意しようと台所へ戻っていった。リュカはかじかむ手を暖炉の火に当て、小さな手をこすり合わせる。部屋の中にはすでにサンチョが用意している夕食の匂いが漂い、リュカはその匂いに反応するようにお腹を鳴らした。
少しの間暖炉の前から動かなかったリュカだが、あっという間に温まった手を頬に当てると、二階にいる父の元へと向かった。階段を昇る途中、ちょうど父が部屋から出てくるのを仰ぎ見た。
「リュカ、遅かったな。ずっと一人で散歩してたのか」
「ううん、途中でビアンカに会ったんだ。だからずっと一緒にお散歩してたんだよ」
「そうか。ビアンカちゃんはしっかりした子だから、お姉さんができたみたいだろう、リュカ」
「でもぼくとビアンカは二つしか違わないよ。ビアンカは自分のコトお姉さんだって言うけど、ぼくはビアンカのことお友達だって思ってるよ」
リュカが不服そうに口を尖らせながら言うその様を見て、パパスは思わず笑い出しそうになるのを何とか堪えていた。過酷な旅にも根を上げず、困った人を見ては助ける父の背中を見てきた少年にとっては、強い父の姿が何よりも憧れだった。そんな父に追いつきたくて、道端で拾った枝を剣のように振り回したり、碌に読めはしない魔法書を机の上に広げて父と同じ魔法を真似てみたりしているリュカにとって、ビアンカに全部劣っているなど認めたくない事実だった。
「リュカ、今はビアンカちゃんに色々教えてもらいなさい。彼女はきっとお前にとっていい先生になりそうだ。お前が初めて昨日魔法を使った時も、ビアンカちゃんと一緒だったな。彼女は自然とお前の力を引き出してくれるのかもしれない」
「ぼくはお父さんに教えてほしい」
「父さんも教えてやりたいのは山々だが、ちょっと調べものがあって二、三日構ってやれそうもないんだ。だから、すまないな、リュカ」
父の困った顔を見たリュカは、渋々ながらも首を縦に振った。パパスはそんな息子の表情を見ながら頭を撫でてやると、ふと思いついた助言を息子にしてやった。
「お前は男の子だ。そのうち何にもしなくたってビアンカちゃんよりも背だって大きくなるし、体格だって父さんみたいになるんだ。そうしたらビアンカちゃんを助けてあげればいい。だからそれまでは彼女をお姉さんだと思って、色々教えてもらってもいいんじゃないか」
「ぼくはビアンカよりも大きくなるの?」
「ああ、そうだよ。お前は男の子だからな。歳は二つ下でもそのうち嫌でも大きくなるんだ」
父のその言葉にリュカは満足げに笑顔を見せると、ビアンカがするように腰に手を当てて胸を反らした。そんな息子の姿を見ながら、パパスは椅子から立ち上がると、リュカの頭をぽんぽんと軽く叩きながら、部屋を後にする。
「じゃあ大きくなるためにはいっぱい食べなきゃな。サンチョが作ってくれた飯をたくさん食べて、そのうち父さんを追い越してくれよ」
「うん、ぼくお父さんよりも大きくなるよ」
すっかり機嫌の良くなったリュカをひょいと抱き上げると、パパスは階下で食事の支度に勤しんでいるサンチョの元へと向かった。毎日のことで慣れているとはいえ、サンチョの料理の手際のよさは主婦顔負けだった。材料こそたいそうなものは使っていないのだが、それがサンチョの手にかかるとどれもが美味な料理へと変わっていく。料理は愛情、という言葉がまんざら嘘でもないことを彼は証明してくれていた。
「サンチョ、おかわり」
「坊ちゃん、よくお食べになりますね。このサンチョも嬉しい限りですよ」
「だっておいしいんだもん。それにね、ぼくは大きくならなきゃいけないんだよ、ね、お父さん」
「ああ、そうだな。ビアンカちゃんよりも父さんよりも大きくなって、みんなを守ってくれるんだろう」
「そうだよ、ビアンカよりもお父さんよりも、サンチョよりも大きくなって、みんなを守ってあげるんだ」
「ハハハ、このサンチョより大きくなってしまうんですか。どうか横にだけは大きくならないでくださいね」
サンチョは大きな口を開けて笑い声を立てながら、リュカの皿を受け取ると、台所へと歩いていった。パパスは息子がサンチョのような体型になっているところを想像でもしたのか、苦笑しながらリュカの顔を見つめている。リュカはサンチョがなぜそんなに笑うのかよくは分からなかったが、無意識につられて笑っていた。暖炉の火で十分に暖まっていた部屋は、三人の家族の団欒によってよりその温度を増したようだった。自然で平和なこの空気の中に、リュカは何の疑問も感じるはずもなかった。サンチョと言う人物を、父の旅の理由を、リュカは考えるまでに至らなかった。ただ目の前にある平和そのものの光景が、今のリュカの全てだった。

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