2017/12/03

故郷への旅路

 

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港を出て西に傾きかける陽を左頬に浴びながら、親子は一路故郷とも呼べる村へと道を進めた。港から続く古びた街道はところどころ草に覆われて消えかけていたが、少年の父は道に迷うことなく真っ直ぐに歩き続けた。父の背中を追う少年リュカは、時折振り返り自分を見る父に頑張りを見せたいのか、疲れた顔などせずにひたすら父の背中を追い続けていた。
丈高い草に覆われ、元の道の姿などすっかり分からなくなってしまっている街道を進む最中、リュカは道に落ちていた木の枝を拾った。父が腰に帯びている立派な剣には遠く及ばないが、魔物との戦闘時に剣を振るう父の姿に憧れる少年は、その枝をぶんぶんと剣のように振り回して、父の真似をして喜んでいた。そんな息子の姿に父パパスも顔を綻ばせて、魔物が周りにいないことを確認しながら、息子に枝を剣と見立てた軽い指導をしていた。
途中、あまりにも道が険しくなると、パパスは背中に背負う剣を下ろして腰のベルトに結び付け、疲労を隠せない息子を負ぶって道を急いだ。リュカは気丈にも大丈夫だと父に言い張り、パパスは息子を宥めながら背負い、とても子供では追いつけないくらいの速さで歩き進めていく。
故郷の村までの道のりをようやく半分終える頃になると、リュカは父の背中ですっかりと眠り込んでしまっていた。陽光は完全に西に傾き、横から差し込むその強さに、パパスは思わずその皴の目立つ顔をしかめる。父の広い背中にすっかり安心しきって眠り続ける息子の眠りを妨げぬよう、パパスは魔物の群れに遭わぬよう祈りながら歩き続ける。しかし子供と言う弱みを背負った戦士を、魔物らは見逃してはくれなかった。気が付きながらもあっという間に囲まれた魔物の群れの気配に、パパスは仕方なく背中の息子に声をかける。
「リュカ、起きなさい」
パパスの一声にリュカはとろんと瞼を持ち上げ、何度か瞬きをしているうちに、父が腰のベルトに結びつけていた剣をすらりと抜く音を聞いた。その音で完全に眠りから覚めたリュカは父の背中を飛び降りると、まだ眠気の抜けない顔で、父と同じような形で腰紐にさしていた丈夫な木の枝を両手に持った。まだ自分の腰の高さにも満たない息子が戦おうとしているのを見たパパスは、息子をそっと庇うように半歩前に出て剣を構えなおした。
現れた魔物は今までに何度も目にしたことがあった魔物だった。青い半透明の体をふるふる震わせるその姿に、パパスはほっと息をついていた。そして自分のすぐ横で手が白くなるほど力強く木の枝を握り締める息子の姿を認めると、パパスは魔物に聞こえないくらいの小さな声でリュカに問いかける。
「リュカ、強くなりたいか」
父の言葉にすぐには気が付かなかったリュカだが、頭に響いてきたその言葉の意味を理解すると、無言のままこくりと頷いた。息子の意志を確認したパパスは、一番近くにいるスライムを指差してリュカに教える。
「お前の一番近くにいるあいつ、あれを自分の力で倒してみなさい。父さんは他の魔物をやっつけるから。いいな、リュカ」
「う、うん、やってみる」
リュカは緊張した面持ちのまま、目の前のスライムをじっと凝視する。相手のスライムもそれを感じ取ったのか、リュカのことをじっと見上げている。その間、隣にいた父の気配が遠のいて他の魔物を一掃することに気が付かないくらい、リュカは一匹のスライムだけに集中していた。
先に動いたのはスライムの方だった。スライムはリュカの顔面めがけて飛び掛ってくると、その弾力性のある体で体当たりを仕掛けてきた。突然地面に弾みを付けて飛び上がったスライムに面食らって、リュカはその体当たりを思い切り真正面から受けてしまった。後ろ向きにごろんと倒れたリュカを見て、当のスライムは嬉々としてその場でぴょんぴょんと跳ねている。驚きのあまり、リュカは思わず瞳に涙を滲ませたが、すぐに起き上がって手にしていた木の枝を横からスライムに振り払った。まだ飛び跳ねていたスライムは木の枝に打ち付けられ、地面を覆い隠す草地の中へと転がり込んでいってしまった。思いの外勢いよく転がっていったスライムを追って、草を掻き分けて進んでいくと、リュカは草の中に目を回してひっくり返っているスライムを見つけた。
「頑張ったな、リュカ。怪我はないか」
リュカがスライムと向き合う前には戦闘を終えていたパパスが、リュカの前にしゃがみこんで治癒の魔法を唱える。その魔法が顔に当たると、リュカはぴりぴりと痛みを感じていた顔から痛みが引いていくのを感じた。
「さて、行くとしよう」
父がそう言いながらリュカの手を取ったが、リュカはまだ目の前でひっくり返っているスライムをじっと見つめている。そして手にしていた木の枝を再び腰紐に差し込むと、リュカはスライムの前に屈みこんでその弾むような体に手を当てる。
「ごめんね、痛かった?」
リュカの思いも寄らぬ言葉に、息子の手を取っていたパパスは無意識にその手を離して呆然と立ち尽くした。父の手を離れたリュカはその小さな両手をスライムの体にかざすと、父の見よう見まねで魔法を唱える仕草をした。しかし父のような柔らかい光を生み出すことは出来なかった。しかしその暖かい子供の手に気が付いたのか、スライムは瞬いて自分を見下ろす人間の子供をじっと見つめた。
「あ、目が覚めたんだね。よかった」
そう言いながら微笑む息子の姿を見て、パパスは心が穏やかに凪いでいくのを感じた。その理由が何であるかも、パパスははっきりと感じ取っていた。
リュカの前に佇むスライムはしばし体を揺らして彼を見上げていたが、言葉の通じない人間に何とか意思表示するべく、スライムは地面に何度か弾みをつけると、今度はリュカの腕の中にすっぽりと納まるようにジャンプをした。リュカはすんでのところでスライムを両腕に抱え込むと、ひんやりとしたその感触を腕に感じながら、今度は父を見上げる。
「この子、一緒に行きたいって。連れてっていい?」
「スライムの言葉が分かるのか、リュカ」
「ううん、よく分からないけど、でも一緒に行きたいって顔してるでしょ」
リュカはそう言いながら両腕に抱え込んでいたスライムを両方の手の平に載せ、パパスに見せる。リュカの手の上で嬉しそうに体を揺らしていたスライムは、振り返って見上げた大きな男の姿に身をすくませた。パパスは渋る顔を隠さずにリュカを見ながら、その頭に手を置いて諭し始めた。
「これから父さんたちは村に入るんだ。村にはたくさん人がいるな。そんなところにたとえスライムとは言っても、魔物を入れるということは出来ないんだよ。村の人が怖がってしまうんだ」
「どうして? この子は怖くなんかないよ」
「リュカ、お前は毛虫が嫌いだったな」
「うん、だって毛がいっぱいうじゃうじゃしてて、うねうねしてて、気持ち悪いんだもん」
リュカは父が何故突然そんなことを聞いてきたのかも分からず、ただ素直に答えた。パパスはしゃがみこみながらリュカの頭を撫でると、ゆっくりと話し始める。
「父さんだってあまり毛虫は好きじゃないし、毛虫を好きになる人間自体珍しい。だけどな、中には毛虫が可愛くて、肌身離さず持ち歩いている人がいるかもしれない」
パパスのその言葉に、リュカは思わず身震いした。その震えが伝わったのか、腕に抱えていたスライムも同じように身震いしている。想像するだけでも胸が悪くなるような光景に、リュカは思わず顔をしかめて父の顔を見つめる。
「そんな人が村の中にいたら嫌だろう。それと同じことなんだよ、リュカ。人は魔物を怖がるんだ。たとえそのスライムが人懐こくても可愛くても、他の人にそれを伝えるのは難しい」
父の口調はあくまでも穏やかだったが、決して逆らえるようなものではなく、絶対的な響きを伴っていた。リュカは口を尖らせながらまだスライムを抱いていたが、しばらくの沈黙の後、渋々スライムを地面に下ろした。スライムは薄い絨毯のような草地の上できょとんとリュカを見上げている。
「ごめんね、一緒に行けないんだって」
リュカの言葉が分かったのか、スライムは一声寂しそうに鳴くと、リュカのブーツに擦り寄ってきた。リュカが顔をゆがめながらまたスライムに手を伸ばそうとすると、横でしゃがみこんでいたパパスがそれを遮った。
「お前は自分の帰る場所があるはずだ。そこへ帰りなさい」
そう言いながらパパスは威風堂々とした戦士の顔を近づけると、スライムはその迫力におののいて後ろにぴょんと飛び退いた。そしてそのごつごつした手が伸びてくると、スライムは観念したように草原の中を走り去ってしまった。あっという間に小さくなる青い姿を、リュカはずっと見送っていた。
「リュカ、辛い思いをさせたな」
息子の遠く眺める黒い瞳を見ていたパパスは、そう呟きながらリュカが地面に落としていた木の枝を拾った。それをリュカに渡すと、彼の小さな手を取った。
「……ううん、だって村の人たちはマモノがきらいなんだから、仕方ないよね。それにきっとあの子にはまた会えるよ、この辺に住んでるみたいだしね」
リュカがそう言って屈託なく笑う姿を見て、パパスは物分りのいい息子に喜びと哀しみを感じ、その小さな体をひょいと抱き上げた。リュカが疲れてないから自分の足で歩くと言い張るのを宥めすかし、パパスはリュカを抱っこしたままサンタローズの村へと向かった。既に西には夕暮れの橙の太陽が滲み始め、東の空を見やれば薄い群青色の空にまだ明かりの乏しい星を見つける。宵闇が迫れば魔物の気配も濃くなってしまう。パパスは目前に見える村に向かい、再び足を速めた。



サンタローズの村に着くと、まず二人の旅人を出迎えたのは門番をしている若者だった。初め訝しげに親子連れの旅人を見ていた兵士の身なりをした若者だったが、その旅慣れた戦士の姿をまじまじと見つめるうちに、段々とその表情を明るくしていった。
「しばらくの無沙汰だったな。村のみんなは元気にしているか」
「パパスさん、パパスさんですよね? うわぁ、パパスさんが帰ってきたんだ、早く村のみんなに知らせなきゃ」
村を守るべき若者がそうはしゃぐ姿を、パパスは苦笑しながら見守っていた。そして若者が門番のことなどすっかり忘れて村の中へと走り去ってしまう後を、きょとんとしているリュカを連れてパパスは故郷に足を踏み入れた。
サンタローズは小さな集落で、若者がパパス帰還の話を村の中に流すスピードも並大抵のものではなかった。村の人々は夕飯の支度や、家の前の松明に明かりを灯す手を止め、村の入り口に現れた戦士に視線を注いだ。そして門番の若者のあっという間に広めた噂話を確信すると、次々とパパスの帰郷を喜び、やれうちで夕飯を、酒をと、パパスの旅の話を聞こうとみながそろって戦士の腕を引っ張ろうとした。パパスはおどおどしているリュカの手を引きながら、自分の帰郷を喜んでくれる村人に感謝の意を表し、たった今まで旅をしてきたごつごつした手を差し出して次々と握手を交わしていった。
あまり大きくない村の中を歩いていくと、パパスはあっという間に二年前まで住居としていた小さな石造りの家にたどり着いた。夜の闇が迫る中、家の前の松明には既に明かりが灯され、橙色の小さな炎がゆらゆらと辺りを照らしている。そしてその松明を覆い隠してしまうほどの、大きな体躯をした男がぼてっとした大きな手を前に組み合わせて立っていた。
「旦那様、坊ちゃん、お帰りなさいませ」
「しばらくの留守、済まなかったな、サンチョ」
「お二人がご無事で何よりです。さあ、お疲れでしょう。このサンチョが腕によりをかけておいしい料理をお出ししましょう」
そう言いながらサンチョと呼ばれた男は大きな腕を振り上げて、袖をまくり、拳を作って見せた。そしてサンチョがリュカに微笑みかけると、リュカは記憶に残っていないその微笑に心が和むのを感じた。サンチョは井戸から水をくみ上げてバケツに注ぎ、二つのバケツを持つとパパスとリュカを促して家の中へと入っていった。
家の中に入ると、外の寒さに気が付くくらい暖かく、もうすぐ季節は春だと言うのに暖炉には煌々と赤い炎が上がっていた。サンチョは二人のために椅子を引くと、「どうぞお座りください」と声をかけ、二人の旅人の足を休ませた。パパスは背負っていた剣を椅子に立て掛け、椅子の上にどっしりと腰掛けると、向かいに座るリュカに話しかける。
「リュカ、ここがどこだか分からないんだろう」
パパスの言葉にリュカは素直に首を縦に振る。息子のその様子にパパスは黒い髭を揺らして笑うと、リュカの頭に手を置いて語りかける。
「無理もない、あれからもう二年が経っているからな。しかし何も不安がることはないんだぞ、これから楽しい思い出を作っていけばいいんだからな」
「おや、いつの間に帰ったんだい、パパスさん」
先ほどサンチョが姿を消した台所から、今度は見慣れぬ恰幅のいい女性が前掛けで手を拭きながら姿を現した。リュカは後ろを振り返り、その声の主を見ると同時に、その横に女性と同じように小さな前掛けをしている女の子を見つめた。明らかに黒髪を後ろで団子にしている女性の娘です、という雰囲気を出していたが、その容姿はあまりにも女性のものとは異なっていた。
「おお、誰かと思えばダンカンさんのおかみさんじゃないか。サンタローズに引っ越してきていたのか」
「いやいや、うちの主人がうっかり病気になっちゃってねぇ。この村にはいい薬師さんもいるって言うから、薬を作ってもらいにきたんだよ」
「その子は、もしかして……」
「お久しぶりです、おじさま。ビアンカです」
女性の横にニコニコしながら立っていた女の子はそう言うと、二つに結わえた金色のお下げ髪を跳ねさせて元気よくお辞儀をした。そして再び顔を上げると、パパスの顔をその空色の瞳で真正面から見つめた。女の子のその様子を、リュカは不思議な気持ちで眺めていた。
「ほう、大きくなったもんだ。リュカより頭半分以上大きいんじゃないか」
「リュカくんも大きくなったわねぇ。リュカくんはおばさんのこと覚えてないかもしれないけどね、よく面倒見てたのよ。ビアンカともよく遊んでたしね」
「そうだな、もうあれから二年が経つのか。早いもんだな」
大人二人が昔話に花を咲かせると、手持ち無沙汰になったビアンカは後ろ手に前掛けの結び目を外し、前掛けを取り去ってしまった。そしてリュカの座っている椅子の肘掛にそれを掛けると、じっと自分を見ていたリュカの顔を見上げる。
「ねぇ、上に行かない? オトナの話って長いからタイクツでしょ。上で一緒に遊ぼ」
「でも、何かしてたんじゃないの? 途中で終わりにしていいの?」
「大丈夫よ。だってママがこうなんだもの」
ビアンカは母親の後ろからそっと指差しながらリュカにそう呟いた。ビアンカの母親は先ほどまで手にかけていた料理の支度などすっかり忘れてしまったように、パパスと話し込んでいる。パパスも二年ぶりに再会した馴染みの人物と話すことに夢中になり、彼女が前掛けをしながら話し込んでいることなど全く気が付かないようだ。ビアンカは大人びた仕草で肩をすくめて見せると、リュカの手を引いて席を離れた。台所からは相変わらずトントンとリズムに乗った包丁の音が聞こえる。二人が話しに夢中になっている間に、おそらくサンチョが料理を手がけているのだろう、とリュカもようやくその音で気が付いた。
気をつけてね、と言葉を掛けながらリュカの手を引いて、ビアンカは階段を昇っていく。二階は暖炉の熱気が集約しているようで、少し熱かった。リュカは羽織っていた紫色のマントを取ると、それをくるくると丸めて机の上に置いた。そして椅子を両手で引いて、椅子に腰掛けると、疲れていた足を休めようと鼠色のブーツを放り投げるように脱いだ。
「あら、お行儀が悪いわ。くつはちゃんとそろえなきゃ」
ビアンカはリュカの脱ぎ捨てたブーツを足元に揃えてやると、自分も履いていたブーツを脱いで横に揃え、椅子にひょいと座った。
「さ、何して遊ぼっか」
ビアンカにそう聞かれ、リュカは部屋の中をきょろきょろと見渡した。部屋には子供用の遊び道具などは置いていないようで、あるものと言えば部屋の隅に置かれる本棚にびっしりと詰まった本だけだった。リュカは椅子を降りて歩いていくと、自分の背よりもずっと高い本棚を下から見上げた。
「ビアンカは本読める?」
振り向いてそう聞いたリュカを見て、ビアンカは自信に満ちた表情でリュカの後ろに歩み寄ってきた。
「もちろんよ。じゃあわたしがご本を読んであげるね。どれがいい?」
ビアンカが微笑みながら本棚を上から順に指し示すと、リュカは上から二段目にある何かの事典のように分厚い本を指差した。リュカが背伸びをしてようやく取れるその本を、ビアンカはひょいと手に取って両手に抱えながら席に戻った。
二人とも席に着くと、ビアンカは縁が多少擦り切れている堅い表紙をめくる。中はとても子供向けとは思えないほど専門的な内容で、文字も目の疲労が一瞬にして溜まるくらいに細かく、思わずビアンカはしかめた顔でリュカに同意を求めた。しかしリュカは読めない小さな文字をじっと見ているばかりで、ビアンカの様子に全く気が付かない。ビアンカは仕方なく、読めるところだけを頑張って読もうと声にした。
「え~と、そ、らに……く……せし……ありきし、か。うーん、ごめん、リュカ。これはわたしには読めないよ。だってむずかしい字が多すぎるんだもの。他のにしましょう、ね」
ビアンカはそう言うと本を閉じて、また席を立ち、本を本棚に戻した。リュカも後ろから付いていき、ビアンカと一緒に本棚を見上げる。
「そうだ、ぼく父さんみたいに魔法が使えるようになりたいんだ。そういう本ってあるのかな」
「魔法の本? ああ、それならわたしも少し読めるわ。魔法ってこういうのでしょう」
そう言ったビアンカの指先にぽっと小さな火が上がるのを、リュカは驚いた表情で見つめた。そしてそれはすぐに笑顔に取って代わった。
「すごい、ビアンカって魔法が使えるんだね。いいな、ぼくにも教えてよ」
「じゃあ魔法の本で一緒にお勉強しましょう。わたしが教えてあげるね」
ビアンカは笑いながらリュカにそう言うと、一番上の棚にあった一冊の魔法書を背伸びして手に取った。『はじめてのまほう』という題の初心者用の魔法書を机の上に広げ、ビアンカはその内容を見て安心し、息をついた。
「これならわたしも読めるわ。じゃあわたしが先生ね」
「ぼくにもビアンカみたいに火の魔法が使えるようになるかな」
「リュカががんばれば、きっと使えるようになれるわ。さぁ、お勉強を始めますよ」
「はーい」
彼女の隣に椅子を持ってきて、身を寄せて彼女の隣から本を覗き込むリュカに、ビアンカは文字を指で追いながらすらすらと読みこなしていく。リュカが言葉の意味を聞けば、ビアンカは悩み考えながらもそれに答え、時には席を立ってリュカに実際に魔法の詠唱をさせて、魔法が発動するかどうか試してみたりした。しかしビアンカが教える火の魔法をリュカが発動させることはなく、何度試してみてもリュカの魔法は不発に終わった。
「なんでだろう、おんなじに言ってるつもりなんだけどな」
「うん、言葉も間違ってないし、発音だっておんなじなのにね。じゃあ今度は違うのをためしてみようよ」
ビアンカは魔法が使えないと思い始めているリュカの隣で、再びぱらぱらと本のページをめくる。リュカは悔しそうに何度も同じ言葉を口にするが、やはり火の魔法は発動する気配さえ見せない。
「ねぇ、他に使ってみたい魔法はないの」
本をめくりながら問いかけるビアンカに、リュカは口を尖らせながら首をかしげて考え始める。そして階下から父とビアンカの母の笑い声が聞こえると、リュカはビアンカが手にしている魔法書を覗き込んで答える。
「父さんみたいなケガを治す魔法が知りたい」
「ケガを治す魔法、ね。でもケガを治す魔法って難しいんだってママが言ってたわ。リュカに使えるかな」
眉をひそめながらページを後ろへぱらぱら落としていくビアンカに寄り添いながら、リュカは読めない文字には目もくれず、時折一ページを使って表現している挿絵に集中して治癒魔法のありかを探そうとしていた。そしてリュカは挿絵の様子で、ビアンカは表題の文字で治癒魔法の項目を見つけると、本を机の上に置いてビアンカは内容を読み込み始めた。
「坊ちゃん、ビアンカちゃん、ご飯の用意が出来ましたよ」
体躯のいいサンチョが階段を上がってくることにも気が付かずに、二人は集中して魔法の練習をしていた。部屋に入ると同時に、リュカの手の平に浮かび上がった柔らかい青白い光を見たサンチョは、素っ頓狂な声を上げて、階下にいるパパスを大慌てで呼びに行った。リュカの手の平に浮かんだ光は一瞬で、その柔らかさも暖かさもリュカ自身にしか分からなかった。しかし隣でその光を見ていたビアンカもサンチョの表情と同じに、驚き、喜びを表していた。
「リュカ、魔法が使えたというのは本当か。父さんにも見せてくれないか」
階段を一段飛びに上がってきたパパスは、サンチョの知らせを受けて顔を綻ばせながら部屋に入ってきた。父が珍しく声高にそう聞いてくるのを見たリュカは、元気に一つ頷き、皆のいる前ですっと瞳を閉じて集中した。パパスの後ろではビアンカの母もそわそわと見守っている。
リュカは覚えたばかりの癒しの魔法の文句を口にし、両方の手の平を上に向けて、何かを拾うような格好で前に差し出した。するとその小さな手の平の上に包まれるような丸い淡い光が浮かび上がる。それはとても弱々しかったが、遠目から見てもそれが暖かな温度を持っていることは分かった。ビアンカが「すごい、すごい」と言ってリュカの首に抱きつくと、驚いたリュカの手の平から魔法の光はすうっと消えた。息子の成長に嬉しさを隠せないパパスは、リュカに近寄るとその小さな体を両手で抱き上げ、赤ちゃんのように高い高いをした。
「すごいじゃないか、リュカ。治癒魔法はなかなか心と体のバランスが難しいんだ。それを使えるなんて、父さんは本当に嬉しいぞ」
「でも、でもね、ぼくビアンカみたいに火のまほうが使えないんだよ」
「火の魔法が使えない? それは多分お前の性質が火と合わないんだろう。父さんだってどんな魔法も使えるってわけじゃないからな」
パパスは笑いながらリュカを床に下ろすと、今度はビアンカの方に視線を向ける。ビアンカは少し照れたように頬を染めて、パパスを見上げた。
「ビアンカちゃんは火の魔法が使えるのか。どれ、見せてくれないか」
「はい、おじさま」
ビアンカは笑顔でそう答えると、手馴れた感じで魔法を唱え、小さな指先に橙色の炎をまとわせた。パパスが感心したように息をつく横で、ビアンカの母は溜め息を漏らしている。
「ビアンカをあんまり得意にさせないでよ。この子ったら褒められるとすぐその気になって、あっちこっちでその魔法を見せに行くんだから。帰ってくる頃には魔法力が無くなって、へとへとになってるのよ」
母にそう釘を刺され、ビアンカは気まずそうに笑ってパパスの顔をそうっと見上げた。パパスは別段ビアンカを諌めるでもなく、ただ笑って「元気でいいじゃないか」とビアンカの頭を撫でてやった。
「さぁ、勉強をしたら腹が空いただろう。ご飯にしよう。サンチョが美味い飯を作ってくれてるぞ」
「今日は寒いですからね。暖かいスープで体も暖めましょう」
サンチョは水に濡れた前掛けを外してたたみ、一足先に階段を降りて食事の支度の続きをしに行った。一階から階段を伝ってスープの香ばしい匂いが部屋へと流れ込んでいる。パパスとビアンカの母も階段を下りていったが、リュカはまだ魔法書の挿絵をじっと見つめている。その様子に気が付いたビアンカは振り返って一言添えてやった。
「リュカが食べないんだったら、わたしがリュカの分もぜーんぶ食べちゃうわよ」
「えっ、やだよ、ぼくもおなか空いてるもん」
「じゃあ早く降りていらっしゃいよ。そのご本は明日また一緒に読もうよ、ね」
ビアンカの有無を言わさない語調に、リュカはしぶしぶ本から目を離して閉じると、ビアンカの後に続いて階段を下りていった。本から意識をはずしたリュカはすぐに食事のいい香りに気が付き、魔法書に夢中になっていた一瞬前のことなどすっかり忘れてしまったかのようにすばやく食事の席に着いた。食事前のお祈りもしないでスプーンを取ったリュカをパパスは諌め、スープ皿を置いたサンチョは光栄だと顔を綻ばせていた。その夜は旅の疲れなど吹き飛ぶくらい、暖かな空気が彼らの家を満たしていた。

Comment

  1. ケアル より:

    ビビ様
    引き続きスライム戦闘が気になったので(笑み)。
    港から一人で出てじゃなく旅の道中でしたか。
    リュカの会心の一撃、見事ですね(笑み)
    パパスが助けに行くのでない描写、なかなか良いですね。これもビビ様ワールドでないと味わえないですな。

    しかも、いきなりスライム仲間にするなんて…。
    パパスもマーサのことがあるから焦りますよね。
    しかもビビ様!
    このスライムもしかしてスラリンですか?

    リュカのホイミ、序盤で…しかもビアンカに教えて貰ったんですね。
    可愛らしい描写だし、今思えば、リュカはビアンカ居なかったら、ホイミ習得が遅いか最悪覚えていないかも?
    なんてそんなことを空想しながらニヤニヤしてました(笑み)
    「そらに…くせに…ありきしか」
    この描写は堀井雄二先生も考えましたね。
    けっこう勇名なシーンになってますよね。

    ビビ様、日付が14年になっています。
    長くなりましたが、ぜったいに簡潔してくださいね
    私ケアルは全力で付いて行かせて頂きますね!

    • bibi より:

      ケアル 様

      さすがに一人で港を出てスライムと戦闘させるのは、現実的に考えるとパパスと離れすぎてしまうかなと、旅の道中ということにしました。
      初めに仲間にしかけたのは、そうです、お察しの通りスラりんです。スライムは年を取らない(気がする)ので、永遠の子供みたいなもので、リュカが大人になって再会した時もあの時と変わっていません。
      ホイミはビアンカ姉さんに教えてもらいました。良い先生なのです、ビアンカさん。そうですね、ビアンカがいなければホイミ習得が遅れていたかも。
      「そらに…くせし…ありきしか」は、当時なんのこっちゃで終わりましたが、大人になってから気づいて、しかもこれをビアンカに読ませる辺りが深いですね。縁があるというか。
      この長編小説、必ず完結するように頑張ります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします^^

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