2017/12/03
洞窟探検
洞窟の壁には一定間隔を置いて、松明が置かれていた。それでも洞窟の闇は深く、先に目を凝らしてみても風の通る音が不気味に流れるだけで、視界はあまり利かなかった。足場のあまり良くない道を、リュカは川伝いに歩き続けていった。
洞窟の中まで流れている川は、途中で道を遮り、それ以上の道案内を拒んだ。リュカは仕方なく方向転換を試みようとしたが、その直前に背中に何かがぶつかる衝撃を受けた。不意打ちに、リュカは前のめりにつんのめって、前の川に飛び込みそうになった。何とか爪先立ちでバランスを取り、何事かと後ろを振り返ると、土の地面の上にふるふると青い半透明の身体を揺する魔物の姿があった。
「あっ、キミは……」
リュカの言いかけの言葉は、スライムの次の攻撃によって空しくも阻まれた。地面に弾みをつけて、何の躊躇もなく攻撃を仕掛けてくる小さな魔物に、リュカは慌てて手にしていた杖を楯にして防御する。杖に柔らかくも重い感触が伝わり、リュカは後ろによろけた。杖にぶち当たったスライムも、弾かれた勢いでごろごろと地面を転がっていく。再び身体を起こしたスライムをじっと見つめ、リュカは首を横に振った。父とこの村へ来る途中に出会ったスライムではない。今目の当たりにしているスライムはもともと丸い目を半月状にして、リュカを睨んでいる。村に来る途中で出会ったスライムは彼に攻撃を加えるような目つきではなく、ただ友達になりたくてリュカの手に飛び込んできた。面前にいるスライムは、紛れもなく魔物だった。
リュカは改めて樫の杖を構え直した。彼にとって父が傍にいない魔物との戦闘は初めてだった。両手の震えはどうにも止まらず、足も地面に根が生えたように動かない。リュカは常に傍にいる父の存在を、この時大きくかみ締めていた。しかしスライムがまた同じような攻撃を仕掛けてくると、リュカも躊躇せずに手にしていた樫の杖を両手で振り上げて、思い切り振り下ろした。足はやはり動かなかったが、飛び掛ってきたスライムはちょうどリュカの杖の攻撃を頭に受け、地面に叩きつけられた。リュカは杖に当たった気味の悪い感触に顔をしかめた。硬い樫の杖の一振りを受けて、スライムは地面の上で完全にのびていた。
「魔物はいないって言ってたのに……」
リュカの独り言はやはり幼馴染の少女には届かない。洞窟の入り口に目をやると、まだ十分引き返せるくらい近い位置に外の明かりが見える。リュカはしばらくの間洞窟の入り口の向こうにある光に黒い瞳を向けていた。そして樫の杖に目を落とし、地面に転がるスライムの姿を見下ろす。
「ボクは男の子なんだから、強くならなきゃいけないんだ」
リュカはそう言いながら、小さな胸を目いっぱい張った。落ち着いて洞窟内を見渡せば、松明の明かりがやっと届く天井には蝙蝠の姿があった。しかし運良く今は彼らの睡眠時間らしく、リュカがスライムを叩きつけた音も、彼の独り言も聞いてはいない様子だ。リュカは用心深くそれらを見上げ、洞窟内に続く道をさらに奥深くへと足を進めていった。
洞窟内を流れる小川を離れ、リュカは右側の壁伝いに歩いていく。太陽の光が全く届かない場所だというのに、ところどころ草むらが存在した。リュカはなるべくその草むらを避けて行った。スライムのような小さな魔物であれば、草むらの中からリュカを狙ってくるとも限らない。歩調は決して緩めずに、彼は点在する草むらに気をつけながら慎重に歩いていったが、ふと何もない地面に足を取られた。リュカは思い切り地面に転び、すりむいた膝をさすって身体を起こす。
何もないと思っていた地面は、他の場所と違って少し土が盛り上がっていた。そしてリュカが顔をしかめてみている前で、その土はぼこぼこと隆起し、土の中から同じような色の硬質な何かが飛び出してきた。リュカが目を見開きその光景を見ていると、その硬質な手で頭をさする魔物が姿を現した。昆虫型の魔物だった。
リュカはまた慌てて樫の杖を両手に身構えた。俗にせみもぐらと呼ばれるその魔物は、目の前に現れた子供を見上げて、しばし動きを止めた。虫の顔に表情はなく、リュカにはその魔物が頭を蹴られて怒っていることに気が付かなかった。
短いと思っていたせみもぐらの硬い手が、リュカの足元を狙って伸びてきた。辛うじてそれを避けたが、リュカの体勢は崩れてしまう。するとせみもぐらはもう片方の手で転びかけたリュカの腕を狙ってきた。地面をごろりと転がってそれも避け、リュカは再び立ち上がった。そして少し息を切らして、じっくりと魔物の様子を窺う。せみもぐらは初めに顔を出した場所から動かずに、リュカを攻撃してくる。せみもぐらの手は先が尖り、硬質な作りだが、それはあくまでも時間をかけて土の中を移動するときに使うに過ぎない。
リュカは魔物と十分距離を置いて、右手に樫の杖を持ち、思い切り振り上げた。せみもぐらは無表情で、その子供を見上げている。そしてリュカの手から杖が勢いよく飛ぶと、杖の持ち手の方が魔物の目に命中した。せみもぐらはけたたましい蝉の鳴き声をあげる余裕もなく、自分で掘った土の中に身を沈めてしまった。洞窟内にリュカの乱れた息と、壁の松明が燃える音が響く。魔物との戦闘はあっという間に終わったが、リュカの疲労は確実に増していた。
「ボク、強くなってるのかな」
少し心細くなってきたリュカは、誰に聞かれるでもない独り言を呟いていた。その言葉に対して、父の励ましの言葉だったり、ビアンカの張り合いの言葉だったり、サンチョの応援の言葉だったりがあれば、この洞窟探検がどんなに楽しいものになるか、リュカは洞窟の暗闇に目を凝らしながら小さな溜め息をついた。
壁に右手をつきながらひたすら壁伝いに歩いていくと、リュカは洞窟内に流れる水の音を耳にした。松明の明かりが心許なくなっていく暗がりの中で、リュカは目の前に広がる水溜まりが松明のごく小さな明かりを反射しているのを見た。その範囲は広く、進むべく道を完全に閉ざしていた。リュカは少し道を戻って、壁に取り付けられている松明をそうっと持ち出すと、道を塞ぐ大きな水溜りをその明かりで照らした。目を凝らして確認するも、洞窟の道はそこで完全に行き止まりだった。
リュカはがっかりと肩を落としていたが、松明の照らす先に、水以外のものが映ることにふと気が付く。火の粉が散る松明を掲げて、リュカはその手をめいっぱい前に出した。湖のような大きな水溜りの中に、ぽっかりと地面が浮き出ているのが分かる。背伸びをしてみたり、ジャンプをして覗いてみると、その苔のびっしりと生えた小さな陸地に、下へ降りるための階段があることが分かった。
「このドウクツって下にも部屋があるんだ、きっと」
そう言いながらも、冷たい水溜りを挟んだ陸地には到底着けそうもなく、リュカはまた肩を落とした。その拍子に手にしていた松明がじりりと言う音と共に、大きな火の粉をリュカの手の上に落とす。リュカはその熱さに思わず松明を取り落とし、その明かりは足元の水と出会って、一瞬にして掻き消えてしまった。途端に目の前が真っ暗になり、リュカは来た道を振り返った。見ればまだ歩いていない通りにも松明がちろちろと明かりを照らし、洞窟がいくつかの道を作っていることに気づかされる。
「ここにはお父さんいないみたいだし、あっちに道があるのかも。行ってみようかな」
リュカは元気を取り戻し、手にしていた杖を振り上げて、来た道を戻り始めた。洞窟の天井にぶら下がる蝙蝠の眠りは深いらしく、リュカの足音などでは全く目を覚まさない様子だった。松明の明かりがぎりぎり届く場所で、蝙蝠の影はゆらゆら揺れていた。地面の凹凸にも配慮しながら、リュカは前に続く道をてくてくと歩き続けた。
行き止まりに見えた壁に沿って、地下に降りる階段を見つけた。周囲に明かりはなく、リュカは壁に手を添えて、一段一段ゆっくりと階段を下りていく。地下に下りると、その階層にも人の手によって明かりが灯され、洞窟内を照らしていた。それでも地下の闇は深く、リュカは目を凝らしながら左手を壁についたまま歩き始める。上階よりは地面の凹凸はなく歩きやすかったが、天井にぶら下がる蝙蝠の数は群れをなし、一匹を起こしてしまえば群れがこぞって目を覚まし、たちまち大事になってしまうことは予測できた。リュカは恐る恐る天井を見上げながら、注意深く洞窟内を彷徨っていた。
左手は壁に、右手には樫の杖を持ちながら進み続けると、リュカは再び水の音を耳にした。音が流れ込んでくる方から冷たい風が吹いてくる。前髪をなびかせながら、リュカはその風の方向へと進んでいく。
進み続けた先はまたもや行き止まりだった。そこはちょうど一階で行き止まりになっていた場所の真下にあたる場所だった。水に囲まれた陸地には、明らかに人の手で造られた石柱が並び、洞窟内のじめじめした暗い雰囲気ではなく、そこだけ静謐な空気に包まれているようだった。しかし今リュカが立っている場所からその陸地に移動する手段はない。リュカはしばらくその白い石柱が並ぶ場所に目を留めていたが、やがて諦めたように肩を落とすと、またしても来た道を引き返した。
先程降りてきた階段を通り過ぎ、曲がり道に差し掛かろうとするあたりで、リュカはばったり魔物と遭遇した。あまりにも急に目の前に現れたので、リュカは身構える余裕もなく、ただ呆然とその姿を見つめた。しかしリュカと遭遇した魔物も同じ状況だったようで、紫色の毛皮に包まれた小さな目で、リュカのことをきょとんと見つめ返している。リュカと大して変わらないその小さな手には、身体と同じくらいもある木槌を地面に引きずっている。
魔物は相手が人間の子供だと気が付くと、脅かすために一度木槌を大きく振り上げた。自分とあまり身長も変わらない魔物が軽々と大きな木槌を振り上げるのを見て、リュカは樫の杖を手にしたまま思わず身を引いた。リュカが辛うじて避けたその場所に、木槌が振り下ろされ、洞窟が揺れるような地響きを生み出す。リュカは背筋が凍りつく感覚を、この時初めて覚えた。そして自分の杖を改めて見てみる。リュカはあからさまに首を横に振った。
「あんなのを受けたら、ボクの杖がダメになっちゃうよ」
リュカは冷や汗を垂らしながら、近づいてくる魔物の様子を窺う。おおきづちと呼ばれるその魔物にはあまり表情がなかったが、また木槌を振り上げる姿を見て、リュカは戦わなくてはならない意志を抱いた。無造作に振り下ろされる木槌を、その風を頬にかすめながらも避ける。握り締めていた杖を両手で思い切りなぎ払うようにして、おおきづちの横腹を殴った。魔物はくぐもった呻き声を上げて、小さな手で横腹を押さえた。
しかしその直後、魔物は怒りを露わにして黄色い体毛を逆立てると、無闇に木槌を振り回してきた。びゅんびゅん唸る木槌にリュカはなす術もなく、どんどん後退してその攻撃を避けて行った。その間、リュカに周りを見渡す余裕などなかった。洞窟内は頼りない明かりで照らされてはいたが、後ろを振り返る余裕はなかった。魔物は身体を回転させながら、考えなしに木槌を振り回す。
必死に避けていく最中、リュカは背中に何かが当たり、一瞬だけちらと後ろを振り返った。リュカの背中に当たるのは木製の杭で、その先には地面に暗く広がる穴が見えた。脇には立て看板もあったが、リュカはそこまでは気が付かなかった。たとえ気が付いたとしても、リュカにはその文字の意味を解することは出来なかっただろう。
リュカがまた前を振り返った時には、おおきづちの振り回す木槌は目と鼻の先にあった。リュカの判断は一瞬だった。彼は巨大な木槌から逃れるべく、穴へと飛び込んだ。
深く続くと思われた穴は、以外にも浅かった。リュカは身体を丸めて穴へと飛び込み、階下の地面にごろごろと転がり込んだ。土だらけになった身を起こすと、リュカはきょろきょろと辺りを見渡した。すると目の前に横たわる巨大な岩の塊と何者かの影を見つけ、慌てて立ち上がり、取り落とした樫の杖を拾い上げた。リュカが上階から落ちてきたというのに、その影はぴくりとも動かず、身体を横たえたままだ。リュカはその影に近づいて、怖々とそれを覗き込んだ。
その影が人間だと気が付くと、リュカは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。緊張が多少薄れると、リュカは村でのビアンカとの会話を思い出す。そしてしゃがみ込んでその人影の肩を叩いた。
「おじさん、こんなところで寝てたらあぶないよ。マモノがいっぱいいるよ」
「……ん、おお、寝てたのか、私は」
「ねぇ、おじさんが薬を取りに行ってた人?」
リュカの問い掛けにも、その薬師はまだ目を擦りながら問いの内容を把握するのに時間をかけている。しばらく沈黙が続き、薬師は急に目を見開き、目の前にしゃがみこんでいる子供を見やる。
「坊や、一人でこんなところに来たのかい?」
「うん、そうだよ」
笑顔さえ見せてそう答える少年を見上げ、薬師は口を開けてしばし言葉を失った。そんな彼の様子を見て、リュカは心配そうにまた覗き込む。
「おじさん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫なんだがね。どうにもこいつが私の足を挟んでしまって身動きがとれずにいたんだ。もう少しで動きそうだったんだ。けど、途中で寝てしまったみたいだな」
「ぼくが動かしてみようか」
「坊やじゃ多分無理だよ。誰か大人の人間がいればいいんだけど」
薬師がそう言うのにも構わず、リュカはすっくと立ち上がると、手にしていた樫の杖を地面に置いた。不安な視線を向ける薬師には気が付かず、リュカは彼の頭を跨いで岩を押し始めた。両足を踏ん張り、顔を真っ赤にして、大岩に当てた両手に子供の全体重をかける。足を挟む岩が動く感覚に、薬師は目を見張った。
「すごいぞ坊や、あともう少しで足が抜けそうだ」
リュカはその声を受けて、さらに両手に力を込めた。大岩が勢いに乗って地面を滑っていく。リュカは必要以上に滑り出した大岩を止められず、そのまま手を離した。すると岩はそのまま勢いを増して転がり続け、ついには洞窟の壁に叩きつけられた。飛び上がるような震動と共に、岩はそこで止まった。
「ありがとう、おかげで助かった。坊やはすごい力持ちなんだね。おじさんびっくりしたよ」
「そうかなぁ」
足をさすりながら自分を見上げる薬師に、リュカは嬉しそうに微笑んだ。しかし薬師が立ち上がろうとして、足を引きずり始めたのを見て、リュカはまた彼の顔を下から覗き込む。
「足が痛いの?」
「ああ、ちょっとね。さすがにあれだけ長いこと岩に乗っかられてちゃ、足も痺れるってもんだ。怪我はないと思うんだけど」
そう言いながらズボンの裾をめくった彼の足には血がべっとりとついていた。服の裏地にも血がこびりついているのを見て、リュカは思わず顔をしかめた。しかし当の本人は案外けろっとしていて、怪我の具合を確かめると、大丈夫だと言ってリュカの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「そうだ、ぼく魔法が使えるんだ。だからおじさんのケガもなおしてあげるよ」
足を引きずって歩き始めた薬師の後ろから、リュカは思いついたようにそう言って、彼へと駆け寄った。そして彼に地面へ座るように言うと、薬師は素直に地面に腰を下ろした。少年に治癒魔法が使えるとは思っていなかった薬師だが、命の恩人ともいえる少年に逆らう気はなかった。また裾をめくって傷口を少年に見せる。リュカは薬師の脛に両手をかざして、覚えて間もない治癒魔法の文句を呟いた。少年の言葉と同時に小さな手から溢れ出した仄かな青白い光を見て、薬師は言葉も出なかった。その光は脛の怪我を包み込み一瞬ぱっと眩しい光を放ったかと思えば、直後に消え失せ、洞窟内は元の通りの暗さに戻っていた。
「これで大丈夫かな。痛くない?」
「あ、ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
薬師は信じられないと言った様子で、自分の脛に目を落とした。血は凝り固まってまだこびりついてはいたが、怪我はすっかり治っていた。立ち上がってみると、痛みも引き、普通に歩けるようになっている。薬師は感嘆の溜め息を漏らすと、もう一度少年の頭を軽く叩いた。しかし安心したのも束の間、彼は大事な仕事をはたと思い出した。
「こうしちゃいられない。俺はダンカンさんの薬を調合してたんだった。早く持って行かなきゃ、女将さんに怒られる」
薬師の男はそう言うと、腰に結び付けてあった調合済の薬の瓶を確認し、リュカの手を取った。リュカは慌てて地面に転がしていた杖を拾い、それ以上に慌てる男の手に引かれるまま、洞窟を走り出した。騒がしい二人の足音で天井の蝙蝠が羽をばたつかせ、何匹かが彼らに戦いを挑んできたが、主にリュカが杖を振り回して撃退していた。そうして洞窟を駆け抜けた時間は、リュカが倒れている男のもとへ辿り着くまでの半分にも満たなかった。
洞窟を出たところで待っていたのは、思いもよらない人物だった。リュカは仁王立ちしている父の姿を見た瞬間、身の縮む思いがした。日はすでに西に傾き、昼食も取らずに動き回っていたリュカは、空腹を感じてもおかしくはなかったが、父の姿を見た瞬間その余裕を失った。父の表情は西日を受けてちょうど影になり、表情は読めなかった。
「もう村に着いたから平気だね、坊や。おじさんはちょっと先に行ってるね」
薬師はそう言いながら、パパスに頭を下げると、草むらを掻き分けてあっという間に姿を消してしまった。後に残されたリュカはさらに身の縮む思いで、パパスの前で立ち尽くしていた。
「怪我はないか、リュカ」
「……うん」
「父さんが怒ってると思っているのか」
リュカは素直に頷いた。そんな息子の様子を見て、パパスは固くしていた表情をふと和らげた。黒い口ひげの上に笑い皺が乗っかる。
「本当は怒らなければいけないんだろうがな。父さんは嬉しいんだ」
リュカは困惑した表情で父を見上げている。パパスはリュカの顔がよく見えるようしゃがみこむと、その小さな肩に手を乗せて話す。
「リュカは強くなりたいんだろう」
「うん、ぼくは男の子だから強くなって、お父さんのお仕事のお手伝いをしたいんだ」
「洞窟には魔物がいただろう。怖くはなかったか」
「ちょっと、怖かった。でももっと向こうにお父さんがいるのかなって。それにサンチョが買ってくれた杖も持ってたし、もうちょっと行ってみようって思ったら、あのおじさんが倒れてたんだ」
「父さんは嬉しいよ」
リュカはかなりの部分を端折って説明しただけだったが、言葉少ないリュカの説明で、パパスは全てを把握した。息子は父の姿を追って魔物がいるとも知らずに洞窟に入り、初めて一人で魔物と対峙し、目的とは違ったが一人の人物を洞窟から救った。その一部始終を想像すると、パパスはおもむろにリュカを片腕で抱き上げた。リュカは面食らったように黒い大きな目を瞬き、間近の父の顔を見つめた。自分と同じ父の黒い瞳が一瞬、揺れた感じがした。しかしパパスはそれをすぐに隠してしまう。
「さあ、ビアンカちゃんたちがいる宿へ一度向かうとしよう。薬師のおじさんが走っていってしまったから、急いで追いかけなくてはな」
パパスはリュカを抱き上げながらそう言うと、息子が地面の落としていた杖を左手で拾い上げ、リュカに持たせた。日の光に照らされた杖の持ち手を見てみると、そこには黄色い体毛や昆虫に杖を投げつけた時にできた傷が残っていた。洞窟の中での必死な自分の姿を思い返したリュカは、いつもであれば父の首にすがりついて泣き始めるところだった。しかし今は表情も晴れやかに、間近にある父の顔を見てにっこりと微笑んでいた。
パパスとリュカが宿に着くと、ちょうど薬師がビアンカの母親に調合した薬を手渡しているところだった。薬師の男は深々と頭を下げ、女将さんに謝っているようだった。洞窟の中で落ちてきた岩に下敷きにされそうになれ、挙句にその格好のまま寝入っていたことも洗いざらい話していた。そしてその一室にパパスとリュカの姿が現れると、薬師の男は更に身を小さくして二人に場所を譲った。
「パパスさんの息子さんだったんですね。あの洞窟に一人で入ってくるなんて、道理で勇敢なわけだ」
「まあ、リュカったら一人で洞窟に入ったの?」
薬師の言葉に驚いたビアンカは、素っ頓狂な声を出してリュカに近づいた。心持ち金色のお下げ髪が怒っているように飛び跳ねる。リュカは少し身構えていた。
「お父さんがドウクツに入っていったって聞いてたでしょ。だからボクも行ってみようと思って」
リュカは小さな声でそうビアンカに告げると、彼女は頬を膨らませて両手を腰に当て、眉をひそめた。
「ズルイじゃない、一人で行くなんて。わたしも誘ってよ。あ~あ、わたしも行ってみたかったなぁ」
「でもドウクツにはマモノだっていたんだよ。あぶないんだよ」
「魔物がいたですって? だったらなおさら行きたかったわ。わたしの魔法を試すチャンス……アイタッ」
「いい加減にしなさい、ビアンカ。全く、この娘のお転婆ぶりには呆れてモノが言えないよ」
母親にゲンコツをもらったビアンカは、頭を擦りながら唇を突き出してまだぶつぶつと文句を言っている。そんな娘の拗ねた状況にも慣れている母親は、娘には構わずにパパスに話しかける。
「こうして薬もいただいたんで、今日にでもアルカパの街に戻るわね。何だかんだであの人のことが気になるしさ」
「女将さん、本当に遅くなっちゃってすみませんでした」
「ああ、いいんだよ。えっと、薬のお代はこれでよかったんだよね」
「そんな、お代だなんていただけませんよ。その日中には薬を渡すつもりだったのに、もう二日も経っているんですから。だから今回はサービスということで」
「そんなわけにはいかないよ。ほら、これくらいは取っておきなさい。あんただってこれで食べてるんだからさ」
ビアンカの母親はそう言いながら、銀貨を二枚、薬師の手に握らせた。薬師の男は申し訳なさそうにもう一度頭を下げると、パパスにも一度挨拶をし、そしてリュカにお礼を言って、宿屋を後にした。
「薬も手に入ったことだし、もう街へ帰るのだろう。道中魔物も出るから私が二人を送っていくこととしよう。女子供が二人では危険だ」
「アハハ、そんなやわなもんじゃないよ、あたしらは。ここに来る時だって、途中で遭った巨大なイモムシをこの棍棒でのしちゃったしさ。平気平気」
「それはまた勇ましきことだ。しかし油断大敵だ。それに私も久しぶりにここへ戻ってきたから、ダンカンの顔も見たいしな」
パパスはそう言うと、隣で待っているリュカを見下ろす。リュカは父が問いかける前に、首を横に振った。
「ボクも一緒に行ってもいいよね。ボクだってもう戦えるんだよ。一人でドウクツに入ったよ。お留守番じゃないほうがいい」
リュカの必死な様子に、パパスは苦笑をもらしたが、納得した様子でリュカの頭を軽く叩いた。父の言葉は特になかったが、リュカはその父の手の平からその意思を汲み、笑顔で樫の杖を握り締めていた。父と共に戦うことができる喜びに、リュカは笑顔で目の前のビアンカの手を取った。
「じゃあビアンカはボクが守ってあげるね。ボクは男の子だから女の子を守るんだよ」
「リュカの方が年が下じゃない。それにわたしだって魔物と戦えるわ」
リュカがにっこりと笑顔で言うその言葉に、ビアンカは反論するように負けじと言葉を返した。しかしその彼女の水色の瞳は、リュカに対抗すると言うよりも、むしろまた外に出られるという期待の方が大きいようだった。彼女と会ったその日に、彼女の母親は言っていた。ビアンカは調子に乗って魔法を使っているうちに、魔法力が尽きてへとへとになって帰ってきたことがあると。そんな経験があるにもかかわらず、ビアンカのいきいきとした瞳はまたそのような失敗を繰り返してしまいそうな勢いを持っていた。
「うちの人もあたしたちがいない間に、病気をこじらせてないといいんだけどねぇ。ま、そんなことは万に一つもありゃしないとは思うけど」
「うむ。ダンカンはそんなやわな男ではないとは思うが、病気ばかりはわからないからな。幸いにもまだ昼を過ぎたところだ。今からここを出れば、夕方までにはアルカパの街に着くだろう」
ビアンカの母親はあくまでも平静を装った振る舞いを見せていたが、パパスは彼女の真意を読み、すぐにでも隣町に戻れるよう提案した。彼女はビアンカの母親であると同時に、ダンカンの妻なのだ。夫を心配する気持ちがないわけがない。パパスは身支度を整えてくると言い残し、リュカの手を取って一度家に戻ろうとした。父に左手を取られると、リュカはビアンカの手を取っていた左手を彼女から離した。ビアンカは笑顔でリュカを見つめている。彼女の思いはもう村の外へと飛んでいってしまっているようだった。
「では村の入り口で待ち合わせるとしよう。私達は一度家に戻ってから教会で祈りを済ませて、それからそこへ向かう。その間に二人も帰る準備をしておいてくれるだろうか」
「ああ、分かったよ。ビアンカ、部屋の荷物をまとめて帰る支度をしなさい。あんた、部屋はちゃんと片付けてあるんだろうねぇ」
じとりと母親に見られたビアンカは、自分たちの宿泊する部屋の様子を思い浮かべて、慌てて奥の部屋の扉を開けた。その後姿を見て母親は苦笑いを浮かべている。パパスも笑顔でその様子を見守っていたが、その後すぐにリュカを連れて部屋を出ようと扉を開けた。すると奥からビアンカがひょっこり顔を出し、リュカに手を振ってくる。
「リュカ、洞窟で魔物と戦ったのよね」
「うん、そうだよ」
「私だって負けないからね~」
ビアンカが可愛い顔に似合わず握りこぶしなど見せている。しかし母親にまた睨まれると、すぐに奥の部屋に引っ込み、帰り支度をするべくばたばたと部屋中を動き回り始めた。リュカはそんな落ち着かない様子のビアンカを見て、楽しい気持ちになり、笑顔を見せていた。
「ではまた後ほど」
「はい、よろしくお願いしますね、パパスさん」
「リュカ、行くぞ」
そうしてパパスとリュカは宿屋を後にした。短い距離とはいえ、またパパスと外に出られる。しかもビアンカと一緒に。リュカは短い旅を友達と一緒にいられるというだけで、今までとは違う心が弾む感覚を胸に感じ、家路をパパスの手を引かれながらスキップで帰っていった。