2017/12/03

隣町までの短い旅

 

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パパスとリュカが村の入り口に着いた時には、既にビアンカたちは荷物を手に彼らを待っていた。まだ訪れそうもない春に彼らは十分備えて、厚い外套を身に付けていた。時折身も凍るような冷たい風が吹き付けるが、心が外に飛んでいってしまっている二人の子供には、その冷たさも大した意味を持っていないようだった。そんな子供の姿を見て、パパスとビアンカの母親は目を見合わせて苦笑していた。
「ねぇ、リュカ、どっちが強いか競争よ」
「でもボクは男の子だから、きっとビアンカよりも強いよ」
「でも私より二つも年下だわ。私のほうが魔法だって使えるし。リュカには負けないからね」
「ビアンカ、そんなにはしゃぐんじゃありません。魔物が寄ってきたらどうするのよ」
「そうしたら私がやっつけてやるわ。ママは心配しないで」
「実に頼もしいお嬢さんだ。リュカも少し見習った方がいいかもしれないな」
パパスは高らかに笑いながらビアンカの頭を撫でた。ビアンカはそんなパパスを見上げると、少し頬を染めて笑顔になって俯いた。さっきまでの威勢の良さはどこへやら、大人しくなって手を前に組んでもじもじしている。そんな彼女をリュカは不思議そうに見つめていた。
「さて、出発するとしよう。このあたりはそれほど強い魔物はいないが、油断は大敵。私が先頭に立つから、その後を離れないように付いてきなさい」
パパスは一転して表情を引き締めると、長旅の最中には常に担いでいる緑色の荷物袋は家に置いてきたまま隣町までの道のりを行き始めた。そんな父の姿を見て、この旅がほんの短いものだとリュカは幼心に分かっていた。自分の隣には生き生きとした表情の女の子がいる。彼女はリュカの顔を見ると、にっこりと挑戦的な笑みを見せて、「負けないわよ~」と言いながら小さな拳を作って見せている。そんな彼女の姿を見ていると、リュカも自然に笑顔になり、この短い旅路がとんでもなく楽しいものになりそうだと、小さな胸の中にそんな期待を寄せていた。
真冬に比べ、日差しはかなり高くなっているというのに、まるで春の兆しを見せない。太陽は薄もやがかかったように間接的で、空の色もまだ冬の薄さを持っている。吹き付ける冷たい風に、あたりの緑も心なしかしょげて下を向いているようだ。そんな道端の草花を、リュカは何とはなしに見つめては自分の手に暖かい息を吹きかけていた。
短い旅の途中までは、村の中を散歩しているのではないかと思うほど穏やかで、外に魔物がはびこっていることなど忘れてしまいそうなほど平穏なものだった。そんな中リュカもビアンカも互いに軽い気持ちで会話を交わし、まるで生まれた時からずっと一緒に育ってきた姉弟のように親しくなっていた。リュカの屈託のなさとビアンカのなつきやすい性格が合わさって、二人はあっという間に仲良しの友達になっていた。
「リュカはいいなぁ。私もパパスおじさまと一緒に旅がしてみたい」
「どうしてビアンカはそんなに旅がしたいの?」
「だって旅って色んなところにいけるでしょ。楽しいことがたくさんありそうじゃない。今の町がキライってわけじゃないけど、何か物足りないのよねー」
旅に出たことのないビアンカは旅に対して夢や希望をめいっぱい詰め込んで、リュカに話していた。そんな彼女にリュカは複雑な表情で考え込むようにしてビアンカの顔を見つめた。ビアンカの方といえばリュカの顔など見てはおらず、その水色の瞳は想像上の旅路を見つめているようだった。そこでどんな美しい景色や楽しいことがあるのかは分からないが、ビアンカの表情はその想像の中でうっとりとしているようだった。
「じゃあ、ボクが大きくなってもっと強くなったら、ビアンカを旅に連れて行ってあげるよ」
「リュカが、私を? ……何だか想像がつかないわ」
「なんで?」
「だってリュカったら私よりも背だって低いし、パパスおじさまみたいに強いわけじゃないし。リュカに守られるってちょっと想像つかないな」
「そうかなぁ」
「リュカが剣のお稽古だってして、魔法もいっぱい習って、もっとずっと強くなったら考えられるかもね」
「うん、じゃあ頑張るよ、ボク」
リュカは無邪気な笑顔を見せて、ビアンカに幼い約束をした。一方ビアンカはリュカの言うことを真に受けず、ただ大志を抱く弟を誉めてあげるように彼の頭を撫でてやった。彼女のことを同年代のお友達だと思っているリュカは、ビアンカに子供扱いされる度に口を尖らせて拗ねてしまう。この時も例外ではなく、リュカはビアンカの顔を恨めしそうに見上げ、本気にしていない彼女を下から睨むように見ていた。しかしビアンカと言えば、もうリュカのことなどお構いなく、また楽しい旅路を満喫しようと周りの景色に目をやり始めた。リュカはビアンカのめまぐるしい動きに、付いていくのがやっとだった。
歩き始めて一時間ほど経った頃、先頭を歩いていたパパスがふとその歩みを止めた。そして後ろをついて歩いていた子供二人を背に守るようにして、腰に帯びていた剣の柄に手を掛ける。リュカは長いこと父と旅をしてきて、その雰囲気を読み取る術をいつの間にか身につけていた。周囲を見渡しても、そこにはただ至って穏やかな草原の緑色が続いているだけだ。だが父の視線を追うリュカは、草むらの影に潜む魔物の姿を目にした。同じ緑色のその魔物は視覚では捉え辛いものだったが、風に吹かれる草むらとは明らかに異なる動きを見せている。リュカは手にしていた樫の杖を両手で構えて、少し緊張した面持ちでビアンカに背を向けて立った。リュカの小さな背中が目の前に現れ、目を丸くしたビアンカは、思わず不服そうにリュカの背中に話しかける。
「何よ、リュカ。私、自分のことくらい自分で守れるわよ」
「でもあんな大きなイモムシだよ。あぶないよ」
リュカがそう言いながら自分の前から退こうとしないのを見て、ビアンカは怒ったようにリュカの隣に並んで立った。勝気な少女の心に火を点けるには、リュカの言葉や行動は最適なものだったようだ。
「私だって戦えるんだからね。バカにしないで」
ビアンカはリュカへの挑戦的な態度を崩さないまま隣の彼を見下ろすと、得意としている魔法を唱え始める。あっという間にできた火の球は、彼女の顔くらいの大きさでごうごうとうなり、ビアンカがえいっと投げるように手を動かすと、彼女の意思どおりに草むらに向かって飛んでいった。リュカの視線を追っていたビアンカは魔物の位置をちゃんと把握していたようで、その火球は魔物の身体を完全に捉えた。緑色の巨大芋虫から煙がしゅうしゅうと上がると、ビアンカは勝ち誇ったように両手を腰に当ててリュカの前で胸を反らして見せた。リュカもビアンカの魔法の力を目の当たりにして、すごいすごいと彼女の手を取って喜んでいた。
しかしその喜びも束の間、辺りの草むらがいっせいに波打って騒ぎ始めた。風の起こすざわめきなどではなく、それは新たに現れた魔物の起こしたざわめきだった。パパスは冷静にじっと草むらに目を向けて、構えた剣を握り直す。そんな父の姿を見て、リュカはビアンカと目を見合わせ、辺りを確認し始めた。すると二人の予想を遥かに上回った巨大芋虫の大群が彼らの周りをぐるりと取り囲んでいた。その圧倒的な数に、リュカもビアンカも口をあんぐりと開けて、しばし眺めることしかできなかった。
「幸い、奴らの動きは鈍い。女将さん、二人を連れて先に行っていてくれると有難い」
「分かったよ、パパスさん」
パパスの指示に真剣な表情で答える母の姿を見て、ビアンカはバツの悪そうな顔をして俯いてしまった。先ほどまでの元気な口ぶりもなくなり、ぼうっと自分のことを見上げているリュカの手を無造作につかむと、ビアンカは母の後をすごすごと付いていって、その場所を離れた。魔物と一人対峙する父と並んで戦い気持ちもあったが、リュカはビアンカのしょげ返った表情を見ているうちに、その手を離すのが躊躇われ、結局彼女たちについて安全なところまで移動することになった。
巨大芋虫の動きはパパスの言う通り緩慢で、所詮パパスの相手ではなかった。パパスは扱いなれた大振りの剣を鮮やかに使いこなし、自分に向かってくる魔物を次々と着実に仕留めた。中にはただ草むらで食事をしているだけの魔物もおり、パパスはそんな魔物には手出しせずに、放っておいた。魔物としての心が強い巨大芋虫はパパスをはっきりと敵と認識し、躊躇など見せずに彼に向かって攻撃を仕掛けてくるが、やはりその動きは鈍く、パパスは冷静に剣を振るってただ女子供を守るため戦った。そんな父の剣さばきをリュカはじっと目に焼き付けていた。



それからアルカパの町に着くまでの間、魔物の大群に取り囲まれるようなことはなかった。町や村から一歩外に出れば魔物がはびこっているという大人の言うことが、リュカにはにわかに信じがたいことになりつつあった。それほど穏やかな道のりだった。地平を照らす西日が正面から彼らを包み、その眩しさにリュカは目を細めてその彼方にある景色に目をやっていた。
そんなリュカの隣で、幼馴染の女の子はまだ元気を取り戻せずに、時折母親の顔色を窺うように横目でちらちらと様子を見ている。彼女の母親はパパスと他愛もない話をしながら、ビアンカのそんな視線に気が付いているのかどうかも分からないまま、ただ着実に隣町に足を進めていた。あれほどおしゃべりをしていたビアンカがほとんど話さなくなってしまい、リュカは心配そうに彼女に話しかけた。
「ビアンカ、どうしたの。元気ないね」
「え、そんなことないわよ」
急に話しかけられて、驚きを隠せないビアンカは水色の大きな目を見開いてリュカを見ると、ぎこちなく笑って彼にそう答えた。その言葉の調子を聞いて、リュカはさらに不安そうに彼女を見上げる。
「疲れたんじゃないの? お父さんに言ってこようか」
「大丈夫だってば。疲れてなんかないわよ。ただ……」
「うん?」
「いけないことをしたなって、思ってたのよ」
ビアンカがごく小さな声でそう言うのを、彼女の母親はしっかりと耳にしていた。その直後に母と目があったビアンカは気まずそうに口を尖らせて俯いてしまう。しかし彼女の母は娘のしょげた顔を見ると、ふっと笑みをこぼして告げる。
「反省してるようだね、ビアンカ」
「……うん、ごめんなさい。もう二度とあんなことしないわ」
「そうだよ、あんたは女の子なんだから、魔物に魔法をぶっつけるなんて勇ましいことをしなくたっていいんだからね。もうちょっとおしとやかに……」
「あら、女の子だからなんてそんなこと関係ないわよ、ママ。私はただあんなにいっぱい魔物がいるなんて分からなかったから、あんなふうに魔法を使うんじゃなかったって思ってたのよ。相手が一人だったら私の魔法でだってじゅうぶん戦えたはずよ。だから私これからもいっぱい魔法のお勉強をするんだから。そうして悪い魔物をやっつけてやるのよ」
つい先ほどまでしゅんとして肩を落としていたのが信じられないほど、ビアンカは一気にそう捲くし立てると、母の目の前で胸を張って腰に両手を当てる。それが強い彼女のポーズだった。心なしか両方のお下げ髪も彼女の心のように強く跳ねているようにさえ見えた。
「でもビアンカ、マモノだっていい子はいるんだよ」
ビアンカが母親の目の前でつんと鼻を上に向けている隣で、リュカはぼそっとそう呟いた。しかしあまりに小さな声で、その言葉はビアンカにも二人の大人にも届かなかった。ビアンカの母は呆れたように溜め息をつくと、肩をそびやかしてパパスを見た。パパスはそんな母子の平和な様子を苦笑交じりに眺めているだけだった。
目の前に見えていた山々の中にいつの間にか足を踏み入れ、親子二組は山と森に囲まれた美しい町並みを目にして顔を見合わせると、自然と笑顔になるのを止められなかった。もうすぐ夜の帳が下りてくる時間に街の暖かい明かりを見るのは、心と身体の疲れを取るには最適なことだった。リュカはサンタローズに着く時に見た村の明かりを想像していたが、アルカパという隣町の生活の明かりは故郷の村の比ではなかった。町全体を照らす明かりに、真っ暗な空までもが反射して明るく見えるようだった。おかげで空に浮かぶ星と月が居心地悪そうに縮こまって、小さく見えるほどだ。リュカは目の前に迫る記憶にない町の様子に、心を躍らせ始めていた。
「あれが私たちの町よ。ね、大きいでしょう。お店だってたくさんあるんだから。夜だってこんなに明るいから、まだまだ遊べるわよ。パパの病気が治ったら町を案内してあげるわ。私が色々連れて行ってあげるね。まずはね……」
「ビアンカ、リュカ君だって疲れてるんだよ。長旅から戻ってすぐにこっちへ来てくれてるんだから、少しは休ませてあげなさい」
「えー、そんなのつまんないわ。せっかく町に来てくれたんだから色々教えてあげなきゃ。サンタローズの村よりもきっともっと楽しいんだから。ね、リュカ、パパが元気になったら一緒に遊びましょうよ」
ビアンカはリュカの小さな両手を取って満面の笑顔をリュカに見せている。サンタローズの村から歩いた道のりをすっかり忘れるほど、彼女の疲労や反省はぶっ飛んでしまっていた。夜の闇が彼女の周りだけ薄らいでしまったように見えたリュカは、口を開けたままおとなしく頷いていた。そんなリュカの返事を受けて、ビアンカは笑顔を更に深くしてリュカの両手をぶんぶんと上下に振った。一緒に金色のお下げ髪もあちこちに跳ねる。
「でしょー、そうこなくっちゃ」
ビアンカはリュカの手を引いたまま、くるくると舞うようにして町の中へと走っていってしまった。彼女にとっては隣町に戻る道のりは、短い旅路にもならなかったようだ。ビアンカに連れられて付いていくリュカの方が足元がおぼつかない。こけつまろびつビアンカの手に引かれて一緒に走っていく。ビアンカは後ろを振り返りもせずに容赦なくリュカの手を引っ張ってぐんぐん足を進めて、あっという間に見えなくなってしまった。そんな娘の姿を、母は深い溜め息をつきながら見守るほかなす術がなかった。
「あのお転婆、どうにかなんないのかねぇ。あんなふうに育てた覚えはないんだけど」
「元気でなにより。それよりも私達も急ごう。ダンカンが心配だ」
「ああ、それなら大丈夫だよ。ただ風邪をちょっとこじらせただけなんだからさ。そう心配することなんかないんだって。薬も手に入ったことだし、すぐにうちの人も良くなるさ」
ビアンカの母はそう言うと夜の闇を突き飛ばさんばかりに大声で笑った。そんな彼女の姿を見てパパスはビアンカのお転婆はきっと直るものではないのだろうと、一人考えて苦笑していた。それがたとえ血筋によるものではないにしても、母が大好きな娘は強い母を真似て強くあり続けるのだろうと確信に似た思いを頭の中によぎらせていた。



町の入り口から真っ直ぐに伸びる大通りを抜けると、その奥にはこの街のシンボル的存在である赤屋根の大きな宿屋が見えた。夜の闇の中でも町の明かりで照り返される赤屋根は彼らの帰りを待ちわびているようにその赤さを際立たせていた。宿屋の入り口に立てられる松明に明かりはすでに二人の子供を迎えていたようだ。宿屋の大きなドアを開けるビアンカとその横に立っているリュカの後姿が見えると、ダンカンの妻はようやく我が家に帰ってきたというように緊張していた全身の力をゆっくりと抜いていった。そしてサンタローズの村で薬師に手渡された薬の入った袋を掴み、ビアンカがすでに入っていった宿屋の中へと帰った。
「お帰りなさいませ、おかみさん」
「しばらく留守にして悪かったねぇ。ようやく薬が手に入ったんだ。これで主人の病気が治れば、私もすぐに仕事に戻るからね」
「はい。まずなにはなくとも旦那さまのところへ行って差し上げてください。まだ熱が下がらないで苦しそうなんですよ。見ているこっちが辛くなってしまって……」
「なんだい情けない。たかが風邪じゃないか。死ぬような病気じゃないんだからそんなに弱気なことを言うもんじゃないよ」
宿屋のおかみの顔に戻った彼女はそう張りのある声で言うと、宿屋のロビーを掃いていた雇い人の背中をバシバシと叩いた。雇い人の青年はその強さにおもわずむせていたが、そんな彼には構わずに彼女は店のカウンターの跳ね板を持ち上げて、奥で待つ主人の下へと足を速めた。その後をパパスが苦笑交じりの表情を浮かべながら続く。
「ママ、パパがとっても苦しそう。早くお薬をせんじて飲ませてあげないと……」
先に部屋に入っていたビアンカが声を弱めて母に伝える。広い部屋にあるベッドには眉根に皺を寄せて眠るダンカンの姿があった。遠くからでも分かる彼の荒い息にビアンカは不安を感じたようで、父の額からずり落ちていた濡れタオルもそのままにただ父の様子を母に伝えて、母の強さにすがろうとしていた。
ダンカンは見た目にも病魔と闘いながら疲れているようだった。まだ歳はそうとっていないはずだがその頬は食事をしばらくしていないために落ち窪んでしまい、そのせいで首筋を通る血管もくっきりと目に見える。食事をとっていない割には彼の額から脂汗が出るのは止まらず、ダンカンは残っている体力で一生懸命熱を出して、体内にこもる病魔を追い出そうとしていた。
しかしそんな状態のダンカンに妻は容赦しなかった。部屋の中へと普通に入ってくると、ダンカンの傍らに立ち、彼の肩をそっと揺さぶった。
「ほら、あんた、薬を持ってきたよ。いつまでも寝てないでこの薬をとっとと飲んじゃいなさい」
妻に揺り起こされ、ダンカンはうめきながらうっすらと目を開けた。そのグレーの瞳に映る姿はいつもと変わらぬ妻の姿だ。ダンカンは安心したように笑顔を見せると、荒い息はそのままにゆっくりと身体を起こそうとベッドに手をついた。妻に背中を支えられてようやく身体を起こした彼の目の前には、パパスが手早く煎じた薬が用意されていた。しかし今のダンカンにはまだパパスの存在を確認できるほどの余裕はなく、ただ目の前に現れた妻と娘の姿に安堵するばかりだった。
身体を起こしたダンカンにまず妻は水を飲ませる。からからに乾いたダンカンの喉が潤うと、その後に煎じた薬をスプーンに掬って流し入れた。幾日か眠っていたダンカンは不器用にもそれを飲み下すと、苦さを感じたのか顔をゆがめて緑色になった舌を皆に見せた。
「俺は薬が嫌いだって言ってたじゃないか……」
「何言ってんだい、薬なしじゃまともに風邪すら治せないくせに。ほら、薬を飲んだら寝る。寝て起きりゃもう風邪なんかどこかに行ってるだろうよ。どうだい、もう少し水を飲んでおくかい?」
その言葉にダンカンが頷くと、妻は言葉の強さとは裏腹にベッドの端に腰掛けながら甲斐甲斐しく夫に水を飲ませてやった。コップに注がれた水は氷でも入っているのかと思うほど冷えていて、ダンカンは勢いよく流し込まれる水に目を白黒させていた。
「ああ、もう大丈夫だ。ありがとう」
主人の感謝の言葉を聞くと、妻はようやく肩の力を抜いてふーっと長い息をついた。そして後ろでダンカンを見守っていたパパスに声を掛ける。
「パパスさん、本当に世話になったね。お礼に今日は一日うちで泊まっておいでよ。宿泊代なんて取らないからさ。それくらいはお礼をさせておくれ」
「なにっ、パパスだと?」
妻の言葉を聞いていたダンカンは再び沈めかけていた身体をがばっと起こすと、今までの病気が嘘のようにグレーの瞳をキョロキョロとさせ、部屋の中を見回した。そして妻の後ろに立っている旧友の姿を確認すると、今度は友を見つけた喜びに顔を綻ばせる。
「おお、パパスじゃないか。帰ってきていたのか。しばらくぶりだな。いつ旅から帰ってきたんだ」
そういうダンカンの顔はまだ赤く、とてもまともに話ができる状態ではなかった。息だってまだ荒い。ぜえぜえ言いながらパパスと話し込もうとするダンカンを止めたのは他でもない彼の娘だった。
「パパったら、まだ辛そうなんだから寝てないとダメよ。私がカゼと引いたときはうるさいくらいに寝ろ寝ろって言ってたくせに、自分だけそんな起きてるなんてずるいわ。それにパパスおじさまだって疲れてるのよ。おじさまにメイワクでしょ」
ビアンカは怒ったように頬を膨らませて一気にそう言うと、父の額から落ちていた濡れタオルを手に取り、桶に汲んであった水に浸して手際よく絞り、乱暴に父の額にべしりと突きつけた。タオルを受け取ったダンカンは苦笑しながら娘に力ない微笑を見せると、そのままベッドに沈み込んでしまった。
「パパス、今日は一日ここへ泊まっていくんだぞ。朝俺が起きていなくなってたら、追いかけてサンタローズの村にまで行ってやるからな。それでまた旅の話を聞かせてくれよ」
「ああ、分かってる。だが今は奥方やビアンカちゃんの言うとおり体を休めてくれ。私も今日は一日こちらでお世話になることにしよう」
「それじゃあうちで一等良い部屋を用意するよ。二階の端の部屋でね、テラスからの眺めが最高なんだ。町が一望できるよ。星空だって最高の眺めなんだ」
ダンカンの妻は顔をぱっと輝かせてそう言うと、早速お客を迎える準備をしようとばたばたと部屋を出て行ってしまった。それに続いてビアンカも母を手伝おうと一緒になって部屋を出て行ってしまった。残されたパパスはベッドに横たわるダンカンと目を見合わせると、互いに声を出して笑い合った。一緒になって残っていたリュカは大人二人が笑い合う姿を見て、ただぼうっとその場で立っていることしかできずにいた。
「リュカ、お前は先に部屋に案内してもらいなさい。父さんは後から行くから」
「うん、分かった。でもお父さんは?」
「父さんはもうしばらくしてから行くことにするよ。どうにもダンカンは今話がしたいみたいだ」
「そこにいるのはリュカ君か。すっかり大きくなっちゃって。もう立派な男の顔をしてるじゃないか。さすがはパパスの息子だなぁ」
ダンカンは感慨深げにベッドの上から顔だけをリュカに向けて、パパスの息子として立派に育っている少年の顔をまじまじと見つめる。しかしリュカには初対面の意識が強く、うまい言葉を返せずにただダンカンの視線を小さな身体で受け止めていた。
「リュカ君、明日おじさんの身体が良くなったらお父さんも一緒にお話しよう。今日は疲れただろうからゆっくり休むんだよ」
「うん。あ、はい。じゃあボク先に行ってるね、お父さん」
「ああ、じゃあ父さんの荷物を持って行ってくれるか」
そう言うパパスから落ちない旅の汚れがしみついた緑色の袋が手渡されると、リュカはダンカンにぎこちなく頭を下げてドアを閉めて部屋を後にした。そしてリュカは一人、宿泊する二階の部屋へと螺旋状に続く大きな階段を軽い足取りで昇っていった。
「あっ、リュカ、こっちよ」
二階に着くや否や、遠くからビアンカの声が聞こえた。宿の廊下を照らす明かりは十分で、リュカは昼間のように明るい廊下の向こうにいるビアンカの姿をすぐに見つけることができた。ビアンカは元気に手を振り、リュカに手招きしている。初めてきたわけではないがこの宿の記憶がないリュカはその明かりのおかげで大した恐れもなく、自分たちに用意された部屋へと足を進めた。
「ここのテラスからの眺めは最高だってお客さんにもウケがいいの。ね、一緒に見ましょうよ」
リュカの返事を待つこともなくビアンカはさっさとリュカの手を取ると、よろめくリュカと一緒に部屋を一気に横切っていった。部屋の中ではビアンカの母親がベッドメイキングをしている。真っ白いシーツが巨大な羽のように空気をはらませて舞い、リュカはそれを見ているだけで心躍らせた。サンタローズにある我が家のベッドは安心を得るために、こういう旅の途中の宿屋のベッドは気持ちを高揚させるのが常だった。おまけにこのアルカパの宿屋のベッドは大きい。これなら父と一緒に寝ることも苦しくないだろうと思った瞬間にビアンカに顔を覗き込まれ、リュカは思わず考えていたことを見透かされたのかと勘違いして俯いてしまった。ビアンカは不思議そうにリュカの俯いた顔を見ていたが、それも彼女にとっては大したことではなかったようで、またリュカの手を引っ張ってテラスに出た。
「ここから町を眺めるのも好きなんだけど、私はここから見る星空がロマンチックでステキだなって思うんだ。ほら、リュカも見上げてみてみなさいよ」
ビアンカにそう言われたリュカは俯いていた顔をぐるりと上に向けると、飛び込んできた星の数に驚いた。この町はサンタローズの村に比べればかなりの都会で、もう夜になっているというのに町の明かりが消えないために空までもが明るく見えていた。しかしひとたび空を見上げれば、そこから望む星空は山の頂上から望む景色に匹敵するほどの美しさだった。町の宿屋の二階に上がっただけでこれほど違う印象を受け、リュカは口を開けてしばらく星空を眺めていた。
「ね、きれいでしょう」
「うん、きれいだね。星の海みたい」
「星の海、ねぇ。リュカって結構ロマンチストなのね」
リュカの一言にビアンカはうっとりしながら窓に手をかけながら星空を無心に見上げていた。リュカも散りばめられた無数の星に吸い込まれるようにじっと黒い瞳をきらきらさせて、彼女の隣で一緒になって星空を見上げていた。
「ビアンカ、ちょっと遅くなったけどお夕食の準備をするから手伝ってくれる?」
「えー、でも私もうちょっとここで……」
「せっかくパパスさんとリュカ君がここに泊まってくれるんだから、おいしい食事を作らないといけないだろう。二人においしいものを食べてもらおうって思わないかい?」
母のその言葉にビアンカは後ろをくるりと振り向き、星空を見上げていた以上の笑顔を母親に見せた。その頬はうっすらと朱に染まっている。そんな彼女の様子に気が付かないリュカはまだ一人で星空を見上げている。
「そうよね、パパスおじさまがうちに泊まってくれるんだもの。私のお手伝いがないとママだって辛いわよね」
ビアンカのはっきりとした意図に母は笑うのをこらえるように顔を歪め、娘にそうだそうだと言わんばかりに首を縦に振った。ビアンカは表情を明るくしたまま、まだ窓枠に両手を乗せて外を眺めているリュカの肩をトントンと叩いて言う。
「ねぇ、リュカ、私ちょっとオシゴトがあるから下に行くけど、リュカは今日はお客様だからここでゆっくりしていってね。おじさまも今ここへ呼んでくるわ。それでおいしい食事ができたら私が呼びに来るからそれまで待っててね。それでね、おじさまにお願いしてほしいんだけど、今までの旅の話が聞きたいんだ。私って外に出るって行ってもせいぜい隣のサンタローズくらいで他のところって行ったことがないのよ。おじさまやリュカって色んなところへ行ってて色んなことを知ってるんでしょ。だからそういう話を聞きたいなぁって思って……」
ビアンカがまるでその台詞を一息に言うのを見ながら、リュカはそのあまりの速さに付いていけずただビアンカの前でぽかんと彼女が一方的に喋るのを聞き流していた。そんなリュカの戸惑いなどお構いなく、ビアンカは更に喋り続けようとするが、母親のストップが入り、ようやく止まらない口をどうにか留めた。
「ビアンカ、おじ様だってリュカ君だって旅から帰ってきて間もないんだから疲れてるんだよ。そんな時にそんなお願いをするもんじゃありません。ゆっくり休ませて上げなさい」
母親にぴしゃりとそう言われたビアンカは思わずその場で口を噤んでしまった。ようやく止まったビアンカの一方的な会話にリュカは訳も分からないままほっと胸を撫で下ろしていた。実際ビアンカの話の半分以上はよく理解できていなかったリュカは彼女の話に対する答えを用意できずに呆然と聞き流しているだけで、答えを求めていそうな彼女の話に答えを持てず、一人ドキドキしていたのだった。
「ごめんねリュカ君、この子はいっつもこうやって一人で勝手に喋るから面食らったろう。ゆっくり休んでおいで。今お父さんも呼んでくるからね」
「うん、ありがとう。ボク、まだここにいてもいいの?」
「そりゃもちろん。食事ができたら呼ぶからそれまでゆっくりしていなさい。ほら、ビアンカ、行くよ」
「――はーい、ママ」
母親の有無を言わさぬ口調に渋々くっついていく幼馴染の女の子。心なしか金色のお下げ髪もいつものような元気さを失っているように下を向いているように見えた。部屋から出ていこうとする彼女の後姿に、リュカは声を掛けた。
「お父さん、きっと旅の話ならしてくれると思うよ」
「ホントに!?」
リュカの一言にきらきらした水色の瞳で見返してきた少女の表情を見て、リュカは笑顔で頷いて見せた。その後すぐに母親に連れられて階段を下りていったビアンカだったが食事の後の楽しみを見つけた喜びのおかげで、母親の料理の手伝いも不満を漏らさずに出来たようだった。
嵐のようなひと時が過ぎ去った部屋に残ったリュカは無意識に息を一つつくと、ベッドに腰を下ろした。先ほど新しい真っ白なシーツがかけられたベッドは太陽の匂いが強かった。リュカは寝転がってその匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ふかふかの枕に顔をぎゅうぎゅうと押し付けた。どこもかしこも太陽の匂いに包まれていた。まだ冬の寒さが身にしみる季節だが、リュカはその匂いに安心を得て、いつの間にか真っ白なシーツの上で深い眠りについてしまった。しばらくして部屋に入ってきた父が見た息子の寝顔は、何か良い夢を見ていることを想像させるような平和なものだった。

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