2017/12/03

ネコ?

 

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翌朝も少し肌寒いながらもすっきりとした青空が広がっていた。リュカは広いベッドの上に寝そべったまま窓を見上げ、どこまでも透き通るような青空を眺めていた。父と旅をしてきて様々な町や村を回ってきているというのに、このアルカパの町はリュカの心を今まで以上に浮き立たせた。それは昨日ビアンカと見上げたきれいな夜空であったり、女将さんが作るおいしい食事であったり、父が友人と話す独特の雰囲気であったり、色々な理由が重なってのことだった。リュカは昨夜風呂で洗って乾かないうちに寝てしまったぼさぼさの髪を手櫛でがしがしと解くと、うーんと気持ちよく伸びをしてベッドの上に起き上がった。
隣のベッドでは珍しくまだ父が眠っていた。寝坊がちの自分が起こされるのが常であるというのに、父はリュカに背を向けて眠りこけている。リュカが起き上がっていることに気が付く気配も見せない。リュカはそんな父の後姿を見ながらにんまりと笑うと、そっとベッドを降りた。
「今日はボクが起こしてあげなきゃいけないみたいだね」
リュカはそう呟きながら笑顔をこらえられずに静かに父のベッドに近づいた。リュカは忍び足で近づき、やはり父はそんな息子の行動に気が付かず毛布に包まっている。そしてリュカが父の肩に手を掛けようとした時、父が突然激しく咳き込んだ。リュカは驚いて出していた手を引っ込めたが、父はリュカに気が付いたわけではないようだった。呼吸が乱れるほどの咳をして、父は自分が咳き込んだことで目を覚ました。咳もただ咽たというのではなく、喉に絡みつくようなしつこい咳だ。まだ背を向けている父の様子をリュカは眉をひそめて見つめていた。
目を覚ましたパパスはゆっくりと天井を仰ぎ見るように寝返りを打った。リュカは父の顔色を見て目を丸くした。いくら酒を飲んでも顔色一つ変えない父の顔が異常なほど真っ赤に染まっている。その異状に気が付けば、他の異状に気が付くのも早かった。父の呼吸は咳をするしないにかかわらず乱れており、父の身体を包む毛布が上下する速さが普通ではない。毛布を首まですっぽり被ってなお、父は寒さにがたがたと震えている。平静を取り戻したリュカが再び近寄ろうとすると、パパスはゆっくりと息子の顔を見て、すっかり嗄れた声でリュカに伝える。
「リュカ、どうやら父さんは風邪を引いたみたいだ。女将さんを呼んできてくれるか。昨日ダンカンに渡した薬がまだあればいいのだが」
父はそこまで言うとまた苦しそうな咳をした。リュカは父の背中をさすろうと近づいたが、父に手で制されて渋々部屋を出て行った。
一階のキッチンですでに朝食の準備をしていた女将を見つけると、リュカは走り寄って声を掛けた。いつもなら朝食の匂いには敏感なリュカも、父の苦しそうな顔を脳裏に焼き付けた今はそれどころではない。冷静ならば焼きたてのパンの匂いは確実にとらえていた鼻は、今だけはその役割を果たせずにいた。切羽詰ったリュカの表情に、女将もつられて真剣な顔をリュカに向ける。
「お父さんがカゼを引いたみたいなんです」
「パパスさんがかい? ああ、うちの人の風邪が移っちまったんだね。そりゃいけない、早いとこ薬を飲んで……って薬は昨日うちの人に飲ませた分しかなかったんだった」
女将はそこまで言うと頭を抱えた。リュカも一緒になって頭を抱える。そんな二人の下に、すっかり体調が良くなったダンカンがひょっこり姿を現した。
「おや、二人で朝から何をやってるんだ。何かの体操か」
パパスに風邪を移した張本人のすっとぼけた言葉に、女将は危うく病み上がりの主人を思い切りはたきそうになっていた。何とか押しとどめた手でお玉を握ると、鍋の中に渦巻くとうもろこしのスープをひとかきした。
「あんた、昨夜はパパスさんといつまで話し込んでたんだい」
「昨夜は、そうだなぁ、気が付けば窓の外がうっすら明るくなっていたような……」
「風邪はすっかり治ったんだね」
「ああ、もう熱も完全に引いたし、咳だってまったく出ない。いやぁ、あの薬のおかげだよ」
「なーにが薬のおかげだよ。人に移せばそれだけ治りも早くなるってもんだ」
「移せばって、誰か風邪を引いたのか?」
すっかりとぼけているダンカンに妻は疲れたように大きく息をついて肩をすくめる。ダンカンは首をかしげて妻を見ていたが、隣にリュカが起きだしているのを目にすると人の良い笑みを見せた。
「リュカ君、おはよう。お父さんはまだ寝てるのかい? 昨夜は遅くまで話していたからなぁ、無理もない」
「あんた、いい加減すっとぼけるのもやめにしなさい。パパスさんが風邪を引いて起き上がれないでいるんだよ」
「ええ、そうだったのか。それはすまないことをした。私の調子がすっかり良くなっていたもんだから、まさかパパスに移っていたとは思いもしなかった」
ダンカンは悪気はないが、調子に乗って友人と一晩中語り明かしたことを反省するように俯いて頭をぽりぽりと掻いた。朝食を作る手を止めてじっと自分を見ている妻の視線が痛く、ダンカンはもう一度頭を申し訳なさそうに掻くと、リュカの低い視線に合わせて膝を折った。リュカは初対面に近い父の友人に、思わずすがるような視線を向けていた。
「リュカ君、ごめんな。おじさんが昨日飲んだ薬を君のお父さんに……」
「それは昨日あんたに全部飲ませたんだ。だからもうここにはないんだよ」
「何だって? ああ、どうりでとんでもなく苦かったはずだ。すごい量を飲ませたんだろう。薬を飲むのは適量でなきゃ駄目なんだぞ。一体どれだけ私に飲ませ……」
「現に治ったんだからいいでしょう。それよりもパパスさんの風邪、どう責任をとるつもりだい。リュカ君がかわいそうじゃないか」
「う、うん、分かってるよ。はあ、仕方ない、サンタローズまで行ってくるか」
「仕方ないじゃないよ、まったく。さあ、さっさと行って取って来るんだよ」
「さっさとと言われても私だって病み上がりなんだから。少しは休ませてくれよ」
「人様に、それもお客さんに風邪を移しておいて、何甘えたことを言ってるんだい。さっさと行く支度をしなさい」
夫婦のやり取りはとても早くて、リュカはそのスピードに追いつけずにいた。女将はそんな会話を続けながらも朝食の準備から手を離さずにいたし、ダンカンは会話の合間合間に出来上がりの近いスープを味見するべく皿を取り出し、妻にスープを入れてもらって、口ひげに黄色い跡をつけながら味見を終えていた。そして塩を一振りまでしていたのだった。そんな二人のやり取りをリュカは呆然と見つめていた。
「私がパパスさんの看病をしてるから、リュカ君は違う部屋にいてくれるかい? お父さんの風邪が移るからね」
「え、でもボクもお父さんのそばにいたい」
「そしたらリュカ君も風邪をひいちゃうよ。だから……そうだ、ビアンカと一緒に外で遊んでおいで。あの子、きっとリュカ君と一緒に町で遊びたがっているはずだから」
女将の言う言葉にリュカはぐっと言葉が詰まった。サンタローズで一緒に散歩をしているときに、ビアンカとは『また一緒に遊ぼう』と約束していたことを思い出した。
そんな折に厨房にビアンカが元気良く入ってきた。手には重そうな桶を抱え、桶の中には井戸水がたっぷりと張っており、それを床に下ろすとリュカに朝の挨拶をする。
「リュカ、おはよう。おじさまは一緒じゃないの?」
「うん、お父さんカゼを引いたみたいなんだ」
「まあ、うちのパパの風邪が移ったのね。パパ、ダメじゃない、おじさまに風邪を移したりして」
娘にまで怒られてダンカンは完全にしょげ返っていた。ビアンカは桶を再び持ち上げて中の水を水溜め場に流し込むと、まだ部屋から起き上がれずにいるパパスのもとへと向かおうとした。しかしそれを彼女の母親は止め、娘を諭すように話す。
「今あんたがパパスのところへ行ったら、あんたまで風邪を引いちゃうよ。心配なのは分かるけど、今はそっとしておいてあげなさい」
「でもおじさまの看病は誰がするの? 私だってそれくらいできるわ」
「あんたは看病じゃなくて、ただパパスと話したいだけなんだろう。相手は病人なんだから話なんかろくにできる状態じゃないんだよ。だから部屋には入るんじゃないよ」
ビアンカはまだ不満な表情をしていたが、彼女にとって母の言うことは絶対で、逆らえる余地も与えてはもらえなかった。その上彼女がパパスのそばにいたいのは母の言うとおり、ただ話がしたいからだった。パパスと一緒に町を歩くことを想像していたビアンカは少し肩を落としたが、隣にいるリュカに顔を覗き込まれると、何事もなかったように自分もリュカの顔を見下ろした。
「ビアンカ、今日も宿のことは大丈夫だから、リュカ君と一緒に町に出ておいで。お金も少し渡すからリュカ君とデートしてきなさいな」
そう言いながらビアンカの母は前掛けで手の水を拭き取ると、戸棚から取り出したわずかばかりのお金をビアンカに渡した。ビアンカはそれを大事そうに懐にしまいこみ、まだ少し腑に落ちない顔をしながらリュカの手を取った。リュカもビアンカと同じような顔をしてダンカンと彼の妻を同時に見やった。
「リュカ君も今日は一日お父さんとは離れていなさい。風邪が移って一番悲しい思いをするのはお父さんなんだから。だから今日はビアンカと遊んでおいで」
「おじさまの看病はママがしてくれるから、リュカ、行こう。私が町を案内してあげる。お金ももらったし、一緒にお買い物でもしようよ」
強い女性二人の意見に逆らう術を持たないリュカはビアンカに取られた手を軽く握り返すと、小さな声で「うん」と頷いた。そんな彼の表情を見ながらビアンカは母に元気良く手を振って、気乗りのしないリュカの手をぐいぐいと引いて宿を出て行った。その二人の小さな後姿を見ながら、ビアンカの母は軽く鼻で息をつき、まだ隣でぼやぼやしている亭主を怒鳴りつけた。



「大丈夫よ。おじさまってとても強い人だもの。風邪なんかすぐに治っちゃうわ」
先ほどまでパパスの看病をするのだとダダをこねていたビアンカは、もうすっかりそんなことなどの囚われていないというようにいつものように明るく気丈にリュカに話しかけた。リュカは隣で歩くビアンカの澄んだ笑顔を見返した。器用に結い上げられた両方の三つ編みは朝の落ち着いた陽光を照り返してきらきらと輝いている。水色の瞳は朝日をその奥にまで吸い込んで一段と澄み切っているように見える。そんな彼女はやはり笑顔でいる。リュカはまじまじとビアンカの顔を覗き込んでいるうちに、知らず元気が湧き上がってくるのに気が付かないでいた。
「でもパパの風邪がうつっちゃうなんて、パパったらひどいわ。きっと今頃まだママに怒られてるわね。早くサンタローズの村に行って薬を取ってこないと、おじさまのご病気が悪くなっちゃう。……ああー、わたしもパパと一緒に行きたかったなぁ」
「ビアンカはどうしてそんなに外に出たいの?」
「どうしてですって? そんなの決まってるじゃない、冒険がしたいのよ。外に出られれば色々なものが見れるじゃない。ひろーい草原で走ってみたり、きらきらした海で泳いでみたり、きれいなお山に登ってみたり。魔物が出てきたってわたしの魔法でやっつけてやるわ。昨日はちょっとヘマしちゃったけど、今度は絶対に失敗なんかしないんだから。男の子だったら、わたしが冒険に行きたいって言ってもパパだってママだって分かってくれると思うのよね。ああ、わたし、男の子に生まれたかったわ」
ビアンカの思いのたけを一息に聞かされたリュカは、あまりの言葉の速さに口をぽかんと開けてただただ彼女のめまぐるしく変わる表情を見つめていた。そんなリュカの唖然としている表情になど気が付かないビアンカは、リュカの手を取ったまま再び町を歩き出した。そして今までの話とはまったく脈絡もない話をし始める。
「あ、あそこのお店のホットチョコレートがとってもおいしいのよ。買ってきてあげるからちょっとここで待ってて、リュカ」
「え、あ、うん。でもお金は?」
「ママからさっきいっぱいもらったから大丈夫よ。じゃ、待っててね」
お姉さん風をふかし続けるビアンカのペースにリュカはすっかりはまってしまっていた。ビアンカの世話好きはきっと彼女の母親から継がれているものなんだとリュカはひとりごちていた。そしてそんな雰囲気を悪く思わない自分には無意識だった。
ビアンカが買ってきたホットチョコレートの熱が、冷たくなっていた両手にじんじんと染み渡っていった。息を吹きかけて覚ましながら飲む隣で、ビアンカは『熱いからヤケドしなように気をつけるのよ』と一言添えることも忘れてはいなかった。店の前で二人並んで仲良くホットチョコレートを飲んでいる姿はさながら微笑ましい小さなカップルだった。そんな二人を町の人々は暖かい目で見守っていた。そんな中にまさか彼らを悪く思う人がいるなど、彼ら二人も思いもよらないことだった。
その後もビアンカはリュカを町に案内した。案内と言うよりも自分の行きたいところを抜粋して、リュカを連れ回していたといった方が適当だったかもしれない。父に憧れるリュカは父と同じような剣の並ぶ武器屋に目を向けていたが、ビアンカは彼の腕を引っ張って、まだ小さな女の子たちが群がる玩具の装飾品が並ぶ店へと連れて行かれた。ビアンカとさほど歳も変わらないくらいの女の子たちがきゃいきゃい言いながら、色とりどりの髪飾りやイヤリングや指輪などに夢中になっている。リュカは居心地悪そうにビアンカの手を離そうとしたが、彼女はそれを許してはくれず、とっかえひっかえ商品を手にしてはリュカに意見を求めてくる。
「ねぇ、このリボンなんていいでしょう。黄色じゃ私の髪で目立たないから、やっぱり赤がいいかなぁ。あ、でもオレンジのもカワイイな。青も大人っぽくていいしなぁ。迷うなぁ」
「ビアンカ、お母さんからもらったお金でそういうのを買ってもいいの?」
「今日は何だかいっぱいくれたのよ。だからこれくらい買ってもきっとママには分からないわ」
「でも、それって良くないことじゃ……」
「心配しないで、リュカ。あなたにも後で何か買ってあげるから。ね」
結局その後、ビアンカはリュカが一番いいと言った黄色のリボンを買って、両方のお下げに結びつけた。金色のお下げ髪にひらひらと風になびく黄色のリボン。その感触にビアンカは満足したようにリュカを連れて店を後にした。リュカも満足したビアンカの笑顔を見て、あまり深いことは考えないようにしようと心にひっそりと決めていた。自分があまりうじうじ考えていても、ビアンカは一言でそれを何でもないことにしてしまう強さを見せてくれる。リュカはすっかり年上のお姉さんに頼り始めてしまっていた。
ホットチョコレートを飲み終わった後、ビアンカはまるでピクニックにでも行くかのように昼食用にとサンドイッチとジュースを買ってリュカと半分ずつ持ち、町の商店街を離れていった。リュカがたずねるとビアンカはきらきらとした水色の瞳をリュカにむけて答えた。
「あっちにね、きれいなお堀に囲まれた広場があるの。そこまでピクニックに行きましょ。ちょっと寒いけど、遊んでればあったかくなるわ。後で木登りで競争よ」
「うん。ボク、木登りは得意だよ。ビアンカにだって負けないよ」
「まあ、ナマイキ言ってくれるじゃない。私だって得意なんだから、負けないわよ」
リュカはそう言いながら手にしているバスケットをぶんぶん振り回しかけたが、慌ててビアンカに止められた。その中には絞りたてのオレンジジュースが入っている。恐る恐る中を確認したリュカだったが、幸いジュースはこぼれていなかったようだった。
広場に着くとすでに自分たちと年も変わらない子供たちがたくさん集まっていた。まだ北風の冷たい春だというのに、子供らにはそんな寒さなど無関係だと言うように薄手の長袖一枚で駆け回っている子もいる。リュカには使い方もよく分からない網の張った棒で拳大の球を打ち合っている子供たち。家で飼っているのか、犬と競争するように駆け回っている子供たち。長い縄をぶんぶんと振り回してその中を器用に飛んでいく大勢の子供。みんながみんな、もう暖かい春が来たかのように子供たちは遊びまわっている。ビアンカも女の子の友達に縄跳びで一緒に遊ぼうと誘われたが、今日一日はリュカと一緒に遊ぶからとその誘いを断っていた。
「ボクだったら大丈夫だよ。一緒に遊んできなよ」
「あら、さっきの約束忘れたわけじゃないでしょうね。一緒に木登りの競争するって言ってたでしょ。まさか男の子のあんたが勝負から逃げるわけじゃないでしょうね」
「そんな、逃げるわけないだろ」
「そうよねー、それでこそパパスおじさまの子供だわ。男たるもの、一度決めた勝負から逃げちゃいけないのよ」
「そんなこと、言われなくたって分かってるよ」
リュカがふてくされて呟く姿を、ビアンカは笑って過ごしていた。そして草むらに腰を下ろそうとした時、ふと後ろの茂みの奥から何かの唸り声が聞こえた気がした。手にしていたジュースを取り落としそうになったリュカだったが、わたわたとそれを掴むと唸り声の聞こえた背後の木々の合間に目を凝らした。ビアンカもバスケットに突っ込んでいた手を止めて、後ろの様子を見やった。
緑の木々と草むらの中に見えた燃えるような赤い髪が目に飛び込んでくると、リュカとビアンカは二人で顔を見合わせた。地面にはいつくばるようにして草むらの中にその頭をうずめているのは人間ではない。しかしその頭をねじ伏せている手は明らかに人間の子供の手だった。地面についている黄色と赤の頭から、低い唸り声が止まないでいる。子供の手の力にどうにも対抗できないその動物の蒼い瞳と出会ったリュカの隣では、すでにビアンカの姿が前に飛び出していた。
「ちょっと、あんたたち、何やってんのよ」
「あ、ビアンカだ。見て分からないのかよ。ネコをしつけてやってんだよ」
「何がしつけよ。ただいじめてるようにしか見えないじゃない。ネコさんを離しなさいよ」
後ろから見たビアンカの姿は勇ましかった。自分よりも身体の大きい男の子を相手に正面から啖呵をきっている。しかしビアンカよりもずっと背の高いその男の子は彼女の啖呵に恐れをなすわけでもなく、にやにやと彼女を見下ろしている。その隣では彼の友達だろうか、ビアンカと大して変わらない大きさの身体だったが、手に太い枝を持ちながら同じようにビアンカに勝ち誇ったような笑みを浮かべている。リュカはそんな彼らの態度に嫌な気分になり、隠れるようにしていた茂みの中からビアンカの後を追いかけるようにしてがさがさと出て行った。
「弱いものいじめはいけないって、お父さんも言ってたよ」
「誰だよ、お前は」
「ボクはリュカ。ビアンカの友達だよ。ねぇ、そのネコさん怒ってるよ。離してあげた方がいいよ」
「偉そうな口利いてんじゃねぇよ。誰がお前みたいなチビの言うことなんか聞くかよ」
「こいつ、すぐに人を噛もうとするから俺たちがしつけてやんなきゃいけないんだよ。動物は口が利けないからこうして叩いて教えてやんないといけないんだ。お前、そんなことも知らないのか」
リュカをバカにするような笑い声を立てる二人に、ビアンカはただでさえ怒っていたお下げ髪をさらに逆立てるように眉も吊り上げた。
「何よ、何よ。リュカのことをバカにするんじゃないわよ。ネコさんにそんなことをするあんたたちの方がよっぽどおばかさんだわ。言葉が通じないから叩いて教えるですって? それはあんたたちがちゃんとした言葉を話してあげなかったからだわ。ちゃんと話しかければそのネコさんだって分かってくれるわよ。勝手な言いがかりでネコさんをいじめるんじゃないわよ」
「何だよ、ビアンカ。何でそんなチビのことかばうんだよ」
「そいつのことがスキなのか」
枝を振り上げて言う男の子の言葉が一瞬なんなのか分からなかったビアンカだったが、すぐにそれを理解すると、白くつやつやしていた肌を一気に上気させた。そしてその男の子に掴みかからんばかりにさらに言葉に怒気を含ませた。
「何バカなこと言ってんのよ。私はネコさんを離しなさいって言ってるだけでしょ。リュカは関係ないじゃない。さあ、離すのかどうなのかはっきりしなさい。じゃないと、あんたたちに魔法をお見舞いしてやるわ」
ビアンカがそう脅しながら本当に魔法を唱え始めると、二人の男の子は恐れをなして掴んでいた猫を離そうとした。しかし魔法が完成する前に、隣にいたリュカがビアンカの腕を掴んで魔法を止めさせようとする。
「ビアンカ、ダメだよ。人に火のまほうなんて使っちゃダメだって」
「リュカは黙ってなさい。ああ、もう、手を離しなさいってば」
ビアンカの指先に生まれかけていた火の欠片はリュカの邪魔によってあっけなく消えてしまった。それを見ていた少年二人はけらけらと笑いながら、猫の首をひょいと掴んで持ち上げるとそれをビアンカの目の前で揺らして見せた。見れば猫はすっかりおとなしくなっており、燃えるような赤毛のついた尻尾も元気なく垂れ下がっている。猫の珍しくも真っ青な瞳はなぜかリュカの目と出会ってから、まるで彼に怒りを飲み込まれてしまったようにおとなしく少年の手に首を掴まれてしまっている。リュカが一度にっこりと微笑むと、その猫は返事をするように一声小さく鳴いた。
「なんだ、こいつ。急におとなしくなっちまった」
不思議そうに覗き込んできた少年の顔に、猫は忘れていた怒りを思い出したように思い切り少年の顔に爪を立てて引っかいた。面食らったのと痛さとで少年は猫を取り落としてしまったが、猫がリュカとビアンカの下に行く前にもう一人の小柄な少年に尻尾をつかまれてしまった。顔を引っかかれた少年はまだ両手で顔を覆って痛い痛いとわめいている。両頬に痛々しい三本の爪あとが赤くくっきりとにじんでいる。
「そんなにこのネコがほしいのかよ」
「そうよ。さっさとこっちに渡しなさい」
ビアンカの完全に怒った水色の瞳に眉をひそめ、まだビアンカの腕を掴んでいるリュカをひと睨みすると、その小柄な少年は尻尾を掴んだまま猫を持ち上げてビアンカに不適な笑みを見せる。しかしそんなことでひるむビアンカではなかった。ビアンカはリュカをかばうように立ちはだかり、尚も少年の言葉を待った。
「じゃあ、お前たちだけでレヌール城のお化け退治をしてきたら、このネコを渡してやってもいいぞ。大人と一緒に行ったりしたらダメだからな。お前らだけで行くんだぞ」
「レヌール城のお化け……」
ビアンカの瞳が不安に揺れたのをリュカは隣ではっきりと見ていた。そんな彼女の表情を正面で見ていた少年はフフンと鼻で笑うと、要らぬ一言を付け加えてきた。
「お化けだぞ、お化け。怖いだろ。今まであのお化け城には何人かオトナも行ってるけど、帰ってきてないやつもいるんだってさ。頭のいいビアンカさまならそれがどんなことか分かるだろ。もしすんごい怖いってんなら、俺がついていってやっても……」
「ふ、ふん、何が怖いですって? お化けなんか怖くもなんともないわ。行ってやろうじゃないの。そこのお化けを退治してきたらネコさんを離してくれるって約束しなさいよ。男に二言はないでしょうね」
「な、お前、本当に行くつもりかよ」
「ええ、行くわよ、行きますとも。女にだって二言なんかないわ。私たちが帰ってくるまでちゃんとそのネコさんの面倒を見てあげるのよ。その間にひどい目にあわせたりなんかしたら、その時は頭を真っ黒こげにしてあげるから」
ビアンカがそう言いながら人差し指を少年の頭に向けると、少年はその茶色い癖毛を慌てて右手で押さえた。その拍子に尻尾から揺さぶられたネコは、まだうずくまっている図体の大きい少年の頭に被さり、また思い出したかのように今度はその頭にがぶりと噛み付いた。両手で顔を覆っていた少年は悲鳴をあげ、今度は頭に噛み付くネコを力任せに引き離す。すると今度は少年の頭から血がにじみ出ているのが見えた。両頬にはくっきりと三本ずつ爪あとをこしらえ、頭にはまだ幼いながらも鋭い牙が刺さったあとが残った。自分の頭ににじみ出ている血を手でふき取って確認した少年は、指先にべっとりとついた自分の血にびっくりして、またしても悲鳴を上げた。そんな図体の大きい少年の身体を支えるようにして立たせると、もう一人の小柄な少年は悔しそうにビアンカと、そしてリュカを見やった。
「く、くそ、じゃあ約束通りお化け退治しに行ってこいよ。今日の夜だぞ。もし約束破ったら、その時は……」
「その時は、何なのよ。はっきり言いなさいよ」
まごまごしている少年にビアンカははっきりきっぱりと尋ねる。少年は呻く友達を支え、唸る猫の尻尾をつかみながら言うべき言葉を喉の奥に留めている。しかしビアンカの手をずっと握り続けているリュカと目が合うと、鋭い視線を自分よりも二つも三つも下の男の子に向けた。リュカは別段それを怖いとは感じずに、ただどうして自分がそんなに睨まれるのかが分からずに首をかしげた。
「このネコは山に捨てちまうからな!」
精一杯思いついた言葉をビアンカとリュカに投げ捨てると、少年はネコと友達と一緒にその場を後にして去っていった。ふらふらと去っていく彼らの後姿を見ながら、ビアンカは張り詰めていた空気を吐き出すようにふーっと長く息をついた。見ればビアンカの顔色は蒼白で、リュカの手を掴む彼女の手も少し震え始めていた。しかしそれも一瞬のことで、彼女はすぐに気を取り直すと、強い瞳をそのままにリュカに笑顔を向けた。
「一緒に行ってくれるわよね、もちろん」
「その、お化けのいるお城に、だよね」
「そうよ。お化けって言うからには、やっぱり夜に行かないといけないんだろうなぁ。昼間に出るお化けなんて聞いたこともないし」
「ビアンカはそのお城の場所を知ってるの? ボクたちだけで行けるところなの?」
「パパとママと一緒に行ったことがあるから大丈夫よ。道だってそんなに難しくないし。けど、夜に出発することになるのよね。だったら今のうちに寝ておかないと。リュカ、お昼食べたら一度戻りましょう。そして目いっぱい昼寝をしておくのよ。それで私が夜中に起こしてあげるから、それから出発しましょ」
「ボク、起きられるかな」
「こら、情けないこと言わないでよ。そうだ、今日は私と一緒に寝ればいいんだわ。そうしたらもしリュカが寝ちゃってもすぐに起こせるから。帰ったらママに言ってみるわね、今日はリュカと一緒の部屋がいいって」
「それなら大丈夫だね」
リュカはそう言って笑い顔を見せると、バスケットを置きっぱなしにしていたところへ戻ろうと茂みを書き分けていった。あっさりと承諾してくれたリュカに気が抜けたように立っていたビアンカも、リュカの後ろをついていく。置き去りにされていたバスケットは無事で、リュカはお腹が空いたと言って少し乾いてしまったサンドイッチを手にするとおいしそうに頬ばった。隣に座ったビアンカはからからに乾いた喉を潤そうとまだ冷えているジュースをがぶ飲みした。喉を通っていく冷たさに、先ほどまでぷんすか怒っていた熱が一気に落ち着いていくのを感じた。
リュカの頭の中にはまだあのネコの姿が鮮明に残っていた。普通の猫にはない真っ赤なたてがみ、尻尾にも筆のような赤い毛が生えていた。体中は黄色の体毛に黒いぶちが散っており、深い青色の瞳は宝石のようにきれいだった。猫にも牙や鋭い爪があるのはリュカも知っていたが、あのネコの口からのぞく牙は町のそこらにいる猫とは違うように見えた。
「リュカ、あのネコさん絶対に助けようね」
「うん、あのままじゃかわいそうだもんね。助けなきゃ」
ビアンカはそんな勇ましいことを言いながらどこか自分が冒険物語の主人公になった気分で、一方リュカは自分の目をじっと見つめてきたあのネコの深い青色の瞳を思い出しながら、それぞれ違った思いを胸に、今目の前にあるサンドイッチとジュースを腹に収めようと手を伸ばしていた。

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