2017/12/03

子供二人旅

 

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結局ダンカンは昼過ぎになってようやくサンタローズへと出かけていったようだった。宿に戻った二人はすぐさまパパスの部屋に行くと、木桶に張った冷たい水にタオルを浸しているビアンカの母の姿を目にした。まだ昼を少し過ぎたところで、部屋の中は柔らかい日差しに包まれていた。部屋の空気の入れ替えでもしているのか、窓を細く開け、外から吹く風が窓にかかる黄緑色のカーテンを揺らしている。春を思わせる鮮やかな黄緑色のカーテンだが、吹き流れてくる風は冷たい。
絞ったタオルをパパスの額に乗せた彼女は部屋の扉を開けて覗いている子供二人の方へと歩いてきた。パパスは額に乗った冷たい濡れタオルになどまるで気が付かずに、浅く疲れる眠りについている。いつもは常に自分を守ってくれる父、旅の道中は勇敢に魔物と戦う父、自分ができないことは何でもできる父、リュカの中では完全の象徴とも言えるパパスが今では何もできずにただ眠りにつくばかりだ。掛け布団を二重に乗せて苦しそうな息をしている父の傍に行こうとリュカは部屋に入っていったが、それはダンカンの妻によって止められた。
「リュカ君、近くに行ったらお父さんの風邪が移っちゃうから、今日は別々に寝るんだよ。明日になればうちの人が薬を持って帰ってくるからね」
「ママ、リュカが眠たいんだって。だからお昼寝してきてもいい?」
「まあまあ、そりゃあリュカ君だって旅から戻って間もないんだから仕方ないやね。いいよ、部屋を一つ用意してくるからちょっと待ってるんだよ」
「じゃあリュカ、寝るまで何かご本でも読んであげるね」
ビアンカはそう言いながらリュカの頭を撫でてやった。まるで子ども扱いしてくるビアンカにリュカはむすっとした表情を示したが、何も反論せずにその場をやり過ごした。
女将はパパスが休む隣の部屋に行くと、空いていた部屋をあっという間に整えた。使っていない布団を一度ベッドから取り上げるとそれを窓のところへ持って行き、ばさばさとはたいてほこりを飛ばし、布団を取り込んだ後大きく開け放していた窓をパタンと閉じた。部屋の机の上においてあった水差しの水を新しいものに替えるべく一階の厨房へと向かったり、リュカのために子供用の本を用意してくれたり、パパスの部屋に残されているリュカの荷物を持ってきたりと、全てをいっぺんにやったおかげでリュカとビアンカはすぐにベッドに腰掛けることが出来た。
「あんまり寝すぎると、夜眠れなくなるからね。少ししたら起きるんだよ」
「はーい、ママ」
ビアンカの素直な返事にいぶかしげに振り返ったダリアだったが、隣で座っているリュカがすでにとろんとした表情をしているのを見ると、柔らかく笑って部屋を出て行った。部屋の扉が完全に閉じられると、ビアンカは隣で目をこすっているリュカの肩をトントンと叩いた。
「リュカ、本当に眠いの? ウソじゃなくって?」
「うん、ホントに眠くなっちゃった」
「ちょっと待って。まだ寝るのは早いわよ。ちょっとお勉強してから寝るの。いいわね」
「お勉強?」
リュカがまだ眠そうな顔で首をかしげていると、ビアンカは母が適当に用意してくれた本を取ろうと机に向かって手を伸ばした。そしてその中から目当ての本を見つけると、それをリュカに見せてやる。
「私たち、夜には外に行くのよ。マモノだって出るんだから、少しは魔法を覚えていかないと」
ビアンカは手にした魔法書をぺらぺらと手馴れた手つきでめくり、リュカに見せるように彼の膝の上に置いた。リュカは気乗りのしない顔で魔法書に視線を落とし、読めもしない文字を考えもなしにだらだらと目で追っていく。同時に載っている絵は、今の部屋には吹いていない風を表しているようにリュカの目には映った。
「リュカってケガを治す魔法は使えるでしょ。でも私みたいに魔物をやっつける魔法は使えないじゃない。だからリュカに合う魔法を探してみようかなって思って」
「ぼくに合うまほう?」
「そうよ、パパスおじさまだって言ってたじゃない。誰でも火の魔法が使えるわけじゃないって。じゃあリュカにはリュカの使える魔法があるはずよ」
ビアンカの言葉にリュカは眠気をふっ飛ばして、膝に置かれた魔法書に真剣な視線を落とし始めた。眠気でまだ頭はすっきりとはしていないが、興味を持った本に対してリュカは真面目に向き合おうと本を両手で持ち上げてビアンカと一緒に覗き込むように見始めた。
「でね、わたし前に習ったの。治癒魔法って風や水と相性がいいんだって。今じゃ水の魔法ってなくなっちゃったみたいだから、リュカには風の魔法が合うと思うんだ。だからこのページ、ほら、見てみて」
「う、うん、でもボク、字が読めないよ」
「大丈夫よ。私が教えてあげる」
「字が読めなくてもまほうが使えるの?」
「何とぼけたこと言ってんのよ。リュカは字が読めなくたってちゃんと自分の怪我が治せたじゃない。文字なんか読めなくたって自分の心が魔法を分かってれば魔法は使えるんだって本で読んだこともあるわ」
ビアンカは当然でしょうと言わんばかりに胸を反らせてそう言うと、リュカの膝に置いた魔法所に指を走らせる。リュカはわけも分からずその指を目で追っていく。
しばらくビアンカの講義が続いた後、リュカは手の平から微風程度ではあるが風を起こすことに成功した。その風がビアンカの髪を少し切ってしまったのを見てリュカは慌てて謝ったが、ビアンカはそんなことなど気にする様子もなくただリュカの魔法の成功を喜んでくれた。思えば魔法を始めて成功させたのも彼女の前だった。リュカはすっかり自信を持って次の魔法をと魔法書をめくろうとした。
「ちょっとリュカ、もうこんな時間。早く寝なきゃ時間がないわ」
ビアンカにそう言われるまで、リュカは窓の外に迫る夕焼けになど気が付かなかった。気が付けば魔法書を読むにも目を凝らさなければならないほど部屋の中も暗くなっている。今から寝ても夜動き回るほどの睡眠が取れるかどうかリュカには分からなかったが、ビアンカが布団を被せてくるので仕方なくベッドの上に寝転がった。
「でもボク、まだ眠くないよ」
「何言ってんのよ。さっきはあれだけ眠そうにしてたじゃない。大丈夫目を閉じれば自然に眠たくなるわ。なんならわたしが子守唄でも歌ってあげましょうか、リュカちゃん」
ビアンカに馬鹿にされたのが分かったリュカは、むっとした表情で寝返りを打って、彼女に背を向けた。後ろでくすくす笑っているビアンカのことが気になったが、もう話す気もなくしたリュカはそのまま目を閉じた。
背後でがさがさと動く気配がしたが、リュカはそれでも後ろを振り向かなかった。きっとビアンカも背中を向けているんだろうとくらいにしか考えていなかった。そして掛け布団を少し手繰り寄せてどうにかして眠ろうと考え始めた瞬間、リュカの頬に柔らかい感触が降った。半目を開けて見上げると、目の端にビアンカの金色の髪が揺れているのを見た。
「何したの、ビアンカ」
「おやすみのキスよ。いつもパパとママにしてるの。いい夢が見られますようにって。おまじないみたいなものね」
「ボク、いい夢見られるの?」
「そうよ。このおまじないの効き目はすごいんだから。リュカだけじゃずるいからわたしにもしてよ」
「うん」
振り返った先にいたのは三つ編みを解いて金色の髪を下ろしているビアンカの姿だった。髪を結んでいる時よりも少し大人っぽくリュカの瞳には映った。見た目が変わったビアンカに少し近づきがたい雰囲気を覚えたが、彼女はそんなことには気が付かずにリュカの横に座っている。
リュカがビアンカの頬におまじないをかけると、ビアンカはすぐにベッドの上に横になった。リュカも彼女と向き合うように寝転がると、不思議なほど早くに眠りが訪れた。おまじないが利いたかどうかは定かではないが、彼らが見たのが悪夢でないことは確かだった。



「あれっ、今何時?」
ビアンカが目をこすりながらそんなことを言うのをリュカは隣で夢うつつに聞いた。三つ編みのウェーブがまだ残った髪を振り乱してビアンカが窓の外の景色に目をやっている。窓を通して映る景色は何も見えない暗闇だった。ビアンカがベッドの上をがさがさと音を立てて移動する音を聞いて、リュカは迷惑そうに眉をひそめ、胸までかけていた布団を頭まで引っかぶった。
「ちょっと、リュカ、起きなさいよ。もうこんな時間。お夕食を食べて、また寝たフリしないと。ねぇ、コラッ、起きなさいってば」
「うーん、もうちょっとだけ」
「甘えたこと言ってるんじゃないの。パパスおじさまの様子だって見に行きたいし、お夕食を食べ損ねたら、お腹ぺこぺこのまま外に出なきゃいけなくなっちゃうでしょ」
身体を揺さぶられ、リュカはしぶしぶベッドの上に身を起こした。まだほとんど開かないリュカの目を見てもビアンカは容赦なくリュカの格好を整え始める。ぼさぼさの黒い髪を撫で付けられ、服の皺を伸ばすように引っ張られ、頬を軽くぺちぺちと叩かれる。しつこいビアンカの攻撃にリュカもようやく目を覚まし始めた。
ビアンカに連れられ階段を下りていく途中、宿に宿泊する旅人らしき若者を見かけた。まだ寝起きの目をこすっているリュカはただその男の人をぼうっと見上げていたが、隣を歩くビアンカは愛想良く『いらっしゃいませ』と旅人に声を掛けていた。宿泊客も小さな女の子がそんな対応を見せて気を良くしたようで、町の商店街で旅の準備として買ってきた包みの中から小さなお菓子の包みを取り出すと、それをビアンカに渡す。ビアンカは頭を下げてお礼を言った後、しっかりとそれを受け取った。
「リュカ、後で半分こしましょ」
「食事のあと?」
「ううん、お城に行く時よ」
ビアンカは楽しそうに笑顔を見せながらそんなことを言った。だんだん近づいてくる夜の探検に、リュカは少し不安を覚え始める。
「ねぇ、ホントに行くの?」
「あら、まさか怖くなったとか言わないわよね。リュカは男の子だから、お化けなんて怖くないわよね」
ビアンカはリュカの顔を覗き込みながらそう言った。彼女のその表情にまたからかった感があることに気が付いたリュカは、ビアンカの真似をしてわざと胸を反らせて言い返した。
「そうだよ、ボクは男の子なんだから、お化けなんて怖くないよ。ビアンカこそ怖いんじゃないの?」
リュカの言葉に一瞬詰まったビアンカだが、すぐに強気な態度を取り戻すと余裕の笑みを浮かべてリュカに言う。
「お化けなんて怖くないわよ、怖いわけないでしょ。それにあのネコちゃんを早く助けてあげないと、今もあいつらにいじめられてるかもしれないじゃない。そんなの許せないでしょ」
ビアンカはリュカに負けじと両手を腰に当てて胸を反らせながらそう言った。そんな強気な態度を崩さないビアンカを見て、リュカは心の隅に生まれかけていた恐怖を何とか押しとどめることができた。彼女の瞳が自分と同じように揺れていることになど、この時リュカは気が付きもしなかった。
ビアンカに連れられ、リュカは宿の厨房で出来立てほかほかのご飯にありついた。宿に宿泊する旅人のために用意していた食事の余りをビアンカの母がリュカのためにと温めてくれたのだ。
「昼間にあんなに寝てたら、夜寝れなくなるんじゃないかい?」
「うん、そのために……」
リュカがそう言いかけるのをビアンカが慌てて口を塞いで止めた。リュカがもごもごしてビアンカの手を離そうとしている間、ビアンカは取り繕うように母に応える。
「大丈夫よ。お昼にリュカとたっくさん遊んだもの。ふわぁ、今でもまだ眠いくらいだわ」
ビアンカはわざとらしく空いている片手で目をこすりながら、母に眠さをアピールした。彼女は疑わしげに娘を見るだけで、ふうんと納得の行かないような返事をするだけだった。
食事を早々に終えると、ビアンカはまたリュカを連れて歩きながらパパスのいる部屋へと向かった。遠慮がちに開いたドアの向こうに、まだ苦しそうに眉根を寄せて眠っているパパスの姿があった。ビアンカの後ろからその様子を覗いたリュカは、いつの間にかビアンカの前に進み出て父の元へと駆け寄っていった。
ベッドに横たわる父はリュカが来たことにも気が付かず、ただ時折呻き声を上げて苦しそうに早く浅い息を繰り返している。旅で日焼けした顔は今は色を失っており、寒そうに掛け布団を首まですっぽりと被っているのに、顔には玉のような汗がにじみ出ている。そんな弱々しい父の姿を見たことがないリュカは、思わず父が横たわるベッドにかじりついて父の様子を涙目で見つめた。それほど近くに来ていると言うのに、やはり父はリュカに気が付くことなく、何か悪い夢でも見ているのか苦しそうに何事かを呟いた。しかしリュカは父の口にした言葉が聞き取れずに、ただ父の弱った姿に途方にくれてしまう。
「リュカ、あんまりおじさまに近づいたら、あなたまで風邪がうつっちゃうわ」
ビアンカはそう言いながらリュカの紫色のマントの裾を引っ張ったが、リュカはそんなことなどお構いなしに父の傍を離れようとしない。ビアンカは仕方なくリュカの裾から手をはずし、代わりにパパスの額に置かれていた濡れタオルを手にした。それはもう本来の意味をなさないほど乾いていて、ビアンカはサイドテーブルに置かれていた水の入った桶にタオルを入れて絞ると、それを静かにパパスの額に乗せた。
「お父さん、なおるよね、大丈夫だよね」
リュカは振り返りもせずにビアンカに助けを求めていた。誰かに安心できるような言葉をかけて欲しい一心でリュカは後ろのビアンカにそう言葉を掛けていた。
「大丈夫に決まってるでしょ。おじさまが風邪なんかに負けるわけがないわ。パパが明日には薬を持って帰ってくるから、それまでガマンするのよ、リュカ」
「ビアンカのお父さんが帰ってこなかったら? 薬がもしなかったら?」
「何言ってるの。サンタローズの薬師さんがお薬を持ってたのを忘れたの? パパはそれを持って帰ってくるだけなんだから、心配することなんて何もないでしょ」
ビアンカはそう言いながら、リュカの頬に流れる涙を手の平でごしごしと拭ってやった。
「でも、もしビアンカのお父さんが途中でマモノにあったりして、それで……」
リュカはそこで言葉を止めざるを得なかった。目の前のビアンカの表情が見る見るうちに変わったからだ。リュカの頬を拭っていた彼女の手もぴたりと止まってしまった。彼女の表情が一瞬ゆがめられるのを見て、リュカは自分の顔が映っているのかと錯覚した。しかし彼女の顔は自分とは違って、すぐにぎこちない笑顔を取り戻す。
「バカなこと言ってんじゃないわよ。パパだっておじさまほどじゃなくたって強いんだからね。魔物なんかに負けるわけないじゃない」
ビアンカは先ほど一瞬見せた不安など嘘だったかのように、いつも通りの自信満々な笑みでそうリュカに言った。父親を誇る気持ちはリュカも同じだ。彼女の笑顔にいくらか安心したリュカは、再び父の寝顔を見た。相変わらず苦しそうに何事かを呟いたりしているが、それも少しのことなんだと自分に言い聞かせ、リュカはそっと父の傍を離れた。
「おじさまのお世話はママがしてくれるから、私たちは今日の夜の冒険のことを考えましょ。あぁ、夢みたいね。やっとご本で読んだような冒険ができるのね。わくわくしてきたわ」
そんな彼女の言葉に振り向いたリュカは、ビアンカが目をきらきらさせて窓から外に目をやっている姿を見た。そこからは町の明かりがちらちらと見え、その先には何もない闇が広がるばかり。その闇に何が待っているのかを想像するだけで、ビアンカは楽しくて仕方がないらしい。宿屋の娘として育った彼女は宿泊客である旅人からも色々世界についての知識を与えられ、世界に羽ばたきたい思いが人一倍強いのかもしれない。父について旅をしてきたリュカにそんな彼女の思いはあまり伝わらなかったが、彼女が元気な表情を見せると、リュカもつられて笑顔になっているのは確かだった。
「ビアンカはボクが守ってあげるからね」
リュカはいつも傍にある父の強い瞳を思い出しながらそう言った。するとビアンカはきょとんと目を見開いてリュカを見た後、火が付いたように笑った。
「リュカが私を守るですって? 私はリュカよりも二つお姉さんなんだから私がリュカを守ってあげるわよ。任せなさいって」
「でもボクは男の子だから女の子を守るんだよ。お父さんがそう言ってた」
「じゃあパパスおじさまみたいに強くってカッコよくなってからそう言ってね」
ビアンカはそう言いながらまだ笑っていた。リュカは少し悔しそうに顔を歪めたが、彼女の笑いはリュカが父のように強くなろうと改めて意志を固める要因にもなってくれた。リュカはまた父を振り返ると、もう涙の止まった目で横たわる父を見て、心の中で『行ってきます、お父さん』と独り言を呟いていた。



まだ宿屋の扉を閉じた時の音が耳から離れなかったリュカだが、隣で意気揚々と棘のついた鞭を振るっているビアンカを見ると、段々その音が遠のいていく感じを受けた。それと宿屋の厨房から勝手に持ち出したおなべのふたを左手に持った彼女は、月夜の光をまるで太陽の光に変えてしまうような勢いで弾んだ足取りで目的のお城へ向かっていた。
「ビアンカ、大丈夫なの、そんなの勝手に借りてきて」
「リュカこそ大丈夫なの、持ってるのは樫の杖だけじゃない」
「あとちゃんと薬草ももってきたよ。ほら」
リュカの腰帯に巻きつけられた緑色の袋からはみ出さんばかりの薬草やら何やらを見て、ビアンカは目を丸くした。
「それ、どうしたの」
「お父さんのどうぐぶくろから持ってきたんだ」
「あんただって人のこと言えないじゃない」
「ボクはお父さんのを持ってきただけだもん。ビアンカは違うだろ」
「あら、私だってママのをちょっと借りてきただけよ。ほら、強そうでしょ。これで魔物が来たってバッタバッタと倒してやるんだから」
ビアンカはびしばしと茨の鞭を地面に打ちつける。どうやら初めて扱ったような様子はない。母親が目を離している隙に彼女は何度もそれを手にして、いつかこうして冒険に出る日を夢見ながら練習していたに違いなかった。
満月の月夜に照らされた外の世界は殊のほか明るかった。月明かりがあまりにも明るくて、二人はランタンを持ち出すという考えさえ浮かばないほどだった。しかし辺りは紛れもなく夜で、草原を揺らす風にもリュカは敏感に魔物の気配を感じ取ろうとしていた。
いつも自分を守ってくれる父は今いない。父を離れて外に出るのは初めてのことだ。何もかもを自分の感覚を頼りに行かなくてはいけないことに、リュカはいつもは感じもしない精神的な疲労を覚えた。魔物の気配だって父が素早く感づいて、自分を守るように剣を振るっていた。魔物と対峙する父の姿は圧倒的で、中には父の気迫に押され怖気づき、逃げ出す魔物も見たことがあった。魔物が通る道も父は読み、なるべく魔物の出現率が低い道を選んでいたことも知っている。しかし父がどんな感覚を頼りにそんなことをしていたのか、リュカには分からない。ただリュカに今できることは、父の真似をして辺りをキョロキョロと見渡すことだけだった。
ビアンカは近道を行こうと、リュカと一緒に小川を渡った。小川を渡った先はずっと砂と砂利の道が続く。時折吹く風に砂が舞い上げられ、リュカは思わず目を瞬いた。しかし草原よりも森よりも視界のよいこの道は、今までよりも魔物に対する緊張が薄らいでいったのも確かだった。
そんな折、前を行くビアンカが突然足を止めた。すぐ後ろをついていたリュカは思わず前につんのめりそうになる。
「どうしたの、ビアンカ」
「ねぇ、あれ、変なかたちしてるわよね」
ビアンカがそう言いながら指差す先には、明らかに辺りの砂利とは異なる風景があった。砂の上に立つ二体のそれは、前から来る人間の子供の姿を認めると、月光にきらりと青い目を光らせた。
「マモノだ」
リュカの一言にビアンカの身体が好奇と恐怖に一瞬震えた。そして好奇が勝つと、ビアンカは二人を見据える魔物と同じように水色の瞳を輝かせた。
走り出したビアンカを止める術もなく、リュカは彼女に続いて魔物に向かって走り出した。足はビアンカの方が速い。砂に足を取られながらも、遅れを取りたくないリュカは必死にビアンカを追いかけた。
てっきり茨の鞭を振るうと思っていたリュカは、彼女が飛ばした明るい火の玉に目を丸くした。ビアンカは走りながら魔法を唱えていたようだ。そしてそれは魔物に見事命中し、月夜に照らされたイタチのような魔物はぎゃっと悲鳴を上げて、毛皮についた火を消そうと砂の上を転がった。
「やったぁ、まず一匹ね」
ビアンカは飛び上がって喜んでいたが、くびながイタチは火を消してすぐに起き上がると、隙だらけのビアンカに鋭い爪の生えた足を伸ばした。ビアンカに追いついたリュカが慌ててその間に入り込み、樫の杖でその足を受け止める。
「ビアンカ、そこどいて」
リュカがそう叫ぶと、ビアンカは驚いたようにリュカを見て素早くその場から飛びのいた。リュカは満身の力を込めてイタチの足を押し返すと、その杖を振り上げて魔物の頭を思い切り殴った。ごんっという鈍い音と共にイタチは白目をむいてその場に倒れてしまった。
「まだいるから、気をつけて、ビアンカ」
「言われなくたって分かってる」
ビアンカの語気に荒さはなかった。ただまだ驚きから覚めないだけで、ただ言葉が足りなかっただけだった。彼女は手にしていた茨の鞭を前に構え、リュカは樫の杖を斜めに構えた。
くびながイタチは二人の子供をまるで大人になった人間をみるような用心深さでじっと見つめている。互いにじっと動かない空気を動かすように、小川から涼しい風が流れてきた。リュカのこめかみに冷や汗が伝うと同時に、やはりビアンカがイタチに攻撃を仕掛けた。彼女の振るう鞭がイタチの足元をかすめる。リュカの背丈よりも少し小さいほどのイタチは鞭の起こした風にびくりと身体を震わせたが、すぐに二人を威嚇するために鋭い牙をむいた。
イタチの攻撃をおなべのふたで耐えたビアンカは、器用にもその間に魔法をイタチに浴びせようと用意していた。至近距離にまで迫ったイタチにまるでなすりつけるようにしてビアンカは火の玉をまた作り出した。顔面にそれを食らった魔物はたまらないとでも言うように前足で顔を押さえて彼女からあとずさる。リュカはそんな勇敢な彼女に一瞬見とれてしまった。魔法を放った彼女の手が震えていたことになど、全く気が付かないでいた。
焦げ付いたイタチの顔を見たリュカははっと我に返って、ビアンカに襲い掛かろうとする魔物に杖を振り上げる。それは火に焦げたイタチの眉間にぶち当たり、激痛によろめくイタチに、リュカは更に追い討ちをかけようと今度は杖のコブでイタチの腹を強打した。顔と腹とどちらが痛いのか分からなくなったイタチは、妙な動きでどちらも前足で押さえながら夜の闇の中へと逃げていってしまった。
ビアンカがその後姿にまたしても火の玉を投げつけようとしていたが、リュカはその手を掴んで止めさせた。
「どーして止めるのよ。あいつをやっつけるチャンスだったのに」
「逃げてくれたんだからもういいよ」
掴まれた手を振り解こうとしたビアンカだったが、すっかり戦意を鎮めたリュカの吸い込まれそうな黒の瞳に出会うと、掴まれていた腕から力が抜けるのを感じた。ゆっくりと離してくれた手首にはしっかりとリュカの指の跡がついている。ビアンカはその跡を痛そうにさすった。
「リュカ」
「なに?」
「ありがとう」
ビアンカがごく小さな声でそう言うのを聞いたリュカは、明らかに驚いた表情でビアンカを見返した。しかしビアンカはやはりビアンカ以外の何者でもなかった。
「そうよね、弱いものいじめはいけないんだったわ。あのイタチは私たちが怖くて逃げたんだものね。私たちの方がずっと強いんだもの。逃がしてあげなきゃかわいそうだわ」
口の減らないビアンカの姿を見て、リュカは何かを言い返そうとしたが言葉が思いつかずにそのまま無言で歩き出した。しかしそんな強気な態度を崩さない彼女に安心したのもまた事実だった。
小川沿いにしばらく道を進める中、二人はほとんど話をしなかった。くびながイタチに遭遇してから、周りの魔物の気配に集中するようになっていた。そして砂を踏みしめる音以外に、リュカは動物が喉を鳴らして唸り声を上げるような音を聞いた。月明かりで辺りが明るいとは言っても、真昼のように視界が利くわけではない。リュカはそっとビアンカの前に進み出て、歩きながらじっと周りの音に耳を澄ました。
その魔物の気配は突然距離を縮めてきた。砂を蹴って駆ける速さが先ほどのイタチよりも数段に速い。リュカは慌てて手にしていた杖を構えた。正面に構えた杖に衝撃と重みが加わり、リュカは後ろ向きに転んでしまった。
「こらぁ、リュカに何するのよ」
ビアンカが振り上げる鞭はその魔物にではなく、転んだリュカのすぐ脇の砂を舞い上げた。魔物の来襲に身がすくみかけていたリュカは、ビアンカの鞭がきっかけで飛び上げるようにその場に起き上がった。魔物は後足でじりじりと砂を踏み固め、二度三度前足で砂をかいて二人の様子を窺っている。ぐるるる、と唸り声を上げているが、その声は思っていたよりも高い。
「なに、こいつは、ネコ?」
「似てるけど違うわ。猫だったらこんなに大きくないわよ」
ビアンカがそう言いながら鞭を構え直すのを見て、リュカも杖を握る手に力を込めた。しかしリュカの目に映るのは、あのアルカパの町のいじめっ子がいじめていた猫が少々大きくなった姿だった。黄色い体毛に勇ましくも豹のような斑をつけ、口に潜む牙は猫とは思えないほどの鋭さを持っていそうだ。真っ赤な鬣は月夜の青白い光に照らされているというのに、その赤さを失わない。獰猛な瞳は真っ青で、その目は獲物を見つけて喜んでいるように爛々と光っている。どこからどう見ても魔物の姿に間違いないのだが、リュカはあのいじめられている猫と切り離して考えることができなかった。
リュカのそんな躊躇を感じ取ったのか、そのベビーパンサーは地を蹴りつけてリュカに向かって鋭い爪を向けてきた。リュカは咄嗟に杖で身を庇ったが、魔物は庇うリュカの腕に鋭く赤い三本筋を刻んだ。掠めただけだが、リュカの左腕からは血が三本の筋を作って砂地にぼたぼたと落ちる。それを見たビアンカは喉元に競りあがってきた悲鳴を何とか抑えて、言葉に変える。
「リュカ、あんたは薬草で傷を治しなさい。わたしがアイツをやっつけてやる」
腕を押さえて背中を丸めるリュカの前に背を向けて、ビアンカが立ち上がる。彼女の三つ編みが月の光に照らされてきらめいている。雄々しい彼女の後姿に、リュカは急いで薬草を傷口に擦り込ませると、すぐに彼女の隣に並んで立った。
「こんな傷、平気だよ」
リュカはそう言うと同時に、手にしている杖をベビーパンサーに向かって横に薙いだ。しかし魔物の素早さはリュカを圧倒し、ひらりと軽々しく身をかわしてしまった。力を入れると傷口が痛んだが、それを気にしている余裕が今のリュカにはなかった。
「風の魔法を今使ってみて、リュカ。魔法ならきっと当たるわ」
そう言うが早いか、ビアンカ自身も魔法を唱えだした。お得意の火の玉を作り出した彼女は迷いなくベビーパンサーに向かってそれを投げる。月夜に照る一帯が一部だけ切り取られたように火の橙に照らされ、それは魔物の背中に当たった。ベビーパンサーはまるで一介の獣のような咆哮を上げて背中を仰け反らせた。
ビアンカの鮮やかな魔法の攻撃を見て、リュカも今日の昼間覚えたばかりの風の魔法を思い出しながら唱え始めた。それは足元の砂を巻き上げ、風独特の唸り声を上げながらリュカの目の前で渦巻いている。リュカはそれを自分の意志を込めてベビーパンサーへと放った。背中の焦げ付きを舐めていたベビーパンサーは突然襲ってきた砂嵐に見開いた目をやられ、目を閉じてがむしゃらに手足をばたつかせているうちにその手足に真空の刃が襲い掛かるのを避けられないでいた。黄色の体毛ごとスパスパと斬られた痛さにまた獣の声を上げ、ベビーパンサーはそのまま前も後ろも分からないまま後ずさりしてしまう。
リュカは杖を手にしたまま用心深くベビーパンサーとの距離を縮めていく。油断すると、後ずさりしながらも鋭い爪を持った前足で薙ぐ空中に飛び込んでしまいそうだった。リュカは距離をはかりながら砂地にじりじりと足跡をつけ、杖で届くぎりぎりの距離からまだもがいている魔物の頭めがけて杖の瘤を満身の力を込めて振り下ろした。魔物は勘が鋭いのか、見えもしない杖の攻撃を何度かかわしたが、リュカの根気強い攻撃にとうとう脳天にその攻撃を食らい、砂煙を上げてその地に倒れてしまった。
リュカは肩で息をしながら杖を持っていた手を下ろした。後ろで暖かい気配を感じ、振り返るとビアンカが目を見開いてリュカを見つめていた。
「あんた、度胸あるわね。ちょっと見直したわ」
「だって、ボクは、お父さんみたいに、強くなりたいんだもん」
まだ息を切らしながらリュカはビアンカにそう言った。そんなリュカの真剣な表情を見て、ビアンカの心の中に少しだけリュカを認める気持ちが生まれつつあったが、彼女はそんな気持ちをおいそれと認めない。素直に気持ちをいえないビアンカは、またしてもリュカに挑戦的な態度を示してしまう。
「でもパパスおじさまみたいになれるのは、きっともっとずっと大人になってからだわ」
リュカの強い意志を否定しきれないビアンカはいつも通りの強気な笑みを浮かべてリュカにそう言った。そして表情を悟られたくないのか、そのままリュカから顔を逸らして城に向かって歩き始めてしまった。
「オトナになったらお父さんみたいになれるってことだね」
リュカはビアンカに聞こえるような声でそう言ったが、ビアンカは『早く行くわよ』と返すだけで、リュカの言葉には取り合わなかった。しかしリュカには彼女の言葉がなくとも十分だった。
目の前には自分で倒したベビーパンサーがぐったりとして砂地に横たわっている。腹の辺りが呼吸と一緒に上下している。いつ起き出すか分からないベビーパンサーを見ながら、リュカは父と離れて魔物を倒した嬉しさに一人顔を上気させていた。強い父に憧れる少年はそうして徐々に父の背中を追いかけ始める。

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