2017/12/03

告白

 

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宿のベッドに入ったのは真夜中をとうに過ぎ、そろそろ夜が明ける頃になってからだった。ベッドに横になり、窓から覗く星空を眺めていたリュカだが、空がうっすらと白くなり、星が見えなくなってからようやく、間もなく朝が訪れるのだと気付いた。
旅を続けるリュカにとって徹夜をすることは珍しいことでもないが、町で休む時には必ずしっかりと休息を取るようにしている。しかし今のこの状況ではとてもゆっくりと寝られるような心境にはならない。ベッドで横になっている間も、美しい星空を眺めながらその脳裏には、同じように星空を眺めるビアンカの姿が自ずと蘇った。ルドマンの別荘に泊めてもらっている彼女は自分と別れた後もしばらく星空を眺めていたのだろうかと、そう考えるだけでリュカは眠気など全く感じることなく、ただぼんやりと星空を眺めるだけの時間を過ごしていた。
窓の外では鳥が朝の歌を歌い始め、間もなく訪れる朝を歓迎する準備を整えていた。白々と東の空が明るくなるのを、リュカはベッドから起き上がって窓の縁にもたれるようにして眺めた。月明かりの下で青白い景色一色だったサラボナの町に、再び色とりどりの景色が現れ、町のあちこちで咲き誇る花も朝の目覚めと共にその香りを爽やかに町中を渡って行くようだった。朝陽の力はリュカの意思を明確にし、リュカは窓の外に見えるサラボナの町の景色をすっきりとした気持ちで眺めていた。
窓の外にはサラボナの町の南に広がる民家が立ち並ぶ景色がある。そこにはアンディの家もあり、昨夜は彼の元へフローラが向かったはずだった。真夜中に流れていた笛の音はいつの間にか止み、それからはもう笛の音が町を包むことはなかった。アンディが奏でていた愛の旋律はフローラに届き、彼女はそんな彼の心に応えるとと共に、彼へ別れの言葉を告げたのかも知れなかった。別れを告げに行くと言って真夜中に屋敷を出た彼女だが、実際アンディに別れを告げられたのどうか、リュカには想像することもできない。ただ昨夜、フローラに会った時の彼女の顔には明らかに焦りや苦しみが現れていた。それが一体どのような気持ちから生まれたものなのか、リュカにはもちろん、フローラ自身にも分かっていないようだった。
しばらくぼんやりと窓の外の景色に目をやっているうちに、もう朝陽は町の東に顔を出していた。サラボナを照らす太陽は一年を通して力強い。リュカは気持ちが鈍らないうちに行動をしようと、部屋を出た。
宿の受付では昨夜と同じように屈強な体つきをした宿の主人が、カウンターに肘をついて帳簿をめくっていた。香ばしいコーヒーの香りが漂うと思ったら、宿の主人がカウンターにコーヒーを置いて飲んでいるようだ。大欠伸をする宿の主人はリュカに気付くと、気さくな調子で「おはよう」と声をかけてきた。
「あんたも飲むかい、眠気覚ましのコーヒー。どうせ寝てないんだろ?」
そう言いながら席を立つ男に、リュカは腹の音で答える。
「眠いよりもお腹が空いてるみたいです」
「こんな時に腹が減るなんて、見かけによらず肝が据わってるんだな。この時間だったら町のパン屋は空いてるだろうから、そこで腹ごしらえをしてからルドマンさんのところへ行ったらいいかもな」
「そうすることにします」
リュカはそう答えながら、昨日ビアンカとこの宿を出て、町のパン屋で朝食を取ったことを思い出した。噴水広場で彼女と朝食を取った時のことがまるで大昔のことのように感じられた。あの時はビアンカとは間もなく別れ、フローラとの結婚を考えていた。自身の未来はそうなるべきだと思っていた。しかしフローラがビアンカを引き留めたことで、状況は一変してしまった。
「あんたがどっちを選ぶかは知らないけど、あんたの未来を応援してるぜ」
いかつい顔に笑みを浮かべる宿の主人を見て、リュカは彼の人の良さに感謝しながら宿を後にした。
宿を出ると澄み切った朝の空気が感じられ、リュカはその場で気持ち良く伸びをした。寝不足ではあるが気分が悪いということもなく、ただただ空腹を感じていた。噴水広場に向かい、昨日と同じパン屋で昨日と同じ朝食を注文し、湯気の立つコーヒーカップを見ながら、やはり思い出されるのはビアンカとのことだった。噴水の縁に座り、彼女と話をしながら朝食を取った場所で今も同じように朝食を取っていることに、リュカは何故だか笑い出しそうになった。
「ビアンカはルドマンさんの家で美味しいものを食べてるのかな。いいなぁ」
そう言いながら、リュカは本当はそんなことなど考えていないことに気付いていた。パンを持つ手は少し震え、サラボナの町を見渡す視線は落ち着きがない。緊張している自身をどうにか落ち着かせようと、そんなどうでも良いことを呟いているのだと、リュカ自身分かっていた。
『弟みたいなリュカを押し付けられるのはごめんよ』
昨夜ビアンカに言われた一言がふと頭によぎり、リュカはその時の苦しい感覚を思い出し、それを消し去るようにコーヒーを一口飲んだ。まだ熱いコーヒーが喉を通ると、火傷しそうな痛みを感じたが、それも一瞬で後には香ばしい香りが鼻から抜けるだけだった。
昨夜はもう一度ビアンカと話をして、彼女の気持ちを聞いてみようとルドマンの別荘に行ったリュカだが、結果は彼女に振られる形で終った。ビアンカはリュカをはっきりと「弟のようなもの」だと口にし、結婚相手に選ばれるなど迷惑なのだと言わんばかりの様子で話をしていた。
『結婚の前提となるのは愛です』
フローラの言葉には、昔も今も未来に渡っても、結婚と言うものについて普遍的にあり続ける意味が顕われていた。互いに愛し合うこと、それが結婚という形になるのだということは、リュカにもおぼろげに分かっていた。ラインハットで暮らすヘンリーとマリアはまさしく、その形を二人で作り上げている。
食事をしながらそんなことを考えていたら、ふと周りに人の気配が増えてきたことに気付いた。サラボナの町の人々は今日リュカがルドマン邸に行って、花嫁を決めることを知っている。町の噂の中心にいるリュカと言う旅人が堂々と町の噴水広場で朝食を取っていることに、町の人々はかえって話しかけづらい様子だった。町の人々に話しかけられる前に、リュカは残りのパンを温くなったコーヒーで流し込むようにして食べると、早々に片づけて早足でルドマンの屋敷へと向かった。



サラボナの町の人々はリュカと言う噂の旅人を目にすると、はっと息を飲むような仕草をしたり、いかにも話しかけたそうに人の良い笑みを浮かべて近づいてきたりした。しかしリュカは今は誰とも話をしない方が良いのだと、人々の視線を感じながらも目を合わせることなく早足でルドマンの屋敷へと一直線に向かって行った。
馬車も通れるような大きな橋を渡ると、間もなくルドマンの屋敷が見えてきた。橋を渡った先はルドマンの屋敷の敷地内のようなもので、町の人々は無闇にこの敷地内に入ることはない。ようやく町の人々の視線から逃れられたリュカは胸を撫で下ろすとともに、見えてきた屋敷の堂々たる姿に忘れかけていた緊張が蘇って来るのを感じた。
ふと視線を左にやると、そこには昨日ビアンカが泊まっていたルドマンの別荘が見えた。もしかしたら別荘からビアンカが出てきて、途中で会うのではないかと心の奥で期待したが、今彼女とここで会っても一体何を話したらよいのだろうかと、リュカは彼女と会いたいような会いたくないような複雑な心境になってしまった。完全に『弟』としか見られていないのならば、たとえここで会ったとしても、いつもと変わらずに元気に挨拶をしてくるのだろうと、そんな想像をするとリュカは一人勝手に胸を痛めた。
別荘に気を取られながらも屋敷に向かう足の速さは変わらず、気がつけばルドマンの屋敷の前に着いていた。結局ビアンカとは会わなかったことに、リュカは安心するように一つ息をついた。
屋敷前に繋がれるリリアンがリュカに挨拶するように元気に吠える。まるで呼び鈴の役目を果たすリリアンの声のすぐ後に、屋敷の中から使用人の女性が姿を現した。リュカはリリアンを一撫ですると、使用人の女性に頭を下げた。
「おはようございます、リュカ様。皆さんお待ちかねです。さあ、どうぞ、こちらへ」
メイドの女性は至ってにこやかに、普段ルドマンの屋敷を訪れる人々を迎え入れるようないつもと変わらぬ雰囲気でリュカを出迎えた。女性のその雰囲気に救われ、リュカは一瞬だけでも今ルドマン邸を訪れている理由を忘れて、心を落ち着かせることができた。
この世に生れてから、これほどまでの緊張感をリュカは味わったことがないのだと実感した。幼い頃から父と旅を続け、父が亡くなってからも仲間と共に旅を続けるリュカは、年齢の割に経験を積んでいることは確かだが、今のこの時のような独特の緊張感に身体が包まれたことはない。それは果して何故なのかとリュカは考えてみたが、良く分からないままメイドの女性に連れられて応接間に到着し、ドアが開けられると同時に、考え事をする頭など持ち合わせられる状況ではなくなった。
応接間にはルドマンが人の良い笑みを浮かべながら部屋に連れられたリュカを迎えた。そして彼の両側にはフローラとビアンカが静かに立っている。フローラは落ち着いた笑みでリュカを見つめていたが、ビアンカはリュカと目が合うなりすぐに目を逸らして床に視線を落としてしまった。
「おはよう、リュカよ。さあ、こちらに来なさい」
ルドマンの明るくも重みのある声に、リュカは小さく返事をして応接間へと入って行く。リュカを案内してきたメイドの女性は応接間の外に出ると、静かに扉を閉めて去っていったようだった。
応接用の椅子が並ぶ前まで来ると、リュカは再びルドマンに向き直り、そして彼の両側に立つフローラとビアンカの様子をちらりと窺う。この時にはフローラもビアンカも俯き、リュカと視線を合わせるようなことはなかった。しかし二人の女性の雰囲気はまるで違うように感じられた。フローラが視線を外しているのはリュカがルドマンと話をするのを邪魔しないようにと言う配慮の雰囲気が感じられたが、ビアンカからはそのような配慮とはまた違う雰囲気が感じられた。フローラが自然と視線を外しているのに対し、ビアンカが視線を外しているのにはどこか必死さを感じた。しかしそれがどのような内容のものなのか、リュカには良く分からなかった。
「さて、リュカ。フローラとビアンカさんのどちらと結婚したいか、よく考えたかね?」
ルドマンの話には大抵前置きなどはない。話の本題から入り、単刀直入に聞き、最短距離で話を進めようとする。しかしそれに少しの嫌みも何も感じないのは、彼が持ち合わせる独特の性格ゆえなのだろう。
「考えました」
ルドマンの率直な問いかけには、リュカも素直に端的に答える。恐らくルドマンと言う人物には、端的に答えるだけでもそれ以上のものが伝わるに違いないと、リュカは余計なことは何も言わずに短く答えるだけだった。
「そうか……。ずいぶん悩んだであろうが、両方と結婚するわけにはいかんからな」
ルドマンがリュカを案ずる気持に偽りはない。フローラの結婚相手の候補となった青年を気遣い、労わる気持ちをルドマンは自然に持ち合わせている。しかしその上で、ルドマンは娘フローラの結婚を確実に整えなくてはならない。それが世界的大富豪の義務なのだと、ルドマンは自身とフローラの立場をしかりと理解しているのだ。
「では約束通り、結婚相手を選んでもらおう! フローラとビアンカさんのどちらか好きな方にプロポーズするのだ」
ルドマンの声が応接間に響くと、それきり応接間は静まり返った。いつもは開けられている窓も今日は閉め切られており、この場が特別に守られていることが窺える。サラボナの町の人々の多くは恐らく、今日この日に大富豪ルドマンの娘フローラの結婚が決まることを予想しているのかも知れない。修道院での花嫁修業を終え、サラボナの町にフローラが戻ってきてから今まで、町ではフローラの結婚相手がどんな人物になるのかをずっと気にしているのだ。そしてかなり厳しい結婚の条件を見事達成したリュカが、フローラを選ばない理由はないだろうと、町の人々の期待は高まっている。
リュカも水のリングを探す旅に出るまでは、どこかフローラとの結婚を夢見ているような部分があったのではと自覚している。当初は天空の盾を持っているルドマンに話をしようとサラボナを訪れたリュカだが、話の流れでフローラの結婚相手として立候補することになり、炎のリングを見つけ出して結婚相手の立場を固めたリュカは、フローラとの結婚も悪いものではないのではないかと考え始めた。むしろフローラと結婚することで得るものは大きく、そして彼女自身、絵に描いたような美しく清楚な女性で、フローラと一緒になることをおぼろげに想像したこともある。その想像に、悪いものは何も出てこず、フローラと一緒になることで、明るい未来が開けるのだろうとリュカは感じていた。
リュカがフローラを見ると、彼女は静かに俯いたままその時が来るのを待っているようだった。静かに待つその姿は、お淑やかと言うよりもどこか堂々としていて、リュカがどんな言葉をかけようとも動じない気配があった。ルドマンと言う世界的に有名な大富豪の娘である彼女には、リュカには想像もできないような精神力が備わっているのかも知れない。そして、彼女のそんな堂々とした雰囲気に、リュカは救われる思いがした。
「フローラさん」
リュカが呼びかけると、フローラはゆっくりと顔を上げ、微かに笑みを浮かべてリュカを見つめた。その表情には、リュカのどんな言葉も受け入れる覚悟ができているように見えた。
「昨日はありがとうございました」
「いいえ、私の方こそ……。あの時、あなたとお話ができて良かったです」
昨夜、真夜中の時分、リュカはフローラと偶然にも会い、そこで初めて互いに顔を突き合わせて話をすることができた。そしてその話の内容で、リュカは自身の心を決めることができたのだ。『結婚の前提は愛です』というフローラの言葉が、リュカにとっては全てだった。実際に愛と言うものが理解できているのかは、リュカ自身にも分からない。しかしそれに似た感情を、リュカは水のリングを探す冒険の最中に知ってしまった。
「あなたに恥をかかせてしまったらすみません」
リュカは頭の中で話す言葉もまとまらないうちに、ただ気持ちだけでフローラに言葉を伝える。彼の中で、気持ちはしっかりと固まっている。その気持ちの一部を伝えるために、フローラに礼と謝りの言葉を述べなければならない。
「そのようなことはお気になさらず。あなたが決めることは、あなたのご意志に沿わなくてはなりません」
フローラはリュカの言葉を受け入れ、察している様子だった。昨夜、偶然にもリュカと会った際に、フローラの心の中でも今までにない変化が起きていた。大富豪の令嬢として育ち、数年間の花嫁修業を終えてサラボナの町に戻り、令嬢としての役割を果たす覚悟を決めていたフローラだが、彼女の心の中には常に何か得体の知れない靄がかかっていた。それがリュカと言う人物と出会い、ビアンカと言う彼の幼馴染の心中を垣間見て、そして昨夜再びリュカと会って話をしたことで、彼女の中の靄がすーっと晴れて行ったようだった。
もしリュカがフローラを選んだら、フローラにはそれを受け入れる覚悟がある。その気持ちに変わりはない。それがルドマン家の令嬢として果たさねばならない役割だとしたら、彼女にはそれを果す意志が十分にある。それだけ父であるルドマンに感謝し、恩返ししなくてはならないと心の底から感じている。
しかし今のリュカの目を見て、フローラには彼が自分を選ばないことは十分に分かった。自分と同じように、リュカの心の中に存在していた靄も昨夜、晴れて行ったのだ。すっきりとした彼の表情には、彼女への想いが溢れている。そんな彼の表情を見ると、素直に嬉しく思う気持ちと、少しの後悔の気持ちが生まれ、フローラはふとリュカから視線を外して床に視線を落とした。彼の目を見ていられない自分は、リュカと言う男性に仄かな恋心を抱いていたのだと、今さらながらに自覚した。
「僕は結局、ワガママなんです」
リュカは自分の人生を振り返りながら思わずそう口にした。これまでどれだけの人たち、魔物たちを巻きこんで、人生を過ごしてきたか。それを考えると反省することばかりだが、しかしそれでも自分の意思を曲げようともひっくり返そうとも思えない。水のリングを探す旅に出て、山奥の村でビアンカと再会し、旅の最中に彼女を好きになってしまったことは、抗いようもない運命のようなものだったのだと思わざるを得ない。
「誰だってきっと、そうなんだと思いますわ。そして肝心なところでは、そうあるべきなんです」
フローラの言葉は常に正義を帯びている。彼女の正しさに、リュカはまた救われる。自分の選択は間違っていないと、本来結婚する予定だった彼女の言葉に自信を得て、リュカはフローラにもう一度礼を言う。
「ありがとう、フローラさん。あなたに会えて良かったです」
「私もリュカさんと会えて良かったです。あなたが私の結婚相手の候補として来てくれて、本当に良かった」
二人は自然な笑みを交わした。一度でも結婚を考えた者同士の、特別な笑みだった。決して嫌いになったわけでもなく、むしろ互いに仄かな好意を抱いていたリュカとフローラ。リュカは運命と言う言葉の真意を根っから信じているわけではない。しかしそれでも、フローラとの出会いは自身の人生において運命のようなものだったのではないかと思った。
それは、ビアンカとの出会いにおいても同じことだった。彼女との出会いはまだリュカの記憶が曖昧な程幼い頃のことだ。リュカが記憶している彼女との記憶は、六歳の時に父に連れられサンタローズの村に行った時のことだ。しかし本当はもっと以前から彼女と会っていたようだった。その時から、彼女との人生は始まっていた。
リュカはフローラから視線を外し、ゆっくりとビアンカに視線を向ける。彼女はリュカから少し顔を背けるようにして俯いたままだった。リュカが応接間に入ってから、一度だけ視線を合わせたきり、ビアンカはずっと俯いてリュカとは目を合わせようとしない。それが彼女のどんな思いから生まれる行動なのか、リュカには知る由もない。しかしビアンカが今何を考えていようとも、己のすべきことは決まっているのだと、リュカは意を決して一歩を踏み出した。
「ビアンカ」
彼女の前に立ち、その名を呼ぶ。声が震えてしまうだろうかと心配だったが、意外に落ち着いていて、いつも通りの調子でビアンカに語りかけることができる。
自分の目の前に立つリュカの姿に、ビアンカは事態を飲みこめないまま彼を見上げた。予想していない事態に、ビアンカは彼にかける言葉を持たず、ただ呆然とリュカを見つめる。
リュカがフローラに話しかけた時、ビアンカは全てを覚悟し、彼ら二人を祝福する気持ちを作り上げようと渦巻く心を抑えつけようとしていた。しかしそれはなかなか上手く行かず、二人が交わす会話もほとんど耳に入らないほどビアンカの心は乱れ、気を抜けば今にも涙が溢れそうだった。気を紛らそうと他のことを考えようとするも、脳裏に蘇るのはリュカとの思い出ばかりで、自分は一体どれだけリュカのことを好きになってしまったのかと思い知らされるだけだった。
しかしフローラと話していたはずのリュカが、何故か今、自分の前に立っている。彼のいつも以上に濃い漆黒の瞳を見て、ビアンカは頭の中が真っ白になってしまった。リュカが一体自分に何を言うのかと、何も想像できず、ビアンカはただただ涙で潤む空色の瞳をリュカに向ける。
「僕、後悔したくないんだ」
リュカの瞳はいつも素直で、見つめる者の心を捉える。それは人間のみならず、魔物にまで及ぶ。しかし今のリュカの瞳が、いつもと様子が違うのは明らかだ。一人の女性への想いに溢れ、それを目の前の彼女に隠すことなく向けている。
「もう一度振られても構わない」
リュカの言葉に、ビアンカは昨夜の自分の言葉を思い出す。『弟みたいなリュカを押し付けられるのはごめんよ』と、必死に自分の心に反した言葉は恐らく自身を傷つける以上にリュカを傷つけたに違いない。ビアンカにはリュカの気持ちが十分過ぎるほど伝わっている。しかしそれは、彼の幸せを考えるには邪魔なものなのだと、ビアンカはリュカの恋心を否定し続けた。リュカの幸せはフローラと共にあるのだと、自身の恋心も、リュカの恋心も、全てを彼のために封じ込めるつもりだった。
しかしリュカは今、自分の目の前に立ち、熱く素直な想いを伝えてこようとしている。昨夜、はっきりと『リュカは弟』なのだと伝え、彼の想いを逸らしてしまおうとビアンカは必死に言葉を紡いだというのに、リュカはそんなビアンカの言葉に想いを曲げることも封じることもなく、ビアンカの目の前にどこか落ち着いた様子で立っている。彼の覚悟が嫌でも伝わる。
「ビアンカのこと……好きなんだ」
彼の想いには水のリングを探す旅の途中で気付いていた。しかしその言葉をビアンカは彼に言わせなかった。言葉にして想いを伝えられたら、とても自分が平静でいられるとは考えられなかった。
「きっと、ずっと前から好きだったんだ、君のこと。小さい時から、気付けば君のことを思い出してた」
告白してしまったら、リュカはもう淀みなく自身の想いを伝えられた。彼には何の迷いもない。昨夜フローラにもらった『結婚の前提は愛です』という言葉は、リュカの背中を力強く押してくれる。
「これからずっと、ビアンカに傍にいて欲しい。もう離れたくないんだ。だから……」
そう言ってリュカはビアンカの両手をそっと手に取った。応接間の中は暖かい空気がこもっていたが、彼女の手は冷えていた。じっと見つめた彼女の空色の瞳から、宝石のような涙が零れた。
「僕と結婚してください」
ルドマンの屋敷の応接間に、リュカのプロポーズの言葉が静かに響いた。それはフローラに向けてのものではなく、彼が知らないうちにずっと想い続けていたビアンカへのものだった。ビアンカはリュカに掴まれた.手から彼の温かな温度を感じると、自分の手も徐々に温まるのを感じた。つい先ほどまで、彼とフローラとの結婚を祝福しようと懸命に心を抑えつけ、自身の体温が無くなってしまうのではないかと思うほどに冷たくなっていた手が、温度を取り戻して行くのが分かった。
リュカの真摯な視線から、ビアンカは一度逃れた。そうでもしないと、返すべき言葉が考えられなかった。彼の視線から逃れると、ビアンカはいくらか冷静に周りの状況を感じることができた。震えるような呼吸が聞こえ、それがフローラのものだと分かると、彼女が静かに泣いていることを知った。フローラを悲しませてしまったのかと思わずビアンカは彼女を振り向く。しかしその顔には安堵するような笑顔があり、決して傷つき悲しむような涙ではないことを教えてくれた。
この場では、誰もが自分の心に素直でなくてはならないのだと、ビアンカはフローラの涙の笑顔に心を決めた。ここまで来て自身に嘘をつき、リュカは弟だから結婚はあり得ないなどと言うことは許されなかった。もう彼の想いを拒む必要はない。
「まあ、リュカ。こんな私でいいの? フローラさんみたいに女らしくないのに?」
それでも反射的に出た言葉は、まだまだ到底素直とは言えないものだった。そんな言葉が口から出てくることに、ビアンカ自身驚くような呆れるような思いがした。小さい頃から口が達者で、口から先に生まれたのではと自分でも思っていたが、本当にそうなのかもしれないとビアンカは思わず場違いにも笑いそうになってしまった。その拍子に、まだ目に残っていた涙が再び頬を伝う。
「そんなの構わないよ。フローラさんはフローラさん、ビアンカはビアンカだろ」
いつものビアンカの明るい調子に、リュカもいくらか緊張から解かれたように言葉を返す。伝う涙を見ながら、彼女のどこが女らしくないというのだろうと疑問に思う。そう思うだけのリュカの言葉は伝わらず、ビアンカは頬を膨らませるようにして眉をしかめて言う。
「あら、なによ、私が女らしくないっていうの?」
「え? いや、そういうわけじゃ……」
「でもそれでも私を選んでくれるのね?」
リュカを問い質すビアンカの顔には、人生の選択に向き合うための真剣さが表れている。彼女の真剣さに、リュカも真面目な表情で答える。
「うん、君と一緒にいたい」
「本当に私でいいのね?」
「ビアンカさえ良ければ……」
繰り返し問い質す彼女の強い雰囲気に、リュカは再び不安になる。振られることは想定していたはずだが、いざその時が来るとなると自分の気持ちがどうなるのか想像もつかない。
「私ね……」
ビアンカの声が震え、彼女のその小さな声に、リュカはビアンカの顔を窺う。彼女は俯きながら泣いていた。
「私もリュカのことが好き。きっと、ずっと前から……」
囁くような彼女の告白に、リュカは冷えそうになっていた心が一気に温まるのを感じた。再度振られることを覚悟していた反面、心のどこかで彼女のその言葉を期待していた。それと言うのも、フローラがビアンカを引き留めた時の言葉が頭の片隅に引っ掛かっていたからに違いなかった。
『もしやビアンカさんはリュカさんのことをお好きなのでは……?』
フローラは初めてビアンカと会った瞬間から、彼女の気持ちを見抜いていた。その時のフローラの言葉に、リュカは無意識にも期待を抱き、そしてそれはずっと胸の中でくすぶり続けていた。
ビアンカが手の甲でぐいっと涙を拭く仕草を見て、リュカはこんな時でも少しも女々しく見えない彼女が好きなのだと自覚する。子供の頃から元気で活発な彼女に憧れ、それは本当は恋の始まりだったのだと今にして思う。涙を拭ったビアンカは、目を赤く腫らしたまま顔を上げ、リュカににっこりと微笑んだ。
「うれしいわ! ありがとう、リュカ。また一緒に旅ができるね!」
そう言ってビアンカは握られたままの手をぶんぶんと勢い良く振った。思わぬ力強さに、リュカは思わずよろけそうになる。
「ビアンカは僕でいいの?」
「何がよ」
「だって、結婚だよ?」
「私にはあなたしかいないわ」
「本当に?」
「リュカ以外の誰とも、結婚なんて考えられない」
今まで封じ込めようとしていたリュカへの想いが溢れ、ビアンカはもう包み隠さずリュカにこの想いを伝えても構わないのだと、言葉を選ばずに彼に話す。想いのまま言葉を口にするのは何て気持ちが良いのだろうと、ビアンカはずっとリュカの手を握りながら彼を見つめていた。
「よし、決まった!」
広い応接間にルドマンの大きな声が響き渡った。突然現実に戻されたような気になり、リュカとビアンカは慌てて取りあっていた手を離した。
「ビアンカさんを選ぶとはやはり私が思った通りの若者だな。」
「ルドマンさん、僕は……」
「いや、何も言わずとも分かっておる! では早速式の準備だ! 花嫁の仕度は私の別荘で整えさせよう」
全く予期していなかった早過ぎる展開に、リュカもビアンカも呆気に取られた顔をしてその場に立ち尽くした。ルドマンは至ってにこやかに、父のその姿に倣うようにフローラも笑顔でリュカとビアンカを見ている。
「え、ちょっと、式の準備ってどういうことですか?」
「どういうことって、もちろん結婚式の準備に決まっているだろう」
「結婚式って、だって、僕はビアンカを選んだんですよ?」
「君がフローラを選んでも、ビアンカさんを選んでも、私には君の結婚式を執り行う責任がある。君は危険な旅をして二つのリングを手に入れて来てくれたのだ。私の出した結婚の条件を達成した若者に、結婚式の準備をするぐらい当然の責務だろう」
ルドマンが軽い調子で『結婚式の準備をするぐらい……』と言っているのを見て、リュカもビアンカもルドマンにとって結婚式と言うのは一体どれだけのものなのだろうかと、全く想像できなかった。世界的大富豪にとっては、二人の結婚式は自らが主催する一つの楽しいイベントのようなものなのかも知れない。
「場所はこの町の教会でいいだろう。早速神父に言って手配を……」
ルドマンはそう言うと、使用人を呼びつけて方々に手配が行きわたるよう指示を出し始めた。プロポーズの結果が気になっていた使用人の女性は、リュカがビアンカを選んだことを知ると顔を明るくし、「おめでとうございます」と告げ、忙しげに応接間を出て行ってしまった。恐らくすぐに、町中に知れ渡るのだろうと、リュカは改めて心が引き締まる思いがした。
「あの、花嫁の仕度ってどういうことでしょうか」
ビアンカがそわそわしながらルドマンに問いかけると、代わりにフローラが彼女に答えた。
「人生で最も美しく過ごさなければならないのですから、花嫁にはそれなりの時間をかけて仕度をしなくてはなりませんよ。でも、ビアンカさんは既にお美しいですから、それほど時間はいらないでしょうけど」
にこにこと笑顔を見せるフローラは、まるで自分の結婚式を準備するかのような喜びを感じているように見えた。すぐに年配の女性の使用人が応接間に呼び出され、ビアンカを別荘へ連れて仕度を始めるよう指示を受けると、ビアンカに「おめでとうございます。では参りましょう、花嫁さま」と言って別荘への案内を始める。戸惑いを隠せないビアンカを見て、フローラは再び後ろから声をかけた。
「待って下さい。私もお手伝いします」
フローラの声は弾み、足取りも軽やかだ。そんな彼女を見て、ビアンカはフローラが無理をしているのではないかといぶかしんでしまう。本来ならば、フローラがリュカと結婚するはずだったのだ。それを突然横取りするように結婚を決めてしまった自分に、フローラが良い感情を抱くはずがないとビアンカが考えるのは当然のことだった。
「あの、フローラさん、私……」
「謝ったりなんかしないでくださいね」
ビアンカの考えを読むようなフローラの言葉に、ビアンカは尚のこと彼女に謝らなければならないと感じた。
「でも、私がいなければあなたがリュカと結婚するはずだったのに、何だか横取りするみたいなことをして……」
「いいえ、むしろ横取りしそうになったのは私の方かも知れませんよ。だって、あなた達は幼馴染なんでしょう? 小さい頃から結ばれていた絆に、私が横槍を.入れたようなものなんですから」
「そんな、小さい頃は多分、お互いに意識したことなんてなかったし……」
「もう、そんなことはいいんです。ビアンカさん、折角好きな人と結ばれるのだから、もっと幸せな顔をしてください、さっきみたいに。ね」
フローラの全く邪気のない言葉や仕草に、ビアンカはこの世にこれほどの女性がいたのかと改めて驚かされる思いだった。そしてフローラの花のような笑顔に、ビアンカにも自然と笑顔が戻る。
「ビアンカさんが綺麗な花嫁さんになるのをお手伝いして、私も色々と勉強させてもらいますわ」
「えっ?」
にこにこと微笑みながらそんなことを言うフローラに、ビアンカは思わず聞き返す。
「私は結婚を諦めたわけじゃないんですよ。たまたまリュカさんとは結ばれなかっただけで、きっとそのうち私も結婚することになると思いますよ」
フローラの言葉にはどこか確信めいたものを感じ、ビアンカは彼女の中で何か確固たる思いがあるのだと思った。リュカとの結婚がなくなった代わりに、彼女の中でまた何か新しい思いが生まれたのかも知れなかった。
「さあ、参りましょうか」
使用人の女性が促すと、ビアンカは心を決めて受け入れ、頭を下げた。
「はい、じゃあお願いします」
「リュカさんにとびきりきれいな花嫁さんを見てもらいましょう」
フローラの声は弾み、ビアンカという女性の花嫁仕度を手伝えることに心からの喜びを感じているようだった。修道院で長年生活してきた彼女にとって、また本来の彼女の性格からして、自分以外の人の幸せを手伝えることは心底嬉しいことなのだ。
「まあ焦らずのんびり仕度してくれ。結婚式となると、色々と手配があるからな」
「はい、お父様」
三人の女性が応接間を出ると、残されたリュカはルドマンと二人で改めて話をすることになった。良く分からないまま展開だけが進む現実に、リュカはルドマンに何を話しかけたらよいのか分からない。とりあえず座りなさいと椅子を勧められ、リュカは座り心地の良い椅子に浅く腰をかけた。
「せっかく結婚式を挙げるなら、君も呼びたい友人がいるだろう。私が手紙を書いて呼ぶから、教えてくれないかね」
ルドマンにそう言われてリュカが真っ先に思い浮かべるのは、ラインハットにいるヘンリーとマリアだった。しかし西の大陸の端にあるこのサラボナから東の大陸のラインハットへ手紙を送り、彼らを呼び寄せることは容易ではない。月日もかなりかかる上、彼らはまだラインハット再興中の多忙な身で、おいそれと友人の結婚式のために国を長い間出るわけにも行かないはずだ。
しかしそんな現実とは別に、リュカは今の幸せな気持ちをヘンリーと分かち合いたかった。一足先に幸せを掴んだヘンリーにようやく追いついたのだと、リュカは親友と肩を並べて話がしたかった。自分だけでは抑えきれないこの喜びを、ヘンリーに共有してほしかった。
「来られるかどうか分からないけど、二人、お願いできますか」
リュカが自ら移動呪文でラインハットへ飛んで行って、ヘンリーとマリアに会って連れてくるということももちろんできる。リュカはそうしようかとも考えたが、彼らはリュカの友人であると共に、ラインハットの国政を担う重要人物でもあるのだ。国の代表の一人でもあるヘンリーとその妻のマリアを、リュカの個人的理由で遥か西のサラボナにまで連れて来てしまうのは、さすがに気が引ける。リュカが自ら飛んで行ってヘンリーたちに話をしたら、彼らは断ることもできずにサラボナにまで来てしまうかもしれない。しかしルドマンから手紙を書いて事情を知らせれば、彼らにも断る余地が残されるのではないかと、リュカはルドマンに話してみることにした。
「ラインハットにヘンリーとマリアって言う僕の友人がいるんですが……」
リュカが二人の名を告げると、ルドマンは小さな目を見開いて明らかに驚いた表情を見せた。
「それはもしかして……ラインハット王の兄君とご夫人かね?」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も、つい数日前に手紙でやりとりをしたところだよ。商売の関係で数回連絡を取り合っているんだ」
ルドマンの言葉に、今度はリュカが驚く番だった。まさかルドマンとヘンリーが知り合いだったとは考えてもみなかった。しかし考えてみれば何も不自然なことはない。ラインハットが国の再興の一端として、サラボナの大富豪であるルドマンと商売を始めていてもそれはごく自然な流れだ。
「君はとても運がいい」
ルドマンが口髭を触りながら、にこにことリュカに話しかける。
「ヘンリーご夫妻はちょうど、こちらに向かってきているところだよ。ラインハット再興も大分落ち着いてきたからと、今は外遊で西の大陸を移動しているところらしい」
思ってもいなかったことを聞かされ、リュカは胸の内に徐々に喜びが滲んで行くのが分かった。ヘンリーとマリアがサラボナに向かってきている。自分とビアンカの結婚式に来てくれるかも知れない。考えるだけで嬉しくて、堪え切れない笑顔が表に出ていた。
「サラボナの町に着くのは恐らく半月ほど先になるだろう。その頃には式の準備も整って、ちょうど式が挙げられる頃かも知れないな」
「じゃあ、ヘンリーたちは……」
「このタイミングでサラボナに来られるようになるとは、まさしく運命のようなものを感じるな。情に厚い彼らだ、きっと君とビアンカさんの式には参列してくれるだろう」
そう言うと、ルドマンはいつもの行動の速さで、すぐに使用人を呼びつけ手紙を送る手配を進めるよう言いつけた。使用人の女性は慣れた様子で、すぐさま応接間を出て手配に回ったようだった。
「さて……。いよいよ結婚式だが……」
そう言ってルドマンは咳を一つすると、改まった様子でリュカに話しかけた。リュカも腰を浮かしかけていた椅子に再び座り直し、ルドマンの言葉を待つ。
「実は山奥の温泉村のほら穴に腕のいい道具屋が住んでると聞いてね。花嫁に被せるシルクのヴェールを注文しておいたのだ。君には花嫁のためのそのヴェールを受け取ってきてもらいたい」
「しるくのべーる、ですか?」
リュカは初めて聞く言葉に思わず首を傾げて聞き返す。今までの人生の中で一度も出会うことのなかったものに、リュカはそれが何かを想像することもできない。そんなリュカの様子をすぐに読み取ったルドマンは一度席を立ち、応接間の本棚に向かうと、一冊の本を手にとってリュカに見せに戻った。
「結婚式の花嫁はこのようにドレスを着て美しくなるのだ。頭に被っている白く長いものがシルクのヴェールだよ。これを君に取ってきてもらいたい」
ルドマンが取ってきた本を見て、リュカは本に描かれている花嫁の絵に近い女性をラインハットで見たことがある気がした。思い出してみると、それはヘンリーの継母である太后が若かりし頃に身につけていた服に似ていた。しかし太后が煌びやかに着飾っていたドレスとは違い、花嫁の着るドレスは白一色で、頭に被るヴェールと言うのも白っぽいもののようだった。
「これをビアンカが着るんですか?」
「このドレスよりも良いものを用意するよ。花嫁には人生で最も美しい時を過ごしてもらいたいからな」
ルドマンの言うこれよりも良いものと言うのが、リュカには良く分からなかった。ただウェディングドレスと言われる純白のドレスを着たビアンカを想像すると、リュカはまるで天女か女神と結婚するのではと錯覚するほどだった。
「長く旅をしてきた君にとって近くの山奥の村に行くのは造作もないことだろう。船はこれまで使ってきたものをまた使ってくれて構わない。君が戻る頃には式の準備も終わるだろう!」
相変わらずの話の速さに、リュカは慌ててルドマンの話に口を挟む。
「でも僕はビアンカを選んだんですよ。それなのにここまで……」
「え? ビアンカさんを選んだのに式の準備までしてもらっていいのかって? 言っただろう。私は君が気に入ったのだよ」
「この準備だって、フローラさんのために進めていたものだったんじゃないんですか? それなのに、言ってみれば赤の他人の僕とビアンカのためにここまでしてもらうなんて、フローラさんにも悪いです」
「フローラのことなら気にせんでいい。またいい相手が見つかるさ。それにあの娘はそれほどヤワな娘じゃない。なかなか芯があってしっかりしているから、何も心配することはないぞ」
明るく朗らかに言うルドマンには、少しの嫌みや妬みを感じることもなく、むしろ二人の若者の結婚を祝いたくて仕方がないという雰囲気さえ感じられる。この人の良さが、ルドマンが世界的に大富豪でいられる一つの理由でもあるのだろうと、リュカは何となくそんなことを考えてしまう。
「それより君こそ後で後悔しないようにな。わっはっはっ」
大事な一人娘の結婚がふいになったというのに、ルドマンはその事態を重く受け止めることもなく、人生の一つの通過点に過ぎないとでも言うような雰囲気で明るく笑う。大らかな彼の性格に、リュカは感謝するとともに、フローラに対して少し同情の念を感じた。
「では頼んだぞ、リュカよ」
「はい、分かりました。シルクのヴェールを持ってすぐに戻ってきます」
リュカはルドマンに礼をして、応接間を出ようと扉に向かった。町を出る前に一度ビアンカに会って話をしてからにしようと考えていたところ、後ろからルドマンに声をかけられる。
「ビアンカさんには恐らく会えないと思うぞ。花嫁の仕度中、別荘は男子禁制となっているだろうからな」
「え? そうなんですか?」
あからさまに肩を落としたリュカの様子を見て、ルドマンは再び明るい笑い声を上げる。
「式が終れば晴れて夫婦となるのだ。それからはずっと一緒にいられるのだから、それまでは辛抱していたまえ。式の後は二人で別荘に泊まってもらっても構わないから、その時にゆっくり話をしたらいい」
「はい……じゃあ、ちょっと辛抱します」
落ち込んだ声を出すリュカをルドマンは楽しそうに見ていたが、リュカはそんなことには気付かないまま応接間を後にした。
「そう言えばずっと待たせてるなぁ。みんな、待ちくたびれちゃったかなぁ」
リュカは屋敷を出てサラボナの町を歩いている時、ふと町の外に待たせている魔物の仲間のことを考え始めた。ずっと外に待たせている魔物の仲間たちは今の事態を全く知らないままでいる。一体どこからどう話したらよいだろうと、リュカはビアンカに会いたい気持ちを抑える代わりに、魔物たちへの説明に頭を巡らせ始めた。

Comment

  1. YORI より:

    「もう一度振られても構わない」
    「これからずっと、ビアンカに傍にいて欲しい。もう離れたくないんだ。だから……」

    この言葉にやられました。
    今回もすごく心を震わされました
    ビアンカを選んでほしかったし、実際に僕は
    いったい何回ドラクエ5をやったかわからないですけど
    今回こそフローラさんを選ぼうと思っても
    いっつもビアンカを選んでしまいます
    ビアンカを一人にさせたくない
    ビアンカと共に進んでいきたいと思ってしまいます
    たぶん少年時代のストーリーがあるからなんでしょうけど
    今回この小説を読ませていただいて
    改めて、ビアンカの存在の大きさを実感してます

    続きをまた楽しみにしています

    • bibi より:

      YORI 様

      早速のコメントをありがとうございます。
      台詞はリュカ君らしく、ストレートなものを選んだつもりです。分かりやすいのが一番かなと思いまして。
      私も機種を変えてドラクエ5を何度となくプレイしていますが、いつもビアンカを選んでしまいます。
      一度だけ、フローラさんを選んで進めたことがありますが、その後のビアンカ姉さんの人生を思うと何だか辛くてやるせなかったです。
      どうしていつまでも独りでいるんだよう、と。
      結婚後はラブラブな二人を書ければいいなぁと思っています。
      ま、私の書くラブラブはたかが知れていますが^^;
      続きはまたしばらくお待ちくださいませ。まだ一文字も書いておりません故……(汗)

  2. タイーチ より:

    リュカくん、おめでとう!!笑
    いいなぁ、ルドマンさんにフローラさんに皆の人柄が凄い伝わってきました。リュカもヘンリーの立場の事を考えたりできるようになったんですねぇ笑
    プックルは大喜びですね。次回も楽しみにさせて頂きます。更新お疲れ様でした!
    インフルエンザが流行り始めましたね。お気をつけ下さい!

    • bibi より:

      タイーチ 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      祝福のお言葉、ありがとうございます(笑)
      私の中で本当の大富豪ってめちゃくちゃ善い人というイメージがあるので、そのイメージで書かせてもらっています。
      細かいことにクヨクヨしていたら、大富豪になんてなれないだろうし。
      次回作ではプックルの喜びをお伝えできたらと思っています^^
      インフルエンザ、かかったことはないですが(多分…)油断しちゃいけませんね。十分気をつけたいと思います。
      まだまだ寒いのでタイーチさんもお体大切になさってくださいませ。

  3. ゆーり より:

    bibi様こんばんは。更新楽しみにお待ちしておりました!
    本当に素晴らしかったです。通勤途中に電車内で読んでいたのですが、泣きそうになって堪えるのが大変でした…。SFC、PS2、DSとすべてやり尽くしたのですが、何度やってもビアンカしか選べなくて…フローラも魅力的なキャラクターなんですけどね。ビアンカもリュカもよかったね…(涙)プロポーズのお話は様々な方が二次創作で書いていらっしゃるのですが、数ある中でもこのお話が一番グッときました。何度読み返してもうるうるきてします。本当に素敵なお話をありがとうございました。
    次回のお話も楽しみにしております!

    • bibi より:

      ゆーり 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      二人のプロポーズのお話は、それこそ色々なサイト様で取扱いされているので、今さら自分がなぁ……と思いながら書いていました^^;
      でもやはり、自分なりのものを書いてみたいとも思っていたので、このような感想を頂けて良かったです。
      フローラさんもかなり善い人なんです。彼女と結婚してもきっと楽しい結婚生活が送れるに違いないと思いつつ、私もいつもビアンカを選んでしまいます。
      と言うのも、彼女はリュカと結婚しない場合、その後もずっと独りなんですよね。
      それはそれでお話が作れそうですが、作りながら自分が泣くかも知れません><
      次回作は魔物の仲間たちとの会話と、お義父さんへのご挨拶です。上手くやってくれるのか、今から不安です(笑)

  4. ての より:

    つい二週間ほど前にこのサイトを発見しここまで読ませていただいてました。
    読んでいるあいだドラクエ5の思い出やら感動やらがこみ上げてきて、最新話まで追いついた今コメントさせていただきます!

    いろいろ長文で書こうと思いましたが、文章が余り得意ではないので上手くまとまりません…
    ですので僕なりに一言…

    感動しました!

    この言葉以外何も出てきません!!
    これからの更新心から楽しみにしています!!!

    • bibi より:

      ての 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ドラクエ5のストーリーは他のドラクエ作品に比べても感動に重きを置いている気がするので、そう言っていただけるととても作りがいを感じます。
      とりあえず最も書きたい所まで書いたので、今は一息入れている状態です。
      ……なんてことを言ってないで、とっとと次の作品に取りかかりたいと思います^^;
      更新、首を長くしてお待ちくださいませm(_ _)m

  5. ゆりのん より:

    さすがですね!
    ドラクエ5の感動が蘇って来ました!
    お義父さんへの挨拶、上手くいくといいですね笑

    • bibi より:

      ゆりのん 様

      コメントをありがとうございます。
      感動、蘇ってきましたか。
      次作もご期待を裏切らないよう、お義父さんへの挨拶に行ってきたいと思います^^

  6. サーシャ より:

    ドラクエ5の感動が蘇って来ました!
    リュカのほんわかした雰囲気やそれとは逆のしっかりした言葉など、もうこのサイト様の虜でございます!
    お義父さんへの挨拶、上手くいくといいですね笑
    みんなから頼られるリュカ、楽しみにして待ってますね^ ^

    • bibi より:

      サーシャ 様

      コメントをありがとうございます。
      次作もただ今執筆中で、今月中にはアップできるかと……目標が低いですね^^;
      お義父さんへの挨拶はあまり重くない感じで行く予定です。
      今しばらくお待ちくださいませm(_ _)m

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