2017/12/03

登山の戦闘と休息と

 

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登山口付近の毒の沼地の景色に、リュカたちはどうしようもない不安を感じていたが、山を登り始めるとその景色はがらりと変わった。
グランバニアと言う国に通じる道だけあって、登山道は決して獣道などではなく、多くの旅人によって踏みならされ、馬車が通るにも特に問題のない道だ。急勾配で馬車を進めるのに苦労する箇所もあるが、おおよそなだらかな野原のような道を進み、辺りは一面草花に覆われる景色で、少し山を上れば眼下には爽やかな緑の景色が広がる。見晴らしの良い景色は旅人の目を休ませるにも十分なものだ。
しかしそれも、魔物がいなければ、という話だった。魔物がいない平和な時代であれば、この山登りで十分に景色を眺め、清々しい山の空気を吸い、爽やかな気分で旅を楽しめたのかも知れない。辺りの草花をじっくりと眺め、心を休めることもできたのだろうが、山に棲む魔物がそうさせてはくれなかった。見晴らしがよいのは山に棲む魔物たちにとっても同じであり、山への侵入者であるリュカたちの姿を見つけるなり、魔物たちは躊躇なく襲いかかってきた。
美しく広い湖を湛え、サラサラと涼し気な音を立てて流れる小川の傍で、リュカたちは魔物との戦闘を余儀なくされた。馬車を中心に仲間たちは放射状に広がり、山に棲む魔物の襲撃と相対した。山には空を飛ぶ魔物の姿が多く、突然背後からの攻撃を受けて仲間が昏倒する局面にも遭遇した。
今もリュカたちはコウモリのような翼を大きく広げた竜の魔物と対峙していた。蛇のような長い舌を口からチョロチョロと見せ、顔にはニタニタと薄笑いを浮かべている。リントブルムと呼ばれるその魔物は集団で行動しているようで、必ず三匹以上の群れで姿を現した。
初めに対峙した時は魔物の呪文にも備えたが、呪文を使って来ないことが分かると、滑空してくる魔物の姿を捉えて、直接攻撃での戦闘を試みた。長い山登りの旅を考えて、リュカたちは魔力の温存を考えた。
「なるべく呪文は使わないように行こう。でもとにかく命は大事に」
「剣であしらえるものはそうするようにします」
「わしらは控えめに援護射撃じゃ」
「そうね、この後どんな魔物がいるか分からないもの。なるべく体力も魔力も取っておかなくちゃ」
そんな会話ができるほど余裕があったのは、山を登り始めて二時間ほどまでだった。リントブルムと対峙していたこの時には既に、リュカたちは少し余裕を失い始めていた。相手が呪文を使わない魔物であっても、空を飛び、自由に攻撃を仕掛けてくるため、リュカたちは積極的に直接攻撃にしかけることができない。戦闘が長引くのは当然で、長引く戦闘で消耗する体力の方が問題となった。
リュカとピエールはなるべく攻撃呪文を使わないようにしていたが、それも山登りを初めて数時間で解禁となった。この山には宙に飛ぶ魔物が多く棲息しており、直接攻撃だけではとても追いつかない状況だ。しかも酷い時には十体近くの同類の魔物に襲いかかられ、剣で一体一体を攻撃しているようでは体力を必要以上に消耗し、結局回復呪文に使う魔力の方が余計にかかる始末だった。
「これじゃダメだ。やっぱり呪文を使って倒していこう」
「承知しました。とにかくこの魔物どもを倒さなくてはなりませんからね」
「久々にどかどかと魔物が現れるから、ワシもはりきるぞい」
「とにかく倒して倒して行かないとってことね。任せて!」
リュカの一言がきっかけで、仲間たちは一斉に攻撃態勢に転じた。宙を飛び回るリントブルムやダックカイトというアヒルのような嘴を持った魔物に向かって攻撃呪文が容赦なく放たれる。突然勢いよく牙をむいて来た登山者たちに、魔物の中には戸惑った様子で逃げるものも現れた。誰だって自分の命は惜しい。やたらと火や爆発や真空の刃を向けてくる登山者たちと対峙するくらいなら、逃げて自分の命を守るのが先決だと、宙を飛べるのをいいことに翼をはためかせて何匹もの魔物が逃げて行った。追撃をしようとするメッキーに、リュカは「一人で行っちゃダメだよ、メッキー!」と呼びかけ、必要以上の攻撃を仕掛けないよう忠告した。
急勾配の箇所に差しかかると、パトリシアが引く馬車を後ろからガンドフが支えながら進む。魔物との戦闘でかなり体力も魔力も消耗していたが、リュカたちは交代で休み、どうにか順調に道を進めていた。
途中、馬車がようやく通れるほどの狭まった道では、リュカたちは馬車の車輪が道を踏み外さないように見守りながら、慎重に少しずつ馬車を進めた。パトリシアもいつにない緊張感を漂わせつつ、ちらちらと後ろを確認しながら馬車を引いて行った。
もう少しで広い道に出るというところで、先頭を飛んでいたメッキーが「ッキー!」と叫び声のような声を上げた。何事かと慌ててリュカが飛び出し、状況を確認する。宙に羽ばたくメッキーの姿がすぐに確認できてひとまず胸を撫で下ろしたが、それも束の間、メッキーが魔物に取り囲まれているのを見て、すぐに剣を構えた。そして後ろから続いている仲間たちに声をかける。
「みんな、早くこっちに出て来て」
狭い道では魔物と戦うことなどできないと、リュカはすぐに広い場所に出てくるように仲間たちに指示を出す。リュカの声音で状況を察し、仲間たちはすぐさま馬車を進め、幅の広い山道に出た。馬車の荷台を押しているガンドフの姿まで確認でき、仲間全員の姿が広い道に出てきたのを見たところで、リュカは再び魔物たちに向き直った。その瞬間、リュカの目の前に青色の大きな顔が飛び出してきた。リュカは辛うじてそれを交わしたが、一瞬判断が遅れれば、リュカの頭は青色の竜の魔物にかじられているところだった。
「リュカ! 何やってるのよ、早くそこから逃げて!」
ビアンカの声に、リュカはすぐさま状況を把握する。いつの間にか魔物に囲まれているのは自分になっていた。仲間の皆の状況を確認しようと、対峙する魔物に完全に背を向けていたせいで、魔物たちは隙だらけのリュカを標的と定めたようだ。再び大きな青い顔が振り回されるように襲いかかってきて、リュカはかじられそうになるのを再び何とか避けた。
ドラゴンマッドと呼ばれる竜の一種である魔物は、重そうな体を左右に揺らしながら、ドスドスとリュカに襲いかかってくる。それが五体。取り囲まれるリュカは、一体どの魔物が一番先に攻撃を仕掛けてくるのか、見極めようとする。しかしリュカの予想の遥か斜め上を行く行動を、ドラゴンマッドたちは仕掛けてくる。対角線上にいるドラゴンマッド同士がまるで示し合わせたように駆け出し、リュカに一直線に襲いかかってくる。リュカは不思議に思いながらも、その攻撃を直前まで待って、さらりと交わす。すると当然のように、対角線上に走って来たドラゴンマッド同士が激しい音を立ててぶつかり合い、その場に倒れてしまう。そんな一部始終を、リュカを始め、ビアンカもマーリンもピエールもぽかんと口を開け、プックルも欠伸をしながら、スラりんは「ピー?」と疑問の声を出し、メッキーは何が起きたのか良く分からない様子で、ガンドフは大きな一つ目を更に大きくして驚き見つめていた。
「あの、えっと、これって二体は倒したってことでいいのかな」
「さて、どうなのでしょうか」
「いやいや、倒れてはおらんぞい。頭はちと足りんようじゃが、体は見た目通りタフなようじゃの」
「……何だか、やっかいな魔物ね」
マーリンの言う通り、倒れた二体の魔物ドラゴンマッドはまるでただ転んだだけのような雰囲気で頭をぶんぶんと振ると、再び大きな口を開けてのそりと立ち上がった。そして目の前にいるリュカを見下ろすと、何の迷いもなくその大きな口でリュカを食べようとした。リュカは慌てて剣を突き出し、ドラゴンマッドの攻撃に身構える。大口の中に入ってしまった剣に、ドラゴンマッドは悲鳴を上げ、剣の攻撃から逃れるとそのまま一体はどこかへ逃げ去ってしまった。逃げ去る仲間を残りの四体はじっと見つめるだけで、特別仲間に対して何か反応するようなところもない。リュカはこの青い竜の魔物にどんな感情があるのか、ふと気になってしまった。
「あの魔物は仲間じゃなかったの?」
リュカの言葉に、ドラゴンマッドたちは当然応えることもなく、今度はリュカに鋭い爪で攻撃を仕掛けてくる。油断していたリュカは咄嗟に出した左腕に鋭い爪の攻撃を受け、腕から血しぶきが飛ぶと同時に、その衝撃に顔を歪める。
「リュカ殿! そいつらは恐らく言葉が通じません! 話している場合では……」
そう言いながらも回復呪文をかけ、ピエールはリュカの傷をすぐに癒す。ピエールの素早い処置のおかげで、リュカの傷はすんなりとふさがり、痛みからも解放された。
「ありがとう、ピエール。でも、何だかそんなに悪い感じがしないんだよね、この魔物」
しかしただの雰囲気で感じ取るものだけを頼りに、魔物への攻撃の手を緩めるのは違うと、リュカも戦闘に集中するようにした。ドラゴンマッドの残りは四体。その内二体が自分を見下ろしている。一対二という不利な状況から逃れるため、リュカは真空呪文を使って魔物の目をくらまし、仲間たちのいる場所へと駆けて移動した。その間も、リュカと対峙していたはずの二体のドラゴンマッドは、真空呪文で受けた傷を煩わしそうに眺め、舌で舐めていた。大した傷ではないらしい。
「リュカ、加減したわね?」
「……うん、何となく」
「甘いのう、お主は。あんなに凶暴な顔つきをしとるヤツらに」
リュカが仲間たちの所に戻り、今度はリュカたちがドラゴンマッド四体を取り囲む状況となった。しかし取り囲まれた意識があるのかないのか、ドラゴンマッドたちは何も恐れを抱かず、ただ目の前の敵に向かって行く。最も近くにいたプックルに向かって走っていく。ドシンドシンと大きな音を立てて走るドラゴンマッドだが、音の割には走るのが早い。しかし素早いプックルには問題ないというように、ドラゴンマッドの大きな体をぎりぎりのところで交わすと、その動きのまま攻撃に移る。プックルは鋭い牙でドラゴンマッドの身体に噛みつき、ドラゴンマッドは野太い悲鳴を上げて痛みを訴える。プックルが得意げにしていると、痛みに暴れるドラゴンマッドの尻尾の一撃が決まり、今度はプックルが痛みに暴れ始めた。
「……プックル、しっかりしてよ」
リュカが傷を癒すと、しゅんとしていたプックルはすぐさま気を持ち直し、再びドラゴンマッドの群れに飛び込んでいった。戦いを好むキラーパンサーだけあって、戦闘の時のプックルは生き生きとしている。リュカたちと旅をして、馬車の進みに合わせて歩き、普段は大人しくしているプックルも、いざ戦いとなると本性を見せるのだ。
リュカたちがドラゴンマッドの群れと対峙していると、馬車を見張るスラりんの鋭い鳴き声が響いた。声のする方を見ると、先ほどまでリュカたちが登ってきていた狭い山道を他のドラゴンマッドの群れが登ってきているのが見えた。二体まではガンドフが相手をして、魔物を崖の下に落としたようだったが、三体目がガンドフを突き飛ばし、今度はガンドフが崖の下に落ちそうな状況だった。スラりんの鳴き声は助けを呼ぶ声だった。
リュカが慌ててガンドフの所に向かおうとすると、ドラゴンマッドたちの群れに道を阻まれ、攻撃を仕掛けられる。リュカは剣を手にしているが、ドラゴンマッドの攻撃を剣で受けるには無理があった。攻撃を受け剣が手から離れてしまう。そのお陰で折れるのは免れたが、代わりにリュカの腕が折れそうな勢いだった。ミシッと腕が鳴り、リュカは小さな悲鳴を上げて腕を抑えた。
「リュカ! こっちは任せて!」
鋭いビアンカの声が聞こえ、彼女が中心にガンドフの救出に向かう。ガンドフほどの重さを引き上げられるのはパトリシアしかいない。彼女は馬車の荷台から山登りに備えて手に入れていたロープを取り出すと、片方をパトリシアに巻き付け、片方をメッキーに渡す。メッキーは意を得たようにロープをくわえてはばたくと、それをガンドフの身体にぐるりと巻き付けた。ガンドフも巻き付けられたロープをしっかりと両手でつかみ、パトリシアに引き上げられるのをじっと待つ。
「パトリシア、お願い」
ビアンカの声に、パトリシアがガンドフを引き上げようとする。その間にも、残りのドラゴンマッドたちがビアンカやメッキー、スラりんに襲いかかる。メッキーは空から幾度となく体当たりをし、ビアンカは魔物たちを牽制するために火炎呪文を連発する。スラりんも金切り声のような声を上げ、何かの呪文を唱えると、一体のドラゴンマッドが突然味方のドラゴンマッドを攻撃し始めた。混乱した魔物同士で戦いが始まり、その間にパトリシアがガンドフをようやく引き上げようとする。
その時、一体のドラゴンマッドがパトリシアとガンドフを繋ぐロープを手に持った。ビアンカが咄嗟にメラミの呪文を唱えようとするが、そのドラゴンマッドはロープをじっと見つめた後、ガンドフとパトリシアを助けるようにロープを引っ張り始めたのだ。
「グオーン!」
ドラゴンマッドが大きな声を上げてロープを引くと、それに合わせてパトリシアも足を踏ん張り、ガンドフがロープと共に崖の上に飛び出してきた。パトリシアとドラゴンマッドの怪力で、ガンドフをどうにか助けることができた。その状況にビアンカもメッキーもスラりんも目を丸くしていたが、ロープを引っ張るのが楽しかったのか、ドラゴンマッドはまだロープを手にしたままそれをぶんぶんと振り回している。ビアンカとメッキーがパトリシアとガンドフに結び付けておいたロープを慌てて外すと、解放されたロープを振り回して、ドラゴンマッドは楽しそうに暴れる。
「……ま、助けてくれたから、いいわよね」
「ッキッキ」
使ったロープを回収したいところだったが、まだ他のドラゴンマッドを倒したわけではない。ビアンカたちはスラりんのメダパニが解けたドラゴンマッド二匹を相手に、戦いを再開した。直接攻撃を仕掛けるにはあまりにもリスクが伴う相手のため、メッキーが空から撹乱し、隙をついてビアンカがメラミを仕掛ける。襲いかかられればガンドフが戦闘モードになって全力の体当たりをし、同じほどの大きさのドラゴンマッドも吹っ飛んだり転んだりと、まともに立ってはいられない。スラりんは一度効果のあったメダパニの呪文を再び試み、ドラゴンマッド一体にかかると、したり顔をして喜んでいた。
リュカはビアンカたちの戦いを見つつも、自分が対峙しているドラゴンマッドの群れがまだまだ倒れないことに疲労を感じていた。既に二体は倒したものの、まだ二体のドラゴンマッドがリュカたちの目の前で好戦的な雰囲気をありありと見せている。あまり頭で何かを考えている様子はなく、ただ目の前に敵がいるから戦う、それだけのようだった。
「上手く逃げられないかな」
「さて、私たちが逃げたら奴らは楽し気に追いかけて来そうな気もしますが……」
「じゃがなかなかツライ戦いじゃぞ……」
同じように好戦的な雰囲気を漂わせているプックルは一人、前足で地面をかいて今にも飛び出しそうだが、一応リュカたちの話に耳を傾けじっと堪えている。戦い甲斐のある相手で、プックルは野生の本能がうずいているようだ。
リュカは周囲を見渡した。一面見渡せる広い斜面だが、少し上の方を見るとごつごつとした岩がむき出しになっている箇所が見えた。出っ張った岩肌を見て、リュカは近くにいたピエールに小声で相談する。リュカの提案に、ピエールも、聞き耳を立てていたマーリンも頷き、決行することにした。
「ビアンカ!」
大声でビアンカを呼び、リュカは山の斜面を登れと手で指示を出す。ビアンカもすぐに夫の意を得て、共に戦っていたガンドフたちに呼びかけ、パトリシアを連れて山の斜面を駆け上がる。リュカの指差した方向には岩肌が大きく飛び出した箇所があり、ビアンカは少しでも衝撃を与えれば崩れてしまいそうなその場所を見てすぐにリュカの意図を理解した。
ビアンカたちを追いかけてドラゴンマッドたちも吠え声を上げながらついてくる。何も考えずに、ただ敵を倒そうと動く標的を追いかけているだけの状態だ。ビアンカはメラミの呪文を二発ほど飛ばして牽制しつつ、パトリシアを先に行かせた。ガンドフも大声を上げながら向かってくるドラゴンマッドにつかみかかって投げ飛ばし、メッキーも空から近づいたり離れたりを繰り返して煩わしい攻撃を繰り返す。しかしドラゴンマッドもガンドフに鋭い爪で攻撃をしたり、近づくメッキーを捕まえて遠くへ放り投げたりと、力技の攻撃を執拗に繰り返す。ガンドフと同じほどかそれ以上の力があるドラゴンマッドに接近戦は不利なのだと、ビアンカは懸命に魔物を遠ざけようと呪文を連発して近づけないようにしていた。スラりんは戦う仲間たちに防御呪文スクルトをかけ、ドラゴンマッドから受ける傷が深くならないようにした。とても直接攻撃で太刀打ちできる相手ではないと分かっているため、スラりんはスクルトとメダパニの呪文で応戦し続けた。
斜面での戦いは上の位置を取った者が有利だ。リュカは歯を食いしばるようにして斜面を登るパトリシアを最も高い所に登らせ、それを守るようにビアンカやガンドフ、プックルを周りに行きわたらせ、そのすぐ下にリュカとピエール、マーリンが横一列に並ぶ。攻撃呪文が使えるものは、ひっきりなしに呪文を発動し、ドラゴンマッドとの距離をある程度保つ。スラりんはパトリシアの背に乗り状況を見守り、メッキーは空から全体の状況をリュカに知らせる。ドラゴンマッドも見かけよりは素早い動きを見せるが、さすがに斜面を登るには向かない巨体で、しかも前足が身体の割に小さいため前足で斜面をつかむことができない。リュカたちが戦っていた魔物と、ビアンカたちが戦っていた魔物とを合わせて、四体のドラゴンマッドたちが比較的緩やかな斜面を群れを成して登ってくる。リュカは魔物の群れの状態を確認し、群れがある程度ひと塊になったところで、メッキーに確認し、ピエールとマーリンにかけ声をかけた。
「今だ!」
リュカの声に合わせて、リュカはバギマの呪文、ピエールはイオラの呪文、マーリンはベギラマの呪文を唱え、辺りに大爆発が起こった。リュカたちが唱えた呪文はドラゴンマッドに向けられたものではなく、斜面に出っ張る岩盤に向けられていた。呪文の爆発を受けた岩盤は大きく割れて崩れ落ち、いくつもの岩石がまるでそれ自身が魔物のようになってドラゴンマッドたちに襲いかかる。迫りくる岩石を見て、さすがにドラゴンマッドたちも危機的状況に気づき、悲鳴を上げながら斜面を駆け下りて行く。岩石に当たり、吹っ飛ぶドラゴンマッドもいたが、おおよそは岩石と同じように斜面を転がり落ちていったようだ。
魔物との戦闘がどうにか終わり、一息つこうとしていたリュカたちだったが、ふとすぐ近くに慣れない気配を感じて振り向く。するとそこにはリュカと同じように安堵した様子のドラゴンマッドが一匹、何の気なしに立っていた。互いに声も出せずに驚いていると、ドラゴンマッドが突然大きな声を上げ、リュカたちに近づいて来た。
「一体ならば倒してしまいましょう」
ピエールがそう言いながら敵に剣を向けると、空からメッキーが警戒の声を上げた。メッキーが翼で指し示す斜面の下からは、先ほど転がり落ちて行った魔物とは別のドラゴンマッドの群れが向かってきていた。まだ豆粒ほどにしか見えない距離だが、その数八体。
「こやつと戦っている間にあの群れがこっちに来てしまうぞい」
「リュカ、私たち、もうそれほど魔力が……」
ビアンカに言われ、リュカも自分の魔力がそれほど残っていないことに気がついた。今までのドラゴンマッドとの戦いでは主に呪文を使って戦っていたため、仲間たちの魔力はほぼ底をついている状況だった。
「逃げた方が良さそうだね」
そう言いながら、リュカはこれから先の山登りは一体どれくらい続くのだろうかと不安を抱く。まだまだ山を登る道は続いているように見える。ここで完全に魔力が尽きてしまったら、恐らく山越えは失敗してしまうだろう。
先に山を登っていたプックルが仲間たちだけに聞こえるような小さな声を上げる。決して敵を威嚇するような声ではない。プックルがいるところを見上げると、そこには大きな岩盤がひさしのように飛び出しており、その奥には暗い大きな穴が開いているように見えた。プックルはこの中に入って魔物をやり過ごそうと伝えているようだった。
「プックルがそう言うなら大丈夫なのかも。あそこに行ってみよう」
リュカたちは再び急斜面を上っていく。プックルの足ならば軽々と登れる斜面でも、リュカたちや、ましてや馬車を引くパトリシアにとってはかなりの急勾配だ。しかし馬車の荷台をガンドフとリュカで後ろから押し、どうにかプックルのいる所まで登ることができた。
プックルが伝えた洞穴は馬車ごとすっぽりと入れるような大きな場所だった。しかし当然中に明かりが灯っていることもなく、むしろこの中の方が魔物が沢山いるのではないかと思える雰囲気があった。しかしプックルもガンドフも、他の魔物の仲間たちも何も危険を感じていないようだ。リュカとビアンカは目を見合わせながら、魔物の仲間たちが感じる安全を信じて、大きな洞穴の中へと馬車を進めることにした。
そこでまた、慣れない気配に後ろを振り向くと、先ほどの一匹のドラゴンマッドが何故か機嫌が良さそうにリュカたちの後をついてきていた。すぐに襲える距離で襲って来ないところを見ると、このドラゴンマッドにはリュカたちが敵ではないという認識があるのかもしれない。
「えーと、君はどうしたんだい? この中に入りたいの?」
リュカがそう問いかけても、ドラゴンマッドは「ぐおん、ぐおん」と小さく吠えるだけで、まるでリュカの言うことを理解していない様子だった。会話はできないが、特に襲いかかってくる様子もない。リュカは低い唸り声を上げるプックルを宥めながら、一体のドラゴンマッドには構わず様子を見ながら、洞穴の中へと進んでいった。
ビアンカのメラの火を頼りに洞穴の奥へと進んでいくと、奥にまた別の明かりが灯っているのが見えた。リュカたちは馬車の音を立てながら進んでいるため、もし中に人がいるのだとしたらこの音に気がついているはずだ。しかし人が出てくる様子はない。大きな洞穴の中にはちびたろうそくの明かりがゆらゆらと小さく揺れているだけだ。
「……でも、絶対にいるわよね、人が」
「うん、これは魔物がいる感じじゃないよね」
「第一ワシら魔物はこうして火を灯して明かりをつける必要もないからのう」
「暗闇でもあまり目の利かない魔物もいますが、やはり奥から魔物の気配は感じませんね」
馬車が通れるほどの大きな空洞が奥まで続いている。進んでいくと、明らかに人間の生活の気配があった。洞穴の中に水が流れているのか、チョロチョロと水の流れる音が響き、近くには炊事場と思われる場所もあり、鍋や薬缶やまな板など、調理器具もひと通り揃っている。小ぎれいにしている様子が見られ、洞穴の中に似合わないしっかりとした生活感を感じる。
リュカが先頭を歩き、中を覗きながら進むと、小さな明かりの中にゆらりと人影が浮かび上がった。まるで幽霊のように突然現れた人影とその気配に、リュカは思わずひっと小さな悲鳴を上げた。魔物の仲間たちも同様に、皆驚きを隠せず息を呑んでいた。それほどに現れた気配は唐突だったのだ。
リュカたちの前に現れたのは背を丸めて少々ボロついた服を身にまとう一人の老婆だった。しかしきっちりと白い髪を結い上げ、しわだらけの顔をすっきりと見せている。人間としての生活感がそこにも表れていた。
「イッヒッヒッヒ。どうなされた、旅の人。道に迷われたかの?」
老婆は目を細めながら、極端にしわがれた声でリュカたちにそう言った。リュカの隣にはプックルやピエールもいるのだが、老婆はその目で魔物の姿を捉えてはいないようだ。どうやら目があまり見えないらしい。
「迷ったと言うか……魔物の群れから逃げていたらここを見つけたんで、ちょっと中に入らせてもらいました」
リュカが素直に事情を述べると、老婆は不気味にも見える笑みを見せながらゆっくり二度、三度と頷いた。
「それはお困りじゃろ。今日はここに泊まってはどうじゃ?」
思いも寄らない提案に、リュカは思わずビアンカと目を見合わせた。ビアンカは無言のまま視線をずらし、洞穴の隅に目を向ける。そこには何かの生き物の骨がごろごろと無造作に置かれていた。それが果たして魔物の骨なのか、人間の骨なのかは分からない。しかしこの場所に置かれているということは、老婆とこの骨とが何かしらの関係があるということは明白だった。
「わ、私たち、別に、道に迷ってきたわけじゃないから、すぐにお暇しましょう。ねっ、リュカ」
「まあ、道に迷ったってことはないけど、でも今すぐにここを出たら、また魔物の群れに襲いかかられるかも知れないよ」
「え~、でもここにいても魔物……いやいや、そうじゃなくって、おばあさんに迷惑がかかっちゃうでしょ。こんな大人数でお世話になるわけにも行かないし」
「お主らが仲間連れなのはわかるぞい。ここで休むだけなら別にわしは何の世話もせんから気兼ねすることもないわい」
「少しだけ休ませてもらって、それから外の様子を見に行ってみよう」
「え~、ホントに?」
「休むなら下の階にあるベッドを使ったらええ。ゆっくり休めるぞい」
「馬車はここに置かせてもらっても大丈夫ですか?」
「もちろん、構わん。生憎とベッドは二つしかないから、他のお仲間は床で休むことになるがのう」
老婆の言葉に、マーリンが思わず安堵の溜め息をつきながら呟く。
「おお、久しぶりのベッドじゃ……」
「ベッドはリュカ殿とビアンカ殿でお使いください。我々は床で十分休めますので」
ピエールに言葉を遮られたマーリンは不貞腐れるように口を尖らせる。
「なんじゃい、リュカとビアンカ嬢は一つのベッドで二人で寝ればいいじゃろうが。夫婦なんじゃから」
「僕はそれでも構わないよ。マーリンだってたまにはベッドで休みたいよね」
「ガンドフモ、ベッド、ネテミタイ」
大きな一つ目をキラキラさせながらそう言うガンドフに、リュカは小さな唸り声を上げる。仲間の願い事はなるべく叶えてやりたいが、その状況にあるのかどうかまだ分からない。ガンドフを寝かせるベッドとなると、かなり特大のものがなければならないが、この洞穴にそれほどの大きなベッドがあるとは期待できない。
「何じゃ、子供をベッドで寝かせるのは当然じゃろうが。親がいるなら一緒に寝ればええじゃろう」
老婆にはガンドフの声が子供の声に聞こえたようだ。親子で共に寝るのはごく普通のことだが、リュカとビアンカ、ガンドフが共に寝るようなベッドは恐らく世界中を探してもそう見つからないだろう。
「ではゆっくり休みなされ。わしは上にいるからな。イッヒッヒッヒ」
老婆はそう言うと、リュカたちを下の階にある寝室へと案内した。ビアンカは常に老婆に警戒心を抱いている様子だ。リュカも全く警戒しないわけでもないが、先ほどの戦闘での消耗があまりにも激しかった。とにかく今は休息を得て、体力も魔力も気力も回復させなくてはならない。一方で魔物の仲間たちは大した警戒もせずすたすたと階段を降りていく。リュカは今は魔物の仲間たちの感覚を信じて、あまり何も考えないまま寝室へと下りて行った。



「ねぇ、やっぱり少し休んだらすぐに行きましょう」
「うーん、でもこれだけゆっくり休めることもこの先ないかも知れないから、ゆっくり休んでおいた方がいいんじゃないかなぁ」
「そんなこと言って……もしあのおばあさんが……おばあさんじゃなかったらどうするのよ」
「大丈夫だよ。僕たちを取って食べたりはしないよ、きっと」
「取って食べちゃうかもしれないわよ。だって上には何かの大きな骨があったわよ。あれって……骸骨だったんじゃないの?」
言うのも恐ろしいと、ビアンカは身を震わせながら酷い状況を想像した。実はあの老婆は魔物で、ここに人間をおびき寄せ、頃合いを見計らって人間を食べてしまうのではないか。そんな想像がどうしても頭に思い浮かび、ビアンカは必死に頭を振って想像を追い払おうとする。
「あの婆さんは恐らく本物の人間だと思うがのう」
「魔物の気配は感じられませんでした。まあ、ビアンカ殿が魔物だと考えるのも分かる気はしますが」
ビアンカは二人の言葉を聞きながら他の仲間の様子に目をやる。プックルはどこか警戒しつつも、地面にどっかりと座り込みリラックスした様子で話に耳を傾けている。メッキーとスラりんは初めて見る人間のベッドが楽しいようで、その上で交互に弾んで遊んでいる。ガンドフももう一つのベッドにはみ出すように大の字になり、大きな一つ目を細めて口元には笑みを浮かべている。気持ちが良いようだ。
仲間でそれなりに寛いでいると、上の階から香ばしい匂いが漂ってくるのを感じた。床に寝そべっていたプックルが素早く状態を起こし、たまらず口から涎を垂らす。ベッドの上に飛び跳ねていたスラりんとメッキーも動きを止めて匂いのする方向を見る。ベッドの上に大の字に寝ていたガンドフは静かに大きな一つ目を開けている。
「休む前に温かいスープでもどうじゃ。山を登ってきて寒くなって来たじゃろう」
上から老婆が呼びかけるのを聞いて、リュカが上に上がろうとするのをビアンカが腕を引いて止める。
「怪しいわ、怪し過ぎるわよ。親切にする理由がきっとあるのよ。きっと私たちを食べちゃう気よ。スープに何か入っていて、私たちが寝たらきっと私たちを食べちゃうんだわ」
「……でも、すっごく美味しそうな匂いだよ。みんなも飲みたいよね、スープ」
「ガンドフ、ノム」
そう言いながらベッドからむくりと起き上がったガンドフは、のしのしと洞穴の部屋の中を歩いて行く。幸い、老婆にはガンドフの姿はあまり見えていない。ただとてつもなく大きな人間が来たと思うくらいのようだ。
「おお、お主が持って行ってくれるのか。ありがとう。わしはこの通り、目が利かんから階段が苦手でのう」
「スープ、オイシイ」
「そうじゃよ、美味しいスープじゃ。なんせ色々なものでダシを取っておるからのう。ヒッヒッヒッヒ」
「ガンドフ、アツイノ、ニガテ」
「それじゃったらちょっと冷ましてから飲んだらええ。……ん? なんじゃ、お主はやたらと毛むくじゃらなヤツじゃのう。ただ体は大きそうじゃから、この盆に乗せて仲間の分を全部持って行けそうじゃな」
老婆に盆を託され、ガンドフはにこやかにスープを運んできた。香ばしい匂いがリュカたちのいる部屋に充満し、それだけで心が休まる気がした。
「本当に美味しそう……」
部屋のテーブルに置かれたスープの器を覗き込み、思わずビアンカはそう呟いた。ベッドにいたスラりんもメッキーもテーブルに近づいてきて、ビアンカと同じように器を覗き込んでいる。
「で、でも、やっぱり飲まない方がいいんじゃないかしら。だって何が入ってるか分からないわ。何か色々なダシが入ってるなんて言ってたみたいだし……」
「そんなに警戒する必要もないと思うよ。それに、ほら、もうピエールもマーリンも飲んじゃってるしさ」
リュカの言葉に、ビアンカが「えっ?」と小さな声を上げて二人を見る。すっかり落ち着いた様子でマーリンもピエールも器を手にして、熱いスープをすすっていた。
「こんな美味いものを出されて飲まないのは礼儀に適わん。嬢ちゃんも遠慮せず、飲んだらええ」
「色々なダシと言っても、これはほとんどが野草ではないでしょうか。薬草も入っているかも知れませんね」
最も頼りになると思っていた魔物の仲間二人がまるで警戒していないのを見て、ビアンカも目の前のスープにごくりと喉を鳴らす。それほどに老婆の作ったスープは美味しそうなのだ。
「大丈夫だよ。せっかくもらったスープなんだから飲もうよ」
「ピエールもマーリンも、何ともないの?」
「何ともありゃせん。体が温まるだけじゃ」
「疲れが癒されます。魔力もいくらか回復してきた気がします」
ガンドフも小さな器を両手に持つと、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、まるでショットグラスの酒を飲むように一気に飲んでしまった。リュカが床に置いた器のスープを、プックルが恐る恐る舐めて飲み、まだ熱いと体をこわばらせると、器の前でじっと待つことにしたようだ。スラりんも少しずつすすり、メッキーにはリュカが器を持ち上げて飲ませてやっていた。
「わ、私は飲まないからね。みんなに何かがあったら困るもの。ここでちゃんと見張ってるわ」
ビアンカのためにと少し器にスープを残しておいたリュカだが、彼女が意地でもスープを飲もうとしないのを見ると、ためらいを見せながらも残りを飲んでしまった。それを見てビアンカがあっと声を上げる。
「ちょっと、リュカ、どうして残しておいてくれないのよ」
「え? だって飲まないんでしょ、ビアンカ」
「だからって目の前で全部飲んじゃうことないじゃない。それに他の子たちが飲みたがっていたかも知れないでしょ」
「あ、そうか。誰か飲みたかった?」
「……飲んじゃった後に聞いたって遅いわよ。あーあ……」
「一番残念そうなのはビアンカ嬢じゃな」
「私の分が少し残っていますよ。いりますか、ビアンカ殿?」
ピエールに差し出された器にはまだ少しスープが残り、洞穴の小さな明かりに水面を揺らしている。まだ湯気が上るスープを見て、再びごくりと喉を鳴らすビアンカだが、ぶんぶんと首を横に振る。
「いいのよ、私はいらないって言ったんだもの。もしこのスープに何か入ってたら大変じゃない。何かあった時に私が何とかしないとっ」
そう言って仲間の様子を見渡すビアンカだが、リュカを始め、仲間に何か異常が出ているとは感じられない。むしろ仲間は皆、スープの温かさと美味しさに心も体も癒されているようで、和やかな雰囲気がそこには漂っていた。
「意地を張らなくてもいいのに。飲みたいなら飲みたいって言えばいいじゃないか」
リュカがそう言って笑うのを、ビアンカはむきになって言い返す。
「なによっ、私はみんなに何かがあっちゃいけないって心配してるのよ。意地なんて張ってないわよ」
「子供の頃と変わってないね、ビアンカ」
「そうやって笑わないでくれる? 私のことを子供扱いするなんて十年早いのよ」
ビアンカがむきになればなるほどリュカは笑い、仲間たちも微笑ましい雰囲気に包まれた。リュカに笑われるのは癪に障ったが、ビアンカは魔物の仲間たちと共に部屋の中で休めることに、少なからず気持ちが高ぶっていた。
スープを飲み終わったガンドフが再びベッドの上に寝そべり、幸せそうな顔をして目を瞑っている。眠ってはいないが心地よい休息を得ているようだ。その脇にはスラりんがベッドとガンドフのふかふかした柔らかさに埋もれている。ガンドフが運んできたスープの器は六つで、全てが空になるとマーリンが回収して上の階へと戻しに行った。そこで少し老婆と話し込んでいる間に、ガンドフもスラりんもベッドの上で寝てしまい、メッキーも椅子に座るリュカの膝の上で眠ってしまった。床を見ると、プックルも背中を上下させて眠ってしまったようだ。
「ほら、どうしてみんなこんなに寝るのが早いのよ。やっぱりあのスープ、何か入ってたんじゃ……」
「僕は起きてるよ。マーリンも上で話をしてるみたいだし」
「私もまだ眠くはないようです。しかしここでゆっくりと休んで行った方が良いと思います。さすがにこの山登り、少々疲れました」
ドラゴンマッドの群れに追われてこの洞穴に逃げ込んだリュカたちだが、それまでにも様々な魔物との戦闘で体力魔力共にかなり疲弊していた。そんな時にこのような絶好の休息地を得られたことは、幸運なことだった。
「ビアンカはベッドで休んだらいいよ。僕はメッキーを抱っこしてるから、このまま少し休むよ」
「えー、私一人でなんか寝られないわよ。怖いじゃない……」
心底怖がっている様子のビアンカを見て、リュカはふっと笑いそうになるのをこらえる。今笑ってしまったら、彼女は意地になって一人で寝ると言い出すに違いない。そうすれば彼女は本当の意味での休息が取れないだろう。
「じゃあ僕とメッキーも一緒にベッドで寝よう。それでいい?」
「うん、それでいいわ」
「……メッキーは私が預かりましょうか?」
おずおずと提案するピエールに、リュカは「大丈夫、大丈夫」と笑いながら応える。
「このベッドなら僕たち三人でも大丈夫だよ。メッキーだってベッドで寝てみたいだろうし。……あ、ピエールがベッドで寝たかった?」
「いえ、私はここで休ませてもらいます」
リュカとピエールが言葉を交わしている間に、ビアンカが大きな欠伸をしていた。ベッドで寝られるとなったら、途端に眠くなってしまったようだ。
「何だ、ビアンカが一番眠そうじゃないか。さあ、こんなにゆっくり休める場所ももうないだろうから、しっかり休んでおこう」
「最近、何だかやたらと眠いのよね……」
「君も呪文をたくさん使ったからよく休んだ方がいいよ。さあ、休もう、休もう」
そう言ってリュカはメッキーを腕に抱えたままベッドに移動した。メッキーは安心しきった様子で眠り、起きる気配は微塵もない。ガンドフもスラりんも、プックルもメッキーも、この山登りと戦闘でかなり体力を消耗していたようだ。リュカもメッキーとベッドに入り、メッキーを挟むようにしてビアンカもベッドに入ってくると、二人で顔を見合わせて少し笑った。
「メッキーがここにいるなんて、何だか楽しいね」
「すっかり安心した顔で寝ちゃって、可愛いもんだわ」
「僕たちに子供がいたら、こんな風に寝るのかな」
「……そうね、きっとそうよ」
リュカは父と母の間で眠る子供の姿を想像して、その状況にどうしようもない憧れを抱いた。恐らく自分は、それを経験したことがない。もし経験していたとしても、それは赤ん坊の頃で、全く覚えていない。父と二人で旅をし、二人でいることが当然だった時には、もちろん母がいなくて寂しいと感じたことはない。しかしもし母がいればと考えてしまうと、その状況に憧れるのは当然のことだった。
気がつけば、メッキーを抱っこするようにビアンカも眠ってしまっていた。旅が進むにつれて、彼女が疲れやすくなっているのではないかと、リュカは少し不安に思った。眠りに就くのがあまりにも早いのだ。先ほどまであれほど警戒していたというのに、リュカよりも先に眠ってしまっている。リュカは彼女の疲れを労わるように、メッキーとビアンカを一緒に抱いて、自らの眠りに就いた。



「リュカ、起きて……」
夢の中で声をかけられたように、リュカはその声に静かに目を開いた。暗い洞穴の中の景色に徐々に焦点が合い、洞穴の中を照らす明かりがまだちらちらと揺れているのが分かる。
「あの音は何かしら……」
隣でビアンカが囁くようにそう言うのが聞こえた。ビアンカはすやすやと眠るメッキーを抱えながら、暗い中で怯えるような目をリュカに向けている。彼女の言う通り、部屋には何かの音が聞こえる。仲間たちが出すような音ではない。シャーッ、シャーッと規則正しく繰り返される音に、リュカもすぐに気がついた。
「まるで刃物を研ぐような音ね……」
「ああ、そう言われてみればそんな音に聞こえる」
リュカたちが休む洞穴の中に響く音だが、仲間の誰かが出している音ではない。どうやら仲間たちはまだ誰も目を覚ましてはいないようだ。上の階から声が聞こえないということは、マーリンもこの部屋で休んでいるのだろう。
「上の階から聞こえるみたい……」
「うん、そうみたいだね」
「ねぇ、行ってみる?」
リュカが目を覚ますまで、ビアンカはこの音を聞きながらずっと恐怖を感じていたのだろう。そして得体の知れない恐怖は確認するまでずっと得体の知れない恐怖のままだと、ビアンカはその正体を知りたいらしい。彼女の恐怖を感じ、リュカも思わず老婆が笑みを浮かべながら包丁を研いでいる姿を想像してしまった。
「……きっと、何てことないよ。あははは……」
「気をつけてね……」
リュカは顔を引きつらせて笑いつつ、ベッドから起き上がろうとした。その途端、目の前がぐるぐると回りだし、とても起き上がれない状態になってしまう。目眩が酷く、体を起こすことができない。
「あれ? おかしいな……」
「どうしたのよ、リュカ」
「立てないんだよ。何だろう、力が入らない……」
「ちょっと、しっかりしてよ」
二人でこそこそと話していると、ふと小さな足音が聞こえた。ゆっくりとした足音は上の階から下りてくる老婆のものだと分かり、リュカもビアンカも息を潜めて暗がりの中様子を窺う。階段から漏れる明かりが徐々に大きくなり、笑みを浮かべた老婆の顔が明かりに浮かび上がった瞬間、ビアンカが小さな悲鳴を上げた。
「なんじゃ、起きていたのかい」
手に明かりを持った老婆が近づいてくるのを見ながら、怯えるビアンカを庇うようにリュカはベッドの上に起き上がった。どうにか体を起こすことはできたが、まだ頭の中がぐるぐると回り、すぐに倒れそうになる。
「よく眠れるように呪文をかけてやったのじゃが、あまり効かなかったようじゃな」
「それでこんなに頭がぐるぐるするんだ……」
「やっぱり私たちを食べちゃう気なんじゃ……」
「何を言うとるんじゃ、お主ら。ところでイッヒッヒッヒ。これを見てみい。お主の剣を研いでおいてあげたぞ」
そう言いながら老婆は一振りの剣を軽々と掲げた。剣の刃が弱い灯りの中でもきらきらと輝いている。いつもリュカが持ち歩く父の形見でもある剣だ。老婆に渡された剣を、リュカは手に取ってまじまじと見つめる。刀身は美しく磨かれ、刃こぼれ一つない状態だ。思い返せばこれまでの旅の中、かなり剣の手入れをさぼっていたことを思い出す。
「わしはこう見えても若い頃は世界を旅する女戦士だったんじゃ。剣の手入れはお手の物なんじゃよ」
老婆がそう言うのをリュカはどこか納得するように聞いていた。普通の老婆にとって、リュカの持つ剣はかなり重いはずだ。それを今、この老婆は片手で軽々と持ち、上に掲げて見せたのだ。
「お主、旅が忙しいのかも知れんが、剣の手入れはしっかりせんとな。刃こぼれだらけで剣が泣いとったわい」
「そうですか。すみませんでした……」
「わしに謝ることもないが、これからも旅を続けるのなら、少し心に余裕を持ったらええ。何事も焦りは禁物じゃ」
老婆に言われ、リュカは無意識に感じていた焦りに気づかされた。父の故郷かも知れないグランバニアがもう目の前まで迫っている。焦っている自覚はなかったが、気づかぬうちに父の故郷だったかもしれない場所へ足を速めていたのかも知れない。
「どうもありがとうございます。そうですね、もっと余裕を持って行きたいと思います」
「悪いものは人のそう言うところにつけこんでくるんじゃ。気を付けなされよ。……さあ、まだ夜中じゃ。もっと眠りなされ」
老婆は静かにそう言うと、再び上の階へゆっくりと戻って行った。寝る間を惜しんでリュカの剣の手入れをしてくれていたのだろう。欠伸をしながら上に戻る老婆に、リュカはもう一度小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。
「悪いおばあさんじゃなかったのね。疑ったりして悪かったかな……」
ビアンカが反省するように言うのを、リュカは笑って聞いた。
「まあ、笑い方が独特だからね。僕もちょっと大丈夫かなって思ったけどさ」
「本当に? その割にはスープだって残さず飲んじゃうし、すぐに休もうとしてたわよ」
「そんなにあのスープが飲みたかったの、ビアンカ」
「ち、違うわよ。誰もそんなこと言ってないじゃない。何よ、人を食いしん坊みたいに……」
「あんまり大きな声を出すとメッキーが起きちゃうよ。さあ、僕たちももう少し寝よう。せっかくこんなベッドで休めるんだから」
「そうね。あのおばあさんが良いおばあさんだって分かったら、安心して眠くなってきたわ」
そう言って欠伸をするビアンカを見て、リュカも同じように欠伸をする。二人はそのまま数分と経たずに、今度はぐっすりと朝まで眠ってしまった。

「よく眠れたようじゃな。もう朝じゃぞ」
老婆に声をかけられ、ゆっくりと目を開けるリュカだが、そこには暗い洞穴の景色があるだけで、とても世界に朝が来たとは思えなかった。しかしよく眠れたのか、昨日までの疲れはすっかりなくなっている。身体の調子がすこぶる良いのは、もしかしたら昨日飲んだ薬草入りスープの効果もあるのかも知れない。
「今日も天気は良さそうじゃ。山登りをするなら早めに出た方がええ。山の天気は変わりやすいから、天気が良い内に洞窟の山道に入った方がええぞ」
「洞窟の山道?」
「なんじゃ、知らんのか。この先少し進むと、途中から洞窟の中を進むんじゃ」
若い頃は旅の女戦士として諸国を歩いていた老婆は、当然この山を越えたことがある。リュカは旅立つ前に老婆にこの先の道について話を聞き、その間仲間たちは昨日のスープの残りをもらって飲んでいた。当然、ビアンカもにこにこと美味しいスープにありつき、魔物の仲間たちと楽しそうに話をしていた。
老婆の話を聞き終えると、リュカたちは洞穴を出る。外は気持ちよく晴れていて、洞穴から出たばかりのリュカたちに眩しい太陽の光が降り注ぐ。あまりの眩しさに、しばらく目を開けられないほどだ。
「色々とお世話になりました。どうもありがとうございました」
「気を付けてゆきなされよ。イッヒッヒッヒ」
老婆が親切でとても善い人だと分かった今では、彼女の独特の笑い方も大して気にはならなかった。リュカたちはそれぞれ老婆に挨拶を済ませると、再び洞穴を出て山登りを再開した。気力体力共に充実していた。これからの山登りも順調に進みそうだと、リュカは気持ちよく青空を仰いだ。仲間たちも皆、十分な休息が取れたようで、雰囲気に余裕が出ていた。昨日までの魔物との戦闘で消耗したものは全て取り戻していた。
しかしその余裕のおかげで、洞穴のすぐ脇にドラゴンマッドが待ち伏せしていたことには誰も露ほども気がつかなかった。洞穴の傍ですやすやと眠っていた一匹のドラゴンマッドは、ガラガラと言う馬車の車輪の音が聞こえるとぱちりと目を覚まし、「ぐおん、ぐおん」と言いながら馬車の後をついて歩いて行った。

Comment

  1. ケアル より:

    ビビ様コメントが遅くなり、すみません…。
    読んではいたのですが、なんせ、仕事で疲労困憊なもので、文章を考えているうちに寝落ちすることが、ぼちぼちでして…。
    ドラゴンマッドとの戦闘は、これまた危なかったですね。
    個人的にはスラリンが呪文で活躍してくれたのが嬉しいですよ。
    メッキーとガンドフの特技も、そろそろ見たいです!
    剣イベント思い出してくれて良かったです。
    リュカには確かに、剣を手入れする時間がなかったですね。
    これからはピエールと一緒に手入れをしていくんでしょうね。
    ドラゴンマッドまさか仲間になりたい?
    ビビ様ワールドの中で仲間パーティー8人に、こだわりますか?
    モンスターじいさんは使いますか?
    個人的にはパーティーは沢山いた方がいいから、そのままマッドも連れて行ってあげたいですね。
    次回は、チゾットまでの、あの厳しい道成と、雷の杖を連発してくる、全滅必須なモンスターがいますね。
    自分…あのじいさんモンスターに何度も殺されました(苦笑)
    次回も楽しみです!

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。お返事遅れまして申し訳ございません。お仕事が忙しい中、恐縮です。お体ご自愛くださいね。
      いつも戦闘ではパトリシア係のスラりんにも、今回は頑張ってもらいました。後方支援では大活躍のスラりん。でも最終的には灼熱を吹く大器晩成型。彼には終盤でも活躍してもらいたいものです。
      剣イベント、書いてみたらあのおばあさんは元女戦士ということになってしまいました。それくらいじゃないと、あんなところで一人で住んだりしないかなと……。これからはちょくちょくピエールと剣の手入れをしてもらいましょう。
      ドラゴンマッドは仲間になりたいのか何なのか、自分でも分かっていない感じです。今後に期待。仲間の人数はあまりこだわらないようにはしてますが、あんまり大人数で旅をするのも現実的じゃないので、どうにかしたいところです。しかしモンスター爺さんのところに自動的に送られるシステムはちょっと小説内では採用できない気がするので、その辺は考えてみたいと思います。
      雷の杖を連発してくるモンスター、次回きっと登場するかと。私もあのモンスターには苦い思い出があるので(笑)
      お仕事、お体大事にしながら頑張ってください。しっかり睡眠をとってくださいね。

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