2017/12/03

雪山の村

 

この記事を書いている人 - WRITER -

毛布に包まれ、ガタガタと身を震わしていたリュカだったが、洞窟の出口が目の前に迫ってきた頃には大分寒気が落ち着いていた。しかし魔力は完全に底をつき、到底呪文が唱えられる状況ではない。全身を襲ってくる悪寒はなくなり、ようやく立ち上がれる状態にまではなったが、まだ剣を振るうことができるほどには至っていない。
「リュカよ、もう少し寝ておれ」
リュカが毛布の中で身じろぎしたのを見て、同じく馬車に乗っていたマーリンが声をかける。まだ洞窟の中で、まるで暗闇の中に聞こえた声だが、元気の残る仲間の声にリュカは心の底から安心した。
「もう大丈夫。そんなに寒くなくなったよ」
「何を言うておる。寒くないわけがなかろう。外は雪が降っとるぞい」
リュカはまだ洞窟の奥深くにいる感覚だったのに対し、馬車には洞窟の外からの白い光が届いていた。目が慣れると、マーリンの姿もぼんやりと見え、馬車の荷台の中の景色もうっすらを見え始めた。間もなく洞窟を抜けられるのだと気づいたリュカは、体に巻き付く毛布をはぎ取ると、四つん這いのままドタドタと馬車の前方に向かった。
幌をめくって外の景色を見たリュカは、洞窟の外に見える白い雪景色に寒さを感じるよりもむしろ悪寒を感じた。再び呪文の使い過ぎの影響かとも思ったが、そうではない。
リュカにとって雪景色と言うのは、決して美しいものではない。ただ白く、冷たく、痛いだけなのだ。それはヘンリーとともにいたセントベレス山での十年余りの経験で、簡単には拭えない感覚としてリュカの全身に植え付けられてしまっている。洞窟の外にちらちらと舞う雪を見ても、リュカはその特別な景色に微塵も心が躍らない。子供の頃に妖精のベラとプックルと旅した妖精の世界でも雪が降っていたが、その時の楽しい記憶を完全に上塗りしてしまうほど、この雪景色はリュカの心に堪えた。
「リュカ」
心が雪景色よりも冷えて凍りそうになった時、ビアンカの温かい声が聞こえた。彼女の声を聞くだけで、洞窟の外に広がる雪景色にもどうにか向き合えそうな気がした。
「どう? 大丈夫そう?」
「うん、ごめんね、一人で休んじゃって」
「何を言ってるのよ。誰もあなたのことなんか責めないわ。プックルを助けてくれたんだもの」
「にゃあ」
リュカが気づいたと分かり、ビアンカの脇からプックルが姿を現し、馬車の上に乗ってきた。プックルの巨体に馬車の荷台が揺れ、パトリシアの歩みがゆっくりになる。しかしパトリシアもリュカの身を案じており、プックルの気持ちを理解して元気に尻尾を振るだけだった。
大きな虎のようなプックルに体を嫌というほど擦り付けられ、リュカは笑いながらプックルの脇腹を両手でわしわしと荒っぽく撫でた。プックルが喉をゴロゴロと鳴らしながら顔を摺り寄せてくると、リュカもプックルの顔の毛の中に自分の顔を埋めた。
「プックル、そう言えばお前、寒いのはあんまり得意じゃないんじゃなかったっけ?」
「……にゃあにゃあ」
猫のように甘えた声を出しながらリュカの身体を包むように体を丸めるプックルは、実は自分が温まりたいためにリュカに引っ付いている。
「やっぱり。そう言えばベラと一緒に冒険した時も、僕がずいぶん抱っこして歩いたよね」
「がうがうっ」
「できるわけないだろ。あの時はまだお前も小さかったから抱っこできたけどさ。今は僕の方が身体が小さい……」
「リュカ……ベラって誰?」
馬車の外を歩くビアンカが、顔も見せずにリュカに問いかける。どことなくトゲのある彼女の声に、リュカは自分は何かいけないことを言ったのだろうかと自身の言動を振り返った。
「ベラって、妖精の女の子だよ。話したことなかったっけ?」
「……そういえば聞いたことがあるような気が……」
「僕とプックルが小さい頃、妖精の国で一緒に冒険したんだ。呪文が得意な女の子で、背中に羽根が生えてていつもふわふわ飛んでたよ」
リュカはそう言いながら、幼い頃にプックルと冒険した妖精の国の景色を思い出した。おぼろげではあるが、あの時の妖精の国も雪に覆われ、ひどい寒さだった。雪の女王から春風のフルートを取り返すため、リュカはプックルとともにベラに呼ばれるまま妖精の国に足を踏み入れたのだった。
「そうだったわね。リュカ、私と別れてからもそんな楽しい所に行ってたのよね。私も行きたかったなぁ、妖精の国」
「楽しいって言うよりも、とにかく寒かったよ。だってどこもかしこも冬なんだもん」
「でも、でも、妖精よ? 私もいつか連れてってよ。会ってみたいわ、妖精さんに」
いかにも楽し気に騒ぐビアンカを見て、リュカは思わず笑ってしまう。自分よりも二つ年上とは言え、ビアンカの心の中にはまだ十分に子供のままの部分が残っている。冒険心に溢れているのは、子供のころから変わらない。
「そうだね、いつか一緒に行けるといいね」
「約束よ」
「約束……うーん、妖精の国への行き方がまた分かったらね。今じゃ僕もどうやって行ったらいいのか分からないんだよ」
「きっとこの旅を続けていれば、いつか分かりそうな気がするわ。だって私たち、世界中を歩いているんだもの。世界のどこかに妖精の国への入り口もあるはずよ」
この登山で疲れているはずのビアンカだが、妖精の国への冒険を夢見て、気持ちに元気を取り戻している。そんな彼女を見て、リュカも体に気力が沸くのを感じた。
「妖精の国の話、以前もされていましたね、リュカ殿。そこには魔物の姿もあったとか……」
「うん、そうそう。きっと妖精の国では魔物が悪いとは限らないって思ってるんだよ。僕もそう思う」
「リュカ、ニンゲン?」
ビアンカの近くを歩いていたガンドフが、馬車の中を覗き込みながらリュカに問いかける。大きな一つ目がぱちぱちと瞬き、その純粋な瞳にリュカは思わず答えに詰まる。
「僕は、人間だよ。ガンドフには違うように見えるの?」
「ウウン、リュカ、ニンゲン。デモ、マモノ、ナカマ」
リュカは自分は果たして人間なのだろうかと時折感じることがある。人間の父と母の間に生まれ、種別としては間違いなく人間と分類される存在なのは間違いない。しかし父と母よりも前の歴史に遡れば、どこかで魔物の血が混じっていてもそれほど驚かない。伝説の勇者もかつて、天空人と人間の間に生まれた子供だったという話がある。異種間が交わることはない話ではないのだろう。
「僕も妖精たちみたいに、魔物が悪いとは限らないって思ってるからね。だから僕が人間っぽくないって思ったのかな」
自分が何者なのかなど、今のリュカには何もわからない。自分勝手な想像で仲間たちを混乱させるのも馬鹿げている。リュカはいつもの調子で笑いながらガンドフに話しかけて、ガンドフの心を落ち着かせることにした。
「ソウ、カモ」
「僕も妖精だったら、今すぐにビアンカを妖精の国に連れて行ってあげられるんだけどね。あ、でも妖精の国に男はいなかった気がする。みんな女の人だったんじゃないかな」
「言われて見れば、妖精に男の人のイメージはないわね」
「ドワーフのおじさんはいたけど……男の妖精っていないのかも知れないね」
リュカも幼い頃の記憶で、全てをはっきりと覚えているわけではないが、それにしても妖精の国のイメージに男性の姿は似合わないような気がした。ベラが言っていた「人間は実体ばかりの存在」という言葉をふと思い出す。もしかしたら妖精は実体のない存在なのかもしれないと今になってそう感じた。
ビアンカたちと話をする内に、洞窟の外の雪景色が目の前に迫ってきていた。仲間と話をしたからか、今は外の雪景色に深い嫌悪を感じることもなくなっていた。決して好きな景色ではない。どうしても奴隷として働かされていたセントベレス山の景色と被り、辛い記憶が蘇るのは止めようもない。しかしこうして仲間たちと話をしていれば、その間はこの雪景色について考えなくてもいい。話をしていれば辛い記憶の上に楽しく嬉しい記憶が上塗りできるのではないかと、リュカはビアンカを呼ぶ。
「どうしたの? まだ体がふらふらする?」
「うん、そうかも。だから、傍にいてくれるかな」
辛い雪の景色をビアンカと共に歩めるなら、それはきっと楽しい記憶になるだろうと、リュカはビアンカの手を引っ張り馬車に乗せてしまった。プックルが脇腹にリュカとビアンカの二人を包み、温める。まるで子供のように甘えてくるリュカにビアンカは微笑みながら体を寄せ、そんな二人を同じく馬車に乗るマーリンも穏やかに見守っていた。
馬車が白い世界に出ると、すぐにその場で歩みを止めた。リュカは前方に見える白く眩しい景色に目が慣れるのを待ち、改めて雪景色を眺める。静かに雪が降り、辺り一面を真っ白に染める雪景色は、客観的に見ればとても美しい。幸いにも洞窟を抜けた先に魔物はいないようで、ただ白い景色が広がっているだけのようだ。サクサクと雪の上を移動する音が聞こえたと思ったら、馬車の中にピエールが顔を覗かせた。
「リュカ殿、どうやらこの先に人間の村か町があるようです。いくつかの明かりが見えます」
ピエールの言葉に、リュカは突然起き上がり、外に飛び出した。降り積もる雪の上に飛び降り、転びそうになったところを踏ん張って耐え、リュカはピエールの指し示す方向に目をやる。彼の言う通り、人工的な明かりをいくつも目にすることができた。温かな明かりのある景色に、リュカは初めて雪の中に温かな思いを感じることができた。
馬車の中からプックルとビアンカが降りて来た。ビアンカもリュカと同じように人々の温かい灯りを目にすると顔を輝かせているが、プックルは鋭い青い目でじっと人工的な明かりを見つめている。
「ごめんね、プックル、みんな……」
人間の暮らす町や村で休めるのは、当然人間であるリュカとビアンカだけだ。リュカは旅の途中、町や村を見つける度に魔物の仲間たちとのどうしても取り払うことのできない壁を感じる。これほど信頼して共にいる仲間たちとどうして一緒にいることができないのか、魔物が悪者だと誰が決めつけてしまったのか。自分一人の力ではどうしようもできない人間と魔物の対立に、リュカは悔しい思いを滲ませる。
「リュカよ、お主は何か勘違いしとるぞ」
最後に馬車から降りて来たマーリンが、リュカの意を汲むように声をかける。
「ワシらは確かに魔物じゃが、魔物にとって最も休めるのは外なんじゃ」
「でもここは寒いよ。みんな風邪引いちゃうよ」
「カゼ? カゼッテ、コレ?」
ガンドフがそう言いながら大きな手をぶんぶんと振り回した。ガンドフにも風は分かるのだと自信満々に言う姿に、リュカはつい微笑んでしまう。
「お主ら人間と違って、ワシら魔物の身体はそういうものに強くできておる。便利じゃろ? 風邪など滅多なことでは引かんのじゃ。ガンドフなんぞは風邪が何なのかも知らん」
「……チガウノ?」
大きな一つ目に残念そうな気配が現れると、リュカはガンドフの毛むくじゃらの腕を叩いて「それで合ってるよ」と優しく声をかけた。
「お主がいつか、人間も魔物も共に暮らせる場所を作ってくれることを楽しみにしておる」
「そうね、いつかもそんな話をしたことがあったわよね。きっとできるわ。リュカと同じように魔物が悪いとは限らないって思ってる人、世界にはまだまだいると思うもの。これからもこうして世界を旅していたら、そんな人たちに出会えるわよ」
ビアンカの言葉にリュカはいつも力を感じる。彼女が言葉にしたことは、たとえ途方もない夢でも現実になるのではないかと、リュカは魔物の仲間と共に暮らす町や村を脳裏に描く。
「ぐおん、ぐおーん」
いつの間にか一人で行動していたマッドが、ちらつく雪の中を戻って来た。ドシンドシンと音を立てて走るマッドは、いつもと同じように大口を開けて笑っている。常に笑っているような顔をしているマッドの表情を読み取るのはまだ難しく、リュカは注意深くマッドの様子を窺った。この山に住むマッドだが、雪が降るほどの高地に来たことはないらしく、空から落ちてくる白い粒を見て嬉しそうに足でドシンドシンと雪の地面を踏んでいる。足元の雪も楽しいらしく、自分の大きな足跡をつけては、その跡をじっと見つめていたりする。そんなマッドの隣にガンドフが行き、「コレ、ユキ。キレイネ」などと説明している。そんな大きな二人のやり取りを、リュカもビアンカも微笑ましく見つめた。
「ッキッキー!」
自由に動き回るマッドの保護者のように、メッキーは宙を飛びながらマッドの後をついて行っていたようだ。マッドが戻ってくるよりも少し後になってから興奮した様子で戻って来た。メッキーの慌てた雰囲気に、リュカは魔物が出たのかと眉をひそめたが、メッキーの興奮はどうやら嬉しさから出ているもののようだ。
「あっちに私たちが休むような、ちょうど良い洞穴があったようです」
ピエールがメッキーの言葉を読み取り、リュカに伝える。メッキーはマッドの後をついて行った先で、雪山の中に洞穴を見つけ、その場所を確認してきていたため遅れて戻って来たのだった。
「ピキーピキー」
パトリシアの鞍の上に乗っていたスラりんが、リュカに呼びかける。馬車をリュカとビアンカに託し、スラりんも他の魔物の仲間たちと共に洞穴に向かおうと、今度はプックルの背の上に飛び乗った。プックルもスラりんほどの小さく軽いものが背に乗る分には特に嫌がりもせず、赤い尾でスラりんの水色の身体をふさふさと撫でたりしている。
「二人とも、ゆっくり休むのじゃぞ」
「我々もゆっくり休ませてもらいます。この山登り、少々疲れました」
仲間たちは皆、魔力が底をついているのだ。元気そうに言葉を交わしてはいるが、誰もがその場で寝てしまいたいほど、疲れ切っていた。
しかしそれでもどうにかここまでたどり着けたのは、恐らく皆で砂漠越えの旅をした経験があったからに違いなかった。テルパドールに向かう際の砂漠の旅は、幾日も先の見えない旅が続いた。魔物との戦闘よりも、砂漠の乾き切った環境に体力を奪われ、昼の灼熱に、夜の寒さに気力も奪われていくのが分かった。砂漠の旅に比べれば、魔物との戦闘で危機的状況には陥ったが、体力にはまだほんの少しの余力が残されていた。休むための洞穴に歩いていく魔物の仲間たちの足取りも、どこか軽いように見える。リュカはそんな仲間たちの姿を見て、安心した気持ちでビアンカと共にパトリシアの引く馬車を連れて雪山の村の中へと入っていった。



リュカとビアンカの雪を踏みしめる音と、パトリシアの引く馬車の車輪が雪の中を進む音が静かに響く。灰色の空からちらちらと雪が降り、時折山の上を冷たい風が吹きすさぶ。リュカもビアンカもマントの上からさらに一枚毛布を羽織り、身を縮こまらせながら歩いていた。
雪山の村には人の気配はするものの、外に人の姿が見えない。普通の町とは違い、不要であれば外を出歩くこともないもかも知れない。雪の降る寒い中を好き好んで散歩をする人もいないようだ。
リュカはまず村の宿屋を見つけようと、村の様子を見渡しながらゆっくりと歩いていた。誰かに聞こうにも、外を歩く人の姿がないため、聞くこともできないのだ。村の民家には温かな明かりが灯り、人々は温かな部屋の中で過ごしているのが分かる。リュカは民家の戸を叩いて村のことを聞いてみようと、馬車をビアンカに任せ、一軒の民家を訪ねようとした。
その時ちょうど、近くの家から女性が一人、外に出てくるのが見えた。買い物にでも行くのか、手には空のカゴをぶら下げて持っている。分厚い上着をしっかりと着込み、頭には毛皮のフードを被って、寒さと雪に備えている。女性からも旅人であるリュカたちが見え、馬車を引く大きな白馬の姿に口をあんぐりと開けてしばし突っ立っていた。
「あの、すみません。旅の者なんですが、この村の宿って……」
リュカが大きな声で聞くと、女性はいそいそとリュカの所へと歩いてきて、気さくに挨拶をしてくれた。灰色の雲の下、雪の降る中で景色も薄暗いが、女性の顔つきは旅人に優しく温かなものだった。上着と同じような分厚い手袋で村の宿の位置を大まかに教えてくれる。宿の近くは商店もいくつか立ち並び、ちょうどそちらに用事があるということで、ビアンカよりも少し年上に見えるその女性に宿まで案内してもらうことになった。
リュカがパトリシアの首をさすって「行こう」と声をかけると、パトリシアは今までの疲れや今の寒さをものともせずに馬車を引き始める。ビアンカも微笑みながら、女性に挨拶をする。
「あら? 大丈夫ですか? お連れの方の顔色がすぐれないようですけど……」
女性に言われて初めて、リュカはビアンカの顔を覗き込んだ。俯く彼女の顔色は、女性の言う通り確かに悪い。しかしそれもこの灰色の空の下で見ているからだろうかと、リュカは自然と前向きに考える。
「ビアンカ、どうかした?」
まるで挨拶の延長のような気分で、リュカはそれほど真剣に妻の体調を気遣わなかった。ビアンカもこの登山の戦闘で魔力を使い果たしている。魔力が底をつけば、気力も奪われて当然の状態なのだ。それに先ほどまでは、ビアンカも魔物の仲間たちと元気に話していたはずだ。
「ううん、なんでもないわ」
「本当に?」
「ちょっとだけ気分が……」
彼女が自ら体調不良を訴えることは珍しい。どんな時でも強がって、むしろ体調不良を隠そうとする彼女なのだ。弱気な言葉を口にするビアンカを見て、リュカは思わず眉をひそめる。
「心配しないで……。さあ、宿まで行きましょう」
「う、うん、そうだね。どっちにしても宿で休むんだから、早いところ宿へ行こう」
「でもちょっとどこか悪いんじゃないかしら」
「だいじょうぶ……」
女性の言葉に気丈な言葉を返しかけたビアンカだったが、ふらつく体はどうにもならず、そのまま雪の上に倒れてしまった。ビアンカが倒れてしまうことなど想像できず、目の前で起こったことも現実だとは思えず、リュカは呆然とその場に立ち尽くしてしまった。女性が慌ててどこかへ走っていくのが、遠い世界の出来事のように感じる。間もなく女性が一人の男性を連れて来て、倒れたビアンカの傍にかがみこむ。
「これはいかん! とにかくベッドに運ぼう! うちの宿を使うといい」
手際よく宿から担架を持った男性が早足で近づいてくる。ぐったりとするビアンカは担架に乗せられ、上から毛布を掛けられ、雪道を運ばれていった。その光景を見てもまだリュカは目の前のことが現実に起こっているとは思えなかった。何か悪い夢をみているのだ、はやくこの夢から覚めたいと、そんなことを思いつつ、足ががたがた震えるのだけは実際に体に感じていた。
「あなたも早く……さあ!」
宿までの案内をお願いしていた女性に連れられ、リュカもようやく歩き出した。しかし慣れない雪道に足を滑らせ、先ほどまではどうにか普通に歩けていたというのに、今になって雪の上に転んでしまう。力の入らない足にどうにか気力を吹き込み、リュカはパトリシアを連れて村の女性の後を追った。
チゾットの村で営む宿は一軒のみで、リュカたちの外にも旅人の姿はあったが、この一軒で十分に宿泊できるほどの数しか旅人はいないようだ。ただでさえ険しい山を登らなくてはならないところに、今は魔物も多く棲息するこの山に、興味本位だけで登ろうとする冒険者もいないからだろう。
リュカが宿の部屋に案内されると、既に運ばれていたビアンカはベッドの上に寝かされていた。部屋の明かりに照らされる彼女の顔色は青ざめており、明らかに体調がすぐれないのが分かる。リュカは何故さきほどしっかりと彼女の身体を気遣わなかったのだろうと、ようやく自分を責め始めた。
「ビアンカ……」
ベッドの傍に寄り、声をかけるが反応はない。突然意識を失ってしまったビアンカの姿に、リュカはどうしたらいいのか分からなくなってしまった。今までどんな時でも元気な振る舞いを見せていた彼女が、ベッドの上でただ静かに眠り続けている。その手に触れるととても冷たく、いつの間にかこの雪山の寒さに体を冷やしていたのだと分かり、リュカはその手に息をかけて温めようとした。
部屋の中には大きな暖炉があり、薪が焚かれ、上着を着こんでいると汗ばむほどの室温になっている。リュカはマントの上に羽織っていた毛布を取り去り、ベッドの上で青ざめた顔をして眠るビアンカにかける。冷え切っている彼女の身体を温めてやりながら、リュカ自身は理由の分からない汗をかいていた。
「今、神父さんを呼びに行ってるから、少し待っててね」
宿の女将だろうか、暖炉の薪を足しながらリュカにそう声をかける。その声にリュカは目が覚めたように辺りを見回し、宿の女将に礼を言った。女将は落ち着いた様子でベッドの傍まで歩いてくると、意識を失って眠るビアンカの顔を見つめる。
「山登りに慣れていない人がこの山を登るとねぇ、こうして体調を悪くする人もいるんだよ。とにかく神父さんが来たら、一度ちゃんと診てもらったらいい。きっと、大丈夫よ」
「はい、ありがとうございます……」
リュカは女将の言葉に一言礼を述べるのが精いっぱいの状況だった。チゾットの山の村に住む宿の女将は山登りで疲れた者の介抱をするのも慣れているようで、落ち着いた対応で部屋を暖め、湯を沸かしていた。しゅんしゅんと湯気の上がる薬缶の湯で、リュカに茶を入れてテーブルに静かに置いた。一言だけリュカに声をかけてから、女将は部屋を出て行った。他の宿泊客もいるため、その対応もあるのだろう。
外ではまだしんしんと雪が降り続いているが、薬缶の湯が沸く音のお陰で雪の寒さを感じられなかった。音に温かみを感じたのは初めてだった。ビアンカにかかる布団が規則正しく上下する。眠っている姿は普段通りで、今にも目を覚ますのではないかと思えるが、その手や頬に触れてもやはり反応はない。完全に気を失ってしまっているのだ。リュカ自身も山登りと戦闘でかなりの疲労を感じており、この部屋の暖かさにすぐにでも睡魔が襲ってきそうなものだったが、目を覚まさない妻を目の前にして到底眠くなるはずもなかった。
どれくらいビアンカの顔を見ていたのか分からないが、しばらくすると部屋の外にドタドタと慌ただしい人の足音を耳にした。リュカたちのいる部屋のドアが開き、宿の主人が村の神父を連れて入って来た。ドアが開いた瞬間、廊下の冷気が部屋に入り込み、リュカはその寒さに思わず身震いした。
「倒れたというのは……その人かね」
神父は身にまとっていた分厚いマントを部屋の椅子の背もたれにかけると、真剣な顔つきでベッドに近づいて来た。リュカは立ち上がり、「はい」と一言だけ返事をする。すると神父は手にしていた大きなバッグから何やら取り出し、ビアンカの状態を診始めた。リュカと宿の主人は下がったところで状況を見守る。神父が診ている途中でビアンカがうっすらと目を開けるのを見て、リュカはすかさず彼女の傍に近づいた。
「ビアンカ」
「……リュカ?」
状況がまるで分からないビアンカはただリュカの姿を確認するだけで、まだぼーっとしている。しかしリュカの姿を見ると、かすかにほほ笑むのが分かった。暖かい部屋にいたためか、仄かに頬に赤みも差しているようだ。
「ふーむ……。特に熱はないようだし、ただの疲れかも知れんな」
ビアンカの状態を診ていた神父がそう言いながらかけ布団を被せると、ビアンカは突然状況を把握したように辺りをぐるりと見回した。
「私、歩いてる途中で……」
「そうだよ、突然気を失って倒れたんだ」
リュカの言葉に、ビアンカはさっと青ざめた顔をして、布団の上から自分の腹部に両手を当てた。彼女のその状況を見て、神父が眉をひそめて問いかける。
「どうかしたのかい? 体が痛いとか……」
「……いいえ、何でもありません。体も痛くないし、きっと、平気です」
「そうか、それなら良かった。とにかく今日は安静にしていなさい」
「倒れたなんて、タダごとじゃないですからね。きつい山登りにこの寒さで、体が参っちゃったんでしょう」
宿の主人も神父に同調するように、ビアンカを気遣い言葉をかける。村の人々の言葉に、ビアンカもどうにか笑顔を作れるほど余裕が出てきていた。
「では私はこれで」
神父が部屋を立ち去ると、宿の主人が深いため息をついて笑顔を見せた。
「大したことがなくて良かったですな!」
そう言いながらリュカの背中を叩き、明るく笑う。ビアンカが倒れた時の対応といい、恐らくこの宿の主人は宿業を営むのとは別に、こうして村を訪れる旅人の手助けをすることに慣れているようだ。これまでにも山登りで具合の悪くなった旅人たちを何人も助けているのかもしれない。それゆえに、ビアンカが倒れた時にすぐ担架を持ち出し、ビアンカをすぐに運ぶことができたのだ。
「あの、こちらって宿屋ですよね? 一日……」
「倒れた人からお金を取ろうなんて思っちゃいないよ。安心してうちの宿を使うといい」
ビアンカの言いだしそうになったことが分かり、宿の主人は人の好い笑みを浮かべてそう告げた。
「じゃあ妻がここでお世話になっている間、僕にできることがあったら言ってください」
倒れて世話になる上、無料で宿泊するのは忍びないと、リュカがそう申し出ると、宿の主人は目を見開いて驚いた表情を見せる。
「へえ、あなたの奥さんですか。いやー、べっぴんさんだ! あまり無理させず大事にしてやってくださいよ」
「あ、はい。すみません……」
「とにかく無事で良かった! では何か頼みごとがあったら遠慮なくお願いしますね」
宿の主人は気さくな様子でそう言うと、部屋をパタパタと出て行った。彼の妻でもある女将と共に、他の宿の客の世話もしなくてはならないため、急ぎ足で廊下を歩いて行ったようだ。
部屋の中は暖炉の火で十分に温まり、リュカも上に羽織っていた毛布を取り去って椅子の背にかけた。気がづけばかなりの汗をかいていた。ビアンカが無事だったことで安心し、体が一気に温まり、汗が噴き出してきたようだった。
「ごめんね、リュカ」
布団を胸の上まで被りながら、ビアンカが小さな声で言う。意識が戻り、少し微笑む元気も出てきたとは言え、先ほど突然倒れてしまったのだ。完全に回復するにはまだまだ時間がかかるはずだった。
「僕の方こそごめん。君がそんなに辛い状態だったなんて……」
「心配かけちゃったね……。もう大丈夫よ」
気丈な言葉を吐きながら、ベッドの上に起き上がろうとするビアンカを、リュカは慌てて止めた。
「無理はしないでってこれまでにも何度も言ってるだろ。特に君は気を失って、さっき気が付いたばかりなんだ。宿の人も親切にしてくれてるし、折角だからここで一日ゆっくり休んで」
「でもリュカだってさっきまで倒れていたも同然だったじゃない。魔力の使い過ぎで……」
「魔力の使い過ぎで動けなくなるのは、しばらく休めば回復するから大丈夫。ほら、もう回復してるだろ? ビアンカは違うじゃないか。まさか、君があんな風に倒れるなんて……」
リュカの脳裏にビアンカが倒れた時のことが蘇る。雪の上を歩く彼女は確かに元気がなかった。しかしそれも旅の疲れだと、いつものことだとリュカは信じ込んでいた。そしていつも元気な彼女がまさかこうして倒れるなどと想像もしていなかった。ふかふかの雪の上に倒れたからまだ怪我をしないですんだものの、硬い地面の上に倒れていたらあちこち擦り傷や打ち身を作っていたかもしれない。
それよりも何よりも、ビアンカが倒れた瞬間、リュカは彼女がいなくなってしまう不安に駆られたのだ。いつも元気で笑っているビアンカだが、人の命というのは儚い。いつまでもいてくれると信じていても、あっけなく散ってしまうことがある。
リュカはまだ震える手を彼女の手に合わせ、その温かさを感じようとした。先ほどまでリュカの手の方が温かく、ビアンカの手は氷のように冷たかったが、今はそれが逆転していた。ひんやりするリュカの手を、逆にビアンカが両手で包み込み、温める。
「ごめんね、リュカ」
「ううん、無事で良かったよ。本当に……」
そう言って涙ぐむリュカを見て、ビアンカも彼の不安を感じ、同じように涙ぐむ。冷えてしまった彼の手をさすってすぐにでも温めようとする。しかしその手はすぐに止まり、ビアンカはこらえきれない眠気と共に、欠伸をした。
「でも何だか眠くなってきちゃった……」
「そうか、そうだね。ただでさえ山登りで疲れたよね」
「私、少し、眠るわ」
「うん。僕はここにいるからね。安心して眠って」
「おやすみ、リュカ……」
「おやすみ、ビアンカ」
途端に猛烈な睡魔に襲われたのか、ビアンカは最後まで言い切らないうちに眠りについてしまったようだった。山奥の村に住み、山登りには慣れているとは言え、ここまで高い山を登ったことはないに違いない。ましてや彼女は女性なのだ。リュカは眠るビアンカにキスをすると、そのまま彼女の傍で自分も眠ってしまった。



外の雪は止んでおり、窓からは太陽の明かりが差し込んでいる。外で鳥が鳴いているのを聞き、リュカはこんな寒いところでも鳥が住んでいるのだと、昨日の雪の景色を思い出しながらぼんやりとそんなことを思う。昨日は宿に着いて、ビアンカが眠った後すぐに自分も眠ってしまった。それがどれくらいの時間だったのかはわからない。しかし今、間違いなく朝を迎えているのは窓から差す明かりと鳥の爽やかな鳴き声で分かった。
リュカは床に座りながらベッドの端に突っ伏して寝てしまっていたようだった。体を起こすと、節々が痛い。少しも身動きせずに眠っていたのかと、初めて自分の旅の疲れを感じた。
「おはよう、リュカ」
ベッドの端でリュカが動いたからか、ビアンカも同じように目を覚ましたようだった。眠そうに目を擦りながら欠伸をする彼女の頬に赤みが差しているのを見て、リュカは安心して笑う。
「おはよう。よっぽど疲れてたんだね、朝まで起きないなんて」
「リュカだって、今までずっとそんなところで眠っていたんでしょ? ちゃんと眠れた?」
「うん、寝る場所なんてどこでも平気だからね。ちょっと首が痛いけど」
「寝違えね。回復呪文で治せないの?」
「これくらい回復呪文なんか使わなくたって、そのうち治るよ」
そう言ってリュカはビアンカの両頬に両手を添える。ビアンカは驚いたように間近に迫る夫の顔を見つめる。
「それよりも君の体調の方が大事だよ。もう少しこの村でゆっくりしてから……」
「私、もう元気が出たわよ。だってもうすぐリュカの故郷が見られるんだもんね」
声にも張りがあり、笑顔も自然で、ビアンカは一日すっかり眠ったおかげでかなり回復したように見えた。しかし彼女が大丈夫という時は侮れないと、リュカは今回の件でも大いに学んだ。ビアンカの言葉を鵜呑みにしてはいけない。彼女はいつでも周りを優先させ、自分を後回しにしてしまうのだ。
「昨日倒れたのに、もう元気って……そんなの信じられるわけないだろ。ビアンカが大丈夫だって言っても、あと二、三日は最低でもゆっくりするよ」
「何をそんな悠長なことを言ってるのよ。もうグランバニアは目の前なのよ。あなただって早く自分の故郷を見たいでしょ? さあ、行きましょう!」
そう言いながらベッドから立ち上がるビアンカだが、昨日倒れてしまった上に、何も飲み食いしていない身体が急に起き上がれるわけもなく、ベッドの傍に立ち上がるとすぐにふらふらっとよろついてしまう。リュカはすぐに彼女の体を支えると、少し強引に彼女をベッドの上に座らせた。
「ビアンカ、寝ぼけてるの? すぐに行けるわけないだろ。君は昨日、倒れたんだよ。自分の状況、ちゃんと自覚しろよ」
いつにない厳しい口調で話すリュカに、ビアンカはベッドに座ったままおびえたような眼をする。しかしリュカは決してビアンカの無鉄砲を責めているわけではない。それは彼の揺れる目を見ればわかった。
「グランバニアがすぐそこで、早く行きたいには違いないけど、それよりも大事なのは君なんだよ。僕にとっては君以上に大事なものなんてないんだ。だから、急がないでいい。ここでゆっくり休んでから、行こう。外のみんなにも僕から伝えておくから」
リュカは不安でたまらなかった。ビアンカの身に何かがあったら、果たして自分はこの先生きていけるのだろうか。自分の命以上に大事なのが、ビアンカという存在だった。旅の最中は背中を預ける仲間の一人として行動していると思っていても、やはり彼女は愛する妻なのだ。彼女を失ってまでもこの旅を続ける理由が、今のリュカには見当たらなかった。
「でも……私……」
ビアンカが口ごもりながらも何か反論しそうになる気配に、リュカは思わず厳しい顔つきをする。何を理由に持ち出されても、リュカにとっては理由にならない。第一に大事にしなければならないのは、ビアンカなのだ。
「何を言っても僕は聞かないよ。君がちゃんと回復するまで、この村にいる。それで決まり」
言い切って相手の意見は聞かないという態度のリュカに、ビアンカは怒りは感じず、ただ申し訳ない気持ちでリュカを見上げる。普段は非常に優しいリュカだが、今は何を言っても聞いてもらえないと、ビアンカは諦めたように息をつき、首を縦に振った。
「うん、分かりました。無理はしません。大人しく村の中で休むことにします」
「冒険好きの君には辛いことかもしれないけど、死んだらそれでおしまいなんだよ。だから、分かってね」
「でも……」
「………………何?」
「村の中を歩き回るのは構わないわよね? ずっとベッドの上にいたら、退屈でたまらないわ」
睨むように見つめるリュカに、ビアンカは冗談交じりにそんなことを言う。彼女の体調が戻ってきたのだと少しほっとするリュカだが、彼女に無理をさせることはできないと、厳しい表情を崩さずに答える。
「自分の足でしっかり歩けるようになってからだよ。それよりも何よりも、まずは食事だ。僕が宿の人に頼んでくるよ。だからそれまでここで待ってて」
「わかったわ。……ありがとう、リュカ」
「絶対勝手に部屋を出たりしたらダメだよ」
「疑り深いのね」
「疑り深くもなるよ。君は肝心な時に嘘つきだ」
「人聞きの悪いことを言わないでよ」
リュカが部屋を出ていくと、ビアンカは懲りずに再びベッドから立ち上がろうとした。しかしやはり足に力が入らず、上手く立てそうもない。また倒れてしまったら、確実にリュカに叱られると、ビアンカはため息をついてベッドの中に戻り、窓から外の景色を眺めようとしたが、窓は部屋の中の暖かさのせいで曇っている。外の景色は見えないが、明るい日が差しているのは十分に分かった。窓が青く、村の白さも曇りガラスの向こうに見ることができた。
「あと、どれくらいなんだろう……」
ぽつりと呟く言葉を聞く者はいない。ビアンカは内心、大きな不安を抱えていた。そしてそれは、誰とも共有することのできない不安だった。こんなところで倒れてしまった自分が悔しかった。山登りには自信があり、体力もそこらの娘と比べてもかなりある方だと自負していたビアンカだが、まさかここで倒れることになるとは思ってもいなかった。未だかつて、意識を失って倒れるなどという状態に陥ったことはないのだ。
「それまでには、着くわよね、グランバニア」
たとえこのチゾットの村に二、三日滞在したとしても、それほど旅程が崩れるというわけではない。そこまで焦る必要もないはずなのだ。分かってはいてもビアンカの気持ちは逸る。どうしても急がなければならない理由が彼女にはある。
「……まあ、仕方がないわ。でもせっかくだからここはゆっくりと村を見て回ろうかな」
布団を被りながら窓の外の景色を想像する。村の宿屋を目指して歩いている間、このチゾット村の景色を見ていたはずだが、ビアンカの記憶にはあまり残っていなかった。恐らく下ばかりを見て歩いていたからだろうと、ビアンカはその時の余裕のなさを振り返る。体力が完全に回復したら、リュカと一緒に村の様子を見て回るのも悪くないと、新しい冒険心に火をつけてその時を楽しみに待つことにした。



「私の見事な芝居でタダで一泊できて嬉しいでしょ?」
リュカとビアンカは宿の部屋で温かい食事を済ませ、湯気の立つミルクを二人で飲んでいた。ビアンカも椅子に座って食事をし、顔色も見違えるほど良くなり、自然な笑顔も見せるまでに回復していた。
「ビアンカ、そういう冗談は……」
「なーんてね。もう大丈夫だから宿屋の人にお礼を言いに行きましょう」
リュカに文句を言わせないうちにビアンカはすかさず言いかぶせると、残りのミルクをごくごくと飲み、カップをトレイに乗せた。リュカの食べ終わった食器もすべて重ねて乗せ、立ち上がってトレイを持とうとしたが、リュカに遮られた。
「君にこれを持って行かせたら、僕、何を言われるか分からないよ。ただでさえ君を倒れさせちゃったんだから」
「そう? じゃあよろしくね」
リュカの厚意に素直に応じ、ビアンカはリュカに食器の乗るトレイを渡した。部屋のドアを開けると、廊下の冷気が一気に体を包む。思わず体を震わせるビアンカに、リュカは心配そうに声をかける。
「やっぱり君は部屋で温まってた方が……」
「部屋の中でじっとしているなんて性に合わないわ。それに一人で部屋にいたって色々と考えちゃいそうだし……」
「考えるって、何を?」
「色々よ、色々。私だって考えることはあるのよ、馬鹿にしないで」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないけどさ」
「さあ、行きましょう。とにかく宿の人にお礼を言いに行かなきゃ。これだけお世話になっているんだもの」
結局ビアンカが先を歩き、リュカはトレイを持ちながら彼女の後ろをついていく。マントを巻きつけて歩く彼女の後姿には元気が戻ってきているようだ。寒い廊下だが、彼女の足取りは軽い。村に着いた時の青ざめた顔色も、遅れを取るような重い足取りも今は見られない。とにかく彼女は元気になったのだと安心して、リュカはビアンカと共に宿の受付に向かった。
廊下を歩いていると、受付の手前の扉が開き、中から人が出てきた。どうやら宿の食堂のようで、中から部屋の暖気が流れてきて、その温かさにリュカもビアンカも思わずその場で足を止める。そんな二人を見て、中から出てきた男性があっと声を上げる。
「ややっ! 元気になられたようですな」
見れば宿の主人で、人の好さそうな笑みを浮かべて二人に話しかけてきた。
「わざわざ食器を持ってきてもらったんですか。こんな寒いところにいたらまた具合が悪くなっちゃいます。さあさあ、中へ入ってください」
そう言いながら、出てきたばかりの食堂に案内する宿の主人に、リュカもビアンカも言われるがまま中へと入っていった。
食堂には数人の客がいるようだが、朝食の混み合う時間帯は過ぎたのか、落ち着いた様子だった。宿の主人は明らかに何か仕事をするために一度食堂を出たはずだが、リュカとビアンカの二人を見るや仕事を後回しにして二人との時間を取ることにしたようだ。
空いたテーブルに着くと、宿の主人がすぐに厨房に飲み物を頼んだ。ほどなくして温かいココアが出され、二人の前に置かれた。
「あの……昨日はどうもありがとうございました。宿にまで泊めてもらって……」
「お礼などとんでもない! 当たり前のことをしただけですよ」
気さくな調子でそう言うと、宿の主人は声高らかに笑う。何も裏がないような気持ちのよい笑い声に、リュカもビアンカもつられて笑顔を見せる。
「それで妻の調子がしっかりと戻るまで、宿に泊めさせてもらいたいんですけど、いいですか?」
「もちろんですよ! あっ、でも今日からは……」
「ちゃんと宿代をお支払いします」
宿の主人が言い辛そうに口ごもるのを引き継ぐように、ビアンカが彼の意を察して答える。
「そうしていただけると助かります。あははははっ」
あくまでも明るい宿の主人の対応や声に、リュカもビアンカも安心して彼との会話を楽しむことができた。目の前に置かれていた温かなココアに口をつけ、身体の中まで温まる。チゾットの村が年間を通して雪が降り積もる土地なのかどうかは分からないが、高地であるため年中寒い気候であることは間違いない。そのためこうしてすぐに温かな飲み物が用意できるようにしているのだろう。
「ご夫婦で旅をなさってるんですよね。昔なら今ほど魔物も出なかったから、この山を越えるのもそれほど難しいものじゃなかったんですけどね」
宿の主人の言う通り、リュカたちも魔物との戦闘で体力を使い果たし、この村に着くころには魔力も底をつき、ぎりぎりの状態だった。もし魔物がいない世界であれば、この登山に疲れを感じることもあまりなかっただろう。
「この先のグランバニアへは、あとどれくらい山を登ればいいんでしょうか?」
「これからはね、山を下りていくんですよ。まだ外の橋は見てないですよね? 山と山を渡る大きな橋があるんですがね、それを渡って洞窟に入り、それからはどんどん山を下りていくんです」
「ここが一番上なのね。じゃあとっても眺めが良いんでしょう? 後で外の景色を見に行きましょうよ」
声を弾ませて言うビアンカに、リュカは困ったような目を向ける。外はこの食堂の暖かさとは違い、身も凍るような寒さだろう。そんな寒い場所に、今のビアンカを連れて行きたくはなかった。
「元気になってよかったねぇ」
そう言いながらテーブルに湯気の立つスープを運んできたのは、宿の女将だった。彼女もまたビアンカが倒れた時に彼女を介抱した一人だった。ビアンカの顔色も良くなり、元気に話す様子を見て心底安心したように頬を緩ませていた。
「さっき部屋に運んだ食事じゃ足りなかったろう。これも飲んだらいい。体が温まるよ」
運ばれてきたのは豆のスープだった。とろみのついたスープは冷めにくく、味も濃いめに味付けされており、口にすればみるみる体力が回復していくようだった。添えられていたパンも焼き立てで温かく、リュカもビアンカも体に力が沸き上がるのを感じた。
「高い高い山の上だからね、景色は最高だよ。だけどね、景色が見たいからって崖の方へ行っちゃあいけないよ。足を滑らせて落ちたりなんかしたら、元も子もない」
「今日なんか晴れているから景色は遠くまで見渡せるけど、雪が凍っているところもあるからね。外を歩くんだったら十分注意して歩いたほうがいいよ」
宿の女将も主人も、この雪山での生活を心得ている。雪景色は白く美しく、幻想的なものですらがあるが、その景色を命がけで見る必要はない。恐らく彼らは、この山からの美しい景色を見た旅人たちの幾人かが崖から落ちてしまったことを知っているのだろう。そのためにリュカとビアンカに幻想を見ないで現実を見るようにと、忠告してくれているのだ。
「十分気を付けるようにしますね。私たちの目的はグランバニアに行くことだもの。それまで気を抜いてはいられないわ」
「橋を渡る途中で、グランバニアの国を遠くに見ることができるよ。馬車も渡れるようなしっかりとした橋だから、あとで見に行ってみたらどうだい?」
「そうなんですか? グランバニアがもう、見えるんだ……」
リュカがそう呟くのを、ビアンカは目を細めて隣で聞いていた。
彼の故郷と呼べるのはもしかしたらサンタローズの村なのかもしれない。そのサンタローズの村が滅ぼされてしまい、彼は彼の拠り所をなくしてしまった。しかし彼の生まれた国、それも父パパスが先王だったかも知れない国に行けるのなら、リュカは再び己の拠り所を見つけることになるだろう。ビアンカにはそれが嬉しかった。グランバニアにはリュカを知っている人もいるはずだ。そういう人たちに、リュカを繋ぎ止めてほしいと思っていた。いつ何時でも、ふわふわとどこかへ行ってしまいそうなリュカを、この世に繋ぎ止めてほしいと、ビアンカは密かにそう願っているのだ。
「後で一緒に見に行ってみましょうよ、リュカ」
「うん、そうだね。でもビアンカ、君は十分暖かくしていかないとダメだよ」
「言われなくたって分かってるわよ。子供じゃないんだから……」
「目の前で奥さんが倒れたんだから、そりゃあ少々過保護にもなるってもんだよ」
「そういえば私、担架で運ばれたのよね? どうせならリュカに抱かれて行きたかったな」
「え……?」
「なんてね。でもせっかくならリュカにお姫様抱っこされて宿まで運んでもらった方が、なんか、カッコイイじゃない?」
ビアンカにそう言われながら、リュカはその時のことを振り返る。果たしてビアンカが倒れた時、自分はどうしていたのか、あまり思い出せない。ただ雪の上で滑って転んだ記憶だけはしっかりと残っている。残っていて欲しくない記憶だけが残っていることに、リュカはビアンカに何も言葉を返せなかった。
「私も主人に連れられてここまで来たのですが、女の足では辛いものがありましたわ」
隣のテーブルの食器を片付け、布巾で拭いていた女性が、リュカたちの会話を聞いていたようで話に加わってくる。食堂の中はだいぶ落ち着いており、食堂で働く者たちは皆ゆとりをもって仕事をしているようだ。
「来るときは倒れちゃったけど、私は普段から鍛えてるもの。もう倒れたりしないわ!」
「そういうところだよ、ビアンカ。油断禁物って知ってるだろ? 元気になったのはいいけど、くれぐれも無理はしないで」
「分かってるわよ。任せて!」
「……とても任せられないよ」
「とにかく、奥さんが元気になったのはよかったよかった! 旅に出るまではゆっくりこの村を見て回ったらいい。他にも旅人さんがいるだろうし、村の人にもグランバニアのことを知ってる人がいるだろうからね」
宿の主人の言う通り、この村にはグランバニアへ旅する者や、グランバニアから旅してきた者がいるはずだ。ビアンカが倒れ、彼女と共にリュカも一日眠ってしまったため、二人はまだこの村のことを何も知らない。情報を得るにも、この村に数日滞在することは必要なことなのだと、リュカもビアンカも内心逸る気持ちを落ち着けさせる。旅を急ぎたい気持ちのまま旅を急いでしまえば、それは命の危険に繋がるのだと、二人とも改めて旅というものについて考えさせられた。
旅する者が町や村に着くとまず寄るところは教会か宿屋だ。リュカは一度部屋に戻ってしっかり着込んでから、村の教会へ向かってみようと考えていた。ビアンカを一人部屋に残して休ませてやりたいとも思ったが、彼女がそれを承知しないのは分かっている。それに彼女に隣にいてもらった方が、人々から色々と話を聞けるかもしれない。リュカはビアンカの体調に不安を覚えながらも、宿の主人に村の教会の場所について尋ねていた。

Comment

  1. ケアルケアルケアル より:

    ビビ様!
    相変わらずゲーム本編の会話を崩さずに執筆されていて、読み手も楽しいですよ。
    ビビ様ワールドの中で、ビアンカ自信が妊娠に気がついた描写は、どのあたりの話になりましたっけ?
    ビアンカの焦る気持ちとリュカの心配する気持ち…お互いの心の動き…読んでてニヤニヤするのと歯痒いです(笑み)
    リュカも周りの人たちもビアンカのお腹の膨らみに気がつかないんでしょうかね。
    ビビ様、次回はチゾットの探索になりますか?
    橋の上からのグランバニアを見ますか?
    次回も楽しみであります。
    ゲーム本編では、洞窟から出た瞬間ー高いところから落ちちゃいますが、ビビ様そのあたりの描写は、どうえがかれますか?
    更新まってますね

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。もう読んでしまったんですか? あら~、早いですね。
      ビアンカさんが自身のコトに気づいたのは、どうだろう、テルパドールではもう分かっていたとは思いますが、どこなのかしら……^^;
      二人の心の動きを書きたいところだったので、そのようなご感想をいただけるととても嬉しいです。存分にニヤニヤしてください。
      ビアンカはお腹があまり膨らまないタイプということで。後に一気に育つタイプ。
      次回はチゾット探索の予定です。のんびり村の人たちと話したいと思います。
      洞窟の高いところから落ちる場面……魔物の仲間に期待。それでも馬車ごと落ちるって、現実的じゃないなぁ。どうしよう。

  2. ケアル より:

    ビビ様
    すみません…機種変したばかりで、使いこなせてなくー名前がおかしなことになりました。
    でも、正真正銘のケアルです。
    ごめんなさいね変にしてしまいました

    • bibi より:

      ケアル 様

      ご丁寧にどうもありがとうございます。
      お名前の件、承知しました。大丈夫ですよ~^^

  3. ピピン より:

    ビビさん

    ここら辺は、もし初見だったらすごくハラハラするところですよね。
    着実に異変を匂わせてるのが伝わってきます。
    原作プレイ済みで原因を知ってるだけにリュカの不安に共感出来ないのが残念です…(笑)

    ちなみにビビさんは、ドラクエキャラが喋る(ボイス付き)事は大丈夫な方ですか?

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうですね、突然嫁が倒れるなんてタダごとではないですからね。
      原作プレイ済みで、原因を知ってるだけに……って、原因は……そうですね、彼にも原因が……^^;
      ドラクエキャラが喋る事は平気だと思います。ただ、やはり主人公だけは喋らないでほしい、というのはありますね。主人公はあくまでも「はい」「いいえ」で突き進むのが良いかと^^

  4. ピピン より:

    ビビさん

    まぁ、秘密にしてないと旅が進まないので仕方ないですよね( ̄▽ ̄;)
    あと一歩のところで自分が足枷になりたくないというビアンカの気持ちも最もですし。

    主人公に関しては、(アクションのヒーローズは例外として)それが総意でしょうね。
    それでしたら、YouTubeに最近発売した「いたスト」のビアンカの台詞集があるので、BGM代わりにオススメですよ(´ー`)b

    • bibi より:

      ピピン 様

      ビアンカさんの秘密は他の仲間数人には気が付かれているようですが、肝心の夫には秘密にできているのでセーフということで。

      声に関しては、やはり主人公にはつけない方向で行ってもらいたいですね。やはり主人公はあくまでもプレイヤーなので、その人その人で声は違うはず。
      YouTube、見ました。良いですね。お姉さんぽい声で、とても良く合っていると思います。「そっちにいってもいい?」のセリフも使っているとは……やりますなぁ。

  5. ピピン より:

    ビビさん

    こうなったらもう、グランバニアに着いたらとことんゆっくりしてもらわないとですね。

    そのセリフは不意討ちでした(笑)
    原作と違い、なんてことない感じでしたけど…

    すでにヒーローズで声はついてましたが、やっぱり良いですよね。
    8のようにリメイクでフルボイス化したら迷わず買っちゃいそうです。

    • bibi より:

      ピピン 様

      グランバニアではみんな揃ってゆっくりしてもらうつもりです。あ、でもリュカ君は試練があるか。大変ですね、彼は。
      あのセリフを例の状況で使うには、もうちょっと声音に色気が出るでしょうね(笑)
      8はリメイクでフルボイス化してるんですよね。聞いたことがありますが、しっくりきていますね。なので、私も5がフルボイス化されたら、迷わず買っちゃうかなぁ……。

  6. ピピン より:

    ビビさん

    そう言えばパパスもスマホのライバルズというカードゲームで声が付きました。
    11もswitch版でボイス付くと予想されていますし、決して有り得ない話では無さそうですね。

    いつか本気の「いじわる。でも行っちゃおうっっと」が聴きたい…!(笑)

    グランバニアまであと2、3回くらいでしょうか?
    本当に楽しみです( ̄▽ ̄)
    では、無理しない程度に執筆頑張ってくださいね。

    • bibi より:

      ピピン 様

      パパスに声が……あの「ぬわー!」を表現できる方がいるんですね。すごいなぁ。私は本編でその言葉を書けなかった……。
      11も声つきになるんですね。ふむ、ではswitch版を待つという手もあるということですね。本体ごと買わなきゃいけないのはすべてにおいて変わらない状況なので、それを待つのもアリかなぁ。
      グランバニアまであと、そうですね、それくらいで着きたいです。暖かいお言葉本当にどうもありがとうございます。胸に沁みます(泣)

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

Copyright© LIKE A WIND , 2017 All Rights Reserved.