2017/12/03

橋からの景色

 

この記事を書いている人 - WRITER -

晴れているとは言え、降り積もった雪の上を歩くのは少々骨の折れることだった。いくら長い旅をしていても、雪道の上を歩くのに慣れているわけではない。
今日は朝から晴れており、村人たちが朝早くからこぞって雪かきをしていたため、雪が道の脇によけられている箇所も多々ある。特に階段や坂道の雪は早々に取り除かれ、比較的歩きやすい状態にはなっていた。しかし当然降り積もった雪がそのまま残された道も多々あり、雪の残る道はリュカもビアンカも一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩いていた。
「グランバニアに続く橋って、あれよね」
ビアンカが階段を上りながら指さす方向には、長く大きな吊り橋が深い谷を挟んで渡されているのが見える。吊り橋ではあるがかなり大きなもので、馬車を通るのにも十分なほどだ。パトリシアが引く馬車も問題なく通れる大きな橋だと、リュカは宿で世話になっているパトリシアを思った。
橋の上に降り積もる雪も村人たちが雪かきをして、谷底へ雪を落としていた。雪が降る日に雪かきは行わないため、こうして朝から晴れた日は村人たち総出で朝から雪かきをする習慣があるのだろう。そこに苦痛の表情は見られない。雪の村に住む人々にとって雪かきは日常なのだ。生活の一部である雪かきに嫌気を差す者もいないようで、橋を通る旅人にも笑顔で挨拶をしているのが見えた。
「こんなに寒さも厳しいところなのに、この村の人たちはいい人たちが多そうだね」
「そうね、宿の人にも助けてもらっちゃったし」
「雪や寒さのせいで嫌になるわけじゃないんだ」
リュカの独り言のような呟きに、ビアンカはただ黙って下を向いていた。ビアンカはリュカの不遇の十余年の出来事を大まかに聞いている。リュカがセントベレス山の上で奴隷として生きていた過去を彼から聞き出している。想像しようにも想像できないほど現実離れした彼の過去の前では、ビアンカは彼にかけるべきちょうどよい言葉を見つけられない。まともな返事をしても、彼は恐らく笑って済ませてしまうだろう。その笑みを見たところで、ビアンカは悲しくなるのが分かっていた。
「教会ってやっぱり一番目立つところにあるのね。階段の雪がどけられているからこうして歩けるけど、雪かきされてなかったら、あそこまで行くのにもかなり時間がかかっちゃうわ」
ビアンカは自ら話を逸らし、リュカの心を逸らすことにした。ビアンカが見上げる横で、リュカも天を仰ぐように上方を見つめる。何段もの階段を上り切った先に、教会の建物を眺めることができる。教会の屋根には分厚い雪が積もり、日に照らされてきらきらと光っている。白い雪が光る光景を見つめることは、太陽を直接見るにも等しいほど眩しく、リュカは思わず片目をつぶった。
「僕も後で雪かきを手伝おうかな。村の人だけじゃ大変だろうし、僕たちも馬車を通すのに雪をどかしておきたいところもあるし」
「あ、じゃあ私も一緒に……」
「ビアンカは宿で休んでなきゃダメだよ。何のためにこの村に留まってると思ってるのさ。君がちゃんと元気になるまでいるんだから、しっかり休んで早く元気になってよ」
「……もうかなり元気なんだけどなぁ」
「君のそういう言葉はあんまり信用できないよ。すぐに無理をするんだから。僕が『大丈夫』って思うまで、旅に出るのは禁止。分かった?」
「はぁい、分かりました」
チゾットの村に入るなり倒れてしまったビアンカは、リュカの強い言葉に逆らうこともできず、素直に返事をするだけだった。リュカの気持ちを落ち着けたいという理由もあるが、彼女自身も無理をしてはいけない理由を抱えている。ビアンカはマントの前をしっかりと合わせ、身体を冷やさないよう心に留める。
教会まで続く階段の雪はどうやら教会の人たちにより朝早くにどけられており、リュカもビアンカもしっかりと石肌が見える階段をゆっくりと上って行った。途中、すれ違う旅人もおり、挨拶をすると、彼らはそのまま酒場に向かったようだった。チゾットの村の酒場では朝から酒の提供もあるらしく、旅人たちはそこで朝食を取りながら酒を飲み、身体を温めることもあるようだ。
「僕は飲めないけど、ビアンカは少しお酒が飲めるよね。後で酒場に寄って、少しお酒を飲んでもいいかもしれないよ」
階段を上りながらそう話しかけてくるリュカに、ビアンカは「うーん」と小さく唸る。
「私は止めておくわ。なんとなく今はお酒があまり飲みたくない気分なの」
「そっか、そうなんだ。そういう気分の時もあるんだね」
「もちろん、飲みたい気分の時もあるんだけどね。でも今は、止めておくわ。うっかり酔っぱらって、階段を踏み外して落っこっちゃったら冗談にもならないもんね」
「体を温めるにはいいのかなって思ったけど、それは困るね」
「でも後で酒場には寄りましょう。今すれ違った旅人さんたちも行ったってことは、やっぱり他にも人がたくさんいるはずよ。いろいろと話が聞けそう」
「酒場ってどういうわけか人が集まるんだよね。どこの町や村に行ってもそうだった」
話しながらゆっくり階段を上っているうちに、教会までの階段を上り切った。目の前に現れた教会は、下から見上げていた建物よりも小さく見え、それがチゾット村の光景と合っていて、リュカもビアンカもしばし教会の建物を見つめていた。
建物の前もしっかりと雪かきがされており、二人は雪に滑ることもなく教会の中へと足を踏み入れた。重い木の扉を開くと、中から暖気が溢れ出した。教会内の暖気を逃さぬよう、リュカは手早く扉を閉めて、ビアンカと共に教会の中を歩き出した。中にいた神父がリュカとビアンカの姿を認めると、にこやかに会釈した。
「奥様、元気になられましたか、良かった良かった」
「おかげさまで。神父様にもお世話になりました」
ビアンカがマントに身を包みながら頭を下げる姿を、神父はにこやかに見つめる。
「今は魔物も多く出る世の中ですからね。これからも旅を続けるのなら、慎重に旅をお続けください」
「はい、ありがとうございます。妻の体調がちゃんと良くなるまで、もう少しこの村にいようと思っています」
「そうですか。それがいいでしょうね。これからグランバニアに行くのでしたら、ここでゆっくりと休んで行かないと、もう途中で休む場所はありません。魔物も多く出ますから、十分にお気を付けください」
そう言って神父はリュカとビアンカのために祈りの言葉をかける。リュカもビアンカも目をつむってその言葉を受け、今後の旅の護りとした。神を信じない自分が神父の言葉に護りを受けるなど矛盾していると思いつつも、やはり神父という存在は特別なのかもしれないと、こういう時に感じる。見えない神の加護を、リュカは神父の温かな人柄に感じることができる。それはリュカにとって、神の加護と言うよりも、神父自身の加護のようなものなのかもしれない。
神父はそのまま立ち去り、また違う旅人に話しかけていた。神父の仕事は人々の悩みを聞いたり、毒の治療をしたり、具合の悪い人の様子を診たりと、人々の手助けをすることだ。教会に訪れる人々全てを見る義務があるため、神父は自ら歩き回って様々な人に話しかけているようだった。
リュカとビアンカも教会内を見渡し、他にもこの教会を訪れている人々の様子を見た。教会というのは村の中心的存在だ。当然村人たちの姿もある。朝早くから熱心に祈りを捧げる老人の姿もあれば、ここで井戸端会議をしている女性たちの姿もある。本来は外で見られる井戸端会議も、こう寒い土地では外で長時間話すこともせず、こうして教会をその場所として女性たちは小声で話をしていた。
その中、教会の長椅子に座って、分厚い本を膝の上に置いて目を落としている男性を目にした。その姿にリュカはテルパドールで数日間手伝いをした学者のことを思い出し、どことなく親近感を覚えた。ビアンカに声をかけると、リュカは彼女と共に長椅子に座る男性のところへと歩み寄っていった。
「とても難しそうな本を読んでいるんですね。何かの研究をされているんですか?」
リュカが話しかけると、その男性は膝の上に乗せていた本を広げたまま、ゆっくりとリュカを見上げる。ずり落ちる眼鏡を指で上げ、リュカとビアンカの姿を認めると、再びゆっくりと本に目を落とした。
「マーサ様のことを少し……」
男性の言う名に、リュカは心臓を掴まれたような思いがした。今出会ったばかりの赤の他人に突然心の奥にまで踏み入られたような感じがして、リュカは瞬間的に息苦しさを覚えた。
「あなた方は旅の方かね? グランバニアから?」
「いいえ、私たち、これからグランバニアに向かうんです」
リュカの異変に気付いたビアンカが、男性の言葉に応える。リュカも妻の言葉に小さく頷く。
「あの、そのマーサ様と言うのは……」
「グランバニアの王妃マーサ様は魔界に通じる力を持っていたらしい」
研究者風のその男性は本に目を落としたまま、独り言のようにそう呟く。学者や研究者という職業の者は時にこうして突然自分の世界に入り込み、その物事に没頭してしまうことがある。それはリュカもテルパドールの研究者の手伝いの時に経験していた。そういう性質がなくては、研究という終わりの見えない仕事はできないのかも知れない。
「それがどんな力かは分らぬが、本当に不思議な目をしておられた」
男性が話しているのは、本の中の物事だけではない。彼は実際にグランバニアのマーサ王妃に会ったことがあるのだ。研究者の男性は本に目を落としながらも、視点は本ではなく、過去に飛んでいた。グランバニア城で話したこともあるマーサ王妃のことを思い出し、男性の表情は自然とふっと和らぐ。
「あの目に見つめられると、心が和むと言うか……」
「きっととても優しい目をしているんですね」
ビアンカが調子を合わせて言葉を添えると、研究者の男性は首を横に振って「そんな単純なものではないんだ」と目を閉じてマーサ王妃の独特の雰囲気を思い出す。
「仕事で心がささくれ立つ時があっても、マーサ様に見つめられれば、それで心は落ち着くのだ。決して呪文を唱えているわけでもない。何かおかしなまじないを仕掛けているわけでもない。ただマーサ様に穏やかに見つめられるだけで、グランバニアの人々は心を静かにすることができた。あのようなお方は世界中を探しても二人といないだろう」
研究者の男性はそう言って膝の上の本を閉じると、椅子から立ち上がった。重そうな本を小脇に抱え、改めてリュカとビアンカの顔を見る。するとリュカの目を見つめ、しばしそのまま立ち尽くした。
「どうかしましたか?」
リュカがにこやかに話しかけると、男性ははっと気づいたように目を開き、不思議な感覚をリュカに告げる。
「そういえばそなたを見ていても心が和むようだ。これはいったい!?」
「……どうしてでしょうね」
リュカは幼いころにサンチョに言われた言葉を思い出す。
『坊ちゃんはお母様によく似てらっしゃいますよ』
見も知らぬ母だが、間違いなくその人は自分の母親なのだろう。本当のところ、サンチョには父に似ていると言われたかった。幼いころから憧れる父に似ていると言われれば、リュカは素直に飛び上がって喜んだに違いない。しかし記憶のない母に似ていると言われ、リュカは自分の知らない世界に包まれることに思わず戸惑い、不機嫌になったこともあった。
研究者の男性が驚きと喜びを表すのに対し、リュカは曖昧な返事しかできない。まさか自分がそのマーサの息子などということをここで名乗ることはできない。第一、まだリュカがグランバニアの王子だということに対し確証が得られていない。ここでグランバニアの王子なのだと口にしたところで、リュカの言葉は妄言となり、すぐに相手にされなくなってしまうだろう。すべてはグランバニアに行って確かめないことには始まらない。
「私がいつもおだやかな気持ちでいられるのは、リュカに見つめられているからかも……」
そう呟きながら小首をかしげて見上げてくるビアンカに、リュカは困ったような顔をしつつ、微笑みかける。
「そうだといいね。じゃあ僕がずっと見てれば、僕が何をしてもビアンカは怒らないかな」
「それは内容によるわよ。たとえば浮気なんかしたら……」
ビアンカが不穏な言葉を口にし、不穏な空気が生まれようとしたため、リュカは慌てて彼女の心を鎮めようとした。若い夫婦のそのような姿を目にしながら、研究者の男性は笑っている。
「奥さんを怒らせない方がよさそうだな。とんでもないことが起こりそうだ」
「そうですね、気を付けます」
「ちょっと、何よ、その言い方」
「今日は晴れているから、外にも出られる。私はこれから散歩でもしてきます。あまり本ばかり読んでいると体が鈍ってしまう」
そう言うと研究者の男性は神父に一言二言言葉を交わすと、分厚い本を神父に渡して教会を出て行った。チゾットの村ではこうして晴れる日が貴重なのか、雪の日にはほとんど村に見られなかった人影も、今日は多く見られる。天候次第で人々の心は簡単に左右される。教会の窓から差し込む太陽の光も、チゾットの村人たちにとってはとても神々しいものなのかも知れない。リュカとビアンカは教会内にいる他の人々にも少し話を聞いてみようと、教会内を歩き始めた。



「山のお天気は変わりやすいって言うけど、今日はとっても良く晴れてるわね」
教会を出て、外の日差しを浴びながら、ビアンカは空に向かって両手を伸ばし、身体を伸ばした。今日のチゾット村の空は雲も見当たらないような晴れで、村人たちものびのびと太陽を楽しんでいる。雪かきをしながら立ち話をして楽しみ、雪遊びをする子供たちの姿もある。村人たちにとって、この晴れという日は特別な日なのだろう。雪が降っていた昨日には見られなかった生き生きとした村人たちの様子が見られ、リュカはチゾット村全体に漂う明るい雰囲気を感じていた。
「教会に来る途中、酒場があったわよね。今度はそっちへ行ってみましょう。ちょうど少しお腹も空いてきたし」
「あ、本当に? お腹空いたの?」
「え? 空かない?」
「まだあんまり空いてないかな。でも君がお腹が空いてるなら何か食べたほうがいいよ。食欲が出てるなら、体も回復してるってことだもんね」
「リュカも何か食べてよね。私だけ食べてたら食いしん坊みたいで恥ずかしいじゃない」
「うん、じゃあ、何か軽いものを頼むよ」
リュカが話を合わせてそう言うと、ビアンカは嬉しそうに「何を食べようかな~」と口にして考え始める。宿でココアや豆のスープ、それにパンも食べてきたため、まだ昼にならないこの時間にリュカは空腹を感じることはなかった。外を旅している時は食事を気にする余裕はなく、食べていなくてもさほど空腹は感じない。町や村に入れば安心からか、すぐにでも空腹を感じることはある。しかしつい先ほど食事を済ませてきたばかりで、リュカはとても食事をする気にはなれなかった。
「ビアンカ、そんなに食べる方だったっけ?」
「失礼ね、そんなには食べないわよ」
「でもちゃんと食事をするつもりなんだよね」
リュカの不思議そうな顔を見て、ビアンカは考え込むように俯く。しかし空腹を感じているのは事実で、それ以外に特別なことはない。
「だって昨日は何も食べていないんでしょ? ずっと寝てて、今朝になってようやく食事をしたのよ。リュカの方こそ、大丈夫? あなたの方が体調が悪いんじゃない?」
「そんなことはないけど……まあ、いいか。何か好きなものを食べたらいいよ。お金はまだ大丈夫だから」
「テルパドールで真面目に働いたものね、私たち。じゃあお言葉に甘えて好きなものを食べさせてもらうわ」
ビアンカは明るくそう言いながら、教会からの階段をゆっくりと下りていく。雪が除けられているとは言え、階段が完全に乾ききっているわけではない。ビアンカはいつになく慎重に、マントの前をしっかりと合わせながら一段一段階段を下りる。
リュカもその後に続き、遠くに見える大きな橋を眺める。橋の上には何人か人が渡っているようで、雪かきをしていた村人たちや、グランバニアへ向かう旅人の姿も見える。その姿を見ると、リュカは必然的に気持ちが逸る。この山を下りればもうグランバニアは目の前なのだ。たとえ自分の知っているものはなくても、自分のことを知っている人がいるかもしれない。そう考えるだけで、リュカの胸の内には温かな緊張感が生まれる。それは嫌なものではなく、寄り添いたい感情だった。
酒場の周りに除けられた雪はうず高く積み上がり、そこで子供が二人雪遊びをしていた。リュカたちが挨拶をすると、子供たちからも元気な挨拶が返ってきた。久しぶりに晴天の下での外遊びを楽しんでいるのか、生き生きとしている。
酒場に入ると、中は当然暖炉の火が燃えており、一気に体が温まる。雪が降り続く日は家の中に閉じこもっているためか、こうして晴れた日には皆外に出たくなるようで、家の中で食事をするのではなく、村の酒場に来て人と会い、喋りながら食事を楽しんでいるようだ。リュカたちも空いている席をカウンターに見つけ、二人で並んで腰を下ろした。
「いらっしゃい。ご注文は?」
気さくな雰囲気で話しかけてくるマスターはちょうどリュカの隣に座る旅の戦士に飲み物を出したところだった。リュカとビアンカは店の中に出されているメニューを見て、それぞれ食べ物や飲み物を注文する。ビアンカが肉料理やチーズを注文するのを見て、リュカは彼女が本当に腹を空かせているのだと少し驚いたような目で見つめた。
「リュカも食べるでしょ?」
「え? うん、まあ食事が来てから考えるよ」
「何を言ってるのよ。リュカもちゃんと食べたほうがいいわ。あなただって長い旅をしてきて疲れているんだから」
「お客さんたちはどこから旅をしてきたんですか?」
酒場のマスターは他の客へのコーヒーを入れながら、リュカに話しかける。旅人は決して珍しくない土地だろうが、やはり旅人を見ると一度はこうして尋ねる内容なのかも知れない。
「テルパドールから船でここまで来たんです。これからグランバニアへ行くところなんですよ」
「これからグランバニアへですか。じゃあ後はこの山を北側に下っていくだけですな。私も一度は行ってみたいと思いながらも、こう魔物が増えては気軽に旅することもできなくてね」
マスターの言葉には本心もあるのだろうが、彼はこのチゾットの村で営む酒場の方が大事で、ここでの仕事を楽しんでいるように見える。彼は酒場で客に食事や飲み物を提供しながら、色々と話を聞き、それだけで世界を旅している感覚になっているのかも知れない。
「グランバニアの国王はパパス様と言って本当に立派な人だったんですよ」
にこやかに話すマスターの言葉に、リュカもビアンカも真剣な顔つきで彼の顔をまじまじと見つめる。
「知ってるんですか?」
「確か、王様になったばかりの頃、この村に立ち寄られたことがあったなぁ。その時にこちらにも寄ってくださって、少しだけお話をしたんですよ」
何のためにこの高い山の上の村に足を運んだのかは分からない。国王になったばかりの頃、パパスに何が起こっていたのか、リュカもビアンカも想像することもできない。しかしかつてこの場所にパパスがいたことは確かなのだと思うと、リュカは思わず酒場の中の景色を見渡した。父はこの店のどこかの席に座り、食事をしていた。その光景を想像するだけで、リュカは胸の中が熱くなる。
「お付きの方もいらしてね、一緒に酒を飲んでいましたよ。とても気さくな感じの方でした」
リュカにとって父のお付きの方というのは、サンチョしか考えられなかった。父とサンチョがこの酒場で共に酒を飲み、話をしていた。一体どのような話をしていたのだろうか。リュカには全く分からない世界だった。
「食事の後だったかな。外の橋の上から長いことグランバニアのお城を眺めてましたよ」
酒場のマスターの話を聞く限り、そこに赤ん坊の姿はないようだった。国王になったばかりだという時に、一体何の用があってこのチゾットの村を訪れたのだろうか。その頃、国王の年齢はいくつだったのだろうか。様々な想像が頭の中を駆け巡ろうとするが、どれもがぼやけていて、はっきりとはしない。
「しかしその国王がまだ国に戻らんのだろう?」
リュカの隣で酒を飲んでいた旅の戦士が、ほろ酔いの状態で話に加わってきた。
「そういうことらしいですね。あれほど立派な国王が国を離れて一体どこに行ってしまったのか」
酒場のマスターはそれだけ言うと、テーブル席についている客に呼ばれ、カウンターを離れて店の中を歩いていった。隣で強い酒を少しずつ飲んでいる旅の戦士は、今日はリュカたちと同じようにこの村に留まることを決めているようで、後先を気にせず酒を飲んで体を温めているようだ。かなり旅慣れた風貌の戦士で、一人で諸国を歩き、世界の様子を見て回っているのだろう。
「王妃を助けるため旅に出たグランバニアの国王はまだ戻らぬそうだ。国王が行方不明ではあの国も長くないだろうな」
酒を飲んでいるとは言え、旅慣れた戦士の言葉に真実味が感じられ、リュカは眉をひそめながら俯いてしまった。
戦士の言うことはリュカも気になっていたことだ。父パパスがグランバニアの国王であるかもしれないとテルパドールで聞き、その時はそのことで驚くので精いっぱいで、他のことには気が回らなかった。しかし父パパスがラインハットの東の遺跡で魔物に敗れ、それからもう十年以上が経っている。それだけではない。それ以前にも父は自分を連れて旅に出て、母を捜し歩いていたのだ。一体グランバニアをどれくらい離れていたのか分からない。
国王不在の国など、どこにもあるわけがない。恐らく父に代わって誰かがグランバニアを治めているのだろう。しかしグランバニアにほど近いこのチゾットの村でも、グランバニアの国王はパパスであり、そのパパスは長年国を空け、どこかに旅に出ているという噂が立っているのだ。今でもグランバニアの国王はパパスであるという意識が、グランバニアの国に根強く残り続けているのではないかと、リュカは自然とそう考えてしまう。
「国が長くないなんて、どうしてそんなことが言えるのよ。そんなこと、誰にも分らないじゃない」
店員に運ばれてきた肉料理をつつきながら、ビアンカがぼそっと小声で呟く。やはりお腹は空いているようで、肉を大きく切り分けて頬張って食べている。
「たとえ滅びそうな国があっても、その国を命がけで救う人がいることだってあるわ」
ビアンカが言っていることがラインハットのことだと、リュカにはすぐに分かった。事実ラインハットは魔物によって滅ぼされかけていた。その始まりが大后の偏った愛情であったとしても、そこを魔物につけ入れられ、いつの間にか国の政権は魔物が握っていた。しかしその魔物の正体を暴き、倒し、今はヘンリーとデールの兄弟が主となり国を復興させている。
「リュカ、自信を持って。グランバニアはきっともっと強い国だわ。私たちが思っているよりずっとずっと強い国なのよ。だって、おじさまの国なのよ? そう簡単に滅びてたまりますかっての」
「……ビアンカ、酒は飲んでないよね?」
「飲んでないわよ。ただ怒ってるのよ」
「ああ、すまない。私の言い方が悪かったようだな。気を悪くさせてしまった」
ビアンカの怒気をはらんだ様子に、旅の戦士は素直に謝りの言葉を述べる。自分よりもかなり若い娘と言い争いをするつもりなどなく、戦士は不愛想ながらも真剣な様子でビアンカに謝った。
「ただ、君たちも旅人のようだから、一応忠告しておく」
どこかパパスにも似た雰囲気の旅の戦士の言葉に、リュカは嫌なことでも素直に聞こうと密やかに覚悟を決める。
「国王が不在だから国が長くないと、それだけを思ったのではないのだ。あの国はどこか……おかしなところがある。これは私の勘としか言えないものだが、国を散策中に何かを感じたのだ」
「それは魔物と関係のあることでしょうか?」
「分からん。曖昧なことしか言えないのですまないが、それだけは伝えておく。城自体は堅牢な造りで、外から魔物に攻め入れられることも早々あるまいが、国が崩れる時というのは大抵……」
「内部からですね」
「そういうことだ。くれぐれも気を付けてくれ」
旅の戦士はそう言うと残りの酒を一気に飲み干し、ちょうどカウンターに戻ってきたマスターに勘定をして、店を出て行った。彼もまた、これからこの村を見て回るのだろう。このチゾットの村はただ高い山の上にあるだけではなく、景観も美しい。今では魔物が出るため、景観を楽しむだけに山登りをする人の姿はほとんど見られなくなったが、旅の途中に立ち寄ったのならば、チゾット村からの美しい景観を望まない手もない。
「リュカ、良く怒らなかったわね」
ビアンカはチーズをかじりながら静かにそう聞いた。リュカは温くなったコーンスープをスプーンで一口食べる。美味しいと感じる自分に安心する。
「僕はグランバニアを全然知らないからね。あの人は親切に教えてくれたんだし、話を聞けて良かったよ」
「でもあの人お酒を飲んでいたから、話半分くらいに聞いておいても良いかも知れないわよ」
「そうかも知れないね」
リュカはそう応えながらも、ヘンリーのいるラインハットを思い出す。ラインハットもかつて、魔物の仕業で国が滅ぼされそうになっていた。大后になりすました魔物が国の実権を握り、私欲のために国の税金を上げて国民の生活を困窮させ、もう少しで国が滅びてしまうところまで追い込まれていた。国の中に魔物が潜み、裏から操り始めたら、恐らく国は簡単に滅ぼされてしまう。ラインハットは幸い、国の実権を握った魔物がその地位にいる居心地の良さに、人間の国を滅ぼすことを忘れていたために救いの手が間に合った。
もしグランバニアで同じようなことが起きていたとしたら、そう考えると今すぐにでもグランバニアに行って状況を確かめ、救えるものなら救い出さなくてはならない。リュカの気持ちは当然のように逸るが、それをビアンカに悟られまいと再びゆっくりとコーンスープを口にする。
「ま、とにかく今は君がすっかり元気になるのが一番だよ」
「あら、私はもう元気よ」
「言っただろ、僕が見て判断するって。君はいつも知らないうちに無理をしてるみたいだから」
「そんなことないんだけどなぁ。今回はたまたまよ」
「たまたまでも、それが命取りなることだって……」
「ねえ、食事の後、あの橋に行ってみましょうよ。明るいうちに行かないと、橋が凍っちゃって通れなくなるかもしれないわ」
村人や橋を渡る旅人も出て雪かきをして、今のところ橋は通れるようになっているが、日が落ちて気温が低くなれば、濡れた橋は凍結してしまいかねない。非常に頑丈に造られている大きなつり橋ではあるが、足を滑らせて崖の下に落ちたら洒落にもならない。リュカもビアンカに同意して、残りのコーンスープを一気に飲み干した。リュカはコーンスープを注文しただけだが、しっかりとした食事を注文したビアンカもいつの間にか食べ終えようとしており、最後の肉の一切れをリュカの口に持って行った。思わず口を開けて肉を食べたリュカは、肉の生み出す力に体が熱くなるのを感じた。
「美味しいね、これ」
「ごめんなさい、もっとリュカにあげれば良かったね」
「いいよ、君が元気になるのが一番……」
そう言いながら、リュカはふと横から視線を感じて振り向き見た。目が合ったのは子供で、リュカを恨めし気にじっとりと見つめている。リュカは口の周りについたソースを手でぐいっと拭き取ると、少年に微笑んで話しかける。
「どうかしたの? 僕の顔、まだ何かついてる?」
「いいなぁ、ボクも肉が食べたい」
そういう少年の前に出された皿には、いくつもの小さな魚を揚げたものが並んでいる。料理が出されてからかなり時間が経っているようだが、あまりその数が減っていないようだ。
「もうこの子ったらちっとも食べないんですよ。きらいな小魚を食べやすいようにフライにしてあげたのに……」
そう言いながらカウンターの奥から出てきたのは少年の母親と思われる女性だ。この酒場で働きながら、子供に食事を出していたらしい。母親は他の客に飲み物を運んだ後、再び少年のところに戻ってきて声をかける。
「ほらほら、身体にいいんだからきちんと食べなさい!」
「うえ~ん、小魚はちくちくしてイヤだー」
少年の嫌がる姿を見て、リュカも自分の小さい頃を思い出した。リュカも幼い頃は魚が苦手で、父と旅をしていた時も魚を出されると腹が空いていてもあまり食が進まなかった。固い肉にも苦戦した記憶があるが、魚はうっかり骨を飲み込んでしまいそうだと思うだけで、口に入れるのも嫌だと思った。しかし今は魚を丸ごと食べるのも平気になった。
魚に対して特に苦手意識がなくなったのは大人になってからだ。あの十余年の間には魚や肉など見た覚えもなく、ようやく魚や肉にありつけたのはヘンリーと共に海辺の修道院を出てからだ。十数年の苦渋があったため、魚に対する苦手意識など吹っ飛んでしまったのだろう。
「無理して食べなくても大丈夫だよ、きっと。生きるには問題ない」
実際、リュカは十数年もの間、ヘンリーと共になけなしの食べ物だけでどうにか生きてこられた。毎日、死ぬかもしれないと思いながらも、毎日、少しずつの食べ物を口にし、その内容などその時はどうでも良かった。そんな日々が続いても、彼とは日々ほんの些細な楽しみを見つけたりして過ごすことができた。リュカにとっては食事も大事だが、それと同様に環境を共有する仲間がいることが大切だった。
「でも、お母さんの食べさせたい気持ちは分かるような気がするわ」
そういうビアンカの表情は穏やかで、困った顔をして小魚のフライを手でつまんで持て余している少年を優しく見つめている。リュカはそんな彼女の横顔を見ながら、今までに見たことのない彼女の雰囲気を感じた。しかしそれがどのようなものなのか、具体的なことは分からない。ただ今のビアンカのビアンカには今までにないものが備わっているような気がした。
「大事な息子だもんね、元気に育ってほしいじゃない。そう考えたら、小魚も何も、好き嫌いなく食べて欲しいって思うのは当然の親心よ」
「それはそうなんだろうけど、でも食べたくないものは食べたくないんだと思うよ」
「そういえばリュカも好き嫌い多かったよね?」
「……そうだったっけ?」
リュカの記憶の中では、特に自分が好き嫌いが多かったという印象はない。サンチョに出されたものは残さず食べていたような気がする。それに残すことを父が許さなかったのではないかと、リュカは父と食事をしていた風景を思い出す。朧げではあるが、父と食事をしていた時は皿は必ず空にしていたのだと自身ではそう記憶している。
「食べられるようになったの? 昔、うちに泊まりに来てはたくさん残してたのにね」
ビアンカが言う昔というのは、リュカが記憶していないほど前のことで、まだリュカがようやくまともに自分で食事ができるようになった頃のことを言っているのかも知れない。それほど前のことを面白がって言われるのは気に食わないと、リュカはむすっとした顔でビアンカを睨む。
「そんな赤ちゃんに毛が生えたくらいの時のことを言われても、僕、覚えてないよ。そういう風に言うけどさ、ビアンカだって嫌いなものぐらいあっただろ」
「あら、私は好き嫌いなくちゃんと食べてたわよ。いっつも母さんに褒められてたもの、『お前は食事だけはきちんと残さず食べて偉いね』って。……あれって、褒められてたのかしら」
ビアンカの幼い頃は自他ともに認めるお転婆娘で、危なっかしいことをしては母親に叱られていた。木登りなども、絶対に誰にも負けるものかと一番高くまで登りたがり、同じくらいの年の子供が喧嘩をしているとそこに飛び込み、初めは止めようとしていてもそのうち自ら喧嘩の中心になり、呪文を唱えようとしてまた叱られたりと、普段の生活では母親に叱られることが多かったことを思い出す。しかしそれだけ忙しく動き回るからかお腹はよく空いて、母親に出された食事を残した記憶はなかった。食事が美味しかったのもあるかもしれない。
「料理の方法を変えれば嫌いなものでも食べられるかもね」
ビアンカはそう言いながら、自分が幼い頃に食べた食事を思い出す。考えてみれば、ビアンカも小魚のような骨がたくさんある魚はあまり得意ではなかった。食事を残すことがなかったのは、母親が丁寧に食事を作ってくれていたからだろう。小さい頃に食べた魚の料理と言えば、魚をすり身にして油で揚げたものだ。骨が気にならないようにと、ビアンカは母親が手をかけて食事を作っていたのだと今になってふっと思い出した。宿業も忙しかったにも関わらず、母は手をかけて食事を作ってくれていたのだ。
「私、ちょっと教えてくる。もしかしたらすり身にすることを知らないのかも知れないわ」
そう言うや否や、ビアンカは酒場のカウンター奥に姿を消した少年の母親を追いかけて行ってしまった。残されたリュカは少年と目を見合わせ、少年の座るテーブルの脇にしゃがみ込む。
「魚のフライ、好きじゃないんだね」
「……うん、だって口の中が痛いんだよ。おじさんは食べられる?」
「おじ……うん、おじさんも小さい頃はあんまり好きじゃなかったかな」
「そうなんだ。じゃあどうやったら食べられるようになったの? 今は平気なんでしょ?」
「食べられるってありがたいなって、そう思えるようになったからかな。それからは食事も全く残さなくなったよ。嫌いなものもなくなっちゃった」
「ありがたいって、どうやったら思えるのかなぁ」
まさか自分と同じような経験をさせるわけにもいかないと、リュカも少年と同じように頭を傾げて考える。
「この魚はどうして君の前にいるんだろう。本当だったら川で泳いでいたはずだよね」
「うん、魚はね、村の近くの川で取ってくるんだって。雪が降っても寒くなっても、凍らない川があるんだよ」
「その川で泳いでいた魚が、今このお皿に乗ってるのは、君に食べて欲しいからなんだと思うよ。君にもっともっと元気でいて欲しいから、魚を食べれば身体も強くなってもっともっと元気になるからって、ここまで来てくれたんじゃないかな」
リュカがゆっくりとそう話すと、少年は思いのある目で小魚のフライをじっと見つめる。衣がついて、カラリと揚げられた小魚だが、そこに命があったのだと少年は感じているのかも知れない。
「元気になってほしいってここまできたのに、残されたら……ちょっと悲しいよね。ああ、こんなに元気になってほしいって思ってるのに、分かってくれなかったって。話を聞いてもらえないとか、分かってもらえない時って、嫌だなって思うでしょ?」
「……うん」
「この魚もきっと同じだよ。君に分かってもらえたら、食べてもらえたら、嬉しいんだと思うよ」
リュカがそう言いながら小魚のフライを一つつまんで、自分の口に放り込んだ。骨までしっかりと火が通り、よく噛めば決して喉に詰まるようなものでもない。恐らく先ほどの母親が子供を気遣い、しっかりと火を通して食べやすくしたのだろう。母はいつでも子供のことを考えているのだ。
リュカが美味しそうに食べるのを見て、少年も小魚のフライをつまみ、しげしげと見つめた後、かじり始めた。ぽりぽりとせんべいを食べるような小気味の好い音がする。骨が気にならないくらいに周りもカリカリに揚げられている。少年はまるでお菓子を食べている感覚で、小魚のフライを一つ食べてしまった。
「ほら、食べられた。美味しいよね、これ」
「うん、おいしい」
「お母さんが作ってくれたんだよね? お母さんも君に食べて欲しいからって、こうして美味しいものを作ってくれたんだね。後でありがとうって言ってね。きっと喜んでくれるよ」
「うん、ありがとう、おじさん」
「あ、僕にじゃなくて、お母さんにね」
リュカがそう言って笑顔で立ち上がったところで、ビアンカが少年の母親と共に酒場の店内に姿を現した。笑顔で話をしながら向かってくる二人に、リュカは手を振って呼び寄せる。
「あら、食べられたの?」
驚きながら母親がそう言うと、少年は少々恥ずかしそうに俯きながら、小声で何事かを言う。その声は彼の母親には届かない。
「ちゃんと言わなきゃ。せっかく言えてるんだから」
「……ありがとう、お母さん」
少年のその言葉を聞いて、母親は目に涙を潤ませながら笑顔を見せる。
「こちらこそ、食べてくれてありがとうね。お魚さんも喜んでるわよ、食べてくれてありがとうって」
「食べてみたら、おいしかった!」
「そうでしょ~、しっかりと火を通したもの。今度、ここのおつまみとして出してもいいかも。さっきあなたが教えてくれた魚のすり身の揚げたものと一緒に出してみようかしら」
そう言いながら少年の母親はビアンカと目を合わせた。ビアンカも同じように微笑み、「それも良さそうね。きっとお酒にも合うわ」と同調する。
少年が美味しそうに食事を再開したところで、リュカとビアンカは二人に挨拶をして店を出ることにした。
「お母さんを大事にするのよ」
「はーい」
店の扉を開け、再び店の中を振り返り、リュカとビアンカは母子の様子を見つめる。母も子も温かな笑顔で、幸せな雰囲気に包まれていた。互いに絶対的な信頼関係の中で、互いに甘えたり怒ったりする自由な感情がある。そんな関係を見て、リュカは胸の内に様々な感情が湧き出てくるのを感じる。その凡その感情は、憧れだった。
「母さんは……」
「え?」
「いや、ごめん、何でもない」
「何でもないことないでしょ」
リュカが流そうとしたら、ビアンカが流れを止めてしまった。逃げることを許してくれなかった。そのような容赦ないビアンカの優しさが心地よくもある。
「あなたのお母様も一緒よ。いつだってあなたのことを想ってるに違いないわ」
「……そうだといいな」
「いいな、じゃなくて、そうなの。そういうものなの、母親っていうのは」
相変わらずリュカの自信のない部分を、ビアンカは断言して補う。彼女の力強い言葉にこれまでもどれだけ救われてきたのか分からない。そしてそれはこれからもずっと続くのだろうと、リュカは今の幸せに浸ってみた。
店の扉を閉めて、リュカはビアンカと手を繋いだ。まだ店を出たばかりで、彼女の手は温かい。ビアンカが軽く握り返してくるその気持ちに幸せを感じながら、二人で村の橋の方へと向かって歩き始めた。



村からグランバニアに通じる大きな吊り橋には、何人もの村人や旅人が往来していた。吊り橋とは思えないほど頑丈な造りで、旅人や行商人が馬車で通ることも可能で、今も一台の馬車が吊り橋を渡っていた。初めはこの吊り橋も、ただ山と山を繋ぐだけのもので、ここまで頑丈なものではなかった。しかし馬車で往来する旅人たちのことを考えて、この吊り橋は強化され、より頑丈で安全なものになった。
吊り橋には何か魔法でもかけられているのか、風が吹いてもさほどその影響を受けない。馬車が通れるほどの広さがあるので、そうそう吊り橋から落ちる心配もない。深い谷にかけられた高地にある吊り橋だが、その頑丈さ故にさほど怖さを感じることはなかった。地面を歩いている感覚とさほど変わらないほど落ち着いているのだ。
リュカとビアンカは橋の中ほどまで行くと、霧がかった森林地帯を眺める。チゾットの村から見下ろす森は深く、その森に囲まれるようにして、石に囲まれる人工的な建物が見えた。リュカはこれまでにラインハット城とテルパドール城という、二つの城を見たことがある。今までに見た城とは違う造りだが、そこにあるのが城だということはリュカにもわかる。しかし城の周りに人がいる様子はない。まだ小さく見えるだけのグランバニアだが、そこに人がいればその動きで分かるはずだが、ただ城があるだけで他には何も見当たらなかった。
「あれがグランバニアなのね。ここから見ると近いのか遠いのかよく分からないわ」
目を細めてグランバニアを眺めるビアンカの隣で、リュカは説明のできない不安に駆られる。先ほど酒場で出会った旅の戦士の言葉を思い出す。
『あの国も長くないだろうな』
かなり旅慣れており、この山もあの戦士は一人で登ってきたのだろう。馬車もなく、仲間もいない旅は身軽ではあるが、誰かに助けてもらうことはできない孤独なものだ。そのような旅を、あの戦士は長年続けている雰囲気があった。旅の間に様々なものを見て、様々な経験を積んでいる。そのような旅の戦士が言う言葉には、どうしても現実味が宿ってしまい、リュカを苦しめる。
「リュカ、明日、この村を出ましょう」
唐突にそう言うビアンカに、リュカはしばらく反応できずにいた。彼女が何を言ったのか分からず、ただただ小さく見えるグアンバニアを静かに眺めていた。
「私、もう元気だから。ね」
「……何を言ってるんだよ。君はまだまだ休んでなきゃダメだよ」
「これ以上休んだら、もっともっと辛くなる。私、あなたのそんな顔を見たくないのよ」
「そんな顔って、どんな顔をしてるのさ」
「未来に不安を抱く顔。私ね、未来は楽しんでほしいの。だから不安なことなんてなくしちゃいたいのよ。だから、明日、この村を出てグランバニアを目指しましょう。これで決まり。みんなにも伝えてくるわ」
さっさと話してさっさと行こうとするビアンカの手を、リュカは慌てて掴んで止める。
「ちょっと待って。勝手にそんな大事なことを決めるなよ。僕、言ったよね? 僕にとっては君が一番大事なんだって……」
「一方的に言わないでよね。私だってリュカのことが一番大事なの。リュカが喜ぶことをしてあげたいの。リュカが悲しむようなことはしたくないの。グランバニア、早く行きたいでしょ? 私だってあなたの故郷を早く見たいんだから、ここでゆっくりしてたらそっちの方が辛いのよ」
早口に、まるで喧嘩口調で話してくるビアンカは、彼女の言う通りいつもの元気を取り戻しているようにも見えた。顔色も良い。表情も怒りながらも明るい。食事もよく食べる。倒れたとは言え、睡眠も良く取れた。ビアンカは嘘をついているわけではなく、本当に元気になり、今すぐにでも旅立てるほど回復しているのかも知れない。
「私の性格、知ってるわよね?」
「……好奇心の塊?」
「分かってるじゃない。私だってリュカと同じくらい、いや、それ以上にグランバニアを見てみたいのよ。だから早く行きましょう」
リュカに掴まれた手を握り返し、ビアンカは橋の上を歩き出し、来た道を引き返し始めた。彼女の足取りも軽やかで、いつもの調子を取り戻している様子が窺える。彼女が元気になると、簡単には言うことを聞いてくれない。第一、リュカがビアンカに口で勝てたことはないのだ。
「今日一日は静かに休むんだよ。それが明日旅立つ条件だよ」
「保証はできないわね。旅に出られるって楽しくて、眠れないかも知れないわ~」
「子供みたいなこと言うなよ」
「うふふ、冗談よ冗談。今日一日しっかり休んで、明日からの旅に備えまーす」
ビアンカがそう言って、後ろを振り返り再び橋の先を見ると、その景色の中に魔物が空を飛ぶ姿が見えた。それはメッキーの姿で、メッキーは橋の下の方を見ながら何やら合図を送っているようだった。リュカとビアンカは顔を見合わせながら橋の下を覗くと、仲間の魔物たちが崖っぷちにある洞穴の中で寛いでいる様子が見えた。仲間たちはこの橋を渡らずに、魔物や獣にしか使えないような道を見つけ、グランバニア側の山に移っていた。
「すごいわね、どうやってあっちに行ったのかしら」
「飛び移りでもしない限り、行けない気がするんだけど……メッキーがみんなを運んだのかな」
「ガンドフも?」
「いやぁ、それはちょっと無理だよね……」
「なんにせよ、みんなあっちに移ってくれたんだから、明日橋を渡って合流しましょう」
村の中に戻る時にも、ビアンカは明るい声で話し続けていた。彼女は体が元気になると、途端に口が回り出し、村の雪景色やほとんど雲のない青空を見上げては他愛もないことを話している。その明るい声や元気な言葉に、リュカの不安は少しずつ氷解していく。彼女の話を聞いていれば、それだけでリュカは元気な気持ちを取り戻すことができた。彼女のおかげで、グランバニアに抱く気持ちも不安から期待へと変わっていくのを、リュカは胸の内にじわじわと感じていた。

Comment

  1. ピピン より:

    ビビさん

    今回の更新はいつもより早かったですね( ̄▽ ̄)
    旅の戦士の忠告は、原作にありましたっけ?

    オラクルベリーでもありましたが、まだ20にもなってないくらいでおじさん呼びはショックでしょうね…(笑)

    • bibi より:

      ピピン 様

      いつもコメントをありがとうございます。
      今回は少し早めにできました。良かったです。これからもこの調子で……それは難しいかも。そうこうしているうちに年末ですね。
      旅の戦士の忠告……あの国は長くない程度の話でしたが、勝手に広げさせてもらいました。
      子供にとっては大きな大人はみんなおじさんということで(笑) それをお兄さんと呼ぶかどうかは、周りの教育次第です。きっとそういう教育がなかったんですね、チゾットでは。

  2. ピピン より:

    ビビさん

    全然記憶になかったんですが本当にあるんですね。
    堀井さんはちゃんと今後の展開の伏線を貼ってたのか…

    なるほど。見た目に関わらず結婚をしているとおじさん、というのもあるかもしれませんね。

    • bibi より:

      ピピン 様

      堀井さんはあらゆるところに伏線を張っています。私も大人になってから気づきました(笑)
      おじさん問題は子供にとってはどうでもいいですが、呼ばれる方のメンタルに問題が出るので、真剣に取り組んだ方が良い問題かも知れませんね(笑)

  3. ケアル より:

    ビビ様、チゾットを仲間の魔物たちが、どのように進むつもりなんだろうと思っていましたら、まさか魔物にしか通れない裏道がある設定にするとは、さすがビビ様、良い方法を考えましたね(笑み)
    ビアンカにしてみれば、いつ生まれるか分からない状態なんでしょうね、なのに雪山登山下山をし戦闘をしても、ぜんぜん大丈夫だなんて、流石は天空人!(笑み)
    ビビ様!次は、いよいよグランバニア到着になりますか?
    問題の下山の落下ですね、どのように描写するのか楽しみであります。
    ちなみに…下山中に、必ずと言ってもいいほど仲間になりやすいミニデーモンがいますが、ミニモンは仲間にしちゃいますか?
    次回も、わくわく楽しみです!

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。
      そうなんです、あの橋はどうにも渡らねばならないけど魔物たちはどうしましょ、と考えて、こうしました。いつも通り、馬車の中に隠れてもらって行こうかなと思いましたが、新しく仲間になったマッドがなぁ……と悩んだ結果です(笑)
      ビアンカさんは妊婦さんとしてあるまじき行動をしていますね。なるほど、天空人だから平気なのか。今、気づきました^^ それくらい特殊な性質がないと、とてもじゃないけど平気ではいられませんね。
      下山の落下は悩みどころです。馬車ごと落ちるとか、ありえないでしょ(笑) ピューッ、なんて軽い音では済まされないはずです。何かしら特別な力が働いてるはず……働いてもらうことにします。
      ミニモンさん、実は私は仲間にしたことがないんです。仲間にしたら可愛いキャラになってくれるのかな。敵としては確実に登場いただくことになるかと思います^^

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2017 All Rights Reserved.