異変

 

この記事を書いている人 - WRITER -

顔に当たるひんやりとした感触は非常に気持ちが良かった。スラりんがいるのかと思い、自ら擦り寄ろうとも思ったが、柔らかい感触ではない。全く動かない固い冷たさに、リュカは埃っぽさを感じ、眉をひそめて目を細く開ける。
リュカの顔に当たっていたのはただの床だった。床の上に寝そべっていたのだと気づき、リュカは不思議に思いながらも目に入ってくる景色を見る。当然のように床が広がる。床の上にはいくつもの椅子の足が並んでおり、その先には大きな机が見えた。重厚な作りの机は普段教会の神父が立つ祭壇であり、教会内の弱い明かりに鈍く照らされていた。
教会の床で寝てしまったことに戸惑いを覚えつつも、リュカはその場に起き上がる。頭に鼓動を感じるような痛みが走る。吐き気がする。今までに一度だけ感じたことのあるこの感覚に、リュカはこの場で眠ってしまったことを理解した。
城下町でグランバニアの国民と共に宴を楽しんでいた。リュカがグランバニアの国王に即位し、国の人々は揃ってリュカの即位を祝い、先々代の王となったパパスとその王妃マーサの息子の晴れ姿を喜んで囲っていた。リュカの即位は、偉大な王パパスを失ったグランバニア国民に新しい希望をもたらし、まだ見つからないマーサが無事にこの国に戻るという期待を大きくした。奇跡の王と呼ぶ国民にリュカも応えるべく、一人一人丁寧に話をし、友好を深めた。傍には魔物の仲間たちもおり、宴を共に楽しんだ。初めて人間と魔物とが共に喜びを分かち合うその時を、リュカは感動を覚えながら宴に臨んでいた。
心から宴を楽しむリュカは、喉が渇いたと手渡された飲み物をグイっと一気に飲もうとグラスを傾けた。しかしそれは多くの大人が口にする葡萄酒だった。喉の熱さに咳き込むリュカは、飲んでしまった葡萄酒を元に戻すことも出来ず、その後水を一杯飲み、仕方なくそのまま宴に参加していたのだ。
リュカは頭を押さえながら辺りを見回す。教会にはいつものように神父とシスターがいるはずだが、立ち上がったリュカにその姿を認めることはできない。近くにあった椅子の背もたれに手をかけてふらつく足を支え、リュカは背伸びをするように教会内を見渡す。
すると祭壇近くに人が一人倒れているのが見えた。長いローブに身を包んだ神父が、今までリュカが倒れていたようなうつ伏せの恰好で同じように倒れている。リュカは何故か力の入らない足を引きずりながら、倒れている神父の傍へと近寄る。リュカが近づいても神父は何も反応せず、眠りこけている。リュカが神父を揺さぶり起こそうとしても、神父はただ唸るだけで、目を覚ます気配はない。神父と言う立場にありながら多くの酒を飲んでしまったのだろうかと、リュカは普段の神父にそぐわない行動を想像し首を傾げる。
リュカは再び辺りを見回す。すると椅子の列の間にもう一人、人が倒れていた。長い紺色のスカートの裾が見え、リュカはそれがシスターなのだと分かり、今度は眉をひそめた。シスターもこの宴に多くの酒を飲んでしまったのだろうか。到底想像することの出来ないシスターの飲酒に、リュカは疑問を抱えつつも、今度はシスターの所へ歩み寄る。
同じようにシスターを揺さぶり、起こそうとするが、やはり目を覚まさない。眠っているシスターの雰囲気から、それほど葡萄酒を飲んでいるとも思えなかった。第一、教会と言う場所で神に仕える神父やシスターが床に倒れるほど酒を飲むはずがないと思うのが普通だろう。
教会内のランプの明かりが明滅した。グランバニアの城下町は建物内にあるため、あちこちに魔法仕掛けの明かりがついている。それらは明るさこそ昼と夜とで変化するものの、四六時中絶えることなく点いている。まるで魔法が切れるように明かりが消えることはないはずなのだ。それが今、消えかけた。リュカは不安に襲われた。何か異常が起きているのだと直感した。
神父とシスターを教会に並ぶ椅子に座らせると、リュカは教会を出て行った。二人を椅子まで運ぶ際にも、神父もシスターも目を覚ます気配すら見せなかった。明らかに葡萄酒だけの問題ではないとリュカは悟った。
城下町に向かい、その景色を眺めたリュカは、しばらくその場に立ち尽くした。先ほどまで開かれていた宴は夢だったのかと思う程、城下町では今、何も動くものが見つけられなかった。ただ広場の噴水だけが盛大な音を響かせている。大いに騒いでいた人々は、宴の楽しさの余韻を残したまま、一人残らず地面に倒れていたり、噴水広場にもたれかかっていたり、店の前のテーブルに突っ伏していたりと、すべてが異様な光景だった。どこかの家で飼われている犬も、地面におかしな恰好で眠っていたりする。何もかもが時を止めた中、ただ一人リュカだけが歩いている。
倒れている人々の様子は、教会での神父やシスターと同じで、軽く揺さぶったくらいでは到底起きないものだった。リュカ一人ではどうしようもない数の人々がそこここに眠っており、リュカは一人一人を起こすのは不毛なことだと、とにかく自分と同じように目を覚ましている人間を捜し始めた。
噴水広場を通り過ぎたところで、オジロンも民衆と同じように地面に倒れているのを見つけた。先ほどの宴でオジロンがそれなりに葡萄酒を飲んでいたのを思い出す。しかしやはりこうして地面に倒れて眠ってしまうのは異常だ。オジロンと共にいた兵士も近くで倒れている。普段は優し気で少々頼りないと言われるようなオジロンだが、城下町と言う場所で民衆と一緒になって眠りこけている姿はさすがにそぐわないとリュカは思った。城下町から一歩でも外に出る時は必ず帯剣し、外の世界にいる魔物の襲撃に備える横顔に、リュカは父パパスの面影を見たことがあった。兄であるパパスには様々な面で劣っているとオジロンは思っているのかも知れないが、それでも国を代表する武人であることは間違いないと、リュカはその時のオジロンの横顔を見て確信していた。
「オジロンさん、起きてください。みんなの様子がおかしいんです」
リュカは大きめの声でオジロンに声をかけ、その身体を揺さぶった。しかしその身体は揺さぶられるだけで、力が入る気配がない。しかし何やらむにゃむにゃと言葉を話すので、リュカはその言葉に耳を傾ける。
「もう飲めんわい……」
オジロンのその言葉にリュカは期待していた気持ちが一気にしぼむのを感じた。オジロンはこの宴を大いに楽しんでいたらしい。そして楽しいその記憶のまま眠りに就き、今も楽しい夢を見ているようだ。教会の神父やシスターよりも多くの酒を飲んでいるオジロンを起こすのは難しいだろうと、リュカは仕方なく再び誰か起きている者を捜そうとする。
「なんとこんなにお酒を! さすが大臣様ですな!」
突然上がったはっきりとした声に、リュカはびくりと全身を震わせた。その声はオジロンの傍に寝転がっている兵士のもので、兵士もどこか幸せそうな顔のまま夢を見て寝言を言ったようだった。兵士の夢の中が一体どのようなものなのかは分からない。しかし彼が発した『大臣様』という言葉に、リュカは無意識にも顔を強張らせた。
即位式が始まる時から何故か大臣の姿が見当たらなかった。リュカが王家の証を手に入れ、グランバニア王を継ぐと決まった時から、大臣は即位式に向けて準備を進めていたはずだ。その仕事ぶりは見事なもので、準備を進める間も大臣はどこか生き生きとした様子で着実に仕事をこなしていた。それまでリュカの王位継承に異を唱えていた大臣だが、王家の証を無事手に入れたことで、彼もどうにかパパスの息子を認めてくれたのだろうと、リュカは安心して大臣の仕事ぶりを見ていた。
その男が当日である今日、一度も姿を現していない。いくら裏方に徹するとは言え、それほど身を隠す必要があるだろうか。それまでは常にオジロンの横に並び、時にはオジロンよりも前に出ることもあったという大臣が、これほど身を隠すのはあまりにも不自然だと、リュカは今になってその事実を冷静に考えることができた。
まだ何がどうなっているのかは全く分からない。ただ目の前には不自然に眠りこける人々がいる。倒れている人からは静かな寝息が聞こえ、皆はまだ宴の楽しさから覚めずに夢の世界で引き続き楽しんでいる。リュカは一人、徐々に膨らむ不安を抱えながら再び城下町を歩き続ける。
静まり返った城下町を過ぎると、二階へ続く階段のある城の玄関にもあたる広間に出た。仕事に当たっていたはずの門番までもが倒れ、眠りこけていた。彼らは交代で門番の務めをするため、その間に葡萄酒を飲むはずがないにも関わらず、今まで目にしてきた人々と同じように石の床の上に寝転がっている。これでは城の正面から誰でも堂々と侵入が可能だ。これほど強固な造りのグランバニア城でそのようなことがあるはずがないと、リュカは目を疑ったが、今はすべてが異様に包まれている。何が起きてもおかしくはない。
「坊ちゃん、よかったですね」
小さな声が後ろから聞こえた。リュカが息を呑んで振り向くと、二階に上がる階段のすぐわきに大きな体が横たわっていた。サンチョが顔を赤くしながら仰向けで眠っている。リュカの即位が嬉しく、つい酒量が増えたのだろうか、非常に気持ちよさそうに寝息を立てていた。
しかしサンチョは何故こんなところにいるのだろうか。宴は城下町で行われ、ここは城下町から外れた場所で、宴の賑わいなどなかったはずだ。宴に参加していたサンチョが城下町でオジロンと話をしたり、グランバニアの人々と親し気に会話をしている姿をリュカは目にしている。リュカもサンチョと大いに話をし、二人で笑いあっていた。
サンチョはもしかしたら二階に行こうとしていたのかもしれない。そう思った瞬間、リュカは全身に悪寒を感じた。
「ビアンカ……」
夜更けに双子を産んだばかりのビアンカは当然、宴には参加していない。今も双子の母として最上階の国王私室で休んでいるはずだ。リュカの鼓動が大きく早くなる。自分が一体どのような不安を感じているのかは分からない。しかし足は自然と二階へ向かう。階段を転びそうになりながら、前のめりに上へ上へと上っていく。



グランバニア城の二階には兵士たちの寄宿所があったり広い会議室があったり酒場があったりと、主に城の兵士たちが過ごす空間となっている。今日が即位式だからと言って、二階にいる兵士たちがすべて出払っているわけではない。当然二階にも人はいるはずで、職務に就いたり休息を取っていたりと、各々の時間を過ごしているはずだ。城下町に運ばれる料理や飲み物は城の二階の厨房から運ばれることが多かったが、今はその動きも滞っているようだ。二階にも人の動く気配が感じられなかった。
二階にも異様な雰囲気を感じつつも、リュカはすぐさま三階への階段を上る。とにかく確認しなければならないことがある。この異様な雰囲気に包まれた城の中で、最も安全に包まれているはずの場所。城の回廊を走り、よくドリスが侍女とともにいる中庭を横目に、リュカは王室の扉の門番を務める兵士が二人、扉の前に倒れているのを見た。一人は明らかに酒を飲んでいるようで、良い気分で夜風を浴びながら眠ってしまっているようだ。しかしもう一人はただ静かに眠っているようで、宴を楽しんだ後は見られなかった。
リュカはもう兵士を起こして確認するようなこともしなかった。まるで時が止まってしまったかのように、グランバニアの国は今、リュカ以外のものが何も動いていないようだった。明らかに何者かの仕業で、グランバニアという国全体に異変が起きている。未だかつて見たことのない異変に、リュカは気分が悪くなるような動悸を覚える。
扉を開けた先には、がらんとした王室が広がっていた。いつものように魔法の明かりは点いている。しかし明かりがひとりでに風に揺れるだけで、明かりを受ける人間の姿はどこにもない。誰もいない不気味な王室を、リュカは突っ切るように抜け、上へ上る階段にたどり着く。グランバニア城の最上階である国王私室には、今も妻のビアンカと双子のティミーとポピーが静かに休んでいるはずだ。当然、彼女たちは宴の酒を飲んでいるわけもなく、ただ母と子の安らかなひと時を共に過ごしているに違いない。もしかしたら城の異変にも気づかず、母と子供たちは眠りに就いているのかも知れない。
最上階には国王私室以外にも多くの部屋があるが、リュカは他には部屋など存在しないかのように、真っ直ぐ国王私室へと走っていく。最上階に来てもやはり、リュカの他に動く気配が何もしない。ただ廊下を温い風だけが通り抜けていく。
国王私室の前でリュカは一度足を止めた。もし彼女たちが静かに眠っていたら、起こしてはいけない。安らかなひと時を邪魔しないようにと、リュカはゆっくりとドアに手をかけ、鈍く鳴る扉を息を止めながら開いた。
部屋のカーテンが大きく内側に開いた。リュカが扉を開けたため、空気が通ったのだろう。部屋の中に温い空気が通い、その空気は部屋全体に流れた。リュカは部屋の中央に堂々と置かれる広いベッドを見やる。ベッドの上を温い空気が通り抜けていく。リュカの背筋が凍り付いた。
ベッドにいるはずのビアンカと双子がいない。常に彼女たちを世話してくれる侍女たちもいない。誰もいない広い部屋に、ただ温い風だけが通り抜けていく。入口の扉を開けたまま部屋に入ってきたことに気づきはしたものの、リュカの意識はベッドの上だけに向けられていた。
「……ビアンカ……どこにいるんだ」
母となった彼女は生まれたばかりの双子とかくれんぼでもしているのだろうかと、ありえない想像がリュカの頭にめぐる。まだ乳を飲むのと泣くのと眠るのが仕事の赤ん坊と、そのような遊びができるはずもない。考えるまでもないようなどうしようもないことが、リュカの頭を埋め尽くそうとするのは、一種の防御反応のようなものだった。
リュカは部屋のタンスを開いて中を覗いて見たり、大きく揺れるカーテンの中を確認したり、浴室でティミーとポピーの体を洗っているのだろうかと見に行ったりと、ありとあらゆるところを捜しまわった。気が動転しているため、同じところを二度、三度と確かめたりもした。この部屋にいるはずなのだという確信と共に、何度も何度もしつこく家族を捜した。
窓が大きく開いていた。それほど部屋が暑かったのだろうか。この夜更けにこれほど窓を大きく開けていることは珍しい。リュカは窓辺に寄って外の景色を眺めた。昨日が新月だったため、今日の月もどこにあるのやらわからないほど欠けているようだった。空は暗い。星の輝きが不気味に感じられるほど明るい。
猫の鳴き声のような声が細く聞こえた。それは外から聞こえたのかと思い、リュカは窓から身を乗り出して耳を澄ます。しかしそうすることで声は遠のいた。リュカは部屋に身を戻し、再び部屋の中で耳を澄ます。その声は初め、一つだった。しかし間もなく、声は二つ重なり、悲しみを帯びた音になった。
「ティミー! ポピー!」
リュカはその声に反応するように、双子の名を呼ぶ。すると鳴き声は更に大きくなり、まるで父の声に答えるようにその場所を教えようとする。リュカは息を止め、赤ん坊の泣き声に集中する。ベッドの上には誰もいないが、声はベッドの方から聞こえた。リュカは再びベッドに近寄ると、唯一考えられるベッドの下を覗きこんだ。「ひっ!」と短い悲鳴が上がり、リュカは一人の女性と目が合った。
「……リュカ様ですか?」
いつもビアンカの身の周りの世話や、生まれたばかりの双子の世話をしてくれているベテラン侍女が、怯えた声を出した。広いベッドの下の隙間に、彼女は双子をしっかりと抱えて身を隠していたのだ。リュカには状況がまるで飲み込めなかった。生まれたばかりでまだ一人では何もできないような赤子が、何故母と共にいないのか。
ベテラン侍女の腕の中で、双子は共に鳴き声を上げていた。侍女が慎重にベッドの下から双子を抱きながら姿を現したが、彼女は明らかに体を震わせていた。その様子が伝わっているのか、腕に抱かれている双子も不安を感じているように鳴き声を出し続ける。リュカは侍女の腕の中にいるティミーとポピーに手を差し出し、子供たちを受け取り腕に抱いた。父に抱かれた双子は泣き止むことなく、ただただ傍にいない母のぬくもりを探して泣いているように見えた。
ティミーとポピーをリュカに渡した侍女はまだ震えが収まらない様子で、白い前掛けを両手でつかんでその手をぶるぶると震わせていた。顔は緊張で歪み、顔色は蒼白だった。
「お、王さま! 申し訳ありません!」
侍女がようやく言葉を出した。彼女の謝罪の言葉に、リュカは続きを聞く耳を塞ぎたくなる。ベテラン侍女がいて、双子がいて、ビアンカがいない。この状況で侍女は謝っている。それがどういうことなのか、さすがのリュカもその事態を本能的に予測する。
「王妃様が……ビアンカ様が魔物どもにさらわれて! 私は二人の赤ちゃんを抱いて身を隠すのが精いっぱいで王妃様までは……も、申し訳ありません! ううう……」
ベテラン侍女は涙を流し声を震わせ、絨毯の上に額をこすりつけてリュカに謝った。いつもは三人の子供を持つ母親としても堂々としていて、新米母であるビアンカにも様々なことを教えていたようだが、今は大きな体も縮こまり、リュカに顔を合わせられずにずっと頭を下げ続けている。リュカはそんな彼女の姿を見て怒りを覚えることはなかった。このベテラン侍女も本来であればビアンカも双子の赤ん坊と同じように助けたかったはずだ。それができなかった後悔は計り知れないほどに大きい。
ベテラン侍女の心境を頭のどこかで理解しながらも、リュカは冷静でいられるはずがなかった。ビアンカが魔物にさらわれた。彼女ならばリュカたちと共に長旅をしてきた経験を生かして、魔物と向かい合ってもいくらか戦うことができたはずだ。しかしこの国王私室でビアンカが呪文を使ったような痕はどこにもない。ただ窓に流れる風に、カーテンが大きく揺れているだけだ。
リュカは窓辺に駆け寄る。窓が大きく開け放たれている。国王私室の窓はかなり大きい。侍女に聞くまでもなく、魔物らがこの窓から侵入してきたのはすぐに分かった。リュカは窓から身を乗り出し、下を覗きこんだ。星明りが届かないほどに暗く、リュカは目が慣れるまでしばらくじっと窓の下に見えるはずの地面を見続けた。
何かが倒れていた。リュカはそれがビアンカである錯覚を覚える。全身の血の気が引き、その場で卒倒しそうになる。しかし落ち着いて見ると、それは人ではなく、魔物だった。そして魔物は数体、地面に倒れていた。全て見覚えのある魔物。
プックル、ピエール、マーリンの姿がはっきりと見て取れた。それにキングスにサーラの姿もあった。全てこのグランバニアを警備する魔物たちだった。彼らは城の警備にあたっている時に、他の魔物の襲撃に遭ったのだろう。かなりの力をもった彼らをもってしても、城への侵入を防ぐことができなかった。
リュカが窓辺に足をかけ、窓から飛び出そうとすると、後ろで侍女が短い悲鳴を上げた。その声でリュカは現実に引き戻される。リュカの両腕には双子の赤ん坊が抱えられている。ティミーとポピーは今の状況など何も分からないまま、ただただ泣き声を上げている。ビアンカが連れ去られたという事実に、リュカは両腕に抱いている子供のことを忘れていたのかと、自分で自分が信じられなくなった。
その時、国王私室に突然人が飛び込んできた。次々と起こる異変に、リュカは心を失いかけていた。一体何をどうしたらいいのか分からない。しかし咄嗟に双子を庇うように抱き、扉から現れた人間に敵意の目を向ける。
「坊ちゃん!」
国王私室に飛び込んできたのはサンチョだった。まるで転がり込むように部屋に入り、サンチョは顔から汗を流しながら、少々ふらつく足でどうにかこの場までたどり着いたようだった。恐らく宴の際に飲んだ葡萄酒の効果がまだ残っているのだろう。ただの葡萄酒ではないその効果は人を眠りに誘うだけではなく、身体的にも被害を及ぼしているようだ。
「いえ、リュカ王! 城の中が妙に静まり返っておかしな気がしたので来てみたのですが……」
サンチョは顔の汗を服の袖で拭いながら、リュカと双子、侍女のいるこの国王私室を見渡す。広い部屋だが、一目で部屋の中が見渡せるほどのものだ。この場に最もいなければいけない人物がいないことは、一目瞭然だった。
「まさか王妃様が……ビアンカ様が……?」
サンチョの声が震えている。彼がどれほどの恐怖を感じながら、そのことを聞いているのかが分かる。リュカが抱く双子が最も必要としている母がいないことは、あってはならないことなのだ。昨日生まれたばかりの赤ん坊から目を離し、一人でどこかへ行ってしまうことなど、母になったビアンカが望むわけがない。彼女は双子の子供たちを胸に抱き、これからの未来を心の底から楽しみにしていた。
「……魔物が……ビアンカを……」
リュカは全てを言葉にして伝えることができなかった。自分でもまだ信じ切れていない現実なのだ。ビアンカがこの場にいないなど、リュカが最も信じていない。彼女は生まれたばかりの双子の母で、自分の愛する妻で、最もこの場にいなければならない人間だ。
しかしリュカのその言葉だけで、充分だった。顔面蒼白になりながら、言葉もまともに発することができないリュカの様子に、サンチョは体中に異様な緊張感がみなぎるのを感じた。それは過去にも経験したことのある、一生に一度も感じてはならないような緊張感だった。
「な、なんということだ! これではまるで二十年前のあの日と……」
今、サンチョの目にはリュカと同じように佇むパパスの姿があった。かつてのパパスも、今のリュカと同じように、腕に赤ん坊のリュカを抱き、いつも国民に見せている威厳を忘れ、ただ茫然と視点の定まらない目をベッドに落としていた。パパスはその後、妻を救う旅に出て、とうとう救い出すことができずに命を落としてしまった。そしてマーサ王妃も未だ国に帰らない。サンチョの中で、パパス王とマーサ王妃のことはそこで時が止まってしまっている。
しかし今、サンチョの目の前にいるのはパパスではなくリュカだった。リュカが抱えているのは双子の赤ん坊ティミーとポピー。魔物に連れ去られたのはマーサではなく、リュカと共に長旅をしてきたビアンカだ。あの時とは状況が違うのだと、サンチョは自分自身に言い聞かせる。
「いえ、同じにさせてなるものですかっ!」
サンチョは過去の記憶を振り払う。サンチョの大きな声に、リュカも目が覚めるようにサンチョの強い心としっかりと向き合う。泣き止まぬ我が子を腕に抱きながらここで立ち尽くしていても、ビアンカは戻ってこない。リュカは妻の強さを信じることにした。そうでなければ、ここで身を震わせるだけで、何もすることができないと思った。
「坊ちゃんはいつ、ここに来られたのですか?」
「僕も、ついさっきだよ。そうしたらこの部屋には誰もいなくて……」
リュカがサンチョに説明できることは少ない。リュカがここに来た時には既にビアンカはいなかったのだ。彼女が連れ去られる前の状況は、双子を隠していた侍女にしか分からない。ビアンカが何故、無抵抗のまま連れ去られてしまったのかを知るのは、侍女しかいない。
「ビアンカ様は……囮となってくださったのです……」
ベテラン侍女が喉から声を絞るようにしてリュカとサンチョに伝える。未だ顔を上げることはできず、絨毯の上に座り込んだままだ。リュカは彼女を無理に立たせることも顔を上げさせることもなく、ただ彼女と同じように絨毯の上に座り込んで話を聞き始めた。



「ようやく少し慣れてきたみたい。でも、しっかり飲めているのかしら」
「心配ございません。赤ん坊は生まれてくる時に三日分の栄養を持っているって言われています。ティミー様もポピー様も元気に泣いておられますし、おしめもしっかり濡らしてくれていますからね」
新米母であるビアンカの不安を吹き飛ばすように、ベテラン侍女は口調に気をつけながら、本日正式に王妃となったビアンカに答えていた。リュカの素性を知り、その妻であるビアンカにも急に緊張感を持って接し始めていた彼女だが、ビアンカは「今まで通り接して欲しい」と願い出ていた。しかしさすがに国の王妃となる人にぞんざいな口を聞けるはずもなく、侍女は王妃の望む対応になるよう程よい距離感を持って接するように心がけていた。
「赤ちゃんって可愛いんだろうなぁって思ってたけど、本当に可愛いのね」
ビアンカは乳を飲んで眠ってしまったティミーの頬を指で撫でる。指で撫でるのがちょうどよいほどに小さな頬は、非常に温かく、生きていることを教えてくれる。ポピーの頬も同じように撫でると、触れられたのが分かったのかポピーはほんの少し身じろぎをした。
「私、お母さんなのね……何だか夢を見ているみたい」
ティミーとポピーが生まれてきて、既に子育ては始まっているのだが、身体がふわふわと浮いているような感覚で、自分がこの場にいないような感じがしていた。ティミーとポピーを前にして、自分は幸せな夢を見ているのではないだろうかと思ってしまう。
今、夫のリュカは不在だ。彼は今日一日、即位式のためにこの場を離れている。本来ならば双子の誕生を夫婦二人で祝い、共に過ごしたい時だったが、二か月も前から準備されていた式典に主役が参加しないわけにもいかないと、リュカは渋々即位式に出向いている。
「そういえば城下町の賑やかな声が静かになりましたね」
ベテラン侍女が部屋の窓に寄り、外からの音に耳を澄ます。外からはいつもと変わらず、夜の虫の音や鳥の声が静かに聞こえる。先ほどまでは虫の音や鳥の声に交じって、城下から人々の笑い声が聞こえたりしていた。グランバニアの人々は今、とても楽しい時を過ごしているのだろうとビアンカは想像しながら、リュカもその中で楽しく過ごしていることを願った。
宴もひと段落したのか、ベテラン侍女の言う通り、城下町から聞こえていた賑わいは落ち着いているようだった。部屋の窓は細く開いているだけだが、そこからグランバニアの森のざわめきが聞こえる。風が出てきたのだろうか、いつもよりも森が騒がしいとビアンカは思った。
乳を飲み、すやすやと眠ったティミーとポピーを包みに入ったままベッドへ寝かせ、ビアンカは窓辺に寄った。双子を腕に抱いていると、それだけで身体が熱くなり、汗ばんでしまう。少し汗を乾かそうと、ビアンカは窓をもう少し大きく開けようと窓枠に手をかける。
突然、窓の外で「ぎゃんっ」という鳴き声が聞こえた。悲鳴にも聞こえるその声に、ビアンカははっと息を呑んだ。聞き慣れた声に反応し、すぐさま窓を開けて外を見る。カーテンが大きく揺れる。下にいた魔物と、目が合った。見知った魔物ではなかった。
ビアンカはすぐに助けに行きたかった。プックルが、ピエールが、マーリンが地面に倒れていた。しかし今の自分に彼らを助けることはできないと、母としての本能が突飛な彼女の行動を抑えた。意識的に深く呼吸をする。恐らく目の合った魔物は自分を狙っている、ビアンカはそう直感した。
「子供たちを、ティミーとポピーを隠してください!」
「えっ? どうされたのですか、ビアンカ様?」
「あなたも一緒に隠れていて! 絶対に出てきてはダメ。二人を守って、お願い」
先ほどまで穏やかに双子を見つめていたビアンカの様子がただならぬものに変わり、侍女も同じように表情を一変させた。とにかく今自分がしなくてはならないことは、ビアンカの言う通り、王子と王女を起こさないように腕に抱き、ベッドの下に潜り隠れることだと、侍女は素早く行動した。幸い、母から乳をもらったばかりの双子は目を覚ますことなく、小さく静かな寝息を立てて眠っている。落ち着いて腕に抱き、ベッドの下に隠れることはそれほど難しいことではなかった。
大きなベッドの下には十分な空間が広がる。侍女が双子を抱いて身を隠すにも、広さとしての問題はなかった。ビアンカは三人がベッドの下に潜りこみ、姿が見えないと確認すると、一人ベッドを離れた。
「あの、ビアンカ様……」
「しっ! 声を出さないで。ティミーとポピーが目を覚ますまで、ずっと声を出さないでいて。……ごめんなさいね、突然こんなことをお願いして……」
窓が勢いよく開き、部屋中の空気が一気に動いた。カーテンが引きちぎれそうな勢いに、立っていたビアンカも思わずよろめき、ベッドに手をつきそうになる。しかし二人を起こしてはいけないと、どうにかその場で踏みとどまった。
窓から現れたその姿に、ビアンカは思わず仲間の名を呼びそうになった。しかし明らかに仲間のメッキーとは様子が違った。
元々は普通のキメラだったのだろう。大きな翼をはためかせ、体は竜のうろこで覆われており、攻撃力の高い嘴を持つ。しかしその頭には飾り羽のような色鮮やかな飾りがついており、全身を覆ううろこはリュカのマントと同じような紫色だった。夜も深い時分、部屋の明かりも抑えられ薄暗いが、現れたキメラはその身体から息苦しいような光を放つ魔物だった。ビアンカは突然部屋に入り込んできたキメラを見て、到底自分が適う相手ではないと否が応でも肌で感じた。目の前にいるだけで悪寒を感じる。身体と同じ色で光る目を向けられると、どうしようもなく身がすくむ。
「お前が王妃か?」
とてもメッキーと同じキメラとは思えないような低い声がそう言う。部屋に現れたキメラは、ビアンカが今まで見てきた中で最も邪悪な魔物だった。長旅での経験を生かして魔物と戦闘する能力がある自負もある。今すぐにメラミを唱えれば、この魔物を追い払うことができるかもしれないという僅かな望みもある。もしビアンカが、この場に一人きりでいたならば、そのような手段を取ったかも知れなかった。一人ならば自分の身を守るだけで済む。他の誰かの命を守る必要はない。
「……そんなこと、聞かなくても分かってるんでしょ?」
ビアンカのせいぜいの強がりだった。声が震えているのは自分でも分かっていた。とにかく今、自分が何をすべきかをビアンカは必死に考えていた。無駄な抵抗をすればすべてが壊れるのだと理解していた。私は彼らを守らなくてはならない。やるべきことはそれだけだ。
「なかなか気の強そうな女だ。あいつの言っていた話とは大分違うようだな」
「あいつって、誰のことよ」
「お前には関係のないことだ。さて、心の準備はいいか?」
「あまり良くないわね」
「そりゃあそうだろうな。だがこれは運命ってやつだ。おとなしく捕まっておいたら痛い目には遭わせない……と思うぜ」
「ちゃんと約束しなさいよ」
「俺には約束できないんだ。なんせジャミ様の命令だからな」
ビアンカはその言葉に息を呑んだ。目の前のキメラの魔物を見るだけでも足が震えているというのに、このキメラに命令する魔物がいるらしい。たとえ目の前の魔物を運よく追い払ったとしても、この上の魔物がいるのであれば、やはり抵抗することは傷口を大きく広げるだけに過ぎないのだろう。こめかみに嫌な脂汗が出る。絶対にベッドの下の気配に気づかれてはならない。
「私を捕まえてどうするのよ。あんたたちの目的って何なのよ」
「さあなぁ、俺にはよくわからないな。俺はとにかく、この国の王妃を攫って来いって言われてるだけだ」
キメラの化け物の言葉に、ビアンカはあっと短い声を上げた。かつてもこの国の王妃が攫われ、そして未だ国に戻らない。マーサの安否を知る者はいない。死んでしまったという情報がない限り、グランバニアの国民は皆かつての王妃マーサの帰りを信じ、待ち続けている。その悲劇が今また繰り返されようとしているのだと、ビアンカは自分の身に起こっている出来事を冷静に見つめた。
「抵抗はしないんだな?」
「無駄な抵抗はしない主義なの」
「なかなか賢い女だ。ジャミ様も気に入られそうだ」
「仲良くは出来ないでしょうけどね……」
ビアンカはキメラの化け物と話をしながら、かつてのマーサも同じような状況だったのではないかと想像していた。生まれたばかりの子供がいて、その母親である自分がいる。そこに魔物が襲ってきたら、間違いなく子供を庇い自身の身を晒すだろう。子供が危険に晒されるぐらいなら、親である自分の身に何が起こっても構わないぐらいの気持ちは、自然と沸き上がるものだった。
かつてこの場でマーサも同じように、そしてラインハット東の遺跡でパパスも同じような状況に追い込まれた。そしてマーサは連れ去られ、パパスは命を落としてしまった。その過去を想像すると、ビアンカは拳を震わせて悔しがった。リュカはその時のパパスの死を今も尚悔やみ続け、一生消えることのない傷を負ってしまった。そして今、ビアンカがこの場から消えてしまったら、彼はどれだけの傷を抱えることになるのだろう。一瞬、ビアンカの頭の中で抵抗の文字がちらついたが、やはりそれだけはできないとぐっと息を詰める。
「しかしなぁ、目を覚ましたまま連れ去られても、あまり良い思いはしないと思うぞ」
「どういうことよ」
「怖いものをたくさん見ることになる」
そう言うとキメラの化け物は翼をはためかせながらビアンカに近づく。不気味なアザレアピンクに光る魔物の目を見ながら、ビアンカは思わず戦闘態勢を取る。手に武器があるわけではない。ただ呪文の構えを取り、敵の攻撃を弾くぐらいの抵抗はしようと身構える。
「呪文を使えるのか。戦う王妃様ってやつだ」
同じキメラであるメッキーは眠りの呪文ラリホーを唱えることができる。しかし目の前の化け物が同じ呪文を唱える様子はない。ただ翼をはためかせ、ゆっくりとビアンカに近づいてくるだけだ。ビアンカはベッドの下にいる双子の眠りを妨げることはしたくなかった。静かに集中して、初めて唱える呪文を頭に思い浮かべる。呪文が成功すれば、すべてが上手く収まる。たとえ失敗しても、ティミーとポピーを起こすような大きな音を立てることはないだろう。
命を生み出したばかりのビアンカは、命の尊さを身をもって知った。かけがえのない子供たちの命を、母は、親は絶対に守らなければならない。この小さな命をこれから育てていかなければならない。そのためには、子供たちに迫る危険を絶対に排除しなければならない。
ビアンカの頭の中にはそのような思いが渦巻き、初めての呪文の準備を整える。彼女の両手の中に、敵意を越えた思いが黒い光となって渦巻き始める。見たこともない黒い光を見ても、ビアンカの心はひるまなかった。子供たちを守れればそれでいい。その思いだけで、ビアンカはザラキの呪文を唱えた。
ザラキの黒々とした渦を見て、キメラの化け物は明らかに表情を変えた。白いゆったりとした衣服を身に着け、金色の髪をゆるやかに下ろしている女から発せられる空気ではないと感じた。女神にも似た様相を見せる女が、死の呪文を身にまとってまるで悪魔に変わってしまったかのようだった。ただ連れ去って来るだけで良いと思っていた女から浴びる死の呪文に、キメラの化け物は本気の力で対抗するしかなかった。
ビアンカの放ったザラキの呪文が化け物を包んでいく。煙に見える闇が化け物の周りを渦巻き、その姿を見えなくする。ビアンカは全身を震わせながら集中した。闇の中で化け物が抵抗している力が見える。ビアンカはそれに打ち勝つ為に、ザラキの呪文が生み出す闇を放ち続ける。
「……あのキラーパンサー……もう死んでるかもな……」
ビアンカの放つ闇の中から、化け物の声が聞こえた。その言葉に、ビアンカの集中力がふっと途切れた。彼女の脳裏に、先ほど窓の外に見えた魔物の仲間たちの姿が映る。プックルもピエールもマーリンも、皆地面に倒れていた。一瞬しか目にしなかった状況だが、それでも彼らが息も絶え絶えに倒れていたのは分かった。
ザラキの呪文が弾かれた。キメラの化け物は全身を震わせて死の呪文に抵抗し、その呪文ごとはじき返してしまった。広い部屋の中に死の呪文が散らばり、そして消滅した。それを見て、ビアンカは全身の力が抜けるのを感じた。
キメラの化け物が風のようにビアンカに近づき、無抵抗な彼女に一撃を加える。ビアンカはあっさりと意識を失い、どさりと音を立てて床に倒れた。床に倒れた人間の女を、キメラの化け物は軽々と足でわしづかみにし、宙に舞ったまま女をまじまじと見る。
「ザラキなんかを使えるとはな。しかしあいつのことが余程大事らしい」
窓の下で倒れているプックルたちは皆、城への侵入を試みるキメラの化け物と戦った。相手が一体だけであれば、プックルたちにも勝機はあった。しかしキメラの化け物は手下を多勢引き連れていた。手下たちの多くはホークマンという空を飛ぶ魔物で、ピエールやマーリンが呪文で応戦し、プックルも出来る限り攻撃を仕掛けたものの、数にも押され、敵うことはなかった。グランバニアの警備は人間と魔物が共に行っているものだが、今日の即位式の異変により、人間の兵士はほとんどが城の中に倒れている有様だ。城の警備が手薄をなったこの時を作り出し、魔物たちはグランバニアの侵入を試みたのだった。
キメラの化け物はプックルと戦っている時に、その声を何度も聞いた。
『ここを通すわけにはいかない』
『ビアンカは俺が守る』
その覇気に押され、倒されたホークマンもいたが、キメラの化け物は向かってくるキラーパンサーの思いを冷静に見ていた。どうやらこの上には彼にとってとても大事な人間がいるらしい。そしてその人間こそ、ジャミより連れ去ってこいと命令された人物なのだろうと、予測していた。
「まあ、とりあえず仕事は完了だ。行くとするか」
そう呟くと、キメラの化け物は大きな翼をはためかせ、ビアンカを足に掴んだまま開いた窓から風のように飛び去ってしまった。部屋は静まり返り、大きく開いたままの窓からは夜の虫の音が聞こえてきた。しかし夜の鳥の声は止んでいた。鳥たちはどこか離れた場所へと飛び去っていたのかも知れない。



リュカは腕に抱いている双子の赤ん坊を険しい顔で見つめる。ティミーもポピーも泣き疲れたのか、今は大人しく白い包みの中で力なく手足を動かしているだけだ。その様子を見て、ベテラン侍女はすぐにリュカから双子を受け取り、ベッドに寝かせておしめを確かめる。そしてすぐに部屋の棚に積み重ねられているおしめを取りに向かった。状況に関わらず、ティミーもポピーも生きようとしている。そして彼らが生きようとするのを阻害することは、母であるビアンカが許さないだろう。彼女は子供たちのために自分の身を晒した。
今、ビアンカの代わりに双子のおしめを替えている侍女も、どれほどの恐怖を味わったのだろうか。ガタガタと震えながらも、ビアンカの言いつけを守り、双子を隠し続けた。そのおかげでティミーとポピーは無事に難を逃れることができた。ビアンカが攫われたことに対し、侍女を責める気持ちは全く起こらなかった。侍女は最善を尽くしてくれた。そしてビアンカの望んだことを成し遂げてくれた。リュカは双子のおしめを替えている侍女に対し、険しい表情のまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます。おかげで子供たちを守ることができました」
グランバニア国王となったリュカに頭を下げられ、侍女はしばし絶句していた。双子をどうにか隠しきることはできたが、王妃を守ることはできなかった。それは国の臣下の一人として失格なのだと彼女は当然の様に思っていた。今はとにかく目の前の双子の世話をしなくてはならないが、明日にも暇を言い渡されるか首をはねられてもおかしくはないだろうと覚悟をしていたのだ。
「わ、私は王妃様をお守りすることが……」
「いいえ、ビアンカはどうしてもこの子たちを守りたかった。それをあなたはやってくれました」
「そんな……私は何も……王妃様が……」
「ビアンカは僕が助けます。絶対に。彼女がいなくなるなんて、この子たちにとっても、僕にとってもあってはならないことだから」
リュカはそう言いながら両こぶしを震わせていた。彼女は今、どうしているのだろう。魔物に連れ去られ、とても怖い思いをしているに違いない。いくら気丈な彼女でも、たった一人でその恐怖に立ち向かうことは無理なのではないか。
リュカは部屋の窓に駆け寄る。窓の下にはまだ倒れたままの魔物の仲間たちの姿が見えた。窓枠の上に飛び上がる。かなりの高さがあるが、下りられないことはないとリュカは地面を見据える。
「坊ちゃん! 落ち着いてください!」
後からサンチョが叫んだ。リュカは体をびくりと震わせた。サンチョの言う通り、リュカは完全に冷静さを欠いていた。今、自分は何をしようとしていたのだろう。ビアンカがどこに連れ去られたかも分からずに、城を飛び出そうとしていたのではないか。飛び出して何になるのか。プックルたちの息を吹き返し、そのまま城を出て、一体どこに向かおうとしていたのか。何も考えていないことに、サンチョの声で気がついた。
「さあ、坊ちゃん! 城の者たちをたたき起こすのです!」
サンチョの厳しい顔つきを見て、リュカはほんの少し冷静さを取り戻した。自分はこの国の王となった。そしてこの問題は自分達だけで解決できるようなことではない。国の者たちの力を借り、解決するべき事案だ。
「そしてなんとしても王妃様を、ビアンカ様を!」
サンチョの思いはリュカとは異なる意味で強く働く。サンチョはかつて魔物に連れ去られたマーサと同じようなことを繰り返してはならないという強い思いがある。それはグランバニアの国民のためにも、リュカのためにも、双子の子供たちのためにも、そしてサンチョ自身のためにも、かならず避けなければならない事態だった。リュカはサンチョの言葉と思いを受け、どうにか心を落ち着けることができた。
「サンチョは城下町の人達を、僕はまずプックルたちの怪我を見てから城に戻る。あなたにはこの子たちのことをお願いしたい。できますか?」
「分かりました。絶対にお傍を離れません!」
「じゃあサンチョ、後で」
「ちょっ……坊ちゃん!」
リュカはサンチョの叫び声を後ろに聞きながら、四階もの高さの部屋の窓から、壁を伝って、ほとんど飛び降りる格好で下に下りて行った。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様

    コメント遅くなって、すみません…。
    この状況とbibi様の描写能力の高さに、コメントをどう書いて良いか分からなくなってしまい…(汗汗)

    まさか、メギラマとベホイミ使いのキメイラ、その軍団が襲って来るとは思いませんでした。
    ビアンカなら、キメイラ一匹、なんでもないかと思っていたら、ホークマンも連れて来るとは…。
    さすがはビアンカ!
    覚え立てのザラキで抵抗し、子供たちの気配を感じさせない配慮。
    しかし、まさかプックルの死を恐れてしまう台詞を聞いてしまい動揺してしまうキメイラの、戦闘力と腹黒差に怒りを覚えてしまいました。
    ビアンカならザラキでキメイラを仕留めていたかもしれないのに…。
    しかも、まさか…プックル、ピエール、マーリンという主要メンバーがやられ、キングスやサーラまでもが、抵抗空しく、やられてしまうとは…。
    キメイラの戦闘判断力に感服と激怒してしまいました。

    bibi様、ザラキの描写うまく描かれたかと思います。
    ザラキという死の呪文というだけならば、描写が難しいのに、黒い塊が襲うという話の持って行き方は、読み手を想像させてくれますな。

    う~ん…。
    リュカの気持ちを思うと、心が痛くなり…。

    すみません…bibi様の描写力に、コメントをこれ以上、書かせて頂くことができなく…。
    一言で

    感無量であります!

    bibi様。
    この後は、デモンズタワーになりますか?
    それとも、空飛ぶ靴までの描写になりますか?

    特別手当にサンチョをデモンズタワーに連れて行ってあげたいですが、それをしてしまうとサンチョまでもが石化になってしまうでしょうか?

    う~ん、早く先を読みたいです!(願)

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもご丁寧なコメントをどうもありがとうございます。
      ビアンカのいる場所が4階なので、敵の飛行部隊に襲撃してもらうことにしました。城中が眠りに就いているので、堂々と正面突破で来ても問題はなかったのですが、手っ取り早く……って、書きながら頭に来ますね……。くそぉ。
      ザラキの呪文はここで使おうと考えてました。彼女がこの呪文を唱える場面って限られる気がしたので。本当に、上手く行けば仕留めていたかも知れませんね。

      この後の展開は、私のことですからのんびりペースです。なので、城の中をまず捜索するかなと。どんどん話を飛ばしたいんですけどね、本当は。じゃないと、この長編が終る頃の自分の年齢が恐ろしいことに……^^;

  2. ガゼル より:

    ビビ様、更新お疲れ様です。
    ついに来てしまいましたね、悲劇の時が…。
    この展開見ていつも思いますが、グランバニアの兵士達は、過去の失態から学ばないのが問題ですよねえ…。
    リュカの母親マーサは、言うなればグランバニアの王太后、ビアンカはグランバニアの王妃ですからね。
    王族と兵士・国民の仲が良いのは素晴らしい事ですが、厳格でない分、気を抜いてしまう所があるんでしょうね。
    国次第では兵士全員、良くてクビか減給、最悪死刑になってもおかしくないですから、もう少し気合を入れて欲しいです。
    長くなりましたが、次回も楽しみにしています。

    • bibi より:

      ガゼル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      本当に、私もそう思います。王妃も王太后も続けて攫われるなんて、国としてどうなのよ? と言う感じです。現実的にはあっちゃいけないヤツです。でもゲームならあるかも知れないヤツ、というところでしょうか。
      みんな仲良く、と言うのはやはりどこか緩みが出てしまいますよね。良いことなんだけど、それは国として成り立つのか、という……。仰る通り、国が国なら兵士全員にとんでもない罰が下されるでしょう。そうでもしないと国全体が引き締まりませんもんね。組織として当然の処置です。ふむ。
      私もこの緩んだ(?)ゲームの世界の中で話を書いているため、緩んでいるかも知れませんが、次回もどうにか頑張ってお話を進めて参ります。よろしくお願いしますm(_ _)m

  3. 犬藤 より:

    ここはいつもゲームでは速攻終わらせてました笑
    ゲームのストーリーだけでなく、その後みたいなところもみてみたいなぁーと思います!

    • bibi より:

      犬藤 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ここはゲームだとどんどん先に進行するところですもんね。私もあれよあれよという間に北の塔に行っていました(笑)
      色々と省略されている所だと思うので、私なりに補完して行ければと思います。

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

 




 
この記事を書いている人 - WRITER -

amazon

Copyright© LIKE A WIND , 2018 All Rights Reserved.