ただ過ぎる時

 

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(みんな……頼んだよ)
前方には巨大な魔物の玉座、その後ろには二つの大きな火台が炎を上げて部屋中を照らしている。先ほどまでこの場所にいたゲマの姿も、仲間のプックル、ピエール、ガンドフの姿も、今はもうない。
火台の炎が大きく揺れたのが見える。この広間に風が入り込んだのだろうが、リュカには風を感じることもできなかった。炎の温かみも、先ほどまで感じていたこの広間の魔物の臭いも、ほとんどの感覚という感覚が奪われてしまっていた。ただ残されたのは、目の前に広がる紗がかかったようなぼやけた視界だけだった。今までのようにはっきりと見えるわけではない。しかし目の前にある光景が何なのかは分かる。他の感覚を奪われているにも関わらず、物が見えるという状況に強い違和感を覚える。
耳に聞こえる音も、微かなものだった。耳の中に膜でも張られているのかと思うような、聞こえづらい感覚だが、集中すればより正確に音を聞くこともできる。ゲマの声も、仲間たちの声も、リュカは辛うじてその言葉を聞き取っていた。
『ひといきに殺してしまっては面白くないでしょう?』
ゲマの憎らしい声がリュカの頭の中に響く。
『その身体で世界の終わりをゆっくり眺めなさい』
仲間たちもこの言葉を聞いていた。そして敵の言葉に望みを持った。リュカはまだ死んではいない。必ず救う手立てがあるはずだと、彼らは救援を呼びにグランバニアへ戻って行った。賢明な判断を下してくれたピエールに、リュカは礼を述べたかった。
「なんでい! 宝があるって聞いたのに、そんなものねえぞ!」
ふとリュカの目の前に一人の人間が現れた。その男は魔物の玉座の周りをうろうろと歩き、めぼしいものを探るように玉座の下に潜り込んだりして、鋭い盗賊の目をぎらつかせている。玉座にはめ込まれている宝玉をじっと見つめるが、どうやら偽物のようで、舌打ちをして偽物の宝玉の一つを拳で叩いて割ってしまった。長年、盗賊稼業をしているのか、品物を見る目には長けているらしい。
リュカの目の前に突然、もう一人の男が姿を現した。その男も盗賊風情の格好をした者だったが、その姿に見覚えがあった。この怪物の塔に入ろうとした時、この男は自信のない様子でうろうろと塔の入口付近を歩き回った後、無謀にも正面の扉から塔への潜入を試みたのだ。その直後、塔の中でこの男の悲鳴が響き渡り、恐らく魔物に倒されたのだろうと思っていたが、もう一人の仲間の盗賊とともに無事にこの場所までたどり着いたようだ。
このような状況でなければ、リュカは目の前の男をじっくりと見ることもなかった。リュカを見上げる男はまるで子供のような澄んだ瞳で、リュカの顔をまじまじと見つめている。果たして自分がまだ生きていることに気づいてくれたのだろうかと、リュカは相手が盗賊であろうが何者であろうが、構わず助けを求めようとした。男の姿は見え、声も聞こえるというのに、リュカ自身は完全に石にされており、体を動かすことも叶わず、当然のように呼吸も止めている。男が目の前の石像が生きている人間だと気づくことは、あり得ない状況だった。
「うわー、立派な石像だなあ。まるで生きてるみたいだよ」
生きたまま石像にされてしまったリュカを見つめ、男は純粋に美しい彫刻があるのだと感心した様子で、石像の周りをぐるぐると回ってマントの皺の一つ一つや、髪の毛一本一本を見つめている。ここまで完成された石像が何故この怪物の塔にあるのかなどは考えず、ただ目の前の石像の完成度の高さに、ため息をつく。
「ねぇ、兄さん。この石像を持って行けば高く売れないかなあ」
しかし純粋に石像の価値が分かるとしても、彼らは盗賊として生きている者たちだった。値打ちのありそうな品物を見つければ、それがいくらぐらいで売れるものなのかを考えるのが、盗賊たちの仕事だ。まさか目の前の石像に意識があり、今はグランバニアからの救援を待っているなどとは想像の端にも引っかからない。彼らにとっては、この石像が高額で売れて、自分たちの生活の糧となればそれでよいのだ。
「ホントだ! しかもこいつは色っぺえ石像だな!」
少し離れたところで声が聞こえる。あまりきれいとは言えない男の声が、どこか下品に響く。今のリュカにはその男の姿が見えなかったが、男が見ている石像がビアンカなのだとリュカには分かった。
ゲマはビアンカを勇者の子孫だとして、放ってはおかなかった。ビアンカの血筋から勇者が生まれるのだと、それを阻止しようとしたはずだ。恐らく、ビアンカもまた自分と同じような状況に違いないと、リュカは動かない拳を固く握りしめる思いだった。彼女も同じように目の前の出来事を見て、盗賊の声を聞いているのだろう。しかし自分は彼女に触れることもできなければ、声を交わすこともできない。何もできない無力に、リュカは気がおかしくなりそうだった。
「よし! こっちはオレがもらった!」
(ふざけるな! ビアンカを渡すものか!)
リュカがいくら思っても、それは何にもならない。怒りを放出させようとしても、石像の身体の中でただ静かにとどまるだけだ。石像のリュカが何を思っても、目の前の小さな埃にも影響を与えることができない。
「ここまで苦労してきて、何にも宝を手に入れないんじゃあ、笑い者だからな」
「でもどうやって持って行こうか、兄さん」
盗賊兄弟の声がくぐもったように聞こえる。彼らが言葉を交わし、周りをうろうろと動いている最中、リュカはずっと石像の身体をどうにかしようと試みていた。しかし動くのは頭の中だけで、他の身体の感覚は何をどうしても戻る気配がなかった。頭の中で呪文を唱えようとしても、当然のようにそれは形にならず、周りの空気を微塵も動かすことができなかった。
盗賊兄弟は仕事道具の中から大きな布を取り出すと、それをリュカの身体に巻きつけ始めた。リュカには何の感覚もないが、布がばさばさと音を立てて自分の身体の周りを動いているのが分かる。布の温かみも感じず、肌に触れる感覚もない。顔のあたりも布で覆われたようだが、辛うじて下の方の景色を見ることができた。盗賊たちは満足したようにリュカを眺めると、今度はビアンカの石像を同じように布で巻き始めたようだった。
「大事な品物だからな。傷つけねぇように持ち帰るぞ」
「ちょうど上に登れば外だから、こいつを使えばこの怖い塔から出られるね」
そう言って盗賊の弟が腰に帯びていた袋から取り出したのは、キメラの翼だった。盗賊という危険な仕事を生業としているため、いつでも逃げられる準備をしているのが分かる。盗賊の弟はキメラの翼を複数持ち歩いているようだった。
「おい! 行くぜ!」
「待ってよ、兄さん!」
「こんなおっかねぇ所、早くオサラバしねぇとな!」
リュカの視界がぐらりと動いた。視界はほとんど塞がれているが、巻かれた布の隙間から少しだけ大きな火台の炎が見えた。相変わらず激しく燃える炎を見ても、温かさを感じられない感覚にまだ慣れることができない。
運ばれる途中、一瞬、ビアンカの姿が見えた。彼女も同じように布で巻かれ、顔も丁寧に布で覆われているようだった。一体の石像となってしまった彼女の姿を垣間見て、リュカは悔しくて情けなくて、目から涙をこぼしそうになった。しかしその感覚は気のせいで、当然、石像のリュカが涙を落とすことはなかった。



「ええいっ! リュカ王の行方はまだ分からんのかっ!?」
「は、はい……。国中の兵士に探させておりますが、いまだ……」
グランバニア王室内で、オジロンの声が響く。グランバニア城からリュカの姿が消えたと知れた時から既に半日以上が経っていた。
最後にリュカは四階の私室に戻り、そこから姿を消してしまったようだった。私室に入る侍女の一人が慌てて持ってきてオジロンに渡した一枚のメモに、リュカからの短い伝言が書かれていた。
『すぐに妻を連れ戻す。それまでティミーとポピーをお願いします』
決して達筆とは言えないリュカの筆跡だが、その筆跡はオジロンもサンチョも何度も目にしているものだった。当時の性急な様子が分かるような乱雑な字に、紙は何かの切れ端を使ったような小さなものだった。リュカは最後に子供たちの顔を見て、意を決して、城を飛び出してしまったのだと、誰もがその覚悟を感じていた。
王妃ビアンカが魔物に攫われ、王妃を探し出すための会議を開いた時には、リュカの姿は会議にあった。しかし会議は早々に終わり、その後サンチョと国王私室に戻り、生まれたばかりの双子の様子を見て、天空の剣を厳重に保管しておくようサンチョに依頼した後、部屋を出たという。ドリスの話によりリュカが二階に向かったことが分かり、兵士の話からは大臣の部屋に入ったところまでの足跡を辿ることができた。
リュカの姿が見えなくなった話を受け、サーラとマーリンが王室を訪れ、知っている事情を説明した。リュカが大臣の部屋から奇怪な靴を見つけたこと、その後四階の国王私室へ戻ったはずだということを話したが、その後すぐにリュカは行方不明となってしまった。
城から姿を消していたのはリュカだけではない。それまで長い間リュカと旅をしてきた魔物の仲間であるプックル、ピエール、ガンドフも城の中からいなくなっていた。城の者たちの間では魔物らがリュカを唆したのではないかと噂する者もいたが、深い信頼関係で結ばれている彼らに限ってそんなことはないと反論する者も同じようにいた。
「それにしても大臣までいなくなるとはっ! まったくもって何がどうなっているのか……」
オジロンの胸中は複雑だった。これまで多くの物事を頼ってきた大臣は、即位式の前から姿を消していた。そしてこの非常事態にも相変わらず姿を見せないままでいる。それが一体何を表しているのか、さすがのオジロンも事態に気づかざるを得ない状況だ。しかし長年頼ってきた大臣を真っ先に疑う厳しい心を、オジロンは強く持つことができなかった。
今、オジロンたちは城の三階にある王室に集まっていた。そこにはオジロンの他に、サンチョ、兵士長、兵士たち、それに双子のティミーとポピーを連れた乳母も姿を見せていた。小さなティミーとポピーは乳母の腕にしっかりと抱かれ、今はすやすやと眠っている。まだ生まれたばかりの赤ん坊である二人は一日の大半を寝て過ごす。まさか自分たちの父と母が城からいなくなってしまったなどとは、当然気づいている様子はない。愛らしい寝息を立てる二人を見ながら、乳母は鼻の奥をツンとさせていた。本来、双子をこうして腕に抱くのはビアンカ王妃であり、王妃こそがその時間を楽しみにしていたのだ。その役目を一時的にでも任せられていることに、乳母は王妃を守れなかった罪悪感をひしひしと身に感じていた。
まもなく夕暮れ時となる。王室の窓から柔らかな夕日が差し込み、すべてのものをオレンジ色に包む。いつもであればそれは一日の終わりを告げる穏やかな日差しだが、今は誰もが時の流れに逆らいたい気持ちだった。時間を巻き戻すことができれば、国王の無謀を止めることができる、王妃が攫われるのを防ぐことができる、そんなことが王室のいる人々の頭の中に巡る。しかしいくらそのようなことを考えようとも、神でもない限り、時間を巻き戻す術など誰も知らない。人々には現状をどうにかするしか手段はないのだ。
「オジロン様、やはり私も探しに参ります。ここでこうしていても、どうにもなりません」
サンチョが少々やつれた様子で立ち上がると、オジロンに一礼をして王室を出ていこうとした。
「待て、サンチョ。お前はここにいてくれ。そなたまでいなくなっては、わしは一体どうしたら……」
「ですが今は緊急事態です。ここでこうしているわけにも参りません」
十数年ぶりにグランバニアに無事帰還したリュカを見て、サンチョは心の底から喜んだ。生きていると信じて疑わないようにはしていたが、十数年の間探し続け、何も手掛かりが得られないままグランバニアに戻り、オジロンにパパスの死とリュカの失踪を知らせた時、サンチョの心は一度死んだも同然だった。それからは毎日城の教会に通い、主君を守り切れなかった罪を神に懺悔し続ける日々が続いた。
リュカの生存はサンチョの息を吹き返した。サンチョの生きる意味を再び与えた。今度は絶対に手を離してはいけないと、サンチョは全力でリュカを守ると誓った。それなのに、リュカはサンチョの手を離れ、魔物に連れ去られた妻ビアンカを探すために行方知れずとなってしまった。
すぐにリュカの後を追わなくては、またリュカが届かないところに行ってしまうのではないかと、サンチョは焦る気持ちのままオジロンに毅然と話をしていた。リュカを息子同然に大事に思う心は、恐らくリュカの実の叔父であるオジロンにも負けないのだと、サンチョは内心そう感じている。幼い頃からリュカの面倒を見てきたサンチョは、ある部分では実の父であるパパスよりもリュカに対する愛情があるのだと思っている。
「とにかくここでじっとなどしていられません! お察しください、オジロン様……!」
サンチョの中ではリュカは永遠に子供のままなのだ。どれほど逞しく、過酷な旅を生き抜き、無事にグランバニアに戻ってきたからと言って、その笑顔を見れば幼い頃のリュカが蘇る。健気で純粋で、本当は傷つきやすいリュカが今、どこでどのような目に遭っているのかを想像すると、胸をかきむしりたくなる。それを自分の手で救い出さないでいるなど、一体自分の価値はどこにあるというのか。サンチョはこのまま城で兵士たちの報告を待つだけの役割など耐えられないと、オジロンに背を向けて王室を出ていこうと足早に歩き始めた。
するとその時、サンチョが向かっていた王室の扉が勢いよく開かれ、息せき切って一人の兵士が入り込んできた。玉座の前に立つオジロンに一礼をすると、慌てた様子のまま報告をする。
「オ、オジロン様! はるか北の教会で王のお姿を見た者が!」
「なんと! リュカ王を見た者がいたと申すかっ!?」
「はっ!」
喉もカラカラの状態の兵士は苦しそうに肩で息をしながら、懐に持つグランバニア周辺地図を床に広げた。オジロンもサンチョもその地図を覗き込み、兵士は地図のある一点を指し示す。そこはグランバニアの北西、大きな内海を越えたところに兵士は教会の位置を示した。伝達に現れた兵士は、兵士から兵士へと伝え聞きしてここまで戻ってきていたが、確かな情報のようだった。
グランバニアの者が内海を越えて北の地に行くことはほとんどない。しかし内海には魚が多くおり、グランバニアの者たちが漁をすることは日常的だった。そのための漁船は数隻、常に沿岸に停泊している。
「よし! 皆の者! 北の地じゃ! 北の地をくまなく調べるのじゃ! どんな些細な事でも見逃すでないぞ! さあ行けいっ!」
オジロンの号令とともに、王室にいた兵士たちのほとんどが行動を開始した。残されたのは王室の警備に就く兵士にオジロン、サンチョ、乳母、そしてティミーとポピーだった。慌ただしく王室を出ていく兵士たちの音に、ティミーとポピーが同時にうっすらと目を覚ましていた。
「リュカ王も王妃もご無事でおられると良いが……」
疲労を溜めたオジロンが力なく玉座に腰を下ろした。リュカが行方不明になって心を痛めているのはオジロンもサンチョ同様だった。十数年ぶりに無事に戻ってきた甥が再びどこかへ姿を消してしまった。尊敬する兄の子供とこれから存分に語り合い、王妃との間に生まれた双子の成長を我が孫のように見守ろうと思っていた矢先、このような事態に陥ってしまった。天国から地獄とはまさにこのことだと、オジロンは深い溜め息をついていた。
「オジロン様、私も北の地に捜索に向かいます。城に残る魔物たちにも話をしてきます」
「サンチョよ、捜索は兵たちに任せるのだ。お前はここに残り……」
オジロンの言葉の途中で、王室内に赤ん坊の泣き声が響き渡った。突然、火が付いたように泣き出したティミーとポピーに最も驚いたのは、二人を抱えていた乳母だった。二人には先ほど乳を飲ませ、寝付いたばかりで、まだ当分は目を覚まさないはずだった。白い包みの中で一生懸命に小さな体をよじって泣きじゃくるティミーとポピーを見て、乳母は二人を同時に抱えていることに限界を感じ、ポピーを傍にいる侍女に渡した。王子と王女の世話係として既に役目を負っている侍女も乳母と同じように包みの中の赤ん坊をあやすが、泣き止む気配がない。
「おお! ティミー様、ポピー様、どうなさいました!」
赤ん坊二人の泣き声にたまらずサンチョが傍に行って声をかける。サンチョが大きな顔でティミーの様子を覗き込むと、ティミーは一瞬驚いた様子で泣き声を止めたが、再び必死になって顔を真っ赤にしながら泣き続けた。小さな体からこれほど大きな声が出るなど、王室にいる全ての者たちが戸惑いを感じた。
「まあ、まあ! こんなにお泣きになるなんて初めてですわ」
乳母がやさしく揺すろうが、歌を歌おうが、ティミーもポピーも目の前の出来事にまるで反応しない。まだ目もよく見えていない二人には、目の前で誰かが微笑みかけてもあまり影響を与えられない。しかし乳母の手による一定の揺れには心地よさを、歌には眠りを誘うはずだが、揺れる感覚も耳も聞こえていないのかと思うほど、王子と王女は必死に泣き声を上げている。共鳴する二人の泣き声は、まるで何かを伝える声のようにも乳母には聞こえた。
「もしやリュカ王と王妃様の身に何か……」
ふと頭の中をよぎる不吉な予感に、乳母は思わず手の中にあるティミーを守るように抱きかかえ直す。乳も与えられ、おしめも替えて間もない二人が泣く原因が何なのかを考えると、自然とそのような不吉な予感が浮かぶのを止められなかった。
「これ! めったな事を言うでないぞ」
「そうですとも! お二人はきっとご無事でございます!」
オジロンとサンチョが乳母の言葉にすぐに反応したのは、彼らの脳裏にも同じ状況がよぎったからだった。リュカとビアンカの無事を信じているのは間違いない。しかしそれとは裏腹に、もしかしたら二人の身に何かが起こったと考えてしまうのは、仕方のないことだった。状況が普通ではないのだ。ビアンカが魔物に攫われ、リュカはその後を追って失踪してしまった。この異常事態の最中、彼らの子供であるティミーとポピーが同時に激しく泣き出し、泣き止まないのはそれなりの理由があると考えてしまうのも無理はなかった。
「ですからティミー様もポピー様もどうかご安心を……」
サンチョは優しくそう話しかけながら、ティミーの白い包みを静かにポンポンと叩くが、その優しい振動を感じているのかいないのか、ティミーは相変わらず激しく泣き続ける。ポピーはあまりに激しく泣いていたためか、声が嗄れ始めていて、そのまま喉を潰してしまうのではないかと心配になるほどだった。このままではこの小さな命が危険にさらされると、乳母も侍女も必死になって二人を泣き止ませようと抱いて揺すり続けた。
「父上と母上はきっと帰ってきます。帰ってきますとも!」
サンチョは周りの皆に言い聞かせるように、自分自身に言い聞かせるように、力強くそう言った。冷静に考えてみれば、リュカは単身で旅に出たわけではない。共に長旅をしてきた魔物の仲間を連れて王妃救出に出かけて行ったのだ。そして長旅を続けてきた彼らには勝算があるに違いない。
サンチョがその命を諦めかけていた幼いリュカは、自力で、魔物の仲間を連れて無事にグランバニアに帰還した。あれほど幼かったリュカが逞しく生き抜いてきた。立派な青年になったリュカが王妃を救う旅に出て、無事に戻ってこないはずがない。落ち着いて考えてみれば、いくらでも希望を持つことができる。同じ歴史を繰り返すまいと強い意志を持っているのは他でもない、リュカ自身のはずだ。
「おお、よしよしよし……」
サンチョはティミーとポピーに父であるリュカの強さを伝えてやりたかった。どのような困難に見舞われようとも、リュカが諦めることはないのだと教えてやりたかった。そう伝えたいと思えば思うほど、ティミーとポピーが叫ぶように泣き声を上げている姿を見るのが辛かった。二人の顔は、かつてパパスがリュカを置いて、妻マーサを探しに行く旅に出ようとしていた時のリュカの泣き顔に瓜二つだった。当時のリュカは生まれたばかりの赤ん坊というわけではなかったが、それでも今の双子の顔は幼い頃のリュカの泣き顔を髣髴とさせた。
二人が何を思い、何を感じてこれほどの泣き声を上げているのかは誰にもわからない。しかしその泣き声は尋常なものではなく、とても生まれたばかりの赤ん坊が出せるような声量ではなかった。しかしサンチョを始め、オジロンも乳母も、城の兵士らも、王子と王女の激しい泣き声を不吉なものなどにしないよう、必死になって二人をあやし、そして各々の心から不安を拭い去ろうとしていた。



あれから幾日かが経ったようだった。盗賊の兄弟はあの後、キメラの翼を使って塔の屋上から脱出し、場所を移した。それからも石像のリュカをせっせと運び、どこかへ移動を続けた。リュカに自分の重さは分からなかったが、石像となった人間を長い距離運ぶのはかなり骨の折れる仕事だろうと想像した。それでも盗賊兄弟にとっては大事な品物であるため、石像のリュカが乱暴に扱われることはなかった。
非常に重量のある石像であるのに兄弟が必死になって運ぶ理由は、立派な石像を高値で取引したいという理由に尽きた。少しでも石像に傷がつけば、商品価値を落として売り物にならなくなってしまう。高い値段で売るために、盗賊の兄弟は石像を大事に大事に扱った。
がやがやと人々のざわめき声が聞こえる。今は頭から布を被せられているようで、何も見ることができない。ただ布の向こう側に白い明りが見えるため、今の時間が夜ではないことだけは分かった。ビアンカも同じ場所にいるのだろうが、その姿を既に数日間目にしていない。とにかくビアンカも傷一つつけられずにここまで運ばれていることを願うしかなかった。
人々のざわめき声は、時折盛り上がりを見せる。リュカが聞こえる音に集中してみると、人々の声は主に前方から飛び交っており、一人一人が何事かを言い、それが終ると木槌か何かで激しく叩く音が聞こえ、人々の歓声が上がるということが繰り返されているのが分かった。リュカは白い布をかけられた状態でその繰り返しを何度も聞いていた。
「さあさあ、いよいよ今日の一番の売り物だよ!」
この数日間聞いていた声がリュカの耳に届いた。聞こえた声はビアンカを運んできた男のようだった。兄弟の兄である盗賊が張りのある声を出し、多くの人々に話しかけているようだ。
「おい!」
「あいよ、兄さん」
弟の声も聞こえる。白い布が揺れるのが見える。どうやら自分が動かされているようだとリュカは気づき、白い布の向こう側の人々の固唾をのむような雰囲気も感じるようだった。
突然、白い布が外され、視界に明るい光が満ちる。眩しくても目を閉じることはできない。一瞬で目がつぶれてしまったかと思ったが、瞬きもできない目に徐々に景色が戻ってくる。リュカの前には多くの人が群れを成してこちらを見ていた。まるで舞台を見上げる観客のように、人々は熱気を醸し、熱のある目でリュカを見つめている。
「どうだい! 見事な石像だろう! これほどの物はめったによそじゃ手に入らないぜ! さあ一万ゴールドからだ! 一万ゴールド、一万ゴールド!」
盗賊の男が人々に向かって威勢よく呼びかける。盗賊を生業としている彼らだが、今はれっきとした商売人だった。あの怪物の塔に忍び込んだ時のような薄汚れた盗賊風情の軽装などではなく、いかにも町の商人の雰囲気を醸す服に身を包んでいた。観客に向かって張り切って声を上げる盗賊の背中をリュカはただじっと見つめる。
「一万二千ゴールド!」
「おっと来たぜ! 一万二千、一万二千! 他にないかっ?」
「一万五千じゃ!」
「よ! じいさん、お目が高い! さあ、一万五千だよ! 一万五千、一万五千、一万五千・・・・・・」
盗賊がゆっくりと観客席を見渡しながら、注意深く一人一人の様子を窺っているようだ。リュカはその盗賊の背中に、楽しんでいる雰囲気と必死な雰囲気の両方を感じていた。考えてみれば、この盗賊にしても命がけでリュカとビアンカの石像をここまで運んできたのだ。死ぬ思いをした労力を考えれば、盗賊らとしては出来るだけ高値で売りたいのは明らかだった。
「一万六千!」
「おっと出ました、一万六千! もうないかっ? 一万六千、一万六千、一万六千……早くしないと買われちまうよ! 滅多に手に入らない見事な芸術品だ! そのうえこの石像は幸運を呼ぶという予言つき! さあさあ、買わなきゃ損だよ!」
盗賊が口走る出まかせに、観客他たちはどよめいた。この場にいる観客たちは恐らくさほど金に困らない人々なのだろう。リュカの目に映る観客たちの格好は豪華なマントに身を包んでいたり、煌びやかな装飾品を身に着けていたり、美しい羽根飾りのついた帽子を被っていたりと、各々が富裕層であることがはっきりと分かった。そして彼らは、唯一金で手に入らない『幸せ』という不確かなものに弱い。ましてや今は昔に比べて魔物の数も増え、物騒な世の中になってきている。その中で幸せが金で手に入れられるのならと、観客席のあちらこちらでは本気で悩み、小さくうなる声を出す者もいた。
「二万!」
ざわざわしていた観客席が、その一声に一瞬、波を打ったように静かになった。手を上げて、ひと際高い値段を叫んだ一人の富豪がリュカにも見えた。おおよその格好はサラボナのルドマンを髣髴とさせる男性だったが、その瞳にはルドマンほどの大物の気配は感じなかった。幸せを呼ぶ石像をどうしても手に入れたいという貪欲な意識が見える富豪に、リュカはどこか自分に通じるものがあるかもしれないと感じた。
「二万! よーし、売ったあっ!」
一つ飛びぬけた値段を言ったその男性に、盗賊は明るい声で呼びかけた。大きな木槌の音が響いた。観客席が歓声に包まれる。二万ゴールドの値を言った富豪の男性が舞台上に呼ばれ、その男性はさらりとした上質なマントをなびかせながら観客席の中の通路を歩いてくる。近づいてくると、その男性が思ったよりも若いことが分かる。少々貫禄の出始めた男性の体形に、リュカは彼が中年よりも上の年齢を想像していたが、せいぜいリュカよりも十歳ほど上のように見え、それほど年を重ねているわけではなさそうだ。口には立派な髭をたくわえ、茶色の髪もしっかりと整えられ、手にはいくつかの指輪がはめられていた。男性は良い決断をしたというようなさっぱりとした顔をして、盗賊の兄の前に立つ。盗賊は富豪の男性に商売用の明るい笑顔を見せると、両手を差し出した。男性も同じように両手を差し出し、互いに握手を交わす。
「お客さん、いい買い物をしたね。じゃあ支払いはそこの男によろしく頼むよ」
富豪の男性は言われるがまま、盗賊の弟に向き直ると、懐から大きな革製の財布を出し、何の迷いもなく二万ゴールドを取り出して渡した。盗賊の弟は渡された札の数を真剣に数え、笑顔を見せると、兄に向かって二度元気に頷いた。
「確かに二万ゴールド受け取ったぜ。さあ持って行ってくんな!」
その声の直後にリュカは視界がぐらりと動いたのを見た。何かの台に乗せられたようで、下のほうでゴロゴロと車が回るような音がする。視界が水平に移動する。観客席は右側に見え、左の視界に一瞬、ビアンカの石像が映り込んだ。しかし彼女は未だ頭から厳重に白い布を被せられており、その姿を見ることはできない。白い布から覗く足元だけが辛うじて視界の端に見えただけだった。舞台が徐々に遠ざかり、観客席の賑わいの中を通り過ぎていく。二万ゴールドの石像を手に入れた富豪はリュカに後姿を見せ、リュカを乗せる台車を引いているのはこの競売場の係りの者のようだった。
「みんな、ありがとうよ! 俺たちお宝兄弟の売り物はこれでおしまいだ!」
舞台の上で、盗賊兄弟の兄が大きな声で観客席に呼びかける。遠ざかり、小さく聞こえるその声に、リュカは耳を疑った。
「あれれ? 兄さん、もう一つの石像は売らなくてよかったの?」
「ああ、こっちはちょっとした当てがあってな」
盗賊兄弟はそれこそ命がけでリュカとビアンカの石像をここまで運んできた。一攫千金を夢見てこの競売場に石像を運び、石像を高値で売った後は儲けた金で楽に暮らしていこうと考えていた。兄弟のそのような話は、ここに着くまでに何度もリュカが耳にしてきたことだった。
この競売場に入り、競売人は順番に自慢の品物を競売にかけ、なるべく高値で落札されるのを待ち、金を手に入れてこの場を去っていく。その順番待ちをしている時に、盗賊兄弟が他の競売人と会話を交わしていたのをリュカは聞いていた。とある競売人がビアンカの石像を目にした時に、感動した様子で自分に譲ってほしいと名乗り出たことがあった。詳しい話の内容は聞こえなかったが、結局ビアンカの石像は舞台上に出されていたため、リュカと同じように競売にかけられたのだと思っていた。
リュカからは名乗り出た人物がどのような者なのかは見えなかった。しかしその者の手の先だけが垣間見えたことがあった。すらりとした人間の手が、紫色のローブの袖のようなところから伸びていた。リュカにはその手が一瞬、真っ青に見えた。悪寒がした。あいつだと思った。
その者は恐らく、途方もない金額を提示して、盗賊兄弟からビアンカの石像を買い取ったに違いないと、今になってそう思い至った。しかしその時、リュカが事態に気が付いてもどうすることもできなかった。それを見越して、かの悪魔はビアンカの石像を買い取ったのだ。
リュカは心の中でビアンカの名を叫んだ。しかしもうビアンカの姿を見ることもできない。彼女もまた、白い布をかけられ、何も見えない状態のまま一人、その場に取り残されてしまった。彼女の不幸を自分が背負えない苦しみに、リュカは自身が張り裂けそうだった。
「それじゃお客さん! またの機会をお楽しみに!」
「待ってよ、兄さん!」
盗賊兄弟の生き生きとした声が聞こえる。競売は引き続き行われていたようだった。どんどん競売場の音は遠ざかり、代わりに自分の足元で鳴り続ける台車の車の音だけがリュカの石の耳に響くようになった。



あの競売の日から幾日経ったのかは分からない。もう過ぎ去る日々を数える気力がリュカには残っていなかった。目を瞑って眠ることもできず、目の前の景色は強制的に目の中に飛び込んでくる。唯一、暗闇にいる時が最も安心できる時だった。何も目にすることがなく、その間は何にも影響を受けることがなかった。心を休められる時だった。
数日間、船に乗せられていたのだろう。暗闇の中での生活は数日間続いたようだった。船倉の積み荷のチェックや食事のための食材を選びに来る船員が出入りする時にだけ、僅かながらリュカのところにも明りが差し込んだ。その時に、自分はまだ生きているのだと感じることができたが、それを感じたところで一体何になるのだろうと、その度に自問自答を繰り返した。
船から降ろされると今度は馬車に寝かせられて乗ることになった。一体ここがどこなのか、全く分からない。徐々に潮騒が遠ざかるが、それほど経たないうちにどうやら目的地に着いたようだった。あまり海から遠くない場所に、リュカを買った富豪の屋敷はあった。
「あっ、旦那様。お帰りなさいませ!」
明るい女性の声が聞こえた。馬車の幌が邪魔してしっかりとは聞き取れなかったが、旦那様と呼ばれた富豪の男性が何か返事をし、どうやら使用人と思われる女性と一言二言会話をしたのが聞こえた。
「奥様、奥様、旦那様が戻られました」
使用人の女性がその場を去って行ったようだ。扉の開く音がして、すぐにそれは閉じられた。その間、富豪の男性の指示により、ここまで石像を運んできた馬車の御者役を務めた男性が石像のリュカを運び出した。外は気持ちよく晴れていたようで、太陽の光が容赦なくリュカの瞳を潰そうとしたが、その感覚も気のせいで、しばらくすると外の景色が見えるようになった。
自分の足元にはすでに台座が用意されており、その上にリュカは立っていた。
目の前には緑豊かな長閑な景色が広がっていた。どこかの町の中という雰囲気はなく、この富豪は人里離れた場所にこうして住んでいるのかも知れないと思わせるほど、他に民家のある様子もなく、ましてや店がある雰囲気もなかった。この富豪は好き好んで町や村などという集落からは距離を置き、手元にある潤沢な資金であらゆる不都合を解消し、この場所で自由に暮らしているのかも知れない。
リュカは目の前に立つ富豪の男性を視界の少し下の方に捉える。リュカが乗せられている石の台座はそれほど大きなものではないようだ。まさか自分が見られているとは思っていない富豪の男性は、誇らしげに口髭を撫でつけながらリュカを見上げている。男性はリュカの周りをぐるぐると回りながら、感嘆の溜め息をついたりしていた。実際には生身の人間がそのまま石像にされてしまった、この世に二つとない芸術品を眺め、男性は満足げに何度も頷いていた。
「あなた、お帰りなさい」
屋敷の扉が開かれた音が後ろに聞こえ、続いて女性の声が聞こえた。先ほどの使用人と思われる女性とは異なり、どこかおっとりとした品を感じさせる高い声だった。そののんびりとした口調に、リュカはふとラインハットのマリアを思い出した。まさか彼女ではあるまいかと思ったが、彼女は今もラインハットでヘンリーと共に暮らしているはずだ。
「ほらジージョちゃん、パパが帰って来ましたよぉ」
「バブバブ……」
女性の声の合間に聞こえるまだ生まれて間もないような赤ん坊の声に、リュカは胸が突き上げられる思いがした。すべての音がくぐもったように聞こえるというのに、どういうわけか赤ん坊の声だけは石像の耳にはっきりと聞こえた。あまりにも鮮明に聞こえたため、リュカは体の石化が解け、手足も動かせるのではないかと思ったほどだった。
「ところであなた、その石像は?」
女性の声が近づき、リュカの視界に入り込んできた。女性はゆったりとしたドレスに身を包み、その腕に小さな白い包みを抱いている。白い包みの中からは小さな二つの手が伸び、元気に動いている。母の顔へと伸びる小さな手は、無条件に母のぬくもりを求めているようにリュカには見えた。
「どうだ、なかなか見事な石像だろう。ジージョも生まれたことだし、我が家の守り神として庭に飾ろうと思ってな」
「まあ、あなたったたらジージョのことばっかり。私へのお土産はございませんの?」
「いや、それはその……わっはっはっはっ。まいったな、どうも……」
決まり悪そうに笑う男性だが、妻である女性も本気で夫を責めるつもりはないようだった。全ては女性が腕に抱く小さな愛しい赤ん坊が彼らの間の空気を丸く柔らかいものにしている。今の彼らにとっては、生まれて間もないこのジージョという赤ん坊が全てなのだろう。
(ティミー……ポピー……)
リュカの脳裏にまだ生まれたばかりの双子の様子が蘇る。あの時、リュカはビアンカを救い出し、グランバニアに戻り、生まれた我が子を妻と二人で腕に抱くつもりだった。子供が生まれ、これから共に育てる喜びを妻ビアンカと分かち合おうと、胸に期待を抱いていた。リュカもビアンカもグランバニアからいなくなった今、双子はグランバニアで無事に生きているのだろうか。リュカにはそう祈り信じることしかできなかった。
「さあ旦那様、お疲れでしょう。中で何か冷たい物でも……」
屋敷の使用人の女性がそう呼びかける言葉に、リュカは今が暑い時なのだろうかと景色を見る。草木は青々と生い茂り、太陽に向かって強く伸びている。照り付ける日差しは強いのだろうが、あいにくとリュカにはその強さを肌に感じることはない。ここでこうして立ち続ける身にとって、暑さ寒さを感じないということはむしろありがたいことなのかも知れないと、リュカは女性が抱く赤ん坊を見つめる。すると腕に抱かれたジージョという赤ん坊がリュカの方を見上げて、仄かにほほ笑んだような気がした。赤ん坊の無垢な笑顔を見るだけで、リュカは嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちを抱いた。
「さあ奥様も」
人々がリュカの視界から消えた。徐々に彼らの声が、足音が遠ざかる。屋敷の扉は重厚なものなのだろう。重々しい音を立てて開いた扉は、間もなくぴたりと閉じられたようだった。リュカの周りではただ草木が風にそよいでいるだけだ。庭の木に止まる鳥の声が小さく聞こえる。音を感じることができ、目の前の物は見ることができる。その状況に、リュカは感謝を抱く反面、全く動かない呪われた身体を忌々しく感じていた。



リュカの時は止まったまま、一年ほどが過ぎたようだった。この辺りには四季があり、季節ごとに異なる景色を見せている。リュカがこの人里離れた屋敷に連れてこられたのは、周囲に青々とした草木が茂る頃だった。そして今、その時と同じような景色が目の前に広がっている。空には眩しいほどの太陽があるようで、あたりの景色を明るく照らしている。ただ暑さも寒さも感じないリュカにとっては、照り付ける日差しもただの景色の一つでしかない。
「あなた、あなたったら、早く出てきてくださいな」
後ろで屋敷の女性の声が聞こえる。はしゃぐような声の合間に、あのジージョという子供の声が聞こえる。まだ言葉を話せるわけではないが、それでも母に何かを訴えようと、恐らく本人は話しているつもりの声を出している。彼らの姿は見えたり見えなかったりするが、天気の良い日はよく屋敷の庭でジージョを遊ばせているため、リュカは子供の成長をその声に感じられるようになっていた。
日差しの強い最中だが、少しの間外で遊ばせようと今日も母子は庭に出ていた。子供も外に出るのが好きなようで、外で遊んでいる時はたいてい機嫌の良い声を出して母と遊んでいる。草の上をさらさらとぎこちなく移動する音が聞こえる。リュカはその音に、まるで自分の子供の成長を見るように集中した。
屋敷の扉が開いた音がし、誰かがゆっくりと歩いて出てくる足音が聞こえた。
「そんな大声を上げて一体何事なんだ?」
屋敷の主人である男性が妻に呼ばれ、やれやれと言った様子で出てきたのが背後に感じられる。しかし呆れたような声を出しつつも、彼の日常に幸せが満ちている様子が声に表れていた。恐らくその表情は微笑んでいるのだろう。
「ほら、あなた見て! ジージョが、ジージョが……」
富豪の妻が興奮した様子で夫に伝えている。背後で起こる出来事を確認する術もなく、リュカはただ彼らの声を頼りに状況を想像する。富豪の妻の興奮が嬉しさから溢れているのは見なくてもわかることだった。
静かな時が流れた。しかしその静けさの中にも、草が不規則に踏まれるような微かな音がそよ風の中に聞こえた。夫婦が固唾をのんでその場を待っているのが感じられる。リュカもただ静かにその時間を待った。
「おお! ジージョもついに歩くようになったか! えらいぞジージョ!」
初めて歩いた我が子を腕に抱き、富豪の男性は嬉しさの余り、子供を抱き上げたまま石像のリュカの周りを小躍りして歩き回った。リュカの前に現れた富豪と腕に抱かれた子供を見て、リュカはやはり置いてきてしまったティミーとポピーのことを思い出す。双子もちょうどこれくらい成長しているのだろうか。無邪気に父の腕の中で笑うジージョを見て、リュカはやはり複雑な気持ちを抱く。
「どれ、もう一度父さんに見せておくれ」
父である男性はジージョを再び草地に下ろすと、向かいにいる妻の方をにこにこと指差して歩いていくよう促す。まだ動きにぎこちなさのあるジージョはそれでも父の指し示す方向に母が立っているのを見ると、自然と笑顔を見せてよろよろと草地の上を歩き始めた。この不規則な音が先ほど背後で聞こえた音だと、リュカは目の前をよちよち歩きするジージョを見ながら思い出した。ジージョは途中で草地の上に四つん這いになったりしつつも、歩けるようになったのが嬉しいのか、再び両足で立ち上がり、母のもとへと向かう。母である屋敷の女性もジージョを迎えに行くことなく、自分のところまで歩いてくるのをただにこやかに待ち続ける。子の成長を嬉しく思う母にとっては、いくら時間をかけて我が子が歩こうが、その時間もすべて愛おしいものなのだろう。
ジージョの小さな手が母に触れた瞬間、母親はたまらず我が子を両手に抱き上げた。大好きな母親に抱き上げられた子供も、声を上げて喜んでいる。その母子の光景は、今のリュカには非常に眩しく感じられた。
「ジージョはアンヨがお上手ねえ」
母が顔を近づけて心から褒めると、ジージョは声を立てて喜ぶように弾ける笑顔を見せた。目の前で繰り広げられる母子の映像は、リュカにとって、ビアンカと双子たちそのものだった。何故彼女らは自分の目の前にいないのだろう。目の前にあって当然だった幸せが、あの瞬間に、どこか遠くへ消え去ってしまった。
「…………」
ジージョの成長を共に喜んでいた父がふと黙り込み、妻の腕に抱かれるジージョを真剣に見つめる。その表情には明らかな不安が表れていた。
「……どうしたの、あなた? 急に黙ってしまって」
突然の不自然な沈黙に、当然気が付いた妻は同じような怪訝な顔を見せて夫の顔を覗き込む。夫は口に蓄えた髭を指先で整えつつ、小さな溜め息を漏らした。
「いや……最近何かと良くないウワサを耳にしてな。せめてこのジージョが大きくなるまでは……」
リュカがこの人里離れた屋敷に連れてこられておおよそ一年が経つ。その間に世界にはびこる魔物の数が増えていた。実際、この屋敷にも何度か魔物が侵入しようと試みていたのをリュカは知っている。しかし魔物らは庭に建てられているリュカの石像を目にすると、何かを感じるようにこの場を去ってしまっていた。
「大丈夫ですよ、あなた」
そう言うと、富豪の妻は石像であるリュカに歩み寄ってくる。母の腕に抱かれたジージョがまだ言葉にならない言葉で母に話しかけている。小さな手が母の顔に伸び、ぺたぺたと触り、安心したような顔を見せた。
「だって我が家にはあなたが一年前に買ってきてくれたこの守り神の石像があるのですものね」
「そ、そうだったな。わっはっはっはっ」
一年ほど前、盗賊兄弟が守り神と嘯かれなければ、リュカがこの屋敷に運ばれることはなかった。盗賊の兄はリュカの石像を高値で売るために咄嗟に守り神などという箔をつけたのだろうが、その結果こうしてリュカは無傷のまま屋敷に運ばれることになった。もしあの場で違う人物がリュカを落札し、手に入れたとして、果たしてこれほど丁寧に扱われ、無傷のままいられたかどうかは分からない。乱雑な扱いを受ければたちまち石像のリュカは壊れてしまう。
石の呪いを受けながらも、リュカはまだ自分は運が良い方だと思った。意識があり、目の前には幸せな家庭があり、守り神として丁寧な扱いを受けている。外に置かれているため風雨にさらされてはいるが、定期的に屋敷の使用人が石像を磨いてくれるため、きれいなまま保たれている。自分はまだ運に見放されているわけではない。リュカよりも美しい石像として他の場所へ行ってしまったビアンカも恐らくリュカ以上の丁寧な扱いを受け、そのままの姿を保ってくれているに違いないと、リュカは希望を捨てなかった。必ずいつか妻を救い出すことを、リュカは心の奥底に溜め、日々積もらせていた。



夏の暑い日が続いた。当然、石像のリュカには夏の暑さなどは感じず、ただ目の前の景色が青々としている季節なのだと、それだけを目にすることができた。日中は容赦なく強い日差しがリュカの頭上から照っているが、石像であるリュカにその熱は何の問題にもならない。鳥が肩に止まって話しかけても、リュカは返事をすることもできず、ただその話し声に耳を傾けるだけだ。ただそうして周りの時が動いていると感じると、リュカの時も動き続けていると思うことができるのは救いだった。
夕暮れ近くになり、夏の暑さも大分落ち着いてくる頃になると、屋敷から母と子供が出て来て広い庭で遊び始めることが多かった。今日も陽の光が大分柔らかくなった頃、庭で遊びまわるジージョの声がリュカの耳にも届いた。
「まあまあ、ジージョったら、そんなにはしゃぐと転びますよっ」
「わーいわーい」
リュカの周りを元気に走り回るジージョという少年はもう四歳か五歳になっているはずだった。すくすくと元気に育ち、体も丈夫なようで、この暑い夏の日でも毎日のように夕方外に出てはこうして走り回って遊んでいる。町や村の中に住んでいるわけではないため、友達が近くにいるということもないが、それでも両親の愛情を受けてまっすぐに育っている。
こうして目の前で子供が無事に成長する姿を見て、リュカは我が子ではないにも関わらず嬉しさを感じていた。ジージョの成長に、ティミーとポピーの成長を重ねて見ることができた。ジージョが走り回っているのを見れば、ティミーもポピーもグランバニアの城を庭のようにして走り回っているのだろうかと想像することができる。リュカには双子の我が子の元気な成長を想像し、彼らが無事に生きていることを願うのがもはや生き甲斐のようなものだった。
少々無鉄砲なところのあるジージョは、母親が少しでも目を離すと屋敷の外に飛び出しかねない危険を持っていた。外の世界に興味があるのだろう。今までは屋敷の中でも十分な広さを感じていたが、成長するにしたがって次第にいつも目にしている屋敷の景色よりも外の景色を見たいと思うようになるのも当然だった。
今日も母親が少し離れたところで庭の花の様子を見ているのを見て、ジージョは庭の柵を乗り越えて外に出ようとしていた。少しくらいなら大丈夫という感覚ではなく、母の目の届くところにいればどこに行ったって大丈夫という感覚なのかも知れない。リュカは視界に映るジージョの後ろ姿を見ながら、それも仕方がないとは思いつつ、内心ではすぐに戻りなさいと呼びかけていた。
いつもならそのまま遊びの時間は終わり、もっと遊びたいと文句を言いながらも夕日を背中に浴びて母と共に屋敷の中に入るジージョだったが、今日は違った。
庭の柵に上りかけていたジージョの前に、空からの侵入者が現れた。ホークマン二体が突如リュカの視界に入り込み、幼いジージョを取り囲むように蝙蝠のような翼を広げる。突然禍々しい空気に包まれた目の前の景色に、ジージョの母が息を呑む。
「ジ、ジージョ、こっちへいらっしゃい……」
母は辛うじて息子に声をかけた。ホークマン二体を前にして、戦いを知らない女性一人ではどうすることもできない。まだ幼いとは言え、言葉を理解し、自分の足で走ることもできる子供の力に頼るしか術がなかった。
「おじちゃんたち、だれ?」
ジージョは幸か不幸か、今までまともに魔物の姿を目にすることがなかった。目の前に人間とは異なる姿をした者が現れても、その者を魔物と認識できなかったようだ。この屋敷の主人も妻も使用人も、ジージョを平和の中に育て、危険を危険と教えないまま育てていたのかも知れない。ジージョは目の前の者が悪い者だというようには理解できなかった。
「ジージョ!」
母が必死な声で呼びかけても、平和の中に住んでいるジージョにとっては目の前の者に対する好奇心のほうが勝ってしまっていた。見たこともない形をした者がいることに、ジージョは危険を感じるよりもむしろ目を輝かせてホークマンを見つめている。
「ケケケ! この子供か?」
「さあ、わからねえな。しかし間違えたって、ドレイとして使えばいいだろう。ケケケ!」
「そうさな。子供なら大人と違って言うことを聞かせやすいし」
ジージョにとってはホークマンの話す意味がまだよく分からないのだろう。首を傾げてその場でホークマンを見上げている。リュカも今のジージョほどの年齢だった時、「ドレイ」などという言葉の意味は分からなかった。しかしその言葉が持つおぞましい雰囲気を感じ取ることはできただろう。それだけリュカは幼い頃から危険と隣り合わせの人生を送り、危険を察知する能力には長けていたのかも知れない。
「や、やめて……その子は……」
今、魔物から子供を救えるのは自分しかいないのだと、母は自身を奮い立たせジージョに駆け寄ろうとした。母が駆けてくる姿を見て、ジージョは思わず笑顔になる。しかしホークマンに容赦なく突き飛ばされた母を見た瞬間、ジージョから笑顔が消えた。母のところへ戻ろうとしたジージョの服をホークマンがつかみ、その小さな体を小脇に抱え込む。そしてホークマンは空に飛び立ち、あっという間にどこかへ飛び去ってしまった。
母親の泣き叫ぶ声が屋敷の庭に響く。リュカは目の前で起こった出来事が信じられなかった。今までも屋敷のすぐ傍に魔物の姿を見たことは何度もあった。しかし人里離れたこの一軒の屋敷を無暗に襲うような魔物もこれまではいなかった。魔物が屋敷を襲わない理由は、石像である自分にもその力があるのだとリュカは思っていた。本来は生身の人間だった石像に特別な力を感じ、魔物らはこの屋敷を襲わずに見ているだけなのだとリュカは心のどこかでそう信じていた。
しかし空からの侵入者は容赦なくジージョを連れ去ってしまった。リュカには魔物を遠ざける力など微塵もないのだと、思い知らされた。これまでは運良く魔物の襲撃を逃れていただけなのだと分かった。
「ど、どうしたんだっ!? 一体何があったんだっ!?」
妻の叫び声を聞いて、屋敷から慌てふためいて夫が飛び出してきた。屋敷の中で寛いでいたのだろうか、楽な部屋着を着たままの姿で庭に飛び出し、妻に駆け寄る。
「あ、あなた! ジ、ジージョが、ジージョが怪物たちに……!」
「な、なんとっ!」
夫に詳しく状況を伝えられるほど妻は落ち着いておらず、全てを伝えないまま再び泣き叫んでしまった。魔物と戦う術など持たない女性が、あの状況でできることはほとんどないとリュカは思った。子供を守れなかった母親の姿を見ていられず、リュカは彼女から目を背けたかったが、身動きの取れない石のリュカにはそうすることもできなかった。
屋敷の主人は庭にジージョがいないことと、妻が取り乱して泣き叫んでいることで状況を察し、すぐに屋敷周辺を捜索し始めようとした。富豪の男性は仕事でしばしば外の世界を出歩くこともあり、魔物との戦いにもいくらか対応できる。使用人を呼びつけ、手短に状況を説明すると、すぐに屋敷の周囲を慌ただしく捜索し始めた。愛する我が子を探し始める必死な父親と、打ちひしがれて草地に座り込んだままの母親の姿を目にしながら、リュカは無力な自分の存在を呪うほか何もできなかった。

「あれからもうひと月。私たちのかわいいジージョは今頃どこに……」
ジージョが魔物に連れ去られて以来、父親である屋敷の主人は子供の捜索を行い続けていた。使用人を各方面へ旅立たせ、子供の情報を手に入れようとしていた。彼自身も屋敷を空け、愛する我が子の行方を調べるために遠くへ足を運ぶこともあった。しかし目の前で子供を連れ去られてしまった妻の心労が大きく、床に臥せてしまったため、彼は長く屋敷を空けることもできずに妻の傍についている必要もあった。
屋敷の使用人が各方面へ出て行ってしまっているため、庭の草は伸び放題で、荒れ地のようになっていた。その中に一人佇む屋敷の主人も、かつてのふくよかな体形からかなりやつれてしまい、大きくなってしまった服をみすぼらしく引きずるようにして着ていた。たったひと月でこれほど痩せてしまった富豪だが、それでも子供の無事を諦めるようなことはなく、今も精力的に捜索の手を各方面に伸ばしていた。
「旦那様」
荒れた庭に一人の男が姿を現した。その者をリュカは知っている。この屋敷で使用人の一人として働くまだ若い男性だった。キメラの翼でこの屋敷まで戻ってきた彼の旅装は少々くたびれた様子で、魔物との戦闘もしたような服の破れも見受けられた。
「やっ、クラウド戻ったな! で、どうなんだ? ジージョのことが少しでも?」
富豪の男性は心労など忘れ、庭を走り使用人を出迎えた。しかしその暗い表情に気づくと、男性は駆けていた足を止めてしまった。使用人のクラウドという男も険しい顔つきのまま、屋敷の主に重々しい口を開く。
「いえ、旦那様、それがさっぱりでさ」
「そ、そうか……。ごくろうだったな……」
もう何度目になるか分からない救いのない報告に、主人はがくりと頭を垂れた。最愛の息子ジージョが連れ去られてひと月になるが、その間一秒たりとも気の休まる時がなかった。魔物に連れ去られたジージョは今頃どうしているのか。無事なのか。たとえ無事であっても良い目に遭っているわけがない。妻の話によれば魔物は空から降りて来て、ジージョを抱きかかえると空に飛び立ってしまったという。何も手掛かりのないまま始めた息子の捜索は、ひと月経ってもまるで進展のないまま、ただ息子の無事を案じる気持ちだけが日増しに膨らんでいくだけだった。
魔物も多く出没する中、命がけで息子の捜索をしてくれている使用人にこの鬱屈した気持ちをぶつけることはできなかった。彼らは屋敷の主人の命令でこの屋敷を離れ、危険を承知の上ジージョを探す旅に出ているのだ。屋敷の主人は使用人たちの強さと優しさに感謝していた。
使用人がふらふらと屋敷に入る後姿を見守る主人の目に、一つだけずっと変わらず立ち続ける石像の姿が映りこんだ。石像を手に入れた時はジージョが生まれたばかりで、これから子供の未来を守るためにと奮発してこの石像を手に入れた。守り神と言われ、高値で売られていた石像だが、勇ましい顔つきをした男の石像に、屋敷の主人は唐突に怒りがこみあげてくるのを止められなかった。
「ええいっ! 何が守り神だっ!」
彼の怒りの声がリュカの耳に響いた。リュカはその鋭い声が胸に突き刺さるのを感じた。視界がぐらりと揺れる。荒れた草地の中に倒れこんだリュカは、視界が草に覆われ、ほとんど何も見えなくなってしまった。屋敷の主人に倒されたのだと分かった。
「こいつめ! こうしてやる、こうしてやる!」
激しい音が聞こえ、その度に視界が大きく揺れる。しかし痛みも何も感じないため、状況を想像することしかできない。屋敷の主人が石像にやりようのない怒りをぶつけているのが分かる。せめて痛みを感じることができれば、少しはこの主人の怒りを和らげることができただろうかと、リュカは石化している自分の身体を呪うしかない。
「旦那様、旦那様! どうか落ち着いて!」
主人の異常な様子に気づいた使用人が、入りかけた屋敷から出てきて慌てて主人の荒れた行動を止めた。後ろから羽交い絞めにされた主人は肩で息をして、咳き込んだりしている。彼自身、息子の身を最も案じる人物として心労を重ね、体力もこのひと月で大分落ちてしまっていた。少しの荒れた行動で激しく疲れたようで、その場に力なく膝をついた。
「ほら旦那様、言わんこっちゃねえ。そんなに息を切らせて。さあ、家の中で少し横になったほうが」
「ああ、うむ……」
使用人に支えられるようにして、屋敷の主人は庭を歩いて行ったようだ。草地に倒れたリュカはその音が遠くなっていくのを耳にするだけで、その姿を見ることはできない。少しして後方で扉が閉じられた音がした。リュカの前には濃い緑色があるだけで、もう外の景色を見ることは出来なくなってしまった。泣きたくても涙も出ない。悔しくても顔をゆがめることもできない。死にたくても自分に手をかけることもできない。できることはただこうして目の前のものを見て、周りの音を聞いて、頭で考えることだけだ。
(それが……何になるっていうんだ……)
何を見ても聞いても、リュカから誰かにそれを伝えることは一切できない。ジージョが魔物に連れ去られた時も、母親が魔物に殴られ倒された時も、屋敷の主人が日に日に心労でやせ衰えていっても、使用人らがジージョの捜索に旅に出ても、石像であるリュカにはそれらを見たり聞いたりすることしかできないのだ。よっぽど旅慣れた自分がジージョを探しに旅に出たいと思っていた。リュカは自分の無力のせいで幼いジージョが連れ去られ、屋敷の人々を不幸にしてしまったも同然だと思っていた。
ビアンカの行方も全く分かっていない。一体彼女はどこに連れて行かれたのか、石像であるリュカにはそれを知る術もない。彼女が無事であることを願うばかりだが、その気持ちも今は薄れ始めていた。果たして無事でいることが良いのかどうかも分からない。恐らく彼女も今のリュカと同じような状況で、何かを見聞きできるだけの状態で、その時その時を苦痛に感じているに違いない。彼女にとっての幸せは、温かい腕でティミーとポピーを腕に抱くことだ。それができないとなっては、一体彼女の幸せはどこにあるのだろう。
彼女の幸せを奪ったのも自分なのだと、リュカは心を閉ざしていく。自分がグランバニアの国王になどならなければ、彼女を巻き込むこともなかった。グランバニアに向かわなければ、彼女と結婚しなければ、彼女と再会しなければ、彼女と出会わなければ、彼女を不幸にすることはなかった。リュカは心の中の暗い渦に飲み込まれかけていた。そして、飲み込まれることを自ら望むようになっていた。

思考は止まってくれない。それはリュカの周りで時間が容赦なく過ぎていくからだった。時間を止めない限り、思考は止まらない。自ら死ぬこともできないリュカには、思考も時も止めることができない。ゲマの放った石化の呪いは死ぬよりも辛いことなのだと、リュカは敵への怒りを沸々と感じるが、それもすぐに収まってしまう。怒りを感じたところで、何もできないのだ。無気力にならざるを得ない毎日を、リュカはただただ過ごしていた。
草地の間から夕方の柔らかい陽光が見える。夜になればすぐ近くで虫の音が聞こえる。朝には絶望的な朝日の力を感じる。一日一日が淡々と過ぎ、緑色だった草地の景色が枯れたような色に変わり、はらはらと降ってくる雪が積もり、右半分が雪で埋め尽くされたこともあった。そのうち雪も解けて春が来ると、草地の間に虫たちが活気づき、魔物が増えた世界など関係なく彼らはせっせとその日を生きていた。夏が来て、草むらが青々としてきたら、あれから一年が過ぎたのだろうかとぼんやりと思ったりした。
何もしなくても、時間は勝手に流れていった。どんどん考える力が鈍っていくのを感じた。しかしそれで良いと思っていた。このまま考える力を失い、目も耳も聞こえなくなればいいと思った。希望を失ったリュカは、そのまま自分が静かに尽きていくのを待っていた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    まあ…このあたりは、トラウマになるシーンの一つですね。
    ゲーム本編では、セーブもできないまま、数十分イベントが続き、最後はレクイエムの曲が永遠に流れ、ループするという。
    おそらくドラクエ5は、レクイエム曲をかならず全部視聴できるシリーズの一つですね。
    だいたいのプレーヤーは全滅したらボタン連打ですもんね(笑み)

    bibiさま、まさか石像になっても、意識があり、少し見えていて、耳も聞こえる設定にするなんて、これまた想定外でした。
    まあそうでないとゲマの言う、世界の終わりを見なさいという意味が通らなくなりますな。
    bibi様、ここまでリュカ石像の心情を描写できていらっしゃいますから、できればビアンカ石像の心の描写もして欲しかったです…。
    リュカの葛藤…やるせなさ…少ない希望…守り神としての気持ち…そして、どうしようもない罪悪感と絶望感…。
    bibi様お見事です!

    ビアンカ石像、まさかゲマが商人に変装していたなんて…。
    このあたりの辻褄をどのようにするか楽しみにしていました。
    ゲーム本編では光の教団に運ばれた描写はありませんから。
    これなら納得の描写です。

    ジージョパパの攻撃はリュカ石像にはダメージが無く、石像が欠けてしまうこともなかったですね(笑み)。

    ピエールのこの数年間の心情が本当に可哀想…。
    やけになっていなければいいんだけど…。

    bibi様
    次回は、とうとうサンチョ、ティミー、ポピー3人の登場しーんになりますか?
    石像から覚めたリュカがジージョパパに何を言うか…。
    ゲームでは無言で驚くだけですしね。
    もしくは、サンチョ、ポピー、ティミーのリュカ捜索オリジナルストーリーをbibi様作れそうですか?
    次回も楽しみにしております。

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。
      この場面はゲームの中で最も辛いところですね。ただひたすら話が進むのを待つというのも……。
      どん底に落とされた後の救いが待ち遠しいところです。
      今回、ビアンカの方も書こうかとは思ったんですが、あくまでもDQ5は主人公の物語としてあるのかなと思ったので、リュカ視点だけで進めさせてもらいました。
      でも、少しくらいはビアンカの心情も入れた方が良かったかな……。
      ただビアンカが何故あの場所に連れて行かれたのかと考えた時、やはり黒幕がいるだろうなと、そこだけは付け足させてもらいました。
      石像リュカが倒されたのが柔らかい草の上だったので、難を逃れました。ここで壊れたら、話が終わるところでした。危ない危ない……。

      次回はゲーム通りに進めてしまおうかと思っていたんですが、石化している間の8年間が気になりますよねぇ。サイドストーリーで書こうかどうか、思案中です。
      私としては、早く先に進めたい……! でも間の時間もちょっと書いてみたい……。ちょっと考えてみます。

  2. ピピン より:

    bibiさん

    リュカの体験する不幸の中でも、やはりこの石化イベントは群を抜いて残酷ですね…。
    あのパパスの死や奴隷生活もヘンリーという存在に助けられましたが、今回は誰も助けてくれる人は無く…絶望を絶望で塗り潰すような心境でしょう。
    常人ならば正気を保っていられないはず…

    当のリュカもだいぶ危ない感じですが、子供達と再会した今のリュカが失われた時間と自分をどう取り戻していくのか、とても楽しみです。

    • bibi より:

      ピピン 様

      いつもコメントをどうもありがとうございます。
      この場面は、画面を見ながら涙を流していた記憶があります。当時、多感な時期だったこともあり……辛かった。
      本当に常人だったら狂ってしまっているでしょうね。私なら到底耐えられません。リュカもギリギリだったんじゃないかと思います。
      これから大いに救われてほしいと思います。彼の子供たちが、物理的にだけではなく心理的に彼を救ってくれるよう、描けたらと思います。

  3. ピピン より:

    bibiさん

    自分も似たようなもので、あまりの衝撃に呆然となった記憶があります。
    ビアンカが拐われただけでも辛かったのにここまでするのかと…( TーT 😉

    空白の8年間、自分も読みたいですが、そうすると先に進めないジレンマ…
    なので、次回は一段落だけ触れて、あとは回想で小出しにしていくといった形はいかがでしょうか。

    • ピピン より:

      変な絵文字が入ってしまいました( ´∀` 😉

    • bibi より:

      ピピン 様

      このDQ5は子供の心にある種のトラウマを残しますよね……。だからこうして大人になって、補完的な話を書きたくなるという。救いを求める感じかしら……^^;
      空白の8年間はリュカにとってもそうですが、城に残された人々にとってもかなり重いものですよね。本当はそこを補いたい気持ちですが……回想で小出し、なるほど。上手くできればいいのですが。挑戦してみようかな。

  4. ピピン より:

    bibiさん

    自分がプレイしたのは大人になってからでしたが、だからこそそれまでの王道ドラクエとは一線を画すヘビーな展開や演出が衝撃的でした。
    結婚イベントやビアンカとのやり取りとか、子供の頃だったらどう受け取っていたか…(*´∀`)

    特にサンチョの心労を思うとやりきれないですよね…

    やっぱり何よりもbibiさんの思い描く5の物語を読みたいというか、作者それぞれの解釈が二次創作の醍醐味だと思うので…空白の8年を素通りしちゃうのは勿体無い!(笑)

    • bibi より:

      ピピン 様

      ゲームって子供の頃にプレイするか、大人になってからプレイするかで大分印象も変わりそうですね。小さい頃に楽しく見たトトロを大人になってから見ると、メチャクチャ泣ける、みたいな。
      DQ5も子供の頃にプレイしたら、結婚イベントや出産イベントを憧れのような感じで見るのかも知れないけど、大人になってから見ると近い将来のように見たり、現在進行形で見たりと、見方が変わってきて面白いんじゃないかと思います。だから大人になってもう一度プレイしたくなるんだなぁ、このゲーム。
      今はもうサンチョの気持ちが一番分かる年齢になってきているので、もういっそのことサンチョの物語を書きたいくらいです(笑)
      空白の8年の間にもいろいろとありますもんね。リュカやビアンカ自身にもそうですが、主に子供たちと城の人達が……ねぇ。
      でも、今は思い切ってグランバニアから離れて、ラインハット辺りを書いてみたい気もしています。うーむ。書きたいことがありすぎるので、どうにか端折っていかないと……。

  5. ピピン より:

    bibiさん

    下手したらお嫁さんの好みすら変わってる可能性もありますね。
    プレイ前は結婚イベント自体気が進まなかったくらいなので…、子供の頃でSFC版ならアイテム目当てでフローラを選んでた可能性も…
    本当に会話システムの存在は大きかった…

    子供達の話はヤバいです。絶対に泣く自信があります(笑)
    サンチョを除けばやはりドリス、魔物達、ピピンは子供達の救いになってくれてそう。

    ラインハット…、救国の英雄の危機ですから恩返しのチャンスですよね。
    ストロスの杖関連でも。

    • bibi より:

      ピピン 様

      会話システムでDQ5は話にかなり深みが出たように思います。確かにお嫁さん選びにも影響しますね。……でも、会話システムありでもフローラさんとの結婚後の会話って、結構楽しいんですよね。フローラさんは結婚してから徐々に愛を育む感じが惹かれたりもします。
      グランバニアを舞台にした8年も当然書きたいんですけどね。大事だし。とりあえずラインハットで一つ、書いてみたいと思います。そうそう、ストロスの杖もゲーム上では急に登場するから、その辺の話も欲しいところですね。どうしよう……。

  6. ロビン より:

    bibiさん

    初めまして。
    ロビンと申します。

    11月下旬にこちらのサイトにたどり着いて以来、少しずつ読み進めてきて、
    ようやく最新話まで追いつきました。

    DQ3やDQ5が大好きで、二次小説をたくさん呼んできましたが、
    一番のお気に入りだったサイトが閉鎖されていることに気付き、
    悲しみの中で「ドラクエ 二次小説」などと検索し、こちらにたどり着きました^^;

    他の方も仰っておられるかと思いますが、
    原作の世界観を壊さないようにしながら、bibiさんの解釈が上手く融合されていて、
    原作では描写されていない登場人物の心理状態や背景など、すごく丁寧に書かれていて読みやすいです!

    これからもちょくちょく覗きに来させていただきます。
    寒い日が続きますが、ご自愛なさりながら、素敵な物語を描き続けてください。

    • bibi より:

      ロビン 様

      初めまして。コメントをいただきましてどうもありがとうございます。
      ほぼひと月かからずにここまで読んでしまいましたか……。これから遅々として進まないのでご容赦くださいm(_ _)m

      多くの二次小説をお読みになっているんですね。その中でも当サイトにお越しいただいて誠にありがたく存じます。
      私自身ももちろんDQ5が大好きなので、こうして自分なりの解釈を織り交ぜながら、勝手にもお話を書いております。ゲームをプレイすると、いろいろと補いたくなる性分なもので……。

      これからもゆっくりペースではありますが、書き進めてまいりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします^^

  7. ロビン より:

    bibiさん

    お返事ありがとうございます。

    このあたりのところは物語上、大事ですよね……
    主人公が石化から戻るまでの間だけの部分で話を完結させていたサイトもありました。
    bibiさんがこれからどういう風に話を展開させていかれるのか、楽しみに待たせていただきますね。

    ゲームをプレイするといろいろ想像が膨らみますよね。
    DQ5はたぶん30周くらいしたと思いますが、その度に新たな楽しさがあります。
    私は文章を読むのは大好きだけど書く才能は無いようですが…(;´・ω・)w

    今後ともよろしくお願いします!

    • bibi より:

      ロビン 様

      主人公が石化から戻るまでの間で話を完結する……分かる気がします。私もできればそれくらいじっくり描いていきたい。
      これからどう展開させるか、悩みどころです。今、まさに悩んでいます。でも楽しんで書いていきたいと思います。
      DQは想像が掻き立てられるゲームだと思います。想像の余地が大いにあるので、ゲームそのもの以上の楽しみ方ができます。ありがたいことです。
      文章をよく読まれるのならば、きっとロビンさんもお書きになれるのではないでしょうか。30周しているなんて、私よりよっぽど濃いお話を書いていただけそうです。

      今後ものんびり更新ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

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