おめでた

 

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「ひえぇっ!」
サンチョが叫び声を上げるのも当然だった。信じられないことに、茂みに隠れていたはずのプックルが堂々と姿を現し、警戒もなくただ家の横に行儀よく座っていたのだ。プックルは青く澄んだ瞳でじっとサンチョを見上げている。初めは驚いて飛び上がったサンチョだったが、プックルが唸り声も上げずに静かに見つめている姿を見て、自らもその魔物の目を見つめる。
「プックル、どうして出てきちゃったんだ」
「がうがう」
「坊ちゃん、その魔物は……」
サンチョはそこで言葉を切り、再びプックルをじっと見つめる。見ているうちにプックルの身体は徐々に縮み、まるで大きな猫ほどの大きさになり、サンチョの記憶の中を歩き始めた。
リュカがまだ幼い頃、突然猫を飼うのだと連れてきた大きな猫がいた。アルカパから連れてきた猫はリュカにはよく懐いていたが、パパスやサンチョにはしばらく懐かず、餌をやっても警戒を怠らずに素早く食べ、すぐにパパスやサンチョからは離れてしまっていた。しかし何度も餌をやっているうちに、大きな猫はサンチョのことをリュカの親のようなものだと理解したようで、それからも特に懐きはしないものの、警戒することなく普通に接することができるようになった。
「あの時の猫だよ。まさかこんなに大きくなるなんて思わなかったけどさ」
「にゃう」
「キラーパンサーの子供だったんですね。この猫とずっと一緒に?」
「旅の途中でね、偶然再会したんだ。ビアンカはその後に再会したんだよ」
「それではもう何年も会っていなかったんですよね? それでよく坊ちゃんが分かりましたね、このキラーパンサーは」
魔物が人間に恩を感じ、数年たってもその相手を覚えているなど、通常では考えられないことだった。魔物と人間が仲良くするというだけで異質なことだというのに、リュカはそれを異質なことだとは考えていない。プックルを撫でるリュカの姿を見ながら、サンチョは目を細めて同じようなことをしていた女性の姿と重ねて見る。
「サンチョさんになら大丈夫なんじゃないかしら?」
「何ですか、ビアンカちゃん?」
「ねえ、みんな、紹介するから出ておいで」
ビアンカが呼びかけると、茂みの中からぞろぞろと魔物の仲間たちが姿を現した。がさがさと動く草の葉にサンチョは思わず戦いの構えを取ったが、初めに姿を現したマーリンにサンチョは無駄に緊張していた体の力を抜いた。しかし続いて出てきたピエール、スラりんに目を丸くし、ゆらりと出てきた熊のようなガンドフに腰を抜かしかけ、空を飛ぶメッキーに口をあんぐりと開け、地面をドシンドシンと歩いてい来るマッドには思わず「ひっ!」と息をのんだ。
「驚くのも当然だけど、みんな僕の仲間なんだ。みんなと一緒に旅をしてきたんだよ」
「魔物の……仲間……」
「絶対にグランバニアの人達には迷惑かけないから、しばらくここにいさせてもらっても……」
リュカがそう言いかけたところで、サンチョは突然笑い出してしまった。リュカもビアンカも、魔物の仲間たちでさえもきょとんと目を丸くし、笑うサンチョの姿を見守っている。
「坊ちゃんを早くマーサ様に会わせたいなぁと、思ってしまいました。きっと『ようやく話の分かる人に出会えた』とお喜びになるに違いありません」
リュカの行動はまるでグランバニア王妃マーサと同じだと、サンチョは笑いながら目に涙を滲ませていた。マーサが魔物に近づくと、パパスは決まって離れろときつく言っていたが、それでもマーサは魔物との対話を止めなかった。魔物はただ魔物というわけではない、魔物にも心はあるのだと、マーサは強く信じ、どんな魔物にも対話を試みるのを忘れなかった。
「ああ、どうして坊ちゃんがマーサ様と離れ離れにならなければならなかったのでしょう……。あの時のことを悔やんでも悔やみきれません……」
サンチョの言う「あの時」という時を、リュカは想像することすらできない。生前、父に何かを聞いたこともなく、グランバニアが自分の生まれ故郷だということもつい先ほど確信を得たばかりなのだ。サンチョはこの国のことや父のこと、母のことを色々と知っているが、リュカは何一つ知らないに等しい状況だ。
ただ、それだけにサンチョが背負ってきたものや年月は大きく重い。一人でどれだけのものを背負ってきたのか、毎日教会に通い祈りを捧げようとも、背中に乗る重荷が軽くなることはなかっただろう。
「坊ちゃん、マーサ様に感謝してくださいね。このグランバニアには魔物たちが入れる場所があるのです。後程、皆さんをそちらに案内しましょう」
「えっ、本当に?」
「本当ですとも。城内に魔物たちが住む一角があるのです。かつてパパス様がマーサ様にせがまれて作った場所なのです。そこになら、坊ちゃんのお仲間も入ってもらえるでしょう」
サンチョの言葉にリュカのみならず、魔物の仲間たちが浮足立つ。プックルはまだ小さい頃にリュカやビアンカと町の中で一緒に遊んだことがあるが、それも遠い昔の話だ。マーリンだけはルラフェンの町を散策した過去があったが、他の仲間たちは人間の町に入ることなど考えたこともない。リュカと共にこのグランバニアを目指している時、人間と魔物が共に暮らせる町や村を自分たちで築けたら良いなどと夢のような話をしていたが、それに近い現実があるのだと分かると、皆揃って気持ちが高ぶる。
「それは本当か? そんな夢のような場所があるとはのう」
「我々が人間の城の中に入れるのですか? ……緊張しますなぁ」
「ピキーピキー」
「ニンゲン、オトモダチ、デキル?」
「きっとできるわよ、ガンドフ。嬉しいな、みんなと一緒に城の中に入れるなんて」
そう言いながらビアンカがプックルを撫でると、プックルも嬉しそうにビアンカの足にじゃれつく。メッキーも人間の城の中がどんなものなのか興味津々の目で城を見つめ、マッドはまだ事情が呑み込めていないのか、喜ぶという感情ではなく、ただ仲間たちが嬉しそうにしているのでそれが楽しいといった様子で地面を踏み鳴らしている。
「ただちょっと待っていてください。まずは坊ちゃんが帰ってきた報告をしなければなりません。お仲間に城に入ってもらうのはその後になりますので……」
「それはそうですね。リュカ殿、私たちは引き続きこちらでお待ちしています」
「お主の務めを果たしてまいれ。やらねばならんことがあるのじゃろう?」
「うん。じゃあちょっと待っててね。用が済んだらすぐにみんなの所に来るからね」
リュカは自分がどのような立場の人間なのかをすっかり失念していた。ただ今まで共に長い旅をしてきた仲間を受け入れられる場所があることが嬉しく、本当だったらすぐにでも仲間たちのことを話して真っ先に城に入ってもらいたい気分だった。サンチョが生きてこの場所にいてくれたこと、仲間の皆がグランバニアに受け入れられること、リュカはようやくこの時本当の安息を得られたような気がした。
「さあ、サンチョさん、行きましょう。早く話をしないとね」
「そうですな。では参りましょう、坊ちゃん」
「うん、よろしくね、サンチョ」
そう言葉を交わすと、リュカたちはサンチョを先頭に三人でグランバニアの城の中へと入っていく。魔物の仲間たちは城の入口付近で、再び主人の帰りを待つべく、人気のない茂みに入ったり、堂々と周囲を散策したりして時間を過ごした。
リュカたちは再びグランバニア城下町に入る。しかし先頭を歩くサンチョは城下町に入ることなく、正面に大きく構える階段に向かう。リュカもビアンカも初めてグランバニアの城下町に入った時にその階段を見たはずだったが、城の兵士に警護されていたため当然のように通り過ぎたのだ。
「おや、これはサンチョ殿。どうかされましたか」
「上階に用がありましてな。お通しいただけますかな」
「もちろんです。さあ、お通り下さい」
にこやかながらもどこか厳しい雰囲気を漂わせる城の兵士も、サンチョの一言ですんなりと階段の脇に避け、道を開けた。サンチョが堂々と階段を上る横で、ずっと頭を下げサンチョに礼をしている。そんな兵士の横をリュカもビアンカも思わず同じように頭を下げて通り過ぎる。
上階に上がると、途端にその雰囲気が変わるのが分かった。城下町は人々の声で賑わっているが、二階は一変して静けさに包まれている。人が一人歩くとその音が遠くまで響いてしまうほどの静けさに、リュカもビアンカも思わず黙り込んで周りの様子を窺った。
「王室はここではありません。さらに上に上がりますのでついてきてください」
サンチョは体系に似合わずきびきびと歩き、階段も苦労なく軽々と上っていく。それというのもサンチョが久しぶりに使命感に燃え、無事に帰ってきたリュカ王子をグランバニアの国に知らせることができるという誇りを胸に抱いているからだった。成長し、逞しくなったリュカの姿を見て、サンチョは本当に生き返ったような心持ちなのだ。
三階に上がり、扉を出ると、外に出た。太陽はかなり西に傾くが、まだまだ日は長く、空は真っ青に晴れ渡り、もくもくとした白い雲も元気そのものだ。外の回廊をサンチョを先頭にリュカ、ビアンカと続いて長々と歩く。
「サンチョ、ちょっと待って」
「おや、どうかしましたか、坊ちゃん」
「あ、大丈夫よ。ありがとう、リュカ」
サンチョがあまりにも早足で歩くため、途中でビアンカが遅れを取ったのだ。いつも元気なビアンカが珍しいなと思いながらも、リュカは妻の顔を覗き込んで様子を窺う。
「もう少しゆっくり行こう。僕たちがつく前に王様が逃げちゃうこともないでしょ?」
「そうですね。すみません、ビアンカちゃん。私が先を急いでしまって……」
「急ぎたくなる気持ちはとっても良くわかるもの。いいのよ、私は大丈夫だから、早く行きましょう」
「おんぶしていこうか?」
リュカの頭にはチゾットの村で倒れてしまったビアンカの姿が残っている。彼女を辛い目に遭わせないとあの時深く思ったことを、忘れたわけではない。
「リュカったら、王室に入るのに私をおんぶして入ったら笑われちゃうわよ。大丈夫だってば、さあ行きましょう」
ビアンカの「大丈夫」ほど当てにならないものもないと分かっていたリュカだが、サンチョの急ぐ気持ちも十分に理解している。ビアンカの笑顔を見て、リュカは彼女の言葉を信じ、彼女が元気だということを信じた。チゾットの村では旅の疲れが溜まり、しかもまだ山を越えているわけではなく、これからさらに山を下らなければならなかった状況で、彼女の疲労は頂点にまで達していたに違いない。しかし今は、目指していたグランバニアに到着し、サンチョとも再会することができ、魔物の仲間たちも受け入れてもらえる可能性が高く、サンチョはリュカをグランバニア王子として帰還してきたと国王に報せようとしている。全てがリュカたちの味方をしてくれているこの状況で、悪いことなど起こりようもないのだと、リュカは無意識の内に自分自身に言い聞かせていた。
三階の外の回廊をずっと歩き、遠くに見えていた大きな扉が眼前に迫ってくる。扉の脇には衛兵が二人、厳しい顔つきではっきりとリュカを見ていた。
「これはサンチョ殿。どうなされました?」
先代国王のパパスの側近であったサンチョのことを知らない人間はいない。そして現国王オジロンの衛兵として勤める兵士たちは先代パパスの時から変わらず衛兵を務める者たちで、パパスを敬愛していたのと同時に、サンチョに対しても尊敬の念を抱いている。見知らぬリュカのことを警戒するような目で見ようとも、サンチョに対しては丁寧に対応をするばかりだ。
「重大な報告があり、至急王に会いたい。どうか通されたい!」
真剣な表情で、声を張って話すサンチョに、衛兵二人もリュカもビアンカも背筋がピンと伸びるのを感じた。特に衛兵二人はここ最近サンチョの姿を見ておらず、久々に王室に向かってくるサンチョを見て少し嬉しい気持ちさえ抱いたのも束の間、目に力を宿して真剣な顔つきで話す彼の姿に畏れた。「はっ!」と短く返事をするのみで、衛兵二人は扉の脇に避けて深々と頭を下げる。サンチョが重々しい扉を開く姿を後ろから見ていたリュカは、やはりグランバニアのサンチョはサンタローズで見ていたサンチョとは違うのだと改めて実感させられた。
重厚な扉が開くと、しんと静まり返った大きな空間が広がっていた。サンチョの後ろからリュカが王室の中を覗くと、初めに目が会った人物は玉座の近くに立つ恰幅の良い貴族風の男だった。すぐに目を逸らさなければと思ったが、男の隙の無い目がリュカを射抜き、しばらくの間離してくれようとはしなかった。
「おお、サンチョか」
玉座からは予想していたよりもずっと穏やかで優し気な声が聞こえた。しかしその姿を見てみると、リュカは思わず息をのんだ。まるで父がそこにいるかのような感覚を得るほど、玉座の人物は父パパスの雰囲気を持っていた。よく見れば違う部分も多々ある。パパスは旅をしていたせいか、逞しくしまった体つきをしていたが、玉座に座る人物は太っているわけではないが、それでも少し肉付きの良いがっちりとした体つきをしている。玉座に座っているため上背がどれほどなのかは分からないが、それでもパパスよりは背が低いように見られる。髪の色も父ほど黒くはなく、少し茶色がかっているようだ。だがその目と、癖のある髪に、生前のパパスを思い出さずにはいられない雰囲気をありありと漂わせていた。
「何やら嬉しそうな顔。いい事でもあったのかな?」
そう言いながら人の良さそうな笑みを浮かべるグランバニア王を見て、リュカはまるで父が笑っているかのような錯覚を覚える。果たして父がこの玉座に座っている時に、これほどにこやかに笑っていたのだろうかと疑う気持ちもあるが、それでも旅の途中で、サンタローズで、父が幾度となくリュカに微笑みかけてくれた笑顔に、国王の微笑む顔はよく似ていた。
「実は王様……」
サンチョが歩み出ると、玉座の近くに立っていた男が警戒の目を向ける。サンチョのことを警戒しているのはこの男だけだと、リュカは周りにいる他の衛兵たちの様子をそっと見渡す。国王側近の近衛兵たちはサンチョに対して微塵も敵意など持ち合わせず、グランバニア王と話すサンチョの姿を少し頭を垂れるようにして見守っているだけだ。
サンチョがごく小さな声で話す言葉に、グランバニア王はふむふむと真剣に耳を傾ける。そこには他の者たちが立ち入れない信頼のようなものがあるようだ。これほど大きな国の王様とごく普通に話ができるほど、サンチョは特別な人物なのだ。
「なんと! パパスの……兄上の息子のリュカが生きていたと申すかっ!」
驚きで目を丸くしながら、玉座に座っていた国王はガタンと音を立てて立ち上がった。サンチョがリュカの背に手を当てると、リュカはそのまま国王の前に進み出た。グランバニア王の前でどのような振る舞いをすればよいのかも分からず、リュカは進み出たその場で立ち尽くしているだけだったが、グランバニア王はゆっくりとリュカの所へ近寄ると、その顔をまじまじと見つめた。
「おお! その目はまさしく兄上の奥方マーサ殿に生き写し! あの時の赤ん坊がこれほど立派に成長して帰ってくるとは……」
リュカは過去にサンチョにも母によく似ていると言われたことがある。そして今、目の前のグランバニア王にも同じことを言われ、内心残念に思ってしまうのはどうしようもなかった。
リュカは母を知らない。母との思い出は一つとして知らず、また聞かされていない。しかし強く逞しく優しい父には、失った今となっても消えることのない尊敬の念を抱いている。どうせ似ていると言われるなら父に似ていると言って欲しいと、リュカは母に似ていると言われる度にそんなことを考えてしまうのだ。
グランバニア王はしばらくの間思い出に耽るようにリュカの顔をしげしげと見つめていたが、はっと我に返り、リュカの前でにこりと笑う。これほど大きな国の王様らしくないと思うのは、このように人の好い笑みを誰にでも気軽に見せてしまうところなのかも知れない。
「申し遅れたが、わしはそなたの父パパスの弟のオジロンじゃ」
「父さんの弟……」
「リュカの叔父さんということになるのね」
ビアンカがこっそりと耳打ちするように告げると、リュカもぼんやりとその事実を理解した。城下町で既に聞いていた事実だったが、こうして父の弟と実際に対面すると、特別な感情が沸き上がる。父をよく知るサンチョに対してもリュカは特別な感情を持つが、オジロンに対してはまた違った感情が起こった。父と血の繋がる兄弟が今、目の前にいるのだ。それは今までに感じたことのない感覚だった。
「して、隣にいるこの美しい女性は……?」
オジロンが首を傾げて覗き込むようにビアンカを見ると、ビアンカは途端に背筋を伸ばしてびくっと肩を震わせた。
「はい、王様。私はリュカの妻、ビ、ビアンカ……と……」
ビアンカの言葉が途切れた。リュカは彼女が王様の前で緊張してしまい、言葉に詰まったのかと思った。しかし彼女の様子を見ると、リュカは目を見張った。見たこともないほどに顔色を悪くし、目も薄目を開いているだけで、焦点が定まっていない。よろよろと足元も覚束なく、明らかに眩暈を起こしているのがすぐに分かった。あのチゾットの村で倒れた時のことが脳裏によぎる。
「ビアンカ!」
リュカはすぐに妻の身体を支えた。しかし既にビアンカの意識はなく、リュカに身体を預けるだけだ。目を閉じ、浅い呼吸をし、手は氷のように冷えている。呼びかけても返事はなく、ただリュカにもたれかかってぐったりとしている。
「こ、これは一体どうしたことだっ!?」
「ビ、ビアンカちゃん!」
「すみません、どこか休める場所を……」
「すぐに用意させる。おい、上の私の部屋を……」
オジロンが指示する声を、リュカはどこか遠くの世界の出来事のように聞いていた。王室にすぐに女性たちが数人現れ、リュカたちを更に上階に案内する。リュカはぐったりと意識を失ったビアンカを抱き上げたまま、オジロンとサンチョと共に王室上階の国王の私室へと向かった。



王室の窓から涼やかな風が流れてくる。窓の縁に飛んできた二羽の小鳥がさえずり、王室の中を首を傾げるようにして見つめている。いつもより人が多くいるというのに、静まり返った王室の様子に、おかしな雰囲気を感じているかのようだ。
倒れたビアンカを診たのは、先ほどサンチョの家にいたシスターだった。治癒呪文の長けているシスターは、人の怪我や病気を診ることも仕事の一つだ。意識を失ったビアンカの様子を丁寧に診て、そして今は夫であるリュカと話をしていたところだった。
「それでチゾットの村でもう少し休むことは考えなかったのですか?」
先ほどサンチョの家から出てきたシスターは優し気で柔らかい雰囲気を感じたリュカだったが、今目の前にいるシスターはやや厳しい表情で、リュカに対する口調も少し固いものだった。
「僕はもう少し休もうと言ったんですけど、ビアンカが大丈夫だって……」
リュカは真実を言ったまでだが、それでもシスターの真剣な表情を見ると、どうしてチゾットの村でもっと休ませてやらなかったのだろうかと自分を責めずにはいられなかった。あの時しっかり休んでいれば、こんなことにはならなかったのかも知れない。
その時、サンチョが短い声を上げた。見れば、ベッドの上で意識を失っていたビアンカが薄く目を開けたところだった。リュカも慌ててベッドの脇に寄り添う。
「よかった。ビアンカちゃん、気が付いたようですよ」
「まったく、そんな身体で旅をしてくるなんて……。聞けば山の上の村でも一度倒れたというし……もしものことがあったらどうなさるおつもりだったのかしら」
咎めるような呆れるようなシスターの言葉に、リュカは心臓がばくばくと激しく鳴るのを感じた。ビアンカの身体に何かがあったのは間違いない事だった。それがもしひどい病気だったら、リュカは彼女を治すために何でもする覚悟だった。自分の旅に無理についてこさせ、挙句に彼女を重い病気にでもかからせてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。ビアンカが元気じゃなくなってしまうことは、リュカの中ではあってはならないことなのだ。それだけ妻の明るさに日々救われているのだ。
「そ、そんなにひどいのですか、シスター?」
サンチョも同じようなことを考えていたようで、慌てた様子でシスターに問いかける。リュカには問いかける余裕すらなく、ただひたすらぼんやりと天井を見つめているビアンカの手を握り締める。ビアンカは状況がまだよく分かっていないのか、ふとリュカの顔を見つめると、そのままにこりと笑った。彼女の笑顔を見たリュカは、泣きそうになりながらも彼女の手を強く握りしめる。
「ひどいも何も……。おめでたです」
「へっ?」
シスターの言葉に、サンチョが拍子抜けしたような声を上げる。サンチョが感じていた緊張は一瞬で消え去り、しかしその場で固まってしまい、まるで動かなくなってしまった。リュカに至っては一体何を言われたのかも分からず、シスターの口にした「おめでた」の意味について考え始めていた。初めて耳にした「おめでた」という言葉に悪いものは感じないが、一体それが何なのか、リュカにはまるで分からなかった。
「おめでとうございます。リュカ様はもうすぐお父様になられますよ」
「僕が……お父様……って? いや、僕は父さんじゃないよ」
混乱しているようなリュカの様子を見て、シスターは思わず小声で笑う。彼女はシスターとしてこれまでに何度も男性のこのような反応を見てきたのだろう。
「まあっ。でも無理ありませんわ。突然ですものね」
「坊ちゃん、違いますよ。坊ちゃんとビアンカちゃんの赤ちゃんです! ビアンカちゃんのお腹の中に赤ちゃんがいるんですよ!」
サンチョが興奮した様子で告げると、リュカはじわじわと「おめでた」の言葉を理解し始めた。ベッドに横になるビアンカを見ると、彼女はもう意識もはっきりしているようで、気まずそうにリュカから目を逸らしていた。その反応に、リュカはその事実に気づいていないのは自分だけだったことを知った。
「そう……。ビアンカさんのお腹の中に赤ちゃんがいるのです」
シスターはそう言うと、目を覚まして意識もはっきりしているビアンカに小さな声で一言二言言葉を交わした。ビアンカもシスターに問われれば答えざるを得ないようで、素直に応じて言葉を返した。
「あまりお腹が目立ちませんが、聞けばかなり育っているようですね」
「こいつはめでたい! 坊ちゃんとビアンカちゃんの子供だから、きっと玉のようにかわいい赤ちゃんが生まれますよ!」
サンチョはそう言いながら、既に涙ぐんでいる。彼にとってはまるで孫が生まれるような感覚なのだろう。それとも他の過去の情景を思い出し、今のこの状況と重ねて見ているのかも知れない。
「では私はこれで。旅で大分無理をされているようなので、また様子を診に参りますね。くれぐれもこれからは無理をなさらないことです。どうかお大事に……」
しっかりと釘を刺してから、シスターは国王私室を静かに出て行った。普段は国王の身の回りの世話をする侍女たちが今はビアンカの世話をするべく、部屋を整えている。国王私室の外にある厨房では既に温かい食事の準備がされているようだ。リュカたちのいる部屋の中にまで美味しい匂いが漂っている。
「リュカ、ごめんね」
ベッドに横たわりながら、ビアンカがぽつりと呟いた。意識ははっきりしており、水色の目にも力が戻っているが、まだ体を起こすほどには回復していないらしい。ビアンカは困ったような笑顔でリュカを見上げながら、まるで反省するようにぽつりぽつりと話し始める。
「今まで隠していて……。そうかなって思ってたけど、言ったらリュカは私のために旅をやめちゃうような気がして」
ビアンカの言う通り、リュカはもし旅の途中で彼女の異変に気がついたら、すぐにでも旅をやめる覚悟はあった。父の遺志を継ぎ、母を捜す旅に、妻を危険に晒していたのでは元も子もない。リュカにとっては見知らぬ母だが、もしビアンカを危険に晒すことを厭わず、平気で旅をするような息子に再会したら、母はきっと怒るに違いない。リュカとしては、そんな母でいて欲しいという願望もある。
「もちろんそうするよ。当然だろ。いつも君が一番大事だって言ってるじゃないか。でも旅をしている時はとても楽しそうだし、楽しいことが一番いいことなんだろうなって、だからずっとこれまで君と旅をしてきたんだよ」
「うん、そうよね……ありがとう」
しおらしく礼の言葉を述べるビアンカに、彼女がまだ調子を取り戻していないのが分かる。そしていままで自分がどれだけ危険なことをしてきたのかを振り返り、反省する気持ちが全面に出ている。彼女がお腹を優しくさする仕草を、リュカは初めて見たような気がしなかった。それはこの旅の間、恐らく何度も目にしていた姿だったのだ。ビアンカはお腹の中に新しい命が宿ったことを必死に隠していたつもりだったが、彼女の本能はそのような仕草に現れていた。
「いつから……いつから赤ちゃんがお腹の中に……?」
ずっと隠していたことが明るみに出て、もう隠す必要はないのだと悟ったビアンカは、リュカに素直に応え始めた。
「私にもよくわからないの。でもテルパドールに向かう時には、ちょっと、怪しいと思ったわ」
「そんなに前から?」
ビアンカの告白に、リュカは驚きを隠せなかった。ポートセルミの港を出て、テルパドールに向かったのはもう数か月も前のことだ。当然のごとく旅の途中では魔物と遭遇することもあり、ビアンカも共に戦った。最も過酷だった砂漠の旅をしていた時には、既にビアンカのお腹には大事な命が宿っていたことを思うと、リュカは彼女に対してとんでもないことをしてしまったのだと体が凍りつくような思いがした。シスターも話していたように、あれほどの過酷な旅をすればもしものことがあっても何もおかしなことではない。しかしそれを彼女と、彼女のお腹の中の命は耐えてくれたのだ。
「ビアンカ……ごめん。本当にごめん。僕、何も気づかなかった」
「あなたは何も悪くないわ。私が隠していたことだもの。あなたは何も悪くないの」
そう言いながら、ビアンカはベッドの脇で泣きそうになっている夫の手を優しく握って、自分の両手で包み込んだ。その温かさに、リュカは今までの彼女とは違う温度を感じた。彼女は母になろうとしている。今までの温度に、母としての温度が加わったような、不思議な温かさだった。
「でももう一緒に旅をしたいなんてわがままを言わないわ。身体に気をつけてきっと丈夫な赤ちゃんを産むわ」
まだ完全に回復していないからなのか、心が落ち着いているからなのか、ビアンカの声はとても穏やかだった。リュカの手を包み込むビアンカの手は、ずっと彼の手を優しく擦っている。ビアンカには今までずっとリュカに大事なことを隠していたという罪悪感がある。そして今、事実を打ち明けた時になっても、今度は今までのことを心配させてしまったという新たな罪の意識を抱える。しかし過去のことを振り返っても、過去を変えることはできない。そして何よりも、幸運なことにお腹の中の命は無事に育ってくれているという。これからは再び未来を見つめ、彼のためにも丈夫な赤ちゃんを産むことだけを考えれば良いのだと、ビアンカはいつもの調子を徐々に取り戻そうとしていた。
リュカはそっとビアンカの腹に手を当ててみた。上掛けをしっかり被せた上から触れただけだが、それでも彼女の腹に膨らみを感じることができた。シスターの言う通り、まだ目立つような膨らみではないが、今までのビアンカの体形とは明らかに変化している。ここに新しい命が宿っているのかと考えると、今までに感じたことのない不思議に出遭ったようで、リュカは体中がじんじん熱くなるような気分がした。
「好きよ、リュカ」
唐突に言われた妻の言葉に、リュカは胸が突き上げられるような感動に包まれた。妻に深く愛され、愛する妻が子を授かってくれた。これほどの喜びを、リュカは経験したこともなく、想像したこともない。まさか自分にこんな時が訪れるとは思っていなかった。ビアンカと自分たちの子供について話したこともあったが、旅の最中はそのようなことをすっかり忘れてしまい、まさか本当にその時が訪れるとは考えていなかった。
「坊ちゃん、おめでとうございます」
ずっとリュカとビアンカの様子を見守っていたサンチョが涙声で祝福の言葉をかける。ビアンカが倒れた時にはもしかしたらリュカ以上に動揺していたかも知れないサンチョだが、シスターに診てもらい、ビアンカのお腹の中の子も無事だと分かり、改めて新たな喜びを噛みしめている。
「まったく……死んだと思っていた坊ちゃんが帰ってきてくれて、しかもお嫁さんともうすぐ坊ちゃんの子供まで……。このサンチョ、今日ほど嬉しい日は……」
そこまで頑張って言葉を続けたサンチョだが、もう涙を流すばかりで、言葉を述べることができなくなってしまった。リュカはサンチョの背中に手を当てて、「ありがとう、サンチョ」と心からの礼を言う。幼い頃のリュカを知り、幼い頃のビアンカを知るサンチョがこの場にいて、共に幸せを感じることができることに、リュカは今という時に感謝するように目を閉じた。
「何やらおめでたい話で良かったわね」
ビアンカの世話をする王室付きの侍女の一人にそう話しかけられると、リュカもビアンカも「ありがとうございます」と声を揃えて礼を述べた。
「サンチョさん、もうしばらくしたらオジロン王のところへお戻りになってくださいな。何やら話があると仰ってましたよ」
「え? あ、ああ、そうですね。すぐに戻ります」
オジロン王としても、サンチョと同様に突然のグランバニア王子の帰還に、その妻の妊娠発覚にと、目まぐるしい時を迎えているのだ。先代の王の息子が帰還したとなると、これからはグランバニア国として動く必要があるのだと、オジロン王はサンチョのようにただただ嬉しいという感動に浸ってはいられない。王の気苦労を察しながら、サンチョは窺うようにリュカの顔を見る。
「坊ちゃん、一緒に来ていただけますか?」
「僕も?」
「そうです。あなたはこのグランバニア王国の王子なのです。あなたが無事に国に帰ってきたことを国に知らしめる必要があるのだと、オジロン王はお考えのはず。そのような話を当事者抜きで進めるわけには参りません」
「でも、僕はこの国に来たばかりだし、何をどうしたらいいのかも分からないよ」
「大丈夫です。分からないことはこのサンチョがお教えいたします。安心してついてきてください」
「リュカ、サンチョさんに任せておけば何も心配いらないわ。サンチョさんは絶対リュカの味方だもの。ねっ、サンチョさん」
「ビアンカちゃんの言う通りです。サンチョは坊ちゃんがお生まれになった時から坊ちゃんの味方です。……本当ならこのままゆっくりビアンカちゃんと過ごして欲しいのですが、そういうわけにも行かず……」
「サンチョさんを困らせてはダメよ、リュカ。さあ、あなたにはあなたのやることがあるはずよ。頑張って行ってらっしゃい」
ずいぶん顔色も良くなったビアンカのところへ、温かな食事が運ばれてきた。その美味しい匂いをすべて吸い込むかのように鼻から息を吸い、目を閉じてにこやかにしているビアンカを見て、リュカはいつものビアンカに戻りつつあるのだと実感した。食欲もあるようで、美味しそうな料理を見ながら目を輝かせている。そんなビアンカを見て、リュカはつい笑ってしまう。
「大丈夫そうだね、ビアンカ」
「元々私は丈夫だからね。先に食事をさせてもらうわね」
「うん、たくさん食べてもっと元気になってね」
「元気な赤ちゃんを産むんだもの。これからはたっくさん食べるわよ~」
まるで運ばれてきた料理に対して戦いでも挑むかのように、ビアンカは腕まくりでもするかのような雰囲気を見せていた。リュカはそんな彼女を微笑みながら見つめると、サンチョと話をしながら国王私室を出て行った。



国王私室を出たところで、また異なる料理を運ぶ侍女に会い、リュカは会釈をする。そんなリュカの旅人然とした姿を訝し気に見ながら、まだ若い侍女は率直にリュカに言葉を投げてくる。
「いくら人のいい王様でもただの通りすがりの人にベッドを貸すわけはないし……。あなたたち、一体何者なの?」
「これっ、およしよ。王様のお知り合いの方だろうよ。そんな口を聞いちゃいけないよ」
「でも、それにしても王様のお部屋に入るだなんて、そんなお知り合いっているのかしら」
ぶつぶつと不思議そうに話しながら国王私室に入っていく侍女たちを、リュカは気まずそうに見送った。
「ビアンカちゃんが倒れてそのままこうなったから、まだ国の者たちは坊ちゃんが何者なのか知らないんですよね……。でも、まあ、とりあえずオジロン王のところへ行きましょう」
「そうだね。勝手に僕が先代の王の息子ですなんて言えるわけでもないし……」
自らそう名乗ることを想像して、リュカは違和感を覚えた。旅の途中から、もしかしたら父はグランバニアの王なのかも知れないと考えてはいたものの、父にその肩書は似合えど、自分が一国の王子であることなど似合うはずもない。記憶もない頃から父とサンチョと旅を続け、一時は奴隷の身にまで落とされ、そして今までもずっと旅を続けてきた根無し草なのだ。そんな自分が一国の王子であることに、気持ちとして合点が行くわけがなかった。
サンチョに連れられる形で、階段を下りていく。先ほどまで王室に差し込んでいた夕日も落ち、王室にはいくつもの明かりが灯っていた。グランバニアの城下町と同様、魔力による明かりで、王室内を明るく照らしている。
サンチョとリュカの姿を見たオジロン王が、玉座から元気に立ち上がり、顔を輝かせて二人を迎え入れる。
「おお! すでにシスターから聞いたぞよ。めでたい限りじゃ」
にこやかに祝福の言葉を述べるオジロン王にリュカは感謝の言葉を述べた。朗らかに人の好い笑みを浮かべるオジロン王はビアンカのおめでたを心から祝福している。そんな様子が窺えて、リュカも思わずオジロン王に駆け寄り、握手を求めようとしたが、隣にいるサンチョに止められた。父に似ている人の好さそうなおじさんとは言え、相手は王様なのだ。それほど気軽に握手を求めるのもおかしなことなのだろうと、リュカは少し残念そうにサンチョと共に玉座の前に跪いた。
「そこでリュカに話したいことがあるのだ。さあさあ、こっちへ」
既に国王の前に跪いていたリュカだが、更に近くに寄れという指示に、戸惑いながらも立ち上がって玉座に近づく。まるで内緒話でもするかのような近さに、サンチョは目を瞬き、常に国王の隣に立つ大臣は苦々しい表情を見せている。そしてオジロン王はとっておきの秘密の話を話すかのように、リュカの耳元でこそこそと話した。
「実はなリュカ。わしはそなたに王位を譲ろうと思うのだ」
「オジロン王! 私に何の相談もなく突然何を言われる!」
オジロン王の言葉に即座に反応したのは、すぐ横に立っていた大臣だ。オジロン王と同じほどの背丈で、王様と同等なほどの豪華な服を身に着けている。サンチョのように太めの体形をしているが、サンチョのように戦う術を持っているわけではなさそうだ。リュカは思わず大声を上げた大臣をじっと見つめたが、思いもかけない鋭い目つきに出遭い、すぐに視線を逸らしてしまった。
「まあまあ、いいではないか、大臣。兄上の息子リュカが帰ってきた以上、リュカに王位を継がせるのが道理というものだ」
「何が道理なものですか。先代の王はマーサ王妃をお探しになるために勝手に城を飛び出されたも同然なのですぞ。国を捨てたようなものなのです。その息子が国に戻ってきたからと言って……」
「しかし国の者の兄上に対する評判は総じて高い。やはりこの国の王は兄上であり、兄上の息子のリュカなのだと思う。国の者たちも兄上の息子のリュカがこうして戻ってきたことを知れば、諸手を挙げて喜ぶに違いない」
「果たしてそうでしょうか。先代の王は確かに国民からの評判も良い。それは認めましょう。しかしその息子までもが国民からの信頼を得られるか、それは全く分からないことですぞ」
「いいや、わしには分かる。リュカの目を見てみろ。あの目には兄上が生きておる。兄上の遺志は確かに息子のリュカに継がれているのだ。そのようなリュカが国民からの信頼を得ないわけはない」
「そのお考えは性急に思われますぞ、オジロン王。この者の目は先代の王というよりも王妃様に似ているように思われます。それほど先代の王の遺志を継いでいるようには……」
「何を言うか、大臣。姉上も兄上の隣に立つ王妃として国民から絶大な信頼を得ておったではないか。そうそう、姉上にも不思議な力があったなぁ」
「何を感慨深げに思い出されておられるのか。あの魔物を手懐けるというおぞましい力のことですか? 私にはとても理解できぬものでしたがな」
「しかし姉上に懐いた魔物はまるで魔物の心を忘れてしまったかのように、良い魔物になってしまったのを見ていたであろう。この城にはまだ姉上を待つ魔物がおるではないか。あの魔物たちが一度でも城で暴れたことがあったか?」
「それはございませんが……しかしこの者を王にするなどあまりにも……」
「何もおかしなことではない。わしは当然のことをしようとしているだけだ。兄上の息子のリュカが王位を継ぐのは当然のことなのだ。こうしてリュカが無事にグランバニアに戻ってきてくれたのは、きっと兄上がリュカをずっと今まで見守っていたからに違いない」
大臣に何を言われようと、オジロン王は自分の意志を曲げようとはしなかった。大臣に対するオジロン王の言葉に、サンチョは一つ一つ感慨深げに頷いていた。そしてオジロン王自身、兄のパパスに対する絶大なる信頼と尊敬の念を抱いている。そこに嫉妬などという感情はなく、今は亡き兄に対してずっと純粋に尊敬の念を抱き続ける思いがあるのだろう。そのようなオジロン王の思いに触れ、リュカは胸が熱くなるのを感じた。
「そこまで言われるなら……。しかし代々王になられるお方は試練の洞窟にゆくのが我が国のしきたり」
大臣の言葉に、オジロン王とサンチョが同時に顔を強張らせた。リュカにはその内容が分からず、ただ緊張感の漂う王室内の空気を感じただけだ。
「だが大臣。昔と違い、今ではあの洞窟にも怪物たちが……」
「どんなことがあろうともしきたりはしきたり。守っていただかぬと!」
「あの洞窟が今どれほど危険な状態か分かっておられるのですか、大臣。今、あの洞窟は魔物の巣窟です。パパス王やオジロン王が試練を成し遂げた時とは全く状況が異なりますよ」
「サンチョ、お主は試練の洞窟を見に行ったというのか?」
「城に戻ってから一度だけ見に行きましたが、とても一人で試練を受けられる状況ではありません」
「しかしそれでは誰でもグランバニアの王位を継げることになってしまう。……そうだ、サンチョ殿、お主が同行すれば良いではないか。サンチョ殿も長旅をしてきて、戦う術に長けておるのだろう? 今回は特別にお供をつけるとして試練を受けてもらうのはいかがですかな、オジロン王?」
「ふむ……。それもそうか……」
オジロン王が考え込むようにして頷きかけると、大臣は隣で目を細めた。しかし誰も大臣のそのような表情に気づいた者はいなかった。オジロン王は一つ小さな溜め息をつくと、リュカに向かって改めて話し出す。
「リュカよ。話は聞いたであろう。わしはそなたに王位を譲りたいのじゃ。頼むっ! 試練の洞窟に行って王家の証を取ってきてくれい! そしてその時こそそなたに王位を譲ろうぞっ!」
オジロン王はすっかりリュカに王位を譲る気でいるらしく、その他の選択肢を考える余地を持っていないように見えた。オジロン王としては兄のパパスが帰還するまでの仮初の王という心づもりでずっとこの玉座についていた。兄が旅の途中で亡くなり、二度とグランバニアに戻ってこないと知らされても、オジロン王はどうしても自分がこの大国グランバニアを治める王としてはふさわしくないと思い続けていた。パパス王も国民に優しい性格をしていたが、王として厳格たる雰囲気も備え、それが王としての貫禄を醸していた。しかし自分にはそれができないと、オジロン王は常に認めている。
リュカはオジロン王の悲痛を感じた。兄を失った悲しみを引きずってはいられず、大っぴらに出すこともできず、この玉座に就いて日々国を治めることに力を注がねばならない。国を治める者の定めと言ってしまえばそれまでだが、兄弟を失うことがどれだけ悲しい事なのか、ヘンリーとデールの関係を思い出し、それとなく想像することができた。
「坊ちゃんには突然の話で、戸惑われるのも無理はありません。それに今日はビアンカちゃんのおめでたを知ったばかりで、まだ心の整理がつきませんよね」
グランバニアに生まれながらも、グランバニアを全く知らないリュカに、サンチョが助け舟を出す。もしグランバニア王妃マーサが魔物に連れ去られなければ、そしてパパスが妻を捜す旅に出なければ、リュカが王位を継ぐのは当然のように決まっており、リュカにもその覚悟が培っていたことだろう。長年に渡り、本来玉座に座る運命になかったオジロンが王位に就き、兄パパスの良い評判に晒されるのは彼を苦しめていたに違いない。そんなオジロン王に同情する気持ちも生まれるが、まだ今のリュカには自分が王位を継ぐなどということは考えられないことだった。
「何だか、色々で……僕はどうしたらいいんだろう」
「オジロン王、坊ちゃん……いや、リュカ王子はまだご帰還されて半日もこの国を見て回られておりません。まずはこの国を見てもらってはいかがでしょう? もし国王になられるとしても、この国のことを知らないまま国王になってしまっては、リュカ王子も国民も不安を抱くやも知れません」
「ふむ……それもそうじゃのう……。あい、分かった! ではリュカよ、お主自身でこの国を見て、それからもう一度わしのところへ来るのじゃ。お供はサンチョ、頼むぞ」
「それからサンチョ殿、くれぐれもリュカ王子のことを口外しないことです。長年無事かどうかも分からぬ王子が突然ひょっこり帰ってきたとなれば、さすがに民衆は混乱しかねぬ。リュカ王子のことは、試練の洞窟で王家の証を取り、めでたく王位を継ぐ時に初めて国民に知らしめることとしましょう」
大臣の言葉に、サンチョが一瞬厳しい表情をしたのをリュカは横目に見た。二人の間に瞬間的に張り詰めた空気に、リュカは否応なしに気づいてしまった。しかしそれは一瞬の出来事で、すぐにその空気は元の通りただの王室の空気となった。
「それではリュカ王子にグランバニアを見てもらいます。旅の疲れもあるでしょうから、ゆっくりと数日かけて見ていただきますが、よろしいでしょうか?」
「もちろんじゃ。上で休んでおる奥方も心配だろう。部屋は自由に使ってよいからの、休む時には侍女に話をするがいい」
「オジロン王、さすがに旅人同然の夫婦を国王私室に泊めるというのは……」
「何を言うか、本来であればあの部屋は兄上と姉上、そしてその息子リュカが使うべき部屋であった。それをわしが一時的に使っておっただけじゃ」
「しかし……」
「わしが良いと言うておるのだから問題なかろう。それにわしはそもそも、あれほど広い部屋は必要ないのじゃ。他に使える部屋はいくらでもある。さあ、リュカよ、そなたの国グランバニアを見てきなさい。兄上が治めていたこの国を」
オジロン王の言葉に、リュカは深く頷いてその場に立ち上がった。玉座の横に立つ大臣の冷たい視線を感じたが、リュカは気づかないふりをした。リュカが大臣にも頭を下げるのを、大臣は表情一つ変えずに見下ろしていただけだ。
「坊ちゃん、ビアンカちゃんには?」
「ビアンカは大丈夫。それに今、ビアンカに『これから城を見て回るんだ』なんて言ったら、『私も行くわっ』ってついて来そうな気がするよ」
「はははっ、そうでしたね、ビアンカちゃんはそれくらい元気な女の子でしたな」
サンチョの明るい笑い声に、リュカの心が落ち着く。グランバニアという見知らぬ故郷に、自分やビアンカのことを知っているサンチョがいる。それがどれほど心強いことなのか、リュカは身に染みて感じている。サンチョがいなければ、リュカもビアンカもこのグランバニアに受け入れられずに門前払いされていた可能性が高い。そしてサンチョはグランバニア王への取り次ぎのみならず、リュカの心の支えとなってくれている。リュカはまるで子供の頃に戻ったような気分で、サンチョに昔のように甘え始めていた。

Comment

  1. ケアル より:

    ビビ様
    以前にも書きましたが、ビビ様は本編台詞を一つ残らず使い、それに加えてビビ様ワールド台詞を入れて描写なさるから、読み手は楽しさ倍増です!

    ビアンカ、砂漠の山を下りる時、お腹を庇いながら降りていた場面がありましたよね…あれは、やっぱりフラグだったんですね。
    赤ちゃんが、できても良さそうな描写が、たくさんありましたよね
    結婚所や・アルカパのリュカの奴隷告白・ポートセルミのクラリス告白からホテル2階のビアンカ嫉妬…。
    読者は、ワクワクドキドキニヤニヤキュンキュンさせて貰いました(楽)

    サンチョとリュカが一緒に試練の洞窟に行くとは、これまたビビ様らしい描写ですね、そして、モンスター爺さんでなく、マーサが作ったモンスター専用ルームがあるだなんて…しかも、マーサが仲間にした魔物が、すでにいると来ましたか…!
    流石はビビ様、今回も予想を裏切る楽しい描写であります。
    ってことは、そこには新たな仲間モンスターがいることになりますよね?
    そのあたり気になります!

    大臣の悪巧みは、サンチョとリュカには、感づかれそうになってますねデモンズタワーに行く前に、なんとかなりませんかぁ?(涙)
    ならないのが決まりですもんね…(涙涙)

    次回は、ピエールたちがオジロン王の前に現れますか?
    リュカの従姉妹の…名前なんだっけ?アリス?登場ですか?
    それとも大臣の計画をこの時点で防いでハッピーストーリーにしちゃいますか?(冗談です)
    次回も楽しみにしています!

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつも丁寧なコメントをどうもありがとうございます。
      ゲームの世界をどうしても保ちたいので、どうにかしてゲーム内のセリフや設定を入れ込み、かなり無理が生じるところもあったりして、書き手はヒヤヒヤしています(笑)
      ビアンカさんはかなり初期の段階から気づいています。自分の身体に変化が起きていますから、初めのうちは「あれ?」くらいでも、チゾットの辺りでは確信して、覚悟を決めているはずです。
      サンチョさんにはこれから活躍してもらいたいと思います。グランバニアでのキーパーソンですからね。彼がリュカを守ってくれるはず。
      仲間モンスターにもようやくのびのび暮らしてもらえる場所ができました。グランバニアでの話が楽しみです。私が。
      話の流れはあくまでもゲーム通りになりますが、それまでの間、色々と楽しんでもらおうと思います。ドリスさんとのやり取りも考えると今からわくわくしています。

  2. ケアル より:

    ビビ様
    そうそうドリスです思い出しました。
    会話がどう描写するか楽しみ!

    試練の洞窟、仲間モンスター連れて行けないことに…もしかしてなりますか?

    子供のピピンに会いに行く描写できますか?
    べつに、たいした話にはなりませんが、将来、仲間になるフラグありますよね。

    • bibi より:

      ケアル 様

      ドリスさんとの会話、私も楽しみです。リュカともビアンカとも仲良くなってもらいたいものです。
      仲間モンスターはこっそり試練の洞窟へ連れて行こうかなぁと。サンチョと二人ではさすがに全滅しかねないので^^;
      そうそう、子供ピピン君、会いに行きたいですね。グランバニア編は色々と入れ込む内容があるので、長くなりそうです……^^;

  3. ピピン より:

    ビビさん

    今回でグランバニアの導入も終わり、次回からはオリジナル要素も増えてきそうで楽しみです。

    それにしても、オジロンの提案は改めていきなり過ぎてみんな困惑しますね(笑)
    実際はリュカも帝王学を学んだりして準備してるんでしょうが

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうですね、次回からオリジナル要素が増えると思います。あくまでもゲームの流れに沿った形で進めていきたいと思います。
      オジロン王は本当にいきなり何を言い出すんだと、誰もが思いますね。大臣じゃなくても大臣のような反応になるのが普通だと思います。
      オジロン王はリュカの叔父さんなので、どこか似ているところがあればいいなぁなんて思いながら書いています。
      リュカ君が国王になるための準備期間はごくわずか……国王になってもしばらくはオジロンと二人で国政を担うという形でしょうね。
      とは言っても、彼はこの後……あ、泣きそうになるので、この辺でTT

  4. ゲンコツ魔王 より:

    ビビさん、夜分失礼致します。
    毎日多忙な中での小説作成、
    本当にお疲れ様です
    ビビさんの小説を読ませて頂きますと
    永らく眠っていた童時代の記憶が
    また鮮明に息を吹き返してきます。
    プレイ中もこの辺りは、
    寝ても覚めても頭の中はDQ5で
    夢中だったことを思い出します。
    冒険の書が消去され幾度となく
    心も折れかけましたが…(笑)

    これからも楽しみに読ませて
    頂きます

    ビビさん、身体に気を付けてくださいね

    • bibi より:

      ゲンコツ魔王 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      本当に寝ても覚めてもDQ5でした、私も。人生の一部、というか、当時は大半を占めていたのではないかと思う程、毎日がDQでした。おかげで受験が危なかったのも、今となってはいい思い出……かな^^;
      冒険の書が消されるのは、プレイヤーの忍耐力を鍛える一種の機能だったのかも。ドラクエは色々な意味で鍛えられたゲームでもありました。復活の呪文とか、落とし穴は一度落ちても、もう一度その場所に行くと綺麗な床に戻っていたりとか。よくやったなぁ、あんなの(笑) 復活の呪文と洞窟マッピングのノートは欠かせませんでした。古き良き時代。でも、今だったら、クリアできる自信がありません(笑)子供の頃の方が忍耐力があったかも。

      次がなかなか進まず、ちょっと時間がかかりそうですが、頑張って次のお話も仕上げていきたいと思います。ようやくグランバニアまで来れたので^^

  5. のらえもん より:

    ビビさん、お疲れ様です。
    いつも小説を楽しく読ませて貰っています。
    次回からオリジナル要素が増えるとの事ですが、
    グランバニアでのどういった生活を書かれますか?
    オジロン王やドリス姫、グランバニア国民と仲間モンスターの触れ合いも書かれるでしょうか?
    マーリンが町の子供達に魔法を教えたりとか。(楽)
    大臣はモンスターが城に住む事に猛反対してて、
    ピエール達に突っかかって来そうですね…。

    • bibi より:

      のらえもん 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうですね、グランバニアでは色々と書けそうなネタがありそうなので、できうる限り書いてみたいとおもいます。
      とは言うものの、あまり書き過ぎてしまうと、そのままグランバニアに落ち着いて、赤ちゃんが生まれてハッピーエンド、みたいな運びになってしまいそうなので、そこそこにしておきたいと思います。
      オジロン王とドリス姫、仲間モンスターなど、その辺は書いて行きたいかな。
      マーリンが町の子供たちに魔法を……それは面白いですね。その発想はなかったなぁ。
      大臣とのやり取りもそこそこ書いていきたいと思います。キーパーソンですからね、彼も……。

  6. のらえもん より:

    夜分遅くにすみません。
    大臣とのやりとりと言いますと、どのような物を考えていますか?
    あとマーリンは魔法を教えるだけでなく、魔法のアイテムを多く開発してグランバニア国民の生活を豊かにし、信頼を得て重鎮の地位を得る、という展開も面白いかもしれません。盛りすぎですけど。(笑)
    ピエールも騎士隊長とかになると面白そうですね。

    • bibi より:

      のらえもん 様

      大臣とのやり取りは……どうなるのかなぁ。私自身、まだよく考えておらず、書きながら考えるパターンで進めようかと……(汗
      いつもこんな感じなもので、すみませんm(_ _)m よく考えないまま書いているので、過去に書いたことをさっぱりと忘れてしまい、自分でもちょくちょく読み直すという有様です^^;
      マーリン、重鎮にまで上りますか~、それも面白そうですね。魔法のアイテムを多く開発するには、ルラフェンからもう一人のおじいちゃんを呼んだ方が良いかも。
      ピエールも騎士隊長まで……戦い方が魔物故、ちょっと独特ですけどね。スライムで跳ねるという離れ業を使うので。数年後にピピンがその戦い方をマスターしてたりして。
      色々と想像が膨らんで楽しいですね。どれもこれも書きたいですが、収拾がつかなくなりそうなので、ある程度絞り込んで書くことになりそうです、残念ですが……TT

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