心休める場所

 

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「お前はさぁ、どうしてそう急に来るかなぁ。明日だったら俺、ここにいなかったぜ」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ。いつもいつも部屋で書類を眺めているだけと思うなよ。俺だって外に出て働くこともあるんだよ。一応、この国の宰相って立場なんだからさ。色々とやることがあんの」
そう言いながらも彼はおよそひと月ぶりにラインハットを訪れた友人を快く自室に招き入れていた。グランバニアの国王でもあり友人でもあるリュカは、到底国王などとは思えぬような旅装に身を包み、供の者をつけることもなく、何とも気軽な様子でラインハットの城門を通って入城してきたのだった。リュカが連れているのは二人の子供だけで、まるで親子三人でラインハットまで旅行に来ましたというような雰囲気で今、ラインハット王兄殿下の広い自室のゆったりとしたソファに腰かけている。
「でもさぁ、わざわざ手紙を書いて送るのも面倒で、それに手紙を書くのって僕、得意じゃないし、どう書けばいいのか分からないから、直接会って話した方が早いしさぁ」
「俺がいなかったらどうしたんだよ」
「デール君に話をしてたよ。一応、僕もデール君も国王同士だし。別に構わないよね」
「あー、緊張感の欠片もねぇ。お前、そんな調子でグランバニアの国王務まってんの?」
「大丈夫だよ。大体はオジロンさんがやってくれてるし、僕はある意味、補佐役みたいな感じかな。気楽な王様だよね」
「ホント、デールの奴が羨ましがるぜ」
一つも堅苦しい空気のない二人の会話に、リュカの隣に座るティミーとポピー、そしてヘンリーの隣に座るコリンズも訝し気な顔つきで互いの父を見やる。この会話が果たして国を代表する者同士の会話なのだろうかと、自分の中にある常識を疑ってしまうほどだ。
「ヘンリーも忙しいだろうから、手短には済ませるつもりだったんだよ」
「あら、そういうわけには参りませんわ。せっかくいらして下さったのですから、ゆっくりしていってくださいな」
既に茶の支度をしていたマリアが奥から姿を現し、向かい合わせに座るリュカとヘンリーの前にレモン水、そして三人の子供たちの前には蜂蜜入りのレモン水が入ったグラスを置く。中央に焼き菓子の乗る器を置くと、目を輝かせたティミーが早速器に手を伸ばす。「いただきまーす」と言うなり、ぽいっと口の中に焼き菓子を放り込み、ぼりぼりと音を立てて食べ始めた。
「お兄ちゃん、ちょっとお行儀が良くないんじゃないかしら」
「えー、でもこのお菓子ってマリア様が作ったんですよね? すぐに食べて、すぐに美味しいって言う方が礼儀に敵ってる気がするなぁ」
「喜んでもらえたら嬉しいわ。まだあるからポピーちゃんもたくさん食べて行ってね」
ティミーがグラスの蜂蜜入りレモン水を一口飲む姿を見ながら、マリアは柔らかく微笑む。その優しさを凝縮したような笑顔に、ポピーは心を温かくしながら「じゃあ、お言葉に甘えて」と言いながら、兄と同じように一つ焼き菓子を手に取ってかじった。グランバニアの城でも様々な菓子を口にする機会はあるが、マリアの手作りの焼き菓子は素朴ながらもどこか心の奥に沁み込む温かさを感じる。その温かさを、双子はこの場所でしか感じない。
「僕たちね、天空城に行ったんだ」
唐突に始まったリュカの旅の経過報告に、ヘンリーは口に含んだレモン水を噴き出しそうになった。
「前置きもなくいきなりか。何だよ、そのテンクウジョウってのは。ちゃんと順を追って説明しろよ」
「湖に沈んでるんですよ、天空城が! 本当は空に浮かんでるはずなのに。もうずっと前に魔物に落とされちゃったんだって、プサンさんが言ってたんです!」
「……似た者親子か。俺がいくら頭のキレる奴でも、さすがにリュカとティミー君が何を言っているのか分からん」
「そうよ、お父さんもお兄ちゃんも、ちゃんと旅をしてきた順番でお話しないと」
「ポピーちゃんが一番分かりやすく説明してくれそうだよな。説明、お願いできる?」
ヘンリーに笑いかけられたポピーは顔を赤らめながらも、嬉しそうに話し始めた。その状況をリュカもティミーも、ヘンリーの隣に座るコリンズもどこか面白くなさそうに見守る。
ポピーの一通りの説明を聞いて、ヘンリーは彼らの旅の次第を理解した。神が住まうと言われる天空城はかつて、中央大陸の天空の塔より上れたはずだったが、今はエルヘブンより南の巨大湖の底に沈んでいるという。天空人と自称するプサンと言う人物に出会い、彼が言うにはゴールドオーブという魔力の詰まった宝玉があれば、天空城は再び空高くに浮かび上がるらしく、その宝玉を求める旅にこれから出ようとしているところだとポピーは説明する。
「どうしてそんな、ゴールドオーブを探すのを頼まれてるんだ? 別にお前じゃなくてもいいわけだろ」
「それがさ、そのゴールドオーブ、僕が小さい時に持ってたものなんだよね」
「なんだよ、それ。そんなことある?」
「あるんだから仕方がないよ。僕だってこんなの信じられないけどさ」
ゴールドオーブが憎き敵に握りつぶされた場面には、幼いヘンリーも居合せている。しかし彼はそのことを覚えていないようだった。リュカもプサンにあの過去の映像を見せつけられなければ、果たしてゲマに宝玉を握りつぶされた瞬間を思い出せたかどうかは怪しい。それよりも強烈な記憶が彼らの頭を占めているため、粉々に散った宝玉の記憶を自発的に思い出すのは恐らくリュカでも難しかったに違いない。
「そのオーブを作ったのが、妖精なんだって。それで今度は妖精の世界を目指してるってわけ」
「……いよいよ訳の分からないことになってきたな。お前はどれだけお伽噺の世界に首を突っ込もうとしてるんだ」
天空人に天空城に妖精の世界と、現実世界に生きるヘンリーにとってはまるで手の届かない世界に思える。しかし彼の目の前には今、世界を救うとされる勇者の男の子がソファに座っている。まだまだ甘ったれの息子コリンズと一つしか年の変わらない男の子は、旅をする時には常にその背に伝説の剣を背負い、伝説の盾と兜を身に着け、勇ましく魔物と戦うのだ。友人が説明する話がどれだけ非現実的であろうとも、彼らは確実に現実世界に生きている。
「大丈夫、僕、小さい頃に一度プックルと一緒に妖精の世界を旅したことがあるんだ」
「その話、お前から以前聞いたことがある気もするな。本当に色々と、信じられない経験をしてるなぁ、お前はよ」
「サラボナの東に広い森があって、そこが妖精の世界への入口なんじゃないかって、そんな話を聞いたことがあってね。今度はそこに行くつもり」
「地図を見せろ。どの辺りだ」
ヘンリーに言われ、リュカは常に懐に入れて持ち歩いている世界地図を出すと、グラスを脇に寄せ、友人の前に広げた。端が擦り切れ、折り目に沿って破れかけ、汚れている地図を見て、コリンズは思わず顔をしかめて自分のグラスを遠くに避難させていた。しかしヘンリーはその状態などお構いなしに地図の上に目を走らせると、サラボナの東を指で指し示す。
「この辺りか。陸地で行くのは困難だぞ。海から入ることになる。グランバニアから船で向かうとしたらとんでもなく時間がかかるぞ。サラボナのルドマンさんに協力してもらった方がいいんじゃないのか」
「ううん、魔法のじゅうたんがあるからそれで向かう」
「何だよ、それ」
「あ、そうか。この前来た時は見せてなかったね。後で外で見てみる? 空を飛べるじゅうたんなんだよ」
「……もう、お前の周りには不思議があり過ぎて、感覚が麻痺してくるよ」
ヘンリーが溜め息をついてレモン水を飲む隣で、コリンズが部屋の床を見つめている。空を飛ぶじゅうたんと言われ、床に敷かれているじゅうたんが空を飛ぶと言うのはどういうことだろうかと、首を傾げながら一人想像していたようだ。
「お父さん、それと風の帽子のお礼を言わないと」
ポピーが大事なことを言い忘れていたというようにそう言うと、リュカも思い出したようにヘンリーに伝える。
「そうそう、湖の中から出た時にさ、僕たち魔力が尽きちゃってるところに魔物に襲われて、ちょっと、いや、かなり危なかったんだよね。その時、コリンズ君にもらった風の帽子に助けてもらったんだ。おかげで生きて戻れたよ。ありがとう」
笑いながらそう話す横で、ポピーが身に着けている道具袋から風の帽子を取り出してテーブルの上に置いた。ポピーの道具袋に折りたたんで入れられていた帽子だが、形を崩すこともなく元の形に戻ってポピーの飲むグラスの横に置かれる。白い羽飾りも全く傷んでいないのは、やはりこの帽子自体に魔力が宿っている証拠なのだろう。
「今、お前、さらっとヤバイことを言ったよな。魔力が尽きてたって、もしコレがなかったらどうするつもりだったんだよ」
「どうするつもりって、どうもできなかったから、頑張って走って逃げるくらいしか……あ、でも今考えたら、あそこで魔法のじゅうたんを広げてみんなで乗れば……」
「お父さん、あの時そんな余裕はなかったと思うよ。ポピーのところに集まって、この帽子の魔力で飛んで行くくらいしかできなかったんじゃないかな」
「魔法のじゅうたんは広げるのに少し時間がかかるものね。それもお父さんにしかできないし」
「……まあ、みんな無事に戻ってこられて何よりだよ。お前もさぁ、こんな可愛い二人の子供がいるんだから、もっと色々と慎重になれよな。この子たちを守ってやるのはお前しかいないんだから」
「うん……ごめんなさい」
ヘンリーの言うことはもっともだと、リュカはただ謝ることしかできなかった。本来ならばまだ十歳にも満たない小さな子供たちを危険な旅に連れて行くこと自体考えられないことだが、こればかりはティミーもポピーも譲らない。しかも彼らには普通の子供とは思えないほどの未知の力があり、ましてやティミーは世界がその存在を望む勇者と言う肩書をもって生まれてしまった。グランバニアの王子王女として生まれたことも大した運命だが、二人にはそれ以上の運命がのしかかっている。そしてその運命を彼らは確かに受け入れているのだから、リュカは二人を護りつつも背中を押さなくてはならないのだ。
「ヘンリー様、お父さんは何も悪くないんです。ボクたちがもっともっと強くなれば、こんな足手まといみたいなことにはならないのに……」
「そ、そうなんです。私たちがまだまだ未熟だから……もっとたくさんの呪文を覚えたいのに、なかなか覚えられなくって……」
ティミーとポピーがまるでリュカをかばうような言葉をかけてくることに、ヘンリーは二人の必要以上に大人びてしまった精神を感じた。そしてかつてのリュカを思い出す。『ボクがもっと強ければ、お父さんを死なせることなんて……』ボロボロの奴隷の服に身を包み、虚ろな目でそう言うリュカの姿を知っているのは、ヘンリーだけだ。
ティミーとポピーはグランバニアの王子王女として生まれ、早くから高等な教育を受けて育ち、今は勇者として、勇者を支える妹として、母と祖母を探すという過酷な旅に首を突っ込んでいる。いずれはまだ年端も行かぬこの少年が勇者として立ち上がり、世界を救うために伝説の剣を掲げるのだろうと思うと、ヘンリーはやるせない気持ちになる。
「なぁ、ここにいる間はよ、ただの子供になってくれよ。背負わなきゃいけないもの、あるだろうけど、今はそんなの全部どっかに置いておけよ」
「ただの子供って、どういうことですか」
ティミーがただ純粋にそう問いかける姿に、リュカもヘンリーも思わず顔を歪める。普通の子供としての楽しみ方を知らないまま、ティミーもポピーもここまで大きくなってしまったのかと、彼らの過ごした年月を惜しく思う。
「ただの子供はただの子供だよ。ただ外で楽しく遊んで、面倒なことは何にも考えない。……そうだ、コリンズ、お前今日は勉強の時間はいいからさ、二人と一緒に中庭で遊んで来いよ」
「えっ? 本当に勉強しなくていいの?」
「ああ、いいよ。後で俺から先生に言っておいてやる。今日は特別にグランバニアの王子王女の接待をするから、勉強は勘弁してやってくれって」
「ラッキー! 今日は国の歴史をやるって言ってて、オレ、やだなぁって思ってたんだよね」
「あ、そうなの? じゃあそれは明日の追加授業でやってくれってお願いしとくわ」
「えー、ふざけんなよ、オヤジ! それじゃあ意味ないだろ!」
「うるせぇ、普段から真面目に真剣に勉強してれば俺ももう少し温情措置を取るけどな。お前は隙あらば先生が来る前に部屋から逃げてるだろ。逃げ足だけは本当に早いって、先生褒めてたぞ」
意地の悪い笑みを浮かべるヘンリーに、コリンズは悔しそうに父を横目でじろりと睨む。二人のいつもと変わらぬ様子を見ながら、マリアはティミーとコリンズの前に置かれた空になったグラスを手に取ると、片づけるために奥へと歩いて行く。
「コリンズ、外で遊ぶのなら着替えてから行きなさい。その服では動きづらいでしょう」
「はい、母上。えっと、着替えの服はどこにあったっけ?」
「あなたの服の引き出しの下から三段目に一揃いあったはずよ。あまり時間も取れないでしょうから、早くお二人をご案内して差し上げなさい」
「はーい。じゃあ、ちょっと待ってろよ、子分ども」
コリンズの不遜な態度にポピーが言い返す前に、ヘンリーがその頭を強めに小突いていた。コリンズは叩かれた頭をグシャグシャと両手で撫でながら、ぶつくさと文句を口にして奥へと姿を消した。
「コリンズ君ってさぁ、本当に小さい頃のヘンリーそっくりだよね。笑っちゃうくらいに」
「何言ってんだよ。俺の方がよっぽど可愛げってもんがあっただろうが」
「何言ってんのさ。コリンズ君の方がよっぽど可愛げがあるよ。マリアの言うことにはすっごい素直に従ってるもん」
「……ああ、まあな。マリアの言うことには逆らえないんだよ、あいつ」
父であるヘンリーや他人に対してはいくらでも悪態をつくコリンズだが、母マリアに対しては一つも悪態をつくことがない。その理由は様々あるだろうが、やはりコリンズが母親であるマリアに深く心を委ねているからなのだろうとリュカは思った。またマリア自身に備わる深い慈愛の精神に、コリンズは逆らう意識を働かせることができない。マリアがいくら厳しい言葉をかけても、コリンズは素直にその言葉を受けて反省するくらいに、母と子の絆は強いのだとリュカはその関係性に憧憬の情を抱く。
自分自身も、双子の子供達も知らない母と子の絆に、リュカは思わず視線を彷徨わせる。その様子に違和感を抱いたヘンリーは、リュカの隣に座るティミーに笑顔で話しかける。
「コリンズの奴さ、最近、剣の稽古だけはかなり真面目にやるようになったんだよ。だからちょっと相手してやってもらえると助かるよ」
「えっ、本当に? じゃあ檜の棒を貸してもらえたら、一緒に剣の稽古ができるね!」
「でもどうして剣のお稽古を真面目にやるようになったんですか?」
ポピーがコリンズの真面目を疑うような視線で問いかけてくるのを、ヘンリーは苦笑いして見る。彼女が息子に対して良い感情を持っていないことは嫌でも理解している。しかしヘンリー自身、自分の子供が嫌われたままではさすがに心中穏やかではない。
「君たち二人に触発されたってのが正しいところだろうな。自分はぬくぬくと城の中にいて、君たちは厳しい旅に出ているって考えたら、ちょっとは頑張らないとって思ったんじゃないかな」
ヘンリーは以前、リュカたちがこの国を訪れた後、コリンズにリュカたちの負う使命について話をしていた。初めは現実逃避をするかのように父の話を突っぱねていたコリンズだったが、それは現実逃避をしたいくらいに厳しい現実に向かっている彼らを信じたくなかったからだった。一つしか年が上ではない少年少女が、命を賭けるような旅をしているということは、コリンズにとって体中が震えるような恐怖の現実だった。
「あ、でもティミー君に本気を出されたら、あいつのやる気も一発でしぼんじまうかも知れないから、くれぐれも手加減してやってくれよ」
「それとティミー、呪文は使っちゃダメだよ。楽しくなるとすぐに呪文を使おうとしちゃうからね」
「わかってるよ! じゃあ、勝負の審判はポピーがやってくれよな。よおし、負けないぞ~」
ティミーが楽しそうに気合いを入れる様子を見ながら、リュカとヘンリーは一抹の不安を感じたが、ポピーがリュカの手に手を乗せて「大丈夫よ、お兄ちゃんは回復呪文も使えるし」と相手に怪我をさせる前提の物言いをしてきたことに、父親二人は思わず苦笑いを交わした。



ラインハット城の中庭には昼下がりの夏の終りの暑さが満ちていた。木陰に入り、風が通れば涼やかで、木陰で昼寝をしたり読書をするにはちょうど良い気候だ。しかし中庭で走り回って遊ぶ子供たちにとっては少々暑すぎる頃合いで、ティミーもポピーも旅装用のマントを外して、木陰の下にあるベンチに置いていた。
動きやすい服に着替えてきたコリンズの服装は、旅人の服に多少の装飾を加えたもので、その上にマントを羽織っていたが、双子がすぐにマントを外したのに倣って彼も同じようにマントを外してベンチの背にかけて置いていた。簡素な服に身を包んだコリンズを初めて目にしたティミーとポピーは、王族らしい格好から解き放たれた彼との距離感が縮まったような気がして、まるで何度も遊んだことがあるような気持ちで話し始める。
「コリンズ君、いつもその檜の棒で剣の稽古をしてるの?」
「ああ、そうだよ。ティミーはこっちを使えよ」
二本用意してきた内の一本を、コリンズは投げてティミーに渡す。受け取るティミーは、使い慣れている天空の剣とは違う感触に早く慣れるようにと、握りの部分を両手で強く握りこむ。天空の剣の方がよほど重いはずだが、久しぶりに手にする檜の棒は思ったよりも重く感じた。
「オ、オレは実践なんかやったことないんだからな。お前、ゼッタイに手加減しろよ!」
「お兄ちゃん、コリンズ君に怪我させちゃダメだよ。わかってる?」
「うん、わかってるよ。じゃあ、いいよ、かかってきて」
ティミーは笑いながら右手に檜の棒を構える。想像よりも低い姿勢で構えるティミーを見ながら、コリンズは習った通りの型で両手に檜の棒を握り、正面に構える。足元には手入れのされた芝生が広がる。日差しを受けて青々と輝く芝生の景色の中、コリンズが首に汗を垂れながら飛びかかって行った。
檜の棒が打ち合う小気味よい音が中庭に響く。コリンズが次々と打つ檜の棒を、ティミーは余さず檜の棒で受ける。初めは笑顔を見せていたティミーだったが、思ったよりも打ち込みの強いコリンズにティミーの笑顔が消えた。城の中でぬくぬくと暮らしていると言う割に、コリンズの剣術はなかなか上等なものだった。
一瞬、間合いが離れた瞬間、コリンズが何かに気づいたような声を上げる。
「あっ!」
「えっ?」
コリンズが声を上げて目を向けたその視線を追い、ティミーも慌てて自身の後方を見やる。
「引っかかったな!」
思わず後ろを振り向いてしまったティミーの右手を、コリンズの檜の棒が容赦なく打つ。その痛さに思わず顔をしかめ、ティミーは手にする檜の棒を取り落としそうになるが、すぐに気を持ち直す。そして不敵な笑みを浮かべるコリンズの右手を、下から薙ぎ払うように打ち返した。コリンズの短い悲鳴と共に、檜の棒が激しく回転しながら宙を舞って行く。芝生の上に転がる檜の棒を見やることもなく、コリンズは右手を抑えてその場に蹲った。
「い、痛い痛い! なんだよ、コレ! 手が折れたんじゃないのか!?」
「あっ、ごめん、コリンズ君! やり過ぎた!」
「で、でもコリンズ君がいけないのよ! だって、あんなズルイ手を使うから……」
正当な意見を言おうとするポピーだが、目に涙を滲ませて歯を食いしばるコリンズを見ると、言葉が続かなかった。コリンズの傍にしゃがみこんだティミーが思い切り打ってしまった彼の右手を手に取ると、コリンズは再び悲鳴を上げる。
「は、離せよ! いいよ、城の神父に見てもらう……」
「大丈夫、ボクが治せるから。ちょっとじっとしてて」
あまりの痛さに暴れてしまうコリンズの右手を、ティミーは力強く抑える。それでもまだ抵抗しようとするコリンズの左手を、今度はポピーが優しく両手で握る。
「コリンズ君、お兄ちゃんは回復呪文が使えるの。だから、ちょっと大人しくしてて。治してくれるから」
ポピーに間近に顔を覗き込まれ、コリンズは目から涙を流しながら呆然とその顔を見つめ返した。大人しくなったコリンズの右手に、ティミーが回復呪文を施す。骨は折れていなかったが、打撲で腫れかけていた彼の右手に治癒呪文が届き、腫れることもなくあっという間に元の通りに治ってしまった。痛みも感じなくなった右手を見て、コリンズは素直に驚きの表情を示す。
「回復呪文……そっか、お前やリュカ王は使えるんだったな」
「うん。便利でしょ。大体の怪我はこれで治っちゃうんだ」
屈託なく笑うティミーを見て、コリンズは腹でも立てるように口を尖らせる。しかしすぐにティミーが負う色々なことを思い、腹を立てている場合ではないと素直な気持ちを取り戻す。
「そっか。……へへっ、何だよ、オレ、本当になさけねぇな……」
ティミーは世界が必要としている勇者で、グランバニアの王子で、剣術も強く、呪文も幅広く使える。目の前の一つ上の少年は一体いくつのものを持っているのだろうかと、コリンズは嫌でも自分が非常に小さい者に感じられた。
「お前たちがすごく頑張ってるんだって父上から聞いて、オレも頑張んなきゃなって思ったけど……こんなもんなんだよな」
芝生の上で胡坐をかきながら、コリンズは独り言のように呟く。目には相変わらず涙が滲んでいる。心底落ち込んでいる雰囲気の彼の顔を覗き込むようにして、ティミーが明るい声で励ます言葉をかける。
「でもコリンズ君はすっごく剣の稽古をしてるんだって、ボク、わかったよ。あんなに速く打ってくると思わなかったもん」
「あっ、それってオレのことをバカにしてるからな! ティミー、お前、そういうの良くないぞ!」
「バカになんかしてないよ! だってボクたちは旅に出て、本当に魔物たちと戦ってるけど、コリンズ君は城での剣の稽古だけでこれだけ強いんでしょ! それってスゴイことだと思うよ!」
「何を言ったって、勇者様が言ったら嫌味にしか聞こえないんだよ! オレだって、本当は、お前たちと一緒に……」
「すねたって仕方ないでしょ!」
二人の言い合いに、ポピーの高い声が割り込んだ。いつもと違う妹の雰囲気に、耳にも心にも響くその声に、ティミーとコリンズは揃って彼女を振り向き見た。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだし、コリンズ君はコリンズ君でしょ! できることは違うの。違うことを頑張ればいいの! 私だって回復呪文が使えて、剣が上手で、お父さんと一緒に戦えるお兄ちゃんが羨ましい。私はいつも守られてばかりだもの……。でもその分私は呪文を覚えるのを頑張ってる。やっぱり回復呪文は使えないけど、それでも自分にできることはもっともっと呪文を覚えることくらいだから。私も、勇者じゃないから、勇者じゃないけど、自分の頑張れることを頑張るの!」
ポピーが感情に任せて物事を言うのは珍しい。ティミーと喧嘩をして言葉を荒げることはあるが、これほど自分自身の中に溜めた思いを打ち明ける姿を、ティミーは久々に見た。以前この姿と同じ彼女を見た時を思い出せば、それもやはりひと月ほど前にコリンズに対して文句を言っていた時だったような気がする。
「ポピーはすごいじゃないかよ。お前、色んな呪文が使えるんだろ」
コリンズの言葉にポピーは一度目を瞬いて、表情を歪めながら小声で応える。
「でも回復呪文は使えないもん」
「でもお前のおかげでティミーもリュカ王も、前にここに来た魔物の仲間らも助かってんだろ? お前がみんなを助けてるから、みんな生きていられるんじゃないのかよ」
涙目のコリンズが半ば睨むような視線をポピーに向けてそんなことを言う。守られた城での生活を送るコリンズにとって、ティミーとポピーが厳しい旅の中でどのように生き抜いているかなど想像することしかできない。しかしこれまでこうして無事に旅を続けているということは、目の前の双子は守られているだけの存在ではなく、旅の仲間の一員としてその役目を果たしているのだろうと、自分にはできないことをやってのける二人に対しどうしようもない憧憬を抱く。
しかもポピーは女の子であり、グランバニア国の王女様だ。お伽噺の中の王女様は大抵、誰かに守られる立場のはずだ。それなのに彼女は自ら厳しい旅について行くことを願い、それに見合うようにと呪文の習得に余念がない。兄が勇者と言う特別な存在ではあるが、呪文の得手不得手だけで考えれば、恐らく妹のポピーの方が優れているということを、コリンズは以前父から話に聞いていた。
「そうだよ、ポピー。ボクたちみんな、ポピーがいてくれるから今までこうして無事に旅ができているんだよ」
「お兄ちゃんは……世界を救うって言われる勇者なんだもの。だから妹の私も頑張らないといけないの」
「……ボクが勇者じゃなかったらなって、思う時があるよ」
そう言いながら芝生に腰を下ろし、両足を投げ出すティミーをポピーもコリンズも言葉なくただ見つめる。常に勇者としての自覚を持ち、前向きで明るい兄が元気なくぼんやりと地面を見つめているような姿に、ポピーは不安な視線を向ける。
「だって、ボクが勇者だから、お父さんもポピーも辛い顔をするんだ。でもボクがやるしかないからさ。でもやっぱりボクだけじゃ無理なんだ」
ティミーは頭の中で考えがまとまらないながらも、素直に思ったことを口にする。相反するような気持ちも全て、自分の胸の中に確かにあるものだ。勇者に生まれたことを誇りに思う。勇者に生まれなければ良かった。勇者だから皆を守らなければならない。勇者だけど、子供の自分は一人じゃ何も守れない。父には話せない嘘偽りのない本心を、今のポピーとコリンズになら話しても良い気がした。
「たまにさ、こうして一緒に遊んでくれると嬉しいな」
勇者である自分が、勇者でなくても良い時間を持つ。優しい父に頼めば恐らく、その時間を彼に与えてくれるに違いない。しかしティミーは勇者ではなくても良い時間を与えられるのではなく、その時間を誰かと肩を並べて共有したいと感じた。
「コリンズ君とポピーと、いつも気にしてることをなーんにも気にしないでさ。こうして遊べたら、ボク、もっと頑張れる気がするよ」
そう話すティミーの表情は笑顔だ。今までは妹のポピーとだけ一緒に遊んでいた。双子はグランバニアの王子王女で、気兼ねなく遊べるような同じ年の頃の友人はいない。しかし相手がラインハットの王子となれば、対等の立場で友人関係を築ける。それどころか相手の王子は自分が親分と言ってふんぞり返るような態度を取ったりもする。要らぬ気兼ねをすることもないもう一人の王子と、ティミーは本当の友達になりたいと思った。
「うん、わかった。いつでもラインハットに来いよ。オレもお前たちが来てくれればこうして嫌な勉強から解放されるから、願ったり叶ったりだ」
ティミーの明瞭で真面目な願いに、コリンズはにやりと不敵な笑みを浮かべてそんなことを言う。軽い調子で返事をするコリンズに、ティミーは同じような笑みを浮かべ、ポピーは憤慨するように両手を腰に当てる。
「お勉強はしっかりしないとダメなの! コリンズ君は王様になるんでしょ? 国の人たちのためにも、お勉強するのは大事……」
「えー、何だよ、もう。お前たちが来るときくらいはいいじゃんかよ。なんでポピーにまでお小言言われなきゃなんないんだよ。そんなのオヤジや城のヤツらだけで十分だよ」
「そうだよ、ポピー。ボクたち、息抜きするのも大事なんだよ。だから……」
ティミーはラインハットの中庭の一点を見つめる。既に日は落ちかけ、中庭には大きな影ができている。夏の暑さもようやく落ち着く時間帯、中庭の端に立つ一本の木に目を留める。
「あの木まで競争だ!」
ティミーはそう言うや否や、その場で飛ぶように立ち上がると、中庭の端に立つ木まで走り始めた。唐突に走り始めた兄の後を追いかけるポピーに、その後を「ズルイぞ! 先に走り始めるなんて!」と文句を言いながら追いかけるコリンズ。途中、芝生の上で転んでしまったポピーを一瞬追い抜かしたコリンズだったが、すぐに戻ってポピーに手を差し出す。まるで王子のような立ち居振る舞いをするコリンズを見たポピーは、不機嫌そうながらもその顔つきが彼の父にそっくりだと気づき、伸ばしかけた手を引っ込める。
「おい、大丈夫か? どこかケガでもしたのか?」
心配そうに顔を覗き込まれ、居心地の悪くなったポピーは、コリンズの手を取らないままさっと立ち上がると先に走り出してしまった。
「お先にー!」
「あっ、何だよ、お前ら! 兄妹揃ってズルしやがって!」
先に走り出したポピーに、コリンズは間もなく追いついた。足の速さに関しては、コリンズはティミーにも引けを取らない速さのようだった。本人曰く「逃げ足で鍛えてるからな!」と自慢にもならない自慢をしていた。
その後も彼らは木登りを楽しんだり、庭を飛び回る虫を捕まえたり、もう一度剣の手合わせをしたり、覚えた呪文について話をしたりと、夏の夕刻の時間になるまで遊び続けた。
マリアが様子を見に行った時には、三人ともお世辞にも王子王女とは呼べない有り様になっていた。全身泥汚れになり、それでも屈託なく笑い合っている子供たちを見て、マリアは湯浴みの準備をしておいて良かったと、子供たちの子供らしい姿に顔を綻ばせた。



ラインハットの中庭は通常、城に住む者や、城下町の子供たちにも開放することがある。しかしグランバニア国王と王子王女の訪問があったと城中に知れ渡ると同時に、今日限りはと中庭の使用を制限させていた。中庭を望む回廊の大窓から、城中に働く者たちは中庭でのびのびと遊ぶコリンズ王子の姿を驚いたような表情で見つめていた。同等の立場の友人ができた王子のいかにも子供らしい顔つきを見て、城の者たちは一様に安心した心地になっていた。
夕刻になると、広い中庭には大きな城の影が伸び、ほぼ一面が陰に覆われる。まだ庭の東の端に日向の残る時間に、マリアはコリンズを呼び、次いでティミーとポピーを呼ぶ。
「ティミー君、ポピーちゃん、コリンズと一緒に遊んでくれてありがとう」
ふわりと優しく微笑むマリアを見て、ティミーもポピーも釣られるようにふわりと微笑む。
「湯浴みの準備ができているから、そろそろお部屋に戻って順番に身体を清めていらっしゃい」
「えっ、でも、私たちはそろそろグランバニアに……」
「その姿でグランバニアに戻ったら、ラインハットで何かあったんじゃないかって疑われてしまうかも。身ぎれいにしてから帰った方が良いと思うわ」
ただ子供同士で子供らしく遊んだだけなのだが、三人とも一国の王子王女と言う立場だ。しかもグランバニアの中にはラインハットに対して複雑な思いを抱く者も少なからずいる。余計な面倒を起こさないためにも、マリアの言う通り身ぎれいにした方が良いのだろうとティミーもポピーも静かに思い至る。
マリアの隣にコリンズが並び、その後ろをティミーとポピーがついて行く。ラインハット城内の回廊を歩いていると、城内を歩く人々に出会う。彼らは皆、マリアを見るなり一度立ち止まり恭しく頭を下げる。その一人一人にマリアも丁寧に会釈をし、言葉のない挨拶を交わす。中庭に落ちる日差しは完全になくなり、辺りは暗くなってきた。城内の燭台の一つ一つに明かりが灯されていく。
前を歩くマリアからは仄かに花の香りが漂う。慎ましやかで上品なその香りに、ティミーもポピーも今までに感じたことのない不思議な感覚を得る。グランバニアでも香油を身にまとう女性はいるが、それとは異なる雰囲気がマリアにはある。双子の兄妹はマリアとコリンズという母子の後ろを歩きながら、その香りと光景に喉の奥が痛くなるような憧憬を抱く。
四階に位置するラインハット王兄夫妻の自室に着くと、部屋の中ではリュカとヘンリーが相変わらずテーブルを挟みながら話を続けていた。夕方まで遊んで戻ってきた三人の子供の姿を見て、リュカもヘンリーもそれぞれ平和に笑う。
「派手に遊んできたもんだな。早く風呂に入ってきれいにしてこい」
「よっぽど楽しかったんだね。良かったね、みんなで遊べて」
「コリンズがこれだけ泥だらけになって遊ぶのは珍しいわね。よっぽど二人と遊ぶのが楽しかったんでしょう」
「そっ、そんなこと……いや、うん、楽しかったです、母上」
コリンズは母マリアの前では非常に素直な子供だった。一度は楽しかったことを認めようとしない雰囲気を出したものの、マリアに微笑まれれば彼の中にある妙なプライドは鳴りを潜める。
「ティミー君とコリンズで先に入ってらっしゃい。あ、ポピーちゃんは後でね。お部屋で待っていましょう」
マリアの言葉にポピーは一瞬の間の後、控えめに「はい」と返事をした。いつもであればポピーはティミーと一緒に湯浴みを済ませる。生まれた時から一緒に過ごした双子の兄とは、ほとんどの時を共に過ごしている。グランバニアでは通用するその常識も、余所の国では非常識となるのだろうかと、ポピーは同じように不安な目をしているティミーを窺うように見つめた。
「じゃあティミー、一緒に背中の流し合いっこしようぜ」
コリンズの言葉に、ティミーが途端にその目から不安を消してしまった。そしてすぐに楽し気な色を発する兄の姿を見て、ポピーは一人嘆息する。
「うん、じゃあ全力でコリンズ君の背中を洗ってあげるよ!」
「全力! やめろよ! お前が全力で洗ったら背中の皮がなくなるだろ!」
「じゃあ手加減するって、さっきみたいに」
「オレの手を思い切り打つくらいにか? お前の手加減は信用ならない!」
ぎゃあぎゃあと賑やかに話をしながらティミーとコリンズは湯浴みの場所へと歩いて行った。ティミーは誰彼構わず、すぐに相手の心の中に入り、仲良くなってしまう。兄が誰かのことを悪く言っているところを、ポピーは見たことがない。中庭でひと時遊んだコリンズと、既にずっと前から仲良しだったかのように話しながら歩いて行ってしまうティミーの後姿を、ポピーは恨めし気に見つめた。
一人残されたポピーは所在なさげにその場に立っていたが、マリアに促されリュカのところへ歩いて行く。リュカは遊んで汚れたポピーの状態を見て、再び笑う。
「ポピーもやっぱりお母さんの子供だね」
旅の最中は旅装を土埃に汚すことはむしろ普通のことだ。しかしグランバニアではない余所の国の中庭でも元気いっぱいに遊び、いつもの旅装をいつものように汚した娘を見て、リュカは安心した心地でそう言う。
「そっか。ビアンカさん、子供の頃はお転婆だったんだっけ?」
「うん。ビアンカのお母さんも手を焼いていたんじゃないかな。いつでもどこでも走り回って、木登りも得意で、夜に町の外に出ようなんて決心するような女の子だったからね」
父リュカから穏やかに語られる母の話に、ポピーは当然のように興味をそそられた。
「お母さんは木登りが上手だったの?」
「うん。器用にすいすいっと上の方まで上って行くんだよ。高いところも怖くなかったみたいだし。木の上から町の景色を見るのが好きだったみたい」
「それってお母さんがいくつの時の話なの?」
「あの時は……ちょうどポピーと同じ年の頃だよ。僕が六歳で、ビアンカは八歳だった」
「私と同じ年の……そうなんだ、お母さん……」
リュカはポピーを見ながら、ポピーはリュカを見ながら、それぞれに思いを馳せる。ポピーの脳裏には、プサンが見せたゴールドオーブの記憶の中に映った二つのお下げ髪の女の子の姿が蘇る。いかにも溌溂とした八歳の女の子が木登りしている姿は、母を知らないポピーにも容易く想像することができた。リュカも、まるであの頃のビアンカの生き写しの様に育つ娘の姿を見ながら、子供の頃の妻の元気な姿をありありと思い出すことができる。過去の記憶でありながらも、今目の前にその景色が存在しているかのような状況に、リュカは無意識にも楽し気に微笑んでしまう。
「お父さんとお母さんは幼馴染って関係なのよね。幼馴染が大人になって結婚するなんて、何だか、とてもロマンチックね」
ポピーの大人びた発言に、リュカは思わず困ったように笑うだけだ。一度、別れ別れになったビアンカと大人になって再会できたのは、全て偶然の賜物だった。再会できたこと自体が奇跡のようなものだった。そう考えれば、ポピーの言う通りロマンチックな出来事なのかも知れない。
「そうかもね。僕もまさか、ビアンカと結婚して、二人の可愛い子供たちに会えるとは思わなかったよ」
そう言いながらリュカは隣に座るポピーの頭を柔らかく撫でる。彼が八年間、石の呪いを受けている間に、ティミーもポピーもすくすくと成長し、あの時のビアンカの年齢に追いついてしまった。できることなら時を戻し、二人の成長を一からもう一度見てみたい。しかしそれは、母親であるビアンカの方が強く思っていることだろうと、リュカは今もどこかで石の呪いを受けている彼女を思い、目を伏せる。
「ポピーちゃんはお母さんに会えたら、どんな話をしたいんだ?」
向かいの椅子に座るヘンリーに問いかけられ、ポピーは視線を宙に彷徨わせながら考える。ポピーの想像する母の姿は、幼い頃の母をそのまま大きくしたような二つの三つ編みを元気に跳ねさせる溌溂とした女性だ。大人になっても恐らく、その元気さは変わっていないに違いないと、ポピーには確信めいた思いがある。
「どうしてお父さんと結婚したのって聞いてみたいかな」
「ははっ、いかにも女の子らしいな」
ポピーの言葉にヘンリーは屈託なく笑う。彼の笑いの中にも、母が今も無事にどこかで生きていると思わせる安心がある。今はここにいない母の話をしている時、父リュカも、ヘンリーもマリアも、誰もが母が絶対にどこかで生きていると思わせる温かさがある。ティミーもポピーも知らない母にはきっと、皆にそう思わせる強さがあるのだろう。まだ生まれてすぐの双子を、身を挺して守り抜いた母だ。八年の時を経て石の呪いから解放された父と同様、母もまた今もどこかで家族の助けを待ち続けているのだと、ポピーは三人の大人が与えてくれる母の強さを信じられると感じる。
「お父さんはどうしてお母さんと結婚しようと思ったの?」
そう言えば父に聞いたことがなかったと、ポピーは至って普通に問いかける。急に自分に矛先が向けられたリュカは思わず言葉に詰まる。果たしてどこから説明すればよいのかと過去の出来事を頭の中でまとめようとするが、その必要もないだろうと端的に理由を教える。
「ビアンカしかいないと思ったからだよ」
リュカは真面目に、ごく普通に自分の気持ちを伝えただけだったが、ポピーもヘンリーもマリアも動きを止めたのを見て不思議そうに首を傾げる。
「……出た、天然タラシ発言。そういうところだよな、お前って」
「何だよ、別に特別な事なんて言ってないと思うけど」
「お前にとっちゃそうなんだろうけどさ。聞かされる方としては赤面ものなんだよ」
「だって結婚するってそういうものだろ? ヘンリーだってそうだったはずだよ」
「そりゃそうかも知んないけどさ、俺だったらもう少し言葉を選ぶかな」
「どんな言葉?」
「教えるかよ」
「……ステキだわ、お父さん。お母さんのこと、とっても好きなのね」
リュカとヘンリーが小さな言い合いを始めた傍らで、ポピーは感動したように隣のリュカを見上げていた。
「私もそんな風に好きになってくれる人と、将来一緒になりたいな」
「あはは、ポピーにはまだまだ早いよ。まだ君は八歳だよ。あと十年は……」
「十年なんてあっという間だぜ~。お前、その時ポピーちゃんを嫁に出す覚悟ができんのか?」
「何言ってんの、ヘンリー。ポピーがお嫁に行くなんて、そんなの、まだまだ先のことだし、第一ポピーに見合う相手なんてなかなかいないもんね」
「お前、そんなこと言ってポピーちゃんの意思をないがしろにするなよ。グランバニアの大事な王女様だろうけど、ポピーちゃんの意思が一番大事なんだからな」
大の大人二人が取り留めもなく言い争いを始める中、ポピーはふとマリアと目が合った。マリアは声には出さず、口だけで「困った人たちね」とこっそりとポピーに伝えると、奥の浴室から飛び出してきた元気な声を聞いて静かにそちらへ歩いて行った。兄ティミーとコリンズが浴室から出てきたようだった。そして間もなく、マリアが奥からポピーを呼ぶ。
「行っておいで。マリアがいるから大丈夫だよ」
父リュカがヘンリーの妻マリアを無条件に信頼する理由を、ポピーは知らない。父が友人の妻を呼び捨てで呼ぶのにも、どこか違和感があった。父とヘンリーが特別に仲の良い友人であることは見るも明らかだが、父とマリアの間にも不思議な絆を感じるのはどういうわけなのだろう。ただそれは不思議ではあるものの、嫌な空気を生み出すようなものではない。いつか父にそのような話を聞いてみたいと思いながら、ポピーは奥の浴室へと向かった。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく呼んでね」
マリアが手際よく脱衣所に着替えやタオルを用意してくれているのを見て、彼女が元は修道女だったということをポピーは思い出す。甲斐甲斐しく人の世話をするその姿は、王兄妃殿下と呼ぶにはあまりにも温かみに溢れている気がした。そしてその温かみには元修道女であることと共に、母であるということが滲み出ていた。
マリアの手には大きなタオルが抱えられていた。そのタオルを広げながら既に着替えの服を着たコリンズの傍に寄ると、おもむろに彼の頭にタオルを被せて優しく拭き始めた。コリンズは慣れた様子でじっとされるがまま、むしろ母の手で髪を拭かれることに心地よさを感じているように見えた。そんな母子の姿を、ティミーもポピーも無意識に見つめてしまう。
「ティミー君、同じタオルでも大丈夫かしら」
そういうマリアに、ティミーは自分が話しかけられたとも思わずに、ただマリアが手にしている大きなタオルを見つめている。ティミーもコリンズと同じような簡素な部屋着を借り、その服に袖を通している。少々寸足らずの服を着るティミーにマリアはにこやかに微笑んだまま、同じタオルで彼の癖のある金髪を同じように優しく拭き始めた。ティミーはその感触を、生まれて初めて味わったような気がした。今まで元気にコリンズと話をしていたというのに、マリアに優しく髪を拭かれている内は、胸の中の全てのものが穏やかに落ち着き、目を閉じて心を何か温かなものに委ねていたい気になった。
「私、ビアンカさんに今度お会いした時に、謝らないといけないわね」
そう言いながらもマリアがティミーの髪を拭く手は止まらない。
「本当はビアンカさんの役目だものね」
マリアの言葉を聞いて、ティミーは心が凪いで、心を委ねたくなった理由が分かった。その光景を見ていたポピーも、ああ、そういうことかと感じ、決して嫌な思いは抱かなかった。
「私じゃあなたたちのお母さんの代わりにはなれないけど、このラインハットに来た時には遠慮なく私に甘えてね。私も二人のことをコリンズのお兄ちゃんお姉ちゃんみたいに思うから」
生まれてからまだ母を目にしたことのない二人の心の拠り所になれればと、マリアはそう言った。本当の母の愛情には遠く及ばないが、それでも今はまだ母との再会を果たせない双子の心を少しでも支えることができれば嬉しいのだと、マリアは二人に伝える。
「そうだぞ。オレの母上はとても優しいんだ。お前たちももっと遠慮なく甘えていいんだからな」
コリンズも双子の母がいない境遇を知っている。そうでなければ彼は自分の母を取られまいと双子に嫉妬を向けていたに違いなかった。彼は彼で、もし自分の母が何者かに攫われ、行方知れずのまま数年も過ぎ去っていたとしたらと考えると、今にも死んでしまいそうなほどの寂しさに駆られるのが分かっている。それを耐えている双子の王子王女に、母マリアを頼れと言えるのはコリンズの優しさでもあった。
「……あの、じゃあ、一つだけいいですか、マリア様」
「はい、なあに、ポピーちゃん」
ティミーの髪を拭き終わったマリアは、拭いても尚あちこちに跳ねるティミーの強い癖毛をぽんぽんと撫でながらポピーの言葉に耳を傾ける。ポピーはうつ向きがちに、しかしはっきりとした憧れをもって、マリアに告げる。
「私がお風呂から出てきたら……同じように髪を拭いてもらっていいですか?」
「そんなの、言われなくてもそうさせてもらうわ」
マリアの柔らかな微笑みと、まだ見知らぬ母ビアンカの微笑みはきっと違うのだろう。しかしそれでも、ポピーは自分もティミーと同じように髪を拭いてもらいたいと思った。その感触は今はまだ、この場でしか味わえないものなのだと、マリアの手の感触に母を想おうと、照れた笑みを浮かべながらマリアを見上げた。

Comment

  1. がっちゃん より:

    ありがとうございます!
    更新を楽しみにしていました。
    ワクワクしながら読みました。
    ティミーとポピーが、泥だらけで同世代のコリンズとこんなに楽しそうに遊べて本当ほのぼのしました。命がけの旅なので、少しの間でも、子供らしく楽しませてやりたいっていう親心が感じられて、ジーンとしました。
    リュカとヘンリーが子供たちが遊んでいる間、どんなやりとりしてたのかなあと気になってしまいました。最高です、2人の掛け合いが。
    コリンズとティミーがマリアに拭いてもらう描写がすごくリアルだなあと思いました。湯あみの時の、湯気の匂いが伝わってくるようでした。

    日々の生活をされながら、多忙の中書かれているのではないかと思いますが、いつも読ませていただいて励みになっていますので、楽しみに待っています。どうかご自愛ください。

    • bibi より:

      がっちゃん 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ティミーとポピーには年相応の遊びをしてもらいたいと思い、ラインハットで存分に遊んでもらいました。
      責任や役目ばかり負っているのはあまりにも可哀相ですからね。まだまだ二人は子供なんで。
      リュカとヘンリーは他愛のない話をしながらも、互いの国の状況などの情報を交換していたりします。この二国間に争いは生じないので、気兼ねなく国家情報を明け渡すという・・・普通なら危なくてそんなことできませんけどね(笑)
      マリアには一役買ってもらいました。マリア自身、コリンズを誰かの手に委ねることなく自分自身で育てたいと申し出て、王兄妃殿下という立場よりも一人の母としての生き方を優先していると思います。そんなマリアの思いを、恐らくヘンリーが後押ししてるかと。
      私自身、子供の髪を拭いたりしていますが、これもあと数年でお役御免だよね、なんて思いながら拭いています。期間限定なんですよね、こういう触れあいって。その時を逃しちゃいけないって言う・・・ああ、そう考えると辛いですね。ビアンカ・・・(泣)
      こうしてコメントをいただけるのは私にとって本当に励みになっています。ありがとうございます。
      最近、突然気温が下がったりしているので、がっちゃんさんも風邪など引かれぬようお身体ご自愛くださいね。

  2. るぅ より:

    はじめまして、るぅと申します。

    数日前にこちらのサイトを見つけ、まだ少ししか読めていませんが原作では描かれなかったストーリーや登場人物の心理などがとても丁寧に描かれていて感動しました(*^^*)
    ここまですごいDQ5 小説は見たことがありません。

    ご多忙の中、素敵な小説を書いてくださり本当にありがとうございます。
    これからも読ませていただきます(。≧∇≦。)

    これからもどうかお身体に気を付けてください。
    応援しております!

    • bibi より:

      るぅ 様

      はじめまして。この度はコメントをいただきましてありがとうございます。
      丁寧ですか? 私は書きたいことを書いているだけなので、かなり雑に仕上がっているだろうなと思っています(汗)
      特に、子供時代の話はもう数年前に書いたものなので、今読み返すととても恥ずかしい・・・その時は私自身にも子供がいなかったので、単純に子どもというものを想像して書いているのが今は恥ずかしいです。今だったらまた、書き方が変わりそうですね。
      お褒めの言葉を胸に、これからも頑張って最後まで書いて行ければと思います。
      るぅさんもこの急な秋の気配に体調崩されぬよう、身体を冷やさないようにお気をつけくださいね。

  3. ケアル より:

    bibi様。

    コリンズにも呪文が使えるようにならないですか?
    次回の剣術の時、ティミーたちをびっくりさせちゃいましょうよ?

    そっか8歳の双子はいっしょにお風呂に入るんだ、8歳ならまだ入れますよね。
    でも、ポピー…さいしょは3人で入るつもりだった?コリンズと一緒で恥ずかしくないのかなぁ?

    マリアの優しさはティミーポピーには全部が初体験で全部が母親という愛情の初体験になるんですよね…ビアンカが居ない現状、二人ともマリアを見て触って触れて色々な感情が沸くんだろうなぁbibi様このあたりの描写は力の入れ時ですな!

    さて、次回のお話へ風の帽子だ(笑み)…

    • bibi より:

      ケアル 様

      どしどしコメントをありがとうございます。
      コリンズに呪文、使えるようにしたら面白そうですね。
      ポピーはおませなようで、そうでもない部分もあり、という感じですかね。
      同じ年の頃の友人がいないので、その辺、よく分かっていません(笑)
      これからドリス辺りに教育してもらいましょうか。
      マリアは程よく双子の面倒を見て欲しいと思います。まずは自分の子ですからね。
      コリンズを飛び越えて双子の面倒を見始めたら、コリンズのこれからのイタズラ度合いがひどいことになりますので・・・。

  4. ピピン より:

    bibiさん

    コリンズ…一緒に(戦いたい?)なんて成長したなぁ…。
    双子と打ち解けてきて大切な存在になりつつありますね。父親同士のように。

    リュカはポピーからの好感度が上がりましたね(笑)
    おませなポピーが可愛いかった…!
    あの質問はぜひビアンカにもして欲しいです( ´∀` )

    ラインハット回はいつも楽しいですが、マリアと双子の絡みは切なくも暖かくてグッと来ます…。
    ビアンカとの再会がより待ち遠しくなりますね。

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをありがとうございます。
      子供たちの話ももっと書きたいところです。それほど頻繁にラインハットへは行きませんが、これからも行く機会は作っているので、またその時に子供たちの関係も深められればと思います。
      ポピーは可愛いの代表なので、強いながらも可愛くあって欲しいと思いながら書いています。
      あの質問をビアンカに・・・そうですね、してほしいですね。どんな答えが返って来るやら、想像するだけで楽しいです。
      双子にとって、マリアは重要な役割を果たしてくれます。母が無事戻るまで、二人はマリアに母を見て、想像して、母を迎えた時にしっかりと母を感じられるように、心を成長させていければと思っています。

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