長引く森林探索

 

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森の中を歩き続けて一週間が経つ頃には、大分森での生活にも慣れた。木々に囲まれ、適度に温かな森の中では夜を過ごすのもそれほど寒くはなく、交代で取る休息で寒さに凍えることも暑さに寝苦しくなることもなかった。耳をすませば近くに流れる小川を見つけることもでき、水の補給に困ることもなく、川魚を取って食事に出すこともあった。
森に自生する木の中には実が生るものもあり、時折瑞々しい果実を手にすることもあった。見た目が美味しそうでも毒のある実もあるため慎重な確認が必要だったが、それでも見つけた実の半数近くは口にすることのできるものだった。長い旅を予想して、馬車の荷台には木の実や干し肉などの食糧を積み、大きな皮袋には大量の水を用意していたが、それらにはさほど手をつけずに過ごすことができた。皮袋に入る水に至っては、近くを流れる小川の清らかな水に入れ替えることも可能だった。グランバニアで口にする水よりも数段美味に感じる水のため、リュカたちは進んで皮袋の中の水を入れ替えた。
森の上から照らす太陽はさほど望めなかった。この森近辺の天候は常に曇りがちで、時折雨が降る。雨が降っても木々の下にいれば十分に雨宿りができる程度で、大雨に悩まされることはなかった。細かに振る雨によって湿る森は、場合によっては霧の深い景色に見えた。しかしそれがサラボナでアンディに聞いた景色と同じかと言えば、それとは違うとリュカには思えた。森の中で詩人が見た霧の景色のような不思議を感じない。
「お父さん、ほら、あそこ! 今、森が動いた気がするよ!」
ティミーがそう言うのはこれで六回目だ。彼もまた、サラボナのアンディに聞いた話にあった景色を探していた。アンディの知り合いの詩人がこの森を歩いた時、森が動いた瞬間があったという話を、ティミーもポピーもすっかり信じている。リュカもその話を決して疑っているわけではないが、ティミーが言うほど簡単には森は動かないだろうとも冷静に思っている。
ティミーやポピーが何かを見つけたように伝えてくれば、リュカはその都度周囲を確認し、ミニモンに森の上に飛んで行ってもらい場所を確認し、マーリンと共に地図で現在地を確認する。大方雲に隠れる太陽の位置は、森の外に出られるミニモンだけが確実に認めることができた。この森が迷いの森と呼ばれる所以は、太陽がほとんど望めないことも原因の一つなのだろう。現在位置を把握するために必要な太陽の位置が確かめられないのは、旅人にとっては致命的だ。ましてや夜ともなると、雲に覆われた空には星も月も望めず、暗闇の中に取り残されるような状況になる。
森の中で自生する木立が規則的に並んでいるわけもなく、あちこちばらばらと立つために、少しでも気を抜けばついさっきどこを歩いてきたのかすらも分からなくなる。まるで生き物のように曲がりくねる木々は一つ一つが特徴的に見えるのに、それらが乱立しているために景色は一般化してしまう。つい先ほども同じところを歩いたのではないかと思い、来た道を引き返そうとしても、引き返す道も同じように見える。少しでも気を抜けば、この広大な森から出られなくなるのではという不安で、背中には冷たい汗が流れる。
森の中には様々な動物たちが棲んでいた。鳥に鹿にリスに猿に兎にモモンガに梟にと、彼らは各々の場所で静かに生きていた。リュカたちが馬車を引いて通る際にはその身を木陰に潜ませ、森に侵入した人間と魔物の一行を見送る。グランバニアも広大な森に囲まれる国だが、この森ほど動物たちが生きている雰囲気はないだろう。それだけ動物たちにとって、この森は棲みやすい環境なのかも知れない。
ただ動物の気配がふと止んだ時には、警戒が必要だった。森の中ではまるで動物との棲み分けを行っているかのように、魔物が存在する。直前まで近くに動物の気配を感じていたと思ったら、その直後に背後を魔物に襲われるということもあった。パトリシアが引く馬車の車輪の音は、森の中でもひと際目立つ。その車輪の音を聞きつけた魔物が、動物たちの住む場所にまで入り込んでリュカたちに襲いかかる。その時は森の動物たちに申し訳ないことをしているなと、リュカは心の中で動物たちに謝りながら魔物と対峙することもあった。
今もリュカたちの目の前には、四体の小鬼が一体となったオーガヘッドが立ちはだかる。四体それぞれに特技があるらしく、それぞれ守備力を下げる呪文であったり、はたまた守備力を高める呪文であったり、幻惑の呪文を唱える小鬼もいれば魔封じの呪文を使う小鬼もいる。それらの呪文を一度に唱えられると、リュカたちとしてはひとたまりもない。一挙に形勢が不利になり、戦闘が長引いてしまい、無駄に体力が削られてしまうのだ。
「リュカ殿、こやつらにはやはり一気に攻め込むのがよろしいかと」
「あの時のガンガンゆくぞいという作戦は、実は一番適したものだったのかも知れんの」
「呪文を封じ込まれる前にどうにかしないとね」
魔封じの呪文マホトーンを唱える小鬼は、三つ目の役割を担う小鬼の内の一体だ。しかし狙いをつけて小鬼を狙っても、魔物は器用に一瞬身体をばらしてリュカたちの直接攻撃を避けてしまうことがある。剣を振るっての攻撃は埒が明かないことも多く、結局リュカたちは呪文を放って決着をつけることが多かった。おかげで皆、魔力の消耗が激しい。
なるべく周囲の木々を焼いたり傷つけたりしないように、リュカたちは呪文を放つのにも気を遣った。なるべく森の開けた場所に敵の魔物らをおびき寄せ、そこで呪文を放つ。上手く行くこともあれば、失敗することもある。失敗して呪文が魔物に届きそこなった時には、反撃に本気で身構える。あの致命傷を負いかねない石礫のような自爆攻撃を食らうことがあるからだ。
ミニモンが放ったメラミの攻撃が、一体のオーガヘッドの頭に直撃した。しかし大きな顔の上に乗る髪のような藁の寄せ集めを勢いよく燃やしただけで、髪のなくなったオーガヘッドが大事な髪を燃やされたと言わんばかりに全身を震わせて怒りを露にしている。ミニモンは大きな舌をペロッと出して「やっちまったー」と叫ぶと、宙を飛んでいち早く避難した。そしてその直後、オーガヘッドは怒りに任せて弾け飛ぶ。間近で戦っていたプックルの顔に、他のオーガヘッドと対峙していたガンドフの背中に、咄嗟にリュカの前に出て盾を身構えたティミーに、激しく石礫のような魔物の一部が弾丸のように迫る。顔面を砕かれる勢いで礫を食らったプックルがその場に倒れる。背中に礫がめり込んだガンドフもたまらず草地に倒れ込んだ。天空の盾で礫を弾き返したティミーだが、その激しい衝突にたまらず身体ごと吹っ飛ばされる。その身体をリュカが後ろから支えた。
間髪入れずにピエールがプックルの傷を癒す。回復呪文も最上級のベホマが必要なほどの深い傷だ。自身も回復呪文が使えるガンドフだが、傷の深さに動けなくなったのを見て、リュカが回復に向かう。父が唱える、ピエールが唱えるベホマという呪文の強く輝く癒しの光を、ティミーは両目に焼き付けている。今の状況では、ティミーの使える回復呪文では傷の回復が追いつかないのが分かる。
オーガヘッドは群れをなして森に棲みついているのか、現れる時は大抵数体がまとまって姿を現した。今もリュカたちの前には五体のオーガヘッドらが巨大な顔に笑みを浮かべるようにして立っている。まだ二体しか倒せていない。
「みんな、一気に攻撃するよ!」
正真正銘、リュカの声だった。それと共にリュカはスカラの呪文をプックルに、ティミーがスクルトの呪文を唱え、守備を万全にする。プックルが飛び出し、ピエールが続く。ティミーも剣を振りかざし駆け出したところで、リュカが息子にもスカラの呪文を唱え、自分にも同様の呪文をかけると、ティミーと並んで敵の群れに突っ込んでいく。
ミニモンが宙に飛びながら、幻惑呪文メダパニを唱えると、オーガヘッド一体の三つ目があちこちに彷徨い始めた。ガンドフが思い切り息を吸い込み、強く吹きつけた甘い息に当てられた敵の群れの内、一体が眠りに誘われて草地にどさりと倒れ込んだ。集中して呪文を飛ばすマーリンの呪文封じのマホトーンに、正気の三体の内二体の大きな口が突如もごもごと苦しそうな動きを始めた。
「プックル! 受けてー!」
ポピーがマグマの杖を地面に落とすと、両手をプックルに向けて構え、呪文を放つ。例の氷の刃が飛び出す呪文ではない。目に見えないその呪文は、直接プックルの身体に作用する。牙を剥き、鋭い爪を出すプックルの身体に、戦いの熱を届ける。黄色に茶色い斑模様のプックルの腹の中から頭の先まで爪の先まで、戦いの熱が行きわたる。
「がうぅっ!」
全身が強靭な刃になったかのように、プックルは一声吠えると、一体のオーガヘッドに飛びかかる。ポピーの攻撃力倍増呪文バイキルトを受けたプックルの牙が、固いオーガヘッドの身体に容赦なく突き立つ。悲鳴を上げて倒れ込む敵の魔物に噛り付きのしかかり、プックルが爪を振るうと、オーガヘッドを構成する一つ目の小鬼が一体、地面の上を滑るように吹っ飛んで行った。怒りに爆発しそうになるオーガヘッドに恐怖することなく、プックルは次々と爪を振るい、終いには四体の小鬼全てをバラバラに離し、それぞれを森の木々の彼方へと吹き飛ばしてしまった。
ポピーは続いて近くにいたガンドフにもバイキルトを放つ。いつもは可愛らしささえ見せる大きな一つ目が座り、半月状になる。普段は聞かないような低い唸り声を喉の奥で響かせると、まるで森に棲む大熊のような獰猛さでオーガヘッドに襲いかかった。思う様ガンドフの強烈な拳を食らった敵はたまらず四体の小鬼に分かれて、きゃあきゃあと涙を流しながらどこかへ逃げて行ってしまった。ガンドフの拳が痛かったというよりも、ガンドフの見た目の変化が恐ろしかったのかも知れない。
続いて呪文を封じ込まれているオーガヘッドに、プックルとガンドフが挟み撃ちのような形で襲いかかる。もはや恐怖しか感じない敵は、虎と熊の咆哮に身をすくませるや否や、全力でその場を駆け去ってしまった。駆け去る際の四体の小鬼にコンビネーションは拍手を送りたいほど完璧だった。
残る二体のオーガヘッドの内、一体は草地の上ですやすやと寝息を立てており、もう一体は幻惑の世界の中で何やら幸せな夢でも見ていそうな表情をしている。その二体にも容赦なく襲いかかろうとしているプックルとガンドフに、リュカは慌てて声をかけた。
「も、もういいよ、もう大丈夫! その魔物たちは倒さなくっても大丈夫だから。さあ、先に進もう」
リュカの声に獰猛な虎と熊は急ブレーキをかけた。仲間の魔物を獰猛にした張本人であるポピーは、初めて使用したバイキルトという呪文の恐ろしさを目の当たりにして、思わず足を震わせていた。マーリンに勧められて習得したこの呪文は戦闘時に非常に有効であることは今嫌でも理解できたが、正直あまり使いたくないなどと思ってしまった。
「さっきのプックルとガンドフ、すごかったね! あれ、ポピーが何かしたんだろ? 今度はボクにもその呪文かけてよ!」
兄のティミーにそう言われた時、兄がどんな変貌を遂げてしまうのかを想像したポピーは思わず首をぶんぶんと横に振ってしまった。兄の口から牙が生え、手の爪は長く伸び、全身が毛むくじゃらになるようなバカげたイメージが沸き、たまらず頭を抱えてしまった。
「……お兄ちゃんがおかしくなっちゃうから、ダメだよ」
「ええ~、おかしくなるって何だよ。ただ強くなるだけなんじゃないの?」
「お兄ちゃんがケモノになっちゃう……」
「ポピー、ボクがどんな風になると思ってるの?」
馬車を進めながら話す子供たちの会話に、リュカは先ほどポピーが使用した呪文を思い出す。攻撃力を倍増させるその呪文をかつて、リュカもその身に受けたことがある。グランバニアの北の塔、妻を救うためにと旅立ち、憎き父の仇に剣を振るっていた時に彼女が機転を利かしてその呪文を唱えたのだ。
「大丈夫だよ、ポピー。さっきの呪文は君のお母さんも使ってた。負けられない戦いにはとても助かる呪文だよ」
「え、お母さんも?」
「うん。プックルだって、初めてその呪文を受けたわけじゃないよ。あの時、僕もプックルも、ビアンカにその呪文をかけてもらったんだ」
憎き敵ジャミとの戦いで、ビアンカはまだ子供たちを生んで間もない身体だというのに、自ら戦闘に躍り出たのだ。しかしまだ本調子と言うわけではない彼女は、自分にできることをと咄嗟にその呪文を唱えたのだろう。機転の良さに関して、彼女は最も信頼できる仲間だ。
「さっきの呪文でティミーがおかしくなることはないよ。ただ戦う力が強くなるだけなんだと思う」
「そうじゃよ。ただ全身に力が漲る感覚があるために、気分が高揚することはあるかも知れんがの」
「それに先ほどの魔物との戦闘は長引かせないのが正解です。幻惑の呪文やら守備力強化の呪文やら、様々な戦い方をする敵は厄介ですからね。すぐに勝負を終わらせた方がいい」
ピエールが言う通り、オーガヘッドという魔物は実に多彩な戦い方をする。戦いが長引けばそれだけ体力も魔力も消耗し、この広大な森を探索するという長旅に支障を来してしまう。現実的にも、ポピーの習得したバイキルトという呪文は非常に有効なものなのだ。
「その呪文はあくまでも戦う力を強くするだけだよ。別にティミーを獣に変身させるわけじゃないから安心して」
「う、うん、分かったわ。……それに。お母さんも使ってた呪文なら、また使ってみてもいいかも」
「ボクは獣になってみてもいいけどね~。だって楽しそうじゃん。プックルみたいにもの凄い速さで走ることもできるようになるかも知れないし!」
「がうがうっ」
「ねー、一緒にうわーって走ってみたいよね!」
そう言いながら楽し気にプックルと走り出すティミーを見て、リュカは思わず笑ってしまった。併走するプックルも赤い尾を揺らして楽しそうだ。そんな子供と獣を宙に飛びながら見ていたミニモンが「あいつら、コドモだなー」と自分も子どものような無邪気な表情を見せながら笑っていた。



更に一週間が過ぎたが、今もリュカたちは変わらず広大な森の中を歩き彷徨っていた。森の探索が二週間も続くと、既にリュカたちは森の住人と化してきていた。
今、森の中には雨粒が落ちている。雨がひどい時には、皆で馬車の荷台の中に入り休息とすることもあるが、木々の葉が防いでくれるくらいの弱い雨の時には、普段通りに馬車を進める。先ほどまで強い雨が降っていたためにしばし休息を取っていたが、雨も弱まり、木々の間から望む空の色もいくらか明るくなったため、一行は再び馬車を進めていた。
ミニモンが森の上に飛び出るように飛んで行く。薄い灰色の雲に隠れる太陽の位置を確かめると、リュカたちのところへ戻りその位置を尖る悪魔の尻尾の先で伝える。リュカはマーリンと地図を見ながら、南から探索を始めていた広大な森の五分の一ほどをようやく歩いてきたのだと確認する。二週間かけてようやく五分の一を探索し、まだ妖精の世界に通じるような場所の発見には至っていない。アンディの詩人仲間の話による『森の中の霧がかった景色』にも遭遇していない。ただひたすら、動物と魔物が棲みつくこの森の中を歩き回っているだけだ。
「リュカー、オレ、そろそろ魔力がなくなりそうだぞー」
二週間の旅を続けて、それなりの頻度で魔物とも遭遇し、これまで魔力が尽きていないことが奇跡のようなものだった。当然ミニモンだけではなく、リュカ自身も魔力が底を尽きそうだということを実感している。仲間たちを見れば皆が久々の長旅の疲労を感じている様子が窺えた。しかもこの旅は目的地がどこにあるか分からない旅で、果たして目的としている場所があるかどうかも疑わしいという現実がある。旅が長引けば長引くほど、仲間たちは体力も魔力も削られるのは当然だが、それ以上に精神が弱ってしまう。旅の目的である妖精の世界の入口はもしかしたら噂話の類に留まり、現実には存在しないのではないかとみるみる弱気が顔を出す。
「一度、町に戻るのを考えた方が良さそうかな」
「そうですね。地図で場所も確認していることですし、途中からの探索が可能ですので」
「馬車で休み休み探索して、魔力の回復にも努めたが、ちとそろそろ限界かも知れんの」
二日前ほどから、ティミーとポピーにはなるべく馬車で休むようにと指示している。今も二人は馬車の荷台で身体を休め、いざという時のために体力と魔力を温存させている。二人とも元気で義務感に溢れている時はその指示にも従わず、馬車の横を歩いていたが、さすがに二週間続く森の中の探索に疲れた顔を隠せない。リュカの指示に素直に従った辺りも、二人の疲労を如実に表していた。
「フタリ、ネテルヨ」
馬車の荷台の後ろから歩いて来ていたガンドフが、前を歩くリュカに静かな声でそう伝える。リュカも後ろから荷台を覗くと、ティミーとポピーは互いに向き合う形で静かな寝息を立てていた。具合が悪いというわけでもなく、単に眠くて寝てしまったのだろうとリュカは荷台に上がると、荷台の隅に丸めて置いてあった一枚の毛布を広げて二人にかけた。毛布が肌に当たっても、二人は何の反応も見せずに変わらず寝息を立てている。
「疲れてるなぁ」
そう呟きながら、リュカはティミーとポピーの頭をそっと撫でる。それでも二人は微動だにせず、まるで意識を失っているかのように眠り続けている。今二人にとって最も必要なものが睡眠なのだろうと、リュカは子供たちの眠りを妨げないようにそっと傍を離れると、荷台を下りた。
「ガンドフ、二人を見ていてくれる?」
「ウン、ワカッタヨ。チャント、ミテルネ」
そう言いながら荷台に乗り込むガンドフだが、その途端に馬車の歩みが遅くなる。いつもであればガンドフが乗っていようがプックルが乗っていようがその荷台を引く力強さは変わらないが、二週間馬車を引き続けるパトリシアにも多少の疲れがあるようだ。馬車の進みが遅くなったことに気づいたガンドフが目をぱちくりとさせると、「パトリシア、ゴメンネ」と言いながら荷台を下り、後ろから双子の様子を見守ることにしたようだった。
そんな折でも、森の中に潜む魔物は姿を現す。魔物の気配にいち早く気づくのは大抵プックルだ。姿勢を低くし、低い唸り声を上げ、辺りを青の鋭い目で見渡す。その様子を見て、リュカはこの場所を囲むように魔物がいるのだと分かる。
森の木々の間から現れた魔物の姿に、リュカたちは一様に身体に緊張を走らせる。
元は美しい白馬だったのかもしれない。今も艶やかな毛並みだけを見れば、どこかの貴族の元で飼われていた由緒正しい馬とも見られるほど、白馬としての美しさがあった。しかしそのたてがみは不自然な紺碧に染まっている。魔の力を受けて紺碧に染まる以前のたてがみが何色だったのかは、もはや誰にも分からない。
「……似ている」
リュカが呟くと、プックルが同意するように鼻から息を吐く。忌々しいと言わんばかりのプックルの反応に、リュカも剣を握る手に力がこもる。それはピエールも同じで、リュカの背後で彼も静かな闘志を燃やしている。
「リュカー、全部で七体だぞー。行けるかー?」
宙を飛び回りながら敵の数を確認したミニモンがそう伝えると、リュカはミニモンを見上げて一つ頷く。一見美しいようにも見える白馬の魔物だが、その美しさとは裏腹に邪に染まりきったこの魔物の果てが、あのジャミだったということは想像できた。
森の中から次々と姿を現した白馬の魔物ラムポーンの目は赤く光り、濁っている。鼻からは馬らしい息を吐き、言葉を話さない。倒したはずの敵ジャミが目の前にいるような錯覚を覚えるが、リュカは冷静になろうとゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐く。
「ガンドフ、二人を頼むよ」
「ワカッテルヨ」
荷台で眠る子供たちを起こさず、リュカは仲間たちと共に敵と対峙する。戦えるのはプックルにピエール、ミニモンにマーリンだ。敵は七体。数では負けているが、そんな戦闘には慣れている。
旅の間、最も魔力を温存しているマーリンがベギラマの呪文を唱えると同時に、戦いの火蓋が切って落とされた。火炎の帯に巻かれた二体ラムポーンはその場で足止めを食らう。他の敵らが、まるで本物の馬の様に四つ足で突進してくる。受けて立つプックルが牙を剥きだしにして正面からぶつかる。馬の力には負けるプックルだが、身軽さを生かして馬の首に爪を立ててその身体に風の様に乗ると、後ろから首に噛り付いた。痛みに暴れるラムポーンに振り落とされるが、敵の白い首からはたてがみと同じ紺碧の血が噴き出す。
ピエールが地面に弾みながら、二体のラムポーンの間を抜けるように剣を振るって行く。後足で立ち上がるラムポーンは、前足の大きな蹄でピエールを打ち付けようとする。盾で蹄をかわしつつ、ピエールは敵の後足に狙いを定めて剣で斬りつけていく。深く斬りつけられた敵はその場に崩れ、立つこともままならなくなるが、そのような仲間を助けようとする白馬の魔物はいない。それだけで敵が回復の術を持たないものだと分かる。
リュカも他の二体の敵に向かう。下から払うように切りつけ、ピエールと同じように後足を狙う。上から黒光りする蹄が迫る。あえてその懐に潜り込むようにして、リュカは敵の腹の下に滑り込むと、そのまま後足を剣で斬りつけた。しかし敵の後足には傷一つつかない。その状態を見て、魔物が守護呪文を使ったのだとすぐに気づいた。
ピエールが敵の蹄を受けて吹き飛ばされた。鈍い音はピエールの緑スライムが攻撃をうけた音だった。吹き飛ばされたところで木の幹に体当たりをする格好で、ピエールは木の幹の下に落ちた。近くにいた他のラムポーンが赤い目をぎょろりとさせながら、ピエールに一撃を加えると、ピエールはその場から動かなくなってしまった。
リュカがピエールに駆け寄る。しかし行く手を阻む魔物の姿。目の前に現れたラムポーンの紺碧のたてがみに、リュカは赤い色を見た。その姿はまるでジャミそのものだ。激しい憎悪を思い出すように、リュカの漆黒の瞳の中に完全なる闇が満ちる。
「邪魔をするな!」
そう言って払った剣が、斜め下から上へと、筋肉で膨れた太い馬の首を、首の皮一枚というところまで深く斬りこんだ。紺碧の血しぶきを上げる敵はその場で絶命し、倒れた魔物を飛び越えてリュカはピエールの元へと駆け寄るなり、すぐさま回復呪文を唱える。ピエールは意識を取り戻すと、「かたじけない」と一言いうなり、すでに彼らのところへ向かってきていた敵に飛びかかって行く。
少し離れたところで、激しい衝突音が響いた。見れば、敵同士がまるで力比べでもするかのように、強烈な蹄での攻撃の応酬を繰り広げている。それを大きな舌を出して見ているミニモンがいる。二体のラムポーンは各々、ミニモンのメダパニの呪文を食らい、混乱した状態で殴り合っているようだ。そしてその様子を窺いつつ、ミニモンとマーリンは二体の距離が最も狭まったところを狙い、呪文を飛ばそうと構えを取っている。
メラミとベギラマが合わさり、激しい炎が渦となって二体のラムポーンの巨体を包む。白い巨体も紺碧のたてがみも赤い炎に包まれ、二体は正気に戻る。そして身体に炎を纏わせながら、あろうことは馬車の荷台に向かって突進していく。あれほどの大きな炎が荷台に燃え移れば、馬車ごとあっという間に燃えてしまうだろう。
馬車を引くパトリシアがその異常に気づいた。真っ赤な火だるまと化した魔物が向かってくるのを、彼女が受けて立つと言った様子で上から見下ろす。そして後足で立ち上がったかと思うと、大きな嘶きと共に巨大な炎の塊を前足で蹴散らしてしまった。雨で濡れた草地に転がるラムポーンの炎は静かに消えて行ったが、パトリシアと言う自分よりも大きな白馬に蹴られた衝撃で、その場から立てなくなっていた。
「お父さん! 魔物!?」
荷台で休んでいたティミーが顔を出した時には、既に戦いは決着していた。外で響く戦いの音に目を覚ましたティミーだが、彼が目にしたのは激しい戦闘があったという光景だけだ。しとしとと雨が降る中、炎が消されたであろう煙がくすぶり、草地には首が斬り落とされそうになっている馬の魔物の姿だったり、黒く焦げて地面に倒れる魔物だったり、足を集中的に斬られて動けなくなった魔物だったりと、合計七体の同じ魔物らがそこにいた。
「どうして起こしてくれなかったの!?」
「起こす必要もないと思ったからだよ」
「もうっ! まだ子ども扱いするんだね!」
「そりゃそうだよ。だって子供だもん」
「ボクだってかなり戦えるでしょ! どうして頼ってくれないのさ!」
「君が僕の子供だからだよ。いいんだよ、それで」
リュカはもう一度、いいんだよ、と静かに呟く。それが親と子なのだと、かつての自分と父の姿を重ねる。子供がどれほど逞しくなっても、親はいつでも子供を守るのだ。それはそうすべきだとか、そういう義務感だけではない。自然とそうなってしまうのだから仕方がない。
「……お父さんたちが無事でよかった」
ガンドフの体の脇から顔を覗かせるポピーは、瞳に少しの涙を浮かべていた。外で響く戦いの音に少し前から気づいていたのかも知れない。しかしガンドフが二人に荷台から下りるなと大きな一つ目で厳しく訴えていたのだろう。ポピーは外の戦いが終わるまで荷台の外に出ることはなかった。
「ただ、一つだけ、ちょっと問題があってさ」
「どうかしたの? 誰かひどいケガでもしたの? ああ、でも私じゃケガは治せないし……」
「いや、僕たち、多分、完全に魔力が尽きたみたいでさ。一度、町に戻ろうかと思ってるんだ」
リュカは力なくそう言うと、雨に濡れた草地の上に尻餅をつくようにして座り込んだ。魔力の使い過ぎであれば身体に異常が生じ、体調を崩すのが常だが、そこまでの無茶はしていない。ピエールの緑スライムも目を閉じて、静かな呼吸を繰り返している。マーリンはまだ余力があるようだが、ミニモンも魔力を使い切ったように疲れた顔をして、宙に飛ぶこともなく草地に下りて休んでいる。
父や仲間の魔物らのそんな姿を見て、ティミーは思わず「じゃあ、ボクが頑張る!」と叫びそうになったが、そんな自分の意見は到底受け入れてもらえないだろうとすぐに意気消沈した。旅で個人プレーは許されない。そして旅の中では、最も疲労を感じている者に合わせるのが最善だ。今、最も疲れているのは恐らく、父なのだろう。
「じゃあ、戻ろうよ、サラボナに」
冷静な言葉を口にするティミーに、リュカは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
「でもお父さん、またこの場所まで来るのに、ルーラじゃ来られないけど、いいの?」
「いいよ。初めからそういう予定だったんだ。この森の探索が一度で終わるわけないと思ってたからね」
妖精の世界への入口があると噂されるサラボナ東の森だが、そもそもその噂を始めに聞いたのは海辺の修道院にいる修道女の話だった。彼女はかつて修道院を訪れた旅人から、その噂話を耳にしたという。サラボナの町ではアンディが知り合いの詩人がこの森を歩き、不思議な光景に出会ったと話した。霧に包まれた幻想的な景色や森が動いたと感じることもあったという。その他にもリュカたちはグランバニアにいる間にこの森に関して調べていたが、謎に包まれているだけにいくつかのお伽噺との繋がりを見つけただけだった。
冷静に考え、消極的な見方をすれば、この森の中に妖精の世界の入口があるとは限らない。探索を進めた結果、その入り口がないということが分かるだけなのかも知れないのだ。
「ポピー、ルーラをお願いできるかな」
「お父さん、そんなに魔力を使い切っちゃったの?」
「うん。もうへとへと」
決して魔力が底をついたわけではなかったが、リュカは力なく立ち上がりながら、弱い笑みを見せた。既にこの森の探索を初めて二週間が経つ。サラボナのルドマンにはくれぐれも無茶をするなと釘を刺されている。リュカはまだ少し余力のある今の内に一度引き上げるのが最善だと、ポピーにルーラを促した。馬車で眠り、体力も魔力も少々ながらも回復したポピーは集中して、あちこちに散らばる仲間たちに呪文の範囲を広げ、サラボナの町を思い浮かべながらルーラの呪文を発動した。



サラボナの町で一日、休息のために滞在した。ルドマンもフローラも、いつでも屋敷を訪ね頼って良いとリュカに伝えていたが、リュカは敢えて宿に泊まることを決めた。ティミーもポピーも不思議そうな顔をしつつも、特に不平や不満を口にすることはなかった。サラボナの宿屋に泊まるとなれば、それはそれで楽しんでしまうのが子供たちの良いところだ。
「この町は本当にどこも花がたくさんあって、とってもキレイよね」
「宿の中にもあちこちに花が飾られてるんだね。部屋にもあるしさ。グランバニアもこのくらい花があれば、町の人たちももっと明るく過ごせるんじゃないかなぁ」
「でもグランバニアの城下町は城の中だもの。ここまでのお花を育てるのは難しいんじゃないかしら」
「サラボナっていつもこんなにあったかいのかな。一年中、花がたくさん咲いてるのかな」
サラボナの町には花が溢れている。特にルドマンの屋敷近くや、別荘の周りには色とりどりの花が咲き乱れ、むせ返るほどの花の香りが辺りに漂う。その雰囲気にリュカが自然と思い出すのは、夜の月明かりに照らされる別荘。その窓辺から夜空を見上げる、彼女の姿だ。
ルドマンの屋敷にも別荘にも、リュカの思い出は散りばめられている。そこには必ず、彼女の姿がある。思い出したくないわけではない。しかし子供たちの前で、迂闊に感傷に耽るような顔は見せられない。自分では意識せずとも、恐らく自分の表情はどこか暗いものになってしまうに違いない。
宿で過ごす間、リュカは子供たちと他愛ない話をして過ごしたが、それも少しの時間だった。二週間の森の探索を中断して町に休息を取りに来た三人は、三人とも疲れていた。湯浴みを済ませ、食事をすれば、もう睡魔が襲ってくる。今は休息を取るのが重要だと、再び明日から森に向かうことを考え、親子三人で早々に眠りに就いた。
翌朝、出発は遅くになった。ポピーが朝食を慌てて済ませようとしたが、リュカは「ゆっくりで大丈夫だよ」と声をかけ、決して急がせなかった。広大な森の探索はいつ終わるとも知れないものだ。一日の朝の時間を少々急いでも、長い探索の時間を考えればそれはさほど影響しない。
昼近くになって、町の外で待機していた魔物の仲間たちと合流する。リュカはルーラで昨日の探索場所まで向かえればと、試しに集中して昨日の森の景色を思い浮かべようとしたが、歩き続けた森の景色に特徴的なものは思い浮かばず、やはり魔法のじゅうたんで昨日の探索場所近くまで向かうほか手段はなかった。
「場所は違うけど、この辺りから歩いてみようか」
「魔法のじゅうたんでは森の中は入れませんからね」
「位置としてはこの辺りからで問題ないじゃろう。今の時刻と太陽の位置、角度……ふむ。ここからのんびり東に進むとしようかの」
広大な森の南から五分の一ほどの探索は終えていると、リュカとマーリンは地図を見ながら確認をする。そして再び薄雲に隠れる太陽を見上げると、リュカたちは昨日までの探索の疲れをほんの少し感じながらも、森の中へと足を踏み入れた。
「ここでの探索が終わったら、しばらく森には入りたくないかも」
「しかしグランバニアは森に囲まれていますよ」
「うーん、じゃあしばらく国には戻らないでどこかに避難する?」
「お父さん、それは一国の王としてどうかと思います……」
「冗談だよ、ポピー。ちゃんと国には戻るから安心して」
「お父さんが言うと、あんまり冗談に聞こえないよね~」
「リュカ王は八年もどっかに行ってたからなー」
ミニモンがばたばたと宙に飛びながらそんなことを言うと、ティミーが「そうだよー」と軽い相槌を打つ。リュカが不在の八年の間、国の皆は必死になってリュカのことを探し続けていた。リュカが見つかり、今もこうして無事に旅ができているから、過去の出来事を笑い話に昇華することができる。そんな柔らかな雰囲気を感じつつ、リュカは早く彼女のこともこうして話ができたらと、人知れない思いを胸の奥底にしまう。
森の上に広がる空は相変わらずの灰色だ。二週間の探索の間にも、森の中から太陽の光を拝めた瞬間はほとんどない。サラボナの町は強い日差しが照りつける太陽の町という印象とは逆に、この森にはまるで人も動物も魔物も惑わせるような一面の灰色の空が森を上から覆っている。
森の中に魔物の気配がすれば、反射的にプックルが低い唸り声を上げる。どうやら森の西側には白い猿のようなシルバーデビルという魔物が多く棲息しているようだった。彼らの縄張りでもあるのだろうか、シルバーデビルは群れをなして木の上から襲いかかってくる。
ベギラマの呪文を放つこともある魔物だが、魔力はそれほどない。すぐに魔力が底をつくため、長期戦になることはなかった。少し脅しのようにプックルが雄たけびを上げたり、ポピーがマグマの杖の杖頭から勢いよくマグマを噴き出せば、それだけでキイキイと恐れをなして逃げ去ってしまうこともある。その状況に気づいたリュカは、ティミーに一つ役目を与えた。
「ティミー、この辺りはもしかしたらトヘロスの呪文で魔物を遠ざけられるかも知れない」
リュカの思惑通り、ティミーがトヘロスの呪文を唱えると、辺りの魔物の気配が薄まった。二週間の森の探索で、この辺りの魔物との戦闘にはある程度慣れたのが功を奏した。魔物の気配が明らかに遠ざかったことで、今後の森の探索に速度をつけられるとリュカはティミーに礼を言う。
「ヘンリー様に教えてもらっておいて良かったよ」
「ああ、そうか。ラインハットに行った時に教わったんだっけ」
「ティミー王子がこの呪文を使えるのは理解できるんじゃが、あのヘンリーという者がトヘロスの呪文を使えるのは意外じゃったの」
トヘロスの呪文は聖水の効果と同様で、聖なる気を辺りにまとわせ、魔物を遠ざけるものだ。勇者と言う運命を背負って生まれたティミーがトヘロスの呪文を習得し使うことができるのはいかにも理に適っているとマーリンは言う。
「どうにもあのヘンリーという者と聖なる気というのが結びつかんでの」
「聖なる気って言ったら、どちらかと言うとマリアだろうね。ヘンリー自身もさ、マリアのためにこの呪文を覚えたみたいなこと言ってたし、そういうことも関係してるのかもよ」
リュカの言葉にも、マーリンはどこか納得していないような唸り声を上げていた。呪文には特性と言うものがある。いくら努力しても身につかない呪文がある。リュカは攻撃系の呪文を得意としないし、呪文が得意なポピーは回復呪文を唱えることができない。その中でヘンリーがトヘロスと言うある種変わった呪文を唱えられることが、マーリンの中では一つの疑問としてくすぶっているようだった。
「……あ~、でも完全には効いてないのかな、この呪文。ほら、いるよ、近くに」
ティミーの言葉に、リュカたちは一様に辺りの気配を探る。プックルは既にその方向を見据え、今にも駆け出しそうだ。しかしまだ魔物の姿が見えない。木の陰に身を潜ませているようだ。
太い木の幹の後ろにちらりと見えた赤い物体に、リュカは剣を抜く。赤く丸く大きな物体は、湿った地面の上をゴロゴロと転がり現れた。まるで既に怒りの沸点を越えたような色の大岩には、ロッキーと同じような眼光鋭い目と不気味な笑みを湛える大きな口がついている。同じ魔物が辺りに五体。その光景にリュカたちは思わず身をすくませた。
「これは……まずいんじゃないかな」
「ぐるるる……」
「いや、プックル、戦うべきじゃないと僕は思う。逃げた方が……」
リュカが言い終わらない内に、赤い爆弾岩のような魔物は突然に転がりだした。リュカたちはあちこちに逃げ惑う。五体の巨大な赤岩は顔面に不気味な笑みを張り付けたまま、森の中を縦横無尽に転がり回る。見た目は危険極まりない今にも爆発しそうな爆弾岩だが、その攻撃方法は直接的で、ひたすらにリュカたちを転がって追いかけまわす。
「リュカよ、こやつらは爆弾岩ではない!」
マーリンも必死に走って逃げながら、リュカにそう叫び伝える。その言葉に一安心するが、だからと言って転がってくる巨大な赤岩から逃げないわけには行かない。敵には体力というものがないのか、その速度が落ちることはない。一方でリュカたちは既に息切れしている状況だ。
「オレに任せろー」
唯一、宙に飛んで敵の攻撃を受けないミニモンが、両手を高々と上げて呪文を唱える。一気に膨らんだ火炎の球を、赤い大岩に向かって投げつけた。しかしミニモンのメラミの呪文を食らっても、巨大な赤岩はさほどダメージを受けた様子もなく、引き続きリュカたちを追いかけまわす。元々、生き物だった魔物とは違い、自然物から魔物化したこの大岩の魔物には攻撃呪文が効きにくいのかも知れない。
ティミーとポピーを守るように走っていたガンドフが、雨に濡れる草地に滑り、転んでしまった。直後に赤岩が迫る。ティミーはガンドフを振り向くと、両手を広げて呪文の構えを取る。そして辺り一面に広がるように、スクルトの呪文を唱えた。赤岩に体当たりを食らったガンドフだが、ティミーの守護呪文の効果で軽く吹き飛ばされる程度で済んだ。
「お父さん! どうするの、これ!」
「逃げたいけど、難しいよね!」
「馬車に乗って駆け抜けるにも、この森の中では難しいです!」
それぞれが逃げ回り、離れているために会話は自然と大声になる。機会を窺って攻撃をしかけようと隙を見るが、たとえ隙を見つけたところで、果たして剣での攻撃が敵の身体に傷を負わせるのかは甚だ疑問だ。むしろ剣が折れかねない。
リュカたちが逃げ回る中、ふと三体の敵が動きを止め、その赤い視線を不自然に宙に漂わせ始めた。何もない虚空を見つめ、そこに敵がいるかのように激しい体当たりを食らわせようと空中に飛びかかる。
「効いた! お父さん、呪文が効いたよ!」
ポピーが幻影の呪文マヌーサを唱えていた。幻に包まれた三体の赤岩は今、幻の世界の中にいる敵と戦い始めている。自分を追いかけていた敵が動きを止めたことで、リュカはその場に立ち止まり、両膝に手をついて肩で息をする。しかしまだ二体の敵がプックルとピエールを追いかけまわしている。彼らの体力もそろそろ限界に近い。
「そうか、その手があったかー。じゃあ、オレも、いっくぞー」
ポピーの呪文を見て、ミニモンも幻惑の呪文メダパニを唱える。ピエールを追いかけまわす大岩に呪文が届くと、赤い目をぐるぐると器用に回し、まるで地の底から湧き出るような不気味な声で笑い始めた。ピエールが草地を転がり、ようやく休めると言わんばかりに激しい呼吸を繰り返す。
「がうがうぅっ!!」
何で俺だけまだ追っかけられてるんだと怒りの声を上げるプックルは、思わず激しい雄たけびを上げた。彼の雄たけびは時折、敵の足をすくませ行動を止めることもあるが、今回は違った。
プックルの雄たけびの力で、幻の世界から三体の赤岩が目覚め、混乱した様子で地響きを鳴らす勢いで笑い声を上げていた一体の赤岩も瞬きを繰り返して目を覚ます。五体の巨大赤岩がゆっくりとプックルを振り返る。プックルが総毛立ち、「にゃうっ……」と子猫のような声を出した。
「プックル、逃げろ!」
リュカが呼びかけるよりも前に、五体の敵は中心にいるプックルに向かって突進していった。逃げ場を見いだせないプックルは、ただ敵が向かってくるのを立ちすくんで待つだけだ。猛然と向かってくる五体の敵は、まるで連携が取れているかのような動きで、まずは一匹をと迷いなくプックルに向かって行く。ミニモンが宙から再びメダパニの呪文を唱えて飛ばすが、敵は呪文を跳ねのけてしまった。
プックルが草地に這うように視線を低くした。そして五体の敵がプックルの身体を押しつぶそうとした瞬間、プックルはその場に高く飛び上がった。空を飛ぶことはできないが、プックルの跳躍力は軽く大岩の上を飛び越えた。そして飛び上がったプックルの真下で、まるで爆弾岩が爆発した時のような轟音が響いた。
五体のメガザルロックが互いの身体をぶつけ合い、互いのいかつい表情を見つめ合った直後、三体の敵が真っ二つに割れてその場にごろりと転がった。他の二体も、赤い岩肌に大きな亀裂を見せている。今にも割れて、その場で命が尽きそうな状態だ。
プックルがげっそりとした表情でリュカたちのところへと歩いてくる。そしてもう歩けないと言わんばかりに、リュカの前の草地に腹ばいになり、ミニモンの様に舌をだらりと出して必死に呼吸をしている。リュカがプックルを労おうとその赤い背に手を伸ばした時、赤い大岩の亀裂から、魔物に似つかわしくない神々しい光が飛び出しているのを見た。
光は大きくなり、眩い光に目を開けていられなくなったと同時に、光は弾けた。リュカたちは目を瞬いてその場に起こった光景を見つめようと、光の消えたその場所に目を向ける。
四体のメガザルロックが不気味な笑みを湛えて、リュカたちを見つめていた。その無機質な表情を見て、リュカたちは一斉に悪寒を覚える。倒したはずの敵が、まるで何事もなかったかのようにその場所にいる。ただ、もう一体いたはずの敵の姿はきれいさっぱりとその場から姿を消していた。
「メガザルを唱えおったか……厄介極まるのう」
マーリンが疲れたように言う言葉を、リュカはすぐに理解した。自分の命を犠牲にして、仲間たちを生き返らせる究極の呪文を、リュカは知っている。呪文書で見たことがあるだけのその呪文を、リュカは今初めて目の前で見ることができたことに、不意に感動を覚えてしまった。
「お父さん! もう一度マヌーサを唱えるから、呪文が効いている間に逃げた方がいいんじゃない?」
「オレも、あいつら混乱させてやるぜー」
「う、うん、そうしよう。まともに戦える相手じゃないから」
リュカがそう言うと、ポピーとミニモンがすぐさま呪文の詠唱に入る。慣れた様子で唱える呪文は、既にリュカたちに向かい始めていたメガザルロックに飛びかかる。今度は二体の敵に幻影呪文が効き、一体には幻惑呪文が届いた。幻影に包まれた魔物が、唯一正気でいる一体の仲間に向かって体当たりをしようと突進する。幻惑の中に彷徨う魔物は、まるで森の中に飛ぶ蝶を追いかけるような穏やかな目をして、どこかへふらふらと行ってしまった。
「今のうちに……静かに行こう」
リュカはそう言いながら、濡れた草地の上に馬車を進め始めた。パトリシアは始終、奇妙なものを見る目つきでメガザルロックを横目で見ている。プックルはしばらくは歩けもしないと言わんばかりに、荷台の上に飛び乗ってしまった。リュカはティミーとポピーも荷台で休むように言いつけ、二人は素直にプックルと共にしばし休息を取ることにした。
「ワシも休ませてもらうぞい」
メガザルロックとの戦闘中、マーリンは静かに密やかに、パトリシアを安全な場所へと誘導していた。マーリンが馬車に乗り込む寸前、リュカが小さな声で話しかける。
「マーリン、さっきの呪文なんだけどさ」
「なんじゃ、何の呪文じゃ」
「メガザル……だっけ? あれって人間にも使えるんだよね」
リュカがそう言うのを、マーリンは無表情に見つめる。そしてリュカの漆黒の瞳にいつもは見ない光を見て取ると、ふっと息を吐いて一言応える。
「ワシは知らん。謎の多い呪文じゃ」
そう言ってマーリンはよっこいしょとまるで人間の老人のような声を出して荷台に上がった。そんなマーリンの後姿を見ると、リュカは複雑な表情で俯いた。

Comment

  1. るぅ より:

    bibi様、更新お疲れ様です。
    いつも素敵な作品ありがとうございます。

    親はいつでも子供を守る。自然とそうなってしまう・・読んで凄く胸に刺さります。自分も結婚して人の親になって初めて親のありがたさとか身にしみてわかったことがたくさんあったので。

    ポピー可愛いですねw バイキルトのくだり面白かったです(*^^*)w 獣身化するティミーも見てみたい(笑)

    メガザルはリュカにとっては喉から手が出るほど習得したい呪文ですよね。
    メガザルをどうやって習得するのか、使わざるを得ない状況に陥るぐらいの強敵・・今後の展開楽しみです(*^^*)

    • bibi より:

      るぅ 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      親になると実感しますよね。ああ、今までは本当に甘えた世界にいたんだなって。そういう意味でもドラクエ5は奥が深いです。子供が楽しむだけではなく、親に対するメッセージもあるという。
      獣身化したらティミーは本当に楽しそうに暴れてくれそうです。プックルと良いコンビ。しかし将来的に竜になるのは父と娘ですね。ポピーは人のことを言っている場合ではありません(笑)
      メガザルの習得はいつになるか分かりませんが、必ず習得する呪文ですのでいずれは・・・。でも使うとなると、色々と覚悟が必要ですね。本人としても、書き手としても(汗) 恐らく、その場面を書く機会があったら、泣きながら書いていると思います。

  2. ケアル より:

    bibi様。

    連戦連戦でたいへんなことになってますね。
    ポピーの呪文はバイキルトでしたか、まだ覚えていなかったんですね。
    バイキルトの表現ニヤニヤしちゃいますね~変身するなんて小説的にはバッチリな描写ですね。
    今度はポピー自信にバイキルト掛けて欲しいです、ポピーがマグマの杖で殴り飛ばすのも楽しそう(笑み)

    メガザルロック現れましたね、まさか追いかけっこしてメガザルロック相打ちでメガザルを見ることになるなんて~(笑み)
    まさかプックルが体力切れになるなんてニヤニヤもんです。

    bibi様、メガーザ仲間にしちゃいますか?
    ゲームでははぐリン同様256分の1ですが(汗)

    リュカ、最終的にメガザル覚えますが…小説の描写で書くと…辛い辛い話になってしまうような?
    メガザルで死んでもザオリクでゲームみたく生き返れるようにしなくては主人公不在になってしまいます(汗汗)

    さて次のお話までパトリシアに走ってもらいますかあ

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをありがとうございます。
      妖精の森なんてメルヘンな場所にいるのに、戦ってばかりです(汗)
      呪文の表現はお話の中に組み込むと色々と想像し甲斐があるので面白いです。マグマの杖で殴り飛ばす・・・見た目がエグイですね。ポピーの暴力性が増しそうで、ちょっとコワイかも・・・コミカルに描けばいいのかな。
      メガザルロックは一体ずつ倒すと厄介なので、この方法を取らせてもらいました。上手く行ったかな?
      メガザルの呪文は、難しいところですよね。今後の課題です。まだ先は長いので、ゆっくり考えたいと思います。

  3. ピピン より:

    bibiさん

    ここで来ましたかメガザル。
    この呪文は個人的に主人公を象徴する呪文の1つだと思ってますが、使うとすれば最終手段になりそうですね…。

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをありがとうございます。
      メガザル・・・この呪文の扱いは難しいところです。
      そうですね。仰る通り、この呪文は主人公を象徴する呪文の一つ。なので、十分に取り扱いに気をつけて行こうと思います。

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