様々な妖精の形

 

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リュカの目に映る妖精の村の景色は春色に染まり、どこもかしこも桜の薄桃色があり、仄かな花の香りが風にそよいでいる。目の前には桜の花びらがはらはらと通り過ぎ、地面に落ちればそれは桜のじゅうたんになる。そしてそれをたとえ足で踏みつけても、汚れて潰れることはない。妖精の世界には夢の景色が詰まっている。
春色のこの景色を、リュカはビアンカに見せてあげたいと思った。好奇心旺盛で、本当は女性らしい嫋やかな彼女は間違いなくこの景色、この世界に喜んでくれるだろう。地面に落ちる桜の花びらを両手で拾って、上に投げ上げて花びらを浴びて、楽しそうに笑ってくれるに違いない。桜の花びらのじゅうたんの上に寝そべって、太陽のない白い空を不思議そうに見上げるかも知れない。もしかしたら子どもたちと一緒になって、幼い頃のお転婆を思い出すかのように走り回って遊び出す彼女も脳裏に浮かぶ。
この場に彼女がいないことが、今も信じられない。離れ離れになって八年以上が経つが、まだ彼女が隣にいないことに慣れない。旅先の美しい景色、不思議な世界、清らかな小川、森の中に囀る鳥の声、どこからか漂う食事の匂い、心地よく肌を撫でる優しい風、それらの全てを本当は彼女と一緒に感じたい。自分だけがこの世界に生き、子供たちとの時間を過ごしていることに、事あるごとに罪悪感を覚える。子供たちと一緒にいるべきなのは、母親である彼女のはずなのに、何故父である自分が先に助かってしまったのかと、リュカは思わず目の奥を熱くしながら目の前を落ちていく桜の花びらを見つめる。
「ガンドフ、ココ、スキ」
そう言いながら立ち止まるガンドフは、妖精の村の景色を嬉しそうに目を細めて眺める。村全体が桜の色に染まり、その光景には誰もが思わず夢見心地になる。妖精の世界には昼も夜もなく、常に空は白い。そのせいもあって、時間が経つのを忘れてしまう。妖精という種族は時間の経過とは別の次元で生きている。
もし時間という感覚から解き放たれたら、彼女と離れ離れになっているこの八年の感覚もなくなるのだろうかと、リュカは思わずその感覚に憧れる。しかしそれは同時に、子供たちや仲間たちと過ごすこの時間の感覚も薄れてしまうのだろうかと怯える。永遠にも近い時を生きることはその時を無為に過ごす可能性が高いが、有限の時を生きる人間はその時その時を大事に過ごせるはずだと、リュカは自分が人間に生まれて生きて来て良かったと、半ば無理にそう思い込む。
「あそこが宿屋、でしょうか」
ピエールの声が心なしか弾んでいる。彼ら魔物の仲間たちはグランバニア以外で人間の暮らす集落に足を踏み入れることはない。ましてや妖精が暮らすこの異世界で、妖精の村という特別な場所に入り込んでいることに、少なからず気持ちを高揚させているのは間違いない。
「妖精さんの宿って、どんなところなのかしらね」
「お父さんは泊ったことがあるの?」
子供達も嬉しそうに言葉を交わす。夢見るような妖精の世界にいられることは、子供たちの体験として非常に貴重なものになるだろう。もしかしたらもう二度と、この場所に来ることはない。そう考えると今を子供たちと一緒に楽しまなければならないと純粋に思う。過去に遡り、もし子供たちの母である彼女が隣にいる未来があったならと考え後悔することは、きっと彼女の望むことではないだろう。
リュカは改めて妖精の村の景色を見渡す。幼い頃はもっと広い場所だと思っていた村は、記憶よりもずっと小さな場所に見えた。背が高くなったからだろうか、ぐるりと視線を巡らすだけで村の全ての景色を視界に収めることができる。
目指す宿屋は村の入口近くに、まるで一軒のささやかな家のようにぽつんと建っている。宿屋の前には丸太椅子が並べられ、年季物の木のテーブルも据え置かれている。丸太椅子の上には一匹のスライムと、向かいには一人の老人が座っている。その光景をリュカは過去にも見たことがあった。
「わっ! 人間だ! 人間がこの村に来るなんてずいぶん久しぶりだなぁ」
スライムが言葉を話すのを聞いて、ティミーもポピーも目を輝かせる。今もグランバニアにいるスラりんやスラぼうを思い出し、まるで旧知の仲でもあるかのように親し気に話しかける。
「初めまして。ねぇ、この村には他にもあなたのような魔物さんはいるの?」
「ボクたちの仲間にも、スラりんとスラぼうっていうスライムの仲間がいるんだよ! 今はボクたちのお城にいるんだ」
「お城? キミたちはお城に住んでるの? 人間のお城って見たことないなぁ」
子供たちがスライムと話をする傍らで、リュカはスライムの向かいに座っていた老人に話しかける。老人はのんびりしたようすで、いかにも人間らしい動作でリュカを見上げる。
「こんにちは……いや、こんばんはなのかな。ここは時間がいつなのか、よく分からなくなるなぁ」
「人間と魔物とがこれほどたくさん村に来たのは、本当に久方ぶりじゃのう」
老人はほとんど目を瞑っているかのような細い目を更に細め、低い丸太椅子に座ったままリュカたちを眺めた。
「なんだよー、お前もニンゲンだろー」
ミニモンがガンドフの肩に噛り付くようにぴたりとつき、老人に言葉をかける。村の中を歩いている内に疲労感を思い出したように、ミニモンは羽を休めてガンドフの肩で休んでいた。いつもミニモンが手にしている大きなフォークはガンドフが持っている。巨体のガンドフが持つと、まるで食事用のフォークに見え、大人しくテーブルについて行儀よく食事を始めそうなガンドフが思い浮かび、思わずリュカは微笑んでしまう。
「ふむ。長いこと人間の格好をしておるから、わしも自分が人間なのか妖精なのか、わからんようになってしもうた」
「えっ、妖精?」
どこからどうみても人間の老人にしか見えないが、リュカは幼い頃にこの村を訪れた際にもこの老人を目にしている。その時から月日が経っており、リュカは子供から大人へ成長をしたと言うのに、老人の姿はあの頃とまるで変わらない。
「もしかして、我々と同じく魔物では?」
「ふむ。そうかも知れんの。わしも自分が、人間なのか妖精なのか魔物なのか、もうよう分からん。しかしこの村ではそんなことはどうでも良いことじゃ」
「この村に人間が来ることは滅多にないことなんですか?」
リュカは幼い頃にこの村を訪れたことがある。それは紛れもない事実で、彼はこの景色を知っており、ベラとポワンという妖精にも会ったことがある。ベラとはプックルも一緒に外の世界を冒険して歩いた。冬に包まれていたこの妖精の村に再び春を呼ぶことに、リュカは人間の戦士として手伝いをしたのだ。
「たしかこの前人間が来たのは二十年くらい前じゃったな……」
細い目を遠くに向けるようにそう話す彼の姿は、すっかり人間の老人の姿だった。自分でも妖精か人間か魔物かが分からなくなったという彼だが、彼が人間を好んでいることだけは伝わってきた。そうでなければ人間の老人の姿のまま留まるはずがない。
「二十年くらい前……それって、僕が子供の頃に来た頃と同じですね」
「子供の頃に来たじゃと?」
「はい。僕、まだ子供の時にこの村のベラに誘われてこの妖精の村に来たことがあったんです。それで一緒に外に出て……」
「なんと! お前さんがあの時の子供かっ!」
老人が驚きに目を見張ったが、見開いた目も小さく円らなものだった。ただその瞳には人間にはない妖精独特の透明感のある光が宿っているのを、リュカは密かに目にした。
「大きゅうなったのう……。人間という者は本当に、あっという間に姿を変えてしまうのう」
「あっという間、ですか」
「ああ、あっという間じゃ。あの頃のお主は、そこにいる二人の子供よりも小さかったように思うぞい」
「そうですね。まだ六歳だったと思うから、ティミーとポピーよりも小さかったはずですね」
「がうがうっ」
「おおっ! お主も覚えておるぞ! あの時はまだ小さな猫で、子供の後をじゃれるように跳ねているだけだったと記憶しとるぞ。何と、こんなに大きくなりおって。まるで猛獣じゃ!」
猛獣と言いながらも、老人はプックルに近づいてその赤い背中のたてがみをがしがしと荒っぽく撫でつけた。鋭い牙や爪を見ても、まるで怖がる様子はない。外見は猛獣そのもののプックルだが、老人はプックルの本質を見ているのだろう。彼の目にはもしかしたら、あの時と変わらない小さな猫が映っているのかも知れないとリュカは思った。
「久しぶりにこんな大所帯のお客を迎えられると分かれば、宿の主人も喜ぶじゃろうて」
「驚かせることになりませんかね」
「なあに、驚くにしても喜んで驚くだけじゃろ。それに見たところ、かなり疲れておるのじゃろ? 早く宿で休んだらええ」
妖精の世界に心が浮き立つリュカたちだが、現実には迷いの森を抜け、体力魔力ともに疲弊し、今すぐにでもベッドの上に寝転がりたいと思うほどだった。妖精の世界という特別な世界にいるという高揚感がなければ、とても初対面の者と会話を楽しもうとは思えなかっただろう。
「リュカ王―、オレ、つかれたー。早くヤドで休むぞー」
そう言いながらミニモンはガンドフの肩にかじりつきながら手で目を擦っている。隠しもしない大欠伸を見れば、リュカもつられて欠伸が込み上げる。
妖精の世界に慣れてきた身体が、徐々に疲れを思い出す。倒れないうちにと、まだスライムとの会話を楽しむ子供たちを宥めつつ、リュカは皆と共に宿の中へと入って行った。



「そう言えば、この宿で寝たら、人間の世界に戻るなんてことはないのかな」
リュカは宿の一室で、ようやくありつけたベッドの上に仰向けになりながらぼんやりと呟く。部屋には三台のベッドがあり、もう一つのベッドにはティミーとポピーが一緒に横になり、更にもう一つ余っているベッドにはガンドフとミニモンが楽しそうにベッドの感触を味わっている。初めはプックルも一緒になってリュカと同じベッドの上に乗っていたが、彼の足の爪は鋭く、いくら爪を引っ込めようとしても戦闘に特化しているプックルの爪が完全に引っ込むことはなく、どうしてもベッドのシーツをひっかいてしまう。宿のベッドのシーツを引き裂いてしまいかねないプックルにはリュカがベッドから下りるように言い聞かせ、プックルは不満な顔を隠しもせずにベッドの脇で不貞腐れたように寝そべっている。
「人間の世界に戻るって、どういうこと?」
ティミーがうつ伏せになったままリュカを見て問いかける。ポピーも小首を傾げながらリュカを見ている。
「子供の時にさ、僕、この宿に泊まったことがあるんだよ。それで寝て起きたら、ここじゃなくて、自分の家に戻ってたんだ」
「ええ、何それ」
「夢を見てたみたいな感じ?」
「うん、そう、そんな感じ。本当に夢でも見てたんじゃないかって思った。だけどまた家の地下室から妖精の世界に行けたから、夢じゃなかったんだけど……いや、でも、夢みたいなものだったのかなぁ」
「しかし我々はあの森を通り抜け、妖精の導きで然るべき方法でこの世界に来たので、状況がかなり違うようにも思えます」
「がうがう」
「そうだよね。あの時とは違うもんね。きっと大丈夫。またあの森を通り抜けてこなきゃならないなんてことにはならないよね」
リュカの言葉に、一同が一様に疲労を吐き出すような溜め息をつく。妖精の不思議な術がかかる森を抜けられたのは、子供たちが偶然妖精を見つけたからだった。今度もし、あの森を通らなくてはならなくなった場合に、偶然妖精に出会える確率がどれほどのものなのかを考えると、そう首尾よく事が運ぶとは思えない。
そしてリュカたちはあの森の中では移動呪文が発動しないことを試して知っている。迷いの森の中で迷い、救いの手も見つけられない状況になった場合、森の中に取り込まれ抜け出せなくなる可能性が非常に高い。その状況が脳裏に浮かび、不安が胸の中に渦巻くリュカは、今にも眠って休息を取りたいと思いつつも、その緊張から瞼を閉じることができないでした。
「あっ、そうだ、お父さん。さっきポワン様からいただいたあのキレイなホルン、見せてもらってもいい?」
ベッドの上に起き上がったポピーが、疲れよりも興味を先にとリュカのベッドの脇まで歩いてくる。ティミーは欠伸をしながらベッドに横になったまま、ポピーの後姿を見ているだけだ。
リュカの道具袋はベッドの脇に据え置かれている引き出し棚の上に置かれていた。袋の中をガチャガチャと音を立てながら、ポピーは水で出来ているような神秘的な妖精のホルンを取り出すと、目を輝かせながらその楽器を見つめる。
「なんだか、震えているようだけど……どうしたのかしら」
「ああ、そう言えば僕がポワン様から受け取った時も、震えてたな」
「楽器が震えるなんてこと、あるの? ボクにも触らせてよ」
妹と父の言葉が気になったティミーが、欠伸をしていたことも忘れたようにベッドの端に起き上がると、ポピーの手から妖精のホルンを受け取る。ティミーの手に渡ったホルンも、透き通る水のようなその身体を震わせている。まるで怯える小動物の様な細かな震えに、ポピーは優しく呼びかける。
「私たち、怖いことなんてしないわ。大丈夫よ。安心して」
「そうだ! 一度、吹いてみればいいんじゃない? だって、これって吹いて音を鳴らす楽器なんでしょ?」
そう言うや否や、ティミーは両手に妖精のホルンを構え、吹き口に口を当てる。するとティミーが息を吸い込む前に、ホルン自体が途轍もない不協和音を、宿全体を轟かすように響かせた。しばらくの間、誰の耳も機能しなくなった。思わずホルンを取り落としたティミーは両手で耳を塞ぎ、ポピーも息を呑んでその場に蹲った。
ティミーの手から離れたホルンはリュカが仰向けに寝転がるベッドの端に転がるが、リュカはホルンの安否よりも自分の耳から血でも出ているのではと両手を耳に当てていた。プックルはぴたりと耳を伏せて大きな体を震わせ、ミニモンはベッドの上掛けを頭まで引っ張り上げて丸まっている。ピエールは微動だにしないが、動けないというのが本当のところで、ただでさえ耳の良いガンドフはピンク色の尖る耳はいつも通りのまま見開いた大きな一つ目で天井の一点を見つめている。現実逃避の一種に見えた。
「何じゃ何じゃ、とんでもない音がしたが、一体何があったんじゃ」
部屋の扉が開かれ入って来たのは、一人図書館に残っていたマーリンだった。ポワンから話を聞いた後、マーリンは妖精の村の図書館の本に深く興味を持ち、色々と調べたいと一人残っていたのだ。
戦闘時にも激しい音には慣れているリュカたちだが、ホルンが発した音は途方もない高音の上、不快極まりない不協和音だった。まだ頭の中に反芻するその音は、妖精たちの悲鳴を限りなく集めたようなものの様にも思えた。
「ああ、大丈夫だ。マーリンの声が聞こえる」
「ははん、さては妖精のホルンを吹こうとしたな?」
言い当てるマーリンに、リュカを初め、皆が驚きの目を向ける。マーリンは得意げに両手を腰に当てると、しかしそこで疲れを思い出したように背中を丸め、テーブルの上の水差しから直接水を飲む。妖精の村の宿で出される水はただの水ではなく、飲むだけで体力も魔力も少しずつ回復させてくれる効果を感じられた。ここにも妖精たちの不思議な術が関わっているのだろうと思わせる。
「そのホルンには妖精たちの女王への崇高なる思いが詰まっておる。然るべき時、然るべき場所で、使うべきものなのじゃ」
「すごい、マーリン。どうしてそんなことを知ってるの?」
「あのルナという妖精にも、色々と聞いてみたのじゃよ」
「えっ? 話してくれたの?」
リュカが驚きも隠さずにそう言うと、マーリンは再び得意げに胸を張る。
「図書館を取り仕切るだけあって、書物を殊更好んでおるようじゃったからの。本を通じてであれば、様々なことを教えてくれそうじゃったぞ」
ポワンから受け取った妖精のホルンの美しさを褒め、それを人間であるリュカに渡してくれたポワンの寛容な心を褒め、妖精の図書が全て美しい葉の一枚一枚からできている不思議を褒め、迷いの森にかけられた妖精の術の巧妙さを褒めたマーリンに、ルナは冷たい態度を改めるように接してくれたという。しかしそれでも、容易く妖精の世界のことを教えてくれるわけではない。ただマーリンが何かを問いかければ、その事象について記載のある本棚のところにまで案内してくれたらしい。知識欲の高いマーリンにとってはそれがちょうど良かった。自ら妖精の世界の本を手に取り、妖精のホルンについても少しではあるが記載を見つけ、目を通してきたという。
「そのホルンは人間が無理に吹こうとすれば、恐れ戦き、さっきみたいなとんでもない音が出るらしい」
「すっごい音だったよ……。ボク、耳がもうダメになったかと思った」
「ガンドフ、マダ、ミミ、オカシイ……グスン」
ベッドの上に状態を起こして一つ目に涙を溜めるガンドフの耳を、傍に寄るポピーが手で擦る。
「まあ、しばらくすれば元に戻るじゃろうて。ただホルンが驚いただけじゃからの」
「妖精のホルンって生きてるってこと?」
「ホルンに命を吹き込んだと言った方が正しいじゃろう。妖精にはそういう術を使うものがおるんじゃ」
マーリンが言う通り、妖精には魔法とはことなる術を使うことができるのはリュカたちも肌で感じている。迷いの森の木々たちは、地面に根を張りながらも自らその場所を動き離れることができた。そして立つ位置を変え、景色を変え、森に侵入する者らを惑わせてしまう。攻撃性の強い種族ではない代わりに、巧みに術を使いこなし、危険を回避する能力に長けているのは間違いなかった。
「深き森に囲まれた湖……そのようなことを仰っておられました。その場所で、ホルンは音を鳴らすと言うことでしょうか」
「そうじゃろうなぁ。そこがどこなのかは……まだ皆目見当もつかんが」
「なんだー、マーリン、知らないのかよー」
ミニモンがいかにも無責任な態度でそう言ったが、リュカも内心、同じようなことを思っていた。マーリンならば既に妖精の城についても調べてきているのではないかと期待してしまっていたのだ。
「そうそう簡単には教えてくれまいよ。妖精としては人間や魔物などに、妖精の女王がいる城の位置など、最も知られたくない場所であろう」
「そうでしょうね。妖精にとって我々は危険極まりない存在でしょうから」
「でもさ、少なくってもヒントをくれたんだから、僕たちは目指してもいい場所なんだよ。深き森に囲まれた湖、だっけ? 湖って言ったら、天空城が沈むところもそうだよね」
そう言いながらリュカはベッドの上に起き上がり、懐から世界地図を取り出す。長年使いこんでいるため、少しでも力を加えれば、いくら丈夫な紙で作られている地図とは言え破れてしまいそうなほど、折り目に沿って紙が弱くなっている。葉の瑞々しい香りが漂うベッドの上に静かに地図を広げると、ベッドの周りに子供たちやマーリン、ピエールが寄り添う。プックルは既に床の上で寝息を立てており、ミニモンもベッドの上で上掛けを首までかけながら目を閉じかけている。ガンドフはリュカのベッドの上で今も転がっている妖精のホルンを見て、近づくのを怖がっているようだった。
「お父さん、この地図っていつから使ってるの?」
「すごい、ボロボロよね……紙はとても丈夫で良いものを使ってるみたいだけど」
常にリュカの懐に忍ばせてある世界地図はかつて、ラインハットで数日滞在している間にヘンリーが用意してくれたものだった。彼はこれからの旅にはついて行けないからと、今思えば餞別のような意味もあったのかも知れないと、リュカは擦り切れてところどころインクが消えてしまっている地図を見ながらそんなことを思う。ラインハットの学者に書かせたものだと言っていたことを記憶しているが、リュカはこれと同じほどに細かく書かれた地図がグランバニアにもあるのを知っている。それは国の中枢にいる者にしか目にすることのできない貴重なもので、それと同様のものをかつての親友は渡してくれたのだと今更になって気がつく。
「僕が大人になって旅を始めた時からのものだから、古くなって当然だよね」
「ねぇ、湖の場所はさ、またグランバニアに戻ってから考えてみようよ。お城に戻れば、もっと見やすい地図があるよ」
「お父さん、旅に持って行くのにもこの地図だともう見辛いんじゃないかしら。お城から新しい地図を持ち出した方がいいんじゃない?」
「うーん、でもこれが一番使い慣れてるし、僕はこれで見慣れてるから大丈夫だよ」
「……そうですね。私もこの地図が最も見やすいかと。擦り切れて文字が消えていても、その場所に何があったのかを思い出すことができます」
ピエールの言う通り、リュカもたとえ地図上ではインクが消えかかっているような場所でも、旅の最中ひっきりなしに広げていたこの地図を見ればその場所の思い出ごと蘇るから不思議だった。使う内に、地図にも命が吹き込まれたのかも知れないと思えるほどだ。
「ねぇ、そう言えばここっていつになったら夜になるの?」
ティミーが空一面に広がる白い世界を窓の外に見ながら、誰にともなくそう問いかける。
「そう言えばここの空ってずっと真っ白で曇ってるみたいよね」
「この妖精の世界には夜がないのじゃ。妖精たちはいつでも寝て起きて過ごしておるようじゃぞ」
「夜がないの? 暗くならないの? 月も星も見られないの?」
「そもそも、この世界って太陽がないよね。なんかおかしいなーって思ってたんだ」
ポピーとティミーが揃って窓からの白い景色を眺める。村の中に立つ木々や辺りに生える草花は彼らが生きる世界と変わらないが、妖精の世界には太陽も月も星もなく、ただ白い霧の中にどこからか切り取られた世界がぽんと放り込まれたような特別がここには詰まっている。
「ふわぁ……今が昼でも夜でも、とにかく疲れたよね。ボク、寝るよ」
ティミーはそう言うとすぐさまベッドに戻り、仰向けに寝転んだ。ポピーも目を擦りながら兄の隣にごろりと横になる。リュカはこの妖精の世界で眠ってしまうと、自分たちの世界に戻ることを不安に思っていたが、既に床で眠り込んでいるプックルは静かな寝息を立てながらも姿を消すことなく、呼吸に合わせて背中を上下させている。妖精の世界から追い出される心配はないように見える。
限界まで起きていたらしい双子は間もなく眠りに就いた。静かな二人の寝息が部屋の中に落ちる。その寝息を聞いている内に、リュカの瞼も重くなる。ベッドの上に使い古した地図を広げたまま、リュカも泥のように眠り込んでしまった。



「今は朝ってことでいいのかな」
「十分に休めたのならそれでいいんじゃないかしら」
妖精の村は相変わらず白く明るい空に覆われ、村の木々からは小鳥のさえずりが聞こえる。夜のないこの世界では時間の流れがはっきりとしていない。リュカたちが宿でどれほどの時間休んでいたのかも分からない。仮眠程度しか取れていないのかも知れないし、ぐっすりと丸一日寝てしまったような感覚もある。兎にも角にも、リュカたちは今、宿の外に置かれるテーブルに着いて食事を取っていた。宿から提供される食事は妖精たちも食べられるものばかりで、宿まで迎えに来た妖精ベラも一緒になって食事を楽しんでいた。
「このパン、なんか、変わった味がするよね」
「ああ、このパンには薬草が練り込まれているのよ」
「そうなのね。でもそれにしてはおいしいわ。薬草が入ってるなら、もっとおいしくないと思ったけど」
「きっとパンをこねている時に魔法をかけているんじゃないかしら。美味しくなあれって」
「それって魔法なの?」
「人間にはできないのかしら」
「さあ、どうかしらね。でも人間だって心のこもった食べ物は美味しいでしょ? それと同じことだと思うわよ」
ベラと子供たちの会話を聞きながら、リュカは薬草が入っているというパンを千切って中をまじまじと見る。ベラの言う通り、パンの繊維の様に薬草の緑が細かく散りばめられている。妖精の出す食べ物飲み物全て、口にするだけで元気になれるのは、実際に元気になれる素材が入っていることもあるのだろう。
テーブルに並べられたパンやらスープやら木の実やらを全てきれいに平らげ、最後に出された色とりどりの果物も全てリュカたちの胃袋に収まった。特にミニモンはここの食事が気に入ったようで、手にしている大きなフォークで果物を突き刺すと、長い舌で果物を巻き取って一気に頬張っていた。まるでリスのように頬を膨らませて嬉しそうに食べているミニモンを、ガンドフが幸せそうに眺め、自らも大口を開けて果物を頬張っていた。
食事が済むと、ベラが待ちきれないとばかりに宙に浮かび上がる。この後彼女には村の中を案内してもらう予定だった。しかし彼女は自ら、村ではなく外に出てみることを皆に勧めた。
「この村の見どころはやっぱりポワン様のいらっしゃるあの美しい桜の木なの。そこにはもう行ってしまったから、せっかくだし、村の外を歩いてみない?」
「そうそう! ボクもそう思ってたんだ!」
「村の外には魔物もいるのよね……?」
「いるわよ。でも、この大きな猫ちゃんと一つ目の熊さんがいれば、この辺りの魔物はきっと近づいてこないわ」
「あの時と外にいる魔物は変わってないの、ベラ?」
「そうね。人間の世界には魔物が多くなってるって聞いてるけど、この辺りはあの時と変わってないわ。妖精の世界は守られてる、ってことなのかしらね」
「そっか、それは良かったよ」
ベラはポワンから人間の世界のことを聞いているのだろう。人間の世界では彼女の言う通り、魔物の数が増え、凶悪さも増している。妖精の世界に続く迷いの森の中でも、リュカたちはアンクルホーンの群れに遭遇した。恐らく以前まではあれほどの群れになって人間に襲いかかることはなかったのだろう。魔物は基本的に、あまり群れない習性がある。特にあれほど巨体な魔物となると、群れるだけで互いに諍いが起き、結局分裂してしまうことが多い。それが連携して攻撃をしてくるほど、魔物らは群れることに抵抗がなくなっている。魔物らにも気づかない何者かの影響が、魔物らに及んでいるに違いなかった。
「リュカよ。わしはまたあの図書館に行って調べ物をしておきたいのじゃが、良いかの?」
マーリンにとっては妖精の村の外の世界よりも、妖精の知識が詰まっている図書館の本に興味があるようだった。リュカとしてはマーリンの申し出は大歓迎だ。リュカたちが外を歩いている間にマーリンが様々な情報を調べてくれるなら、それを断る理由はなかった。
「……ねぇ、お父さん、私もマーリンと一緒に図書館に行ってもいい?」
「ポピーも?」
「妖精さんの色んなこと、私も知りたいなって。だってここにはもう、来られないかも知れないものね」
ポピーのほぼ断定的な言い方に、リュカは彼女も現実を理解しているのだと分かった。ティミーとポピーが成長し、大人になれば、この妖精の世界に足を踏み入れることはできなくなる。大人になれば、妖精の姿は見えなくなる。今を逃してはいけないのだと、聡い彼女はこの機会を逃すまいと妖精の知識を覗いてみたいと強く思ったのだ。
「いいよ、マーリンが一緒なら大丈夫だ。後で僕に本で見たことを教えてね」
「うん。妖精の女王様のことも、調べてみるね」
「何か分かれば良いがのう。ま、あまり根を詰めずに調べてみるぞい」
村の宿を出ると、マーリンとポピーは村の図書館へ向かい、リュカたちは村の外へと足を向けた。村の出口までは桜の花びらが風にそよぎ、地面に落ちていたが、村を一歩出るとそこには人間の世界とほとんど変わらない自然の景色が広がっていた。ただ、空はどこを見上げても一面白い。太陽がどこにもないという景色にはやはり人間として違和感を覚える。
「ベラ、妖精って歌とか楽器が好きなんじゃないの?」
「そうね、好きよ。綺麗なものや音って、それだけで心を綺麗にしてくれるもの」
「でもここには夜がないから、夜を歌うことはできないよね。夜だってキレイだよ。月も星も」
そう言いながらリュカは真っ白な空を見上げる。白い空に自由に何かを描けるのなら、様々な美しい景色を描くこともできるだろうが、さすがに空に絵を描く妖精はいない。何色にでも染まることができる白の空だが、空は何者にも染められない場所だ。
「だから妖精たちは人間の世界に行くの。人間の世界には昼も夜もあって、夜明けも夕焼けもあって、色々な空が見られるものね。人間の世界で妖精に出会ったこと、ない?」
「ベラには出会ったけど……ベラはあの時、妖精の村の冬をどうにかしたくて人間の世界に来てたんだよね」
かつてリュカが父とサンチョと暮らしていたサンタローズの村には、長い冬が終わりを告げずに村人たちを凍えさせていた。それは妖精の村で春を告げるためのフルートが奪われ、春を呼ぶことができなかったためだった。春風のフルートを取り戻すために人間の戦士をと、妖精の村に連れてこられたのが子供のリュカだった。
「あの時はそうね、用があってあなたの村に行ったの。でも妖精って結構、あなたたちの世界にいるのよ。私たちが姿を隠せるのは知ってるでしょ?」
「うん。この村に来るまでにも森を通ってきたけど、僕には妖精の姿が見えなかった」
「あ! でもボクには見えたよ! ボクとポピーには妖精が見えたんだ」
「そうなの。どうやら人間の子供には見えるみたいね。リュカも子供の頃は私の姿が見えていたもの」
「我々魔物には全く見えないのですね。少々寂しい気もします」
「でもヨウセイは弱っちいから、姿を隠さなきゃ魔物にすぐやられちゃうだろー」
そう言いながらミニモンは回復した身体で宙をふわふわと飛びながら、木の上の方に生っている大きな黄色の果実をもぎ取る。そしてむしゃむしゃと果実をかじり、美味しいと分かると一気に頬張った。草地を歩くプックルが「がうっ」と一声鳴き、ミニモンに一つ寄越せと催促する。
「人間の子供はね、私たち妖精と一緒に遊んでくれるから、だから目にすることができるんだって。たとえ子供でも、私たちに攻撃しようとするような子だったら、妖精は姿を隠してしまうわよ」
「ガンドフ、ヨウセイ、タタカナイノニ……」
「どうやったって、我々魔物には見えないということなんですね」
「でも妖精の村には魔物が住んでるぞー」
妖精の村でリュカたちはスライムを目にしている。宿の中では気持ちよく風呂に浸かる骸骨の魔物もいた。妖精たちは魔物という存在自体を全て否定しているわけではないらしい。現にリュカが連れている仲間の魔物らも、妖精の村に入ることができた。
「あの子たちが魔物かどうかも、よく分からないのよ。もしかしたら私たちと同じ妖精なんじゃないかってウワサもあるくらい」
「そういえばあのおじいさん、そんなことを言っていたかも」
宿の前に座っていた人間の老人の姿をした者が、もはや自分が人間なのか妖精なのか魔物なのか分からないと言っていたのを思い出し、リュカはその言葉をすんなりと受け入れてしまっていた。妖精の世界の不思議は何が起こってもおかしくはないと、ミニモンが上から落とした黄色の果実を拾い上げ、かじる。果汁が溢れる瑞々しい果物のようだが、口も手も汚れない。柔らかな風がそれらを拭い去ってしまう。
リュカたちが長閑な景色の中歩き、会話をする中で、歩く草地の一部がガサガサと音を立てて揺れた。ティミーのトヘロスが効果を及ぼしているため、リュカたちに襲いかかるような魔物の姿は近くにない。草地の中を移動するのは兎か鼠か、ティミーがその姿を目に捉えようと静かに近づくと、意外な者たちと目を合わせる。
「この子たち、どこかで見たことがあるような……」
「うわっ! なぜこんなところに人間が!」
草地の中からティミーを見上げる小さき者が、驚きの言葉を漏らす。草の色に紛れる彼らの身体は、緑がかった青色で、小さな身体を葉や木の実の殻で武装している。同じような者たちが四体で、まるでリュカたちと同様、旅をしているかのように連なって歩いているところだった。
「君たち……どこかで……」
リュカもその場にしゃがみこんでその小さき者たちをまじまじと見つめる。ベラが宙に浮かびながら、口に手を当ててクスクスと笑う。
「リュカ、あなた前にも会ったことがあるわ。この子たちはコロボックル族の妖精たちよ」
「あ、やっぱり、前にも会ったことがあるんだ。そうそう、こんな青っぽい色をしていたね」
「コロボックル族の村がどこかにあるみたいなんだけど、私たちはその場所を知らないの。きっと隠されているんだと思うわ」
「へぇ~、この子たちも妖精なんだ! かわいいね!」
「な、なんと! カワイイだと!? 我は世界を救わんとする勇者を目指す者! いざ、尋常に勝負いたせぇ!」
「えっ? 勇者? ボクも勇者なんだ!」
「んあ!? 勇者だと?」
「そうそう。よし、勝負だね! いいよ、やろう! 負けないよ~」
ティミーはいかにも楽し気にそう言うと、常々背中に担ぐように持っている天空の剣を手にして、コロヒーローの前で構えを取った。神々しいその刀身に思わず目を奪われたコロヒーローだが、後ろに控えていたコロプリーストが控えめに「……戦うんですか?」と問いかけると、その声に触発された様子で剣を両手に構えた。
コロヒーローが草地を格好よく蹴って宙に飛び上がる。しかし身体の小さい彼が飛び上がっても、せいぜいティミーの目の前ほどの高さに留まる。尋常に勝負をと言われ、ティミーも上手く手加減ができない。いつも通りの剣筋で素早く斜めに斬りつけると、コロヒーローは「うごあっ!」と妙な悲鳴を上げてその剣を必死に避けた。
「がうっ?」
「いや、プックルが行ったらダメだよ。弱い者いじめになっちゃう」
「しかしこれほど小さな者が勇者を名乗るとは……勇気のあることです」
「フクガ、ハッパ。カワイイネ、チイサイネ」
「オレが一匹ずつ燃やしてやろうかー? でもちっさいからメラミでもいっぺんに燃えるかもなー」
ミニモンが不穏な言葉を口にしながら手の平に火球を生み出すのをリュカが止める。
「リュカ、どうするの? 私、あまりコロボックルの子たちを傷つけたくないんだけど」
「大丈夫。ティミーはこの子たちを傷つけないよ。もし傷つけちゃったら、僕たちで助けるから」
ベラとリュカが言葉を交わす間にも、ティミーは小さな者たち一行との戦闘を繰り広げている。コロファイターが小さな斧を振り回して駆けてくれば、それを天空の盾で弾き返す。コロマージが星の杖頭を向けて呪文を唱え、小さな火の玉が飛んでくると、それを剣で斬るようにして空中で消してしまった。味方が怪我をするでもなく、敵である人間の子供に襲いかかられることもないコロプリーストはただぼんやりと戦況を見守っている。
「おい、コラ! 本気で勝負しろ! オレたちを馬鹿にしおってぇ~!」
何もかもが躱され、その上攻撃という攻撃をしてこないティミーという人間の子供に痺れを切らし、コロヒーローが腹を立てながら剣を両手に持つと頭上に掲げた。真っすぐと天に伸びる剣の切っ先に、小さな者に似つかわしくない魔力が帯びる。まるで予想しなかったコロヒーローの強い魔力に、ティミーが目を見張る。敵の剣先にバチバチと小さな火の粉がいくつか飛ぶ。妖精の世界の空は相変わらず真っ白だが、コロヒーローの頭上に伸びる剣の先には灰色の雲が出現する。雲の中に光る魔力に、ティミーの目も好奇に光る。
「うおおおぉぉ!」
コロヒーローの叫び声と共に、剣先がティミーに向けられる。ティミーは天空の盾を前に構え、その衝撃に備える。その呪文が本当に発動していれば、天空の盾で防げるものではなかった。ティミーのみならず、リュカたちにも激しい雷が降り注ぎ、一行は一転して危機に陥っていただろう。しかしコロヒーローの小さな身体で、足りない経験値で、憧れの勇者の呪文ギガデインを発動することは叶わない。いつもいつも不発に終わってしまうその呪文を、コロヒーローは懲りずに何度も挑戦し、そしてまた、失敗した。
「ねぇ、それ! その呪文! ボクにも教えてよ! すごいよ、それ! 絶対にすごいって!」
興奮した様子で歩み寄るティミーの目に映るコロヒーローの姿は、ギガデインの不発のとばっちりを受け、全身煤けた状態だ。コロプリーストがやれやれと言った調子でホイミの呪文で回復させると、コロヒーローは剣を前に構えた状態のままきょとんとした目をティミーに向けている。
「な、何だ、お前は勇者を名乗るのにこの呪文を知らないというのか」
「知らないよ。だって呪文書にのってないよね、そんな、雷を呼ぶ呪文なんて」
「何だよー、ティミーはプックルの真似して使ってただろー、雷の呪文」
妖精の世界を目指し迷いの森の中を歩いていた時、ティミーは一度、アンクルホーンたちとの戦闘の中で雷を呼び出し落としたことがあった。それはプックルが落とした稲妻の煌めきに憧れが爆発し、ただその思いだけで何も考えないままティミーの両手から、彼自身も知らない呪文が発動したのだった。もう一度その呪文を唱えてみろと言われても、覚えるという手順を踏んでいないその呪文を、ティミーは手から生み出すことができない。
「ボク、あの時どうやってあの呪文を出せたか分からないんだよ。なんかさ、プックルが吠えて、稲妻が落ちて、うわーかっこいいなーって思って、気持ちがうわーってなってさ。だから呪文って感じじゃなかったんだよね」
「私はてっきりあの時、ティミー王子が新しい呪文を発動したのかと思っていました」
「僕もそう思ってた。けど、確かに僕も呪文書で雷の呪文なんて見たことがないな。ポピーやマーリンなら知ってるのかな」
「お前たち人間っていうのは本当に、記憶の短い生き物だな。伝説の勇者が使っていたこの偉大な呪文のことも忘れてしまうとは」
「伝説の勇者も使ってたの? それじゃあ絶対にボク、覚えないと!」
「お前のような人間のコドモが使いこなせるわけがないだろう!」
そう言ってふふんとせせら笑うコロヒーローだが、全身が黒く煤けているため説得力に欠ける。彼自身も使いこなせない呪文であることは明らかだった。しかしその伝説の呪文を知っているか知らないかでは、意味合いが全く異なる。
「子供だからって使えないじゃ困るんだ。だって、ボクは勇者なんだもん! だから絶対、君から教えてもらうからね!」
「……いいんですか? 失敗するとこうなりますよ?」
ティミーの意気込みに水を差すように、コロプリーストがおずおずとそう言いながら仲間のコロヒーローを指差す。呪文を失敗すれば、呪文は暴発し、自らの身体を危険に晒すと教えてくれているのだ。勇者の習得する呪文には危険が伴うのだと、コロマージも星形の杖頭をくるくると回しながら小さく頷いている。
「でもお前が勇者ってんなら、やるっきゃねぇだろうがよ!」
「こらぁ! コロファイター! お前、オレが勇者と認めていないということかぁ!」
「世界を救う勇者なら、何人いたっていいじゃねぇかよ!」
身体は小さいが、大きなことを言うコロファイターのその言葉に、リュカたちは思わず息を呑んだ。世界を救う勇者として生まれたティミーはまだ十歳にも満たない子供だ。伝説を信じる人々は、世界でただ一人の勇者に世界の命運を託し、救ってくれると信じる。
しかし勇者と共に時を過ごす仲間たちにとって、勇者が唯一無二の存在であってほしいと願う者は、恐らくいない。世界の命運を託す手が他にもあれば、できることならその役目を共に背負う仲間がいて欲しい。世界に勇者がただ一人と望むのは勇者を遠くに見る人々で、世界に何人も勇者がいていいと思うのは勇者を間近に見る仲間たちだ。
「そうだよ、その通りだと思う。勇者が何人いたっていいよね。その方が心強いよ」
「第一、かつての伝説も、勇者がただ一人で悪に立ち向かい倒したという話でもありますまい」
「ナカマ、ダイジダヨ」
「がうがうっ」
プックルの言葉にコロボックル族の四体は揃って顔を見合わせる。『お前たちも大事な仲間で旅をしてるんだろ?』と、プックルの澄んだ青の瞳がそう問いかける。プックルの鋭くもどこか暖かい青の瞳に、コロボックル族の妖精たちは素直に頷く。
「そんなすごい呪文を知ってるなんて、絶対に君たち、強くなれるよ!」
「そ、そう思うか?」
「うん! ボクもさ、もっともっと強くならなくちゃいけないんだ。だからその呪文、教えて欲しいんだけど、いいかな」
「うむ。仕方があるまい。人間の勇者を名乗るお前……まだ子供のようだが、この呪文を望むのなら教えてやってもよいだろう!」
コロヒーローは小さな身体でふんぞり返り、両手を腰に当てると、尊大な態度でうんうんと何度も頷いた。彼の後ろでは他の三体の妖精が「自分でも使いこなせないのに」「教えられるものでしょうかね」「ワタシより呪文が得意じゃないのに」などと不安だらけの言葉を囁いていたが、コロヒーローとティミーにはまるで届いていない。
小さな妖精たちとティミーのやり取りをぼんやりと見ながら、リュカは思わず微笑んでしまう。コロボックル族の勇者を見ていても、どこかティミーに通じるものがあるように思える。常に前を向き、失敗することをさほど考えない思考回路は、勇者に憧れる勇者のあるべき姿の様にも思えた。
「じゃあここで、呪文のお勉強タイムってことね。いいじゃない。せっかくだし、ゆっくりこの世界で呪文をお勉強していったらいいと思うわ」
「どうせ夜も来ないし、お腹が減るまで、疲れるまで、教えてもらっちゃおうよ」
そう言いながらリュカは妖精の世界の白い空を見上げる。雨が降ることもない。雪が降ることもない。じりじりとした太陽に照らされることもない。常に心地よい空気に包まれ、体力的にすり減る心配のないこの世界で、リュカは瑞々しい草地に腰を下ろした。ガンドフは近くの森に入り、戻ってくるとその両腕には沢山の果実を抱えていた。草地に転がされる果実をプックルが音を立てて頬張り、コロファイターとコロプリーストも一緒になってガリガリとかじっている。
「何だか、平和ですねぇ」
そう言いながらピエールの緑スライムも草地に置かれる果物をかじり始めた。
「なぁ、そっちの大きな木の実は焼いてみた方が美味いんじゃないかー?」
そう言ってミニモンが指先に小さな火を灯して木の実を炙ると、香ばしい匂いが辺りに漂った。その匂いに腹の虫を鳴らしたリュカは、のんびりとした行楽気分で、ティミーとコロヒーローの楽しそうな二人の勇者のやり取りを見守っていた。

Comment

  1. ピピン より:

    bibiさん

    前回リュカが出会ったのはプチヒーロー一味でしたっけ?
    こういう形でギガデイン?を習得するのは全然予想してなかったです。
    この子達が出てくると和むので時々出て来て欲しいですね(笑)

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをありがとうございます。
      子供の頃に妖精の村付近で出会ったのはコロボックル族で、この前天空の塔付近で出会ったのがプチット族でした。
      ということは・・・な感じでこれからの話が進むかと思います、多分。
      ギガデインを習得するのには、プックルの真似事では少し弱いなと思い、彼らに協力してもらうことにしました。
      コロヒーローも勇者を自称してますからね。同業者ということで(笑)

  2. がっちゃん より:

    いつもありがとうございます!

    大人になってからの妖精の村での宿泊、私も村の外に出されるんじゃないかって心配したのを思い出しました^_^

    妖精の村のご馳走食べてみたいです^_^
    コロヒーローたちはエンカウントしてうれしいって思える魔物ですね^_^

    • bibi より:

      がっちゃん 様

      こちらこそいつもありがとうございます。
      妖精の村の宿・・・そうなんですね。私はゲームをしている時は、前のことなんかすーっかり忘れて、普通に宿泊しました(笑) もし外に出されていたら、しばらくポカーンとしていたと思います。「なんで?」って。
      妖精たちは何を食べているのかなぁって考えた時に、やっぱり森のお食事よねと考えたのですが、ウサギや鳥を食事に出すのは私がツライと思い、止めました。植物系で楽しんでもらうことにしました。
      コロヒーローたち、会うと戦いの時間を引き延ばしたくなります(笑) 次は何をやってくるのかって、相手の攻撃を全て見ておきたいと。レアキャラみたいな位置づけですかね。

  3. ケアル より:

    bibi様、コメントが遅くなってしまいごめんなさい…。

    流石にヘンリーから貰った世界地図も限界ぎりぎりになりましたか…。bibi様、お話の種に1度、地図が真っ二つに破れちゃう…だなんて描写はいかがでしょうか?
    ヘンリーに会いに行けるきっかけにもなりますし~?(笑み)

    今回もbibiワールド炸裂ですね。またしても妖精族との出会いで心を和ませてくれますね。

    ティミーやっぱりライデインを無意識に使っていたんですね…(汗)
    まさに、ダイの大冒険の主人公ダイと同じですね(笑み)
    これからはライデインもギガデインも使えるようになりますね…なるんですよね?

    ミニモンの憎めない子供らしい言葉遣いと言動は読者をクスっとさせてくれますね。仲間全員が攻撃態勢になっていないのにメラミを使おうとしたり、ティミーにライデイン使ったしょ~って皆が思っていることを言ったり、くだものを炙ってみたりと周りを和ませてくれるムードメーカーみたいで良いですね。

    さて次回のお話にルーラしますね!

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをありがとうございます。
      リュカがボロボロの世界地図を手放したくないのは、それまでの思いもたくさん詰まっているからで、ピエールも然りです。地図としての役目よりも、それまでの様々な思いを支えてくれた地図を傍に置いておきたいという感じでしょうかね。
      生まれながらの勇者ってどんなものかしらと考えると、やはり無意識にできることもあるんだろうなと。神がかりな力って、自分の意識とは別のところから生まれるものかなと、そんな風に考えています。そのうち、使えるようになるでしょう、そのうち・・・いつになるかな。
      ミニモンは楽しいキャラです。発言が無邪気で怖いこともありますが、それも含めて子供らしいキャラですね。こういうお話の中では重宝するキャラですね~。

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