父を思い妻を思い

 

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「リュカはやっぱり、戦い方が特殊だよね」
勝ち抜き形式の準決勝で兵士長ジェイミーを破り、次の決勝に備えるリュカの姿がちらりと出場者控え所付近に見える。新調されたばかりの武闘着は多少の土汚れがついているだけで、さほど汚れていないように見える。本人の様子を見ても、特に疲れている雰囲気もなく、にこやかに他の出場者らと談笑しているくらいに和やかだ。普段はのんびりと穏やかな雰囲気を纏わせている従兄だが、こと戦いとなるとまるで魔物の一種のような雰囲気さえ見せるその落差にドリスは腕組みをしながら目を細めて彼を見遣る。
「お父さんが剣を持たないで戦うところは初めて見るから、何だか、すごいなぁって思うよ」
「お父さんって剣がなくてもあんなに戦えるものなのね……」
旅では剣を腰に帯び、敵との戦いとなれば常に右手に剣を構えている父の姿を見慣れているティミーとポピーには、武闘家として戦う父の姿は新鮮以外の何者でもない。剣を持ちながら駆けたり飛びかかったりするのだから、武器を何も持たない身軽な状態となれば更にその動きは軽やかになるのも当然だった。対戦相手の頭上を越えて攻撃を避けることも、戦い慣れているリュカとしては当然の身体能力だ。
「今まで本当に、必死に生きてきたんだなって伝わってくるよ」
ドリスは従兄のリュカがこれまでどこでどうやって生きてきたのかを聞いたことはない。ただまだ赤ん坊の頃を抜け出さない内に父王であったパパスと従者のサンチョに連れられ、果てしない旅に連れ出されたと父オジロンに聞いているだけだ。王妃であったマーサを奪還するべく城を飛び出すように出て行ってしまった兄パパスには心底困らされたと今も文句を言うオジロンだが、それを止めることができなかった自分も悪いのだと、結局困ったように笑って済ましてしまう。
パパスを喪い、生まれた時から一緒だったサンチョとも離れ離れになっても尚、リュカは生き続けた。ドリスは以前サンチョに、一体いつパパスとリュカと離れてしまったのかを聞いたことがあった。しかしその話題には触れてくれるなと、サンチョは硬い表情をしたまま話をはぐらかし、決して彼が知っているはずの真実を話そうとはしなかった。ドリスがラインハットの襲撃を知ったのは、サンチョの口からではなく、彼が毎日欠かさず祈りを捧げに行っていた教会の神父からだった。しかし神父からも詳しい話を聞くことはできなかった。恐らく神父も詳しい話を知らないに違いなかった。
リュカの穏やかな笑みの底に、暗い闇を見ることがある。先ほどのジェイミーとの試合時に、その闇を一瞬見つけた。凄まじい魔力がリュカの身体から噴き出しかけたのを見て、ドリスは為す術もなくその場に立ち尽くした。リュカの手から放たれるのは回復呪文ばかりと思っていたが、いざ外での戦闘時にはその手から容赦なく攻撃呪文が放たれることもあるのだと、従兄が常に戦いの世界に身を置いている現実にドリスは姫として守られている自分の身を嘆いてしまう。
「あたしはあんなに必死に戦ったこと、あるかな……」
強くなりたいという純粋な思いがある。身体が強ければ、戦いで強くなれれば、心も強くなれる。心が弱くならないように、人々に弱いところを見せないために、いつどこでも強い自分でありたい。しかし強さに対して必死さを感じたことは今の今までなかった気がする。
「ドリスはとっても強いじゃない。みんな、ドリスが強いのは知ってるわよ」
「そうだよ。この大会はさ、みんなドリスの戦ってるところを見たくて盛り上がるんだもん。速いし、跳ぶし、かっこいいなぁって思うよ、ボク」
「それでもやっぱり、あたしは必死に戦ったことはないよ、きっと」
「じゃあ今回はそれをやってみればいいんじゃないの? ボクもドリスが必死になって戦ってるところを見てみたいなぁ」
呑気な口調でそんなことを言うティミーも、リュカと共に旅に出ている時にはそれこそ必死になって戦う。戦うことに楽しみを見出すこともあるティミーだが、外で出遭う魔物らはリュカたちの命を容赦なく潰しにかかろうとしてくるのだ。勇者の肩書すら持つティミーはまだ八歳の子供にも関わらず、必死の意味をその小さな身体が知っている。
「そうだよね、あんたたちみたいな子供が頑張ってるってのに、あたしができないこともないはずだよ。よしっ! あたし、今まで以上に本気で戦ってみるよ! それでリュカにも勝つからね!」
「……お父さんがパピンさんに勝てたらいいね」
ポピーは父の強さも知っているが、兵士長で一番の実力を持つパピンの強さも見聞きして知っている。リュカよりも頑強な体つきで、頼りがいもあるパピン兵士長の強さは、兵士たちが憧れの的とする存在だ。剣や槍などは持たず、武闘にも通じないポピーから見れば、父リュカとパピン兵士長の実力の差など、想像したところで想像の及ばないところにあるのは明らかだ。
「何だよ、お父さんが負けるって言うのかよ」
「そんなこと言ってないでしょ! でも、パピンさんだってとても強いもの。お兄ちゃんだって知ってるでしょ」
「強いけどさ、お父さんが今まで負けたことなんてないだろ。旅の途中だって一度も負けたことなんてないんだから」
「旅では逃げたっていいじゃない。今までも何度も逃げてるわ。お父さんは戦うのが多分、あまり好きじゃないから……」
「好きじゃないかも知れないけど、戦うってなったら誰よりも強いよ。お父さんが誰かに負けるところなんて、ボク、想像できないよ」
旅の中で見る父の姿は強く勇ましく、誰よりも優しく、そして底なしに怖い。魔物との勝負に負けたら命を取られるという極限の緊迫感の中、父はいつも子供たちをかばい、魔物の仲間たちと背中合わせで必死に戦う。その大きな背中にティミーは実は、何度も恐怖を感じていた。父の背中にはいつも何かの覚悟が見えてしまうのだ。その度にティミーは父の手を掴み、引き戻したくなってしまう。
「まあ、この試合で逃げ出したりしたら、国王としての尊厳なんて一つも残らないから、そんなことはしないだろうけどね」
ドリスは明るく笑いながらそう言い、ポピーの頭を優しく撫でた。赤ん坊の頃から何度もその頭を撫でているが、いつの間にか二人ともすっかり大きくなってしまった。ドリスの言うことを何でも素直に聞いていた頃の小さな双子は成長し、聡明な二人は確かな自身の意思を持って様々な思いを言葉にする。二人の中で父リュカの存在は途方もなく大きく、共に旅をする中で父への思いは確実になり、今までの失われた時を取り戻すかのように一気に成長しているのだろう。
ドリスが近くまで来た侍女に一言二言話しかけられると、予定通りで良いよと軽い返事をして侍女をすぐに帰した。国王と兵士長の実質上の決勝戦が行われた後、ドリスは自身が目の前の会場に出て一人の武闘家としての役目を果たさなければならない。その準備がこの決勝戦の後すぐに行われることを、改めて侍女から知らされたのだった。
「そろそろ始まるかしら」
「ボクもいつかこの武闘大会に出たいな。ドリス、ボクが大きくなってもこの大会は続けてよね」
「もっちろん。この大会はあたしが考えたグランバニア新年祭の目玉だからね。王妃様たちが戻ってからも絶対に続けるよ!」
あの元気な王妃様だってきっとこの大会を見てみたいに違いないと、ドリスは自分の格闘好きに乗せるようにまだ戻らない従兄の妻を思った。リュカが男らしく戦う姿は恐らく彼の父パパスに似ているのだろうと、息子の勇姿を見たいであろう従兄の母を思った。

出場者が控える場所にはテントが張られ、その中で彼らは試合前のひと時を過ごしていた。晴れ渡る空からの陽光でテント内は少々暑い空気がこもっていたが、試合を終えた者たちも皆このテントに残り、生まれて初めて経験する時間を緊張した面持ちで過ごしている。
「何だか僕、みんなの中にいると一人だけ子供みたいだよね」
リュカが言うのは体格の話だ。兵士長らは皆体格にも恵まれ、リュカよりも頭一つ、二つ分も大きな者ばかりだ。武器屋を営むイーサンも腕にも脚にも筋肉を巻きつけているかのような立派な体格をしており、まだ年若い青年兵士もリュカより上背があったりする。
「しかし強さは大きさではないことは既に証明されているではないですか」
先ほど対戦した兵士長ジェイミーが長身の身体から発せられるものとは思えない高めの声で、リュカの前に跪きながらそう言う。リュカがそんな畏まった状態じゃ話しづらいからと彼を立たせようとしても、ジェイミーは固辞して跪く体勢を崩さない。立ちながら話すと完全にリュカを見下ろしてしまうため、彼の真面目な気質がそれを許さないようだ。
「リュカ王が呪文を使ったら、我々はひとたまりもありませんからな」
「わしなら呪文を唱えられる前に封じてしまいますがのう。しかし呪文を封じたところで、到底勝てそうもありませんな」
先ほど、リュカが咄嗟に呪文を唱えようとした場面を皆その目で見て、知っていた。この武闘大会では呪文を使うことは許されていない。もし呪文を放ってしまえば、その時点で失格となる。
「リュカ王、失格にならなくて良かったですな」
「一国の王が武闘大会で反則負けなんて、カッコ悪いもんね。でもジェイミー兵士長には悪いことをしたと思ってるよ。怖かったでしょ」
「い、いえ、滅相もない! ただリュカ王から魔力が噴き出したので、ただただ驚いただけでして……」
「しかし国王様は旅の最中では剣を持ち呪文を放つ戦いをしておいでなのですよね」
兵士長らの中に混じる青年兵士がおずおずとリュカに問いかける。彼の直属の兵士長がその口を閉じさせようとするが、リュカは「構わないよ」と軽く言って彼の問いに応える。
「そうだね。剣も呪文も、魔物との戦いには必要だから。グランバニアにいる魔物たちを見れば分かるよね。魔物は鎧兜を着ていなくても特別身体が強かったりするし、爪や牙があったり、空を飛べたり、人間じゃできないことが色々とできちゃうんだ。だからそれに立ち向かうためにはやっぱり剣の腕もそうだけど、呪文がないと立ち向かうのは難しいと思うよ」
「我々の兵士らの中には呪文部隊もあるのですが、主に補助と回復を目的としているもので、攻撃に関してはやはり剣や槍が主体となっています。今後のことを考えると、呪文も攻撃部隊を編成すべきでしょうか」
「もし攻撃呪文が得意な人たちがたくさんいるんだったら、それも良いかも知れないけど、呪文が使えるからって戦えるかと言ったら、それはまた別だよね。才能とやりたいことは別だもんね」
誰だって自分の命は惜しい。命をすり減らしてでも呪文の才能を使って戦いたいかどうかなど、周りの人間が決められることではないとリュカは思っている。
「しかしあなたはこの国の王です」
まるでリュカの思考を読み取るかのようにパピンが厳しい顔をして言う。その言葉にリュカは困ったように少し笑う。そう言われると思っていた。
「王として優しすぎるのは国を滅ぼします。王として厳しい判断を下すこともまた必要と思われます」
「うん、分かってるよ。今の状況なら、とりあえず、準備はしておいた方がいいかなというところかな」
北の塔に棲みつく魔物の脅威は今もある。そのための警備をこの新年祭の最中にも怠らずに続けている。魔物らがすぐにでもグランバニアに攻撃を仕掛けてくる気配は見えないが、そうと決まれば非情な魔物らの攻撃は突然に現れるだろう。たとえ徒労に終わる可能性があったとしても、国を守る手段を整えて行かなくてはならないことはリュカの最たる仕事だ。
「国王様はとても穏やかな方に見えますが、どうしてそんなにお強いのでしょうか」
年若い青年兵士は国王と直に話せる機会を逃したくはないとばかりに、初めて近くで見るリュカに興味津々で話しかける。やはり直属の兵士長がその態度を諫めようとするが、リュカは彼が叱る前に笑って答えようとする。
「うーん、何だろうね。僕は自分が強いとは思っていないけど、でもそう思ってもらえるようになったのは……そうならなきゃいけなかったからかな」
「国王様は幼い頃より前王パパス様と共に外の世界を旅しておられましたね」
パピンの年齢の者であれば、パパスがマーサを救うための旅をしていたことを実際に知っている。昔は今ほど世界に魔物が蔓延っている状況ではなかったとは言え、それでも幼い子供が世界を旅するのは相当に過酷な状況だったことは誰もが想像できるところだ。強く逞しい父パパスに守られ、主に絶対の服従を誓うサンチョにも同じように守られた。
しかしある時を境に、守られる状況は終わった。そして自分の身は自分で守らなければならなくなった。あの十余年の話をリュカはグランバニアの誰にも話していない。サンチョにすら詳しい話をしていない。その時のことを聞かれれば、リュカは「心優しい修道院の人々に助けてもらった」と嘘だけではない嘘をついて誤魔化した。
修道院では少しの間世話になり、その後は自分が何者かも分からずに世界を放浪していたと話せば、大方の者は深く追求することもなく頷いてくれた。サンチョが疑念の目を向けていたことには気づいたが、リュカが話さなければ彼がそれ以上聞いてこないことも分かっていた。サンチョの優しさに今も甘えている。
「パパス王直々の稽古などあったのですか」
父のような強い戦士になりたかった。それはリュカの幼い頃の夢だった。父の真似をしてそこらに落ちている木の棒を振り回し、自分なりに剣術を身に着けてみようとした。リュカのその様子を見たパパスが、珍しく顔を綻ばせて相手をしてくれたこともあった。稽古をつけていたというよりは、子供と遊ぶ手段が剣の稽古のようなものだったと言うのが正しいのかも知れない。子供と遊ぶ手段が分からない中で、パパスが唯一まともに子供の相手ができることが剣の稽古だったのだろうかとリュカは今になってそう考える。
「まともな稽古じゃなかったと思う。ただ父さんは僕と一緒に遊んでくれてたんじゃないかな」
リュカが過去を見つめるような遠い目を地面に落とし、静かに語る姿を見てパピンは静かに震える溜め息をついた。そして一つ、二つ頷いた時、会場の観客らが一斉に歓声を上げた。
「リュカ王、パピン兵士長、お時間です」
ジェイミー兵士長が興奮を抑えた様子で、地に片膝をついた状態のまま二人に告げる。誰もが二人の戦いを心待ちにしている。リュカは頭に過った過去の記憶を静かにしまい込み、パピンを見上げる。
「パピンさんはさ、どことなく父さんに似てるんだ」
そう言われたパピンは驚いたように目を見開き、恐れ多いとばかりに激しく首を横に振る。
「あの偉大なパパス王に、に、似ているなど……とんでもないことでございます」
「あの時は僕、父さんに遊んでもらっただけだったけど、パピンさんは僕に稽古をつけてくれるかな」
八年の時を止めてしまったリュカの瞳は幼い色を残したままだ。一国の王ではなく、どこか心細そうに彷徨うリュカの表情を見て取ると、パピンはまた一つ、二つ頷いて立派な口髭を揺らした。
「分かりました。しかし稽古をつけてもらうのは私の方かも知れませんが」
「そんなことないよ。パピンさんはとんでもなく強いでしょ」
「そうやっておだてて油断させる作戦ですか?」
「本音で言ってるんだって」
リュカがむきになって言うと、パピンは思わず噴き出して笑った。前王パパスのような近づきがたい厳格な雰囲気のないリュカは、これからも父王とは異なる方法で人心を掴み、国を築いていくのだろうと、パピンは若い国王に誓いを立てるように目の前で敬礼をした。

会場を揺るがす歓声が鳴り止まない。舞台となる場には、少し前に踏み込めば手の届くほどの場所にリュカとパピンが立っている。ジェイミーほどの高身長ではないが、パピンもリュカが見上げるほどには背が高い。かつての父の背丈を思い出そうとしても、あの頃リュカはまだ子供で、父がどれほどの背丈だったのかなど思い出せるはずもなかった。
しかし外見の背丈など、その者の持つ強さには関係ない。父の背丈が高かろうと低かろうと、リュカにとっては届かないものだと思っていた。口元に髭を蓄え、顔には年齢以上の皺が刻まれているのは、外での任務が多いため日に焼け、肌の傷みが激しいのだろう。旅を続ける父もそうだった。後で聞いて知ったことだが、父パパスはサンチョよりも一つ年が下だったらしい。当時の父とサンチョを見比べても、明らかに父が年上なのだと幼心にもそう思い込んでいた。顔に表れる皺や日焼けが自然とそう感じさせていた。
多くの兵士を従えるパピンは今も堂々たる雰囲気でリュカの前に立っている。決して不遜な態度を示しているわけではない。リュカに敬意を払いつつも、この戦いでは手加減などしないとはっきりその顔に書いてあるようだった。
審判を務める兵士長がリュカに深々と頭を下げ、パピンにも礼儀正しく頭を下げた。同じ兵士長という立場にいるパピンだが、彼にとってパピンは上の立場に当たるような人物なのだろう。審判が会場脇に控える者に合図を送ると、試合開始のラッパが大きな音で吹き鳴らされた。歓声が地鳴りのように響いた。
リュカはパピンを見据えた。見れば見るほど、あの頃の父を思い出す。顔が似ているわけではない。背丈ももしかしたらパピンの方が高いのかも知れない。髪の色だって父は黒かったがパピンは赤茶けた明るい色だ。しかし彼の心根を覗けば、そこが父に似ていることに気づく。
観客席の最前列に、彼の息子ピピンの姿が見えた。彼が応援しているのは勿論、父であるパピンだ。恐らくこの観客席の中でパピンを応援する者は少ない。おおよその人々が国王であるリュカを応援しているのはその雰囲気で分かる。その中でピピンは父の強さを信じ、父がこの勝負で勝つことを望んでいる。リュカはピピンのその想いを感じると、勝負に勝たねばならないという自分の思いに疑問を抱いてしまう。
リュカの躊躇いを見透かしたかのように、パピンが構えを取りながら厳しい声をかけてきた。
「国王様、あなたにも大事なお子様がいらっしゃるでしょう」
もう貴方は子供ではないのだとパピンに言われた。子供として父に憧れていた自分の思い出ではなく、今は自分の背中を子供たちに見せねばならないのだと伝えてくれた。父パパスに憧れる心を忘れ失うことは決してないが、同時に自身が父としての立場を受け継ぎ、子供たちに見せていかなければならないのだと、パピンに叱りつけられたような気がした。
「やっぱりパピンさんは……どこか父さんに似てるよ」
頼れる、寄りかかれる、心を預けられる、そんな安心が目の前の兵士長にはある気がした。その心が兵士たちを導き、同じ立場の兵士長たちをも惹きつけている。彼の存在自体が、このグランバニアを支える一つの柱となっている。
リュカは一度深く呼吸をすると、低い姿勢を取って構えた。漆黒の瞳には戦いの意思を見せ、パピンの目からは一瞬たりとも離さない。いくら時を待ってもパピンが油断を見せることはない。膠着状態が続く。観客席の歓声はいつの間にかぴたりと止み、辺りは緊迫した静けさに包まれていた。
パピンが強い拳を打ち出した。リュカは見極め避ける。すかさず相手の懐に入り込もうと、流れるように身を寄せる。パピンが身を引きながら膝でリュカの手を払う。足払いをかけようと身をかがめる。一瞬早く、パピンの強烈な蹴りが飛んできて、リュカの横っ面を打つ。くらりと歪む視界からすぐに逃れるが、既に掴まれた襟首ごと持ち上げられ、地面に投げられ打ち付けられた。観客らから悲鳴のような声が上がるが、その中にティミーとポピーの声は混じっていない。彼らは父の戦う姿を見慣れている。これくらいで倒れるような父ではないと信じ切っている。リュカはすぐにパピンから間合いを取るように、跳ぶように離れて思わずこめかみを手で抑える。凄まじいパピンの蹴りに皮膚が切れ、血が流れていた。
旅する中での戦闘ではすぐに回復呪文で怪我を治すことができるが、この武闘大会の中では呪文の使用が一切許されていない。こめかみにずきずきと鈍い痛みが疼くのをそのまましなければいけないということに、リュカは二度とパピンの攻撃を食らってはならないと肝に銘じた。攻撃を食らえばそれだけ、体力が落ちてしまう。体力が削られれば恐らく、パピンに勝つことは不可能だろう。
リュカはこの武闘大会で新調してもらったばかりの濃紫色のマントの裾で、簡単に止血を行う。パピンはその様子を静かに見守っている。この隙を狙って攻撃をしかけてくるような男ではないと分かってはいたが、やはりその行動一つ一つに父パパスの堂々たる姿を思い出し、リュカは思わず小さな笑みを浮かべた。
戦いに集中すれば、傷の痛みなど微塵も気にならなくなる。リュカはこの戦いに様々な思いを乗せていた。できなかった父との手合わせを思い浮かべ、パピンを応援するピピンに幼かった頃の自分を重ね、誰よりも自分を応援している双子の子供たちの期待に応えたい。グランバニア王である自分に対する観客らの興味や期待、ドリスがこの大会に望んでいる国の活力、ふとした時に父と同じ眼差しを向けてくれるオジロン、小さな頃からずっと変わらず支え続けてくれるサンチョ、人間の王国で生きる魔物の仲間たちは人間たちと一緒になって人間の武闘大会を楽しんでいる。その全てを父が、母が大切にしていたものなのだろうと思う。母マーサが魔界に連れ去られるなどという悲劇さえなければ、父は恐らく今も国民の人心を掴む王として在位していたのかも知れない。
父にはまだまだやりたいことがあったはずだ。できればその望みを一緒に隣で叶えてみたかった。しかし人の生きる道には何が転がっているのか、誰にも予想も想像もつかない。だからこそ、今できることに全力で取り組むのだ。
過去を振り返ってはいけないということではない。しかし過去に囚われていてはいけない。未来に期待してはいけないということではない。しかし未来を見据えることは大事なことだ。そして最も大事にしなければならないのは、今現在という時間だ。
リュカは目の前のパピンという男の中に、はっきりと父パパスを思い描く。父は戦う男の顔をしている。しかしやはりその心根は穏やかで優しく、今もリュカの頭を撫でて笑いかけてきそうなほどに柔らかな空気も感じる。自分は強くなったのだと父に褒めて欲しい。自分は強くなったのだと双子の子供たちに示したい。現在を生きるリュカには、今の自分を大事な人たちに見て欲しいという思いが強まった。
息を止め、一気に踏み込む。手を突き出す。横に払われる。足で蹴り上げる。腕で受け止められ、流される。脇腹に拳を向ける。腕で弾かれる。転ばせようと足元を掬う。身を引いて避けられる。全てが目にもとまらぬ速さの中で繰り出され、観客席からは時折ため息が漏れるだけだ。
パピンの強烈な蹴りが飛んでくる。屈んで避けると同時に、足元を狙う。あっさりと避けられる。リュカは両手を構えて、まるで剣を持っているかのような体勢を取る。パピンはその体勢に一瞬、訝し気な表情を示した。
剣を手にしているわけではない。しかしリュカはいつも手にしている剣が手にあるように、右手を素早く下から薙ぐように振り払った。予想外の動きに、パピンの右脇腹にリュカの拳がめり込む。すかさず突き出されたリュカの右手を鳩尾に受ける直前、パピンは顔をしかめながら後ろに飛び退って避けた。リュカはやはり剣を両手に構えたような体勢で、パピンを見据える。パピンにはリュカの手から剣の刀身が伸びているように見えた。
真空呪文を使っているわけでもないのに、リュカが鋭く右手を振れば、そこから風が噴き出るようだった。審判の兵士長が疑わしい目つきでリュカの手元を見るが、そこから魔力は感じられない。パピンもそれがリュカの身体から放たれる凄まじい闘気なのだと心得ていた。
リュカの一つ一つの攻撃が重い。拳を受け止めるパピンの腕が腫れ上がりそうだった。リュカが攻撃一辺倒になる姿を、ティミーもポピーも、魔物の仲間たちも珍しいものを見るように凝視していた。今は守るべき仲間がいない。ただ一人での戦い。その中でリュカは初めて自身を解放したかのように、自分と相手の二人の空間だけを感じ、戦った。
リュカの拳もただでは済まない。普段剣を手にしているのは右手だ。右の拳を休みなく繰り出し、パピンに当たり、避けられ、弾かれる中で、いつしか大きく腫れ上がっていた。しかし戦いの中に身を置くリュカは、痛みを感じない。合間合間に肩で身体ごと突っ込んだり、激しい蹴りでパピンを突き飛ばすこともあったが、腫れ上がる右の拳の攻撃を止めることはなかった。
防御を忘れて打ち続けるリュカもまた、パピンの攻撃を容赦なく食らう。父の逞しさを思い起こさせるその拳が、リュカの腹や胸や顔面に飛んでくる。辛うじて直撃を免れるものの、受ける損傷は蓄積していく。疲労になり、息が上がる。それはパピンも同様で、いつのまにか彼の優しさを感じられるような眼差しは余裕を失い、リュカを倒すことだけを見据えていた。
素早く伸びたパピンの手が、リュカの腕を掴む。地面に引き倒す。そのまま腕を後ろ手に捩じ上げて勝負を決めようとするパピンに逆らい、リュカは身を捻って、覆いかぶさろうとしてきたパピンの顎を両足で蹴りつけた。よろめく国一番の兵士長の襟首をつかみ、背負うように地面に投げて叩きつけた。鈍く重々しい音が響いた。リュカが勝負を決めようと、パピンの逞しい両腕を後ろで固定しようとすれば、パピンは力ずくでリュカの手を払い、お返しとばかりにリュカの胸を両足で蹴り上げた。思わず背を丸めて咳き込む。
「……そろそろいいかなと思ったんですけど、まだ起きますか」
「ここまでボロボロにされたのは初めてですよ。いやあ、やはりお強い」
「でもドリスに勝ったことがあるんですよね。女の子相手にこんな、顔に攻撃なんてしたんですか」
「さすがにそれはできませんでしたよ。もし姫の顔にお怪我などさせたら、周りの観客たちが会場になだれこんでくるでしょうからな」
「僕の場合は誰も助けてくれないんですね……」
リュカが恨めしそうに観客席を見渡す。人々はただ一心に、この戦いの感動的な結末を待っている。そして自国の王の強さを目に焼き付けている。言葉では恨めしそうなことを言っていても、決してそれを本心で望んでいるわけではない。
リュカは今一度、集中して静かに息を吸い、息を吐く。軽口を叩いているような話しぶりだが、話す度にあばらが痛むのだ。戦いに集中すれば、その時だけは痛みを忘れられる。足場を踏み固め、何度目になるか分からない攻撃を仕掛けた。
動きは見える。ただその速度に徐々に体が追いつかなくなる。それはリュカもパピンも同じ状況だ。一瞬の隙が決着の時だと分かっているが、その隙を互いに見い出せないまま体力だけがすり減って行く。
打ち合いの中、パピンがリュカの足元を狙う蹴りを繰り出した。よろめくリュカだが、辛うじてパピンの足を飛んで躱して、その頭の上を飛び越していく。後ろを振り向くパピンが一瞬、遅かった。リュカは地面に足を着いた瞬間に地面を蹴り、パピンの背後から、まるで両手で剣を振り下ろすように彼の首の根元を叩きつけた。その瞬間にリュカは自分の肋骨が完全に折れるのを感じた。着地と共に思わず呻き、背中を丸める。
目の前にパピンが倒れた。うつ伏せに倒れたまま動かない。相手を油断させようと思ってこのような小癪な戦いをする彼ではない。父さん、と叫ぶピピンの声が聞こえた。
首の根元の激しい一撃で、パピンはそのまま気を失ってしまったのだ。その姿にリュカの記憶が一気に遡る。倒れている父を救わなければならない。今の自分になら救うことができる。
リュカの勝利を告げるラッパが吹き鳴らされると同時に、リュカは肋に痛みを感じながら、地面を這うようにしてパピンの傍らに寄った。慌てて回復呪文を唱える。今では激しい損傷を受けた傷も癒せるほどの魔力で、ほとんどの傷を治すことができる回復呪文を身に着けている。ベホマの呪文でパピンの小さな呻き声を聞くと、リュカは安心したように「良かった」と呟いて、今度は自身が地面に倒れた。肋の傷みからも解放され、割れんばかりの歓声も耳から遠ざかって行く。
お父さん、と叫ぶ声が聞こえたが、果たしてあの声は自分なのか自分ではないのか、分からないままリュカはどこかに吸い込まれるように意識を無くした。



「全く、あんたたちがあんなとんでもない闘いをするからさ、あたしが出辛くなっちゃったじゃない」
ドリスの声が出場者控え所に響く。試合を終えた者たちもまだこの場に居残り、武闘着に身を包んだ自国の美しい姫を溜め息をつきながら眺めている。
「いや、しかしドリス様はまた我らとは異なる闘いをされるではありませんか。私などはあなたの速さにはいつもついて行くがやっとですぞ」
「だけどさぁ、あんなにドカドカと激しい打ち合いがあった後で、あたしはどう闘ったらいいのよ」
「でもみんなはドリスの闘いを楽しみにしてるんだろ?」
パピンとの戦いの後、気を失ったリュカにその場で神父が駆けつけ、すぐさま回復呪文を施した。リュカはその場で意識を取り戻し、自分に歓声を上げている人々の姿が朧に見える中、パピンに手を取られて立ち上がり、共に出場者控え所まで引き上げていったのだ。そして今は、最後に控えるドリスとの闘いを待つばかりとなっている。
「……何ならリュカは回復しないでさ、そのまま戦えば良かったんだよ」
「それはさすがに、死ぬと思う。多分、肋も折れてたし、右手ももう使い物にならなかったよ」
「大丈夫だよ。あんた、タフそうだもん」
「いや、僕、気を失ってたよね」
「じゃあせめて神父様もホイミくらいにしておいてくれれば良かったのに」
「神父様の尊厳を保つためにも、それはいかがなものかと……」
横から思わず口を出す堅物ジェイミーに、ドリスが睨みを利かせる。美しい姫にギロリと睨まれ、ジェイミー兵士長は慌てて口を噤み、顔を赤くして数歩下がった。
「あーあ。でももうやるしかないもんね! 全力で闘うからね。覚悟しなよ、リュカ!」
「僕は連戦なのに、ドリスは今日初めて戦うわけでしょ。それだけでハンデだと思うんだけどな」
「あんたは男、あたしは女。それくらいのハンデがないと成り立たないでしょ」
いくら闘い好きなドリスとは言え、男女の間にある圧倒的な力の差については大人しく認めている。ドリスは武闘家としての矜持を持ちながらも、屈強な男に身体を押さえつけられてしまえば抵抗する術もない。それ故に彼女はいかに素早く動けるかという鍛錬を繰り返している。相手を翻弄し、体力を奪ったところで一気に決着をつけるのが彼女の戦法だった。
会場からリュカとドリスを呼ぶ声が聞こえる。国の王と姫が武闘大会で闘うなど、他国から見れば異様過ぎる光景だろう。新年祭の中で国民は強い国を求め、過去の悲劇を乗り越える心を築いていく。そのような未来をドリスは描いている。
「さあて、行くよ、リュカ」
「はいはい。何だかまだ疲れてるけど……分かったよ」
「ほら、王様なんだからシャキッとしなさい!」
背中を丸めていかにも気乗りのしない様子のリュカに、ドリスは思い切りその背中をバシンと叩いた。激しいその音に周りにいる試合を終えた戦士たちが同情するような視線を国王の背中に送っていた。
今日、この会場にこうして姿を現すのは四度目だ。だが今日一番の歓声が会場を包む。ドリスが姿を現し、観客席に大きく手を振ると、歓声は一層沸いた。ドリスに緊張した様子はない。この場に慣れていると言うのもあるが、彼女は心底闘うことが好きなのだと分かる。一国の姫として大人しく城の中に閉じこもるだけの生活ではなく、武闘が好きで、鍛錬を積めばそれだけ強くなることができ、心をも強くすることができると気づいた彼女は、楽しんで日々の鍛錬に精を出していたに違いない。
審判役の兵士長が国王と姫の姿を観客席に披露する時間を設ける。リュカはすぐにでも試合を始めたかったが、これはただの闘いではなく国民の心を盛り上げ強くさせるための大会だ。一応、自分も国王なのだからと、ドリスの真似をして観客席に片手を挙げて手を振ってみると、男たちの野太い歓声に匹敵するほどの黄色い声が大きく上がった。
ひとしきり歓声が響いた後、審判の合図によりリュカとドリスは向き合って間合いを取る。潮が引いたように観客席の声が静まる。じきに夕刻になろうかという時分、日は傾き、西の空に移動した太陽からは橙色の柔らかな日差しが照る。リュカの正面より右側に、これから沈んでいく太陽が輝いている。ドリスはその光を背に受け、逆光で彼女の姿は影になる。光に目を眩ませないよう、戦う位置にも気を付けなくてはと考えた瞬間、試合開始のラッパが鳴った。
予想通り、ドリスがすぐさま動いた。予想以上に速い。一気に間合いを詰められ、拳が飛んでくる。リュカの頬を掠める。蹴りを腕で止める。頭突きが迫る。後ろに飛び退いて避ける。宙に舞ったと思ったら、素早い廻し蹴りにリュカはその足を掴むこともできず、ただ屈んで避ける。頭に足で乗られ、そのまま蹴りつけられて思わずよろめいた。
宙を舞うドリスが頭を下にしながら不敵に笑うのを見た。水色の膝上丈のスカートがはためく。男同士の闘いにはない美がそこにあった。彼女は華麗な武闘着も含めて、闘いに望んでいるのだと分かった。
彼女の武闘着はドレスの一種に近い。身体のラインに沿った上半身とワンピース状に繋がる短めのスカート。足には厚手のタイツを履き、地面に着くのは普段から使い慣れているショートブーツだ。黒く艶のある髪は元々短いが、両脇を編み込み結い上げて、邪魔にならないように留めている。闘いの最中だというのに、まるで一種の美しい芸術を見せるドリスの闘いに見惚れてしまうのは、今まで彼女と対戦したことのある者であれば皆経験していることだった。
地に降り立つと同時にすぐさま攻撃を仕掛けてくるドリスに、リュカは慌てて反応する。拳を叩きつけてくるドリスの手を掴もうとするが、速くてその手を掴めない。訓練を続ければ人間でもここまで速い拳が出せるものなのかと、リュカは彼女の実力に舌を巻いた。
「リュカ、このままじゃあ防戦一方ってやつで盛り上がらないよ」
「仕方ないだろ。速いんだよ」
「あんた、いつもは魔物と戦ってるんでしょ」
「魔物はこんなに細かい動きはしないよ」
そう言ってみて初めて気づいた。ドリスのような素早く連続で繰り出すような攻撃をする魔物は少ない。何故ドリスはこれほど闘い辛いのだろうかと考えたら、今までにないタイプの相手だからだと分かった。
拳に肘に肩に足に膝に頭にと、ドリスは流れるような動きで次々と攻撃を仕掛けてくる。その全てを目で追い切れないリュカは時折躱しきれずに攻撃を食らってしまう。ただドリスの一撃は魔物の攻撃や、先ほどまで対戦していた兵士長らの攻撃に比べたら、そこまで重いものではない。すぐに体勢を立て直せるほどのもので、そんなリュカの立ち直りにドリスは悔しそうにぎりぎりと歯噛みする。
「もうっ! どうしてもっとまともに当たらないかな!」
ドリスが悔しがるのは自分の攻撃が正面からリュカに当たらないことだった。何だかんだでリュカは彼女の攻撃を躱し続けている。
「当たらないって……だって、僕だって当たりたくはないしさぁ」
「躱されてばっかりだと頭にくるんだけど」
「ええ~……じゃあ、どうすればいいのさ」
「どうしてリュカは攻撃してこないのよ! あたしはあんたと闘ってるんだよ」
「攻撃、ねぇ……何となく、攻撃し辛いんだよなぁ、やっぱり」
ドリスと対戦することは理解していたはずだが、いざ対戦となるとリュカの中では女性に手を挙げるということに対して本能的な拒否反応があった。顔を殴るなどと言うのは論外だが、その他身体のどこにでも拳を当てることに戸惑いがあるのはどうしようもない。腹に拳を叩きつければもしかしたらすぐにでも決着が着くのかも知れないが、女性の腹は大事な場所だという意識もある。足払いで転ばせて、地面に倒して体の動きを封じてしまえば勝てると思っても、その場面を想像した時点で観客席からは一斉に怒声が飛んでくるのではないかと身構えてしまう。この試合で自分が勝つことは不正解なのではないかと、本気を出すことができないのだった。
「あ、もしかして、これ? このヒラヒラスカートが刺激的で、闘いに集中できないとか?」
そう言いながらドリスがスカートの裾を持ち上げて見せると、観客席から汚い男たちの声が低く鳴り響いた。その状況にリュカは思わず顔をしかめる。
「あのさぁ、そういうのって良くないと思う。オジロンさんが泣くから止めなよ」
「リュカはこの格好を見て何とも思わないの? あたしの作戦にはそういうことも含まれてるんだけど」
今回ドリスが身に着ける武闘着は、今回の武闘大会のためだけに誂えたものだ。ドリスは自分と闘う者として勝ち上がってくるのはリュカだと踏んでいた。リュカの記憶に残っているはずのこの水色の生地で作った武闘着を着て、彼が幸せを感じていたあの頃の記憶に寄り添いたかった。
「そうなの? 僕はただ、綺麗だなとは思うよ。ドリスの闘ってる姿って、こんなに綺麗なんだって驚いたよ。こんなに綺麗なら見惚れて負けちゃう人もいるかもなぁって思ったよ」
手放しで武闘の芸術を褒められ、ドリスはその場で身体を硬直させた。リュカが邪気なく、ただ思ったことをそのまま口にしているのが分かるため、ドリスの心の内には純粋な喜びが沸々と湧き上がる。
「ただそういう……女性の色気? そういうのは無理に使わなくてもいいんじゃないかな」
「無理にって、何よ。無理なんかしてないよ」
「無理してるよ。だって似合わないもん」
「あー! はっきり言ったな! あったま来た! 何よ、頑張ってるのにさ!」
「だから、そんなところを頑張んなくてもいいでしょ。ドリスはそんなことしなくても強いんだからさ」
「でもパピンにはこの戦い方じゃないと勝てないんだよ。まあ、パピンの時には桃色のもっと女の子らしい武闘着にしたけどさ」
リュカとドリスの会話はざわつく観客席の音に紛れて、他の者たちには聞こえていない。リュカは思わず出場者控え所にいるパピンを見たが、目が合ったパピンは穏やかに微笑みながらリュカとドリスの闘いを眺めている。ドリスの身体にぴたりと張り付くような武闘着に鼻の下を伸ばして戦うパピンの姿は想像できなかったが、あのピピンの父と考えればもしかしたらと思う部分もある。リュカは思わず自分を見るパピンを少し睨んでしまった。
「ドリスは僕の従妹でしょ。妹みたいなものなんだからそういうのは通用しないよ」
「爽やかにはっきり言ってくれるよね……ちっ」
「あ、女の子がそんな舌打ちなんて良くないよ。ましてや君はこの国の姫なんだからさ、そんなの品がないって思われるよ」
「あんた、いつの間にそんなオジサンくさくなったのさ。あたしに説教? 止めてよね、そういうの」
「強いのはいいと思うけど、品がなくなるのは良くないってことだよ。せっかくドリスは綺麗なお姫様なんだから」
「…………あの、どうします? 試合、続けますか?」
言葉の応酬が止まらないリュカとドリスに、審判を務める兵士長がおずおずと声をかけた。二人とも観客が見守る中の大会だと言うことも一瞬忘れ、ただ互いに言い合いをしていたことに、気が抜けたように笑ってしまった。審判も心なしか表情が緩み、笑いを堪えたような状態だ。彼には二人の会話が丸聞こえで、国王と姫が緊張感の欠片もない普通の会話をしていることに、喉の奥で笑い声を堪えている。
リュカとドリスは同時に深呼吸をして、再び体勢を整える。やはり先手はドリス。素早く飛びかかり、拳やら脚やらを連続で繰り出す。リュカは落ち着いて対応する。落ち着けばドリスの出す手も足も目に捉えることができる。
ただドリスが身にまとう武闘着の色がリュカの思考を惑わせた。清らかな水を思わせるその色には過去の記憶の一端を刺激される気がした。上半身は身体にピタリと合い、武闘の邪魔にならない作りになっているのは分かる。しかしスカートはふわふわと空気を孕み、身体のあらゆる動きの邪魔をしているのではないかと思えるほど、鬱陶しそうだ。風に揺れるその水色のスカートは、武闘着などではなくゆったりとした部屋着にでも使いそうな生地だと思い至った瞬間、リュカはドリスの本心を垣間見た。
ドリスはこの場にいない彼女にも、この武闘大会を楽しんでもらいたいと思っているのかも知れないと、リュカは彼女の心根の優しさに思わず小さく微笑んだ。そして武闘家としての彼女に改めて向き直る。
ドリスの手首を素早くつかんだ。そのまま地面に倒して手を背中に捻ろうとするが、ドリスもリュカの手を掴み、地面に両足で踏ん張ると、リュカの腹に頭突きを食らわせる。しかしリュカはまだ手首をつかんでいる。腹の傷みをそのままに、リュカはドリスを地面に倒した。穏やかに決着をつけようと腕を捻ろうとするが、ドリスは素早く自ら身体を柔らかく捻って、リュカの腹に蹴りを入れると、リュカの手から逃れて間合いを取った。
リュカが攻撃に転じる。ドリスは微かに油断した。まさかリュカが攻め込んでくるとは思わなかった。武闘に秀でている姫を信頼して、リュカは攻撃に転じた。しかしリュカがドリスに殴りかかることはない。あくまでもドリスの身体を捕まえ、ねじ伏せようとする。やはりどう考えても、女性であるドリスの身体を殴りつけることはリュカの思いに反していた。
リュカがドリスの武闘着のベルトを掴む。腰は人間の支えとなる部分だ。バランスを崩したドリスだが、崩したバランスのまま地面に這いつくばり、リュカに足払いを向ける。リュカは身体を回転させて避け、その勢いのままドリスを投げ飛ばした。地面を滑って行く姫の姿に、観客席からは悲鳴が上がる。リュカがすぐさま攻撃を続けようとするが、ドリスもすぐに立ち直り、リュカの攻撃を受け止める。リュカはドリスの身体を掴もうと手を伸ばし、ドリスはその手を躱し払い除ける。その攻防がひたすら繰り返される。互いに息が切れる。二人とも一気に決着をつけなければならないと、身体が動く限りは拳も足も止めない。
ドリスが素早くリュカの背後に回り込み、リュカのマントを両手でつかんでその身体を引きずり倒す。リュカはその動きに合わせてさっとマントを取り外す。マントを掴んだままのドリスと目が合った。引き寄せる。ドリスが前のめりになる。その首に腕を回し、窒息しない程度に首を腕で固めた。ドリスが悔しそうに呻きながらリュカの足を激しく蹴る。しかし言葉を発することができないくらいに首を絞められるドリスの顔は真っ赤だ。
「これで僕の勝ち、でいいかな」
足を地味に蹴り続けてくるドリスに、リュカは腕の力を強めて更に首を絞める。ドリスはもう呻き声すら上げられない。一度身体を固定され、首を完全に捉えたリュカの腕をドリスはどうすることもできなかった。審判は間近でドリスの表情を確かめ、今にも気を失いそうになっている姫を見てすぐさま合図を出した。ラッパが吹き鳴らされ、国民たちを楽しませる武闘大会の試合が終わりを告げた。
リュカはドリスの首から腕を話すと、彼女の身体を片腕で抱きかかえたまま回復呪文を唱えた。意識が遠のいていたドリスの目に生気が戻り、悔しそうに顔を歪めたかと思うと、ずっと蹴り続けていたリュカの足をもう一度悔し気に蹴り飛ばした。「いだっ!」と叫び、リュカはその場に蹲る。実はずっとドリスに蹴り続けられていた足は腫れ上がり、あと数回でも蹴られ続けていれば足の骨を折っていた可能性もあった。それ故にリュカはドリスの首を絞める腕に一層の力を込め、試合を終わらせようとしたのだ。
「痛いよ、ドリス」
「早く自分で治せばいいでしょ」
ドリスの言葉に従うように、リュカは自分の足にも回復呪文を施す。すぐに腫れも痛みも引いて行った。
「マントをあんな風につかうなんてズルイよ」
「そんなこと言ったらドリスだってその武闘着は敢えてそういうデザインにしたんでしょ」
「でもあんたにはこんな小細工、通用しなかったじゃん」
「そんなこともないよ。綺麗だなって思ったよ」
「……通用しないのなんて、初めから分かってたんだけどさ」
リュカに女性の小細工など通用しないことはドリスも初めから分かっていた。ただ例年通り、観客である国民を喜ばせるためにも、武闘着の衣装にはこだわりを持っていた。それをいつも通りにこなしただけだった。
ただ、今回の武闘着に込める思いは例年のものとは少し異なる。
まだ双子を身籠っていた時、王妃となるビアンカはよく水色のゆったりとしたワンピースを身に着けていた。ふわふわと揺れる長い裾を、ドリスは屋上庭園でうっとりと眺めた。本当に女神様がこのグランバニアの庭園に遊びに来てくれたのではないかと思うほど、子供を身籠るリュカの妻は美しかった。
当時のビアンカが身に着けていた生地を、針子たちに確かめさせた。同じ生地を使って武闘着を作って欲しいと頼んだ。武闘着を作るにしては生地が薄かったため、二重にして縫い合わされている。肌触りがよく、着心地の良い武闘着が出来上がった。この武闘着を着て鏡を見て、ドリスは少しでもあの女神様に近づくことができただろうかと自己満足だった。
しかしリュカはドリスのその姿を見ても、ただ綺麗だと言う。それがリュカの本心だと言うのは嬉しい。しかし彼の妻に近づこうとして作ってもらったこの武闘着に、彼は微塵も妻の面影を見ることはなかった。余程その経緯を話してみようかと思ったが、蛇足だろうとドリスは決してその経緯をリュカに離すことはなかった。そしてこれからも話すことはない。
「その武闘着、彼女が戻ったら見せてあげてね」
リュカの言葉にドリスははっとして顔を上げた。
「気づいてたの?」
「うん。試合の途中でね」
「全然動揺してくれなかったじゃない」
「動揺はしないよ。ただ嬉しかっただけだよ。ドリスがちゃんと覚えていてくれてるんだって」
「忘れるわけないでしょ」
「きっと彼女も喜んでくれるよ」
「そうだといいな」
まだ子供の域を脱しない頃のドリスに戻ったように、彼女は幼い笑みを浮かべて俯いた。リュカはそんなドリスの頭をぽんぽんと優しく叩いた。妻を攫われ、幼い頃から探し続ける母にも会えないリュカが持つ底なしの優しさがドリスの胸に染みる。早く彼が悲しみや苦しみを抱えた笑みではなく、心底笑える時が来るよう、ドリスは自分の水色の武闘着に手を当てながら女神のような人を心に思った。

Comment

  1. がっちゃん より:

    ありがとうございました!

    武闘大会最高でした!
    面白かったぁー!
    ドリスとの戦いはリュカの天然の男前が全開で、ニヤニヤしてしまいました。

    リュカは小さい時から苦労を重ねて壮絶な人生を生きているけど、占い婆さんがいうやっぱり「いい男」には違いないんだろうなあと感じました。

    • bibi より:

      がっちゃん 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      グランバニアの様子も描いておかないとなと始めた武闘大会ですが、とりあえず無事に終われて良かったです。
      パピンの後のドリスはエキシビションマッチということにしました。事実上の決勝戦はパピン兵士長。
      そうですね。いわゆる「いい男」なんでしょうね。壮絶な人生を歩んでいても、やはり追うのは父パパスの背中で、父に恥じない生き方をしたいと思うのが土台にあるので、これからもいい男であり続けてくれるでしょう(夢)

  2. ピピン より:

    bibiさん

    なるほどです。前回の戦いも、パピンとの激戦に勝った事で、格闘でパピンと同等の強さの上にさらに強力な魔法を操るんだと印象付ける為だったんですね。

    その上での控え室での会話が好きです。
    一般の国民よりも立場的にリュカに近い者達、戦いに身を置く者達とのやり取りが新鮮で面白かったですね。
    パピンやジェイミーは今後も出てきて欲しいです(^-^)

    それにしても、寡黙なジェイミーをも赤らめさせるドリスの美しさが気になります(笑)
    公式イラストが無いのが恨めしい…
    やっぱり天空物語をベースにしているのでしょうか?

    • bibi より:

      ピピン 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      パピンは根っからの戦士で、呪文は一切使えず、という設定です。息子のピピンがそうなので。
      ただ武器を持たせたらヤバイほどの強さです。一流の戦士。グランバニアの兵士長クラスはみんなそんな感じでしょうか。
      リュカが国にいる間はこうして色々と論議を交わしていて欲しいなと思い、すこしお喋りしてもらいました。リュカがあんな性格なんで、みんなも砕けた感じで色々と意見を言える、というのが理想です。
      また後のお話で彼らを登場させられたらとは思っています。忘れないようにしなきゃ・・・(汗)
      ドリスって公式イラストがないんですよね。なので好き勝手に設定していますが・・・。
      天空物語は拝読したことはないのですが、ネットでその姿を少し目にしたことがあります。なので、少なからず影響を受けていますね。こういう娘だったらかっこいいなぁと純粋に思ったので、引用させてもらっています。

  3. ピピン より:

    bibiさん

    DQ6からの基準で言えば、戦士タイプでも特技である程度の事は出来ますもんね。
    リメイクすればピピンも「さみだれ突き・急所突き・凪ぎ払い」辺りを使いだすかも(笑)

    原作ストーリーは殆ど旅なのでお話を考えるのは大変でしょうが楽しみにしています( ´∀` )

    そうなのですね。
    自分もじっくり見た事は無くてドリスのイメージがぼんやりしてるので、改めて見てみます。

    • bibi より:

      ピピン 様

      そうそう、DQ6からは戦士タイプでも特技があったりしますよね。で、ドラクエの世界観から考えると、6→4→5の順の流れなので、かつての特技がふと蘇ったりしても良いのかな、なんて思っています。ルーラも然り。
      ピピンは強くなります。ちょっとふざけたキャラにしてますが、彼もまたリュカと同じように父を尊敬しているので、強くなろうと頑張ります。薙ぎ払いとかはカッコ良さそうですね~。
      オリジナルストーリーは考えるのは楽しいのですが、どうもだらだらとしてしまいがちで・・・なるべくだらだらしないように気をつけたいと思っています。あと、辻褄を考えるのがなかなか・・・ははっ(汗)
      ドリスも魅力的なキャラクターに描ければと思っています。天空物語も楽しく面白い作品なんでしょうね。こういう派生作品もドラクエの魅力の一つですよね。

  4. ケアル より:

    bibi様

    パピン戦、まさに死闘といっても過言ではないですな。 リュカ今まで魔物と闘って気を失うことなんて数えるぐらいだったかと思うんですが?
    それを今回パピンに失神させられるだなんてパピンはどれだけ強いんだろうかとワクワクしますね!
    拳を剣にみたてる描写は良かったと思います、リュカの本領発揮できる作戦ですね。でも…bibi様、ドラゴンの杖で闘う時の描写…そうなると難しそう(汗)

    グランバニアに攻撃呪文部隊が無いわけではないんですね、マーリンやサーラもいるし攻撃呪文部隊を作ることは用意に簡単そうですね。

    ジェイミーに話をしてた魔物の仲間との実戦訓練、bibi様、小説にUPしてくれませんか?
    面白そうなんですよ、パピン、ジェイミーがどのように魔物の仲間との戦闘をするか見てみたいんですよ!
    剣や槍を持ったパピンとジェイミーの強さを見てみたいんですよ!
    そしてドリスには魔物との実践不足は否めないですよね?
    魔物の仲間たちと闘うドリスを見てみたいんですよ!
    どうか描写して頂けませんか?
    御検討くださると嬉しいです(礼)

    ドリスにやっぱり手を出して攻撃できなかったでしたか…女の子だからbibi様どうするつもりなのかと思っていました。
    でも、リュカにしろパピンにしろ、本気で拳や蹴りでドリスに闘っていれば、もう少し簡単に勝てたように感じますが?
    たしかにドリスのスピードはリュカを上回るけど、リュカとは戦闘の経験値が違いますからね。
    だからこそ、魔物の仲間との実戦訓練、ドリスもやったらもっと強くなりますよね?
    bibi様、実戦訓練の描写、本当にお願いします(合掌)

    あっそうそう、ドリスのホイミ発言には爆笑させて貰いましたよ(笑み)
    ドリスの水色作戦描写、ビアンカを思う気持ち、…ドリスはずる賢いのか可愛らしいのか優しいのか、様々なドリスの一面が見れて良かったです。

    次回は本編に戻りますか?
    もう少しグランバニアにいますか?
    次回のパーティ編成はどうしますか?
    まだ連れていったことないゴレムスはどうですか?
    次話も楽しみにしています。

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      パピンはグランバニアで最も強いとされる兵士長なので、リュカにも負けない強さを持っていて欲しいとこんな感じで書いてみました。お互いに慣れない素手同士の闘いなので、武器を持ったらまた違う戦いになるでしょうね。一対一だったらどちらが強いか・・・どっちだろうなぁ。やっぱり互角に戦って欲しいですね。
      ドラゴンの杖、いずれ出てきますよね。あれは神様の力が宿る杖として、特別な働きをしてもらおうかな。
      魔物の仲間たちとの実践訓練、そうですね、いずれできれば・・・お話に上げるのも面白そうですね。多分、ハチャメチャな戦いになると思います。魔物らは大喜びして暴れそうです。プックルやマッドやミニモン辺りが危険なので、ゴレムスに抑え役に回ってもらおうかしら。ただ、次回からはちょっとお話を進めようかと思っています。まだまだ先が長いので(苦笑)
      ドリスには本気で戦えば恐らく、もっと簡単に勝てたと思います。やはり女の子なので、誰もが本気で手を出せないんですよね。彼女は優しく真面目な娘ですが、素直にそれを表せない不器用な娘です。弱いところを見せたくないという。ある意味、少しビアンカにも似ているのかも知れません。
      次回は本編に戻り気味に話を書いて行こうと思っています。早く妖精の城を目指さなくては。

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