見覚えのある兄妹

 

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常々旅に出ているリュカも、グランバニアで一週間も過ごせばこの国に身体が馴染むのを感じた。ただ二月後に再び旅に出ようと考えているリュカは、寝心地の良いベッドに慣れてしまうのはその時のためにも良いことではないと、一日部屋を抜け出して魔物の仲間たちが見張りに出ている城壁越しに身体を丸めて眠ったことがあった。しかしその時は昼間に用があって自宅に帰るサンチョに見つかり、呆れたように叱られつつ、そのままサンチョの家で昼寝をすることになった。そしてそれを後に知った双子にずるいずるいと散々に責められ、皆で夜着や食べ物を持ち込んでサンチョの家に泊まることを楽しみ、翌日皆で揃ってオジロンに叱られた。
城内に公務でいる際、リュカは常に正装を命じられていた。王族としては当然の行動規範であり、リュカ自身もこの規範に文句を言うことはなかった。むしろ正装をしていなければ公務を行う気にもなれない。それと言うのも一度平服のまま自室で書簡に目を通していたら、すぐに飽きてしまい、窓にメッキーを呼びよせて気分転換と称して外に飛び出してしまったのだ。メッキーは久しぶりにリュカと外に行けるのだと喜びの声を上げたが、その声に気付いた見張りの兵士によりリュカは敢え無く自室に連れ戻されてしまった。以来、リュカは公務に対する気持ちを持つためにも、溜め息をつきつつも正装に身を包むようにしている。
玉座の間にて行うのは主に城下町に住む人々からの声に直接耳を傾けることだった。ただ町民が気ままに城下町から玉座の間に上がることはないに等しい。玉座の間に姿を現すのは城下町での声を聞き集めた代表者たちだ。その最たる人物が教会の神父だった。
彼の話によれば、やはりこの国の人々は少しずつではあるが減ってきていること、それは新しい命の誕生が極端に少ないことと、自らこの国を離れて行ってしまう者たちが後を絶たないと言うこと。そのどちらもがグランバニアの人口を減らしてしまい、それは即ち国の力を弱くしてしまっていると言うことだ。
新しい命の誕生が減っている理由に、王妃失踪が影響していると神父はリュカから視線を外しながらいかにも伝えづらそうに話した。この国には子を授かれば凶事に見舞われる呪いでもかけられているのではないかという、こじつけにも似た噂話がどこからともなく流れ始め、それは今となっては止めようもないという。マーサが魔物に攫われた時にも出現していたその噂は既にグランバニアに誕生する新しい命の数を押さえつけていたが、ビアンカの失踪で否が応でもその噂の信憑性は高まってしまったという。
そしてこの国を離れて行ってしまう者たちは、この国を包むそのような不穏から逃れるように、外部から差し伸べられる手に手を預けてしまう。世界には魔物の数が増え、旅する人の数は減った。しかしその中でも各々の生きる理由を下に、世界を旅する者たちはいる。旅人たちは旅の途中、その土地の教会に足を運びその日一日の無事を神に感謝し、明日も神の御加護を得られるようにと祈りを捧げる。リュカ自身、それは気休めなのだと心得ているが、その気休めが人の心の軸になり得ることも承知している。その中で、敢えて教会に足を運ばないまま国に滞在する旅人がいるらしい。
リュカも特別、旅の途中で教会に立ち寄り祈りを捧げることに具体的な意味を見い出していない。しかし敢えてその場所に立ち寄らないという選択肢もないだろうと思う。危険な旅がひと段落し、人々の暮らす町や村に到着すれば、昂っている心をどこかに落ち着けたいと思うのが普通だろう。その場所が教会であることに、リュカは確かに理解を示している。
「城下町の様子を直接見てみたい」
リュカがそう言ったのはエルヘブンからグランバニアに戻って十日目のことだった。国王と言う立場にあれば様々な情報が玉座に居ながらにして入り込んでくるが、やはり自分の目で確かめてみないことには現状を肌に感じることはない。人々の話す言葉を疑っているわけではないが、人々が感じているものと自分が感じるものが完全に一致することは稀だ。
リュカの希望にオジロンもサンチョも決して反対はしなかった。ただ国王が一人でのこのこと城下町に姿を現すのは無駄に町の住民をざわつかせる可能性もあり、また国王が供も連れずに歩くのはいくら実戦経験豊富なリュカと言えども無防備過ぎると、誰かを供に連れることを条件とされた。
その翌日の予定をリュカは確かめ、運よく国でも随一の強さを誇る兵士長パピンが非番の日であると分かるや否や、すぐさま彼の同行を決めた。パピンを供につけるのなら誰も文句は言わないだろうと考えていたら、案の定誰一人として文句を言うこと無く、むしろ誰にも安心を与えたようだった。
「仕事が休みの日にすみません、パピンさん」
「いえいえ、週に一度の休みを国王と共に過ごせるなど、身に余る光栄です」
週に一度の休みと本人は言うものの、実際には彼は月に一度休みを取るくらいのもので、その日には必ず妻が営む宿屋に戻り、一日のんびりと過ごすらしい。そして今回の休暇に合わせ、彼の息子のピピンもまた休みを申請し取得していた。ピピンはまだ成人していないため、兵士になることはできないが、兵士見習いとして既に城の宿舎に寝泊まりし、訓練を積み始めている。
「本当に僕も一緒で良かったんですか?」
「もちろんだよ。だって僕とパピンさんだけで町を歩いてたら、みんなやっぱり警戒しちゃうでしょ」
「僕が良い緩衝材ってヤツですね。立派にその役目、務めさせていただきます!」
ピピンが屈託なく笑うその姿に、父のパピンは苦笑いを隠し切れない。しかし堅苦しい視察など御免だと思っているリュカには、まだ子供の時代から抜けていないような何の衒いのないピピンの存在がありがたかった。
当初、パピンとピピン父子と城下町を歩くことをティミーとポピーに知れた時、当然のように二人も同行したいと強く言い始めた。双子とピピンは乳兄弟だ。かつてリュカとビアンカが失踪した八年の間、生まれたばかりの双子に乳をやり、二人の命を繋げてくれたのはピピンの母だった。当時からグランバニアの有望な兵士を務めていたパピンの妻がまだ自分の子にも時折乳をやっていると聞いた城の者たちが、すぐさま彼女を城に呼んだのだった。それ故に、双子も今回の城下町視察に同行したいとかなりしぶとくリュカに食いついたが、サンチョから国王と王子王女が一斉に城下町に行けばそれこそ騒ぎになると、子供たちには今回我慢してもらうに至った。
城下町を歩くリュカは平服に身を包んでいる。生地も質の高いものではなく、普通に町民らが身に着けるような目の粗いものであったり、縫製もそれほど丁寧なものではない。リュカ自身がそのようなものを用意するようにと頼んでいた。そもそも高級な服に身を包むこと自体慣れていないし、質素な服に身を包んだ方がより城下町の人々との距離が近くなるだろうと意図してのことだった。
「いやー、リュカ王は王様なのにどうしてそんなに町民の服が似合うんでしょうね」
「こら、ピピン! 失礼なことを抜かすな。……申し訳ございません、リュカ王」
「僕のこれまでを振り返れば、この服だって十分上等なものだよ。大体がボロボロの服で旅をしていたからね」
「僕、そういう王様の庶民的なところ、いいなって思います。何だか、こう、王様って感じがしなくていいですよね」
「……本当にこいつは、もう、何と言ったら良いのか……。誠に申し訳ございません」
「謝ることなんてないですよ、パピンさん。ピピンはティミーとポピーのお兄さんみたいなものなんだから、言わば僕のもう一人の子供みたいなものですよ。遠慮されても困ります」
「リュカ王の! 子供! いやぁ、こんな若いお父さんだったら僕ももっと違った人生を歩めたかなぁ、なんて」
「何を言っとるんだ、お前は」
石の呪いを受け八年の時を止めてしまったリュカと成長したピピンとの年の差はおよそ四、五歳ほどのものだ。さすがに父子という関係を語るには無理があるとパピンは思うが、精神的に成長の乏しい我が子と、年の割に嫌に落ち着き払っているリュカ王との差を見ればリュカがピピンを子供のように思うのも無理はないのかも知れないと思わず唸り声を上げる。
「リュカ王は大変なご苦労をされているのだ。そういうことにも思い至らず、お前は好き勝手ベラベラと話しおって、恥ずかしいと思わんのか」
「パピンさん、僕は別に苦労なんて……苦労してきたのは僕の周りの人たちですよ。きっと色々と巻き込んでしまってるから」
リュカたちが城下町を歩く中、城下町の人々は突然の国王と兵士長親子の登場に目を丸くし、各々慌てて頭を下げたり道を広く開けたり、一国の王の手に触れれば何かのご利益が得られるというようにリュカに近づき、握手を求める者もいる。その一人一人にパピンが対応し町民を遠ざけようとしたが、リュカは構わないと言って自ら手を差し出したりした。国王のその優しき対応を見て、ピピンが感動したように目を潤ませていた。
パピン父子の家でもある城下町の宿屋に着くと、パピンの妻が既に騒ぎを聞きつけており、外に出て彼らを待っていた。リュカの前では一歩下がり恭しく頭を下げるが、リュカにとって彼女は双子の命を救ってくれたも同然の恩人だ。彼女の手を取り、両手で宿屋の女将を務める彼女の手を労えば、パピンの妻は年甲斐もなく顔を赤らめていかにものぼせるような表情を示していた。
「うへぇ、母さんのそんな顔、見たくなかったなぁ」
「そ、そんな顔ってどんな顔だい!」
「仕方があるまい。リュカ王は意図なく女性たちを……コホン、いや、これは私の見解ではなく、兵たちが勝手にそう言っているだけであって……」
「……パピンさん、後でその話、ちょっと聞かせてもらえますか?」
事と次第によっては今後の行動を顧みて改めなくてはならないとリュカは思う。ポピーの冷たい視線が自然と思い浮かび、リュカの心の中にぞっとした思いが束の間駆け抜ける。
宿業を営むパピンの家だが、今は旅人自体が少なく、宿泊客も片手に収まるほどだという。一度グランバニアを訪れれば、大抵の旅人はこの深い森に囲まれた国に長く滞在することが多い。今も宿に泊まる旅人たちは終わりを決めない滞在をしており、この国が気に入れば旅人たちはそのままグランバニア国民となる可能性も十分にある。人が減ってしまったグランバニアとしては住人が増えること自体喜ばしいことだ。
前日に夫から連絡を受けていたパピンの妻はリュカのためにとご馳走を準備していた。城での豪勢な料理に慣れている王様に出すものではないと謙遜しつつ、彼女は前日から丹精込めて料理の下ごしらえに励んでいたのだった。リュカは彼女が提供してくれた食事に本音で美味しいと告げながら、食後に彼女が渡してくれた菓子の包みもありがたく受け取った。双子の子供たちのために作った焼き菓子らしい。
「実家でこんな美味い料理食べたの、初めてですよ。これなら実家に帰る時には毎回王様に一緒に来てもらうのもいいかも知れませんね!」
屈託なく悪気なくそんなことを言うピピンは父と母二人に頭を叩かれていた。頭を擦りながら「力加減!」と文句を言うピピンだが、その表情から温かみが消えることはない。彼が父と母の愛情を存分に注がれながら育ってきたのだと、その様子から自然と窺える。その愛情を乳が必要なほんのひと時の間とは言え双子にも向けてくれたことを、リュカは改めて感謝する気持ちを持つ。
宿の奥から一人の客がふらりと姿を現した。宿の女将であるパピンの妻はその姿に気付くや否や、すぐさまカウンターに立ち宿泊客に応対する。リュカの座る位置からはほんの一瞬しかその姿を見ることはできなかったが、その一瞬でも旅人の表情にどこか虚ろな様子が見られた。旅の疲れがまだ抜けきっていないのかも知れない。しかし疲れがまだ残るようならば、ゆっくり過ごせる宿でまだ休んでいれば良い。急ぐ旅をしており、もう旅に出てしまうのかと考えれば、彼の手には旅の荷物など何もなかったと一瞬目に止めた彼の姿を思い起こす。
「どうかされましたか、リュカ王」
パピンに言われて初めてリュカは自分が席を立っていることに気付いた。一瞬目にしただけの旅人だが、彼の旅装がほとんど汚れていなかったと記憶の中に気付く。グランバニアの森に棲む魔物らは決して弱くはない。そのような魔物たちを相手にほとんど服も汚さずに渡り合えるとしたら、見かけによらず彼は手練れの者なのかも知れない。
間もなく戻って来た女将に、リュカは問いかける。
「先ほどの旅人はいつからこの宿に泊まっているんですか」
唐突なリュカの問いに、女将は少々面食らったようにしつつも答える。
「つい昨日からですよ。昨日の夕方、お着きになったばかりです」
「たった一人でこの国まで旅をしてくるのは大変だったでしょうね」
「お一人ではありませんよ。今も妹さんと一緒にお出かけになられました」
リュカの目には一人の青年が通り過ぎたように見えただけだったが、どうやら彼の歩く向こう側にまだ小さな妹が一緒に歩いていたらしい。青年の身に着けるマントに隠れてその姿が見えなかったようだ。
「しかし兄妹の二人でこの国を訪れるのも容易なことではなかっただろうな。チゾットの山を越えてきたのなら、昨日の今日で疲れも取れていないはず。宿でゆっくり休んでもらうのが良いと思うが」
「でも今なら北の内海に入ってくる船もあるんですよね。それに乗って来たのならそれほど疲れてもいないかも」
リュカがかつてこのグランバニアを目指して旅をしていた時には、南のチゾットの山を越えることでしかグランバニアに着く手段がなかった。今はラインハットとの交流が再開しており、その伝手で北の内海を通じて船が入ることもある。しかしその回数は年に数回を数えるほどで、尚且つその船はグランバニアと交易を行うものであるため旅人を乗せることはほとんどない。
「ちょっと僕、今の人と話をしてきます」
リュカはそう言うと既に立っていた椅子をテーブルの下に戻し、女将に礼を述べてから早々と宿を出ようとする。その後を護衛役を任されているパピンが追いかけ、最後にと口にデザートを頬張ったピピンが急いでついて行く。残された女将は、いつの間にかすっかり平らげられていたテーブルの上の片づけを始めた。
すぐに追いつくだろうと思っていた旅人の姿は、宿を出たところでは完全に見失っていた。リュカの脳裏にはどこか虚ろだった青年の横顔が思い出される。あの虚ろな表情は旅の疲れで出るようなものではないと感じていた。年齢はリュカと同じほどか若いくらいだが、青年の表情にはどこか切迫した様子があり、実際の年齢よりも幾分上に見えていた。
「旅人が向かうとすれば、教会ではないでしょうか」
パピンの言葉に従い、リュカは城下町の最奥に位置する教会を目指して歩く。町の大通りを歩く際にもリュカを国王と気づく町民らに丁寧に頭を下げられたり、親し気に言葉を交わされたり、直接的に国の不満をぶつけてくる者もいる。さすがに今それらすべての言葉に耳を傾けていては、話を聞きたいと思う旅人のところにいつまでも行けないことになるので、リュカはパピンの大きな身体に頼るように彼に対応してもらいつつ、教会を足早に目指した。
城下町と教会との区切りは大きな壁で隔てられており、城下町から教会に入るには大きな門をくぐるような形になっている。城下町も教会に入る手前辺りから静けさに包まれ、一たび門をくぐればまるで別世界のような教会の大きな空間が広がっている。その教会への門をくぐる手前に、リュカが宿屋で見かけた旅人の姿があった。女将の言う通り、青年の後ろに隠れるようにして、小さな少女がくっついていた。
リュカはその兄妹の姿を遠目に見て、何故自分が彼らを本能的に追いかけたくなったのかを知った気がした。七、八歳ほどは年の差があるだろうその兄妹は同じような茶系のマントに身を包み、城下町の中でも目立たない教会の手前の裏路地に入り込んでいた。リュカと同じく黒い青年の髪色と妹の艶のある金髪に兄妹の繋がりを見ることはなかったが、並ぶ横顔には間違いなく兄妹と思わせる似た面影があった。
リュカと変わらぬほどの身長である青年は、城下町に住む人々を数人集め、話をしているようだった。集められた数人の人々はどこか真剣な様子で青年の話に耳を傾けている。リュカのいるところにまではその会話が届かず、その話の内容聞きたさにリュカが一歩を踏み出せば、その足音に気付いた青年がリュカとパピン父子の姿を遠目に認め、卒のない会釈をする。
「こんにちは」
リュカよりも少し高い声だった。もしかしたらピピンとそう変わらない年齢なのかもしれない。兄の陰に隠れるようにしてリュカを見ている妹がいる。人見知りなのだろうか、挨拶などせずにただ黙ってリュカたちを見つめている。ひと際身体の大きなパピンに恐れを感じているのかと、リュカは意図的にパピンを隠すように前に進み出る。
グランバニアの国民であれば、リュカがこの国の王であることを当然知っており、青年に話を聞いていた数人の城下町の住人は突然の国王の登場に揃って面食らっている。彼らが国王様と口にしたところで、旅人の青年は改めてリュカの後ろに立っているパピンを見上げる。並ぶ三人の中で誰が最も国王たる人物かと考えれば、パピンに目を合わせるのも当然だとリュカは思った。
「あなたは昨日、この国に着いたばかりだと宿の人に聞きました。この国には何をしに来たんですか? 外は魔物も多くて旅は大変だったでしょう」
物腰柔らかなリュカの口調に、黒髪の青年は警戒することなく嘘を吐くこともなく応える。
「僕たちは神様がお住まいになる幸せの国へ行くために、この国に来ました」
あまりにも率直なその言葉に、リュカはしばらく言葉が出なかった。グランバニアにもしばしばこうして幸せの国を目指す人がいると言うことは話に聞いていたが、実際にそれに当たる人物に相対したのは初めてだ。
「ただ僕たちが幸せの国に行くためには少なくとも他に十人の人達を一緒に連れて行かなくてはならないと、そう言われているのです」
青年の目には幸せの国に対する疑いなど一切ないと思える澄み切った光を感じた。その場所こそが青年と妹の目指すべき場所であり、その国に行けさえすれば全ては安泰なのだと信じ切っている光があった。しかし同時に、彼にはその場所に縋りつくような必死さも見えた。ようやく見つけた安泰の地に行けなければ、この先生きて行くことができないと、そこまで追い込まれているような差し迫ったものをリュカは感じた。
「幸せの国って、アレですよね、前にリュカ王が話してた……」
ピピンが話し出そうとするのを、パピンがその口を固く手で閉じて先を話させなかった。しかしピピンのその言葉だけで、青年の話を聞いていたグランバニアの住民には十分に伝わった。人気のない狭い裏路地に集まり話を聞いていた彼らはリュカの視線から逃れるように互いに顔を見合わせ、仕事があるから、教会に行かないと、家の用を頼まれてるなどと言いながらそそくさとその場を離れて行った。
「あ、ちょっと待ってくだ……」
青年が散り散りに去ってしまったこの国の住人を追いかけようと足を踏み出したところで、リュカは努めて穏やかに話しかける。
「少し僕たちと話をしませんか」



リュカたちは再び宿屋へと戻ってきていた。宿に宿泊する旅人の数は増えも減りもしていないようで、宿の女将を務めるパピンの妻は特別忙しくはない宿業を淡々と済ませつつ、戻って来たリュカたちに一つ広い部屋を提供していた。
扉を閉じ、部屋の中はリュカとパピン父子、それに旅の青年とその妹という五人で一つの小さなテーブルを囲んでいた。素泊まりの宿泊を申し出て、その代わりに宿賃を安くしてほしいと願い出ていたという青年とその妹は昨日から何も食べていないらしく、リュカは彼ら二人を見兼ねて宿の女将に食事を出すようにと頼んだ。初めは訝しんでいた青年だったが、「じゃあ遠慮なく」と言って先に食事に手を出したピピンを見てようやく食事に手をつけた。兄が食事に手をつけたのを見て、妹も恐る恐るグラスの水に手を伸ばす。ただ井戸水から汲んだだけの水だが、それが喉を通った時に彼女が嬉しそうに溜め息を吐くのを見て、リュカはこの小さな少女の喉が渇き切っていたことに嫌でも気づいた。
彼ら兄妹は名もないような小さな集落に暮らしていたらしいが、両親を共に流行り病で亡くしてしまい、それ以来兄妹の二人で生きてきたという。流行り病の猛威は凄まじく、ただでさえ少なかった集落の人々の半数を一度に失った。軒並み大人たちを襲った病は、力も何もない子供だけをこの世に置き去りにしてしまった。
その話だけでも悲劇と呼ぶにふさわしいものだが、その上彼らの集落は魔物たちに襲われ、魔物の襲撃から辛くも逃れた兄妹の二人はそこから一日一日を生きるのに精いっぱいの生活が始まったという。自分とそう変わらぬ年の青年からの陰鬱極まる話に、ピピンは相槌を打つこともできずにただ俯いて辛そうにテーブルを見つめていた。
兄が話す最中、妹の少女は一言も口を利かずに、黙々とパンを小さくちぎっては口に放り込んでいた。リュカは少女が口を利けないのかと見ていたが、ピピンがおずおずと「この果物知ってる? 美味しいから食べてごらんよ」と何の変哲もない野イチゴを差し出すと、少女はそれを受け取り、「ありがとう」と小さく呟いたのを聞いて、ただ彼女はまだ人と話すことを恐れているのだと分かった。
「明日の命も分からないような僕たちを救ってくださったのが、幸せの国の方なのです」
青年が話すには、幸せの国に行けば今後の人生において困ることなど何一つなく、全てにおいて満ち足りた人生を送ることができると約束されているらしい。その言葉を聞いた青年に、言葉を疑うという感情は生まれなかった。決して死なせてはならない妹を一人抱え、明日生きるのにどうすれば良いのかを悩む日々から解放される幸せに、彼は何の疑いもなく身を委ねたいと思った。どうせ明日死ぬのかもしれないのなら、たとえ嘘でも幸せの国と言う夢に溢れた場所に全てを賭けても良いと、彼はその胸のどこかでそう冷静に考えていたところもあった。
青年の話には一つも嘘と思えるところはなかった。彼は幸せの国の存在を信じ、その場所にさえ行くことができれば、妹にひもじい思いをさせることなく、明日も明後日もその向こう側にある命も保証されるのだと、彼はひたむきに幸せの国を信じようとしていた。それ以外の選択肢を排除することで、彼はそれ以上の物事を考えることを放棄し、頭の中は非常に楽な状態になる。彼自身、水も食料も足りない状態が続き、人間としての健康的思考力が奪われているのだと、リュカは感じた。
「僕が君たち二人を保護します。今日からこのグランバニアの国民になってくれませんか」
目の前で幸せの国と言う地獄へ向かおうとする兄妹を放っておくことなどできず、リュカは率直にそう申し出た。国王直々の言葉に、旅の青年は驚きに目を丸くしたが、真面目な彼は既に交わした幸せの国に行くという約束に縛られている。
「しかし僕たちは十人以上の人達を誘い、幸せの国に行くことをもう決めているので」
「どうして十人以上の人を誘わなきゃいけないのかな。もし幸せの国の人が本当に親切で、君たちを助けたいって思うのなら、君たちだけをまず助けてあげればいいって、そう思わない?」
「でもより多くの人達を助けるのが僕たちのやるべきことだと、そんな立派な仕事も与えて下さっています」
「どうして君たちなんだろう。宿に泊まるにもちゃんとお金をもらっているわけじゃないんだよね。だって素泊まりで、水も食事もろくに取らないで、でも身なりだけはくたびれてない。見た目だけには気を遣ってるんだね、幸せの国の人達は」
リュカの言葉には無意識の内にも棘が出始める。普段は穏やかな雰囲気を醸す国王の身体から滲む不穏な空気に、同じテーブルを囲んでいるパピンが静かに姿勢を正す。
「とても言い辛いんだけどね」
リュカは一言そう言ってから、一口水を飲んだ。幸せの国と言う反吐が出そうな偽りに塗れた場所を想像するだけで喉が渇くのはどうしようもなく、あの寒風吹き荒れる世界一の山の頂が脳裏に蘇るだけで全身に悪寒が走る。
「君たちは幸せの国に利用されているよ」
真面目で責任感の強い兄に、兄について行くばかりのまだ稚い妹という二人の構図は、人々の同情を買ったり、無条件に信頼させるに値するものだ。まだ年端も行かない兄妹、特に妹はティミーやポピーよりも幼く、大人の手を借りなければまだ何も成し遂げられないような非力な少女だ。そんな少女が行くところが危険な場所のわけがないと、身も知らぬ人々の信頼を得るには非常に都合の良い二人なのだ。
「その幸せの国の人には僕から話しておいてあげるよ。約束なんて気にしなくていい」
「でもこの国で暮らすにしても、家や仕事が……」
「そんなの、どうにでもなるよ。この国の人達はみんないい人だよ。きっと手を貸してくれる。それに君に見合う仕事がちょうどあるんだ。この城もさ、建てられてから結構経つからあちこち傷んで来ていてその補修工事に関わってもらってもいいし、もしこのパピンさんみたいに国を守る兵になりたいならそれもいいし」
「妹はまだ読み書きができないんだ。僕も決して得意じゃなくて……」
「教会で週に何度か読み書きを教える時間を設けているって聞いてるよ。えーっと、今度はいつだったっけ?」
「確か、二日後だったかと記憶しています」
「さすがパピンさんだね。そういうことまでちゃんと把握してるんだ。すごいなぁ」
あれよあれよという間に物事が進んでしまうその勢いに、旅人である兄妹はただ圧倒されたようにその様子を見つめていた。目の前で親し気に話す年若い青年がこの国の王様だと言うことにも、まだ理解が追いついていないまま、彼ら兄妹の今後がトントン拍子に決められていく。
「おにいちゃん」
子供特有の良く通る高い声を発した少女に、皆が一斉に彼女に視線を向ける。大人の男たちの視線が一度に自身に集まる緊張に、少女は一時恐れて口を噤んだが、兄が優しく「何だい?」と促せば少女も言葉を紡ぐことができた。
「ここがいいよ」
もしかしたらまだほんの子供の少女の方が、幸せの国の本質を見抜いていたのかも知れなかった。やるべきこと、やらなければならないこと、守らなければならないものを抱える兄よりも、ただ生きることに純粋である妹の方が幸せの国への誘いに疑いを持っていたのかも知れない。ほんの小さな疑いだったとしても、そこにリュカの手が差し伸べられたことで彼女はその手を掴んでも良いのだと兄に小さな声で訴える。
「わたし、ここにすみたい」
「……マリー」
青年が発したその名に、リュカは息を呑んだ。聞き違いだとすぐに気づいたが、彼が発した妹の名をリュカは「マリア」と耳にした気がした。
「僕も妹さんに賛成! そんな訳の分からない幸せの国なんかより、この国の方がよっぽどいい暮らしができると思うよ」
「妻はこの宿を営んでいるから、君たちの生活においても色々と手伝いができると思う。幸か不幸か、今はこんな世の中で宿業もそれほど多忙ではないからな」
「あっ、妹さん、マリーちゃんって言うの? 僕をもう一人のお兄ちゃんとして頼ってくれてもいいんだよ。それでゆくゆくは僕の……」
「じゃあ早速この国の民となる手続きをして来よう。教会で君たちの名前を告げて、神父様に認めてもらえればそれでお終いだよ」
ピピンが熱心にマリーに話しかけるのに構わず、リュカは兄である青年に淡々と話す。
「そ、そんな簡単にこの国の住民になれるんですか」
「今はほとんど来るもの拒まずで国の民を増やしたいと思ってるからね。……あ、でもとんでもなく疑わしい人はさすがに遠慮するかな」
「僕たちは怪しくないんですか」
「どこら辺が怪しいのか説明してもらえたら、考えてみるよ」
「どうして僕たちが幸せの国に行くのを引き留めるんですか」
「それは、僕自身が幸せの国が紛い物だって思ってるから。人間が生きて行く中で苦しみも悲しみも一切ない場所に行けることなんて、きっとないんだと思うよ」
そう言ってリュカは小さな器に盛られる木の実を数粒つまむと、そのまま口に放り込んだ。ぼりぼりと小気味よい音を立てて木の実を食べるリュカを見て、青年もまた器に手を伸ばす。
「そう言う辛いことが一切ない場所って、きっと死んだ後にしか行けない場所だよ」
青年が語る幸せの国と言うのは、全ての悩みや不安などから解放され、喜びに満ちた場所らしい。恐らく今の人生に辛く苦しみを抱いている者たちにとっては縋りつきたくなる場所だ。感じる不安や悩みなど、その大小は各々異なるものだが、一切の苦しみ悲しみから逃れることなど、それこそ死ぬような修行を積み、悟りの境地にたどり着いた僧侶や賢者がようやく手に入れることのできるものと考えてよいだろう。決して楽して手に入れられるものではない。
「でもさ、人間死んじゃったらお終いなんだ。僕は君たち兄妹にみすみす死んでほしくなんかないよ」
テーブルの下、自身の膝の上に置いた拳に力が入るのをリュカは意識していない。自分たちをあの場所から逃してくれたあの時の青年の姿に、どうしても目の前の青年の姿が重なる。
「妹が大切なら、絶対にその手を離しちゃダメだよ」
いつの間にか最も切迫した様子になったリュカに、青年は目を逸らさずにじっとその顔を見つめていた。穏やかな雰囲気とは裏腹に、この国の王の瞳はどこまでも飲み込むような漆黒の色に塗られている。その瞳を見ているだけで、青年の中に蟠る不安そのものが少しずつ吸い込まれ、薄らいでいくのを感じる。
「でも、本当にこんな勝手なことをしていいんでしょうか」
「あ、まだ不安? それならさ、その幸せの国に連れて行ってくれる人のところへ僕を案内してくれるかな。直接話してみるよ」
もしできるならば幸せの国への案内を務める者に会いたいとリュカは本心から望んだ。一体その者がどのような者なのか、その人物も幸せの国の欺瞞に騙されている一人なのか、それとも幸せの国を地獄のような場所と知りながら人間を連れ去ろうとしている魔物なのか、リュカはその真偽を確かめたいと青年の目を見つめる。
「いえ、僕たちが十人の人を幸せの国に誘うことができたら、その時にまた迎えに来ると仰るだけで、今はいないんです」
「……なるほどね」
話を聞けば聞くほど、疑わしいことばかりが青年の口から語られる。それを一つの疑いもなく信じてしまうのは、やはり人生に窮した者たちの持つ隙なのだ。
「大丈夫だよ、任せて。だって僕はこの国の王だよ。いざとなれば僕が直接話をしてあげるから、君たちは安心して教会に行っておいで」
リュカの穏やかながらも強い言葉に、青年は妹を連れリュカたちに頭を下げ、部屋を出て行こうとした。その際、リュカは何の気なしに青年に声をかける。
「ねえ、君の名前、何て言うの?」
リュカのその問いかけにピピンが小声で「まるでナンパみたいな……」と言ったところを、父パピンに叩かれていた。その様子を青年は微笑ましく見ていた。
「カレブと言います」
「そう……いい名前だね」
部屋を出て行く互いに寄り添いながら生きている兄妹の姿を、リュカは姿が見えなくなってもまだ部屋の扉にその残像を見るように視線を向けていた。グランバニアに不慣れな兄妹を教会まで連れて行くのだと、ピピンが自らその役割を申し出て共に部屋を出て行った。
ぼんやりとしたリュカの様子にしばし話しかけるタイミングを失っていたパピンだが、扉から視線を外してふっと微笑んだリュカを見て言葉をかける。
「リュカ王、随分とあの二人にこだわっておられるようですが、何かあったのですか」
「ん? いや、ただ間に合って良かったなと思ってさ」
「間に合った、とは」
「うん、いや、こっちの話。……あ、この木の実、美味しいね。城でもこんなに美味しい木の実は出てこないよ」
小気味よい音を立てて木の実を食べるリュカに、パピンはそれ以上詮索するような言葉をかけなかった。もしこの場にピピンがいれば、しつこいほどリュカにあの兄妹のことについて問いかけていたかもしれない。しかしたとえ様々な問いかけを受けたところで、リュカは自身の過去に関わることを語りはしなかっただろう。
リュカは話に聞いていただけの幸せの国への誘いを目の当たりにして、今もまだあの場所は存在し、こうしてこそこそと人の住むところで人々を誘い込もうと手を伸ばしていることを身をもって知った。その魔の手を自分の手で止められたことに、言いようもない達成感を得ていた。
しかしそれもほんの一握りのもので、今もリュカの手の届かないところで、様々な悩みを抱える人々のところにその魔の手は伸ばされているのだろう。その全てを潰すことは恐らくできない。そして過去に連れ去られてしまった人たちを救い出す手立てをリュカは今も見つけられない。
青年の名がカレブで良かったと思うが、同時に残念に思う心もあった。もし彼の名がヨシュアであれば、リュカはかつて自分たちを救ってくれたあの人にあの青年を重ね、ヨシュアを救えたような気になれたのかも知れない。しかし現実には、今もラインハットで妹のマリアは兄ヨシュアの無事を祈り続け、その帰りを待ち続けている。
リュカとヘンリーが過ごした十余年の時を、リュカは妻以外に話したことはない。話したところで周囲を動揺させ、不安に陥れるだけのものと分かっているからだ。ただ、彼らの事情を既に知っている者であれば、あの時の話を改めてするべき時なのかも知れないと、教会に向かったカレブの妹マリーの小さな子供の姿にそんなことを朧げに考え始めていた。



カレブとマリーの兄妹に会ったその翌日、リュカは再び彼らの様子を見るために城下町を訪れていた。
この日はパピンは兵士長としての任に就いており、ピピンもまた兵士見習いとして城で訓練を受けていたため、当初リュカは変装をして一人で城下町をふらつく予定だった。しかしたとえ眼鏡をかけてもフードを目深に被っても、城下町にたどり着く前に城の兵たちに即座に知れてしまい、いっそのこと女装でもした方が良いのかと真剣に考えたものの子供たちに気味悪がられてそれも取り止めた。そもそも一人で城下町に行くなど言語道断とサンチョに叱られ、代わりにリュカの護衛に付いたのがパピンと同じく兵士長の一人であるジェイミーだった。
「今日は非番の日だったの?」
「は、はいっ、偶然ですがパピンと入れ替わる形で本日の休暇を取っております故、本日はこのジェイミーが命に賭けてもリュカ王をお守りいたします」
「あはは、固いよ、ジェイミーさん。城下町なんだからさ、もっと肩の力を抜いていいよ」
「し、しかし、国王の護衛となればしっかりと務めさせていただかなくてはっ」
「大丈夫だよ、いざとなれば僕だって戦えるしさ。サンチョにも言われてるから一応剣も持ってるし、守られるばかりじゃないよ」
リュカの強さは兵たちの間では噂ばかりではない。リュカはこのグランバニアにいる間、数回は兵士たちと共に訓練を行うことがある。その際のリュカの動きは一般の兵士などには見切ることができないほどだった。しかしあくまでも自己流で戦い続けてきたリュカとしては、正確な剣術を学んできたパピンやジェイミーには適わない部分もあるのが現実だ。呪文も使える分、実践でリュカに適う者はいないのだろうが、呪文を封じられれば兵士長クラスの者たちの強さはある意味リュカを凌ぐほどだ。
「まずは歩き方が固いかな」
「そ、そうでしょうか。普通に歩いているだけなのですが」
「あんまり固い感じでいられると僕が怖い人みたいになっちゃうから困るよ。一応、僕って穏やかな王様で通ってるんでしょ? それが本当は怖い人だったなんて、みんなをがっかりさせちゃうからさ」
城下町でリュカが自分よりも頭一つも二つも高いような高身長のジェイミーの手を取り、普通に歩くことを促している姿は城下町に住む者にとって非常に面白おかしいものだった。ただリュカにこっそり近づいた男性に「それでは国王に男色の噂が立ちますぞ」と言われたところで、リュカはお互いの今後のためにもジェイミーの手を取ることは止めておいた。
昨日の今日で、まだカレブとマリーの兄妹には住居は与えられておらず、今も宿にその身を留めているという。リュカとジェイミーが宿に顔を出した際、パピンの妻が少々驚いたようにリュカたちを出迎えた。
「国王様、昨日に続いて今日も城下町の視察ですか」
「うん、そんなところかな。昨日の子たちがちょっと気になってね」
「カレブとマリーは朝早くから教会に行っていますよ。私が『何をするにもまずは読み書きができないとね』と言ったら、早速教会に行って読み書きの勉強をするんだって。賢い子たちですよ」
「ではリュカ王、教会に向かいますか?」
「お腹も空いてくる頃だろうから、そろそろ帰ってくる……ああ、ほら、噂をすればってヤツですよ」
女将の指差す城下町の大通りに、教会から戻ってくる二人の姿をリュカは見た。昨日のような薄暗い表情など消え去り、今は自分たちの生きる場所を見つけ、生きる意思を彼らから感じる。昨日は誰かに縋って生かされるのだと他力に頼る投げやりな部分も見え隠れしていたが、今は自分たちの力で生きてやるのだというこのグランバニアに根を張ろうとしている。そんな彼らの表情を見て、リュカは自分のことのように嬉しくなった。
リュカの姿に気付くと、カレブは恭しく頭を下げ、マリーは無邪気に手を振っていた。しかしリュカの隣にいる大男の存在に気付くと、兄妹揃って表情を固くしてしまった。まるで大男に捕まえられ、これから牢にでも入れられるのではと恐れているような切羽詰まった表情だ。
「ほら、ジェイミーさんに怯えてる。子供たちに向ける表情じゃないよ。もっと笑って」
「わ、笑えと言われても、無理に笑うのは難しいものがあります」
リュカが無理にジェイミーの顔をぐにぐにと手で和らげようとしているのを見た女将が、自国の王の人との距離感が少々ズレていることに気付き妙な顔でその様子を見ている。リュカ自身は至って普通に人と接しているつもりなのだが、普段から魔物の仲間たちや子供たちと接しているせいか、接する距離が近くなってしまうのはどうしようもなかった。
「お帰りなさい。ほら、お腹が空いたでしょう。今食事を用意するからね」
「あの、でも僕たちまだお金を稼いでいるわけじゃ……」
「出世払い、期待してるよ」
実の息子であるピピンを育てた経験もあり、宿の女将をしているだけあって人に対する気配りにも長けている彼女は卒なく二人を迎え入れ、宿の一室へと誘導する。宿の廊下を歩いている際にリュカも話しかけ、その後をジェイミーが子供たちを怖がらせないようにと足音にも気をつけてそろそろと廊下を歩いて行く。
「昨日の今日でまだよく分からないだろうけど、でも二人とも昨日よりずっと顔色も良くて安心したよ」
二人の兄妹が今も泊まる宿の一室に食事が運び込まれるまでと、リュカは空いていた椅子の背もたれを跨ぐように座り、背もたれに両腕と顎を乗せてのんびりと話しかける。到底、一国の王がするような仕草ではないだらけた様子に、カレブもマリーも思わず顔を見合わせて笑っている。ジェイミーは自らの使命を果たさんと、まだ固い表情のまま部屋の扉近くに直立して彼らの様子を窺っている。
「国王様がどうして今日も来てくださったんですか」
「あ、迷惑だったかな」
「い、いや、そんなこと……でも王様自らじゃなくって、誰か他の人に行かせてもいいんだろうになって思って」
「でもさ、いきなりこんな大きな男の人が『様子を見に来たから顔を見せろ』なんて言ったら、逃げちゃうでしょ?」
そう言いながらリュカは扉の傍に立つジェイミーを指差し、指差されたジェイミーは気まずい表情で顔を赤くしている。
「ジェイミーって言ってね、この国の兵士長を務めてるんだ。だからある程度は怖い感じもないと、仕事にならないからね。でも真面目でとてもいい人だよ」
「兵士長……凄い方なんですね」
幼い妹を抱え生きてきたカレブにとって、強さに憧れることは必然でもあるだろう。その羨望の眼差しを隠すことなくジェイミーに向けているのを見て、リュカは彼がこの国で生きて行く術などいくらでもあると確信する。
「王さまは今日もお散歩してたの?」
まだどこか舌足らずなマリーの声にリュカの表情は無意識に緩んでしまう。それと言うのも、自分は見ることのできなかった子供たちの幼い頃を重ねて見てしまっているのだと、リュカ自身気づきながらも、はっきりとは認めないまま話を続ける。
「ちょっと君たちに聞いておきたいことがあってね。もし覚えていたらでいいんだけど」
グランバニアの城下町は全て建物内に作られている特殊構造のため、直接陽の光を浴びることがない。その代わり町の中には魔法の力による明かりがそこここに照らされ、その強弱により凡その時間を知ることができる。大分明るくなってきた城下町は間もなく昼を迎えるのだろうと、リュカは宿の部屋の窓から外に見える明かりを眺める。
「カレブたちはこのグランバニアの近くに住んでいたのかな」
昨日の彼の話では、彼らは小さな集落に住み、疫病で両親を亡くし、魔物の襲撃を受けて集落は滅ぼされたという悲劇に見舞われている。その集落がもしグランバニアの近くであれば、その場所を確かめておく必要があるだろうとリュカは考えていた。
「いいえ、僕たちは砂漠の国があるという大陸に住んでいました」
「えっ、テルパドールの近くに?」
「……国の名前も知らないんです。ただそう言う話を聞かされただけで。歩いてもひと月以上はかかるし、徒歩でその国に向かうのは死にに行くようなものだと両親にも言われていて、それでずっと集落に住んでいたんだと思います」
テルパドールへの旅をした経験のあるリュカにはそれが嘘ばかりではないと分かっている。とても子供二人が徒歩で辿りつけるような場所でないのは間違いない。あの広い砂漠の一角にそんな小さな集落があることなど、リュカは全く知らなかった。ただ世界にはリュカの知り得ない集落がまだまだたくさんあるのだろうと、カレブの話にそう考えさせられる。
「そんな遠いところからどうやってグランバニアまでやって来たの? 船でもふた月はかかるんじゃないかな。チゾットの山も越えなくちゃいけないし」
「それが、助けられた僕たちはいつの間にか水の上の船という乗り物に乗せられていたんです。そろそろ上陸だと声をかけられて、それで目が覚めました」
恐らく眠らされていたのだろうとリュカはカレブの話の嘘偽りない様子にそう思った。リュカやポピーが移動呪文を使えるのとは異なる方法で、移動する術を身に着ける何者かがいるに違いない。現にボブルの塔では宿敵ゲマを取り逃してしまった。敵は空間に歪みを生み出し、その中に姿を消してしまったのだ。
「初めは夢でも見ているんだと思いました。だってさっきまで僕たちは砂漠の中にいたのに、気づいたら広い水の上なんて。そんなの奇跡が起こらないと無理ですから」
「それはかみさまにしかできないことなんだって、そういってたのよ」
そのような特別の力を見せつけ、圧倒させ、そうしてこの兄妹二人はその力を素直に信じてついて行くことにした。まだ年端も行かない子供たちを騙すのは、言ってみれば非常に簡単なことなのだ。それ故に子供たちには分別ある大人がついていてやらなくてはならない。
「その船には他にも人が乗ってた? その人たちもこのグランバニアに来ているのかな」
「他に人が……乗ってたような、どうだったかな。何だか記憶がぼんやりしていて、あまり上手く思い出せないんです。すみません」
はっきりとした記憶など持たれては困ると、もしかしたら彼らには幻惑の呪文でもかけられていたのかも知れないとリュカは思う。深く問い質したところで、カレブもマリーもその時のことを思い出すことはないだろう。
「あ、でもこのあとはずっととおい北の国に行くんだっていってたよ。それもいっしゅんでいっちゃうんだって。わたし、きいたよ」
マリーは直接誰かにそう聞いたのではなく、そのような話をしているのを耳にしたのだという。ずっと遠い北の国はラインハットで間違いないだろう。彼の国にまたこうして密かに魔の手が伸びていることを嫌でも知ることとなった。
「ありがとう。……あ、ほら、食事の時間だね。僕たちがいたらゆっくり食事ができないだろうから、また今度ね」
一国の王の言う「また今度」など来ることがあるのだろうかとカレブは困ったように笑うが、マリーはリュカの言葉を素直に信じて「またね」と言ってにこやかに手を振る。あまりにも国王らしからぬ親しみ溢れるリュカの言葉遣いや対応に、マリーはすっかり心解けて懐いている様子すらあった。
「はい、ジェイミーさんもちゃんと笑ってバイバイしてください」
「笑って……バイバイ……何とも難しい」
リュカが手を振りにこやかに兄妹に別れを告げる前で、ジェイミーが苦心しながら笑顔を見せて大きな手を振っているのがリュカには分かった。その証拠にリュカたちを見る兄妹の表情が、これまでこれほど奇妙なものを見たことがないと言うような困惑したものになっていた。
「今日はご苦労様でした」
リュカの城下町での用はこれだけなのだと、兵士長ジェイミーを引き連れて城下町を歩き玉座の間へと戻って行く。リュカの後ろから歩く大男は、今まで感じたことのない疲労感に襲われていた。
「もう僕の護衛はこりごり?」
「い、いえ、滅相もない! また機会あればご一緒させていただきたく……」
「城下町に行くのなら、もう少し笑顔があった方がいいかなぁ」
「……今後の課題とさせていただきます」
はっきりと約束しないところにジェイミー兵士長の生真面目さを感じ、リュカは思わず噴き出してしまった。剣の腕前も体術の技術も一人前を越えているというのに、笑顔一つ作ることが彼にとっては難しいらしい。
「近いうちに他の国の様子を見に行くけど、一緒に行きたい?」
「……いえ、私はあくまでもこの国の護衛を任されている身。国を離れるのは望ましくないものと思われます」
「そっか、なるほどね、それはそうかも」
リュカはジェイミーと気軽な会話を交わしながら、玉座の間へと戻る道中頻りに次の自身のするべき行動について考えを巡らせていた。女王の国か、友の国か。

Comment

  1. 犬藤 より:

    お久しぶりですー!
    更新なさる度に読ませていただいておりますが
    久しぶりにコメントさせていただきました。
    ストーリーの展開にいよいよ緊張感が漂ってきましたね…ラスボスへむけての動き、ハラハラしながら見させていただいております。
    気温も暑くなってきていよいよ夏ですね…お体にお気をつけくださいね!
    次回も楽しみにまっています!

    • bibi より:

      犬藤 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      いつでも感想お寄せ下さいませ。お待ちしています。
      ゲーム上ではさらりと過ぎてしまうようなところも、またゲームにはない展開もこれからちょこちょこ書いて行こうかなと思っています。ドラクエにしてはシリアスな展開になったりして? しかしドラクエって実は内容がどシリアスだったりしますよね。ホラー的な展開だったり。(ドラクエ3のテドンなんかは何度か夢に出てきた気がします・・・)
      これから一気に暑くなりそうですね。暑いの苦手なので、体調管理しっかりしていきたいところです。
      犬藤さんもお身体に気をつけてお過ごしくださいませ。次作も少々お待ちください~。

  2. ピピン より:

    久々のジェイミー兵士長、顔弄られまくりですね(笑)
    カレブとマリーの登場でまたグランバニアが賑やかになって楽しいです。

    • bibi より:

      ピピン 様

      ジェイミー兵士長はこれから特別に、笑顔の練習の時間が設けられるかも知れません(笑) 大きな課題だ。
      グランバニアだけで色々と話が書けそうなほど、登場人物が多くなってきましたかね。本当はまだまだ出したいところですが、自分自身が一番混乱しそうなので控えています(汗)

  3. ケアル より:

    bibi様。
    いつも更新ありがとうございます。

    bibiワールド最高です。とくにこのグランバニア編は、いつも楽しいです、クスっと笑えるシーンがたくさんあります。

    サンチョのお家お泊まり、メッキーと散歩、ピピンの言動、ジェイミー弄り。

    bibi様、この中でもサンチョのお家お泊まり、ぶっちゃけ短編でいいから読みたいです~!楽しそう(笑み)
    このさきのストーリーは二次創作の醍醐味を味わえそうですね。
    bibiワールドならではのシナリオ展開を楽しみです。

    そうですか…テルパドールの周辺に小さな集落、幸せの国がグランバニアやラインハットにも…。
    カレブとマリー新たなグランバニアの民、ティミーポピーが遊びたいと言い出しそうですね。
    この幸せの国、ピックアップすれば深い話ができそうじゃないでしょうか?
    ゲーム本編ではここまで深い話はなかったように思います。恣意と言えば…
    ルラフェンのイブールの本を売りつけるおばさんぐらい?

    リュカが幸せの国の不審なやつらに会い話を聞き出す描写が見れたら…bibiワールドで切実に期待してます(笑み)

    • bibi より:

      ケアル 様

      こちらにもコメントをどうもありがとうございます。
      グランバニアのお話はもっとたくさん書きたいところなので、また後程がっつり書く予定です。きっと、次の新年祭で。
      サンチョはリュカにも双子にも甘いので(子供や孫のようなものなので)、結局三人の言いなりです(笑)そしてもしかしたら、一番その時の状況を楽しんでいます。従者にあるまじき・・・だけど、それが許されちゃうサンチョです。みんなのお父さんでありお母さんである彼です。
      幸せの国については私も深い話を書いてみたいと思いつつ、なかなか練り上げられない状況です。そちらを書き始めると、そちらだけで長編ができそうなほど深くなりそう・・・そして確実にマリアを巻き込みます。その辺りは今後ちょこっと書くことがあるかも知れません。
      あ、ルラフェンにそんなおばさんがいましたっけ? それは忘れてたなぁ・・・。素敵な情報をありがとうございます。ルラフェンにも行く予定があるので、その時にでも・・・。

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