2021/10/11

研究者の生き甲斐

 

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「オレのアイデア、イケてるだろー?」
「しーっ! ダメだよ喋っちゃ。そこから動いちゃダメだよ」
「そうよ、お人形さんみたいにしていて。そうすればカワイイから大丈夫よ」
「リュカよ。これをカワイイというのはいかがなものかのう」
「……見ようによってはカワイイんじゃないかな」
「やっぱりもう少し隠れてもらった方がいいんじゃないでしょうかね」
今、リュカたちの目前には平面にも立体にも幾層にも重なり合ったような地形のルラフェンの町がある。特別町を囲うような壁があるのでもなく、町の入口が一か所と限られているような町でもない。どこからでも入れるこの町は果たして魔物から町を守るのに適していないのではないかと思われるが、町全体が迷路のような造りとなっており、町を襲おうとする魔物だけではなく旅人でも存分に迷うことのできる複雑な造りの町はそれだけで守りに適している。そもそもこの町は初めからそれを目的としてこのような複雑な造りにしたに違いないと、仮にも一国の王を務めるリュカはそう考える。
その町の真ん前で、移動呪文でひとっ飛びに移動してきたリュカたちは、こっそりついて来てしまったミニモンをどうしたものかと考えている最中だ。ルラフェンに行くのはリュカを初め子供たちにサンチョ、そしてマーリンを連れて行くと決めていたリュカだったが、いざルーラで町まで飛んで来てみれば、サンチョの荷物の中にこっそりとミニモンが身体を潜めていたのだ。それに気づくや、リュカはミニモンを連れて一度グランバニアに戻ろうとしたが、ミニモンが巧みにリュカの手から逃れ、宙を飛び回り、捕まえることをなかなか諦めないリュカに反抗するように逸散にルラフェンの町へ向かって飛んで行こうとするので、リュカも諦めてミニモンも町に連れて行くことにしたのだった。
人の住む町に魔物を連れて行くことはできない。それ故にテルパドールへ行った際には魔物の仲間を連れて行くことはなかった。そして今回、マーリンを連れてきたのは、人の形をした彼ならば人間として町の中で過ごすことも可能な上、マーリンは以前にもルラフェンの町を歩いたことがあるという自負も手伝い、リュカはマーリンが同行することに異議を唱えることもなかった。ただミニモンはいかにも魔物の姿をしており、いくら小さいとは言え悪魔の子供としての禍々しい羽や矢じりのような尾に、頭からは二本の角が飛び出ている姿を、人間の姿に誤魔化すのも難しい。
「荷物の中に入ったら、外が見えないだろー」
「大丈夫だよ、お父さん。動かなければ、ほら、ちゃんと人形みたいに見えるもん」
「誰かに何か聞かれたら私たちが『大事なお人形なの』って言うから平気よ」
ティミーとポピーがそう言いながらサンチョの荷物の袋から顔だけを出しているミニモンの頭をまるで赤子のように撫でたり軽くぽんぽんと叩いたりしている。ミニモンもなるべく見る者に恐怖感を与えないようにしているのか、お道化たように両目をくりくりと丸くし、口から伸びる長い舌はいつもより短く、口の中に頑張って収めているようだ。
「……まあ、いざとなったらルーラで町の外まで出ればいいか」
そう言いながらリュカもミニモンの頭を撫でると、ミニモンは嬉しそうに目を細めて笑った。口から覗く鋭い牙に一抹の不安を抱えながらも、リュカは皆と共にルラフェンの町へと足を向けた。
「おっもしろーい! ねえねえ、あれ道なの? カベ? 迷路みたいになってるよ」
町に入るなりティミーが見たこともない奇怪な造りをしている町の構造に興奮した声を上げた。そしてリュカはルラフェンの町の一風変わった造りこそ景色として覚えてはいたものの、町の道に関してはまるで覚えていないことに自身で驚いた。思い返せばこの町を訪れた十年以上前、リュカは旅の疲れからか体調を崩しており、マーリンの手を借りて町を歩いていたような状況だった。あまり町の景色に目を向ける余裕はなく、たとえ町の風車やこの立体的な造りの町の景色に感動こそすれ、町の中を縦に横に上に下にと移動したこまごまとした道など覚えているはずもなかった。
ティミーの言う通り、遠目から見れば壁のように見える場所も、近づいて見てみればそこが道だったり、また逆の場合もあった。まるで騙し絵のような町の景色に、多くの旅人は確実に迷子になるのだろう。
「マーリンは覚えてないの、道」
「こんな複雑な道を一度行っただけで覚えられるような頭は持っとらんわい」
「てっきり持ってると思ってたんだけどな」
「町の道なんぞ、そこらにいる町の人間に聞いたら問題ないじゃろ。別段、人っ子一人いない洞窟の中を進んでいるわけでもあるまいに」
そう言いながらマーリンは道の反対側を歩く町の人に「ちょっとすまんがのう」と自ら進んで話しかけに行ってしまう。その度にリュカははらはらしているが、全身を緑色のローブに身を包む老人を旅の魔法使いと思う町の人は愛想よくマーリンに道を教えてくれる。そんなマーリンの後姿を見ながら、実は今マーリンの顔は普通の人間の老人と変わらないものに変化しているのではと正面から覗き込みたくなってしまう。
「この町……魔法のにおいがするね」
ポピーが歩きながら深く息を吸い込むと、そう口にした。リュカには魔法の匂いと言うものが今一つ分からず、この町独特の雰囲気があることにもポピーの言葉を聞くまでは判然としていなかった。しかし彼女の言葉をきっかけに、この町を包む魔法の力をはっきりと感じた。
「ポピーにはどんな匂いに感じる?」
リュカがそう聞いてみると、ポピーはもう一度ゆっくりと息を吸い込み、小さく唸る。
「何となくだけど……一つじゃない感じ。色んなにおいなんだけど、やっぱり魔法のにおいなんだと思う」
「色んな匂いか。うん。そう言われてみればそんな感じがするかもね」
自分よりも余程はっきりと魔法の力を感じる娘は、確実に偉大な魔法使いの素質を持っている。そう言えば幼い頃のビアンカが目指していたものの一つに、偉大な魔法使いというものがあったかもと、リュカは妻の幼い頃にそっくりな娘を見ながら思わず微笑んだ。
「あそこにこの町の教会がありますよ。やはり教会は最も町の目立つ場所にありますねぇ。高い場所から見下ろせば、町全体の造りが分かりそうですよね」
「それならオレにまかせろー。空から見てやるよー」
「わ、ダメだよ、ミニモン! こんなところで飛んだら、町の人がびっくりしちゃうから!」
サンチョの言葉に反応したミニモンが今にも荷物の中から飛び出そうとするのを、ティミーが慌てて止める。サンチョが背中に背負う荷物にしがみついているティミーを見た町の人が、子供の無邪気を見てただ微笑んで通り過ぎる。大人がすれば奇異な目で見られる行動も、子供がする分には特別な問題など起こらない。それだけ子供というのは突拍子もない行動をするものだという認識が、子供を知る大人には備わっている。
教会にたどり着くにも入り組んだ道を進むことになったが、立体的な造りの町の常に最も高い場所に位置する建物を見失うこともなく、リュカたちは無事に教会の前に到着した。教会と言うのは町や村など人の住む場所の中心に位置することが殆どだ。そしてそこには常に人が出入りしている。今も教会の中から屈強な体つきをした男性が一人、姿を現した。ちょうど教会の前に来たリュカたちを一瞥した男性は、旅の仲間の様で家族のようなその一行に興味を示し、リュカたちに近づいてきた。
「よお。旅人さんか? 今どき大変だろ、そんな小さな子供を連れて旅をするなんざ」
男性の言う通り、もし人間だけで長い旅をするのであれば、それは非常に過酷なものとなるのだろうとリュカは思う。しかしリュカが世界を旅する際に旅の仲間として連れているのは、他でもない魔物の仲間たちだ。戦いにおいても、心の支えとしてもこれ以上頼りになる者がいるだろうかと思える魔物の仲間たちと共にあることが、いかに普通ではないことかをリュカはこういう時に実感する。
「この町のベネットさんというおじいさんの家に行きたいんですけど、道を忘れてしまって……」
「ああ、まあこの町は道が複雑だからなぁ。無理もねぇ」
そう言いながら男性は教会より南東の方角へと目を向ける。リュカたちがいる教会前の道はある程度の町の景色を見渡せるほどの高さはあるが、まだ町全体の道を見渡せるほどの高さではない。男性が目を向けているのは町の景色と言うよりは、南東に広がる青く澄んだ空だ。
「ケムリが出てねぇな」
「ケムリ?」
「火事でもあったんですか?」
ティミーとサンチョが疑問の声を上げると、男性が二人に応じるように言葉を続ける。
「ベネットじいさんの家からケムリが出てないってことは、まだ寝込んでるんだな。いいトシして朝から晩まで研究研究ってムリをし過ぎたんだよ」
男性の呆れたような物言いに、リュカは図らずも安堵の溜息をついた。以前、リュカが古代呪文ルーラの呪文を習得した際にも呪文研究を生業としているベネットはかなりの高齢だったと記憶している。あれから十年以上の月日が経っていることを考えれば、もしかしたらベネットが寿命を迎えているかもしれないことがリュカの頭の片隅にあったのも事実だ。しかしありとあらゆる古代呪文を復活させるまでは決して寿命など訪れないのではないかと思わせる活力と言うのもベネットからは感じていた。それこそマーリンのようにその身を魔物に変えて寿命を延ばしかねない執念のようなものがベネットにはあるのではないかとリュカは思っている。
「ベネットさんは今も呪文研究をしているんですね」
「あの爺さんの生き甲斐だからなぁ。呪文を研究している内はきっと死にゃしないよ」
目の前の男性もまた同じような認識なのだと、リュカは面白いものを発見したように小さく笑った。
「ベネットじいさんの家までの道を案内するのは難しいんだよなぁ。自分で行くのは行けるんだけどよ、人に説明するのがなかなかなぁ」
幾通りかの行き方があるらしいが、そのどれもが何度も何度も道を曲がらなくてはならないらしく、その上曲がる道の目印となるものが普通の民家であり、旅人に一口に説明するのは難しいという。行く先々で町の人に尋ねれば教えてくれるだろうと、リュカはとりあえず教会の裏手の道に回った方が良いということを男性から聞き、男性は仕事に戻らねばとリュカたちとは反対方向の道を小走りに行ってしまった。
リュカたちは教会での祈りを済ませた後、教会の建物の上に町の人々の憩いの場があると聞き、皆でそこへ向かった。ルラフェンの町の中で最も高い位置に建つ教会のその上から見渡せる景色は、町全体を一望できるものだった。リュカもマーリンもこの景色を見たことがあるはずだったが、そこにどうしようもない違和感を一つ感じるのは、恐らくベネットの家から上がる煙が見えないせいなのだろうと互いに南東に広がる澄んだ青空を眺める。あの場所に青空を邪魔するような奇妙な色の煙が上がっているのが、この町のあるべき景色のはずだった。
町の景色を一望できるこの場所は確かに町の人々の憩いの場所だった。腰かけられるベンチが何脚か置かれ、テーブルと椅子の備えもあり、そこで向かい合わせに座り話をしている人々もいる。また町を自衛する数人の男性の姿も見られた。この場所は町を守るための見張り台の役割も果たし、男たちは各々異なる方角に鋭い目を向けている。以前ルラフェンの町を訪れた時には今ほどの物々しさを感じなかったリュカだが、それほどこの十年ほどで魔物の数が増えたということなのだろう。
リュカが遠くの景色をぼんやりと見つめていると、耳に飛び込んできた「光の教団」と言う言葉に思わずその声の方向を振り向く。声の主は女性で、テーブルの上に身を乗り出すようにして熱心に目の前に座る青年に身振りも大きく話しかけている。話を聞いている青年は旅の途中でこの町に立ち寄ったのか、その姿は旅の商人を思わせる身軽でありながらも確かに身を守る旅装姿だ。旅の荷物を椅子の足元に置き、荷物と一緒に置かれている小振りの剣はそれなりに使い込んだもののように見えた。
「私にはどうも光の教団というのが信じられないんですよ」
女性の話に耳を傾けながらも、青年は端から女性の話を熱心に聞くような素振りなど見せず、話半分に聞いているような様子に見えた。しかし相手の青年の反応などお構いなしに、間もなく中年に差しかかろうとするその女性は、己の信じるものを信じるままに、表情明るく話し込んでいる。
「でも私は光の教団に入って、人生が変わったのよ! 話に聞いた通りの場所なの。今は世界中で魔物も多くなって、とても物騒な世の中になってきたでしょ? でも光の教団に入ればそんな不安から解き放たれるのよ。教団に入る者全てをお救いになってくださる。身の危険を感じることもない。飢えに苦しむこともない。あなたは旅の商人さんなのよね? 物が売れないとお金に困ることになって、食べ物に困ることにもなるかも知れない。だけど! 光の教団に入ればそんな不安なんて抱えなくて済むのよ! 全て、救ってくださるんだから!」
その熱心さが返って相手の疑念を膨らませていることに、女性はまるで気づいていない。それほどに彼女は光の教団を信じ切っているのだ。自分がこれほどまでに熱心に信じているものを他人が疑うはずがないと、彼女は周りの世界を見ることを忘れてしまっている。
旅の商人と見られる青年は困ったような笑みを浮かべつつ、女性の話から逃げる隙を窺っているのがリュカには分かった。テーブルに置かれたカップには既に飲み物はなく、椅子の下に置いてある荷物を静かに足で引き出そうとしている。その様子を見ながら、リュカは自然と青年に助けの手を差し伸べるべく話に割って入った。
「光の教団の話、僕に聞かせてもらえますか」
リュカの声を聞くと、商人の青年がその声を振り返り、リュカの両脇にいる二人の子供に目を留める。二人の子供の姿に明らかに表情を曇らせ、青年は席を立つと素早く荷物を肩に背負い、リュカの腕を取って光の教団を勧める女性に背を向ける。
「僕は勧めませんよ」
そう小声で話す青年に、リュカも小声で「分かってます」と応じる。しかしその一言だけでは青年に真意が伝わらず、尚も青年はリュカに忠告とばかりに言葉を付け加える。
「これはウワサですが……。昔沢山の人が教団の神殿を建てるためにドレイにされたとか」
まさか自分の知る真実が青年の口から語られるとは思っていなかったリュカは、思わず商人の彼の顔をまじまじと見つめ、返す言葉を失った。まだ年若い青年に見えたが、日に焼け、肌のかさつきの中に小皺が寄っているのを見ると、相応の年を重ねている男性なのかもしれなかった。商人として旅をしている中では様々な噂を耳にすることもあるのだろう。商人と言う職業上、行く先々で得られる人々の話を糧に商いを広げるのは当然の行動だ。そして旅をする中で自衛をするためにも、得る情報を基に身を守ることもある。目の前の商人はそうして今まで、己の身を守り続けてきたに違いなかった。危ういものから逃れる術を自然と身に着けているのだ。
「旅の中で様々な話を聞きますが、光の教団を勧める人々の話というのはどうも根拠に薄いんですよ。それに人の幸せって人それぞれでしょう? 僕の幸せを勝手に決めつけないで欲しいんですよね」
商人の言葉から、彼が好きで旅の商人としての人生を歩んでいるのだと感じられた。世界に蔓延る魔物の数が増え、以前よりも確実に危険は増している。しかしその中でも彼は旅をして、様々な人々と触れ合って、商いをしていることに人生の意味を見い出しているのだ。誰もかれもが与えられる幸せに浸かりたいわけではない。
「あんた、いい所に来たわねぇ」
快活そうな女性の声がリュカに向かう。商人の青年はもう一度リュカに「お兄さんが気をつけてあげないとダメですよ」と言い、二人の子供たちを心配そうに見つめてから、この機を逃すまいと人の好い笑みを浮かべて会釈しながら立ち去って行った。どうやら商人にはリュカと双子の子供たちのことを年の離れた兄弟と感じたらしい。
「ぜひ光の教団の話を聞いて行ってちょうだいよ」
女性に向かいの席を勧められたリュカだが、他に用事があるから手短にと頼み、席には座らないまま子供たちとサンチョとマーリンと席の周りに立ちながら女性の話を聞き始めた。
先ほどの商人の言う通り、光の教団の素晴らしさを滔々と語る女性だが、その話の内容は凡そ同じことの繰り返しで、魔物の脅威から逃れられる、貧しさに悩むことがなくなる、未来の希望に満ちている、この世を去っても尚幸せに包まれるなど、まるでこの世界とは別の場所の話をしているのではないかと思うほど夢幻に満ちたものだった。幸い、リュカたちには女性の話を疑う心の余裕があり、正面から向き合うことはない。しかしこれを余裕のない者が耳にすれば、縋りたくなるような話なのだろう。明日をも知れぬ身となれば、女性の語る夢幻の世界に身を投じてしまうこともあるのかも知れない。むしろその可能性は高い。
「でもそれじゃあ、みーんなが光の教団に入れば世界中から悪い魔物はいなくなるの?」
「世界中の人たちが光の教団に入れば、貧しくなくなるのはどうしてなのかしら。その教団はどうやってみんなの暮らしを豊かにしているの?」
世界の理に対してかえって先入観のない子供たちの考えが、教団を信じ切っている女性の勢いを止める。何物にも染まりやすいのが子供という生き物であると同時に、何にでも疑問を持つのもまた子供と言う存在だ。まだ小さな子供に対して強く出られない女性の性質からか、はたまた教団側から子供への勧誘はより丁寧にという指令でも出されているのか、女性は子供たちを安心させるように笑顔を作って見せ、しかし子供にはこれくらいで十分だと言うように短い言葉で片づけようとする。
「それはみーんな、教祖イブール様のお力のお陰なのよ。偉大なイブール様がいらっしゃる限り、光の教団に入信した者には幸せが与えられるの」
女性の語る言葉に嘘偽りが感じられないのは、この女性が本心から幸せだと感じているからだ。同じ地にあって、奴隷として十余年の人生を費やしたリュカにとっては理解できないことだが、あの場所には確かに人々を幸せを感じさせる何かがあるのだろう。そうでなければ今も世界で光の教団への入信を勧める人々が存在するはずがない。
そうして女性は徐に荷の中から一冊の薄い冊子を取り出し、テーブルの上に乗せた。数ページしかないような、この場ですぐにでも読み切れてしまうような冊子だが、それを女性は殊更丁寧に扱い、リュカの方へと押し出す。
「これ、とても貴重なものなんだけど、きっとあなたのためになると思うからぜひ読んでほしいの」
光の教団入信のススメと書かれた黒インクは滲み、とても美しい文字とは言えないものだ。まだ文字を覚えたばかりの子供が書いたような、拙い筆跡の題名の文字に、リュカのみならずティミーもポピーもきょとんとした表情でテーブルに置かれた冊子を見つめている。
「今なら光の教団の教祖イブール様の本を売ってあげるわよ。値段はたったの三千ゴールド! ね? 買うでしょ?」
「……この本が三千ゴールド、ですか」
「紙も大したものじゃなさそうじゃ。内容も……まあ、たかが知れとるのう」
マーリンが小馬鹿にしたように小声でそう言う横から、サンチョがその薄い冊子を手に取ろうとすると、女性が途端に怒りを滲ませてサンチョの手を払った。そして「中を見るのはお金を払ってからだよ!」と人が変わったような鋭い視線を投げて寄越してくる。貧しさから解放されるのだと熱弁しておきながら、女性は実のところ貧富の差と言う感覚から抜け出せていないのではないかとリュカは女性の態度にそう感じる。光の教団は素晴らしい所だと刷り込まれても、彼女の中に残る貧しさに対する嫌悪感は抜けていない。
「たとえば、この本を僕が買って、教団に入るとすると、僕はどこへ……」
「この本を買うのね? じゃあ三千ゴールドを……」
「いや、買いません。買いませんけど……」
「あら、買わないの? あなたのためを思って言ってるのに」
心底肩を落としたような彼女の表情に、リュカは女性の心は完全に光の教団に掌握されてしまっているのだと悟った。そして彼女が最高の物だと思い込んでいるこの本を売り込もうと必死な態度が全く隠されていない。光の教団が資金を求めているという何よりの証拠だろう。
「そんな本、読むわけないだろ」
冷たいリュカの声が女性に向けられた。彼らしからぬ言葉に口調に声の低さに、二人の子供もサンチョもマーリンも、目を丸くしてリュカを見る。そしてリュカ自身、唖然とした様子で女性の前に突っ立っている。
「ただでくれたって読まないね」
正面から侮辱するような言葉を吐きかけるリュカに、女性は顔を真っ赤にして怒りの表情を向ける。
「た、ただでなんか渡せるもんかい! この本はとっても貴重な本なんだからね!」
「三千ゴールドなんかあったら、ウマいもんがたらふく食えるだろ」
「そこらの食べ物なんかと一緒にしないで欲しいね! イブール様の教えの方がよっぽど人生のためになるんだから!」
「イヤだね。オレなら同じカネでたらふくウマいもんを食うね」
リュカらしからぬ怪しげな口調と内容になりつつあることに、ティミーとポピーが同時にサンチョの荷に隠れて蝙蝠のような翼をばたつかせるミニモンを見る。荷を抑える紐から今まさに抜け出そうとしているミニモンを、二人が宥めすかしつつ紐から抜け出さないように身体を抑える。リュカの声真似をして勝手なことを言うミニモンは、二人に身体を抑えられながらも口だけは止まらない。
「本当に大事なオシエってんなら、カネなんか取るなよなー」
「何言ってんだい! 大事な教えだから高いお金を払わなきゃ手に入れられないものなんだよ!」
「それにしても法外な値段だと思います」
「これでもあんたたち庶民にも届くような安さなのよ。本当なら一万ゴールドは下らない……」
「一万ゴールドする薄っぺらい本なんてくだらないもんに決まってるねー」
「僕もそう思う。ふっかけるにも程があるよ」
「……? 一人で何を訳の分からないことを言ってるんだい」
リュカ一人の声で会話を始める状況に、女性は頭がこんがらがったように眉をしかめる。その時、彼女が手にしているイブールの本から唐突に小さな火が上がった。一見、本から自然と火が上がったようにも見えたが、その火がミニモンの弾いた指先から飛び出して行ったのをポピーは目にして小さな声を上げていた。女性が慌てふためいて本についた火を手で叩いて消したが、分厚い本であれば耐えられた小さな火の力は、薄っぺらい冊子の中心に見事な穴を開けるには十分なものだった。絶望的な表情を見せる女性を見ると、さすがにリュカも哀れに思うが、そうかと言って彼女の行動を見過ごすこともできない。決して悪気などないのだろうが、彼女の布教活動が実を結べばそれだけ犠牲になる人が増えるということだ。
「その本はきっと呪いでもかけられていたのかも知れません。一度教会で神父様やシスターに相談してみた方が良いんじゃないでしょうか」
「のっ、呪いですって!?」
「本から火が出るなんておかしいですよ。もし呪われているものだったら、教会で清めてくれるはずです」
リュカも当然、ミニモンがメラの火を飛ばしてわざと本に火を点けたことに気付いていたが、目の前の女性を救えるのならと彼女に教会へ行くことを勧める。呪いなどと言われた女性はそのおどろおどろしい言葉の響きに恐れをなし、リュカの勧めに従って早々と教会へと立ち去ってしまった。元来、正直で素直で、反面騙されやすい性質なのだろう。そして彼女の中に呪いという悍ましい言葉を跳ねのけるほどの信仰心がなかったことが幸いしたのだと、リュカは今もサンチョの荷に収まっているミニモンの頭を撫でた。
「ミニモンたら、お父さんの声でおかしなことを言い出すんだもの」
「ボク、笑いをこらえるのに必死だったよ。ミニモン、おっかしな顔で言ってたし」
「じゃが言いたいことはおおよそ同じことだったんじゃなかろうかの、リュカもミニモンも」
「あの女性が本当の幸せに気づけたらいいですね」
「オレは今、人間の町に入れてシアワセだぞー」
「……ミニモン、もう僕の声で話すのは止めていいよ」
教会へと立ち去った女性が向かった道とは反対側に見える道へと、リュカたちは再びベネットの家を目指して街歩きを始めた。



ルラフェンの町の道を、階段を上ったり下ったり、坂道を上ったり下ったり、曲がりくねった道を進んで元来た場所に戻ったり、曲がる角を間違えて袋小路に入り込んだりしつつも、リュカたちは道行く人にベネットの家までの道を幾度も尋ね、ようやく見覚えのある場所に出た。
一見、行き止まりとも思える場所だ。古い木箱がそこここに積み上げられ、箱の口からは古びた瓶が覗き、ぼろきれのようになった袋がだらりと垂れさがっている。積まれた箱が置かれる地面からは無造作に雑草が伸び、決して華やかとは言えない不気味な花が咲いていたりする。一日を通して日当たりの悪いこの場所にはジメジメとした空気が溜まっているようだが、決して日当たりの問題だけではないと思えるのは、地面に横たわる瓶の口から流れ出たと思われる液体のせいだ。既にほとんど乾いてしまって、地面にその痕を残すだけだが、それが薬であっても毒であっても、いずれにしても誰も近づきたくはないと思える危険を感じる光景だ。
「お父さん、本当にこの奥に人が住んでるの? 本当に住んでるのは人なの?」
「たとえ住んでるのが魔物でも、わたし、その魔物さんと仲良くなれるかしら……」
「ふぉっふぉっふぉっ、魔物と思うのも無理はないのう。この町の人間が口を揃えて変わり者と言うジジイじゃからの」
「ちょっと変わってるかも知れないけど、悪い人じゃないよ。ただ研究熱心なだけなんだと思う」
「まあ、得てして研究熱心な人というのは変わり者になりがちですよね。常識を備えるのと研究に一心に打ち込むのを同時に行うのはなかなか難しいのかも知れません」
「古代呪文を研究してんだろー? きっとマーリンみたいなじーさんだろうなー」
突き当りにも見える積み上げられた木箱の隙間を通り抜けるようにして進めば、奥には一軒の古びた家が果たして建っていた。二階建てのそれなりに大きな家だが、その屋根には大きな修繕の痕が見られる。決して丁寧な修繕とは言えないが、爆発で大穴が空いたままの屋根ではさすがに日々の暮らしに困るだろうと、先ほど出会ったベネットを心配していた男性辺りが手を貸して屋根を修繕したのかも知れない。その他にも家の壁にも不穏な亀裂が走っていたりと、この家に尋ね入ろうとする者は思わずこの家を見上げて足を止め、躊躇してしまう。
「ドアを開けた途端、家全体が崩れたりしませんよね?」
「そもそもドアが開くかのう」
「とりあえずやってみるね」
明らかに立て付けの悪くなった斜めに見えるドアに手をかけ、リュカは力を加減しながら引いてみた。引っかかりはないものの、ドアは半分空いたところで止まり、それ以上は開かなかった。大きな声でベネットを呼ぶが、返事はない。体調を崩して返事ができないのか、ただ聞こえていないだけなのか、それとも、と考えたところでリュカはドアの隙間から身体を滑り込ませるようにして中に入り込んだ。続いてティミーとポピーも家の中へと足を踏み入れる。サンチョは背負っている荷を外して手に持つと、なるべく身を細らせるように縦に伸びながらドアの隙間に身体を押し入れる。そのサンチョを後ろからマーリンが押してようやく皆が家の中に入った。
「こ、これ、何? ツボ?」
「キングスやベホズンが銀色になったみたい……」
家の中にはだだっ広い空間が広がっているのだが、その凡そを占有しているのが巨大な壺だ。魔物の仲間たちの色違いのような感想を口にしたポピーだが、巨大な壺の中から感じられる強い魔力と、上方から壺の表面を滑り落ちるように流れて来る妙な気体に思わず後退る。
「お、お父さん、このツボって危ないものじゃないよね!?」
「古代呪文を研究してたら、古代の魔物が復活しちゃったなんてこと、ないわよね!?」
子供たちの言うことにサンチョもマーリンも首を傾げていたが、リュカには二人の不安と恐怖の理由にすぐに思い至った。サラボナの町で大昔に封じ込められた巨大怪物が壺の中から復活した場面に二人は遭遇しているのだ。あの時は天空城で世界を巡っている最中で、いつでも外の世界で戦える準備があった。しかし今は、ただルラフェンの町に観光に来ているようなもので、当然のように魔物と戦うような装備を調えていない。サンチョの背負う荷の中にとりあえずの準備はあるが、いずれも護身用の小さなナイフや棒の準備があるだけだ。
「うーん、多分そんなことはないと思うけど、とりあえずベネットさんに会って話をしないとね」
ベネットの研究への熱の入れようを考えればリュカにはその事態をはっきりと否定することもできないが、この巨大な壺の前で思案にくれるよりは当の本人に状況を確認すればよいのだと、リュカは部屋の奥へと進んでいく。ティミーもポピーも「悪いことが起きませんように」と半ば願掛けをするように手を合わせながら父の後をついていく。マーリンは壺の脇を通り過ぎる際に、腕組みをしながら難しい表情で「感じたことのない魔法の気配じゃな」と零し、サンチョは顔をしかめながら「窓を開けた方が良いんじゃないでしょうか」と部屋にこもる臭いがたまらないと零す。サンチョが手にしている荷の紐に顎を乗せながら、ミニモンがどこか目を輝かせながら大きな壺を見上げている。
足の踏み場もないというのはこう言うことかと、リュカたちは床に散らばる呪文研究に使用したであろう本や植物や恐らく生き物の一部などを慎重に避けつつ、薄暗い部屋の中を歩いて行く。うっかりすると滑りに足を取られて滑りそうになる階段も一段ずつ踏みしめて上る。部屋の上部に行くにつれ濃くなる臭いに、たまらずサンチョが階段を上ったところの窓を開けた。町の大きな風車をゆっくりと回す爽やかな風が入り込み、サンチョは詰めていた息を吐き出し、外の空気を目いっぱい吸い込んだ。
階段の上の部屋にもまた数多の本が散らばったり積み上げられたりしており、それらを避けながら奥へと進めば、ようやく人間が住んでいると感じられる箪笥や棚、小さなテーブルと椅子が置かれている場所に出た。テーブルの上には水差しとグラスが置かれていたが、それがいつから置かれているものなのか分からない。とりあえず水が腐っていることはなさそうだとリュカが飲みかけと思われるグラスの水を目で確認すると、その時奥から人の咳き込む音が聞こえた。
「ベネットさん、大丈夫ですか?」
部屋の中に積み上げられている木箱の中にはどうやら食料となる堅パンが貯蔵されているようだった。その木箱の奥にベネットが横たわるベッドが置かれていた。薄暗い部屋の中ではその顔つきに生気を見ることができないが、明るい場所で老人の顔を見たとしてもその表情には明らかに死に近づいているような雰囲気を感じ取れるだろう。しかしそこで素直にあの世へ旅立ちはしないのがベネットという老人だとリュカは理由もなく信じている。
「……ん? おお! リュカか! お前さんはきっとまた来ると思って待っておったのじゃよ」
そう言うと再びベネットは激しく咳き込んだ。しばらくベッドに寝た切りになっていたと思われるベネットは上体を起こすこともままならず、リュカは彼の傍に寄り添い、骨と皮ばかりの背を支えて上体を起こさせた。テーブルの上に置かれていた水の残るグラスをマーリンが渡すと、リュカは一瞬躊躇いつつもベネットに水を飲むよう促した。乾き切っていた喉を水が潤し、ベネットは一度疲れたような息を吐いたが、その視線をリュカに向けるといかにも嬉しそうに微笑んだ。
「もう十年ぐらい会っていないのに、よく僕のことを覚えてましたね」
「忘れるものか。お前さんはわしの研究の助手を立派に果たしてくれたんじゃからの」
「ベネットさんのお陰でこの町にも一瞬で来られるようになって、本当に助かってます」
「それにしてはここに来るのが遅かったのう。もうかれこれ……一年は過ぎとるんじゃなかろうか」
人生のほとんどを古代呪文の研究に注いでいるベネットにとって、時の流れと言うのはどのようなものなのだろうかと、リュカは彼が一年と感じている十年を思わず振り返ろうとする。しかしリュカ自身、八年もの間石の呪いにかかり身動きできなかった時間を過ごしたため、到底同じ土台に立って比べられるようなものではないと一人静かに理解する。
「じゃが! ちょうど良い時だったのかも知れん!」
途端に大きな声を出すベネットに、リュカのみならず他の皆も肩をびくつかせる。つい先ほどまでベッドの上で死にそうな咳をしていた老人とは思えぬ腹からの声に、皆が一様に目を丸くしてベネットを見つめる。
「ついにもう一つの古代呪文が復活したのじゃ。ちと厄介な呪文じゃが、お前さんなら使いこなせるかも知れん」
そう言ってベネットはリュカに支えてもらっている手から背中を離し、緩慢とした動作ながらも一人でベッドの端に両足を出し、床に立つ。床には割れた瓶の欠片が転がっている所もあるが、ベネットはそれを器用に避けながら裸足のままベッドとは反対側に置かれている棚まで歩いて行き、無造作に陳列されたいくつかの瓶の中から一つを手に取ると、今度はテーブルに向かう。
テーブルの上に置かれた瓶は透明で、中に入っている液体は不思議な色をしていた。リュカが見ればその色は赤で、ティミーからみればそれは橙、ポピーからは黄、マーリンからは緑、サンチョからは青、サンチョの荷から瓶を見上げるミニモンからは藍、そしてベネット自身には紫に見える瓶の内容物は、その一瞬後にはまた違う色を見る者に見せる。液体と思えるような揺れを瓶の中で見せているが、その揺らぎは気体のようにも見える。しかし瓶の口には栓をしているわけではなく、やはりそれは液体の一種なのだろうと皆が注意深く七色のそれを見つめる。
ベネットがテーブルの席に着き、リュカたちがそれを取り囲むように並び見守る。ベネットが瓶を揺らすと、分厚いガラスでできた底の丸い瓶はその中で気体とも液体とも思える何かが揺れる。瓶の口から何かが臭うわけでもなく、部屋の中にはまだ窓から抜けきらないすえたような臭いが残っているだけだ。
「よく聞くのじゃぞ。その呪文とは……」
ベネットが瓶を揺らす。リュカにはその色が翡翠色に近いような爽やかで明るい色に見える。その色を見ているだけで気持ちが安らぎ、その安らぎの中に嬉しさが滲む。
「パ」
翡翠色から徐々に色を変え、今度は気分が反転するように落ち込み、哀しい群青に変わる。
「ル」
群青を消し去るような真紅に染まる瓶の中身に、リュカの表情が険しくなり、訳も分からず怒りの感情が湧き出て来る。
「プ」
瓶の中身と言うよりも、リュカの視界全てが一瞬、真っ白に染まった。まるでガンドフに眩しい光を浴びせられたようで、全ての感情が一端消え去った。何も分からない状態だ。
「ン」
白い景色が淡く色づき出し、桃花色を目にすれば、何もなくなっていた心の中に楽しい気持ちが沸きあがる。これから何か心躍ることが起こるのではないかと言う期待が膨れる。
「テ」
ベネットはそこまで言うと唐突にテーブルの上の瓶を掴んだかと思うと、その中に溜まっていた虹色の液体を勢いよく皆の頭上にぶちまけた。噴き出た液体はまるで意思を持ったかのように空中を浮遊し、リュカに双子にサンチョにマーリンにミニモンにと、等しく降り注いだ。温かくも冷たくもない。果たして液体だったのかも怪しい。何かふわりと柔らかいものに包まれた感触だけがあり、そしてその中でリュカとミニモンだけが目に見えぬ柔らかいものが身体の深部にまで入り込んできたのを感じた。思わず二人で震えるような悲鳴を上げる。
「じゃ!」
そう言ってベネットは中身が空になった瓶をドンとテーブルの上に勢いよく置いた。中で揺れていた内容物はすっかりなくなっていた。ティミーとポピーは目を見合わせて一体何が起こったのか分からない様子で首を傾げる。サンチョは身体にまとわりついたような気がした何かに触れようと手で自身の身体を触り、マーリンは置かれた瓶をつかみ取って中身をまじまじと覗き込んでいる。一方でリュカとミニモンは未だぐるぐると回る視界に酔い、リュカは立っていられずに床に座り込み、ミニモンもサンチョの荷の紐に身体を預けるようにぐったりしている。
「パルプンテ……聞いたことがあるような気もするが、どんな呪文だったかのう」
マーリンの独り言を耳聡く聞いたベネットが、得意そうに長い白髭を手で扱きながら応える。
「戦いの時にこの呪文を唱えれば何かが起こる!」
「何かって……?」
苦し気に言うリュカの言葉はベネットには届かない。ベネットの聴力は都合の良いものらしい。
「ただし何が起こるかは分からんからな。よく考えて使うのじゃぞ」
床に座り込んでいるリュカに向かって、ベネットがにやりと笑みを向ける。何度も強く瞬きを繰り返し、ようやく目の回る世界から抜け出したリュカは床に膝立ちになってテーブルに腕をつく。
「何が起こるか分からないって……何が起こるんですか?」
「お父さん、落ち着いて。おかしなこと聞いてるよ」
「でもそんな何も分からないんじゃ、戦いの時にどうやって使えばいいのか分からないよ」
「おじいさん、その呪文のことが書かれた本ってどこにあるんですか?」
ポピーの言葉にベネットは彼女を束の間まじまじと見つめた後、「よっこらしょ」と言って席を立ち、瓶の置かれていた棚へと向かう。そして一冊の擦り切れた分厚く古い本を手に取るとポピーに取りに来るようにと手招きする。
「お前さんにこの本が読めればいいんじゃがのう」
手渡された本を開いて見てみると、ポピーは思わず眉をひそめた。呪文の勉強にはそれなりに自信のあるポピーだが、本に書かれた古代文字をまるで読むことができない。呪文の勉強の際にいくらか古代文字の勉強もしていたポピーでも、ベネットが持つ古文書を読むことは叶わなかった。
「しかしこの挿絵で少しは分かりそうじゃの」
ポピーの横から本を覗き込んでいたマーリンがページを捲って指差す場所には、人間と巨大な魔人のようなものが描かれている。人間の大きさに比べ途轍もない大きさで描かれる魔人の姿は、まるであのサラボナの巨大怪物を彷彿とさせる。そして挿絵だけを見れば、この魔人が人間の味方なのか敵なのかも分からない。もし戦いの時にこの呪文を使用したらと考えると、ポピーは自分の背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
「お父さん、わたしはあんまりオススメできないわ、この呪文」
「何が起こるか分からないなんて、おっもしろそうだなー!」
ミニモンがミニモンそのものの声ではしゃぎ声を上げると、サンチョの荷の紐から抜け出し、はしゃいだ心そのままに宙を飛び回った。急に部屋の中を飛び回り始めた蝙蝠のような小悪魔の魔物に、ベネットはしばし唖然とその姿を見上げていた。ティミーとポピー、それにサンチョが慌ててミニモンを捕まえて隠そうとするが、ミニモンが人間ではなく魔物であることぐらいはベネットにもすぐに知られた。
「な、なんと、魔物が……」
「あ、おじいさん、ミニモンは悪い魔物じゃないんです!」
「そうなの! ちょっと、ミニモン、おりてきてよ!」
「くうぅっ、わたしにもう少しジャンプ力があれば……!」
三人が宙に向かって手を伸ばすが、ミニモンが浮かぶ宙には到底届かない。そしてミニモンは好奇心そのままに、リュカと同時に身に着けた新しい呪文を発動しようと両手を宙高くに掲げた。脳裏に古文書の魔人の姿を思い浮かべたポピーが悲鳴を上げる。ティミーが床に散らばる本を投げて呪文の発動を止めようとする。サンチョがティミーに「それよりも呪文封じの呪文で……」と助言をする。そんなささやかな騒動を、リュカは他人事のように見ていた。
「ミニモン、戦いの時じゃないとこの呪文は使えないって、さっきベネットさんが言ってたよ」
リュカは至極冷静だった。それは己にも強制的に身に着いてしまったパルプンテという呪文の効果を理解したからこその落ち着きだった。たとえ呪文を唱えたところで、何の危機も感じていない今の状況では呪文が発動しないのは分かっていた。
「ちぇー、唱えればなんか出てくると思ったのになー」
「敵を前にして、危険を感じて初めて発動するのじゃな。面白い呪文じゃのう」
「そうじゃろう、そうじゃろう。そして発動する効果はわしにも分からん! 本に載っとる魔人が何者なのかも分かっとらん。しかしなんとも、ワクワクする呪文じゃろ?」
「すごいなー、じーさん。オレ、今度外で戦う時にぜったいこの呪文使うからなー」
自身の家の中に魔物が翼をはためかせて飛んでいるというのに、己が苦心して復活させた古代呪文に同じように気分を高揚させているミニモンに、ベネットは既に心を開いているようだった。そもそもベネットという呪文研究に打ち込む変わり者の老人が、魔物だからと言ってその存在を排除するような精神は持っていないだろうとリュカは思う。
「……お父さん、ミニモンはしばらく外に出ないでグランバニアにいてもらった方がいいかも知れないわ」
「でもボクもちょっと見てみたいなぁ、その呪文。えっと、何て言う呪文だっけ」
「その名も、パルプンテじゃ! 名前からして訳が分からんじゃろ? しかしそこがまたネーミングセンスに溢れとる。やはり古代呪文にはロマンが詰まっておるのう」
ベネットはそこまで元気に話していたが、一仕事終えた安心感からか途端に再びゴホゴホと咳をし始めた。研究のことについてはいくらでも話せると思えるベネットだが、やはり彼もまた生身の人間であり、恐らく数日まともに食事もしていない状況では体力の消耗が激しいようだ。
「わしも今回ばかりはかなり疲れたわい」
そう言いながらベネットはひょこひょこをベッドまで歩いて行くと、よっこらしょと言いながら腰を下ろした。ベッドの上から落ちる本も気にすることなく、ベネットはそのまま床に就こうとベッドの上に横になる。しかしその状況を見て、リュカたちは一様にベネットがこのまま起きなくなるのではないかと言う不安に駆られる。
「それにしてもこの部屋の有り様はひどいものですよね。少し私たちで掃除しましょうか」
「わしら魔物ならこれでも構わんが、人間にとってはあまりにも不摂生というものじゃろ」
「そうだね。こんな場所で生活してたら、それだけで病気になりそう」
サンチョがベッド近くの窓を開けてから「箒と雑巾はどこでしょう」と言いながら階段を降りて行く。マーリンが床に散らばる本を手に取り、一つ一つを興味深そうに見ながら棚に戻し始め、リュカはベネットが横たわるベッドの端から落ちそうになっている布切れを手にすると、それらをひとまとめにしてサンチョを追うように階段へと向かう。
「リュカよ」
後ろに聞こえたベネットの声に、リュカが振り向く。サンチョが開けた窓から入り込む爽やかな風に、ベネットが気持ちよさそうに目を細めているようだった。ベッドに横たわりながら顔を向けるベネットに、リュカが「どうかしましたか?」と笑みを浮かべて問いかける。
「わしはお前さんたちが何者か分かるつもりじゃ」
そう言ってベネットはリュカからゆっくりと視線を外すと、その目はティミーを見つめる。弱々しい老人の虚ろな目ではなく、ベネットの目つきは射貫くように鋭い。まじまじと見られたティミーはどこか威厳すら感じられるベネットの視線をどうにか逃げずに受け止める。
「伊達に古代の研究をやっとらんからな」
ルラフェンの町では人々から変わり者と称され、好き好んで彼に近づこうとするものはいないと言っても過言ではない。ベネット自身もそれで良しとしている。むしろ下手に人との関りを持てば研究の邪魔になると思っている節もある。
「わしの研究がお前さんたちの役に立つことを祈っとるよ……」
リュカは今になって、彼が何故これほどまでに古代の呪文の研究に打ち込んでいるのかを不思議に思った。何かきっかけがあったはずだ。彼の家に山ほどある古代に関する書物に関しても、一体どのようにして彼が手に入れたのか。もしかしたらこれらは彼が入手したものではなく、彼が生まれる前から既にこの場所にあったのではないだろうかと、リュカはベネットという老人の不思議を知りたいと望むが、当の本人が今それを深く語れる状態ではない。ただ、彼が生きている内にもっと色々な話をした方が良いことは間違いないと、リュカはこの町に来た当初の目的をベネットに話した。
「ベネットさんは呪文を遥か遠くの敵に飛ばす方法を知っていますか」
ベネットと言う老人にとっての生き甲斐は、古代の研究と言う終わりの見えないものだ。たとえ一つ、古代の呪文を復活させても、彼の研究がそこで終わることはない。そしてまた新たな研究対象が見つかれば、彼はいくらでも起き上がれるに違いないと、リュカは期待を込めつつそう問いかける。
「遠くの敵に呪文を、じゃと?」
リュカの予想を上回る反応で、ベネットはベッドの上に身を起こした。その勢いに、ティミーもポピーも驚き言葉も出ない様子だ。
「なんじゃ、それは、どういうことじゃ。わしの知らん呪文をお前さんが知っておると言うことか?」
ベネットの目が再び光を取り戻す。しかしあくまでも人間の身であるため、消耗している体力が戻るわけではない。現に言葉の後に出始めた咳がなかなか止まらない。やれやれと言った様子でマーリンがテーブルの上のグラスに水を入れてベネットに渡すと、ティミーとポピーに背を支えられながらベネットは身体を起こして水を口に含む。
「まずは部屋を片付けて、食事をしてからですね。それからゆっくり話しませんか?」
「おーい、リュカー。外にこんな美味い実があったぞー。食べてみろー」
開けた窓から外に飛び出していたミニモンが、両手それぞれに小さな赤い実を掴んで戻って来た。それはベネットが外で栽培している古代呪文研究に必要としていた実だった。
「なんじゃ、それは美味いものじゃったんか」
「なんだよ、じいさん、食ったことないのかー」
ミニモンはそう言うと、両手に赤い実を掴んだままベネットの座るベッドの上に勢いよく下りた。そして胡坐をかく老人の膝の上にどっかりと座ると、ベネットの手の平に赤い実を乗せる。
「まさかミニデーモンを膝の上に乗せる日が来ようとはな」
そう言ってベネットは笑いながら手にした赤い実を口にした。魔物と知りながら一つも怯える表情など見せないベネットに、ティミーもポピーも安心したようにベネットの背を擦る。
「面白そうな呪文をオレに教えてくれたお礼だぞー」
「リュカよ、サンチョ殿と共に食事の準備じゃ」
「ええ? 僕が? 料理はサンチョに任せた方がいいと思うよ」
「あ、わたしサンチョのお手伝いしたい! お料理ってちゃんとしたことないもの」
「じゃあお父さんは僕と下の部屋の片づけをしようよ。下もかなりごちゃごちゃしてたよね」
ポピーが外に出たサンチョを追い、リュカとティミーが下の階の掃除を始めようと階段を降りて行くと、二階の部屋にはベネットとマーリン、ミニモンが残された。ベネットは二体の魔物と共に和やかにのんびりと話をしている内に、いつの間にか穏やかな眠りについたようだった。

Comment

  1. ピピン より:

    ベネット爺さん…
    原作のほんのサブキャラの人生が垣間見えるような描写が毎度ながら素晴らしいです

    • bibi より:

      ピピン 様

      ゲームの上ではちょろっと出てくる爺さんですが、彼にもまた歴史があるはずなので・・・。次回はもう少し彼を掘り下げて書いてみる予定です。ま、ちょっとだけですけどね。

  2. ケアル より:

    bibi様。

    イブールの本の描写、待っていましたよぉ。
    bibi様ならゲームの台詞を使いながら、光の教壇の勧誘イベントをbibiワールドで書いてくれると思ってました。
    期待どおりでありますよ、ミニモンのメラ!そしてミニモンが言いたいことを言ってくれた。
    どうやってイブールの本の話を終わらせるか楽しみにしてました、呪いで本を燃やす、叔母さん教会に行く。
    楽しい描写でしたありがとうございました。
    ちなみに、ゲームではイブールの本、買値3000ゴールド、なんと売値も3000ゴールド!
    堀井雄二先生も、なかなかおつなことをしてくれますよね。
    プレーヤーの心理をうまくつき、買ってみたいなと思わせ、買ったらただのゴミ道具、無駄遣いだと感じすぐに売りに走れば、救済処置3000ゴールド(笑み)
    設定上、助かる話ですが、実際にゲームの世界で考えると…
    なぜ3000ゴールドで買値と同じで売れるの?(汗)
    やはり、光の教壇の力は、商人たちにも影響を与えているのだろうか?
    買値と同じ値段でも欲しいのだろうか?
    それとも商人としての興味本位なんだろうか?
    なんて…ケアルは思っています(笑み)

    魔法の瓶が7色、パルプンテらしい描写ですね。
    やはり上から振りかける描写にしましたか、だってレインボー色の薬を飲み干すことは、さすがのリュカでも…ね(苦笑)
    そして、ベネット爺さん、ミニデーモンとベビー左端を見間違えてるのは弱ってるからでしょうか?

    なぜ今回、ミニモンを連れて来たのか最後まで読むとなっとくです、イブールの本を燃やすためもあるけど、そっかミニモンもパルプンテ覚えるんでしたね忘れてました(汗)
    bibiワールドでは呪文はレベルアップでなく、イベント習得や戦闘しながらの開花ですよね、なるほどです!
    ポピーとミニモンが、上級呪文を覚える時の描写が今から楽しみです。
    そして、パルプンテ…bibi様がどのように描写するのかわくわくドキドキでありますよ~。
    さて次話にルーラしますね(笑み)

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      イブールの本はこんな感じのお話にしてみました。売値と買値が同じなんですか!? それは知らなかった。そういう細かい設定までされているのが堀井さんのすごい所ですよね。その設定一つを取っても、裏にある黒い背景を思わず感じてしまう・・・いいですね、そういう暗喩な表現、好きです。はっきりと事情を言葉や文字で伝えるんではなくて、状況を見せて「あとは自由に想像してね」と言った感じが大好きです(笑)
      ミニデーモンとベビーサタン問題はただの私の間違いです(汗) と言うことで訂正しておきました。ご指摘ありがとうございましたm(_ _)m 名前がミニモンなのにベビーサタンて・・・私の頭が整理できていない証拠です。とっ散らかってるなぁ・・・。
      パルプンテの呪文には喜怒哀楽の表現を込めてみました。呪文を唱えると、唱えた者の頭の中に様々な感情がぐるぐると巡り、ルーレットのようにあるところで止まると、その時の感情を基に呪文が発動する、みたいな感じで。本当に遊びの呪文です(笑)パルプンテにはそれくらいのハチャメチャさが欲しかったので。
      お話の中だとレベルアップの表現が難しいなぁと、こちらでは呪文習得はそんな感じにしています。ポピーの呪文はあと二つですかね。ミニモンもあと二つか。さて、どうしようかなと、まだ何も考えておりません(汗)

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