消えない思い

 

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「ただいま戻りました」
そう言って玉座の間に姿を現したのは簡素な町人の装いに身を包んでいるポピーだった。彼女の隣にはいつもと変わらぬ姿の緑色の古びたローブに身を包むマーリン。そしてマーリンが手にする袋状の荷物から顔を覗かせているミニモンが、玉座に座るリュカを横目で見つめる。
「お帰り。良かったよ、無事に戻ってきてくれて」
以前のルラフェン訪問からひと月が経ち、リュカはその間グランバニアで国王としての執務に就いていた。しかし慣れない玉座の座り心地に、リュカはオジロンの様には落ち着いて玉座に座ってはいられなかった。玉座の間にいる間リュカはそのほとんどの時間をふらふらと歩き回り、衛兵に話しかけたり、補佐の如く傍にいるオジロンと窓の外の様子を眺めたり、相談事に来た神父と話し込んでいる内に、話の流れでそのまま玉座の間を出ようとして衛兵に止められたりと、そんな様子を見たサンチョに笑われていた。
ポピーがルラフェンの町の訪問から戻って来た今もまた、リュカはすぐさま玉座を立ち上がり、娘の無事の帰還を両腕を広げて喜んでいる。てっきりポピーが飛び込んで来てくれるかと思っていたリュカだが、玉座の間という公的な場所で思う存分親子の触れ合いをするのは違うだろうと、ポピーはにっこりと微笑んだまま一定の距離を保って立っている。肩透かしを食らったようにリュカは所在なく広げた両腕を引っ込めると、こめかみを指で掻きながら玉座に腰を下ろした。
「ベネットさん、元気だった?」
「はい、お元気でした。でもまだ遠くに飛ばす呪文は上手く行かなくて……」
「月に二度ほど会っておるだけじゃからのう。まあ、この呪文に関しては気長にやって行くしかあるまい。第一、あのジジイの研究じゃぞ? これから何年かかるやら誰にも分からん」
「そんなことより、マーサ様とビアンカをさがすんだろー? そっちが先だろー?」
こんな袋の中など窮屈だと言わんばかりに、マーリンの手にする袋から飛び出したミニモンが宙に留まりながら言う。その言葉にリュカは力ない笑みを浮かべる。
相変わらず二人を救出する具体的な物事は何一つ決められておらず、ひと月の間で何も進展がない。このひと月の間リュカが得たものと言えば、グランバニアの国王としての立場をより確かなものに固めたということだ。一国の王として大事なこととは言え、リュカは内心湧き上がる焦りをどうすることもできなかった。
「とりあえずポピーはゆっくり休んでね。明日、予定通り行くからね」
玉座に腰を落ち着けているだけでは、情報を待っているだけではやはり物事は進展しないのだとリュカは国王の務めに身を置きながら常に感じていた。一国の王という立場でいれば、様々な情報が集まり自身の耳にも届くだろうと思っていたが、あらゆる情報は国王の下にたどり着くまでに自然淘汰されるかのように精査され、恐らく肝心の情報が手に入らない。やはり自身で知りたいと思うことについては、自らそれを求めに行かなくてはならないのだと、リュカはこのひと月の間に痛感していた。
「明日からは公式な訪問として行くんですよね?」
「うん。だからティミーとポピーはグランバニアの王子王女として行くことになるよ」
「私、王女としてどう振舞えばいいのか、ちょっと分からなくなってきちゃった……」
「あはは、大丈夫だよ。僕なんかそもそも分かってないんだから」
「あれ? オジロンさんは?」
「今はドリスと修行中。僕も後で少しオジロンさんと手合わせすることになってるよ」
「新年祭が近づいておるからのう。あとふた月と少しもすればまた年が明ける」
マーリンの言葉にリュカの焦りは再び強まる。先の新年祭でリュカは今年中には必ずマーサとビアンカを救い出すと宣言している。しかしあとふた月と少しで年が明けようとしている今でも、二人を救い出す手がかりはつかめていない。
「明日、グランバニアを出るのは昼過ぎだから、それまでゆっくりしておいで」
内心の焦りの感情が悟られればポピーを不安がらせてしまうと、リュカは彼女のルラフェン訪問を労うように笑顔を向けてそう言葉をかけた。ポピーは既に明日からのラインハット訪問に多少の緊張感を滲ませるように、表情硬くリュカが腰を下ろす玉座の前を後にした。彼女の後を付き添いのようにマーリンとミニモンがついて行く。
リュカが玉座の間にいる間は大抵彼の傍にサンチョの姿があるが、今はない。サンチョもまた、明日からのラインハット訪問に備え準備をしているのだろうと、リュカは敢えて彼をこの部屋に呼ぶようなことはしない。今日の今日まで、サンチョからラインハット行きを断るような言葉は聞いていない。彼は確かに心を決めてくれたのだろうと、リュカは自分が生まれた時から一緒にいる父の従者を信じ、再び玉座を立つと窓辺に立ち、西の空を眺める。つい先ほどまで一時的な大雨が降っていたが、今はもう雨も上がり、グランバニアの国を囲む広い森からは白い靄が立ち上っていた。青空と靄の合間に霞んだような虹が見え、リュカはその景色は幸運の印だと心の中で自身に言い聞かせていた。



翌日の昼過ぎ、天候は雨こそ降らないものの青空も太陽も見えない、空には一面の曇天が広がっていた。しかしお陰でいきなり汗だくにならずに済みましたと、サンチョは外交用に調えてあった正装の襟巻を手で直していた。年中を通して暖かなグランバニアとは異なり、北の大陸に位置するラインハットは四季こそあるものの、一年を通して肌寒い気候と言うことは、ラインハットを訪れたことのないサンチョでも知っている知識だ。そして今の時期、ラインハットは秋を迎えている頃のはずだった。同じく正装に身を包んだリュカもティミーもポピーも、防寒も兼ねたほつれのない丁寧な刺繡の施されたマントを羽織っている。
「じゃあ、行くよ」
何の前触れもなくルーラの呪文を唱えようとするリュカに、ポピーとサンチョが同時に声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、お父さん。そんな急にルーラの呪文を唱えるなんて……」
「お待ちください、リュカ王。あの、もう少し心の準備が……」
「ええ~、早く行こうよ、お父さん。ボク、早く向こうに行ってコリンズ君とまた遊びたい」
グランバニアの屋上庭園に出ている四人は今、数人の兵士らと、ぎりぎりまでラインハットに行きたいと食い下がっていたドリスに囲まれている状況だった。
「だからあたしが代わりに行くよって言ってんのに、リュカは聞いてくれないんだもんなぁ」
「そのうち連れて行ってあげるって言ってるだろ。今回はちょっとドリスは連れて行けないんだよ」
「なんでかなぁ。ポピーの代わりに行けば、あたしだってちゃんとグランバニアの姫としていい仕事できると思うけど」
そう言いながら両手の拳を構えてパンチを繰り出しているのだから、リュカはとてもこの王女をラインハットに連れて行くことはできないと思っていた。王女として一体どんな仕事をするつもりなのか、彼女の好奇心に満ちた目を見ていれば不安しか込み上げてこない。リュカが目を離した隙にラインハットの兵士詰め所に行くなどして、勝手に訓練に参加しかねない危うさがある。
「今度ちゃんとドリスのために時間を作ってラインハットに行くようにするからさ」
「今度っていつよ。今度って、今度ラインハットに行く時? その時に絶対あたしも連れて行ってくれる?」
そうやって詰め寄ってくるドリスは、今やリュカよりも年上で、武闘家としての引き締まった身体に短い黒髪、薄く化粧を施した顔は恐らく亡き彼女の母に似ているのか、人目を惹く美しさを纏っている。グランバニアの妙齢の彼女が公式にラインハットを訪れれば、それこそ彼女は放っておかれることなく、むしろ引く手あまたの状況に陥りかねないのだ。そしてその状況を想像できていないドリスを、リュカは今の段階でラインハットへ連れて行くことはできない。
「今度は今度。オジロンさんも予定を合わせて行けるといいね」
「行けるといいね、じゃないわよ。いつ行けるのかって聞いてるんでしょ。年内には連れて行ってくれるわよね?」
「また帰ったらちゃんと話そうね」
「あっ! コラ、リュカ! 逃げるな!」
詰め寄ってくるドリスから素早く距離を取り、リュカは即座にルーラの呪文を唱えた。抗議する間もなく呪文の効果に包まれたポピーもサンチョも、為す術もなく咄嗟にリュカの手を取る。ティミーもぐらついた身体を支えるように慌てて父の腕を掴み、リュカは皆が呪文の影響を確かに受けているのを感じると、そのまま宙へと飛び上がった。ドリスの怒ったような表情を見下ろしていたかと思ったら、ルーラの呪文は四人を即座に目的地へと飛ばしてしまった。
太陽の位置が見る間に変わる。本来、あるはずのない現象が目の前に起こる。傾きかけていた陽が東の位置へと徐々に戻って行く。途中、洋上に出たが、すぐに陸地へと入った。そして間もなく眼下に見えた青を基調とした繊細で美しい造りの城の姿に、四人は各々の思いを胸に抱えた。
ルーラの到着地はラインハットの城下町入口よりも少々離れた場所だった。国同士の書簡のやり取りで細かな合流地点を決めていたのだ。リュカたちが到着した場所には既にラインハットの兵士六人が並び待っていた。
「お待ちしておりました、グランバニア王。城までご案内いたします」
今回は公式の訪問になるということで、ラインハット王デールが迎えの者を出すという手筈になっていた。リュカたちもいつもの旅装と言うわけではなく、正装に身を包んでいるために、城下町をのんびりと歩けるわけでもない。公式訪問に相応しい形をと、デールは城下町を移動するための馬車まで用意していた。リュカたちは外からは姿が見られないような馬車に乗り込み、六人の兵士に護衛される状態でラインハット城を目指す。
「うわ~、何だかカッコイイね。ねぇ、お父さん、今度はグランバニアでもこういう馬車を用意してさ、コリンズ君たちを呼ぼうよ。グランバニアにはパトリシアがいるから、パトリシアだけで何人でも運べるよ!」
「でもお兄ちゃん、グランバニアだと城下町に入る前に上の階に上っちゃうから、特に必要ないんじゃない?」
「ええ~、じゃあ外門から城門までの間だけでもさあ」
「うーん、じゃあ帰ったらパトリシアに相談してみようか」
石畳の道をガタゴトと音を立てながら進む馬車の中でティミーがはしゃいでいる一方、サンチョは馬車の窓からラインハットの城下町を静かに見つめていた。遠くをぼんやり見つめるサンチョの横顔を、リュカは見て見ないふりをする。
大きな堀に囲まれているラインハット城へは立派な跳ね橋を渡って入る。まだ朝と昼の中間のこの時間帯、跳ね橋を渡る人の姿はちらほらと見受けられる。城に向かう城下町の人々が向かう先は凡そ城内に設けられている教会だろう。跳ね橋を渡った先で人々は特別身体検査を受けるでもなく、城門の警備につく兵の前を通り過ぎてそのまま城内へと入って行く。数人の城下町の人々の前で、リュカたちはラインハット兵に囲まれた状況で馬車を降り、確かな護衛を受けながらラインハット城内へと案内されて行った。
「……リュカ王」
二人でいる時には気を抜いてリュカを坊っちゃんと呼ぶサンチョだが、公的な場ではさすがにその呼び名で呼ぶことはない。しかし今、ラインハット兵の案内の下、城内を歩いている最中に小声で呼ばれることにリュカは不思議そうにサンチョの隣に並び歩く。
「どうしたの、サンチョ。体調でも悪い?」
「いえ、そうではないのですが……」
すぐ横をラインハット兵が真面目な表情で背筋を伸ばしてゆっくりと歩いている。腰には剣を佩き、はるばるグランバニアという国から来た来賓を丁重に案内している。リュカたちが歩き進む際にも、廊下をすれ違う城内の人々は静かに道を開けて一行が通り過ぎるまで静かに頭を下げている。
「やはりこの国は少し冷えますね。襟巻をつけてきてよかったです」
「そうだね。サンチョも年だから、風邪には気をつけないとね」
本当は違うことを言いたかったのだろうと、リュカはサンチョの当たり障りのない言葉にそう思った。ティミーは明らかにラインハットに来たことを楽しんでおり、ポピーも口では嫌だと言いながらもやはりヘンリーやマリアと再び会うことができるのは嬉しいのだろう、表情は柔らかい。唯一、案内役を務めるラインハット兵よりも固い表情をしているのがサンチョだった。もしかしたらリュカに「嫌ならまたルーラで送ると言っていたのに」と文句を言いたかったのかも知れないが、半強制的に城内を歩かされている状況で駄々をこねられるほどサンチョも幼くはいられない。むしろ年齢的にも体格的にも最もどっしりと構えていなくてはならないサンチョは、この場で決して泣き言など言わないとリュカは分かっていた。
玉座の間に通じる階段を上って行く。途中で案内役の兵が交代した。玉座の間で近衛兵を務める兵士がリュカたちを玉座の間へと導く。
玉座の間には一同が揃って立ち並んでいた。中央にラインハット王デール、その隣に王兄でありラインハット宰相でもあるヘンリー。彼より一歩下がったところにマリアが立ち、彼女の隣には緊張のためか強張った顔つきのコリンズ。そしてデールの斜め後ろにはデールの母である先太后の姿もあった。
「ようこそおいでくださいました、グランバニア王」
「お招きいただきありがとうございます、ラインハット王」
公的な場でいきなり馴れ馴れしい挨拶をするなよと予めリュカに忠告していたのは、デールの隣に立つヘンリーだ。彼の忠告通り、公的な言葉で公的な笑みを見せ公的な握手をデールと交わしたところで、リュカはちらと隣のヘンリーを窺い見る。玉座の間にリュカたちが姿を現した際にはヘンリーと目が合った気がしたが、今彼が見つめているのは玉座の間の床だ。そこから視線を上げれば、彼が目にするのはかつての父の従者、そんな落ち着かない視線だった。
「今回の我が国への訪問は周辺地域にも及ぶと兄に聞いています」
ラインハット王デールの言葉に、ティミーもポピーも、そしてサンチョも驚いたように目を見開いた。彼らは単純に、今回のラインハット訪問が長いものになるとしか聞かされていない。
「私は同行できませんが、兄が同行し、国から数名の兵もつける予定です」
「いえ、兵をつけていただく必要はありません。移動は僕の呪文を使って、外を歩くわけではないので。安心してください」
「そうですか。グランバニア王に置かれましては大変素晴らしい呪文の使い手と窺っております故、お任せしたいと思います。兄をよろしくお願いいたします」
玉座の間で言葉を交わすのはリュカとデールのみで、他の者たちは皆押し黙るように静かに立っているだけだった。打ち解けた会話をする機会は、この後に予定されている食事会だ。結局この挨拶の場でリュカはヘンリーと言葉を交わすことなく、またうずうずしていたティミーもコリンズと言葉を交わさず仕舞いで終わってしまった。
特別長旅を終えてきたわけでもないリュカたちは、そのまま食事会の場へと移動を促される。しかし場所を移動するのに案内されるのは子供たちが先で、子供たちに付き添うようにマリアと先太后がその後をついていく。そして玉座の間に残されたリュカとサンチョは、同じくこの場に残ったデールとヘンリーと改めて対面する。
「ヘンリー、久しぶり。元気だった?」
「ああ。お前は……前よりも少し太ったんじゃないのか?」
「ここひと月は国にいたから、ちょっと食べすぎちゃったかなぁ」
リュカがそう言って笑うと、ヘンリーもつられて笑みを見せる。しかしまだ彼の表情は固い。
「あなたがグランバニアの宰相殿ですね。お初にお目にかかります」
そう言って丁寧に頭を下げるラインハット王デールに、サンチョも慌てて頭を下げる。
「書簡でのやり取りは既に何度もしていますが、こうしてお目にかかれて光栄です」
「こちらこそ、長い間こちらに伺うこともなく失礼をいたしました」
「いえ、無理もありません。我が国はグランバニアに……貴方に恨まれても仕方のないことをしたのですから」
まだ年若いデールだが、既にラインハット王として十年以上の時を過ごしている。たとえ口にし難い事実でも、それを国を代表する者としてはっきりと言葉にすることができる。
「全て俺のせいなんです」
デールの隣に立ち、言葉を伝えるヘンリーの声は僅かに震えていた。彼自身がかつての父の従者であったサンチョに会いたいと幾度となく書簡にその旨をしたためていたにも関わらず、いざその人物を目の前にすれば口にする言葉は拙い。
サンチョがゆっくりとヘンリーに視線を移せば、彼の強張った表情がその茶色の目に映る。今ではすっかり成長し、一児の父にもなり、ラインハットと言う大国を支える重要人物の一人の位置にいる彼だが、その彼もまた二十年前にはあの頃のリュカと変わらない子供だった。
かつてのラインハットでは第一王子誘拐事件が発生し、その首謀者としてリュカの父パパスが挙げられた。国を魔物に乗っ取られかけていた当時のラインハットに、正義たる正義は存在しなかった。偶々ラインハットを訪れていた余所者パパスを誘拐の犯人とする根拠ない罪を一度決定してしまえば、それに逆らえる者はいなかった。
そのような抗えない背景があったとしても、パパスを自身の命よりも優先していたサンチョにとっては、何故誰一人として異を唱えてくれなかったのかと叫び出したい気持ちに駆られるのだ。あのパパスが幼子を誘拐することなど天地がひっくり返ってもないことなのだと、サンチョならば自分の首を賭けてでもラインハット王に掛け合うというのに、かつてのラインハットには根も葉もない狂気の噂を払拭しようとする人物は一人もいなかった。
あの時に戻れればと何度願ったか知れない。何故あれほどの人格者がこの世から失われなければならないのか、今も理解できない。それ故に考えてしまうのだ。もしあの時、パパスとリュカがラインハットへ行くことを止めていれば、もしラインハット王から届いた手紙をパパスに渡さなければ、もしラインハットを頼って近くのサンタローズの村に生活の拠点を構えなければ、もしグランバニアとラインハットの間に何の関係性もなければと、想像する仮の世界はどこまででも過去に遡って行く。詮無いことだと、その度にサンチョは自ら深みにはまりそうになる想像から抜け出す。
「俺があの時……」
「当時のことを知っても、旦那様は戻りません」
ヘンリーが続けようとする話を、サンチョは容赦なく遮った。まだ幼かったヘンリーがパパスを死に追いやろうとしたなどとは露ほども想像していない。しかし王位継承問題で揺れていたラインハットの第一王子が何者かに連れ去られさえしなければ、今もリュカの傍にはパパスがいたのだと思うとやり切れない。何をどう想像してもやはり、サンチョの心の中にはラインハットという国そのものへの憎しみが在り続けてしまう。
「ヘンリー殿、私は先代のグランバニア王の従者でした。私の人生はあの方と共にあったのです」
サンチョの言葉にヘンリーもデールもしっかりとその目を見ながら、静かに続きを待つ。ラインハットと言う国は見事な復興を遂げ、今は国民の生活も安定しているようだと、サンチョはラインハットの城下町を進む馬車の中からこの国の様子をぼんやりと眺めていた。
「私の人生の半分、いや、ほとんどを奪ったこの国を、私はきっと一生許すことなどありません」
これほどまでにサンチョの怒りを直に感じたことなどなかったリュカは、初めて見るに等しい彼の険しい顔つきにかける言葉を失った。サンチョのことだから、ラインハットへ行ってラインハットの人々に会って、しっかり話をすれば長年の蟠りも解れるだろうとリュカは彼の穏やかな広い心に期待していた。それを彼は初めから否定したのだ。
サンチョの心はあの時から少しも動いていない。それほどにラインハットの凶事は彼の心を抉ってしまったのだ。リュカにもオジロンにも、ヘンリーにもデールにも、サンチョの心の傷を癒すことはできない。
「……本当に申し訳ありません。どれほど頭を下げようとも貴方には意味のないことかも知れませんが、何度でも謝らせてください」
デールが頭を下げ続けている。それに対し、サンチョはラインハット王の癖のある茶色の髪を静かに見つめるだけだった。そんなラインハット王の前に進み出た緑髪の宰相の姿に、サンチョは自ずと視線を移す。
「ラインハットが悪くないとは言いません。確かにあの時のラインハットは狂ってた。だけど……一番の原因は俺なんです」
「ええ、当時のラインハットの第一王子の噂は耳にしていましたよ。わがまま放題で人々を困らせる、とんでもない王位継承者だと」
「お、俺がそんなだったから、ラインハットの事情にパパスさんも、リュカも巻き込んじまって……」
「ただ私は噂だけを耳にしていて、真実を知らないんです。一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
いつもの柔らかなサンチョの口調のはずだが、リュカが口を挟める状況ではなかった。そして今この状況で、リュカが下手にヘンリーを庇いだてするのも間違っていると感じた。今は彼ら二人に任せなければならない時だ。
「貴方の知りたいことならなんでも答えます」
「あの時ヘンリー王子は本当に何者かに誘拐されたんでしょうか」
当時その場に居合わせたリュカは当然のようにその事実を知っている。ヘンリーは確かに何者かに連れ去られ、東の遺跡に閉じ込められ、そのまま奴隷として売り飛ばされようとしていた。しかしその話を素直に信じられない者にとっては、その出来事が真実であったのかどうかの確認から入るのは当然のことだった。たとえ今までにリュカがサンチョに話していたとしても、彼はヘンリー本人の口から当時のことを聞きたいと思っただろう。
「俺、あの時のことはよく覚えていなくて……。でもリュカとあの大きな猫と一緒にいる時に、おかしな奴らが来たことは覚えています。それで、気づいたら真っ暗な知らない場所にいて……」
男に腹を殴られ気を失ったヘンリーよりも、むしろリュカの方がその時の記憶がはっきりと残っている。リュカでさえも語るのに胆力を必要とする恐怖の記憶を、ヘンリーはサンチョのために必死に思い起こして話していた。魔物も潜むあの遺跡の暗い牢に一人閉じ込められていたヘンリーの心境を思えば、彼はあの時絶望に打ちひしがれていたに違いない。
「パパスさんは助けに来てくれたんだ。俺なんかを……。俺なんか助けに来たから、パパスさんは……」
「貴方を助けに行かなければ、旦那様は死なずに済んだと?」
「そう、です。だから俺のことは放っておいてくれれば良かった」
「尽きようとする幼い命を、旦那様が放っておくとお思いですか? 我が主人を侮辱しないでいただきたい」
そう断言するサンチョの怒りの表情を見て、ヘンリーが息を呑んだ。サンチョの怒りはヘンリーという人物に向けられているわけではない。この上なく敬愛していた主人がもしこの目の前の王子を助けに行かなければ凶事に巻き込まれることもなかったと、そんな仮の世界を想像してしまう自身に怒りを向けているのだ。
「私は旦那様の信念を疑ったことはありません。旦那様はいつでも、最後にはご自身で意思を決めておられました」
サンチョの言葉にリュカは妖精の城で、過去のサンタローズに飛び込んだ時のことを思い出す。あの時、父は成長したリュカをリュカと認めていた。時を遡ってやって来たリュカを、自分の息子の成長した姿だと、言葉にこそしなかったがリュカは父の手が自分の頭を優しく叩いたその感触に、父は確実に自分の正体に気付いているのだと思った。しかしリュカが忠告したラインハットへ行くなと言う助言を、父は突っぱねた。誰がなんと言おうと、父は最終的には自分で決めてしまうのだ。間違いを正すことはあるが、信念を曲げることはない。
「だから、貴方を助けに行った旦那様の意思に間違いはありません」
サンチョがそう告げると、途端にヘンリーの表情が歪んだ。
「旦那様が……その道を選んだのです。決して貴方に選ばされたわけではありません」
人生の岐路と言うのは人それぞれ存在するのだろうが、その数は大小合わせれば数えきれないほどあるのだろう。ほんの些細なことでも、それをきっかけに人生の流れが大きく変わる可能性もある。しかし人生を歩んでいる途中の当人には、それをそうと見做さずに、それほど重く受け止めないまま進むことも大いにある。その分かれ道で立つ当人は、必ず自分の意思を反映させて進むべき道を決めているのだと、リュカはサンチョの言葉に感じる。
「私がラインハットを憎いと思うのは、ただの私個人の感情です。それこそ放っておいてくださって結構ですよ」
「そんなわけには行かない」
「では貴方が首を括って罪を償ってくださるとでも仰るのですか」
「貴方が望むのなら、俺はそれでも構わない」
サンチョの問いかけに対し、ヘンリーの返答は早かった。その速さに、リュカは思わず親友の顔を苦々し気に見る。いつでもヘンリーは心の中に罪の意識を残している。そして彼はいつでも、罪の償いのために自分を投げ出そうとする。妻を持ち、子を持っても尚その気持ちを持ち続けているのだから、今後も彼は死ぬまでその気持ちを抱えて生きて行くのだろう。
「旦那様が助けようと思った命を私が殺めるのですか? 冗談もほどほどにしてください。そんな罪深いことができるものですか」
あくまでもサンチョにとっては、サンチョ自身のことよりもパパスの意思を尊重する意識が優先している。敬愛する主人が助けた命ならば、自分も守らなければならないと、ラインハットと言う国への感情抜きにして彼はヘンリーを守らなければならないという意思を備える。
「貴方がこれからしなければならないことは、我が国の王とこれからも良い関係を保ち続けていただくことです」
サンチョの言葉にヘンリーがリュカを見るのと同時に、リュカもまたヘンリーを見る。そんな二人の姿に、サンチョは自身が見ることの叶わなかったかつての二国の幼い王子二人を見るように、目を細める。
「きっと子供同士で仲良くして欲しかっただけなんですよ、グランバニア王もラインハット王も。きっとそれだけだったんです」
先代の二国の王は既にこの世を去っているため、確認の仕様もないサンチョの言葉だが、今や子を持つ親となったリュカもヘンリーも当時の父の心情をいくらか想像できるようになった。リュカもティミーとポピーがコリンズと仲良くしてくれることを望んでいるし、ヘンリーもまたコリンズがグランバニアの双子の王子王女と良い関係を築いていくことを望んでいる。国同士の結びつきというものも当然あるが、それ以上に気の置けない友の子供と自分の子供が仲良くできればこれほど嬉しいことはない。
「今後も末永くお付き合いのほどよろしくお願いいたします、グランバニア宰相殿」
「そんな堅苦しい肩書で呼ばれると出た腹がむず痒くなりますので、サンチョで結構ですよ、ラインハット王」
「それではサンチョ殿と呼ばせていただきます。貴方がこうして我が国に来てくださって本当に良かったです。サンチョ殿しか知らないようなお話も色々と聞かせていただければ嬉しく思います」
「そうだよ、サンチョしか知らないこともあるんでしょ? 僕も聞いてない話がたくさんあるんじゃないの?」
「ははは、まあ、そうかも知れませんな。たとえば……」
そう言いながらサンチョは再びヘンリーの顔を覗き込む。まだ怯えたような表情を見せるヘンリーだが、サンチョは彼の抜けるような青空を映したような瞳を見つめながら、ふっと小さく笑う。
「ヘンリー殿の瞳は驚くほどお父上に似ていらっしゃるとか、そんなことくらいならお話できますよ」
「親父に……いや、父上に会われたことがあるんですか」
「一度だけ、先代のグランバニア王のお供でこちらの国を訪れたことがあります。その時、まだ赤ん坊のような坊っちゃんも一緒だったんですよ」
「ええ? 僕も一緒だったの?」
「坊っちゃん……」
「その時ラインハットの王子とも会ってもらう予定だったようですが、生憎王子はお風邪を召されて熱が引かなかったために会うこともありませんでした……と、そんな話をここで始めたら終わらなくなってしまいますね」
「そうですね。では我々も食事の会場に移動しましょう。食事をしながら色々とお話を伺いたいものです」
決してラインハットへの蟠りが解けたわけではないサンチョだが、ラインハットの国王として立つ若き王デールの物腰柔らかな態度に、初めほどの固い緊張からは解放されているようだった。一国を統率する立場のデールだが、その国王としての性質は強く率いて行くというものではなく、穏やかに導いていくようなものだとリュカは感じた。そして一見頼りないと思える弟王を支えているのが王兄ヘンリーだ。幼い頃は二人を巡って王位継承問題に揺れていたラインハットだが、あれから二十年の時を経て今では兄弟が力を合わせてラインハット王国を作り上げている。
「旅してきたわけでもないのに、僕お腹が空いたよ」
「それが一国の王が言う台詞かよ」
「だけどさ、さっきからずっとこのお城の中、良い匂いがしてるんだよね。そのせいでお腹が空いたのかも」
「なんだよ、グランバニアで美味いもん食わせてもらってないのか?」
「そんなことはありませんぞ。リュカ王、グランバニアでもしっかりと食事を済ませて来たではありませんか」
「そんなサンチョこそ、実はお腹が空いてるんじゃないの? だって僕よりもずっとたくさん食べるもんね」
「私はいくつでも別腹と言うものを持っているのです。ほら、見ての通り、こんな腹をしていますからね」
「たくさん用意してありますので、存分に楽しんで下さいね」
三人の会話を耳にしてクスクスと笑いながら、デールが引率の兵の後に続いて歩いて行く。護衛の兵たちが笑いを堪えているのを感じながらも、リュカたちは王族らしい威厳や慎ましやかな態度など忘れて、互いの距離があることも忘れるように努めて気軽な会話を交わし始めていた。



食事会の場には緩やかなピアノの音が鳴り響いている。時刻はちょうど昼時で、広いテーブルの上には花の模様が浮かび上がるような真っ白なクロスが敷かれ、その上に個々の食器やナプキンが用意されていた。一人一人の席の間が広く空いているため、リュカは隣に座るティミーとポピーとの空間に密かに心細さを感じていた。ティミーの隣に座るサンチョに至っては、まるで別のテーブルに着いているのではないかと思うほどに遠い。
リュカの正面にはラインハット王デールと王兄ヘンリーが並んで座っている。ヘンリーの隣にはコリンズが慣れた手つきで上品に食事を進めている。そんな息子の様子を穏やかに見つめるマリアが、コリンズの隣に座る。デールの右隣りには彼の母である先太后が背筋をすっと伸ばした姿勢で音もたてずにナイフとフォークを動かしている。この場にいる中では彼女が最も王族としての雰囲気を漂わせているかも知れないとリュカはちらと先太后の様子を見てそう感じていた。
「グランバニア王妃の消息は、まだ……」
デールが言葉を濁すように話し始めたのを、リュカが力なく瞬きをしながら「そうですね……」と言葉を濁して返した。誰もが一時、話す言葉を失うが、その間にも流れるピアノの音が場を取り持つ。話の内容など構わないピアノの軽やかな音楽に、リュカは表情を明るくして対面する彼らに話し始める。
「でも竜の神様を復活させることができました」
唐突なリュカの言葉に、対面するラインハット側の人間が揃って首を傾げる。そして彼らの疑問を感じる表情を置き去りにしたまま、ティミーが彼らの混乱に追い打ちをかけるように話す。
「そうなんです! 天空城が空に浮かんで、竜の神様も復活したんです! すっごい大きいんですよ、お城も神様も。皆さんにも見てもらいたいね、お父さん!」
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん、ここではちゃんとした言葉でお話しないと……」
「ああ、ポピー王女、構いませんよ。ここでは気楽に食事を楽しんでいただきたいので、いつも通りで」
「子供は元気なのが一番じゃ。変に畏まらずに、いつもと同じように話してたもれ」
デールの言葉に添えるように、先太后は一つも食器の音を立てずに食事をしながら言葉をかける。長らく地下牢に閉じ込められ、実際の年齢よりも老けて見えていたあの時の彼女は、この十年の間にすっかりあるべき姿を取り戻したようだった。それもまた、彼女の努力の賜物なのだろう。先太后は自身で過去の過ちを反省した上で、この王宮の人間としてあるべき立場を理解している。
「竜の神様が復活したというのは……どういうことでしょうか」
かつて修道女として海辺の修道院で暮らしていたマリアがそう問いかけるのも自然なことだとリュカは思った。彼女は今でもラインハット城の教会へ日参しているとヘンリーに聞いている。それと言うのも、彼女が今もあの地で苦しむ奴隷たち、そして兄ヨシュアの無事を願い祈り続けているからだ。彼女が祈る神が果たしてあの竜神なのかどうかはともかくとして、リュカはマリアに視線を合わせると穏やかに話し始めた。
「お前さ、今まで何度も書簡を送り合ってるのに、どうしてそういう肝心なことは書かなかったんだよ」
天空城と竜神の復活についてリュカが簡単に説明すると、すぐさまヘンリーから不満の声が上がった。その言葉に対してリュカはただ「忘れてたんだよ」と悪気なく応える。
「それで今、その天空城と言うのは空に浮かんでるんだな。どの辺りに浮かんでるんだ」
「浮かんでると言うより、移動してるよ。すごくゆっくりだけどね」
「じゃあ今どこにいるか分からないのか」
「ああ、ドラゴンの杖があれば分かるよ。杖がマスタードラゴンと通じてるから」
「杖は?」
「置いてきちゃった」
「なんで?」
「だってあの杖、見た目が竜でさ、ちょっと物騒だなと思って。そんなのを僕が持ってたら、いきなり外交問題になるかなぁって」
「そんなにおっかない杖なのかよ」
「ヘンリーが見たらまたびっくりして椅子に飛び上がっちゃうかもよ」
「お前なぁ。俺はもう三十だぞ。そんなガキみたいな反応するかよ」
呆れたように溜め息を吐くヘンリーを横目に見ながら、コリンズがマリアに小声で何かを話しかけているが、マリアはただコリンズの口の端についたソースを拭き取るように優しく返すだけだった。
「そう言えばお父さん、あの時天空人の人がテルパドールとラインハットを天空城で巡るって言ってたと思うけど、今この近くに来ているんじゃないかしら?」
ポピーが控えめにそう言うのを聞いて、リュカもティミーも思い出したように「ああ」と声を出す。
「そうだった。近頃、ラインハットの近くをやたらと低い雲が通らなかったかな」
「さて、特別そのような話は聞いていませんが……私は大方城の中にいるので、空に浮かぶ雲がいつもと異なるということにも気づきませんでした」
デールがそう答えると、リュカは理解を示すように頷きながら再び食事の手を動かす。肉にかかる苺のソースが意外に美味だと、フォークに刺した肉に皿のソースをたっぷりとつける。
「オレ……じゃなくて、私はそのようなおかしな雲を少し前に見ました」
静かなピアノの演奏に乗せて、コリンズが静かに話し出した。皆がコリンズに注目する中、リュカが「どんな雲かなぁ」と柔らかく促すと、コリンズはほっとしたように続きを話し始める。
「見張りの兵のところへ行った時に、一つだけ大きな雲があるなって。兵にも言ったけど、あいつらは特別なことじゃないって笑ってたんだ……です」
見張りに立つ兵もまさか空高くから敵襲があるとも思わず、見張る範囲は常に地上へと向けられているのだろう。それに対し、純粋に空を見上げておかしな雲があると思ったコリンズの方が、ある意味感覚は鋭いものがあるとリュカはコリンズに笑いかける。
「きっとそれだね。じゃあもうラインハットは過ぎて行ったんだ。どっちに向かって行ったか覚えてる、コリンズ君」
「えっ、あ、はい、うーんと城下の入口に向かってたから南の方へ行ってたんじゃないかな……じゃなくて、思います」
「よく覚えてたね、コリンズ君。ありがとう、教えてくれて。じゃあ今頃は海に出てるかもね」
リュカの褒める言葉を聞いて顔を赤くしているコリンズは、照れ隠しのように目を逸らして皿に乗るパンを手にした。その顔はどこか嬉しそうににやけている。
「明日一日はラインハットでゆっくり過ごされて、明後日から周辺地域の視察に向かうと聞いていますが」
マリアが食事の手を止めて、姿勢を正して両手を膝の上に乗せ、リュカに話しかけてきた。彼女の深海色の瞳を見るだけで、彼女の揺るがない意思を感じるようだった。それはあの時の、彼女が自ら神の塔への同行を決めた時のような目だとリュカはふと当時のことを思い出した。
「私も同行をお許し願いたいのですが、よろしいでしょうか、グランバニア王」
隣でスープを飲もうと匙を手にしていたヘンリーの手が止まる。ボタボタと器に落ちるスープも気にならずに、彼は口を開けたまま隣のマリアをゆっくりと振り向き見た。
「な、何言ってんだよ、マリア」
「またとない機会と思っていたんです」
「どうして先に俺に言わないんだ」
「あなたに言えば必ず反対するでしょう? ですからグランバニア王がいらした時に直接お話しようと思っていて……」
「お前、リュカだったら断らないって分かってて……第一、コリンズはどうするんだ。母親のお前がついてなくちゃダメだろ」
ヘンリーの言葉は何気ない一言だ。彼に悪気など一切ない。彼は彼で一人息子のコリンズの身を案じ、息子の心の拠り所であるマリアが傍についているべきだと諭そうとしているだけだ。
しかし彼の一言に、リュカは両隣に座るティミーとポピーの食事の手が止まるのを目にしてしまった。二人ともがピタリと手を止めて、恐らくマリアを見ているだろう気配を感じつつ、リュカは二人の様子を確かめることはできなかった。
「それならばコリンズも共に連れて行けば良いではないか」
何事もなかったかのようにそう言い放ったのはラインハットの先太后だ。皆の視線が集まり、発言に注目されながらも、ゆったりとナプキンで口元を拭いている彼女はやはりこの場で最も堂々としている。
「コリンズも外の世界を知る良い機会じゃ。次期国王として様々な経験を積むのは有益なこと」
「そうですね、それも良いかも知れません。今回の視察はいつもと違い、リュカ王の移動呪文で各地へ向かうということですよね。外の魔物に襲われる心配もないわけですから、義姉様の言う通りまたとない機会と捉えて良いのではないでしょうか」
既に十年以上に渡りラインハット王として在位しているデールの悠然と構えた様子も、もしかしたら彼の母譲りの部分があるのかも知れないと、リュカは隣に並び座る若きラインハット王と先太后の母子を見る。
「オレも父上と母上と一緒に外に行けるんですか?」
「いいよね、お父さん! コリンズ君も一緒に行っても。うわー、みんなで行けばきっと楽しいよ!」
「……もし一緒に行くとしたら、ちゃんと守ってあげなくちゃね」
ティミーがさも楽しそうに話し始め、ポピーが嬉しいのか不安なのか複雑な表情を示している中、リュカは予定している訪問先を頭の中に思い浮かべる。子供たちは単純に初めて行く場所へ胸を高鳴らせている状態だ。その思いを無碍にはできないと思いつつ、ふとサンチョの横顔を横目に見る。まだ行き先を告げていないが、サンチョはサンチョで思うところがあるに違いない。定まらない焦点を広いテーブルのどこかに落とし、一人難しい顔をしている。
「マリアが行きたいところは海辺の修道院?」
リュカの言葉に、マリアは少し間を置いた後、静かに「はい」と答えた。
「そこへは連れて行ってあげる。だけど僕たちが予定している訪問先全部には連れて行けないんだ。ごめんね」
「いえ、ご無理を承知でお願いしているのですから、そんな謝らないでください、リュカさん」
「あ、やっと呼んでくれた、リュカって」
「はっ!? ご、ごめんなさい、つい……」
「マリアにグランバニア王だなんて呼ばれるから、僕どうしようかと思ったよ。ねえ、そうやって前みたいに普通に呼んでくれた方が、僕も安心するからさ……」
リュカがそう言いかけた時、突然目の前に銀色に光る何かが飛んでくるのが見え、リュカは咄嗟に手を出した。手に掴んだのはパンが乗っていたはずの銀製の皿だった。
「取るか? 普通。どんな反射神経してんだよ、お前」
「取らなかったらどうするつもりだったのさ」
「いや、当たって椅子ごとひっくり返るかなって」
「ひどいよね、どうしてそんなことするかな」
「お前がいつにも増して軟派なことしてるからだろ」
「僕がいつ、どんな軟派なことしたって言うんだよ」
「自覚ないのが怖いんだよ、お前はよ」
そんな会話をしながら、リュカからヘンリーへ銀製の皿が手渡しされる状況を見て、他の皆は一様に唖然としていた。
「で、では義姉様とコリンズも同行させてもらえるということで再度予定を調整、ということでよろしいですか?」
デールが取りまとめるようにそう言うと、リュカとマリアは共に頷き、ヘンリーも渋々コリンズの初めての外交を認めた。その話に改めてティミーが歓喜の声を上げ、拍子に空のグラスを倒してしまい、ポピーがリュカの隣で顔をしかめていた。
「俺だけなら問題なかったけど、マリアとコリンズを連れて行くんだったら、やっぱり国から護衛の兵を出した方がいいかもな」
「大丈夫だよ。外を歩くわけじゃないしさ。僕から離れないでいてくれれば、マリアもコリンズ君も僕が守れる……」
「口を慎め、この軟派野郎が」
そう言いながらヘンリーが再び放った銀製の皿が、今度こそリュカの額に命中した。美しいピアノの音の中に、響き渡る打楽器の一音。それから始まった大人同士のしょうもない喧嘩を見て少々怯えるコリンズをマリアが宥め、リュカの額の腫れをティミーが回復呪文で癒し、ポピーは「ヘンリー様の仰ることも分かる気がするわ」と小声でヘンリーの肩を持ち、デールと先太后に至っては食事会に出された料理の味について話し始め、そろそろデザートをと給仕係を呼んでいた。
その中でサンチョだけが未だ、浮かない顔をしていることにリュカは気づいていた。腹が減っていただろうに食事もさほど進んでいない。ラインハットの周辺地域を巡る予定について、詳しく聞かされていないサンチョは一人あれこれと考え始めているのかも知れない。そんなサンチョの気配を感じつつも、リュカは彼が何と言おうと視察への同行を命じてしまおうと密かに考えていた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    ラインハット編の執筆どうもありがとうございます。
    ポピーをルラフェンに置いて行くのだと思っていました、1カ月間グランバニアでリュカは王様してポピーを待っていたんですね。
    まあ置いて行くわけはないか(笑み)
    やはり、遠隔呪文の解明は、ベネットでもそう簡単ではないみたいですな、シナリオも終盤に差し掛かる状態で、いつごろ遠隔呪文が使えるようになるのか楽しみな所であります!
    そして、ポピーのイオナズンとドラゴラム…楽しみですね。

    ドリスはいっつもグランバニアから出ることできない、ちょっと可愛しょうな姫…、なんどもリュカに断られ…断られても食い下がる姫…(笑み)
    リュカ、連れて行く約束は守るつもり、たぶん…ないね(笑い)

    やはりサンチョは、ラインハットを許すつもりはないですか…いやまあサンチョの心情はbibi様の描写どおりですよね。
    ただ、サンチョはヘンリーが浚われなければと考えてしまう自分自身に怒り自分自身を許せないという描写には、なかなか考えさせられる一コマですね。
    ラインハットを許せなくても国同士の交流は認めている…改めて認めたといったとこでしょうか?
    サンチョとヘンリーの関係、少しは糸の絡まりが解けてくれているならいいんですが…(う~む…)

    bibi様、一つ疑問と言いますか…気になることがあります。
    先太后、当時のことは、実の息子デールを王にしたいがために、自分の子供でないヘンリー誘拐を裏で企んで実行しましたよね、その後、ラインハットは偽太后に乗っ取られた。
    やっぱり1番悪いのは先太后!彼女が悪いやつらにヘンリー誘拐の指示をしなければ…パパスは死ぬことなかったのでは?
    今回のbibiワールドを読んでいて、なぜ先太后が席を外したんだろう…て思ったら、今のことを感じて来ました(汗)

    なるほど!やっぱりラインハットだけじゃなかったんですね周辺の視察。
    海辺の修道院、オラクルベリー、アルカパ、レヌール城、そして…サンタローズ…サンタローズがキーワードみたいですね、
    マリアやコリンズにあの破壊されたサンタローズを見せるわけには…そして、破壊されたサンタローズにサンチョはかならず連れて行こうとリュカは…。う~ん気になるフラグ立てですbibi様。
    もしかして、パパスが丸焼きになった古代遺跡にも行こうと考えていますか?
    だとしたら楽しみ!

    リュカとヘンリーには、まだまだ沢山ケンカして貰いたいですね(笑み)
    その方が楽しいしポピーの冷静な描写が見れてニヤニヤしちゃいますから(笑み)

    次回は、ラインハット編の続き?海辺の修道院?
    次話が早く待ちきれません(笑み)

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ポピーを置いていくはずがありません(笑)ポピーはマーリンとミニモンと一緒に月に二度ほどベネットのところを定期的に訪れる感じで研究のお手伝いをしています。
      ドリスはその内行けるといいですね。でも行けるのは・・・いつになるかな。
      サンチョは主を奪った国を本心から許すことはできないと思います。ただ国同士のこと、特にリュカとヘンリーの関係について口を挟めるものではないと思っているので、私情抜きにして両国は良い関係を築ければと思っています。
      先太后が席を外したのは・・・予めヘンリーにそう言われていたから、と言うことにしています。国を代表して謝るのだから、代表者である国王と宰相が表に出ますと。
      ゲームにはない設定で、私自身が楽しみながらお話を進めて行こうと思います。・・・必ずしもご期待の沿えるものではないことご承知おきくださいませ(汗) あんまりここでダラダラするのも・・・と思いつつも、ここはじっくり書いて行きたいと、ちょっと私自身、定まっていない部分もありますが、それなりに書いて行ければと思います。

  2. ケアル より:

    bibi様。

    もちろんbibi様が自由に執筆してくださいね、自分はbibi様の描写が好きなので。
    疑問があったのでbibi様の考えをお聞きしたかっただけです、意見を教養したつもりはなく…。
    もし、誤解を招くような文章でしたらお詫び致します失礼しました。

    • bibi より:

      ケアル 様

      いつも自信のないままお話をアップしているものですから、アップした後で密かにビクビクしているのが本当のところです(汗) これだけ長いことお話を書いているにも関わらず、かなり取りこぼしている部分もあるかと思います。設定を細かくするほど取りこぼしが増えるという悪循環に入り込もうとしているので、なるべく簡素に・・・したいんですけど、つい細かくしてしまって、自分で自分の首を絞めているという(笑) 大分、自分自身に振り回されています。どうしよう(汗)

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