看守の覚悟

 

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岩盤剥き出しの洞窟の奥深くに、敵の根城とも思える大神殿の真の姿があった。リュカがこの地を脱出して十年の間に、一体どれだけの人々の手でこの奥深くに眠るように存在する巨大な建物を造り上げたのだろうか。世界各地からどれほどの人々がこの地に連れられ、人生を狂わせられる労働を強いられたのだろうか。考えればそれだけ全身に痛みが走るようで、リュカはどこもかしこも整えられた地下神殿の景色を目にして心を落ち着けるのに必死だった。
大層に誂えられた扉を開き、入って正面に二体の石像が立っているのを見た。明らかに悪を象徴するような魔物を模したもので、この場にあっては光の教団はその本性を隠そうともしていないのだとリュカには感じられた。しかしそれでも、偽りに満ちるこの教団は信者らを騙すべくもっともらしい理由を持ってこれらの石像を安置しているのだろう。悪の力は悪の力をもって制すのが唯一の方法だとでも教えているのかも知れない。
「ダレカ、イルヨ」
ガンドフは魔物が持つ特性として鋭い感覚を持ち、尚且つ遥か遠くまで見通せるほどに目が良い。ガンドフの大きな一つ目が見つめる先に何があるのか、リュカたちにはまだ分からない。ガンドフが「何か」ではなく「誰か」と言うのは、人間のことだ。上部の大神殿に収められていた多くの信者たちは竜神の下に解放することができたが、この場所にも恐らくまだ囚われている人間がいるに違いない。リュカは今も囚われる人々を救わねばならないと、慎重に建物内部を進み始めた。
進んでいくと、建物の中を巡回するように歩いている人の姿がリュカの目にも映った。一行の先頭を進むリュカの姿に、相手はまだ気づかない。洞窟内部に造られた大神殿もまた地上と同じく巨大な造りで、それはどこか天空城を髣髴とさせるものがあった。壁から出っ張る石柱も巨大なもので、その影に身を潜めればガンドフやベホズンほどの大きな魔物でも身体を隠すことができた。
建物の造りは立体的で、見える兵士は上階から見張りを続けているようだ。上階の通路を囲む壁の上に、兵士の頭だけが動いているのが見える。あの場所ではリュカたちを見つけたとしてもすぐに追っては来られないだろうと思いつつも、リュカは慎重を重ね、なるべく身を隠しながら先へと進んだ。
「あの階段を上れば、さっきの兵士のところまで行けそうだよ」
ティミーの言葉にリュカも頷く。もしあの兵士がこの大神殿に囚われている者の一人だとしたら、放ってはおけない。上にいた多くの人々を救って終わりというわけではない。
上る階段の途中で止まったリュカは、後ろを振り向いて小声で皆に伝える。
「この場所にはきっと人間なら自由に出入りできていたはずだよ。だから先ず、僕があの人に話を聞いてみる」
「お父さん、ボクも人間だよ。一緒に行くよ」
「いや、万が一っていうこともあるから」
実際に、上の大神殿で見張りをしていた人間の兵士の姿をした者の正体は魔物だった。今リュカたちが目にしている巡回を続ける兵士も、魔物である可能性を排除できない。
「万が一があるなら、なおさら私たちも行かなきゃ。ここには私たちみたいな子供がいてもおかしくないんでしょ?」
ポピーもティミーも、先ほど上の大神殿にいた信者たちの中に、自分たちと同じような子供の姿も目にしている。そしてリュカがこの場所で奴隷としての人生を過ごしたことを知った。双子の心には、今までそのような現実など何も知らなかったという、彼らの力ではどうしようもなかった罪の意識が生まれている。その苦しみを伴う意識を持て余しているのだ。
「……絶対に僕の前に出ないと約束してくれればいいよ」
リュカはそれだけを言うと、子供たちの返事を聞かないまま注意深く階段を上り始めた。両脇には高い壁があるために、身を屈めて進めば周囲から見つかることもない。子供たちなどは身を屈める必要もなく、父の後を追うように普段通りに階段を上って行った。
上り切った場所から正面に、巡回を続ける兵士の姿を見た。当然、姿を現した三人の人間に気付かないわけもなく、兵士は胡乱な目を向け、槍先をリュカに向けながら歩いてきた。
目の前に来た兵士に、リュカは何も言わない。先ずは相手の様子を探ろうと、話しかけられるのを待つ。そのような沈黙の人間を見て、兵士は納得の言ったように槍先を引っ込め、肩に担ぐように持ち直した。
「ん? お前たちはイブール様にお仕えする奴隷たちだな?」
この場所に来る人間は、地上に降りて布教活動に務める人間、若しくは奴隷のどちらかなのだろう。その内で目の前の兵士がリュカたちを奴隷と見たのは、恐らくこの大神殿にいる大多数が奴隷の身に落とされた者たちだからだ。リュカは悔しい思いを表情には出さないまま、兵士の指摘通りに頷く。どう返事をしようとも、この場所にまだ留まる人間を救い出すことが先決なのだと、事を穏便に済ませることを優先させる。
「呼ばれたので、ここに……」
「返事などせずともよいわ! 魂を抜かれたお前に碌なことは言えまいて」
言葉を遮られたリュカは、兵士の威圧の前に素直に黙った。兵士の言う通り、この大神殿に囚われていた奴隷たちは皆、魂を抜かれ、自身と言うものを失っていた。神官ラマダの発する香の匂いと共に一心に訳も分からず祈りを捧げ、ただそれだけが生きている証なのだと言うように、他の一切に興味を亡くした状態だった。しかし奴隷の頃から自身を失っていなかったリュカには、奴隷らしく振舞うことが上手くできなかった。
リュカの漆黒の瞳の中にはいつでも、諦めない光が宿る。その光を見つけようとするかのように、兵士がリュカの顔を覗き込む。リュカは後ろにいるティミーとポピーを一歩、更に後ろへと下がらせた。
「しかしちょうど良かった」
途中でリュカの素性などどうでもよくなったように、兵士は一転して後ろに控える二人の子供たちに目を向けた。その目に、人間ではない獰猛且つ狡猾な様子が見て取れた。我慢しきれないと言うように、舌なめずりをする兵士にリュカははっきりと敵と認識する。マントの内側に手を忍ばせ、剣の柄を握る。
「オレ様はハラが減っていたところだ。お前たちを頂くことにしよう」
敵の手が大蛇となってリュカに伸びて来た。しかしリュカは素早く剣を抜き、敵の腕となる大蛇を切り払った。床に落ちた大蛇が跳ねるように動くのを見て、ティミーもポピーも慌てて武器を手に取る。
「お前らっ……奴隷じゃなかったのか!?」
まさか魂を抜かれた奴隷に反撃を食らうとも考えていなかった蛇手男を相手に、リュカたちが苦戦することもなかった。しかしこの場でこの敵を倒してしまうことをリュカは望んでいるわけでもない。人間の兵士の姿になり、この場の見張りを務めていたからには、この蛇手男は大神殿内を知っているに違いないと、リュカは蛇手男のもう片方の腕を背に捻り上げ、背後から脅すように剣の刃を敵の首にあてがう。
「イブールはどこにいる」
蛇手男の手を捻り上げるリュカの手には、ドラゴンの杖が握られている。竜神の力の一部を宿したドラゴンの杖から発せられる抗いようもない迫力の前に、魔物の手の蛇が恐れ戦くように縮み上がっている。
「今ここで死にたくなければ教えろ」
「そ、そんな言葉、信じられるかっ! ど、どうせ教えたってオレ様を……」
「ああ、そうだよ。だってお前はもうそうやって何人もの人を犠牲にしているんだろ」
イブールの居場所を教えたところで、リュカはこの蛇手男を許す気はない。人間の兵士の姿に化け、リュカたちを奴隷と思ったこの魔物は今まさに、リュカたちを躊躇なく食らおうとしたのだ。その言動、行動を見るに、これまでに幾人もの人々を犠牲にしてきたのかが知れる。そして今も尚、リュカたちを見る目は忙しなく隙を窺い、どのようにしてこの人間たちを食らおうかなどと考えているのが、リュカには見て取れた。
「お前が最期までイブールを崇めるか、僕たち人間に道を開くか。どちらを選ぶ」
リュカの剣を握る手に力が入る。リュカに捕まった蛇手男に、この後生きる道は絶たれている。自身の命の危険がすぐそこに迫っているこの時になっても、見張り役を務める蛇手男としては、その身に染みついたイブールへの信仰心が強かった。と言うよりも、イブールの意に逆らう勇気が持てなかった。
敵が抗うように身体を強く捻った瞬間、リュカは敵を剣の錆にした。この場でもし取り逃してしまえば、味方を呼ばれ状況は一気に悪化すると、リュカは敵に容赦しなかった。特別な痛みもなく、一息に絶命した敵の姿に、リュカは僅かばかり同情する。恐らくこの魔物もまた、イブールの手下であるに過ぎない。
「お、お父さん……」
リュカの静かな怒りをその身に感じているティミーは、続く言葉が口から出なかった。この場所で奴隷として過ごした過去を自分たちにも魔物の仲間たちにも告白した父リュカだが、その思いたるやティミーの想像を遥かに超えたものだと分かった。十年の月日と言えば、ちょうど自分が生まれて生きて来たほどの年月だ。父はまだ子供の時に祖父と死に別れ、以来共に連れ去られたヘンリーと十年の苦痛の時を過ごした。その痛みは父リュカをこれまでもこれからも痛め続けるのだと考えれば、父にかける言葉を見失う。
「この見張りはあっちから来ていたよね」
そう言いながらリュカが指差すのは、階段を上り右側に伸びる通路だ。反対の左側にも通路は伸び、別に目の前にも道は続いているが、その先はまた分かれ道になっているようだった。建物内の道は複雑に分かれているようだが、リュカは敵の魔物が歩いてきた道を辿るように右へと視線を走らせる。
「あっちに守らなきゃいけないものがあるからだろうね。行ってみようか」
いつも子供たちに話す時の穏やかな父に戻りはしたが、ティミーもポピーも父が内に常に秘めている怒りに触れたようで、声は出せないままただ揃って頷いて見せた。目の前に敵がおり、たった今その敵を倒したばかりだと言うのに、リュカはただ倒れた敵の姿を一瞥しただけで、すぐに為すべきことに進む。階段の途中で身を隠していたガンドフとベホズンに声をかけ、仲間を呼び寄せるとすぐに先へと進み始めた。ティミーもポピーも、父の邪魔をしてはならないのだという思いから、父から離れないという約束を守りつつ、その手を掴むことは理由も分からないまま憚られた。



「ボクたち、ちゃんと先に進んでるよね? うーん……この道でいいのかな……」
ティミーが不安になる言葉を口にするのも珍しい。彼はいつでも前進あるのみという心持ちでいるため、普段から不安や不満を口にすることはない印象が強い。しかしそんな彼が不安な気持ちを吐露するほどには、この地下大神殿の造りは複雑だった。
今、リュカたちがいるのは大神殿内の一角に造られた小部屋だった。普段、この場所を使って何が行われているかなどリュカたちには分からない。しかし明らかにここには人間が使っている形跡が見られた。壁にいくつもかけられている灰色のローブは、信者となる者たちが揃って身に着けていた者と同じだ。掛けきれないものは床に無造作に置かれ山となっている。リュカは一つ、ローブを手に取ってみたが、この灰色のローブ自体に呪いがかけられているようなことはなかった。ただこの暗い色味のローブを多くの人々が揃って身に着けることで、それだけで人々の心は統一化されてしまうものなのかも知れない。
「何だかさっきから同じようなところをぐるぐるしてるような気がする……」
主に人間が使用するのだろうこの小部屋に、敵となる魔物はいない。小休止とばかりにこの小部屋で一息ついていれば、ポピーからも不安な声が漏れた。地下神殿はまるで迷路だ。変わらないように思える景色の中を歩き続けるのは、それだけで足取りが重くなる。苦労が報われないかもしれないという思いに苛まれ、身体も重く感じてくる。
「ダイジョウブ、ススンデルヨ」
しかしガンドフにとっては今まで通って来た道に同じところは見られなかったようで、彼は自信を持って前進していることを皆に知らせてくれた。ガンドフの目は遠くを見渡せるだけでなく、景色の細かな部分まで捉えることができるようだった。普段はそこまで眼力を使っているわけではないようだが、今はリュカたちが迷路のような通路の連続に心が塞ぎそうなのを見て、ガンドフは可能な限り細かな景色を確かめながら前に進んでいるようだ。
「サッキ、コノカベノキズ、ナカッタヨ」
そうガンドフが指し示す壁の傷は、リュカたちが間近に近づいてようやく確認できるほどの小さなものだ。それをガンドフは仄かな火の灯る暗がりの中で、遠くからその違いを認めることができるのだから、何とも頼もしい仲間だとリュカは本心から「ありがとう、ガンドフ」と声をかける。するとガンドフも嬉しそうに一つ目を細めた。
いつまでも休んではいられないとリュカたちが小部屋を出ようとした時、小部屋の入口から中を覗く人の目と出遭い、リュカは思わず身構えた。唐突に姿を現したのは、人間の女性、と言うよりはまだ少女と言った方が良いほどに幼い子供だ。やはり灰色のローブを身に着け、その表情はどこか虚ろで、今もまだ魂を抜かれる呪いから解放されていないのだろうかと思わせる雰囲気がありありと漂っている。
リュカが初めに小部屋を出て、今見たばかりの少女の姿を確かめる。彼女はふらふらと大神殿の内部をよく知り得ているかのように、目的の場所へと歩いて行くように見える。その小さな両手にはそれぞれ、口の小さな壺のようなものを持っている。いかにも重そうに持っているその壺の中にはもしかしたら水か何かが入っているのかも知れない。
「お父さん、あの子、何かを運んでいる途中なのかしら」
「まだおかしな呪いが解けてないのかな? こんなところに一人でいるなんて危ないよ。一緒に連れて行ってあげようよ」
ちょうどティミーやポピーと同じ年頃の少女の姿に、二人は同情心を前面に出してリュカにそう伝える。いつもならティミー辺りが率先して少女に声をかけ、この場に一人でいるのは危険だから一緒に行こうと誘うところだが、二人はあくまでもリュカと約束をしている。その約束を常に心に留めている二人は決してリュカの前に出て行動を起こすことはない。
「アッチハ、イッタコトノナイ、ミチ」
ガンドフの言葉を決め手にして、リュカは少女の後を少し間を開けてついて行くことにした。子供の姿をしているからと、それだけで騙されるわけには行かない。子供と言うのは、そのか弱き姿だけで人の同情心を誘う。リュカもまた、子供の頃はその小さな身体のおかげで、周りの大人の奴隷たちに助けられたこともあった。しかし進む先がまだ歩いていない道だとすれば、少女の姿をした何者かはイブールのところへ向かっているのかも知れない。手にしている壺も、イブールの下へ届けるためのものかも知れないと、あまり間を詰めずにリュカは少女の後をついていく。
立体構造となる大神殿地下は、頭上に通路が伸び、トンネルのような造りの下をくぐることもある。上の通路に向かうには、階段を上ったり、通路の壁に造られた梯子を上らなくてはならない。前を行く少女は相変わらずふらふらと、まるで地に足が着かないような状態で、通路の下のトンネルを抜けようとする。火の明かりが届かない通路の下に入った少女の姿は暗い影に見え、その影は徐々に小さくなっていき、トンネルを出たところを曲がったのか、その影はふっと姿を消してしまった。
リュカたちがその通路下のトンネルに足を踏み入れたところで、突如魔物の気配が漂った。リュカたちの後方に姿を現した魔物が、最も後方を進んでいたベホズンに襲い掛かった。巨大な蛇の手がベホズンの巨体に噛みつき、ベホズンはぎゃっと短い悲鳴を上げて、蛇の手ごと突き飛ばすように体当たりをした。
リュカがベホズンを振り向いた瞬間、今度は進んでいた前方から、リュカの後ろから敵が迫った。トンネルの中に風が抜けるように、敵は宙を突くように飛んできた。悪魔のような翼の形が影となって浮かび上がる。見たことのある悪魔の翼や曲がった巨大な二本の角の陰影を目にすれば、必然と仲間のサーラを思い起こさせた。しかしサーラは今、この場所にいるはずもない。
飛びかかって来た敵の蹄を、リュカはドラゴンの杖で受け止める。少女の姿をした何者かに誘われるようにこのトンネルに入ったところで、待ち構えていた敵の挟撃に遭ったのだとすぐさま理解した。
ベホズンがその巨体で受けたつ敵は、先ほどにも目にした大蛇の手を持つ魔物のようだった。しかしその大蛇の色はおどろおどろしい赤紫色で、まるで魔物自身が呪われてしまったかのような印象すら受ける。ダークシャーマンと呼ばれるその魔物の姿を見て、リュカはこの魔物が元は人間だったのだろうと思わされた。言葉こそ発しないものの、顔をすっぽりと覆う頭巾の奥に光る目には、人間らしい狡猾さや、魔に落ちてしまった僅かな後悔が感じられる。
リュカに攻撃を仕掛けて来た魔物は、姿形こそサーラによく似ているが、その身体の色は鮮やかな青色に染まっている。リュカが盾にして使うドラゴンの杖をむんずと手に掴めば、それを躊躇なくもぎ取ろうとする。あまりに強い敵の力に思わず杖を離しかけるが、急激に体中に湧き上がった力のお陰で、杖を奪われることはなかった。
「お父さん! 私も戦うわ!」
ポピーが即座に唱えたバイキルトの呪文の効果が、リュカの全身を包んでいる。サーラに似た敵バルバロッサは一度翼をはためかせリュカから離れると、慣れた様子で呪文を唱える。
高い通路の下にできるトンネルは広い。その中にバルバロッサの唱えるメラミの呪文が赤々と浮かび、的確にポピーを狙ってきた。しかし勇者としてよりも兄として、妹を守らねばと言う思いを常に抱えるティミーが、天空の盾でポピーの身を守る。ティミーの思いがそのまま飛び出すように、天空の盾から呪文マホカンタが発動し、ポピーの身にメラミの呪文は触れることもなく弾き返された。自身に向かってくるメラミの呪文を、バルバロッサは慌てて宙返りして回避した。
後ろからダークシャーマンの長い大蛇の手が、ティミーに伸びる。その腕を中ほどからガンドフが抱え込むように掴み、その怪力で潰そうとする。もう一方の大蛇の手がガンドフの背中に噛みつくが、ガンドフは抱え込んだ敵の腕を離さないまま、背中の痛みに一つ目を歪めながらも敵の腕を一つ潰してしまった。ダークシャーマンの、まるで人間の男のような悲鳴がトンネルの中に響く。
敵は二体だけではない。このトンネルは一つの罠だとでも言うように、リュカたちをトンネルの外で待ち構える魔物の姿が数体ある。逃げることはおろか、この戦いは長引くものと自ずと知らされる。
しかしかえって、このトンネル内での戦いとなれば、一度に多くの敵を相手にすることはない。こちらも決して一人で戦っているわけではない。二人でもない。共に戦おうとする子供たちの実力は確かなもので、肩には仲間の戦力を支えるスラりん、身を挺して仲間を守り、怪力を振るうガンドフ、その巨体を生かして敵の群れを一時的にでも体当たりではじき出し、敵の攻撃を無力化してしまうベホズンと、頼れる仲間が多くいる。二人の幼い子供が、為す術もなく鞭を受けるだけの奴隷ではないのだ。
目の前の敵から着実に倒していく。リュカの左手にあるドラゴンの杖は、その本来の役割を思い出したかのように、右手に握る父の剣と共に敵に攻撃をしかけていく。怒涛のリュカの攻撃に、向かってくるバルバロッサにも躊躇が見られる。剣に足を切られれば飛ぶ力ががくんと落ち、竜神の力を宿した杖が振るわれれば、まるで竜神そのものの攻撃を受けたかのように床に叩きつけられる。そしてすぐに次の敵が現れる。息つく暇はない。
ティミーもまたポピーに攻撃補助を受け、身体に力を漲らせている。この神殿地下を進んでいる目的を見失うことはない。母を救うために、光の教団の教祖イブールを倒す。そのためには我武者羅に呪文を唱えるようなことはしないと、父と共に剣を振るう。トンネルの陰の中にあっても光り輝く天空の剣に、敵はそれだけで嫌悪するような表情を見せる。目を見開き、敵の動きを冷静に捉え、飛びかかってくるところを惹きつけるように天空の剣を突き出す。戦いの意思を持つティミーに、天空の剣が敵との戦い方を教える、そのような現象が起こっている。
ポピーは父との約束を忠実に守り、最も中ほどに位置し、皆に守られる立場を崩さないまま、戦況を見極める。自身の持つ魔力とも相談しつつも、惜しまず父と兄だけでなく、ガンドフにもベホズンにも攻撃の補助を行う。敵の動きを撹乱するためにと、マグマの杖から噴き出すマグマで敵の動きを止める。
敵の力の厄介なのは、その蘇生力だった。ダークシャーマンにしろ、バルバロッサにしろ、魂を呼び戻すための強力な蘇生の力を秘める世界樹の葉を手にしていた。リュカたちはずいぶん前に、天空城の妖精からかつてこの世界にあった世界樹は魔物の手により滅ぼされてしまったと聞いている。それを今、魔物が手にしているということは、かつて魔物たちが強奪していった世界樹の葉が多く残されていたということなのかも知れない。
伝説の世界樹の葉を使い、倒れた魔物が蘇り、再び戦いの場に立つ。冷静に周りを見渡せば、敵となる魔物の数は多くはない。しかし蘇りの葉を惜しげなく使うために、敵の数がなかなか減らないのだ。
その中でリュカの肩に乗るスラりんは、時折、その小さな身体を生かして敵の群れの中へと飛び込んでいく。小さなスラりんは、敵の群れの中にあってもその存在に気付かれにくい。そして敵に気付かれない内に、敵の群れを弱体化させていく。ルカナンの呪文を食らう敵の群れは、その呪文の発生源が一体何者なのかも分からないまま、次にはリュカたちの攻撃を受ける羽目になっている。
首に大蛇の手が巻き付きながらも、ガンドフはじっと力を溜め、次には自身の首を絞める敵の手を力強く引き離し、そのまま投げ飛ばす。倒れた敵の顔の間近で、唐突に眩しい光を浴びせて目を潰し、身悶える敵の頭を殴りつけ昏倒させれば、次の敵に立ち向かう。その一つ目は今は穏やかさを忘れ、立ちはだかる敵から仲間たちを守るのだと、鋭く細められている。
敵は呪文の使い手でもあった。メラミにベギラゴンと、強力な呪文を使いこなす。その呪文の攻撃を、ベホズンは一手に引き受けるようにその身に受ける。緑色の巨体への損傷は酷いものだが、彼は受けた分だけの魔力を自分のものにしてしまうマホキテの呪文を既に身に帯びている。そして仲間たちが受けた傷もろとも、一気に強力な回復呪文で回復させてしまう。その緑の巨体の姿に、敵の群れも悔し気に、鬱陶しいと言わんばかりに表情を歪めている。
戦いの最中、リュカはトンネルの先に抜けて行ったはずの少女の後ろ姿を見た。少女の傍には魔物の姿がある。本能的に少女を助けねばと足を踏み出したところで、少女はリュカを振り向き見た。
顔には一つ、生気の感じられない緑色の目。口元にはいかにも愉快そうな笑みを浮かべ、いつの間にかその両手に握られているのは、既視感ある棘の金棒二つ。少女の姿に化けていた悪魔神官は、リュカたちをまんまとトンネルの罠に嵌めたことに満足したように、不気味な笑みを残して姿を完全に消してしまった。リュカが口の中が痛くなるほどに歯ぎしりをして悔しがるが、魔の力をもって姿を消した悪魔神官をもうどうすることもできない。
敵の数が徐々に減る。流石に世界樹の葉を無限に持っているわけではないようだ。その不利な戦況に気付いた敵の内、命の惜しくなった敵から逃げ出していく。リュカは余程敵を追い、余さず倒してやろうと、口の中に牙でもあればそれを剥き出しにするように歯を食いしばっていたが、寸前で冷静になった。自分の脇に、疲れたように下ろされた天空の剣の剣先が見えた。今は力の限り敵を追い詰めることよりも、子供たちを守り、妻を救い出すことを第一に考えなければならないのだ。
肩で息をしながら、逃げていく敵の姿をただ注意深く見つめる。悪魔神官の姿はない。自らの手を下すまでもないと思ったか、それともリュカたち侵入者を疲労困憊とさせるのが目的だったか、見える範囲に魔物らしき姿も、少女の姿も目にすることはできなかった。
「大丈夫か? ティミー?」
そう言いながら、リュカはティミーが腕に負った火傷の怪我を回復呪文で癒した。敵の呪文攻撃は強烈で、ティミーは自身での回復が追いつかなかったのだ。剣を握る手にも力が入らなくなり、思わず剣先を床に向けていた。
「うん、ありがとう、お父さん」
「ねえ、お父さん、あの子はどこに行ったのかな。一人じゃ危ないから早く見つけないと」
ポピーの言葉に、ティミーも同意するような目を向けて来る。二人は今も前に行っていた少女を本当の人間と思っている。
「あれは僕たちをおびき寄せるために人間に化けた魔物だよ」
ここで嘘を取り繕っても意味はないと、リュカははっきりと二人にそう知らせた。二人ともその可能性も無きにしも非ずと言った表情で顔を見合わせていたが、男の兵士ではなくまだ幼い少女という見た目に、どうしても同情心が勝っていたのも事実だ。敵は巧みに、そのような人間の同情心を利用するのだと、リュカは言外にそう含めるように子供たちの戸惑う表情を真剣に見つめる。
「それにしてもスラりんたちも気づかないなんて、敵も上手く化けるんだね」
感覚に鋭い魔物の仲間たちでも、この大神殿にいる人間の姿に化けた魔物の正体に気付かないのは、それほど敵も人間に化ける術に長けているということなのだろう。
この時、リュカの頭の中には一つの考えが浮かんでいた。決して誰にも話したくはない考えだ。
この大神殿では恐らく多くの人々が既に魔物の手にかかり、犠牲となっているのは間違いない。その中には先ほどリュカたちが目にした少女のような奴隷の身に落とされた者、はたまた見張りを務める兵士も魔物の手にかかっているのかも知れない。
魔物たちが化ける人間はもしかしたら、本当にこの世に生きていた者たちだったのではないだろうかと、自然とそのような考えがリュカの脳裏を過る。犠牲になった者たちは、本人の意図しないところで勝手にその身を使われていることも考えられた。しかしこれはあくまでも、リュカの勝手な想像に過ぎない。一人静かに考えたところで、答えも出なければ、蟠りしか残らない。今はなるべく平静を保ち、心を乱すことは極力避けなければならない時だと、リュカは考えに耽ることなく、少女の姿に化けていた魔物が姿を消した方向を見据える。
「先に進もう」
それだけを言うと、リュカは地下神殿に響く明かりの火の音が不気味に揺れるのを見ながら、通路下のトンネルを抜けて行った。



地下神殿内にはいくつもの小部屋があり、その部屋のどれもが、中に人も魔物もいないにもかかわらず明かりが灯されていた。その明かりは敵の魔力により灯されたものなのだろうと、リュカはグランバニアに灯る火を思い出す。グランバニアもまた、あの土地に宿る魔力を融通し、全てを城内に収めてしまったグランバニアの内部を絶えず照らしている。僅かに既視感ある構造はそう言うことなのかもしれないと、リュカは壁に灯る火を見つめる。
「この部屋も何かに使われていたのかな」
小部屋に入り、ティミーが辺りを見渡す。恐らくこの場所もまた、光の教団の信者らにより使用されていた場所なのだろう。しかし今は、人一人いない。今日は大神殿完成のための祝の場が設けられていたはずで、この地下神殿にいた信者であった人間たちは残らず、地上の大神殿に集められていたに違いない。
いくつもの小部屋が設けられているのは、多くの人々を一つの場所にまとめて集めないようにしていたのだろうと、リュカは思っていた。この神殿を作った魔物らにとって、人間一人一人を脅威に感じることはないだろう。しかし多くの人間が集まり、万が一にでも結託してこの神殿で暴動でも起こせば、魔物らもただ事では済まされない。集団となった人間の反逆を恐れ、魔物らはいくつもの小部屋を設けて人間を管理し、地下神殿の造りを複雑にして、容易にはこの場から逃げられないようにしたと、リュカは神殿内を歩く中でそのような考えを頭に巡らせていた。
立体構造となる地下神殿内を、極力身を隠しながら進む。時折、兵士の姿をした者が巡回するように歩いている姿を見る。しかしこの地下神殿は非常に広く、その割には配置されている兵士の姿は少なく、用心深く進めば兵士の姿をした敵にも見つかることなく先に進むことができた。
いくつもの小部屋を覗いてきた。どこも殺風景な部屋で、そこに人間の生活感は感じられなかった。ただ居場所があれば良いだろうと言うように、そこにはただの大きな箱があるだけのような雰囲気だった。
しかし一つだけ、部屋の外にまでも異様な気配を漂わせる場所があった。入口の扉からして、雰囲気が異なった。扉には隠そうともしないような悪魔を模した彫刻が施されている。それを見て、ティミーもポピーも同じように顔をしかめる。
「あそこは……魔物がいるのかな」
「きっといるんじゃないかしら。だって、あんなに恐ろしい扉、今までなかったもの」
これまでには信者である人間たちのための部屋はいくつもあったが、魔物のための部屋などはどこにも見当たらなかった。もしこの扉の向こうが魔物のための部屋だとしたら、敢えてこの扉は開けて確かめる必要もない。しかしリュカの肩に乗るスラりんも、リュカの後ろから禍々しいとも言える扉の様子を窺うガンドフもベホズンも、特別警戒する素振りは見せない。ただリュカの肩に乗るスラりんは、扉の正面に立つリュカの肩の上で一度身を震わせた。扉の悪魔を目にして怯えたというよりも、扉の中の空気を感じてなのか、抑えきれない震えが出てしまったように感じられた。
リュカは仲間たちを少し後ろに下がらせ、一人扉に近づいて、扉に手を当てた。鍵が必要だろうかとも思っていたが、扉は重々しい石造りの見た目に依らず、軽くすっと部屋の内側へと開いた。その途端、内部から吐き気を催すほどの異臭が立ち込めた。肩に乗るスラりんがその酷い臭いに目を回し、たまらずリュカのマントの内側に逃げ込んだ。
部屋の中に酷い腐敗臭が立ち込めている状況を察知し、リュカは一度、扉を閉めた。後ろにいるティミーとポピーはまだこの部屋の中の異常に気づいていない。しかし彼らを守るように立つガンドフとベホズンはすぐさま気づいたように、どこか険しい表情を見せている。
「中に魔物はいないみたいだから、ちょっと僕一人で中の様子を見て来るよ」
そう言いながらリュカは自分のマントの内側に逃げ込んでいたスラりんをポピーに渡した。しばし目を瞬かせていたティミーとポピーだが、納得が行かないと言わんばかりに父リュカに言い募る。
「みんなで一緒に行こうよ! もしかしたら魔物だっているかも知れないしさ!」
「そうよ、お父さん。一人だなんて、危ないわ!」
「……いや、二人には多分、耐えられないよ」
地上の大神殿でも、人々の発する異臭とラマダの発する香の匂いで、頭が痺れるような香りが充満していた。しかしこの小部屋に立ち込めるのは、明らかに何かが腐り朽ちたような酷い臭いだ。部屋には当然のように窓も見当たらず、真っ暗で、臭いは逃げ場もなく充満するしかない状況だ。
「すぐに戻るから。みんなは扉の外で待ってて」
それほど酷い環境の小部屋など、本当ならば調べることもなく素通りしてしまえば良いのかもしれない。しかしリュカは、この場所を素通りすることができなかった。似たような臭いが漂っていた場所を、リュカはかつていたその場所を思い出す。
そこには水の流れる音が絶えず響いていた。ヘンリーと共に、時には一人で、何度も放り込まれた牢のある場所には、この部屋の中に充満するものと似たような臭いが漂っていた。何故そのような酷い臭いが発生するのかと、思い出したくもないが、そこには奴隷としての人生を終えた者たちの亡骸が行きつく場所だったからだ。
しかしあの場所の方がまだましだった。奴隷としての人生を終えた者たちは、牢の近くに簡単に作られた墓地に葬られるか、樽に詰め込まれ、セントベレス山から流れ落ちる滝と共に海へと放り出される。そのためそのまま捨て置かれる亡骸は殆どなかった。まだ看守たちの温情があったのかもしれないと、今になってリュカはそう思えた。
「すぐに戻るよ」
安心させるために、リュカは同じ言葉をティミーとポピーに告げる。父のどこか切羽詰まったような表情に、二人の子供は逆らうこともできずにただ頷くだけだった。二人を守るように、ベホズンがその巨体で二人の姿を外から隠す。スラりんもまた二人を守るべく、ベホズンの冠の上に乗り、辺りを警戒し始める。
「リュカ」
再び扉に向かうリュカの背中に、ガンドフが声をかけた。
「シンパイ、ダヨ」
ガンドフの優しさ溢れるその声に、リュカの張りつめている心が揺らぐ。仲間の優しさに頼ってしまいたくなる。本当は一人で足を踏み入れたいような場所ではない。あまりの臭いに気分も悪くなるだろう。意識を保っていられるのがやっとかもしれない。そんな時に誰かが、頼れる誰かが傍にいてくれれば、それだけでどうにか身体も心も保つことができるだろう。かつてヘンリーと二人で生きてきた時のように。
リュカは差し出されたガンドフの大きな手に、自分の手を乗せた。鋭い爪の伸びるガンドフの手は、その見た目にそぐわず果てしなく優しい。
「……寄りかかってもいいのかな」
「イイヨ」
仲間がいるのだから仲間に頼れと、ガンドフはリュカの背を手で支えた。二人の子供を死んでも守らねばならない父だって、誰かに頼りたくなる時もある一人の人間だ。扉の前で意を決したように一度大きな息を吸いこみ吐き出すと、リュカはガンドフに心を支えてもらうようにして扉を開けた。



扉を閉じれば、中には明かり一つない真っ暗闇の空間だ。鼻を突く異臭に慣れるには時間がかかる。慣れる前に気を失ってはならないと、リュカはマントを引き上げ、顔の下半分を覆う。それでも全身が毒されるかのように、暗闇の空間に漂う異臭がじわじわと見えない攻撃を仕掛けてくるようだった。ガンドフもまた、一つ目を細めしかめつつ、リュカの隣でじっと立っている。
「ガンドフには部屋の様子が見える?」
目の利くガンドフはたとえ暗闇でもその状況を目で確かめられるはずだと、リュカがそう問いかけるが、ガンドフはただ黙ってその場に立ち尽くしたままだ。呼吸すらも忘れているようなガンドフの様子に、リュカは暗闇の中で再び声をかける。
「ガンドフには……何が見えてる?」
濁さず率直に聞くべきだと、リュカは意を決してそう言った。リュカが閉じた扉は小部屋を完全に暗闇にはしていない。扉と壁の隙間が僅か開いており、そこから漏れる明かりがあれば、リュカでも時間をかけてこの小部屋の中の様子を探ることは可能だ。ただ目が慣れるのに時間がかかるだけだ。
リュカの言葉に応えるガンドフの声は、震えている。
「タブン……ニンゲン……」
そう言ってからもまだ動けない様子のガンドフの腕を擦り、リュカはまだよく見えない暗闇の部屋の中を移動しようとする。しかし数歩踏み出したところで、リュカの足が何かを踏んだ。乾いた、軽い音がした。魔物の気配はない。しかしこの場所には何か、重々しい空気が溜まり、足元に沈んでいるようだ。
リュカはその場にしゃがみこんで、自分が踏んで音を立てたものを確かめようとした。暗くてよく見えない。しゃがむと臭いが一層強くなるが、生唾を飲んでひたすら我慢する。目を凝らしている内に、扉の外から漏れる明かりが目に馴染み、ごくわずかながらも足元の様子を見ることができた。リュカがそれを手に取ると、それはリュカの手の中で時を迎えたように粉と散った。それはリュカが踏むまでもなく、既に粉と化していた。しかし誰かの助けを待っていたように、形を留めていただけだった。
ガンドフは何も言わない。しかしその様子を感じれば、リュカは己が手にしたのが人間の骨であることを悟った。予想はしていたのだ。部屋の中に立ち込める腐敗臭に、そういうことなのだろうと、リュカは意識せずともその現実を覚悟していた。
時間が経ち、リュカの目も徐々に暗闇に慣れてくる。小部屋の中の様子がぼんやりとだが、視界に映り込んでくる。予想はしていたが、予想以上に酷い有様だった。
床の至る所に、人の骨が散らばっていた。この神殿にいた魔物は、奴隷の人間をさも当たり前のように食らっていたような発言をしていた。考えたくはないが、そういうことなのだろうと勝手に思考が巡った瞬間、リュカは激しい後悔と悲しみと罪の意識に苛まれた。
もっと早くにこの場に来れていたら、ここで命を閉ざされた人たちも救うことができただろうか。自分が運良くこの場を脱出した後も、この場での生活が変わることなどなく、希望も持てないまま人々の命が奪われていた。こんなにも多くの人たちが苦しめられ、この世を去ってしまったのと同じ時間に、自分は信頼する仲間たちに出会い、愛する妻と共に生き、旧知の者たちにも再会し、可愛い子供にも恵まれた人生を送ったことを振り返れば、それ自体が全て懺悔に値するのではないかと、固い床に着く両手におかしなほどに力が入る。
床に散った骨に目を落としていると、ふと遠くから視線を感じたようで、リュカは力の入らない頭を上げてのろのろとその方を見る。顔の下半分を覆っていたマントは下にずり下がり、辺りに充満する強烈な異臭が鼻を突こうとも、もうリュカは異臭を気にするほどの余裕を失っていた。
落ち窪んだ眼窩二つが、リュカを見つめているようだった。その者は一人だけ、壁に寄りかかるような姿勢で、今にも動き出しそうなほどに生前の人間の姿を留めているように見えた。恐怖はなかった。ただその骸は確かにリュカを見ているような気がして、リュカは足元に転がる骨に注意しながら部屋の中を歩き始めた。
床には多くの骨が散らばっているが、それらの下敷きになるように、覆いになるように、奴隷たちが身に着けていた衣服が朽ちてそこここにあった。しかし近づくその者が身に着けるのは、かつてリュカたちを苦しめていた看守が身に着けていた衣服だ。それも同じように朽ち果て、一見しただけでは奴隷の服とさほど変わらないようにも見える。明らかに違いが見えるのは、足に履くブーツだ。今では骨となってしまったその者の足を今も守るように、膝下まで覆うブーツが床に投げ出されるように置かれている。
壁にもたれかかる骸の腕の骨は、床に落ちていた。目を凝らして見れば、手首には鉄の枷が嵌められ、明らかにこの場に捕らえられていたのが分かる。この場所はかつてリュカやヘンリーが捉えられていたような牢の役割も果たしていたに違いない。彼は看守の立場にありながらも、何かの罪を着せられ、この場に長く捕らえられていたのだろうと、リュカはこの場所の残酷さを思い出すようにそう考える。
床に落ちた手の骨の近くに、骨とは異なる石の欠片が落ちていた。ごく近くの床が一部壊れ、剥がれている。石の欠片はこの者が鉄の枷で床を殴りつけ、床の一部が剥がれたものだとリュカは想像する。この場所には神殿の他の部分に見られるような、貴重な大理石など必要ではないと言わんばかりに、粗末な石造りの牢獄があるだけだ。脆い石を彼は、何かの目的で削り取ったのだろう。
「リュカ、ココ」
目の利くガンドフには先に見えていたようだ。床を指差すガンドフに釣られ、リュカも石の欠片の近くの床に目を凝らす。よく見えず、地べたを這うような姿勢で目を向け、手で床をなぞり確かめる。不規則な凹凸を手に感じながら、リュカはそこに文字が彫られているのを感じた。
「ナニカ、カイテアル?」
ガンドフは言葉こそ上達したが、文字を読むことはできなかった。リュカは自分にしかできないことなのだという責任を感じつつ、床を削って書いたであろう文字を、手指の感触と視覚をもって読み取って行く。
「……マ、リ……ア……」
読み取る文字が名前になる。それが自身も知る名になれば、リュカは思わず一度そこで手を止めた。床に這うようにしていた頭を上げ、目の前の骨となった亡骸を見る。暗い眼窩に恐怖は感じない。ただ彼の遺した言葉を、自分は余さず読み取らなければならないのだと、再び床に這いつくばる。
“マリア……兄さんはもうだめだ……せめて……せめておまえだけはしあわせになってくれ……”
石の欠片で床に彫られた字は、辛うじて読めるほどに拙いものだった。文字を彫る時には既に意識も朦朧としていたのかも知れない。しかし朦朧とする意識の中でも、彼の中には常に妹を想う心が消えなかった。最期の力を振り絞って床に文字を彫る彼の手により、ただ唯一の家族である妹の幸せを願う言葉だけが遺されていた。
文字をなぞっていたリュカの手に涙が落ちる。心のどこかで覚悟はしていた。しかし同時に、希望も捨ててはいなかった。その希望に賭け、この場所に赴いたようなものだった。
「ごめんなさい、ヨシュアさん……本当に……すみません……」
看守の服を身にまとったままこの場所に囚人のように捕らえられた彼は、恐らくリュカやヘンリーがマリアを連れてこの場所から逃げ出して間もなく、奴隷を逃がした罪を咎められ捕まったのだろう。大神殿を建造していたこの場所で、リュカとヘンリー、特にリュカは奴隷になり切れない反抗的な人間として看守らに目をつけられていた。目立つ奴隷が仲間と姿を消し、尚且つ彼の妹もまた同じく姿を消したとなれば、奴隷を逃がした看守として当然の如く罪を着せられたと考えるのは想像に難くない。
そしてヨシュアは、自ら罪の告白をしたのではないだろうかと思う。この場所には他にも多くの奴隷たちがいた。その中で、まるで選別をするかのようにリュカとヘンリーの力を頼りにし、自身の妹をこの場所から逃がすことを、彼自身も罪を犯したと考えていたのではないだろうか。
抵抗することもなく、大人しく罪を認め、囚人同然の立場に落とされた彼は、素直にその立場に甘んじた。妹を逃がすことを決めた時から、その覚悟があったに違いない。リュカは当時、死体用の樽が詰まれる牢獄奥で見たヨシュアの表情を思い出す。彼の表情に暗さはなく、むしろ晴れやかですらあったと、今は骸となった彼を見つめた。
「……でも、それでも……生きていて欲しかった、です……」
これだけ多くの人々が息絶え、亡骸が放置されているようなこの場所においても、リュカはマリアの兄ヨシュアが生きていればと望む心を抑えられない。今もこうして自分が生きていられるのは、彼があの時勇気を持ってリュカたちを逃してくれたからなのだ。一言でも良いから、面と向かって礼を言いたかった。ヘンリーも同じ気持ちであるに違いない。むしろマリアを妻にした彼の方が、ヨシュアの生存を強く望んでいたはずだ。
「マリアノ、オニイサン?」
ガンドフが大きな一つ目を瞬きしながら、蹲るリュカ越しに壁に寄りかかる亡骸を見つめる。血肉を失った骸になれば、流石に蘇生呪文の効果はない。ましてや回復呪文を施そうが、ただの徒労に終わる。しかしガンドフは迷わず回復呪文を唱え、亡骸となったヨシュアの傷を癒そうとした。当然、回復呪文は虚しく亡骸の周りを彷徨うだけだ。それでもガンドフは、それは死者に対する祈りの言葉なのだと、骸を見つめる大きな一つ目から滂沱として涙を流し始めた。
「……ツレテ、カエル?」
ガンドフの言葉に、リュカは静かに頷いた。マリアは今も、この地に残してきた兄の帰りを待っている。兄の安否の分からない状況を彼女はもうおよそ十年過ごしているのだ。自身では何をすることも叶わず、ただ大事な人の帰りを待ち続ける心痛の度合いは計り知れないものがある。その終わりの見えない心の痛みを、終わらせることができるかも知れない。
リュカは自身の頭部に巻く濃紫色のターバンを解き、床に広げた。そこへガンドフが丁寧にヨシュアの骨を一つ一つ乗せていく。一つ目から落ちる涙も一緒になって、骨に染み込んでいく。人間、骨となってしまえばこれほど小さくまとまってしまうものかと、リュカもまた涙を落としながら恩人の骨を拾う。
ターバンに包み込んだヨシュアの亡骸を、ガンドフが両手で大事に抱え込んだ。床に残されたのは彼が身に着けていた看守の服だ。恐らく彼は奴隷を痛めつける立場のこの看守の服など着ていたくはなかっただろう。忌まわしき思い出の残る服はこの場に残し、リュカは彼の刻んだ言葉を確かに胸に刻みつけ、ガンドフと共に部屋の出口に向かう。
「後で必ず、マリアのところへ連れて行きます」
ガンドフの持つ濃紫色の包みに、リュカはまだ涙声のままそう言葉をかけた。返事はないが、それでもマリアのいる場所へ帰ることは彼の最大の望みだったに違いないと、リュカはそう信じて部屋の扉を静かに開いた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。
    更新お待ちしておりました!

    bibi様が今回、なぜベホズンを連れて行ったのか…前話でもそうでしたが、たくさんの奴隷たちを回復させてあげるため、終盤近くなり魔物たちの攻撃がはんぱなくなるし、イブール相手に全体回復をベホマズンにしないと追いつかない執筆になりそうなんでしょうね。
    初めてベホズンを旅に連れて行った理由がなんとなく分かったような気がします。

    悪魔神官にくたらしいですねぇ。 グランバニア襲撃の時もそうでしたが、自分自身の手を汚さないで回りに戦わせるセコい遣り方イライラしますね(汗)
    今後イブール戦の前に、bibiワールドならではの悪魔神官戦(ボス戦並の)描写がある予感です。

    世界樹の葉を使って来る描写にしたんですね。 ここで世界樹が滅ぼされた過去のフラグ回収。
    もしかしてゲームで本当に世界樹の葉を魔物が使うんですか?
    世界樹の葉を小説内の描写だとしたら今後の魔物たちは世界樹の葉を持っている可能性があるかもしれない…なかなか戦闘が厳しくなってきますね。

    ベホズン大活躍ですね。

    なるほど真穂来てとベホマズンのコンビネーション!
    あるいみ呪文攻撃を耐える最強の方法、今後の描写に大きく関係してきそうです。
    でも、小説としてベホマズンは正直bibi様、使いにくい感じあるのでは?
    ベホマズンがあれば他キャラの回復呪文がいらなくなる?…全部ベホマズンが持って行ってしまうかも?
    ケアル少し懸念であります。 今後のベホマズンの描写がどうなって行くのかbibi様の腕の見せ所でありますね(笑み)

    とうとう…とうとうこのヨシュアの描写をしなくてはならない時が来てしまったんですね…。
    bibi様がどのように描写してくださるのか楽しみにしていました。
    魔物たちが複数の人間を食い荒らした場所…むごいですね。
    ヨシュアは繋がれたまま魔物に食べられたのか…それとも繋がれたまま飢え死にしたのか…。
    もしかしたらヨシュアの前で奴隷たちが魔物に食われていた、ヨシュアはそのこうけいを目のあたりにしていたのか…死ぬ寸前にマリアに当てた、必死に石を削った遺書、そうですよね悪臭はんぱないですよね腐敗しているんですから…そんな中に入って行くリュカの嫌な予感、予感的中したリュカの心情と過去のヨシュアの顔…。
    ゲームではすぐに話が進むこの話…、bibi様…感情輸入したら少しウルっと来ましたよ(涙)
    骨を持って帰る…そうだよね持って行ってあげないとね…。
    今後、ヨシュアのことを話に行ったリュカ、マリアとヘンリーの描写、bibiワールドでどんなふうになるのか…たぶん暗い話になりそうですね。

    次回はとうとうイブール戦になりそうですか?
    悪魔神官との決着は?
    ターバンを外し遺骨を持って部屋を出た後のティミー・ポピー・仲間モンスターたちの反応は?
    次話が気になります!

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ベホズンは・・・はっきり言って勢いで仲間にしたところもあります(汗) 私、結構、その場のノリとか勢いで仲間にしている感じなので、仲間にしてから色々と、この子が仲間になったらどんな風に力になってくれるかなとか過ごしているかなとか、後付けで考えたりしています。それはそれで楽しいもので・・・。今回はラマダが大神官を名乗っていましたが、本当の大神官はベホズンみたいな仲間であって欲しいな、と。そんな思いで連れて行っちゃいました。

      悪魔神官、憎たらしいですよね。私の中ではゲームの中でも本当に憎たらしかったので、その時の恨みつらみもかねてこんな立ち位置になっています。勝手ですね(笑) でもこういう憎たらしいやつ、人間でもきっといるでしょう。魔物と人間は紙一重、そんな気持ちでお話を書いていたりします。

      本当に世界樹の葉を使うんですよ、あの二匹は。この世に世界樹がないというのに。・・・ということは、かつてあった世界樹から魔物がありったけの世界樹の葉を強奪したに違いないと、そんなことをここで考えていました。このような細かな設定をいちいち見るにつけ、一体製作者の堀井さんはどこまで細かくゲームの世界を設定していたのかしらと、その想像力と構成力に脱帽するばかりです。

      ベホマズンって確かに使いづらいんですね。ゲームでもそうですよね。いざって時にはとても頼りになるんだけど、ちょこちょこ回復するビビリの身としては(笑)あまり出番がないという。ベホズンは切り札的な位置ですね。今後、どう活躍してもらうか・・・考えます。

      ヨシュア兄さんの描写は、書いていて辛かったです。でもドラクエって結構内容が非情だったりするんですよね。何だか可愛らしいキャラの姿でオブラートに包まれている感じですが、実際は・・・みたいな。
      この場面、当時ゲームをした時、衝撃を受けていました。しばらく画面の前で固まっていた記憶があります。あのドット絵の骸骨と淡泊な音と共に流れるセリフにまた背筋がぞくっとなったのを覚えています。
      ラインハットへ後に報告する予定ですが、そうですね、多分暗い話になるかと思います。でもそれだけでは終わらせない予定です。まだ細かなことは考えていませんが・・・第一にその時には彼女がリュカの傍にいてくれます。きっと力になってくれるはず。

      次回はイブールとの戦いに、としたいところです。まだ書いていませんが(汗) 次作もどうにか書いて行きたいと思います。あともう少しで、ですもんね。早くお母さんに会わせてあげないと。

  2. ピピン より:

    ヨシュアさん…彼の決断がこの世界の運命を変えたんですよね。
    紛れもない勇者の1人だと思います。
    5は本当に心にズシっと来るシーンが多い…!

    • bibi より:

      ピピン 様

      仰る通り、ヨシュアさんの決断が無ければこの世の命運は変わっていたと。勇者の一人・・・本当にそうですね。
      5はズシッと来るシーンが多いために、それだけ人気も出たのかな。新しい12も大人向けのダークな話と堀井さんが仰ってるようで・・・同じような路線だったりするのかしら。

  3. やゆよ より:

    bibi様

    更新お疲れ様です!
    今回もとても良き回でした。ゲームでも深くは触れられませんが、残されたお兄さんの葛藤や苦悩を思うと胸が締め付けられます。

    ついに、ビアンカの救出が迫ってきましたね。
    大ファンの僕には待ち遠しくて仕方ないです。きっと泣いてしまいますね、、
    子供達にもはやく再会し、たくさん団欒の時間を過ごしてほしいと心底思います。

    • bibi より:

      やゆよ 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ゲームでは何ともあっさりした感じで通り過ぎるほどのものなのですが(気づかないまま先に進むこともできる・・・)、どうしてもここは丁寧に書きたかったんです。彼もまた、世界を救った一人だと思っているので。

      遂に、ですね。ビアンカ、早く会いたいです。ここも丁寧に書いて行ければと思います。

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