親友と語る

 

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「お父さんたち、何をお話してるんだろ。ボクも一緒にお話聞きたかったな」
「何か事情があるんでしょ。ま、少ししたらここに来るってヘンリー様が仰ってたんだし、それまで待ってればいいよ」
ラインハット城一階の回廊を歩き、大窓から見える中庭へと案内されたティミー達は昼下がりの日差し降り注ぐ緑の中に身を移した。ティミーとポピーの二人はこの中庭に何度か足を踏み入れたことがあり、コリンズと駆け回って遊んだこともあったが、ドリスとピピンは目の前に広がる瑞々しい緑の景色にしばらく見入ってしまう。グランバニアの屋上庭園こそ美しいと内心自負していたドリスだが、ラインハットの中庭は一面が緑の芝草に覆われ、周りには様々な種類の花が植えられ、これから夏を迎えようとしている雰囲気を醸すように既に夏の花が蕾を大きくしている。グランバニアは一年を通して蒸し暑い気候だが、ラインハットに四季があるとはドリスも書物に知っていた。しかしさらりとした乾いた空気が中庭に吹き抜けるのを肌に感じ、中天を超えた日差しの強さを見れば、ドリスは改めて異国の地に初めて降り立った感慨に思わず耽ってしまう。
「ドリス、ラインハットは気に入った?」
無言で中庭の景色を見渡しているドリスに、ポピーがまるでラインハット側の人間のような調子でそう問いかける。ポピーは兄ティミーに比べ、単独で何度もラインハットを訪れているためにこの国の空気に慣れている。以前、コリンズが熱を出し調子を崩した時に、自責の念に駆られた彼女はお見舞いと言う理由でこの城に出入りしているのだ。
「まあ、ね。綺麗だなと思うよ。でもグランバニアだって綺麗だよ。自慢の庭園だよ」
「そうよね。グランバニアの屋上庭園だってとても立派だもの。こういうのってそれぞれに綺麗なものなのね。勝ってるとか負けてるとか、そういうことじゃないんだよね」
「グランバニアには屋上庭園があるのですか。機会ありましたらぜひ拝見したいものです」
先に案内されたドリスやポピーの後ろから、デールが興味深そうな様子でそう話しかけると、ドリスは思わず身体を硬直させた。そんなドリスの様子を、デールの隣についてきたコリンズが不思議そうに見上げている。
「リュカ王もポピー王女も便利な移動呪文の使い手で、羨ましい限りです。私にもそのような能力があれば良かったのですが」
「しかし叔父上、呪文を使える人間自体、珍しいと聞いています」
「そうだね、コリンズ。ほとんどの人間が呪文を使うことさえままならないのが現実。その中でリュカ王もポピー王女も、ティミー王子も呪文を使うことができるのですから、やはり特別な方たちなのだと思わせられます」
「デール王、お母さんも呪文を使えるんです! 夜にはランプに火をつけてくれるんだ」
「あ、それ、オヤジと一緒だ! あんな女神みたいな人がオヤジと同じ火の呪文を使えるのかよ」
「コリンズ君、女神って……」
「え? いや、だって、そうじゃんか。あんな女の人、オレ見たことないもん。なんて言うか、人間離れしてるって言うか、そんな感じだろ」
コリンズのビアンカに対する印象はその一言に尽きた。ラインハットと言う城の中に過ごし、母マリアを始めとして様々な女性を見て来たコリンズだが、彼はこれまでティミーとポピーの母のようなこの地上には存在しないような美を持つ女性を目にしたことがないと感じていた。
「そんでもってあの、ボン、キュッ、ボ……」
「あ、君も一緒にこちらへどうぞ。ドリス姫の護衛としていらしてるのでしょう?」
コリンズが言いかける言葉を遮るように、デールが中庭の端で佇むピピンに声をかけた。ピピンの視線は綺麗に調えられた中庭には向けられずに、先ほど通ってきたばかりの中庭と城内を通じる扉へと向けられている。
「あ、はい。恐れ入ります」
そう言いながらもピピンが城内の様子を気にしているのは誰の目にも明らかだった。扉を開いて姿が現れることを今か今かと待ち受けるようにしか見えないピピンの様子に、ドリスが思わず溜め息を吐く。
「こら、ピピン。あんた、誰の護衛でここに来てるのよ」
そう言いながらドリスがピピンの背中を叩けば、ピピンは思ったよりも強いその力に咳き込んでしまう。女性であるドリスは決して力が極端に強い訳ではないが、彼女の一挙手一投足が一流の武闘家のものであるために背中に受けた衝撃にはどうしても芯が残ってしまうのだ。
「……ドリス様は僕より強いじゃないですか」
「何言ってんのよ。今日はあたし、武器を持っていないんだからね。ティミーにポピーだって……」
「素手でも十分にお強いですよ。それに王子も王女もとんでもない呪文をお使いになるでしょう? それにリュカ王に王妃様に……って、考えてみたらこの中で一番弱いのって、もしかして僕!?」
「その精神が一番頼りないわよっ。あんた、お父さんを目指して立派な兵士になるんでしょ?」
そう言葉にしつつ、ドリスは今度は優しくピピンの肩に手を置いた。普段の陽気で調子のよいピピンの言動や行動に隠されがちだが、彼は数か月前に父であり、グランバニアの兵士長であったパピンを戦いの中に亡くしている。今ではその位にジェイミー兵士長が就いているが、それまでは彼の父パピンがグランバニアの兵全体をまとめ、そして厳しくも人に好かれていた父をピピンは自慢に思っていた。
「お父様も貴方の国の兵として国を護られているのですか。それはとてもご立派なことですね」
ドリスの言葉を聞いたデールが、国の兵と言う立場の者に対する敬意を表するように、その息子であるピピンをも賞するように言葉を述べる。友好国の国王その人に声をかけられたピピンだが、過剰な緊張感を表に出すこともなく、素直に正面で頭を下げ「ありがとうございます」と礼を言う。
「ただ父は……この前の戦いで命を落として……」
一国の王の前でどのようにこの事実を述べるのが正解なのかが分からないピピンは、途切れる言葉で当時の状況を伝えるだけだった。あの戦いから既に半年近く経ち、ピピン自身心に負った傷を普段は忘れることができるようになったが、思い出した時には当然のように胸が塞ぐ思いがする。気づけば父の墓前に連れられ、リュカを初め国の人々が揃って父の死を悼んでくれたことで、初めてピピンは父がいなくなったことを理解したと言うような状況だった。自分の知らぬ間に、唐突に消えた大事な命に対して、ピピンの想像はまだ本当の意味では追いついていないのかも知れない。
「……それは失礼をしました。配慮に欠ける言葉をお許しください」
「い、いや、そんな……むしろラインハットの国王様にそんなお言葉をいただけるなんて、父も僕も恐縮してしまいます」
「しかしそのようなお父様を目指して兵士を目指すというのは、やはり立派な行いと思います。貴方のような立派な若い方がいてくださるから、国は国として在ることができるのです」
そう語るデールの瞳には、一生消えることのない薄暗い色が浮かび、彼の経験してきた歴史をまだ若いその瞳の内に見せる。ただでさえ年若い国王として玉座に就くデールだが、その上童顔であるために、陰では頼りないと噂されることもあることをデール自身が知っている。兄ヘンリーこそがラインハット王に相応しかったが、彼がその座に就くことを拒んだために弟であるデールがお飾りのように玉座に座らせられているのだと、未だにデールを揶揄する話はなくならない。そしてデールはそれらの話を厳しく追及することはせず、甘んじて受け入れている。話の内容が全て間違っているとは言い難い。デールもまた、今も尚兄ヘンリーが国王であるべきだと思っているために、その思いが知らず言動行動に現れてしまっているのかと反省する思いすらある。
「パピンさんは本当に強かったんです、デール王。もしかしたらお父さんと同じくらい、だったかも」
「武闘大会でも決勝戦で、お父さんが勝ったけど、でもあれってギリギリだったよね」
ポピーとティミーがグランバニアで行われた前年度の新年祭の様子を思い出しながら、かつてのパピンの強さをまるで自分たちの誇りであるかのように語る。実際、兵士長パピンはグランバニアを代表する誇れる兵士だった。息子ピピンにとっても自慢の父だった。亡くしたからこそ一層そう強く思える。
「お亡くなりになった父君も、同じ兵士を目指す息子の貴方を見れば嬉しさに頬を緩めておられるでしょう」
「有難きお言葉です。……あの、ところで、えっと……」
「はい、どうかしましたか」
「あの可愛らしい方はいつこちらに来るんでしょうか」
一国の王に対してある種物怖じせずに個人的な事を聞けるのはピピンの強味なのかもしれないと、近くで話を聞いているドリスが目を瞬き驚いている。
「姉上のことですね? さて、兄上たちとの話が終わり次第こちらに来るものと思いますが、どれほど時間がかかるかは私にも何とも……それほど遅くはならないと思いますよ」
「そうですか。そうですよね。もうちょっとあの方とお話したいなあ……なんて」
「ははは……兄上に怒られない程度にしておいた方がいいですよ」
「ピピン、あまりグランバニアの恥を晒さないで欲しいんだけど」
デール、ドリス、ピピンが中庭の片隅で立ち話をする様子を、二人のラインハット兵が護衛目的に見守っている。一人グランバニアの若い兵士が混ざっていることに首を傾げつつも、デールが許容している雰囲気を察して見守るだけに留めている状況だ。
いつになく大人しい様子で立ち話をするドリスを物珍しそうに見るポピーの傍で、コリンズが先ほどの茶話会で途中で切れていた話を再開させるように彼女に話しかける。
「なあ、お前たちの母君って、確かあのセントベレスの山の上で助けたっていう話だったよな。リュカ王がリュージンに乗って行ったって……」
「あっ、何だろあの虫」
コリンズがそう問いかける途中で、草の中を跳ねる虫を見つけたティミーが急に走り出した。
「お兄ちゃん、走って追いかけたら虫さんが逃げちゃう!」
続いて駆け出したポピーを必然と追いかけるコリンズ。三人の子供たちはティミーが覗き込む植え込みの近くに集まり、一緒になってティミーが見つけた虫を目を凝らして探し始める。
「ただのバッタじゃないのかよ」
「もっと大きかったよ」
「じゃあカエルさんかしら」
「そんな形じゃなかった気がする」
「じゃあカマキリ?」
「カマキリって何?」
「えっ、カマキリ知らないの、お前」
「私、図鑑で見たことがあるわ。前足に大きな鎌を持った……」
ポピーがそう言ったところで、思わずティミーとポピーの動きが固まってしまった。二人の脳裏に大きな鋭い鎌が振り上げられる光景が蘇る。巨大な鎌の刃は父リュカの首元に当てられ、誰もが動きを封じられた。恐らく父がこの世で最も憎んでいる敵ゲマの姿が、二人の脳裏に映像として張り付き、その映像の影響だけで二人は思わず息が詰まった。
「おい、どうしたんだよ。大丈夫か、お前ら」
二人の異様な雰囲気を感じ、コリンズが間近に声をかければ、二人はすぐに目の前の植え込みに視点を戻した。過去に経験した過酷な記憶は消えることはないが、今はラインハットの中庭の平和な空気の中で、友人のコリンズの声を聞くことのできる油断して良い状況だった。そう肌に感じた瞬間に、ティミーとポピーは極度の緊張から脱力した。
「顔色悪いぞ、ポピー。城で休んでた方がいいんじゃないのか?」
「……ううん、大丈夫。ありがとう、コリンズ君」
下から顔を覗き込まれ、ポピーは彼を心配させないようにと微笑む。首元を少し広げ、乾いた風で滲む汗を乾かす。
「ところでさっき、コリンズ君、何か聞こうとしてなかった?」
「え? ……ああ、お前たちってあのセントベレスの山の上に行ったって。あんなところどうやって行ったのかなって、気になったんだよ」
ラインハットの城から殆ど出たことのないコリンズにとって、ティミーとポピーが経験している旅での体験は全てが色鮮やかに見えるものだった。どこへ旅をしてきても必ず無事に戻ってくる二人の兄妹は、コリンズにとっては既にお伽噺の中に存在する勇者を超えているに等しい。
「それならマスタードラゴンに乗って行ったんだよ!」
「あっ、マスタードラゴンって、あの大きな竜だよな!? あれをリュカ王は竜神って言ってたのか」
「……まあ、私たちはこっそりついて行っただけどね。本当は来ちゃダメって言われてたの」
大神殿の奥深くにコソコソ隠れていた光の教団の親分を倒したから、もう光の教団なんて本当はないんだとティミーが言うと、コリンズは驚いたように目を丸くした。
「え、だって、まだラインハットの城下町には光の教団にお布施を続ける人がいるから、母上はシスターと一緒になって人々に理解してもらえるように腐心してるって……」
「そうみたいよね。結局、セントベレスの頂上で起こったことなんて、誰にも分からないんだもの」
「だからやっぱり、もっともっと悪いヤツをやっつけなきゃいけないんだ。そうしなきゃ、きっと終わらないんだよ」
そう言いながらもティミーは植え込みに逃げ込んだに違いない何か分からぬ虫を見つけようと目を凝らし続けている。それがたとえカマキリであっても、彼はその小さな生き物に憎しみを重ねるのではなく、その小さな生き物さえもこの世に生きていて欲しいのだと、巨大な悪意とは関係のない生き物の命を大切に思うだけだ。
物事や力は様々複雑に絡んでいるのかも知れないが、確実にその大元となる悪意がこの地上ではない場所で徐々に膨らみ、その内に手の付けられない状態になってしまうのだと、ティミーはその身に深く感じている。
「さっきマリア様も言ってたよね。とんでもなく悪いヤツがボクたちの世界にやってきそうだって」
「母上が言っていたことと少し違うような気もするけど」
「でもきっと放っておいたら、悪いヤツがボクたちの世界を失くしちゃうよ」
植え込みの草をそっと手で除けると、見つかったと言わんばかりのカマキリが、到底相手にならないような人間の子供に向かって勇ましく立ち上がり、二つの前足の鎌を振り上げて構えている。初めてカマキリという虫を目にしたティミーだが、その勇ましくも無謀なカマキリの振る舞いに、ティミーは邪教の大神官ラマダの前に立つ自分を想像した。このカマキリは今、たった一匹でいるためにティミーの相手ではない。しかしもしカマキリが大勢の仲間と共に、その中に蜂や虻、蚊などがいれば、応戦するティミーもただでは済まない。持つ力も様々な仲間たちが力を合わせれば或いは途轍もない物事を成し遂げることも可能だ。
「カマキリってすごく強そうだね」
「逃げないのね」
「コイツは肉食だからな。オレたちの事をエサだと思ってるのかも知れないぞ」
コリンズが半ば二人を脅すようにそう言うと、ポピーは小さな悲鳴を上げて二人の後ろに隠れた。ティミーはしばらくの間しゃがみ込みながらじっと植え込みの中で動かずに鎌を振り上げているカマキリを見つめていたが、どうやら向こうから襲い掛かってくることはないようだと、小さき虫の生活を邪魔しないようにとそっと植え込みの草を元に戻してやった。再び草の向こうに隠れたカマキリはその内にどこかへ本当の餌を求めて移動するのだろう。
「ボクは勇者として生まれたけどさ、全ての人を助けることができるわけじゃないんだよね」
現実のこととして、ティミーの手の届かないところで命を失った者たちはごまんといる。グランバニアの国を守るべく兵士長の任に就いていたピピンの父パピンもその一人だ。その他にも世界を見渡せば、一体どれだけの人々が不遇の死を遂げているのだろうかと、彼らの想像の及ばない現実の世界が実在している。
「でも悲しい思いをする人は一人でも少ない方がいいに決まってるよね」
「……まあな。そりゃそうだけどさ」
ティミーのいつもの快活さが声に現れないことに、コリンズは調子が狂うように曖昧な返事を口にする。ポピーは今は草の陰に隠れたカマキリはどこへ行ったのだろうかと、ただその辺りの植え込みに目を遣る。少しでも怖れを持ち、嫌だと思ってしまったことを内心詫びるような気持ちで、そっとその存在を密かに探す。
「どうしたのよ、ティミー。こっちに何かいたの?」
少しの間デールと立ち話をしていたドリスが、植え込みに向かって駆けて行った子供たちを追うように歩いてきた。その後ろからデールも甥を心配するような面持ちで歩み寄って来た。
「ドリス。やっぱりボクは勇者なんだ。ボクが動かないと、この世界はこのまま……おかしくなっちゃう」
まだ十歳になったばかりの少年が吐くような台詞ではないと、ドリスもデールも、彼らの後ろからついてきたピピンも思わず顔をしかめ、抗うような言葉を探す。しかしティミーは悲しくも、生まれついての勇者だった。まだ生まれて間もない頃に両親と離れ離れになり、本能に依るものか、両親の存在を強く求めて激しく泣く時に彼の勇者としての運命は、自ずと輝く天空の剣によって運命づけられてしまった。これほど小さな少年に課せられた重き運命など、ドリスは姉として、ピピンは兄として、できることなら振り払ってやりたいと思っているが、目の前の少年が背負う宿命に二人の手は届かない。
「でもティミーはまだ子供だろ。世界を、だなんて、そんなの大人に任せろよ。子供は出しゃばるなって、よくオヤジが言ってるぞ」
ティミーの運命に忖度せずにものを言えるのは、この場ではコリンズに限ることだった。彼はティミーに背負わされた運命など知るものかと、この世に唯一と言えるような友人を勇者という言葉から遠ざけたいと感じている。
「出しゃばってるつもりはないのよ、お兄ちゃんは」
生まれた時から片時も離れずに共に育った妹ポピーには、兄ティミーの抱える心の一部がまるで自身の中にあるかのような感覚に陥ることがある。今がその時だった。勇者として選ばれたのはあくまでも兄ティミーだが、一方で勇者の妹として選ばれたのが自分だという、ある種の自負が彼女にはある。本来ならば、勇者はたった一人でこの世に生まれる存在だったのかも知れない。しかし彼には双子の妹がいる。それはまだ少年であるティミーには重すぎる荷を共に受け持つために、妹の自分がここにいるのだと、ポピーはそう感じている。
「どうしてお前なんだよ。他にもっと強くて立派な大人がいるだろ!」
「それでもボクがやらなきゃ。他の誰にもできないこと、なんだよ」
「なんだよ、それ。もしかしたら他にももっとゴツイ勇者ってのがいるかも知れないだろうが!」
「いないよ。天空の剣も鎧も兜も盾も、あんなのこの世界に一つしかない。お父さんにだって装備できないのに、ボクは……」
「そんなの知るかよ! 世界ってとんでもなく広いんだろ! 探せば他にいくつも出てくるかもしんないだろ! もっともっと探せよ、天空の剣だか何だか知らないけどさ!」
「もうそんなこと言ってられないほど、なんだよ。だってマリア様だってシスターに聞いたんでしょ? 世界が悪いヤツらに壊されそうだって。もう、そんなに時間がないんだと思う」
「そんなの分かんないだろ。もしかしたらあと百年は平気かも知れないぞ。今からちゃんと、オレたちで準備すれば……」
「みんなでどうにかなることじゃないよ。ボクは、勇者だから……」
「勇者勇者って……勇者だから何なんだよ! 勇者がみんなを救うヒーローなんて、周りのヤツらが勝手に言ってるだけだ!」
「そんなことないよ。ボクは、ボクが勇者でありたいって思ってるよ」
「ふざけんな! 勇者なんて、ただのみんなの……イケニエじゃないか!」
誰もが心の中で感じ、しかし口にはできないその言葉を口にしたコリンズは、既に両方の目から大粒の涙を流していた。抑えきれない感情が爆発したのは、ティミーの言葉や思いに切羽詰まった様子を敏感に肌身に感じたからだった。どうにかして前に踏み出そうとするティミーの足を止めてやりたい、唯一対等の立場で友人としていられる関係の彼との時間をこれからもっともっと共に過ごしたいと、コリンズは必死だった。
「コリンズ、ティミー君に謝りなさい」
デールが泣きじゃくるコリンズの後ろからその両肩に手を置くと、静かにそう声をかけた。世界の命運を背負う勇者に対して生贄などと、思っていても言ってはいけない言葉だとデールはコリンズの両肩に乗せる手に伝える。友人をみすみす危地に送り込むようなことをしたくないコリンズの友人を想う気持ちは当然理解できる。先ほどの話の中にあったセントベレス山の上に建つ大神殿での戦いにおいても、ティミーもポピーも、コリンズには想像もできないような危険な目に遭っている。そして勇者としての使命を終えるまでは、ティミーは何度でもそのような危険な場所へ赴くのだと考えれば、どうしたってその足を止めたくなるのも当然の想いだ。
しかしティミーやポピーの身の危険を最も案じているのは、誰よりも何よりも両親であるリュカとビアンカなのだ。その二人が、言わば二人の勇者であるティミーとポピーと共に歩み続けると決めれば、それを覆すようなことを他の者はできようもない。
「デール王、謝らなくってもいいんです。だってボクは、イケニエなんかじゃないから」
「そうよ。だって勇者っていうのはヒーローでしょ? 悪い奴を倒して、必ず戻ってくるの。悪い奴になんか、負けないんだから」
諭すようにそう言いながら、ポピーはコリンズの正面に立ち、ポケットからハンカチを取り出すと広げて彼の両目に押し当てた。ポピーに正面から心配そうに泣き顔を覗き込まれたコリンズは、きまり悪そうにハンカチを手にすると、そのまま後ろを向いてしまった。そして叔父であるデールに甘えるように、彼の脇に擦り寄る。
「大丈夫だよ、コリンズ君。ボクたちにはすっごく強い仲間がたくさんいるんだもん」
「そうよ。それにお父さんだってお母さんだって一緒にいてくれるもの。みんなが一緒にいてくれるだけで、怖いものなんてないのよ」
勇者ティミーの言葉に更に上乗せするような言葉を口にするポピーは、やはり勇者の妹だった。コリンズにとっても、両親であるヘンリーとマリアが傍に付いていれば、両親の絶大なる庇護を信じる上で心も勇ましくなれる。その上、ティミーが言う通り、彼らにはこの上なく心強い仲間たちがいる。彼らが強く在れるのは、何よりも心から信じる者たちがいるからだ。その思いを、コリンズも自分の事に置き換えて胸の内に理解することができる。子供である自分たちを、何があっても護ってくれる親や仲間がいるのだ。
「コリンズ王子、ありがとうね。本当にあんたたちって、仲良しなんだね」
口は悪いが心優しいコリンズの思いに触れたドリスは、背を向けて今もしゃくりあげているコリンズの頭をぽんぽんと優しく撫でた。コリンズは下手に泣き顔を見られたくないと、反応せずにただデールの服に顔を押し当てている。
「でもさ、悪いヤツをやっつけなきゃいけないのは分かってるんだけど、これからどうしたらいいのか分からないんだよね。向こうからババーンって来てくれればいいんだけどなぁ」
「そんなことになったら大変でしょ! そうならないようにするために、どうしたらいいのかを考えなくっちゃいけないのよ」
悪者を倒すのが勇者の役目なのだと分かってはいても、実際に自分たちがこれからどうすべきなのかが分からないのがティミーとポピーの悩みでもあった。母ビアンカが救出され、グランバニアで日々を過ごしている内にいつの間にか時が経ち、自分たちが成人の年を迎えるのが先か、悪者が世界を滅ぼしてしまうのが先かと、そんなことを考えてしまうこともある。
「折角ビアンカ様がお戻りになったんだもの。まだ少しの間は、親子の時間を大切にしていたってバチは当たらないと思うけどな」
そう言いながらもドリスは心の底では、そんな時間がこれから先延々と続けば良いと思っている。まだビアンカがグランバニアに戻ってからひと月ほどしか経っていないのだ。まだまだこの二人の子供たちには母親の温もりが足りないに決まっている。
「……リュカ王はどのようにお考えなのでしょうか。その、いくら王子王女が行動しようと思っていても、最終的にはリュカ王がお決めになるのではないですか?」
「我が王は近頃、特に訓練所での鍛錬に励まれていますよね。王妃様がお戻りになって、これからは国で落ち着いてご政務をされるのかと思っていましたが、そうではないのでしょうか」
デールとピピンの言葉に、双子は互いに顔を見合わせる。
「お父さんはもしかして……」
「何か考えてるのかしら」
「リュカが何を考えてるのかは分からないけどさ、城に戻ったら一度聞いてみたら? ……ま、何も考えてないかも知れないけどね」
二人の子供たちにとって何が最善なのかも分からないまま、ドリスはただ内容を濁すようにそう言葉を付け足す。
「でもさ、万が一だけど、また旅に出る時があったら、あんたたち大丈夫なの? 最近あんまり身体を動かしてないでしょ~」
ドリスの指摘通り、ティミーもポピーもこのひと月ほどはグランバニアの城の中で大人しく過ごす日々を送っていた。それと言うのも母ビアンカの傍にいる時間を大事にし、その上で王子王女としての日々の勉強が溜まっていたためだ。お陰で子供ながらに運動不足に等しい状況となっていた。
「走るのだけは欠かしてないと思うんだけどな~」
「私はすっかり本に夢中になっちゃって、全然身体を動かしてないかも……」
「よーし、それじゃあ仕方がないわね! あたしが少し付き合ってあげる!」
そう言うなりドリスは構えを取り、ティミーにも構えろと目線で合図をする。ティミーがもっと小さい頃から、ドリスは王子の良き武闘の先輩として稽古をつけたことがあった。稽古と言えば聞こえは良いが、ただの遊びの延長のようなものだ。ドリスが構えるのを見て、ティミーは途端に目を輝かせて同じように構えを取る。唐突に二人が武闘の空気を醸す状況を、デールは一体これから何が起こるのかも分からずにぽかんと見つめている。
「あ、少し離れていた方が良いと思います。パンチやキックが飛んでくるので」
そう言いかけたピピンが先ずはドリスの足払いをかけられ、デールとコリンズの目の前ですっころんでしまった。幸い、柔らかな草地が敷かれているラインハットの中庭は、転んだピピンにも優しかった。
「あっ、大丈夫、ピピン?」
「さてはピピンも鈍ってるわね? 一緒に稽古をつけてあげるわよ」
「ほ、ホントですか? ドリス姫直々に稽古をつけていただけるなんて、僕はなんて幸運な兵士でありましょう……! できればグランバニアに戻ってからも時折稽古をつけて頂けると更なる光栄で……」
「ぶつぶつ言ってないでかかってきなさーい!」
優雅なラインハットの庭園には到底似つかわしくないような、何とも逞しく勇ましい武闘の稽古が繰り広げられる光景に、デールは開いた口を閉じるのも忘れて見入っている。しかし膝丈のスカートを風になびかせ軽やかに、まるでテンポの速いダンスを踊るようにくるくると動きまくるドリスの格好を直視するも憚られ、その視線は自然とティミーやピピンに映っていた。デールの腰辺りにしがみつくような格好をしていたコリンズも、唐突始まったグランバニアの武闘稽古の光景を、赤く腫らした目で訝し気に見つめている。
「……お前んところのヤツはみんな、あんなに戦うのが好きなのかよ」
「ただ身体を動かすのが好きなだけなんだと思うけど」
コリンズの呟きをすぐ横で聞いたポピーは、まだ涙声の彼の様子には気づかないふりをしながら普段通りに答える。
「女があんなに、派手に動き回るなんてはしたないんじゃないのかよ」
「あら、お母さんなんてきっともっと派手に動き回るわよ。だって小さい頃からお転婆さんだったんだって、お父さんにもサンチョにも聞いてるもの」
「女性が元気なのは良いことですよ。しかし少し……目のやり場に困るのは確かです」
そう言いつつもデールはドリスとティミーとピピンの武闘の組手の様子を興味深そうに見つめる。ラインハットの兵士は凡そ剣や槍を手にした戦闘の訓練を受け、いざ戦いの場に出るとなれば皆が同様の鎧兜に身を包むことで、主に守備力の方に重きを置いている。ドリスのような武闘家型の戦力をラインハットは敢えて置いていない。それはこの国の人間の命を第一に考えているのだという意思表示であり、かつての国の暴走の反省の意味も込められている。素早さを第一の武器とする武闘家の軽装備は、ラインハットの意思とは相容れないものがあった。
「あの姫様……手も足も速すぎて動きが見えない」
「ドリスは一流の武闘家だもの。ドリスのお父さんのオジロンさんはもっとすごいけどね」
「グランバニアって、怖いところなんだな……」
「いえ、とても頼もしいお姫様なのでしょう。ティミー王子だけではなく、兵士の彼も彼女を恐れてはいないようですし」
稽古をつけているドリスも、稽古をつけてもらっているティミーもピピンも、いかにもこの場を楽しんでいると言った生き生きとした表情を見せている。表情こそ真剣だが、彼らの目の輝きは今のこの状況を心から楽しみ、心も体も充実したような状態を見せている。
一度間合いを取り、三人が離れた時を見計らって、デールがドリスに近づくと、ドリスは途端に構えを解いてスカートの裾を払って少しばかり調えた。僅かに切れていた息も、二度深く呼吸を繰り返して収めた。そして今更ながらに「しまった」と言うように決まり悪そうに顔をしかめ、自らの突発的な行動の言い訳を考え始める。
「グランバニアには貴女のような頼もしい姫君がいらっしゃるのですね。リュカ王が今回、貴女を我が国にお連れ下さったのも頷けます。我々に自慢の姫君を紹介したかったのでしょう」
「あ、いや、そんなことはないかと……リュカはただ、私が連れてけってせがんだから……」
「今後ともよろしくお願いいたします、ドリス姫。これからは貴女ともグランバニアの代表として、直々にやり取りできるのを楽しみにしています」
そう言って片手を差し出すデールに、ドリスは戸惑いながらも自らも手を差し出した。しかし握手を交わした瞬間に、ドリスは自身がグランバニアと言う国の代表として、ラインハットの国王と握手をして挨拶を交わしていることの重みを唐突にその身に味わった。
「……しかしあくまでもグランバニアの代表はリュカ王です。ですからやはり、国と国とのやり取りは、リュカ王を通じての方が……」
「そうですね。しかし二国間の関係を太くするためにも、ドリス姫にもぜひグランバニアの代表として……リュカ王は恐らくそのようなこともお考えになっていたのではないでしょうか」
デールの言葉はドリスにもティミーにもポピーにも、考えの及ばないような角度のリュカの思考回路だった。三人ともが、リュカはただドリスの我儘を今回だけは聞いてやったと言うように、ただのリュカの優しさからだとばかり思っていた。
「お父さん、そんなこと考えてるかなぁ」
「特別考えてない気もするけど……」
「しかしリュカ王のことですから、王として何か深いお考えがあってもおかしくないのでは……いや、でも、どうですかね」
「やっぱり考えてないって、うん。そんな深いこと考えるなんて、リュカっぽくないし」
「……グランバニア王に同情するわ」
「私は何も聞いていないことにしましょう」
グランバニアの身内の者たちの自由奔放な発言に、コリンズは同情の言葉を口にし、デールはにこにこと微笑みながらも耳にしたリュカに対する否定的な言葉を頭の中から消し去ろうとした。その後もしばらくの間武闘の稽古の様子をデールたちの前で披露し、デールが見たこともないような呪文の数々をティミーとポピーが中庭を傷つけないように注意しながら披露した。彼らの国同士の交流は、ラインハットの中庭に差す日差しが陰る頃まで続けられた。



皆で囲んでいた大きな円卓の上にはまだ食べ残したクラッカーや揚げ菓子などがあり、各々のグラスには飲み残しの水もある。子供たちが飲んでいたジュースはいつの間にか全て無くなっていたが、まだほのぼのとした茶話会の余韻がこの部屋の中には大いに残されている。
テーブルの上を片づけようと部屋に入室してきた給仕の手を止め、ヘンリーがまだこの部屋を使うと簡単に伝えると、彼の一言で給仕の人らは静かに部屋を立ち去って行った。リュカの緊張したような面持ちに雰囲気を察し、ヘンリーが人払いをしたこの部屋には今、四人の大人だけが残されていた。
四脚の椅子が二脚ずつ向かい合わせに並べられ、二組の夫婦が向き合うように座っている。テーブルの上に残された菓子や飲み物に手をつけて、寛いで話をするような雰囲気は微塵もない。部屋の窓も全て閉められ、間もなく中庭から聞こえるであろう子供たちの声も遮られている。しんと静まり返ったこの部屋で、視線を床に落としているリュカが顔を上げ、マリアに一言話し始めたところから、彼らの時は再び進み始めたようだった。
「マリア。今、君は幸せ?」
リュカの言葉の唐突さには、ビアンカもヘンリーも凡そ慣れている。しかし今のリュカに普段の穏やかさや呑気さは感じられない。そもそもリュカは初め、マリアと二人で話をしようとしていた。それ故に、彼ら二人はリュカの言葉を遮ることなく、ただ静かに互いの伴侶が話す言葉に耳を傾けるだけだ。
「ええ、幸せです」
リュカの望む言葉はこうなのだろうと、そして自身の思いもそれと違わないのだと、マリアは素直に応える。彼女はその一言を応えるだけで、脳裏に今まで過ごしてきた日々が過るのを感じた。
まだ自分では何も考えられないような、非常に幼い時の記憶はほとんどない。父と母がどのような人だったのかを思い出すこともできない。しかし彼女には常に隣に頼れる兄がいた。もはや兄は、親代わりのような存在だった。しかしその兄も、本当のところは実の兄だったかどうかも分からない。どこかの小さな集落にでも暮らしていたのだろうか、兄ヨシュアはまだ小さなマリアの手を離すことなく、その正義の精神に依って幼いマリアを守らねばならないと常に傍にいてくれた。兄に邪気など一切なかったと、マリアは思っている。
二人はまだ子供だった。子供ながらに人生を判断するしかなかった。そしてそのようなか弱き子供たちに手を差し伸べてきたのが、光の教団だった。兄がその手を掴めば、必然とマリアもその手を掴んだ。兄のすることは全て正しいと思っていたマリアに、差し伸べられた手を疑うような心は微塵も生まれなかった。
光の教団に人生を救われたと思っていたマリアだったが、それはそう思わされるように裏の全ては隠されていたのだったと、自身が奴隷の身に落とされてようやくそれを知った。それまでは奴隷と言う立場の人々がいることさえ、マリアは知らなかった。全く別の世界に生きていた。守られた世界に生きていた。その守りは全て、兄ヨシュアが与えてくれたものだったのだと、遅まきながら奴隷の立場になってから理解したのだ。
それならば兄は遥か前からその実態を知っていたのだろうかと思うと、恐らくそうだったに違いなかった。今となっては真実は何も分からない。しかしもしかしたら、妹マリアの命を守るためにヨシュアは全ての汚れた世界を一身に引き受けていたのではないかと、そう考えることは幾度となくあった。
ヨシュアの強引な計らいで、マリアはリュカとヘンリーと共にセントベレスを脱出し、奇跡的にも海辺の修道院に流れ着き、命を取り留めた。思わず神の御加護があったのだと思ったマリアだったが、すぐにその思いを打ち消す思いも生まれていた。この世に神などいない。もし神様がいるのなら、何故セントベレスでの酷い状況を放置できるのかと、今までの自身の人生を否定するほどの嫌悪感がマリアの中に生まれていた。
人間一人のできることなど非力なものだと思いつつも、マリアは絶えずあの場に残された人々のために祈り続けた。それしかできないのが悔しくてならない。しかし祈らずにはいられない。一人でも多くの人々が救われることを祈り、いつか兄ヨシュアとの再会を望むことを止められずに、祈り続けた。
その内に自身の人生は目まぐるしく変化していった。今では信じられないことに、ラインハットと言う大国の宰相妻という立場にいる。愛する夫と結ばれ、子にも恵まれた。その子は次期国王という地位が約束されている。当然、それまでにも悲喜交々の年月を過ごしたが、今が幸せだというのは彼女が本心から感じている想いだ。
「私は幸せですよ、リュカさん」
重ねてそう言うマリアの顔をリュカは正面から見つめる。今では年上になってしまったマリアは、少女として生きて来た時を超え、母として生きて来た時を経て、穏やかさだけではなくどこか強さをも兼ね備えているように見える。彼女の過ごしてきた年月が、今の彼女を形作って来た。そこに正解も不正解もない。あるのは今の彼女を存在させている歴史であり、今の彼女がどのような想いをその胸に感じているか、それだけだ。
「そうか。そう思っていてくれるなら僕も嬉しいよ」
そう言いながら、リュカは膝の上に乗せる濃紫色の包みに乗せる手に籠っていた力がふと抜けるのを感じた。マリアならば幸せだと答えるに違いないと思っていたが、その思いに嘘偽りはないのだと彼女の表情に見れば、リュカはようやく本心から安堵することができた証拠でもあった。
「さっきはここまでは話してなかったけど、大神殿で僕たちは光の教団の教祖イブールも倒してきた。もう本当なら、光の教団はないんだ」
本当ならと但し書きのように言うのは、実際には今も世界各地に光の教団の影響が残っているからだ。地上にいながら光の教団に属し、生活を続ける者がどれほどいるのか、リュカも全てを把握しているわけではない。
「イブールは神殿の地下深くに潜ってた。そこで僕たちはイブールを倒した。もう完全にこの世にはいないんだ。奴の体が目の前で消え去ったのを僕たちは見た」
淡々とリュカは語った。下手に感情的に、同情的に語るのは、目の前の二人に余計な思いを抱かせるかもしれないと、リュカはヘンリーとマリアと視線を交わすことなく話した。ただ落とした視線の先で、ヘンリーが膝の上に置く拳に力を込めたのが分かった。それが彼のどのような思いなのかを敢えて考えることもなく、リュカは話を続ける。
「地下の神殿は広かった。あんなに広い神殿だなんて、僕は知らなかったよ。ただ……そこに人の気配はなかった」
リュカが地下神殿で目にしたのは、人の姿をした魔物たちだ。人間に化け、人間を馬鹿にしたような魔物たちだった。本物の生きた人間は、地下の神殿に見つけることはできなかった。
見つけることができたのは、既に息絶え、望まぬ死の中に埋もれてしまった人々の姿だった。今もリュカの鼻を、あの場の異臭が突いてくる。
「……マリア、ごめん。……間に合わなくて、ごめん……」
命の恩人をいつかきっと助けるのだと、リュカは自身の人生の中の一つの希望として、その思いを持っていた。どれほどの年月が経とうとも、人の足では到底向かうことのできないあの場所に再び立ち、あの時彼が命懸けでリュカたちを脱出させてくれたことのお礼を言い、彼もまたあの場所から救うのだと、リュカはマリアのためにも自分のためにも、その希望を捨てる選択肢を持っていなかった。
「ヨシュアさんはきっとずっと、諦めてなかった。でも……」
リュカは震える声で伝える。“マリア 兄さんは もうだめだ せめて せめておまえだけは しあわせになってくれ”彼の残した辛うじて読める床に刻まれた文字を、リュカは自身がその責務を負っているのだと、マリアにありのままに伝えた。
神殿からの脱出の手助けをした彼は当然のようにその罪を問われ、容赦なく鎖に繋がれた。彼はリュカたちを逃す時に既にその覚悟を決めていたに違いない。しかしここであっさりと命を絶つことを彼は善しとしなかった。それは恐らく、彼が看守の立場として苦しむ人々を救わずに済ませて来た更なる重き罪を負うのだとその覚悟を決めていたのではないかと、リュカは彼の惨い死に様を目にしてそう思わずにはいられなかった。
「そうですか……。兄が……そんな書き置きを……」
「そんな、そんなの、誰が書いたかなんて分からないんじゃないのかよ。それにもし、それをヨシュアさんが書いたにしたって、その後俺達みたいに運良く助かったかも知れないだろ」
現実に途轍もない奇跡の経験をしてきたヘンリーやリュカにとっては、マリアの兄ヨシュアもまた奇跡が起こり、助かっている可能性もあるのだと信じることもできる。人間一人の人生の中で、奇跡が起こるかどうかなど、起こってみないと分からない。
「あなた……私は、大丈夫ですから……」
「お前はいつだって、大丈夫じゃない時に大丈夫って言うんだよ」
「リュカさんはこんな嘘を吐くような方ではありません」
「そんなの……俺だってよく知ってんだ……。……くそっ」
わざわざマリアを引き留めて話をする時間を設け、話す内容が悲しみ溢れるものだという状況を、嘘を吐いてまで用意するような質の悪い悪戯をするようなリュカではない。それは誰よりもヘンリーが分かっている。
「本当ならあの場に亡くなった人たちをみんな、地上へ戻してあげたい。けど、とにかくその時僕にできたのは、ヨシュアさんを連れて帰ることだけだったんだ」
そう言ってリュカは椅子から立ち上がった。両手に大事に抱えた濃紫色の包みを、頭を垂れながらマリアの前に差し出した。
「ヨシュアさん、だよ」
「リュカ、お前……」
「こんなことしかできなくて、本当にごめん、マリア……」
「どういうことなの、リュカ……」
「あの時の、看守の服だった。そのまま捕まったんだ。もう、その中には、骨しかなくて……僕にできることは、ヨシュアさんをマリアのところに連れて帰ることしかできなくて……ごめんね、マリア」
リュカが苦し気にそう言う前で、ヘンリーは息を呑み、ビアンカはじっとリュカが手にする包みを見つめる中、マリアは椅子を立ちリュカの前に立った。
「この中に、兄が……」
リュカから受け取った包みは、マリアが予想していたよりもずっと軽いものだった。ラインハットの玉座の間で対面していた時もその包みはリュカの両腕に大事に抱えられていた。先ほどまでこの部屋で開かれていた茶話会の間にも、リュカはそれを床に置くこともなく大切そうに膝の上に乗せ、まるで包みの中のものを常に温めるかのようだった。それらのリュカの行動を思い出せば、マリアは彼がどれほどこの包みを大事に扱ってきたかを思わせられた。
濃紫色の包みを大事に胸に抱えながら、マリアは正面に項垂れながらも立つリュカに、丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます、リュカさん」
「マリア……」
「再び兄に会えるとは、正直なところ思っていませんでした」
生きて会えればそれは奇跡、しかしマリアは毎日祈りを捧げながらも、その祈りの中にはどうしようもない諦念が入っているのを自ら認めていた。夫ヘンリーより、セントベレスの頂上にはかつて建造途中だった大神殿が建ち、そこは悪しき魔物たちの守護によりうかつに近づくことはできないと以前聞いたことがあった。空に浮かぶあの神々しさの極致にある天空城でさえも近づくことのできないセントベレスの山頂に足を踏み入れ、その上光の教団の教祖であるイブールを倒してしまうなど、一体この世の誰が想像できると言うのか。近づくことさえままならないあの場所に囚われた兄や多くの人々が、せめてひと時でも心安らかなる時を過ごせるようにと願うことだけが、マリアに出来ることだった。その度に自身の無力を感じ、祈ることの意味に疑問を感じることもしばしばあったが、そうと言って祈りを捧げることを止めることもできなかった。
もう二度と会うことはないのだろうと諦めの心を無意識にも育んでいたマリアに、リュカは彼女にとっての奇跡を起こした。リュカが詫びの言葉を口にし、沈痛な面持ちを見せているその状況を見るだけで、彼自身がいかに後悔の念に苛まれているのかが見て取れる。それだけで、マリアの胸の内には温かな火が灯る。
「本当にありがとうございます。何度お礼を申し上げても足りないほどです」
「お礼を言われることじゃないよ。僕は本当は、生きてマリアに会って欲しかった」
「いいんです、本当に、そう思っていただけるだけで兄も幸せだと思います」
リュカが予想していたよりも、マリアの反応はずっと気丈なものだった。泣き顔など一切見せず、リュカに礼を言う姿は本心から感謝の意を表しているのだと感じられた。そして兄ヨシュアの遺骨の入る濃紫色の包みを胸に抱くマリアは、それまで彼女を長らく包んでいた諦めきれない必死な想いがゆっくりと解かれて行くかのような印象があった。
固い想いがその身から解かれて行くのと同時に、彼女の足から力が抜けていき、ふらりと身体が傾いた。すかさず隣にいるヘンリーが妻の身体を支え、静かに椅子に座らせた。ビアンカも心配そうに彼女を見つめ、気分が悪ければ人を呼んで休んでもらった方がいいわと声をかけたが、マリアはそれを拒んだ。しかしいかにも顔色を悪くしているマリアに、ビアンカはテーブルに残されていたグラスの水を飲むようにと、マリアの席に残されていたグラスを持って来るや彼女に差し出した。一口水を飲み、マリアが落ち着いた息をふっと吐き出すと、ビアンカはもう一度彼女に無理はしないようにと言葉をかけた。
「お前があの光の教団ごとぶっ潰してくれたんだ。ヨシュアさんも連れて帰ってきてくれた……。俺からも礼を言うよ。ありがとう、リュカ」
リュカもヘンリーも、今や国を代表する人間としての地位がある。しかし彼らには個人的な、計り知れないほどの光の教団への憎しみがある。悪しき魔物によって作られ、組織された光の教団の教祖イブールを倒し、大神殿に残された多くの人々を救い出したことで、彼らの中に長年燻っていた激しい憎しみもまた、一定は浄化されたように感じている。
しかしこれで全てがめでたしと終わったわけではない。人の感情も行動も、それほど単純なものではない。まだ世界には不穏が渦巻き、聖職者の立場に在る者などはその気配を敏感に感じ取っている。光の教団はあくまでも表向きの組織だったのだろう。その裏で、悪しき者たちは今か今かとその時を窺っているに違いない。
「まだ何も終わったわけじゃないんだ」
リュカの心は既に決まっている。
「今度は……魔界を目指すよ」
リュカの言葉はいつでも唐突だ。その唐突さ故に驚かされることもしばしばだが、彼のこの言葉にはヘンリーもマリアも驚くよりもただ言葉の持つ響きに恐怖を感じ、目を背けたいという本能を感じるだけだ。
「もうあまり時間がないと思うんだ」
「お前、何を言ってるんだよ。相変わらず説明が足りない。ちゃんと話せ」
「説明はしないよ。ただそれだけを伝えておこうと思って」
「しろよ、説明。必要だろ。ただ伝えるだけなんて、無責任だ」
「説明したら、せっかく決めたのに心が挫けちゃいそうだなって……」
「そんなもんだったらいっそのこと挫けちまえ。大した覚悟もないんだろうが」
「でももう決めちゃったからさ。いや、決まってたんだよ、ずっと前から」
「何だよ、それ。抗えよ。お前だけの問題じゃないだろ」
「そうだね。だから挫けそうなのかな……」
「お前ばっかり色々と抱えんなよな。俺だってデールだって、お前の国の奴らだって、沢山人はいるだろ。頼れよ。一人で抱え込んだら、いいことなんて起こらない……」
「大丈夫。一人じゃないんだ。みんな、一緒にいてくれるから」
「みんなって……お前……自分の息子を勇者にする気かよ!」
リュカの意図を、ヘンリーは初めから分かっている。大神殿での出来事があってから、ラインハット訪問がかなり遅れたのは恐らくマリアの兄ヨシュアのことがあってのことが大きな要因だろう。しかし今回の訪問には珍しく、従妹のドリスと護衛の兵士見習いピピンを連れて来た。それはリュカからの発案だったのかどうかをヘンリーは知らない。それでも彼女がこの国を訪れるかどうかを決めるのは国王であるリュカだったはずだ。そして彼は、ドリスが来ることを許した。
グランバニアとラインハットの新たな友好関係を築くのだと言えば聞こえは良い。しかしヘンリーには、それと引き換えにリュカがグランバニアを離れるのだと言っているに等しいと、リュカから手紙をもらった時点で既に怪しんでいた。
「お前がティミー君を認めちまったら、ティミー君はもう逃げられないんだぞ」
「逃げないよ。ティミーは逃げない。僕が認めようがどうしようが、ティミーは……勇者であろうとするよ」
「それでもお前だけは根性で抗ってくれよ。最後まで認めんな。大きくなったけど、まだ小さな子だよ。そんな子に、世界の命運を懸けるなんて、誰がどう考えたっておかしいだろ」
「勇者に全てを懸ける気なんてない。僕は魔界に……母を救いに行くんだよ」
リュカの父パパスの悲願は、ヘンリーも当時より知っている。あの時は魔界という言葉の響きは今よりもずっと遠くに感じたものだ。しかし数々の奇跡を起こしてきた親友リュカの事を見ていれば、かつて遥か遠くに感じていた魔界という世界はすぐ傍に在るのだろうと恐れるほどになる。
「母はエルヘブンの人だった。唯一、魔界の扉を開けられる能力を持つって言われてる」
エルヘブンに住む四人の巫女に、リュカは会ったことがある。彼女たちには魔界の扉を開けるほどの力はないが、唯一マーサにはその力が引き継がれていたのだと言う。それ故に魔物に連れ去られ、今も魔界に囚われたままだ。
「今もまだこの世界が悪い魔物に負けていないのは、母が今も魔界の扉を開けないように抵抗しているからだと思う」
リュカは大神殿で、母の声を聞いた。魔界には決して来るなとリュカに言った。伝説の勇者でも大魔王には敵わない、命に代えてもミルドラースを地上へは行かせないと、母はその覚悟を息子リュカに伝えた。しかしリュカは既に大人になり、自らも親となった。母マーサが記憶に残している赤ん坊のままではないのだ。大人しく親の言いなりになるだけの子供ではなくなった。
「母を救い、母と共に再び魔界の扉を固く封じることができれば……そう思ってるんだ」
誰が大事な我が子を勇者として、この世を脅かさんとする魔界の王に立ち向かわせ、世界の命運を背負わせるようなことをするのか。親ならば我が子を第一に守り通そうとするのが在るべき姿であり、これ以上ない危地に放り出すようなことは間違ってもしない。それは、孫に勇者を持つマーサにとっても当然同様の、寧ろそれ以上の想いがあっても決しておかしなことではない。
皆が救われる方法をリュカはずっと考えていた。そして母と共に魔界の扉を再び固く閉ざしてしまうことが出来れば、それが叶うのだという唯一の方法を見い出した。リュカ自身もエルヘブンの血を引いている一人で在り、唯一の能力を持つマーサの子だ。母と力を合わせることが出来れば、それも可能に違いないとリュカはその方法に賭けることにしたのだ。
「お義母様はずっとずっと、たった一人で戦い続けているの」
リュカの現実的な思いに乗せ、ビアンカが僅かに声を震わせながら言葉を口にする。彼自身が口にはしない彼自身の本心を、彼女は妻の立場で代わりに告げる。
「そんなの、放っておけないわよ。私たち……家族なんだもの」
ビアンカの口にする言葉が、皆の心の中に深く突き刺さる。全ての思いの根本は、結局は彼女の言葉が全てだった。長年に渡り、たった一人連れ去られた魔界で抗い続けるマーサこそが勇者なのではないかと、ビアンカは思う。しかし彼女に勇者として世界を救うのだという壮大な思いがあるわけではないだろう。ただ我が子リュカを守ろうとするために、必死に魔界と言う異世界で孤独に戦い続けているのだ。
折角ようやく妻ビアンカを取り戻し、大事な子供たちにも母と会わせることができ、家族が揃ったというのに、それでもまだ足りないのだとリュカとビアンカは既に意志を固めたかのような目をしている。決めたからには揺らがない強い意志を見せるリュカの目を、ヘンリーは久しぶりに見た気がした。セントベレスと言う閉ざされた場所でも決して人生を諦めなかった親友は、もう誰が何を言おうともその意志を曲げることはないのだろう。
ヘンリーはリュカから視線を外し、腕組みをして小さく唸り声を上げる。自分もまた、諦めるわけには行かないのだと、リュカたちをこの地上へ留める理由を必死に探す。
そんな親友の姿を見て、リュカはふっと肩の力が抜けるのを感じた。そして素直に言葉が口を突く。
「ありがとう、ヘンリー」
難しい表情をしたまま顔を上げるヘンリーに、リュカは微笑みながら言う。
「相変わらず優しいなぁ、親分は」
「何がだよ」
「君が優しいって話だよ」
「俺のどこが……俺はいつでもお前に任せっきりなんだよ。優しいもへったくれもあるかよ」
「本当はさ、君には何にも言わないで行こうかなって思ってたんだ」
「そんなことをしたら魔界にまで追いかけて行って、一発ぶん殴ってやるまでだ」
「あはは、本当にやりそうだよね。……でも君はちゃんとマリアとコリンズ君の傍にいてあげて」
リュカの言葉にヘンリーの目が泳ぐ。
「君だって、ようやく手に入れた大事な家族だろ。もう二度と離れちゃ駄目だよ」
リュカは以前、マリアから切なる思いを聞いた。以前ラインハットが魔物の軍勢による襲撃を受けた際、ヘンリーは単身でこの国を守るべく行動しようとしていたという。その事を、最も近くにいる家族であるマリアにも一切知らせず、たった一人でラインハットと言う国を守ろうとした事実が、マリアの胸に深い傷を負わせた。
実際には彼を国に残すべく裏で働きかけた義母である先太后の先手の行動により、彼はこの世に残り、義母は数多の敵を道連れにして散った。ラインハット北西の平原で起きた大爆発をその目にしたマリアは、義母を喪ったことに加え、もしかしたらあの爆発を夫ヘンリーが起こしていたかもしれない事態を想像し、しばらくはまともに食事もままならないほどに憔悴していたという。
「……ねえ、何かあったの?」
一人事情を知らないビアンカが、隣に座るリュカに小声で問いかける。リュカも詳しくは知らないがと前置きをした上で話し出そうとしたところで、ヘンリーが口を挟む。
「ビアンカさん、これはさ、俺たちの問題だから気にしないでいいよ」
「ヘンリーさんが話し辛いのなら、マリアさんからお聞きすればよろしいかしら?」
「マリアからは特に……話すこともないよな?」
「あっ、そうやって勝手にそういうことにするのって、良くないと思うわ。マリアさんだって色々と話したいことがあるかも知れないじゃない」
「え、だってマリアはそれほどお喋りってわけじゃないしさ。普段から慎ましやかだし、控えめだし、自分の事をそんなベラベラとは話さないしさ」
「ヘンリーさんがそうやって決めつけちゃうから話せないだけなのかも知れないでしょ。本当は話したいことがごまんとあるのよ、きっと。でも我慢しちゃってるんじゃないの?」
「そんなことはない! あれから俺達、色々と話してるし……」
「そんなこと言いながらヘンリーさんが一方的に話していたりしない? 男の人って結構色々と気づかないことがあったりするもの。ねぇ、マリアさん」
「え、ええ……そう、かも知れません」
ビアンカの呼びかけに、マリアならばそれこそ慎ましやかに否定するものと思っていたヘンリーもリュカも、柔らかく肯定する彼女の言葉に余裕もなく愕然とする。
「ねっ、そうでしょ? だからやっぱり女同士でお話するのって大事だと思うのよ。でもマリアさんはこの国で対等にお話できる女の人がいないわよね?」
「そう言われて見れば、そうですね……」
「と言うことは、私たちならちゃんとしたお友達になれるってことよ! ねっ、これって素敵なことじゃない? 私ね、本当は前から思ってたのよ、マリアさんとちゃんとお友達になりたいって!」
パッと顔を輝かせながらビアンカがそう言うのを見て、マリアの表情も釣られて明るくなった。互いに国を代表するような立場になってしまった女二人は、子に恵まれ母となる幸せを享受することはできたが、対等な立場にある同性の友人を持つことが非常に困難な状況にあった。マリアはこの立場にあればそう言うものだと今の状況を受け入れてはいたが、ビアンカに改めて言われた言葉に、新たな明るい世界が目の前に広がるのを感じた。
「まあ、私たちの結婚式に来てくれた時にはもうお友達のつもりだったけどね。でもあれ以来会うこともできなくって……だから! これから改めて、よろしくね、マリアさん」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
「お友達なんだから、もっと砕けた感じで平気よ。そんなに畏まらなくっていいんだから」
「ビアンカさん、これがマリアなんだよ。別に無理に畏まってるわけじゃない……」
「ちょっと、ヘンリーさんは黙ってて。私はマリアさんとお話がしたいんだから」
「……ぐっ……」
容赦なくビアンカにやり込められているヘンリーを見て、リュカは思わず噴き出してしまった。リュカの笑いに釣られて、マリアもころころと笑い出す。
「リュカ、お前の奥さん、ちょっと強すぎるんじゃないのかよ」
「仕方ないよ、ビアンカだもん」
「理由も強すぎるだろ……」
「何だか今なら僕じゃなくて、ヘンリーがビアンカの弟みたいだよね」
「はあ?」
「新鮮だなぁ、弟の立場のヘンリーって」
子供の頃から常に偉そうに上に立つようなヘンリーが、今では更に上に立つビアンカに敵わない目新しい状況に、リュカはいかにも楽し気ににこにことそう話した。ヘンリーはリュカのその笑顔を見て明らかに苛立ち、言い返そうと口を開いたところで、出てくる言葉はなかった。リュカに言い返したところで、再びビアンカが前に立ちはだかるのを想像したか、彼はそのまま黙り込んでしまった。
「でも、あの、リュカさんもビアンカさんもこれから危険なところへ行かれるのですよね」
流れの中で温まった空気を一度落ち着けるかのように、マリアが話す。
「そこにはティミー君もポピーちゃんも、ですよね」
「うん、二人とも連れて行くよ。勇者はティミーかも知れないけど、ティミーにはポピーの力が必要だ」
「あの子たちは本当なら、一人の勇者として生まれるはずだったんじゃないかって思う。でも今のこの世界を救うにはきっと、二人の勇者の力が必要なんだと思うの」
「魔界の扉を開けるのには勇者の力が必要だ。ティミーと、ポピーの力が必要なんだ」
リュカとビアンカの親としての決断は固い。そして子供であるティミーとポピーも既に、その心は決まっている。寧ろ彼ら二人は生まれついての宿命をその身体に受け、心身ともに育つ中で、勇者としてあるべき心をも育んできた。今のこの世の中で、逃げるという選択肢を二人は決して選ばないだろう。
「僕たちは必ず戻ってくるよ」
マリアとヘンリーの抑えられない沈痛な面持ちを見て、リュカは至って明るくそう言う。
「だって、僕もビアンカも、戻って来たでしょ?」
リュカの言葉の重みはそのままヘンリーとマリアの心に圧し掛かる。いくら絶望の淵に落とされようとも、粘り強く最後まで諦めないのがリュカだ。表面では笑顔を見せていても、その胸の中に渦巻く彼の執念たるや、ヘンリーにも手の届かないようなところにある。
「本当に……お前の人生ってのは信じられないことばかり起きるよな」
「マリアさんにこれ以上悲しい思いをさせるわけにも行かないもの。私たち、必ずお義母様を助けて、またこっちに戻ってくるわ。そうしたらまた色々とお話しましょうね」
そう言ってビアンカはマリアの前に立つと、彼女の両手を優しく手に取って握った。マリアもまた、まるで自身を優しく抱きしめてくれる姉のような温かな手を握り返す。
「ええ、必ず。待っています」
「ヘンリー、君はグランバニアやテルパドールと連携して、この地上の世界を……頼んだよ」
「頼む範囲が広すぎやしねえか?」
「できないかな?」
「なめんな。やってやるよ」
リュカたちがこれから未知なる魔界という異世界へ向かおうとする一方で、この地上の世界を任せられ断れるわけがないと、ヘンリーはリュカの煽るような言葉に乗せられるように二つ返事で了承する。当然、リュカは自国であるグランバニアを主軸として、各国が地上の動向に目を光らせることを目的としている。ただリュカにとってヘンリーは、国同士の関係を超えた、一人と一人の親友の間柄だ。彼になら余計な遠慮や気遣いなく、対等な立場で物事を頼むことができると、到底誰もが受け入れることを躊躇する途方もないことを屈託なく伝えたのだった。
ふとマリアが顔を上げ、少し目を泳がせながら椅子から立つなり、部屋の窓へと歩いて行く。天気は良く、ラインハットの中庭には今も気持ちの良い日差しが降り注いでいる。彼女はその窓の外に、我が子の泣き声を聞いたような気がしたのだ。
「コリンズ……?」
「コリンズがどうかしたのか」
マリアを追うように彼女の後から窓辺に寄るヘンリーが、窓の下に広がる中庭へと視線を落とす。しかし広々とした中庭に、息子の姿は見えない。周囲に立つ木立の陰にいるのかも知れないと、木々の中に目を凝らす。
「私たちも後から行くって伝えてあるんだもの。行きましょう、ね?」
「ティミーやドリスが暴れてないといいんだけどな」
「ティミー君は何となく分かるけど……どういうことだよ、それ」
首を傾げるヘンリーに説明するのも難しいと、既に扉に向かっていたビアンカの後に続いて、リュカもまた中庭に向かおうと扉の方へと歩いて行く。マリアが抱えていた濃紫色の包みをヘンリーが代わりに受け取り、大事に両腕に抱えながら皆を先導して扉を開き、四人は先に中庭へと行っている互いの身内の元へと回廊を歩き始めた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。
    デールの母…そうでしたよね。 すみません大事なラインハット戦のこと忘れてました(汗汗)

    ドリスを連れて来たのは偶然だったはず、しかしリュカは初めからドリスをラインハットに連れて行くつもりだった、そんな解釈で良いんでしょうか?
    リュカたちが居なくても、ドリスはメッキーがルーラを使えるからグランバニアからラインハットに行けるとか。 あ!でも、魔界にメッキー連れて行ったらそれも無理か…むむむ難しいな。

    ヨシュアの遺骨はヨシュアの服ごと持って来たんですね。 それをリュカのバンダナに包んでそのままマリアに渡したってことですか?
    今後のヨシュアの話がどうなって行くのか楽しみです。

    bibi様、この後は魔界に行く流れになりますか?
    びびワールドでは、レヌール城と封印の洞窟に行かない方向になるんでしょうか?
    次話お待ちしています。

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      ドリスを連れてきたのは偶然でしたが、オジロンが許可を出したことで、リュカはそれを「ドリスに外の世界を見せてやってくれ」と解釈。それならばと、彼女がこれからグランバニアとラインハットの橋渡しができるようにと、そんな感じで連れて行きました。まあ、流れとタイミング、ですかね。
      そうです、メッキーがいるので、リュカとポピーがいなくてもラインハットや他の場所へも、グランバニアからは自由に移動ができます。・・・ということはメッキーは必然と・・・ということになりそうですね。
      ヨシュアはお骨だけを箱に収め、布に包み、渡しました。分かりづらくて申し訳ない(汗) 濃紫色の布は新たに用意したものです。今後ヨシュアのお話はあまり広げることなく、収めて行く方向になるかと思います。もうあまり色々とは書いていられないかなと。今まで散々色々と書いてきたので、これからはちょっとスピードアップしってお話を進めて行こうかと思っています。(もしご希望ございましたら、短編にでもひょっと上げられれば・・・できれば、ですが(汗))

      あと数話、地上でのお話を書いて、それから魔界を目指そうと思っています。レヌール城や封印の洞窟は・・・ちょっと寄れそうにもありません。申し訳ないですm(_ _)m こちらも多くのご希望などあれば、短編にでも書ければと思いますが、どうでしょうかね。読みたい方、いらっしゃるかしらん。

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