2022/12/16

意思決定の場

 

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ラインハットへの訪問は恙なく行われ、リュカたちがグランバニアに戻ったのはその日の夜更けだった。ラインハットを移動呪文で文字通り飛び出したのは夕刻頃だったが、空を急速飛行していく中で西に沈みかけていた陽の光はあっと言う間に地平の彼方に沈み、グランバニアに着く頃には黒い空に輝く星がくっきりと見える頃合いとなっていた。
友人の国に滞在中、リュカたちが揃ってラインハットの中庭に姿を現した頃、リュカの悪い予想通りにドリスもティミーも奔放に身体を動かしており、尚且つそれにピピンも付き合わされている状況だった。ヘンリーとマリアは揃って目を丸くし、ビアンカは「みんな元気ねぇ」とただ楽し気に笑った。そしてリュカの姿を目にするなり、ドリスが「リュカ! ティミーが強くなってるよ!」とさも嬉しそうに話すのを、リュカは複雑な思いが胸中に占めるのを感じながらも笑って聞いていた。
ティミーは既に小柄なマリアに追いつきそうなほどに背も高くなり、体つきも妹のポピーとは異なり男らしくなってきた。二年ほど前にリュカが息子の姿を初めてにほぼ等しいような状況で目にした時とは明らかに体つきが変わってきているのだ。まだ息子を抱き上げることは難なくできるが、あと数年もすれば彼は自分と同じほどの背丈になるのかも知れない。その時まで時を待てば恐らく、彼は皆からの期待を一身に受けることのできるような堂々たる勇者となり得るのだろう。
しかし敵は既に勇者の誕生を知っている。そして世界を救うとされる勇者さえ滅ぼしてしまえば、地上のこの世界を掌握できるものと信じ、そのように行動してくるに違いない。それ故にリュカもまた、自らの命を懸けて勇者ティミーを守り抜かねばならない。また同時に、勇者の半身とも言える娘のポピーも当然自分の手で守ることが義務なのだ。子供の命を自らの命を懸けてでも救わんとする親心は、リュカは自身の父パパスの背中に見て、母マーサの声にそれを感じた。その心はリュカの身に自ずと落とし込まれ、思いを引き継ぐように自身もまた子供たちを守るのだと、それは考えの中に発するのではなく、思いの中に自ずと起こり、抑えることはできないのだと感じている。
リュカを振り返ったティミーの表情に、既に大人の階段を上りかけている雰囲気をありありと見ることができる。もう無邪気だけの中に生きる少年ではない。彼がそのような大人びた顔つきができるようになったのも、彼自身が己の宿命を常にその身に帯びているからだ。もっとゆっくり成長するのが本当のところなのかもしれない。しかし彼自身がそんな悠長なことはできないと言わんばかりに、自身の前に広がる世界を見据えている。
それというのも、彼は生まれながらに勇者としての自身を否が応でも知らされ、周囲からもその目を向けられ、そして彼はそれに応えたいと思うほどに強い心を育んできた。もしリュカが、ビアンカが、彼の傍をずっと離れずに親としての時を過ごしていたならば、彼もまた勇者としての矜持よりも、親の甘やかしの中にもっと寛いでいたのかも知れない。そう想像しても、もうその状況は今のこの時からは生み出すことはできない。時を戻すことはできない。そして子供自身が歩んで行こうとする足を無暗に止めることもできない。
マリアの姿を見たコリンズがデールの傍を離れ、今度は母の元へと歩み寄る。その姿を見ても、彼が恐らく親であるヘンリーやマリア、そして叔父であるデールにも存分に甘えてきたのだろうということが窺える。それを見てリュカは決して羨ましいとは思わない。ただ親であるヘンリーが意識的にか無意識にか、彼自身が子供の頃には叶えられなかった親子の親愛なる関係を築いてきた結果が今のコリンズに現れているだけと思うだけだ。マリアもまた、拠り所を失くしていた彼女の新たな拠り所として、息子コリンズに存分に愛情を注いできたのは間違いない。そして彼らの複雑な思いなどを押しのけるほどの子供への率直な愛情があって、コリンズは決して捻くれることはなく、彼は本当にやってはいけないことの分別がついているようにリュカには感じられる。
涙目のコリンズを見て、マリアはその目元を指先でなぞりつつ柔らかく「どうしたの?」といった表情を向ける。寧ろヘンリーの方が心配そうな目を向けているのを見れば、彼がいかに息子コリンズを大事にしているかが分かる。デールが事の次第を説明している間に、リュカとビアンカもポピーから静かに事のあらましを聞いた。その内容は決して子供たちが仲違いの喧嘩をしたのではなく、ただティミーの身が心配なあまりにコリンズの口が過ぎたというだけの話だった。ポピーの口ぶりからも、コリンズは悪くないのだという思いが感じられた。ティミーも気にしている様子はなかった。ヘンリーとマリアが謝り、コリンズもまた萎れるように「ごめん」と口にする前で、ティミーはただ朗らかに笑うだけだ。コリンズの優しさを理解しているがために、ティミーの心も友達の表面的な言葉の暴力に屈することもない。
リュカには唐突な話だったが、ティミーから「早く世界をどうにかしないと!」と焦る目を向けられ、ポピーからは「でもどうしたらいいのか分からないの」と困ったような目を向けられたリュカは、この場で腰を落ち着けて話すものでもないと、ただ穏やかに、同調するように「どうしたらいいんだろうねぇ」と答えるに留めた。今はただ、この時しかない友人との時間を楽しめばいいのだと、まるで手品のように両手の中に風を起こして見せて、リュカのその意を汲むようにビアンカが彼の起こした風の中に小さな炎を混ぜ合わせた。彼らの頭上に一匹の小さな炎の竜が走るような光景に、コリンズは「すげぇ……」と呟き、ティミーとポピーも旅の最中の戦いの中では落ち着いて見ることのできない芸術が内包される呪文の姿に、僕も私もと、リュカの起こす風の中に自らの放つ呪文を混ぜ合わせ始めた。一時、ラインハットの中庭の上に暗雲が立ち込めた際には、流石にリュカはティミーを止めたが、ビアンカは魔力の放出を抑えれば平気よとティミーの後ろに回り込むなり、息子が苦手とする魔力の調節を手伝った。結果、ラインハットの中庭の景色を一つも壊すことなく、リュカが強めに起こす風の中をぐるぐると雷の竜が暗雲から降り迫る光景に、皆が一斉に歓声を上げた。
彼らとの時間は楽しいままに過ぎて行った。リュカはそうなることを何よりも望んでいた。コリンズの目元はまだ赤みが引かなかったが、楽し気に笑っていた。デールも普段目にしたことのないほどの様々な呪文の光景を見て、童心に返ったかのように目を輝かせていた。マリアも手を叩いてティミーとポピーの秀でた能力を褒める言葉をビアンカに述べ、その隣ではヘンリーが濃紫色の包みを大事に小脇に抱えながら自らもその遊びに付き合うようにメラの呪文を唱え、リュカのバギの呪文の中で炎を遊ばせた。小鳥が飛び回ったかと思えば、それは勢いを増して鳳凰のごとき形を成して、宙を一閃してすぐに消え去った。
ポピーが次々と宙に小さな氷を作り出しては、それを次々とドリスが拳や脚で弾き割って行った。宙に弾ける氷がまだ中庭に残る陽の光に晒され、きらきらと輝いていた。同じことをピピンも試みたが、うっかりポピーの放つヒャドの呪文の正面に入り込んでしまい、悲鳴と共に中庭の上を転げ回っていた。すぐにリュカの手当てを受けたピピンだが、「リュカ王、早過ぎる回復呪文をありがとうございます……」と素直に喜ばない言葉と共に、その視線は恨めしそうにマリアに向けられていた。しかし彼の想いには思いが至らないティミーが容赦なく、「ピピン! 今度はボクの!」と言いながら普段の魔力でベギラマを放ったものだから、ポピーが慌ててヒャダルコでその火炎を消し去った。調子が出るとつい魔力が多く放出してしまうティミーを、教育するのは私だと言うようにビアンカは再び落ち着いて魔力の抑え方を丁寧に教える。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎる。魔力を多く消費した彼らは大いに腹を空かし、その後ラインハット城内に戻り、予定されていた会食の時間が始まった。酒はビアンカとヘンリーが少々口にしただけだった。リュカがヘンリーは下戸だったはずだがと首を捻ると、一体何年前の話をしてるんだと少々赤らんだ顔で文句を言った。会食の間は始終和やかな雰囲気が漂っていた。誰もが向き合わねばならない切実な問題は今はないのだと言うように、楽しいひと時を過ごした。人々との楽しい思い出は、そのままその人の力になり、糧になる。そのような糧を今は一つでも多く積み重ねた方が良いと、リュカもまたその安穏な雰囲気の食事の席を楽しんだ。
ラインハットを去る際、リュカは改めてデールと握手をし、ヘンリーとマリアは揃ってリュカに礼の言葉を重ねて述べた。不安な表情を隠すこともできないコリンズを宥めるポピーと、今度はグランバニアにおいでよと朗らかに呼びかけるティミーに、リュカは子供たちの間に育まれている絆を壊すまいという思いを強くする。マリアから持ち帰りの菓子の包みを渡されたビアンカは、今度このお菓子の作り方を教えてねと女同士の約束を交わす。そこにドリスも加え、料理などしたことのない彼女をその楽し気な約束の輪に半ば強引に入れてしまった。その際にはまた自分を護衛としてと意気揚々と名乗り出たピピンがマリアの前に進み出ようとすると、彼の首根っこを掴んだヘンリーが不敵な笑みを浮かべて「今度はもっと年嵩の頼りになるヤツがいいんじゃないのかぁ?」と凄みを利かせていた。極力誰もが、この場の温和な雰囲気の中にいることを望んだ。切実なる問題に向き合うのは国に戻ってからにしようと、リュカは笑顔を絶やさないままにラインハットを後にした。
夜も更けたグランバニアの城に戻ったにも関わらず、玉座の間にはまだ小さな明かりが灯り、そこにはリュカたちの帰りを今か今かと待ちわびていたオジロンの姿があった。普段ならば既に休んでいる時分だったが、初めて娘のドリスを外に出したという緊張感もあったのだろう、まるで眠くないというはっきりとした顔つきで屋上庭園から戻って来たリュカたちを出迎えた。当然のように、その傍にはサンチョの姿もある。
「おお、無事に戻ったか」
そもそも玉座に座ってはいなかったのだろう。オジロンは玉座の間に姿を現したリュカたちのところへ歩み寄る中、その視線はやはり娘のドリスを先ず見つめていた。
「オジロンさん、お休みになっていなかったんですか」
「うむ……まあ、今日は色々とやることが多くてな」
口籠るようにそう言うオジロンに、サンチョは笑いを噛み殺しているようだった。彼らのそんな状況に気付かない娘ドリスは、先ほどまで訪問していたラインハットの様子をいかにも楽しそうに語り始めた。しかしグランバニアでの時刻は既に日が変わりそうなほどに遅く、実際リュカたちもオジロンたちも朝起きてからの時間が長く経っていることを、窓の外に見る深い闇の中に埋もれる森の景色に思わせられる。ラインハット訪問の熱が引いて行くのと同時に、先ずはティミーとポピーが堪え切れない欠伸をする。食事も済ませて満ちた腹はそれだけで眠気を誘う。それを間近に見たビアンカが二人の子供の肩を両側に抱くようにして、明日改めて時間を設けましょうと皆に提案すれば、皆が揃ってそれに従う意思を見せた。
リュカたちが上階の私室へ、オジロンとドリスが各々自室へと引き上げる中、皆が見ていないからと気を抜いた様子で欠伸をするピピンにサンチョが声をかけた。ジェイミー兵士長より本日ラインハット訪問にて得た国防の在り方についてまとめておくようにとお達しが出ていると伝えれば、ピピンはその場で思い切り項垂れた。まだ正式に兵士にもなっていないのにと零すピピンを見て、サンチョは同情の意味も含めて彼を宥めつつも、それだけ兵士長は貴方に期待しているということでしょうと今回のラインハット訪問の同行者にピピンが選ばれたことを許可した理由をそっと教えた。これからの若い者に、とりわけピピンはジェイミー自身の尊敬するパピンの息子であり、そして今はまだピピン自身が自覚していないような戦闘の才覚も持ち合わせていると、ジェイミーは見込んでいる。そのようなことをサンチョが応援するかのごとく伝えると、ピピンは途端に元気を取り戻し、兵士長の期待を裏切るわけには行きませんよね!と、鼻息荒く兵士の宿舎へと足早に戻って行った。その後ろ姿を見ながらサンチョは思わず「若いというだけで、もうそれは才能なんですよ」と大きくなったピピンの背中に再び応援の言葉を送った。
一方、自室に戻ったリュカたちは簡単に身ぎれいにした後、ティミーとポピーは早々にベッドの中に潜り込んでしまった。二人と共にベッドに入ったビアンカもまた、口に手を当てて欠伸をしている。今までは気を張っていたために欠伸も出なかった彼女だが、普段寛いでいる私室に戻り、子供たちの温もりを両側に感じるこの時になってようやく緊張感から解放され、素直に睡魔を感じるほどになったようだ。
「お疲れ様、みんな。今日はもうゆっくり休んでね」
そう言うと、リュカは部屋着を着たまま一人、部屋の端に置かれる執務机に向かう。
「お父さん、まだ寝ないの?」
心配そうにそう言いつつも目を擦るポピーを見れば、成長したとは言えまだ子供だなと思わせられる。そしてその彼女の不安な心を落ち着けるようにと、隣にいるビアンカが娘の頭を撫でる。同時に、同じように隣にいるティミーの頭も優しく撫でる。ティミーもまたリュカに言葉をかけようと身を乗り出していたが、母の温もりが傍にある状況ではその意思は簡単に鳴りを潜めた。
「お父さんは大丈夫よ。さあ、二人はゆっくり休まないとね。明日もあるんだから」
「……お母さんは、ここにいる?」
「もちろん」
そう言いながらビアンカはティミーにちゃんとベッドに身体を横たえるようにと枕の位置を直す。枕に頭を乗せたティミーの身体に掛け布団を被せ、その上から規則正しい律動で手を乗せ、子供たちの眠りを誘う。決して眠りの呪文を使っているわけでもないのに、二人の子供たちは母の温かな手の子守歌で、あっという間に眠りに誘われてしまった。健やかな寝息を立て始めた子供たちの様子に、リュカは思わず苦笑する。
「……僕じゃそうは行かないなぁ」
「あら、そんなことないわよ」
リュカの小さな独り言を耳にしたビアンカは、すかさず夫の自虐的な一言を否定する。小声で交わされる夫婦の会話に、すっかり寝入ってしまった子供たちは何の反応も示さない。ラインハットでこれでもかと楽しんできたティミーとポピーは今はその楽しさの余韻を夢の中に見る時間だと、目覚めたこの世界ではなく、眠りの夢の世界へとその身を置いているに違いない。
「父親だって母親だって、子供を愛しているのは一緒だもの」
「でも父親と母親じゃ、やっぱりちょっと違うよ」
「そりゃあそうよ。一緒なわけないじゃない」
「……あれ?」
言っていることがちぐはぐではなかろうかと、リュカは首を傾げた。机の端に乗せているランプの明かりが不意に揺れ、照らされる部屋の中の景色も揺れる。油切れを起こしかけているようで、灯る火は不安定だ。リュカがランプの明かりに見ようとしていた指にはめている二つのリングを右手の指の腹で擦ると、窓の閉じられた部屋の中に風でも起こったかのように、リュカの頬を温かな風が撫でて行ったような気がした。その風を受けたランプの灯が再び、部屋の景色を揺らす。
「私はそれでいいと思うの。だってどう頑張ったってお父さんはお母さんにはなれないし、お母さんはお父さんにはなれない。そうじゃない?」
ビアンカのその言葉には、自分は母親にはなれるけど、父親にはなれないのだという、悔しさと諦めの中にある覚悟が感じられた。
「思うんだけどね」
彼女はいつの間にか過ぎ去ってしまった十年の月日を、このグランバニアに戻ってきてから懸命に取り戻すかのように時を過ごしていた。成長してしまった子供たちを赤ん坊の頃に戻して一から育て直すことはできない代わりに、彼女は今の子供たちと共に歩もうと、城にいる際にはよく双子と共に「お勉強の時間なの」と部屋を出ることが多い。それは彼女の言葉の通り、子供たちが今何をどのように学んでいるのかを身近に感じるようにしているのだろう。それは単に、子供たちが学んでいる事柄を一緒になって理解するために傍にいるのではない。子供たちがどのような姿勢で、感情で、物事に当たっているのかを肌に感じ、彼女はその感覚を母親として自身の中に取り入れていきたいのだろうとリュカは思っている。
「子供って、お母さんの胸に抱かれて安心して、お父さんの背中を見て希望を持って前に進めるんじゃないかなって……そんな風に思うのよ」
あくまでも自分は、という意味を込めて言うビアンカの言葉が、リュカの胸の中に沁みるように溶け込んでいく。彼女の言うようなことを考えたことはなかったが、実はそのように感じていたのかも知れないと、リュカは生前の父パパスの広い背中を思い出す。
何故父の背中を今もまだ鮮明に思い出せるのか。それは偏に、父は常に子供に背中を向け、敵から子を守ろうとしていたからに違いない。憎き敵ゲマの前に散ってしまったパパスだが、それでもリュカの記憶には逞しい父の背中に守られることにはこれ以上ないほどの安心があったのだとその感覚を思い出せる。今も尚、敵の卑怯な手段さえなければ、父は敵に負けることはなかったのだと信じている。
「それでね、夫婦の私たちは……健やかな時も病める時もその身を共にする……」
それはサラボナの町の教会で執り行われた結婚式での、神父からの言葉だった。これから夫婦となる二人の誓いは、その言葉の意味に正直に嘘偽りなく首肯することで成り立つ。あの時、リュカもビアンカも互いに誓った。輝かしいあのひと時を今も鮮明に思い出すことができる。
「あなた一人で何もかも抱えさせないからね」
部屋の暗がりの中でも、ビアンカの瞳が強く煌めいているのがリュカには見える。子供たちには温かで包容力のある母でありたいと願うビアンカだが、夫であるリュカとは共に歩くのだというはっきりとした意思を見せる。
「これからどうするかって……もうはっきりと考えてるんじゃないの?」
ラインハットでビアンカはリュカの考えの一端を、ヘンリーとマリアと共に聞いた。セントベレスの地より戻り既にひと月が経ち、それまで凡そ傍にいたというのに夫リュカの胸の内にのみあるその思いや考えにまるで至らなかった己に、ビアンカは少々自信を失くしそうになった。リュカが、彼にとっては忌まわしき地でもあるあのセントベレスの大神殿の地下に潜り、そこでマリアの兄の亡骸を拾ってきたことなど、誰も知らないのではないだろうか。少なくとも常に傍にいたはずのティミーもポピーも、そのような悲しい事実を知るような影は見られなかった。ラインハットでマリアに、ヘンリーにその辛い現実を伝える時の彼の心境を想えば、何故自分が前もって気づいてやれなかったのだろうかと悔しい思いさえ込み上げる。
しかしそのまま塞ぎ込み、落ち込み沈んでいられるようなビアンカではない。知らなかったものは仕方がない。自分にできることはこれからも夫リュカを、隣で支え続けることだ。その為にはなるべく彼一人に背負わせる事柄を少なくして行かなくてはならない。リュカにはどこか「これは自分自身の問題だ」と他を寄せ付けないような、孤独に在りたいという雰囲気が漂うことがある。彼自身はそれが最善と思っている部分もあるのだろう。だが、ビアンカはそれを妻として放っておくことはできない。
「お義母様を助けるのにどうしたらいいのかって……もう、リュカはちゃんと考えてるんでしょ」
ビアンカの言葉にリュカは左手の指に嵌る二つの指輪がふわりと熱を持つように感じられ、思わず左手を軽く握った。指輪そのものが話し出すことなどないと分かっていても、熱を持つ指輪がリュカの考えをそのまま語ってしまうのではないかと、何気ない調子でリュカは左手を腰の後ろへと隠す。
「隠しごとしたら、怒るわよ」
「う、うん、分かってるよ」
「リュカが隠しごとをしたってすぐにバレちゃうんだからね。いいことないわよ」
これはビアンカの強がりだ。実際、リュカが本気で隠そうとしたことなど、ビアンカは気づく由もない。それ故に彼女は夫の良心にそう訴えかけて、牽制をする。
「隠さないよ。ただ……」
「ただ?」
「オジロンさんやサンチョたちにちゃんと話をしておこうと思ってね」
リュカのその一言だけで、ビアンカには彼がこの国の王として動き出そうとしていることが分かる。問題はリュカ個人のものではなく、彼はあくまでもこのグランバニア国の王という立場の人間だ。自身の母マーサを救い出すという、これ以上ない個人的な願いであっても、それは現王が皇太后を救出するという、国家としての願いと同一になる。そしてその願いはリュカは元より、生きたマーサを知るオジロンやサンチョにとっても悲願となるものだ。
「そう……。……私も一緒にいた方がいいかしら」
「……いや、僕から話すよ。ビアンカは子供たちと一緒にいて」
「分かったわ」
ビアンカは出しゃばることなく、リュカの言葉を素直に聞き入れた。彼女自身も当然、義母となるマーサに一目会いたいという思いを持っている。しかしそれはマーサの息子であるリュカや、義理の姉として彼女を見ていたオジロン、そして長らく主人であるパパスと志同じくしてマーサの救出を望み続けていたサンチョとは根本的に異なるものだと、ビアンカは冷静にそう思うほどには大人になった。彼ら三人の複雑な思いには到底及ばない自身はその場にいるべきではないだろうと、ビアンカは一度大きく呼吸をしてから、両脇に眠る子供たちの間に身を滑り込ませるようにして布団に身体を横たえた。
「もう遅い時間よ。リュカも早く寝なさいよ」
「うん……もう少ししたら……」
リュカが言いかけたところで、机の上に灯っていたランプの明かりがふっと消えた。明かりに揺れていた部屋の景色は消え失せ、リュカにもビアンカにもただどこまでも暗い空間が目の前に広がったように見えた。ただ油切れを起こしたランプから煙が立ち、その臭いを鼻に感じるだけだ。
「ランプも寝なさいって言ってるのよ」
「ははっ、そうかもね」
「はい、もう今日はおしまい。こっちに来て一緒に寝なさい」
暗がりの中で、リュカの目はすぐにその状況に慣れてしまう。窓の外に月は見えないが、空の高くから照る月明かりの助けもあり、リュカはその明かりの中に浮かび上がる物の影を避けながらベッドへとたどり着く。家族が四人で寝てもまだ余るほどの広いベッドだが、それでも寝相の悪いティミーは時折ベッドの下に落ちてしまうこともある。そんな息子を支えるようにリュカは彼の隣に身体を滑り込ませると、既に三人の体温で温まっている布団の中で幸せな匂いに包まれた。
「よく寝てるなぁ」
そう言いつつリュカはティミーの髪をそっと撫でる。何も考えずとも子供の頭を撫でてしまうのは親だからだろうかと、自分も子供の時に父に撫でられた頭の感触を思い出す。
「楽しい夢を見ているといいわね」
ビアンカもまた隣に眠るポピーの頭を撫でる。自然と手が伸びて子供の頭を撫でるのは、親としての自負もあるのかも知れない。
「ビアンカ」
「なあに?」
「僕たちも良い夢が見られるように」
「おまじない?」
「そう」
短い会話の間に顔を寄せ合い、軽く口付けを交わすと、夫婦はそれぞれに満ち足りたような思いを胸にベッドに身体を沈めた。子供たちの高い体温の温もりに幸せを感じ、目を閉じれば間もなく彼ら二人もまた深い眠りへと誘われた。



グランバニア城二階の中央部に位置する大会議室には多くの明かりが灯され、リュカが会議室に足を踏み入れた時には既に皆は集まり、各々席に座していた。
オジロンとサンチョを両脇に、リュカは中央の席に座る。他に席を並べているのは、兵士長ジェイミー、教会の神父、それと魔物の仲間たちからマーリンとピエール、そしてまるで硬い表情を隠していないドリスだ。彼女としては、本来この場に呼ばれずに駄々をこねる方に回るはずなのにと言った戸惑いの様子が見て取れた。
定期的に開かれる会議ではないのは誰にも分かっていた。月に一度は行われる会議では呼ばれることのないピエールにドリスが席を並べていることに、彼ら自身だけではなく、周囲の者たちも一様に普段は見せないような硬い顔つきを見せている。
大会議室の扉が閉められ、会議の空気が室内に漂うや否や、リュカは早々に口火を切った。
「近々、魔界を目指そうと思っています」
その言葉に大いに驚きを示したのはジェイミーに神父、ドリスも驚きに目を丸くし、マーリンは険しい顔つきでリュカを見つめた。しかしオジロンとサンチョは広いテーブルの上に視線を落としたまま微動だにせず、席に座せずに会議室の端に立つピエールもまた静かな様子でリュカの言葉を聞いている。
「ティミーを、連れて行きます」
グランバニアの王子が勇者の運命を背負わせられていることを、グランバニアの者たちは当然知っている。いずれはその時が来るのだろうと心のどこかで常にそのことを思っていた彼らの心に、今がその時なのだとはっきりと勇者の父から知らされたという状況だ。
いの一番に反論するだろうと思われていたオジロンが、ただリュカの隣の席で黙り込んでいる。そんな父の姿を、ドリスは歯がゆい思いで隣で視界の端に見ている。
「しかしリュカ王、ティミー王子はまだ十歳になったばかり……もう少し成長するまでお待ちになった方がよろしいかと」
「ただ神父殿、近頃は魔物の行動が以前よりも凶暴になっておる。王子の成長を待つにしても、のんびりと待っているわけにも行きますまい」
神父の言葉を柔らかく否定するマーリンだが、本心では彼もまたティミーを魔界などという異世界へ旅立たせることを善しとはしているわけではない。この場にいる誰にとっても、ティミーは世界を救う勇者であるよりも、生まれた時からその健やかな成長を見届けて来た可愛い我が子のようなものなのだ。
「もし魔界へ向かわれるとして、国から兵はどれほどつけるおつもりでしょうか」
国王の決定であれば異を唱えることも憚られるのだろうと、ジェイミーはあくまでも兵士長としての役割を全うしようとする。生真面目とも称される彼の性格は国に仕える兵士としては手本となる形だが、所詮は一兵士の立場を上に抜き出て、上の立場の者として兵たちを統率する役には足りないのだとジェイミーは自身の心に思っている。
「兵はつけない。いつも通り、仲間たちを連れて行くよ」
「一人もですか?」
「兵のみんなはこの国を守っていて欲しい。僕たちが魔界に行っている間に、この地上の世界に何かがあれば大変だよ。国の兵士たちはいつも通り……いつも以上に国の護りを固めていて欲しいんだ」
「国王がそう仰るのなら……了解いたしました」
「みんな強いからね。安心して任せられるよ」
そう言って笑顔を見せるリュカだが、それに釣られて笑顔を見せる者はいない。締め切った部屋の中に明かりの熱が籠り、少々の息苦しさにサンチョが手にしたハンカチで額の汗を拭うだけで、会議室の空気が揺れるほどに皆は静まり返っている。
「王妃様やポピーは、どうするの」
聞かなくとも答えは分かっている。しかしそれはこの場ではっきりとさせておかねばならない問題でもあるのだろうと、ドリスは気の進まない様子でぼそりとそう口にした。
「一緒に連れて行く。……本当は連れて行きたくないけどね」
「それって二人とも大人しく留守番してくれそうもないから?」
いかにもそうだと思わせるドリスの理由に、サンチョもマーリンも苦笑する。リュカも思わず顔に笑みを浮かべつつも、「そうじゃないよ」とドリスの言葉を否定する。
「二人は大事な戦力だ」
それはただ戦う力に長けているという意味に留まらない。ようやく家族四人が再び集うことが叶った。念願叶い、合わさり完成したパズルのピースは揃ったその時に完全に固着し、もう二度と離れないのだと互いに互いの境目を失くしてしまったかのように、今や一つとなってしまった。今更その内の一つ、二つを別に分けることは、それは即ち全てがバラバラになるのと同義だとリュカは思う。
「もう、一人でも欠けることはできないよ」
「でもさ、そんなの、やっぱり……」
「そうだね、きっと僕は間違ってる。本当はこんなこと、やっちゃいけないよ」
「分かってるならもう一度考え直してもいいんじゃないの? リュカ、今のあんたは多分冷静じゃないよ」
「うん、でもね……もう何度も考えて来たんだ。冷静に冷静に、これ以上ないくらいに冷静にって考えても、ここにしかたどり着けないんだよ」
未知の世界である魔界に旅立つとして、互いが離れた場所にいる状況を想像すれば、それこそ互いの安否を四六時中気にするだけでみるみる精神は病んでいくのだろうとリュカは確信する。それならばいっそのこと、危険な場所にでも家族は共に在るべきだとリュカは信じ、それでこそ自分は何よりも強くなれるのだと思える。
「ティミーが戦うには、ポピーが必要で、ビアンカが必要だ」
勇者ティミーの宿命を半分請け負うのだと強く思っている妹のポピーの力は、兄ティミーにとって計り知れないものだ。そしてティミーとポピーの心の安定を保つのは、母ビアンカの存在そのものだ。
「僕は家族を、絶対に守るよ」
リュカの表情から笑みは消えていた。
「だから僕たちが戻るまで、ドリスはオジロンさんたちと一緒にこの国を……地上を守っていて欲しいんだ」
リュカの断定的な希望ある言葉に、ドリスだけではなく皆が揃ってリュカを見る。リュカは皆の希望に応えるかのごとく、言葉を続ける。
「僕たちは必ず戻ってきます。母マーサを連れて」
グランバニア近辺でも魔物の動きは以前よりも大きくなってきている。それは魔界での魔王の力が大きくなりつつある兆しだと、聖職者の身に在る者たちの多くは気づいている。
「勇者を魔界の王と戦わせることを避けるため、エルヘブンに継承されてきた母の力を以て、再び魔界の扉を固く封じようと思います」
一人も欠けることなく、何者をも犠牲にすることなく、この世界を全て丸ごと救うという強い意志を、リュカは皆の前ではっきりと表した。それはただの欲張りの考える無謀ではなく、むしろまだ幼き勇者が魔界の王に対峙するよりも希望の抱ける未来なのだと、リュカはその思いのままにテーブルを囲む皆の表情を見渡す。
誰もがしばらくの間、黙り込んでいた。各々が各々の思いの中に耽る。エルヘブンに継承された魔界の門を開閉する能力を、今一度マーサに行使してもらい、地上と魔界との間の門を固く封じる。上手く事が運ぶかは分からない。そして恐らく、魔界の王の力はこれまでにも増長しており、再びいつ魔界の門が開かれないとも限らない。要はただの時間稼ぎだ。それでも時間を稼いでいる間に、今はまだ少年である勇者ティミーも成長し、仲間たちもまた準備を調える時間を多く持つことができる。青年となった勇者ティミーを中心に、多くの仲間たちが集えば或いは魔界の王にも堂々と対峙することができるのではないかと、会議室に集う皆の心の中に明るい希望が根差し始めた。
「私にはリュカ王のお話になったことがより現実的な方法かと思います」
初めにリュカの提案に賛成の意を示したのはサンチョだった。喪っても尚主人と崇めるパパスの、その妻であるマーサの協力を仰ぐなどということは、恐らくこの場では彼女の子供であるリュカにしか思いつかないような手段だとサンチョは思った。たとえその方法を他の者が思いついたとしても、到底口にして言えるような内容ではない。不敬極まりないと、その内容ごとばさりと切り捨てられてしまい兼ねないほどの危うさがある。
「私もやはりなるべくならば……誰もが救われる未来を見たいと、そう願います」
サンチョの言葉を聞けば、皆はそれだけで胸の内に芽生え始めた希望がみるみる明るく輝いて行く感じを覚えた。しかしその中で唯一、表情も変えずにじっと沈黙し、息をするのさえ躊躇うほどに緊張を示す者がいる。
「……私は、それほど上手く行くようには思えません」
黙することに徹する雰囲気さえ見せていたピエールが、会議室の隅に立ちながら小さくもはっきりとした口調で言葉を口にした。今回の会議にピエールを呼んだのはリュカ自身だ。そう遠くない未来にもし魔界へ旅立つことを決めたならば、その際には恐らく彼に同行を願うだろうとリュカは考えている。賭けに等しいほどの作戦ではあるが、今の少年勇者を魔界の王に立ち向かわせる無情を考えればピエールもまたこの作戦に賛成の意を示してくれるだろうとリュカは踏んでいた。
「ピエールよ、しかしさすればどのような方法が他にあるというのじゃ」
マーリンの口調は詰問するようなものではなく、至って穏やかなものだ。もし他に妙案があるのなら誰でもこの場で発するべきだと、そのためにこの会議の場が設けられている。
「いえ、他には……分かりません。しかし私はこちらから魔界に行くことの危険を強く感じています」
ピエールの脳裏に、あの時姿を現した敵ゲマの気味の悪い笑みが思い出される。セントベレスの大神殿に唐突に姿を見せたゲマは言っていた。魔界で待っていると。それが不吉な悪魔の予言とも思え、そして物事がその通りに運ばれていることに、ピエールはただ抵抗したかった。
「ピエール」
いつもは温かく穏やかに聞こえるリュカの声が、今は鋭く響くものだとピエールは思わず身体を震わせる。
「君がそう思うのはどうしてかな。何か理由があるんだろ?」
魔界に行くことを決めるようなこの場で今更嘘も隠し事もないのだと、リュカはただ真剣に最も頼れる仲間に問う。ピエールはこのような大きな場で、自身のみが感じている不吉を曝け出すのは間違いだと考える。しかし自身を誤魔化すような表面上の言葉を探しても、リュカのいつにない強い視線から逃げることができない。
「理由は……」
「ピエール」
「はい」
「大丈夫だよ。僕はどんなことでも受け止めるから」
そう言いながらふっと笑うリュカの表情を見て、ピエールはこの人をこれ以上傷つけたくはないと思う。しかしきっと、この場で嘘偽りの言葉を述べることの方が彼を後々傷つけてしまうに違いないと、しばしの沈黙の後に再び口を開いた。
「……あの憎き敵が、魔界で待っていると。その言葉に乗るべきではないと、私はそう思っております」
大会議室に集まる中でピエールの言葉を解するのは、リュカ一人だけだ。敢えてその名を口にしないピエールだが、リュカにはそれがあの敵のことであると即座に理解し、顔に浮かんでいた笑みはすっと消え去った。
「いつ、遭ったんだ」
「あの大神殿で、貴方がたがお戻りになる直前のことです」
「他には何か言っていたのか」
「他は……ただの奴の戯言ばかりです。特別なことは何も……」
頭の片隅に残るもう一つの不吉な言葉は、口にするのも恐ろしい望まぬ未来なのだと、ピエールはこれ以上告げることはないと口を閉ざした。主と慕うリュカがこの世界から消えるなどという未来があってはならないのだと、ピエールはもうただの一言も話すまいと口を閉じ、沈黙を貫く姿勢を見せる。
完全に黙したピエールを見て、リュカは眉間に皺を寄せ深く息を吐いた。テーブルに肘をつき、その手に顎を乗せ、もう片方の手はテーブルに置いたまま指先はテーブルをトントンと叩き続ける。速めの規則正しいその音だけがしばらくの間会議室内に響いた。
まるで時を刻むようなその音がふと止み、リュカは手に乗せていた顔を上げた。その目は常よりも漆黒の色に染まっているように見える。
「待っているって?」
リュカの低い声を聞いた瞬間に、ピエールは自分は間違いを犯したのだと感じた。やはり伝えるべきではなかった。しかしたとえ伝えなかったとしても、リュカは魔界に向かうことを止めなかった。どちらにせよ魔界を目指していたというのならば、それは即ちゲマの予言通りに事は運んでいるということだ。
「それならばこちらから行ってやるまでだ」
冷静さを欠いている意識もないリュカは、この場にいる者たちの誰もが見たこともないような究極の憎悪を込めたような表情で、虚ろにテーブルの中心に視線を投げていた。その目に映るのは、父を焼き払っておきながらも高らかに笑うゲマの悪魔らしい悪魔の姿であり、仲間であったはずのイブールにも容赦なく手をかけ、その身も魂も永遠の闇へと葬り去ってしまった非道極まりない奴の、いかにも詰まらなそうな顔つきだ。
「あいつだけはいずれは、滅ぼさなければならないんだよ」
リュカにとっては、世界を滅ぼそうと企む魔界の王よりも、父の仇であり、数々の非道を重ねているに違いないあの悪魔を許すことができない。それは勇者の父としては間違った感情なのかも知れないが、パパスの息子としての強い感情が噴き出てしまうのはどうにも抑えようがないのだ。
「リュカ王、ちと顔色が悪いようですぞ。少し休憩を入れた方が良いかも知れん」
隣の席に座るオジロンがリュカの顔を覗き込み、まるで自身の息子を労わるように優しく言葉をかける。その声にリュカは我に返ったように視線をこの会議室の中に移し、隣のオジロンの顔を見返すと、再び笑みを浮かべて首を横に振った。
「いえ、平気です。それにもう、伝えるべきことは皆さんに伝えましたから」
「ふむ。向かうべき道は決まった、ということでよろしいですかな、リュカ王」
「そうですね。国民には改めて僕から伝えたいと思います」
リュカのその言葉を聞いて、オジロンは思わず苦笑する。
「わしはてっきり今度もまた、何も知らせずに行ってしまわれるのかと思っていましたぞ」
オジロンが言うのは、かつてビアンカが魔物に攫われた際にリュカが少ない魔物の仲間たちと城を飛び出して行ってしまった時の話だ。あの時、リュカが前しか見えていなかった一方で、オジロンやサンチョらは過去のマーサの時のことを思い出し、悪夢再びと、絶望に等しいほどの感情が彼らの胸を占有していたに違いなかった。
「……あれは本当に反省しています。もう二度とあのようなことはしないと、ちゃんとみんなに事前に話しておくことにしますよ」
「ぜひそうしていただきたいものです」
オジロンがリュカの言葉に乗せてそう強めに告げると、テーブルを囲む者たちからもそれに同意するような頷きがちらほらと見られた。リュカは思わず居心地悪そうに肩を竦めるが、彼らのそのような態度もまた真摯に受け止めねばなるまいと自らも小さく首肯した。
「リュカ、絶対マーサ様を連れて帰ってきてよね! みんなと一緒に!」
双子の子供たちも王妃も魔界に向かうことを避けられないというのなら、その主でもあるリュカが必ず全てを引き受け、そして亡き伯父パパスの悲願を叶えるのはリュカしかいないのだと、ドリスは力強くそう言葉にする。物事は心の中に思っているだけではまだ弱い。しかし言葉にすればそれは途端に強味を増す。そしてその言葉に思いを乗せれば、願いは皆の心の中にも染みわたり、遥かな夢でも、それ自らがあちらから近づいて来てくれるとドリスは信じてリュカを激励する。
「うん。必ずみんなをこの世界に、戻すよ」
いつもの穏やかなリュカの態度と声に、会議室全体に漂っていた緊張感は風に吹かれて流されるように消え去った。しかしその風の届かない部屋の隅に立つピエールは一人、リュカの真意を深く深く感じ入るように、目を閉じながら主の言葉を否が応でも頭の中に反芻させていた。



大会議室での会議の数日後、リュカはグランバニア城下町の視察の時間を設けていた。ビアンカも一緒に来るかと誘ったが、彼女はその誘いを断り、今は子供たちと共に魔物の仲間たちのいる大広間での時間を過ごしている。リュカはまだ妻にはっきりとしたことは告げていない。魔界を目指す目的は彼女も認めてはいるものの、実際にいつどのようにして向かうのかは伝えていないが、彼女は既にその目的のために準備をしたいのだろうとリュカは妻子が魔物の仲間たちとの時間を過ごすことに賛同していた。
リュカは一人で構わないと、ふらりと城下町を歩こうとしていたが、それはジェイミーが許さなかった。適当な護衛をつけると言い出したジェイミーに、リュカは「サンチョを連れて行くから大丈夫」と、その場にいなかったサンチョを勝手に同行することを決め、視察直前になってその予定を知らされたサンチョはあたふたと自身の予定を調整しつつも、今はリュカの隣でのんびりと城下町を歩いている。
グランバニア城下町に住む人々の表情は、決して明るいとは言えないものだ。日々を暮らすことには特別問題や不安を抱くこともない国民の姿だが、彼らの上には広く覆うような暗雲が立ち込めているかの如く、果たしてこのまま何となくの時を過ごしていて良いものだろうかという漠然とした不安がある。それというのも、年始に起こった敵の魔物の群れによるグランバニアの襲撃の影響が今も残されているからだとリュカは感じている。普段は朗らかに笑い、語る人々の雰囲気の中には、一見明るく目に映るその雰囲気にもその芯には誰にも判然としない暗い影が落とされる。誰も口にすることはないが、外の世界では魔物の数が増えていることを知っており、それに人間は今のところ太刀打ちできない状況だということも残念に思いつつも認めている。
「それにしても今日はいつもよりも静かに感じますねぇ」
城下町の大通りをサンチョと歩きながら、リュカも彼と同様の思いを抱いていた。屋内に収められている城下町は今、昼前の時間を表すように多くの明かりが灯され、大通りから町の様子から全てが明るく照らし出されている。城下町を行く人々の表情もはっきりと窺うことができるが、リュカたちに向けられる表情はにこやかながらもどこか戸惑いや緊張感を伴うもののように見えた。国王とその従者が並び歩いているのだからその面持ちに緊張が走るのも頷けるところだが、リュカは国王の立場で既に何度もこの城下町を視察のために歩いている。決して珍しい行動ではないため民衆もリュカが城下町を歩くことに慣れているが、今リュカやサンチョが感じる彼らの緊張感はどうやらリュカたちがこれから向かおうとしている教会へと向けられているようだ。
「森で襲われたらしいです」
噴水広場で立ち話をする町の人から、リュカとサンチョはその話を聞いた。グランバニアの広大な森の中には、人々の糧となる作物を育てる畑が一部広がっている。城門を出てほど近い場所で、そこではグランバニアで消費される食物が年中を通して育てられ、肥沃な土地やチゾットの山から流れる清らかな水の恵みを受け、グランバニア国の食は守られている。そして畑仕事をする国民は常に共に行動する国の兵士の保護を受けており、安全は保たれている。
しかし近頃は森に棲息する魔物の行動がいくらか荒っぽくなってきている。かつてカボチ村で畑を荒らしていたプックルとは異なり、畑で作業している人間を脅かす魔物の行動が見られるようになってきた。今のところ人々を守る兵の力が勝っているために人々も国の食糧事情も守られているが、魔物の勢力が増して行けばいつこの状況が覆されるかは分からない。
その中で、豊かな森に成る食用の実を採取する仕事を負う者がいる。背中に翼を持つ彼女はその飛行能力を生かして、高い木の上に成る実を取ることでグランバニアの食を支える重要な一人となっている。天空人グラシアはかつて自身を助けた先代の王パパスへの恩を忘れず、グランバニアの国の一員となり、国の存続に大いに寄与していることは国の人々は皆知っている。
そのグラシアがグランバニアの森での作業中に魔物に襲われたという。すぐにミニモンが敵の魔物を追い払ったようだが、翼に酷い傷を負った彼女は今手当てを受けるために教会へと運ばれたらしい。
サンチョと二人急ぎ足で向かった教会では、既にグラシアは神父の手により回復呪文を施され、粗方翼の傷を癒していた。しかしまだ傷を負ったことに対する衝撃を引きずっているようで、背中に生える白く美しい翼は怖々と僅かに動かせるだけだ。身体の傷は回復呪文で治せても、心に受けた傷を癒すには少々時間が必要だろう。
「グラシアさん、大丈夫ですか」
リュカが声をかけたグラシアは背中の白い翼を縮こまらせるように折りたたみ、よく見ると翼は小刻みに震えていた。傷は回復したが、敵の魔物の攻撃による衝撃で抜け落ちた羽根は元に戻らない。一部その痕が残っている彼女の翼に、リュカはもう一度自ら回復呪文を施した。
「ええ、ご迷惑をおかけして……」
「グラシアのおねえちゃんはいくつもとってたおいしいものを、わるいマモノにとられちゃったんだって!」
肩を落としているグラシアの傍には、ポピーよりもまだ小さな女の子が頬を膨らませて怒りを露にしながらリュカに訴えかけていた。以前に兄カレブと共に光の教団の一員としてこのグランバニアに訪れ、リュカの説得により光の教団の影響から逃れた妹のマリーが、日々学びのために通う教会に今日も足を運んでいた。今も彼ら兄妹はピピンの実家である城下町の宿屋にて生活を続けている。ピピンの母は息子が城の二階の兵士宿舎で生活をするようになり、手も空いているからと二人の子供たちの面倒を引き受けてくれたのだ。夫でありこの国の兵士長でもあったパピンを失くし、息子ピピンも傍にいない彼女にとっては、この二人の子供たちの存在は寧ろ新たな生き甲斐になっているようで、悲しさや寂しさに暮れることなく日々を送れているのだとリュカは聞いている。
「ええ……でも取られたというよりは、その場で捨てられてしまったと言った方が正しいのかしら」
グランバニアの人々が食べるための木の実を奪い、そのまま目の前で潰し、砕いて見せたらしい敵の魔物らの行動は明らかに人間に対する嫌がらせの体を為していたようだ。その魔物の行動を聞き、リュカは魔物らが人間を精神的に痛めつけようとしている印象を持った。そして同時に、その狡猾で薄暗い手段を取る魔物らの行動に、リュカはどうしても人間らしさをも感じてしまうのだ。
「食べ物を無駄にするとは罰当たりな。どうせ分捕るのなら味方に分け与えるなりすれば良いものを……それも嫌ですけど」
「まあね。それをやられても敵の力がどんどん強くなりそうだし、あんまりやって欲しくはないかもね」
グラシアの言葉を聞いたサンチョが憤慨するようにそう言う隣で、リュカも同調しつつもやるせない思いに溜め息を吐く。大の大人の男二人が腕組みをしながら唸る姿を、マリーが怪訝な顔つきで見上げる。
「王さま、わたしね、しんぷさまに“たべものはソマツにしちゃいけない”っておしえてもらったの。だからわるいマモノにもそうやっておしえてあげたらいいんじゃないのかな」
グランバニアには他の国や町では見られない光景がある。リュカやマーサが仲間にした魔物たちが、人間の兵士と一緒になってこの国を守る姿だ。頼もしい魔物たちの姿をその目に見続けているマリーにとっては、この国の外をうろつく魔物にもちゃんと話をしてあげれば思いは通じるのではないかという期待があるのだろう。この小さな少女の真意に気付くリュカもまた、もし敵の魔物たちがこちらの言葉を聞き入れてくれるならばという期待を抱いていないわけではない。しかしそれ以上に、リュカにとってはこの国の王として、今この国に生活している人々を守る義務があるために、彼のできることは悪い魔物をグランバニアに近づけないことなのだ。自分一人では多少の冒険は出来ても、多くの人々を守るために多くの外界の魔物らを懐柔することに乗り出すという冒険を始めることはできない。
「分かってくれる魔物もいるかも知れないね。うん、今度きっと試してみるね」
「きっといるよ! だってこのくにのマモノのみんなはちゃんとわかってるんだもん」
少し前まではたどたどしい口調で話していたマリーだが、日々教会に通い、学びを得る中で、言葉遣いも達者になってきた。そして子供の少ないグランバニアでは多くの人々に可愛がられていることもあるのだろう、愛情を受けて育つ彼女は素直で心も強く、思ったことをはっきりと口にする自信も備わってきたように見受けられる。
「あっ、国王様……!」
走ってきたのだろう、息を切らしながら教会に姿を現したのは、マリーの兄であるカレブだ。年の離れた兄妹である彼らには、まるで親子のような関係性が見られる。兄の姿を見たマリーは嬉しそうに顔を綻ばせるや否や、すぐに兄の元へと寄り、正面から抱きつく。カレブは王様の前で不敬なのではという緊張を感じつつも、妹のマリーをひょいと抱き上げる。年の差もあり、男女の差もあり、体格に親子ほどの差が表れている今の状況に、カレブはそのままマリーを妹というよりも子供という位置づけで見ている節がある。
「カレブも大きくなったね」
「いえ、まだまだです。もっと大きくならないと、国の立派な兵士になれませんから」
彼はグランバニアの兵士になることを目指し、二階にある兵士訓練所に日参しているのだ。今はまだ大人と同様の訓練内容を受けることはできないが、彼自身はいつでもその気持ちはあるのだと伝えているらしい。そして彼は日々、自主的な鍛錬を怠らずに続けている。たった今この教会まで走ってきたのも身体を鍛える一環だ。余所者である自分たち兄妹を受け入れてくれたこのグランバニアに恩返しをするのだという真面目な意気込みが伝わり、リュカはそんな彼の思いに感謝の念を感じると共に、彼がそれほど必死になって立派な兵士を目指す理由にはやはり痛みを感じてしまう。
「今は一人でも多くの兵が必要……なんですよね」
カレブの真摯な言葉に、リュカはただ言葉にはせずに小さく頷いて見せるだけだ。カレブに抱き上げられたマリーは、兄に甘えるようにその首元に頭を擦りつけている。その姿は自分でもよく分かっていない不安を訴えかけるような様子にも見え、リュカは幼いマリーの兄に抱きつく様子を静かに見つめる。
「この世界の魔物たちはこのところ明らかに凶暴さを増してきている気がします。ただマスタードラゴン様の復活も当然知っているのでしょうから、一挙に世界を転覆させるようなこともできないでしょう」
魔界の王が地上の世界を掌握しようと一挙に魔物の大群を用いて、人間たちを相手に戦いを挑んでくるようなこともないだろうと、グラシアは天空人としての冷静な心持ちを述べる。魔界に閉じ込められている悪しき魔物たちにとって、敵は世界を救うとされる勇者であり、また世界を分けてしまったマスタードラゴンという竜神だ。敵が実際にどのように考えているのかは分からないが、魔界の者たちにとっての邪魔者はいずれ消し去ろうともくろんでいることは確かであり、その順番は恐らく、勇者という救いの者を倒した後に、竜神を討ち、そうしてこの地上の世界を全てその手に握るという野望がリュカにはありありと見えている。
例えばもし自分が魔界の王であれば、そう考えるに違いないとその思いを脳裏に描いた瞬間に、リュカは胸の内側が今までにない冷たさを帯びるのを感じ、考えることから抜け出した。
「ねえ、おうさま、やっぱりそとのマモノたちにおはなししてみたらいいんじゃないかな。わるいことしちゃダメだよって」
「何を言ってるんだよ、マリー」
「だってこのくにのマモノのみんなはみんないいマモノさんだもん。ちゃんとおはなしすればわかってくれるんじゃないのかな」
「そんなに……簡単なことじゃないんだよ」
妹のマリーを諭そうとするカレブを見ながら、リュカは自身もまたマリーのような希望を捨てていないことに気付かされる。リュカが捨てきれない最善の希望は、人間も魔物も皆が仲良く暮らしていけることだ。魔物にも良い魔物はいる。人間にも悪い人間はいる。二つの種族を比べてどちらが良い悪いの話ではないのだ。ただ二つの種族の利害が不一致になることで敵対し、大きな戦いが生まれてしまう。そして自分の大事なものたちが脅かされるような状況となれば、大事なものを守るために立ち上がり、戦わなければならないのが現実だ。
今がその状況なのだと、リュカは胸の内に常に在り続ける未来への希望を潜めながら、既に自身で決めた目標に向かって歩みを進める。その歩みには、今はカレブたちと話をするサンチョも当然のように一緒になってついて来てくれる。彼は生前の父パパスの最も信頼する従者であり、このグランバニアという国をオジロンやドリスたちと共に必ず守ってくれる存在だ。
国の会議で、為すべきことは決定した。もうリュカは、前に歩み続けることしかできない。それがたとえ、悪魔の予言を受けたものだとしても、だ。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様

    オジロンが真っ先に反対するかと思っていましたが、なぜすんなりリュカの話を受け入れたんでしょうか?

    パーティ編成が気になるころあいになってきましたね。
    リュカ、ビアンカ、ティミー、ポピー、ピエール、残り3名どうなるか気になります!
    会話が増えると楽しいから、言葉を話せる仲間…。
    サンチョ、ピピン、サーラ、ガンドフ、マーリン…。
    次話をお待ちしています。

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうですよね、真っ先にオジロンが反対するのでは、と思われますよね。ラインハット訪問にドリスがついて行くと決まった時に、オジロンは密かにリュカの魔界行きに心構えをしていたと・・・そんな風にご解釈いただけるとありがたいです。ちょっと描写が飛んでしまって辻褄が合わなくなっているところですね、すみませんm(_ _)m ちょっと書き急いでしまっています。本当はもっと丁寧に書いて行きたいところだったんですが。。。

      パーティー編成は・・・大体考えております。ただそのお話はもう少し先になってしまいそうです。

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