束の間の逃避

 

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グランバニア城四階にある国王家族の私室、広い食卓の席にてリュカたちは朝食後のひと時を過ごしていた。南向きに広く取り付けてある窓からはこの国を囲む広い森の景色の上端が見える。今日も朝から空は晴れ渡っているようで、森は陽光に燦燦と照らされている。しかし緑豊かなこの森の中では確実に魔物の数が増えている。
食後、ビアンカはいつものように席を立ち、給仕係と一緒になって後片付けを手伝っていた。この国の王妃は型通りの王妃ではないことを、国の者たちはもう十分に知っている。初めこそ、遠慮がちに距離を置き、話しかけられても一言二言を返す程度だった給仕係も、今では距離を縮めてどこか親しげにさえ見えるほどにグランバニア王妃と話をしながら片づけを進めていた。そもそも王妃がどこぞの貴族の出身などではなく、町の宿屋の娘だったことを思えば、王妃が親し気に話す口調には一片の傲慢さも感じず、話している内に果たしてこの方は国の王妃だっただろうかと疑わしくなるほどに、いつの間にかその距離はほとんどないと言っても等しいほどになっていたのが本当のところだ。
「お母さんって、あんまりじっとしてないよね~」
席に着いたままグラスの残りの水を飲みながら、ティミーが思ったままの感想を漏らす。
「お兄ちゃんに言われたくないと思うけどな」
ポピーは隣の席で、あっという間に片付けられていくテーブルを前に、行儀正しく待っている。いつもならば食事が終われば早々に隣の私室に戻り、仕度を済ませて各々目的の場所へと向かうが、今日この時は父リュカに「少しこの場で話したいから待っててね」と言われていたために大人しく片付けが済むのを待っているのだ。
「ねえ、私もお手伝いした方がいいかな」
「大丈夫よ、ポピーは座って待ってて」
席を立とうとしたポピーを安心させるようにそう声をかけるビアンカは、ティミーが少々テーブルに食べこぼした汚れを台布巾で拭き取っている。もし彼女が今もアルカパの宿屋で両親と共に宿業に精を出していたら、きっと今のような姿を宿を訪れる客の前で見せていたのだろうと思うと、人生は本当に不思議なものだとふとリュカは思ってしまう。リュカ自身、一国の王子だったことなど露知らず生きていた。父パパスが何故旅をしているのかも、その間際になるまで知らなかった。知らされていなかった。しかしそれはリュカの人生の一部でしかない。
どこかで一つでも人生の歯車が合わさらなければ、リュカとビアンカが出会うこともなかった。ましてや再会する確率など、どれほど低いものだったのだろう。彼女と人生を共にするようになっても、危険な旅の中でもしかしたらどこかで命を落としていてもそれは可能性の一つとして当然のように存在していた。それが今ではグランバニアという国王と王妃の夫婦であり、彼女はその血筋から勇者をこの世に誕生させてしまった。
それが初めから定められた運命だったと言うこともできるかも知れない。勇者誕生までの、お膳立てをしたのだという意識がリュカの胸の内に無いことも無い。しかし生憎と、リュカもビアンカも命も意識も温かさもある人間であり、機械仕掛けの中に組み込まれるただの歯車ではない。それはこの世に誕生した勇者ティミーもまた然り、そして勇者の双子の妹として誕生したポピーには、兄ティミーほどにはっきりと運命づけられている人生とは言えないまでも、彼女もまた内心では確かに勇者の肩書を背負っている。彼ら二人にしてもまた、温度のない機械の歯車などではなく、その意思一つで勇者の運命から逃げ出すこともできるのだ。
「どうもありがとう。ご苦労様。あとはよろしくね」
そう言って給仕係の者たちを部屋から見送ると、扉を閉めてまだ自身は休む時ではないのだと茶の準備をするビアンカに、リュカは思わずふっと笑ってしまう。彼女はこの頃体調も良く、かつてのようにきりきりと動き回るようになっていた。女性の産後の身体が不安定なものだと言うことを、リュカは彼女を救出してしばらくしてから気づかされた。冷静に数えてみれば、彼女は双子を産んでからひと月と経たない内に魔物に攫われ、人生を強制的に止められてしまった。そしてリュカたちが大神殿で彼女を救出してから今まで、ひと月以上の時が過ぎた。あれから十年の月日が流れているのとは異なり、ビアンカはまだ産後二か月を過ぎたところ、というような状態なのだ。
まだ無理をしてはいけないと教会のシスターには言われているようだが、彼女は決して無理はしていないと言いながらも、傍目から見れば無理をしているように見えるほどに動き回っていた。リュカも彼女に事あるごとに声をかけ、無理をするなと念押ししているが、彼女は「動いている方が調子が良くなるのよ」と、その言葉の通りにせかせかと動き、周りに元気を見せている。
彼女の活発な動きに、無理は感じれらない。彼女が口にする言葉に嘘偽りはなく、元来活発な気性であることもあり、大人しく一つ所に留まっていられないような性分であることはリュカも心得ている。しかしそれだけに、彼女自身も自分の不調に気づかないことがあるかも知れないとリュカは時折しつこいほどに彼女の体調を確かめるが、そんな時に彼女はリュカに嫌味を言ったりする。
『ティミーとポピーがお腹の中にいる時にはそんなに気を遣ってくれなかったけどね~』と彼女がふざけるような口調で言った時には、リュカは返す言葉もなく、ただ冷や汗を垂れながら謝ることしかできなかった。直後に冗談冗談と笑って済まされたが、リュカにとってもビアンカにとっても、当時の事は冗談で済まされるようなものではなかったはずだ。子供たちが無事に生まれ、今も元気に日々育っているからこそ冗談と言えるものとなったが、当時ビアンカは自身に宿る新しい命に気付きながらもそれを隠し続け、一方でリュカと言えば彼女の変化にも不調にも全く気付かないという有様で、尚且つ身重の彼女に過酷な旅を続けさせてしまったという後悔と反省しかない過去がある。その時のことを言われてしまうと、リュカはもうそれ以上何も言えなくなってしまうと分かっていて、ビアンカは敢えてそのような過激な冗談を言うのだ。
「今日の食後にね、これを出そうと思ってたのよ」
そう言いながらビアンカが二つの小さな木の器に出してきたのは、先日訪れたラインハットでマリアから手渡されていた焼き菓子だった。ラインハットで開かれた茶話会の際に残っていた菓子を包むのに合わせて、マリアはそれに追加する形で多めの焼き菓子をティミーやポピーたちにと包んで持たせてくれたのだ。それを見て、ティミーはテーブルの上に身を乗り出し、ポピーも思わず笑顔を見せている。
「なかなかリュカが一緒にならなかったからね」
「お父さん、いつも朝早くから忙しそうだったもんね」
リュカの日々は朝食こそ家族で囲むようにしていたが、その後はすぐに玉座の間へ向かいオジロンと共に国王としての政務に取り組み、必要とあれば城内の各所へと足を運んでいた。それというのも、リュカとしてもビアンカほどではないにしても、一つ所にじっととどまっていられるような性格でもないのだと、オジロンに指摘されてリュカは気づかされたのだった。国王の立場であれば玉座に座しながら、各所からの報告を耳にして、その情報を基に、新たに各所に指示を出せば良いものを、リュカは自分の目で見て確かめることを無意識の内にも信条としていたようだった。
血は争えんなと零したオジロンの言葉に、生前の父パパスもまたあまり落ち着きのなかった国王だったと知れた。自分の目で見て確かめなければ気が済まないと言った行動は、決して各所から情報を寄せてくれる者たちの言葉を疑っているわけではない。ただ己の目で実情を目にすることで、その状況を確かに自身の心の底まで落とし込むことができるのだ。頭でいくら理解していても、心で納得できなければ、起こす行動に信念が伴わない。後悔することを減らすためにも、リュカがなるべく現地に赴き己の目で実情を確かめる行動は、知らない内に父パパスの後を辿ることになっていたようだ。
ただ落ち着きのない国王に振り回される周りの者たちはたまったものではないのだとオジロンに釘を刺され、リュカは努めて玉座に落ち着き、オジロンと共に政務に取り組むようにはしていた。それでもオジロンとしては、甥であるリュカはまだ落ち着きなくあちこちに動き回っているように見えているらしい。かつての落ち着きない兄パパスについて行けたのはただ一人サンチョだけだったのだと思い出話を聞かされれば、リュカはその話に心から納得したように声を上げて笑ったこともあった。
「でも今日は少しお話ができるんでしょ? どんなお話なの、お父さん?」
世界を旅して回っている時には常に傍にいた父リュカと、今はこのグランバニアの城で朝と夜にだけ会うような生活が続いている。その代わり十年ぶりに救出した母ビアンカが殆ど毎時傍にいてくれるため、ポピーは今の生活に不安を感じているわけではない。しかしやはり、父が家族でゆったりと話をするような時間を設けてくれたことに、ポピーだけではなくティミーもまた、素直に嬉しい気持ちを顔に表している。そんな二人の顔を見て、リュカは思わず話すべき言葉をそっちのけにして、楽しい思い出話でもしようかと気持ちがふらついた。
「リュカはティミーの隣に座ったら? 私はポピーの隣ね」
ビアンカが何気ない調子でリュカに席に座るよう勧め、自らも先に席に着く。彼女はこれからリュカが話そうとしていることを既に知っている。広いテーブルで向かいに座って食事をしていた距離よりも、隣で肩と肩が触れ合うほどに近い距離で、温かい茶と美味しい菓子を口にしながら話せば、話の内容も会話の雰囲気も和むだろうと恐らく彼女は思っているのだろう。
「この前、オジロンさんたちと会議があったことは知ってる?」
リュカはその会議の中で、集まる皆に、魔界に向かう意思を示した。ただその時が来るまでは他言無用と言い渡していた。会議に参加した者はオジロンにサンチョ、ドリス、ジェイミー兵士長、教会の神父、それにマーリンにピエールだ。いずれも口の軽い者はいないとリュカは信じて皆に話した。
「そうそう! それってドリスも呼ばれたんでしょ? だからドリスに聞いてみたんだけど、何も教えてくれなかったんだよね~」
ティミーが意外そうに話すのを見て、リュカは思わず苦笑した。ドリスも普段は直情的に行動しているように見えるが、彼女はこの国の姫として人一倍グランバニアという国に愛着を抱いている。それ故に、国王であり従兄であるリュカの重い決意を下手に他言するような行動は起こさない。国を乱してはならないという思いの強さも人一倍なのが、ドリスなのだ。
「その会議でのお話?」
「うん」
リュカを見つめるポピーの後ろに、ビアンカが娘の背を守るように隣の椅子に座り、同じようにリュカを見つめる。その表情は緊張した様子もなく、ただ穏やかなものだ。リュカはこの場いるのは自分一人ではないことを妻の表情に実感し、言葉を続けることができる。
「こちらから魔界に向かうことを、話したんだよ」
リュカの優しい声にはそぐわぬ重々しい内容に、ティミーもポピーも束の間何を言われたのか分からないように、同時に首を傾げた。そのいかにも子供らしい純真な行動に、リュカは一瞬目の奥が熱くなるのを感じた。
「魔界に連れ去られた母を救わなくちゃいけない」
リュカの人生はあの時、父が憎き敵の前に倒れようとする時から、明確な目的を持った。それはリュカ自身が倒れるその時まで、決して消えることはない。リュカの人生がどれほど変化し、どこへ流れようとも、彼の胸の中には常にその目的は在り続ける。
「母さんは僕に、魔界には来るなって言ったけど」
セントベレスの頂上に建つ大神殿の地下、イブールを討伐したその後に、リュカは初めて母マーサの声を聞いた。初めて聞いた声だったが、その声には自分をたった一人の息子として危険に近づけさせない強い母の想いを感じざるを得なかった。それだけではない。それ以上に、母はただ子の声を聞きたかった、そのことだけに詰め込まれた果てしない愛情を感じたのだ。その思いがなければ恐らく、母マーサはあの場で、どのような危険を冒してまでも、リュカに呼びかけることなどしなかっただろう。
そのような母の想いに気付いたのも、リュカ自身、二人の愛しい子供たちがいるからだ。たとえばリュカが、我が子と引き離されているような状況でも、もし言葉を交わせる一瞬でもあったのなら迷わず子供と言葉を交わすことを選ぶだろう。声だけでもいい。子供が健やかに生きていてくれるのを確かめられたら、それだけで親は心安らぐ。
しかしリュカは、ティミーとポピーの親であると同時に、パパスとマーサの子供でもある。子を想う親の心が絶大であると同時に、親を想う子の心もまた、馬鹿にできるものではないのだ。
「放っておけるわけがないんだよ」
リュカの声は静かなものだった。静かなものの中に、父の固い決意を二人の子供は感じていた。
「母はエルヘブンで唯一、魔界の扉を封印する能力を持っている」
その話はもう二年近く前になるが、ティミーとポピーも父と魔物の仲間たちと共に訪れた祖母の故郷エルヘブンの地で、村に残された四人の長老から聞かされた話にあった。詳しい話を思い出すには少々時間がかかりそうだったが、リュカは既にその考えをまとめ、行動をも決定している。
「エルヘブンの長老たちも願っていたことなんだ。僕らはエルヘブンの巫女マーサを助け出して、再び地上から魔界の扉を固く封印する……そのために魔界に向かおうと思ってる」
「お父さん、でもどうやって魔界に……」
「勇者の力が必要だ。その為に父は勇者を探していた」
リュカが今も大事に持つ亡き父パパスの手紙には、天空の武器防具を身に着けた勇者のみが、魔界に入り母マーサを助け出すことのできる唯一の人なのだと書かれていた。勇者ティミーがいる。天空の剣、鎧、盾、兜と、全ての伝説の武器防具が揃っている。まだ幼い勇者だが、魔界に入り、魔界の門番を務めるエルヘブンの巫女を助け出す準備は既に整っている状況だ。
「ティミー、お前の力が必要なんだ」
常に我が子を勇者とは認めないという、父として我が子を守るのだという意思を持っていたリュカが、今は我が子を勇者とはっきりと認め、その力に頼ろうとしている。父リュカのその言葉を正面から受けたティミーは、思わず身を震わせた。
ティミーとて、常に勇者としての自覚を持っていたつもりだ。しかしその自覚は父リュカの、我が子ティミーを勇者とは認めないという意思の元に成り立っていたのだと、ティミーは今、足元の床が脆くぐらつくのを感じた。父が勇者としての運命に抗ってくれるから、自分は勇者としてあろうと意思を強く持てていた。父の勇者への抵抗が失われれば、自分はもう誰の反対もなく、誰の手からも押し出されるような形で勇者として、魔界に向かわねばならないのだ。
「………………」
父から目が離せない状況でありながらも、ティミーは言葉を発することができなかった。本当ならばここでいかにも勇者らしく、潔く頷いて魔界に向かうことを、それこそ皆の先頭に立つ勢いで進めてしまいたかった。それはティミーが常々理想としていた自分の勇者としての姿だった。自身は定められた宿命の元にグランバニアの王子として生まれ、悪しき魔物らに脅かされている地上の世界を救うために今の世を生きているのだという自覚はいつの間にか育っていた。
頭の中に“イケニエ”という言葉がちらついた。その言葉をラインハットで聞いた時、ティミーはその言葉の意味ごと笑って済ませていた。自分は世界を救うために生まれて来た勇者であり、世界を救うために捧げられる生贄として生まれたのではない。そう信じていたはずだったが、父リュカの真剣な表情を目の前で見せられては、その自信もどういうわけだか揺らいでしまった。
「……お兄ちゃん?」
妹ポピーは当然のように、兄ティミーが勇者としての使命を受け、父リュカの言葉に正面から応じるものと思っていた。もし兄が勇ましく立ち上がるのなら、自分も同じように隣に立つだけだと、その意思を持っていたポピーだが、自分に後姿を見せる兄は固まったまま返事もせずに、ただ沈黙を保つ。兄の緊張感が嫌でも伝わる。その空気の中に、ポピーは今のこの時に起きている、兄の手に委ねられた重き運命を感じた。
水を打ったような静けさがひたすら続く。黙しているティミーの前で、リュカはいつまでも待つと言うように、同じように黙している。ティミーは父リュカの前では、魔界に行くことを拒むこともできるのだ。勇者としての使命を負い、その使命を果たそうと常に心に留めているティミーも、一人の子供として父に甘え、勇者の使命に耐えることができないと泣き言を言っても構わないと、リュカは思っている。
もし息子が勇者の使命から逃げ出したとしても、リュカは彼の父としてこのように言うつもりでいる。“大丈夫だ。父さんが何とかするから”と。たとえばリュカが勇者の使命を負った者だとして、父パパスが生きていてリュカの言葉をかけるとすれば、同じような言葉をかけるに違いないとリュカは確信し、その言葉を心の中に用意している。
「お父さん、ボクは……ボク、は……」
話す言葉の続きは決まっているのに、それが声にならないのは、今のティミーの胸の内には渦巻く恐怖で前が見えなくなっているからだ。父リュカが勇者を求め、ティミー自らが勇者として一歩を踏み出せば、今ある父と息子の絆は途切れ、その関係は勇者に希望を託すものと勇者と言った、かけがえのない絆を喪ったただの二者の関係に変わってしまうのではないかとティミーは怖れる。やはり自分は勇者という生贄だったのだろうかと、弱気が弱気を呼ぶ。
「ねえ」
冷たい沈黙を破ったのはビアンカだ。父と目を見合わせていたティミーもポピーも、後ろから響いた母のどこか明るい声に、静かに後ろを振り向く。するとビアンカは器に盛られた焼き菓子を一つ、二つと指先につまむと、一つをティミーの口に、一つをポピーの口に当てる。二人は拒むことなく焼き菓子を口の中で砕くと、香ばしい茶葉の香りが鼻から抜けて行くのを感じ、優しい甘さに思わず口元を緩ませる。
「私、リュカと約束したわよね」
「約束?」
「ほら、今度私とこの子たちを天空城に連れてってくれるって」
「あ、そう言えば」
「それにテルパドールのアイシス女王にまだ直接お会いしてお礼を言ってないのよ。サラボナにも言ってラインハットにも行って実家にも帰らせてもらって、それでテルパドールにだけ行かないのって、あまり良いこととは言えないんじゃないのかしらって」
ビアンカの言葉に表情に、彼女が意図的に居心地の悪い沈黙を破ってきたのだとリュカは感じた。自らも菓子を手に取りもぐもぐとやり出す彼女に、リュカは思わず彼女の手の平の上に自ら乗るように言葉を返す。
「ビアンカ、あんなに暑い所に行きたいの?」
「行きたいとか行きたくないとかじゃないでしょ。国の交流があるんだからやっぱり行くべきじゃないの?」
「でも、無理しなくてもいいんだよ。暑いし、具合悪くなるかも知れないし」
「あー、またそうやってやたらと過保護になる! 大丈夫だって言ってるでしょ」
「君はあの暑さを忘れちゃってるんだよ。砂漠の旅、辛かっただろ? プックルなんてかなり厳しそうだったじゃないか」
「別に旅をするわけじゃないんだし……あっ! さては今度こそやましいことがあるのね!? アイシス女王、お美しいものね! そういうこと? そういうことなんでしょ!」
「えっ!? 違うよ! 何言ってるんだよ。子供たちの前でそういう話をするもんじゃないと思うんだけど!」
「私だってしたくないけど、リュカがおかしな態度を取るのが悪いんじゃない!」
「僕の態度のどこがおかしいんだよ! ビアンカが勝手に勘繰るようなことしてるだけだろ!」
「女の勘を甘く見ないでほしいわね!」
「甘くは見てないよ。ビアンカの勘は本当に鋭い時もあるしさ」
「何ですって!? じゃあ私の勘が当たってるって言うの!?」
「当たっ……てない! こんなの、どう言ったって怒られるだけじゃないか……!」
間に二人の子供を挟んで座り、母に一方的に負かされようとしている父の姿に、ティミーもポピーもどうしてよいか分からずにただはらはらとしている。母の強さを抑えようとも、父のことを庇おうにも、その内容からまだ子供の二人にはどうするのが正解なのかが分からない状況だ。
「とにかく! 私とティミーとポピーと一緒にテルパドールに連れてってくれる? これはもう決まりね」
「決まりって……」
「テルパドールって勇者信仰の厚い国、なのよね? 前に行った時はあまりそう言うこと気にしなかったけど、今は……あの時とは違うから。だからもう一度行ってみたいなって思うのよ」
それはビアンカの素直な考えだった。グランバニアの王妃が行方不明になっていた間、テルパドール女王アイシスにも心配をかけたという思いから、対面して礼を述べたいという思いもさることながら、ビアンカは単純にもう一度勇者を讃える砂漠の国を訪れたいと思った。
リュカと魔物の仲間たちと旅をしてたどり着いたテルパドールで、ビアンカは当時一人で、自身の身体の変化を認めていた。勇者の再来を求める彼の国で、ビアンカの腹には既に勇者の命が宿っていたのだ。今改めて考えれば、これを運命や宿命と思わずにいられないという意識が、ビアンカの胸に落ち着かない思いとして沸いている。
「急がば回れ。焦りは禁物。そんなの、私よりもリュカの方がきっと分かってるじゃない」
そう言ってビアンカは先ほど子供たちに食べさせた焼き菓子を一つつまむと、リュカの口の前に差し出す。リュカが口を開けると、ビアンカは菓子を夫の口の中にひょいと放り込んだ。
「みんなでじっくり考えましょ。これから私たちがどうするのが良いのか」
本当ならば既に為すべきことは決まっている。それは勇者であるティミーを筆頭に魔界に赴き、魔界に囚われたリュカの母マーサを救い、そしてゆくゆくは魔界の王を討伐する。
リュカは試しているのだ。息子ティミーが自らの力で勇者となり得るのかを。
運命に導かれて、宿命に引きずられて、歩いて行く先から引かれるように息子が勇者になることをリュカは望んでいない。本当の勇者ならば、自らが家族を、仲間を、国を、世界を救うことを強く望むのが正しいのではないかと、リュカ自身は恐らく持つことのできない究極の愛情をティミーが持ち、その深い心から生じる勇者としての立場がこの世界には必要なのだろうとリュカは感覚的にそう考えている。
言葉で説き伏せるようなものではない。それはティミーが自身の心の中に落とし込み、身体の隅々にまで染みわたらせ、自ずと勇者の力を発することができるほどに強めることができた時に初めて、彼は味方からも敵からも“勇者”として認められる存在になる。
「……アイシス女王に知らせておくよ。今度お邪魔しますって」
「遅くなって申し訳ございませんって、一言謝っておいてね」
「ねえ、お父さん。さっきのお話は、いいの?」
「ボク、まだちゃんと返事をしてないよね……?」
大人二人がはぐらかすように避けた話題を真面目に振り返ろうとする双子の子供たちの態度に、リュカもビアンカも身につまされる思いがした。ビアンカの持ち出した話題で一度すっかり気の抜けていたリュカは、自然に笑いながら二人を一度に片腕に抱き寄せた。
「いいよ。とりあえずお母さんがテルパドールに行くって決めちゃったしさ。それからまたゆっくり話してみようか」
「テルパドールの次は天空城ね。これは前に約束していたことだもの。約束を破るのは良くないわよね」
「分かってるよ。大丈夫、ちゃんと連れて行くからさ」
「やった! 楽しみ! ねえ、ティミーもポピーも行ったことがあるんでしょ? 二人には案内をお願いしようかな。天空城のこと、色々と教えてくれる?」
テーブルの上に身を乗り出すようにして二人の顔を覗き込む母に、ティミーもポピーも途端に顔を綻ばせる。いつもは子供である自分たちが大人から様々なことを教わる立場だが、それを大人に、しかも最も身近で信頼する一人である母親に何かを教えることのできるという先生のような立場になれることに、二人はそれこそ子供丸出しの素直で明るい表情を見せる。
「うん! 大丈夫だよ、ボクが案内してあげるよ!」
「とっても広いのよ。お城の中にとーっても大きな図書室もあるの!」
「マスタードラゴンを見たらびっくりするだろうな~、お母さん」
「でも雲の上にあって、とっても高いんだけど……お母さんは高い所は平気?」
「平気よ~。みんなで行けるの、楽しみね」
そう言いながらビアンカは隣に座るポピーのリボンを少し調えてやる。母の手が髪に触れるだけで、ポピーの顔は柔らかく綻ぶ。
食後の家族の団欒の時間は穏やかに終わり、器に残っていた菓子を皆で食べ切ると、空になった器をビアンカがさっと片付ける。この後リュカはオジロンと共に政務に就き、ティミーは訓練所へ行き兵士らと共に剣の稽古、ポピーもまだ不慣れな剣の扱いを学ぶために兄と共に訓練所へ行き、その間ビアンカはドリスと屋上庭園で会う予定だった。各々仕度を済ませると、既に時間が過ぎていると急いでティミーとポピーが部屋を出て、その後をリュカが玉座の間に向かって行こうとする。
「ビアンカ」
まだ部屋に残り、習慣づいているように部屋の片づけをしているビアンカにリュカは振り向き話しかけた。テーブルの上に乗る花瓶の水を替えていたビアンカは、一国の王妃らしく清楚なワンピースを身に着けているというのに、その上に前掛けをしているように見えてしまうのは、彼女のせかせかした行動から仕方のないことだった。
「どうしたの?」
「さっきはありがとう」
「何の話?」
「君のおかげで、子供たちが楽しそうだよ」
「ふふっ、こちらこそ、だわ」
そう言って笑う彼女は決して嘘偽りなく、本心からその言葉を口にしているのだろうと感じると、リュカはそれだけで十分に満たされる。一度失っていた存在だからこそ、取り戻せた互いの存在はこれ以上ないほどに愛しい。
「リュカ」
「ん?」
「ごめんね」
「何が?」
「あなたに嫌な役をさせてるわよね」
「そんなことないよ」
息子ティミーに勇者を求め、彼が世界のために立ち上がる意志を持つように引き上げる役は自分しかいないのだと、リュカは思っている。それはこれまで息子を決して本心から勇者とは認めなかった父である自分にしかできないことなのだと感じている。
母であるビアンカがいない時分は、リュカが父の役割も母の役割も同時に背負う心持ちでいた。それ故に恐らく、リュカは息子ティミーを勇者とは認め切れない心があった。もし自分が子の母ならば、勇者として世界に立ち向かわせる前に、子の身を守ることに徹するだろうとリュカは無意識にも母の心情を想像していた。
しかし今は、子供たちを絶対に守ろうとする母ビアンカが傍にいてくれる。それだからこそ、リュカは父として子供たちが世界に立つことに恐れを抱くよりも、希望を持つことができるようになったのだと、リュカは今改めて自分の本心を知ったような気がした。
「テルパドールも天空城も、楽しみにしててね」
「ええ、本当に楽しみ」
贔屓目を無くしても妻は綺麗だなと、束の間ぼんやりと彼女の顔に見惚れた後、リュカは手を振って部屋を後にした。部屋に残されたビアンカも家族が部屋にいた余韻を楽しむように鼻歌を歌いながら、テーブルの花瓶の位置を今一度確かめていた。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。
    開けましておめでとうございます。 本年も宜しくお願いします。

    ティミー、とつぜんにどうしちゃったんでしょうか?
    ビアンカを救出して家族で過ごすうちに、気持ちが変わってしまったということでしょうか?
    それとも、リュカに反対されていたから反抗心で勇者だと言っていただけで、リュカに認められると勇者の気持ちが変化しただけの天邪鬼だったということでしょうか?
    それとも、急に魔界に行くのが怖くなったんでしょうか?
    すみませんよく分からなくて…(汗)
    今の今まで魔界に行くんだとティミーは息巻いていたと思いますが、とつぜんの心境の変化に戸惑っています(疑問)

    次回はテルパドールか天空城ですね。 ポピー天空城の操作でまた悲鳴をあげるんでしょうね。
    次話お待ちしています。

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      突然、でしたかね(汗) 戸惑わせてしまってすみません。書き方が足りなかったですね。もう少しちゃんと丁寧に書くべきでした。
      ティミーは自分は勇者だと常々理解しているつもりでも、その気持ちは強くても、安定はしていない、という感じでしょうか。幼さ故・・・という部分もあり。人間の心ってゼロか百か、YESかNOかとはっきり割り切れるものでもなく、今日は八十でも明日は二十になるかもしれないしと、かなりその時によるところがあるかなと思っています。ロボットなら外側から完全に調節できるでしょうけど、人間や生き物はそうはいかない。まあ、だから面白いし色々と想像できるんですけどね。
      父リュカに反対されて、むしろ意気込む形に慣れていたために、いざ父に勇者として背中を押されると一気に不安が押し寄せた、と、そんな感じでしょうか。リュカはリュカで、ティミーの気持ちを試したかったと。リュカも完璧な父親ではありませんから、試す方法を間違えていたかもしれません。他にも方法があったかも知れないけど、あの時のリュカはああした、という感じです。・・・分かりづらいですねぇ、すみません(汗汗)

      次は女王様に会って来ようと思います。今の日本の寒さを感じながら、砂漠の暑さを描けるかしら・・・。

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