外された鍵

 

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降り立った場所から望む景色は、遠くぐるりと周りを囲む恐ろしいまでの断崖絶壁だ。まるでこの場所は世界から切り離された空間であるかのように、ぽつんと存在している。しかしこの土地には山が聳え川も流れ木々も立ち風も吹き雲も浮かび、そしてその中に密やかに閉ざされた人々が暮らしている。リュカが暮らしていたサンタローズとも異なり、ビアンカが両親と居を移した山奥の村ともまた異なる、外界との関わりを自ずから一切断つことを使命の一つとしている忘れ去られた民族が暮らしている。外に広がる世界と交わることを拒み続けてきたのは、彼らに課せられた使命が比類なき重みを帯びていたからに他ならない。
地上の世界と魔の世界とを隔てる門の番人。代々に渡りこの務めを負い続けるエルヘブンの民は、小さな村の中で子々孫々を育み、その大事な役目を繋いできた。ごく小さな村だが、村を存続させ、守り続けるのは決して人間だけではない。一体いつからこの村を守るのに魔物らが協力しているのか。それは今に生きるエルヘブンの民らも知らないのではないだろうか。今の世に生きるエルヘブンの民らは生まれた時から、この村を守る魔物らと共にあったのだろう。エルヘブンの歴史が確かに残っていないものだとすれば、それは敢えて、確かに残さなかったと考えるのが正しい気がすると、リュカは遥か空の高くに伸びるエルヘブンの村の塔を見上げる。
「ここがエルヘブン……。リュカのお母様が生まれ育った村なのね」
同じく隣で村を象徴する天を突くような塔を見上げるビアンカが、静かにそう口にした。彼女が人生の途中から両親と共に移り住んだ山奥の村もまた、豊かな自然に囲まれた小さな村だ。人の病を癒す力を持つ温泉の噂がなければ、このエルヘブンのように“忘れ去られた村”として存在していたのかも知れない。しかしその事実を除いたとしても、ビアンカの住んでいた山奥の村と、このエルヘブンとは根本的に異なる雰囲気をリュカは感じている。
サラボナの北東に位置する山奥の村は他に類を見ない優れた温泉の効能を求める人々が寄り集まることで、集落を形成していったのだろうと思わせられる。いかにも田舎ののんびりとした空気が村全体に漂う山奥の村は、村人たち一人一人の目的が癒しであって、決して外からの影響を積極的に排除するような空気は存在しない。それ故に、遠く離れたアルカパの町からはるばる移り住むことになったダンカン一家を、山奥の村の人々は快く受け入れた。
しかしこのエルヘブンは、そもそも外界からこの村に辿り着くこと自体が殆ど不可能に近いほどに地形的条件が厳しい。周囲を全て取り囲んでいる恐ろしいまでの断崖絶壁を超えられる人間は先ずいないだろう。唯一の入口である海の洞窟を偶発的に見つける人間も、万に一つもいるとは考えられない。外界から閉ざされた空間を守り続けていたエルヘブンの結界に等しい地形を、過去にも今にもグランバニアの人間が乗り越えてきてしまったことを思うと、これもまた運命の一端なのだろうかと思わせられる部分はある。
「相変わらずこの村は静かだね。あ、背中ムズムズしてきた」
静かすぎると返って気の散る性質でもあるのか、ティミーは特別な緊張感もない様子で背中の痒さに身を捩る。妹のポピーが兄の背中を手でかいてやると、場所が違うだの、もう少し強い方がいいだのと、兄妹で気楽な様子を見せてくれる。子供たちの存在と言うのは心底有難いものだと、リュカはこんな時にもふと思う。
「じゃ、オレたちはここらで待ってればいいんだな」
グランバニア以外の人間の住む場所にはやたらと立ち入れないと承知しているアンクルは、当然のようにそう言ってその場に腰を下ろした。エルヘブンの村は自然の中に作られた、一つの鋭い石の塔の様で、村の様々な施設が建てられているのは石の塔のような切り立った山を登って行った先にある。
「え~、でもアンクルが飛んで上まで連れてってくれれば楽チンなんだけどな」
「……私はどっちでも構いません」
どちらにしろ高い場所は怖いからと、ポピーはどことなく無表情のままエルヘブンの村を見上げている。
その時、リュカたちのいる場所を囲むように、魔物の気配が近づいてくるのを皆が感じた。唐突に、あまりにも近くに感じる魔物の気配に、ビアンカは咄嗟に子供たちの身体を引き寄せ、リュカの傍に身体を寄せた。アンクルもまたその場に立ち上がり、皆を守るように大きな翼を広げる。しかし他の家族や魔物の仲間たちに動じるような気配は見られない。その中でゴレムスは、魔物の気配の感じられる方へと顔を向け、身体を向け、警戒する風ではなくただ興味深くその気配が近づいてくるのを待っているようだった。
エルヘブンの村近くの森から姿を現したのは、三体のゴーレムだ。ゴレムスと合わせて、四体のゴーレムが互いに向かい合い、ただ見合う。森の中に棲む鳥たちは変わらず枝に留まり、何事もないように囀り会話を続けている。森の奥からすいっと飛んできた小鳥が一体のゴーレムの肩に留まると、それを追って数羽の小鳥も並んで留まる。まるでゴーレムの肩の上は、木の枝と何ら変わりないと言わんばかりに、会話を弾ませている。その内に木々の中からひょこりと姿を現したリスがゴーレムの腕に巻きつくように上ってみせたり、花の蜜を求めるはずの蝶がひらひらとゴーレムの足元に飛び始める。それはまるで、ゴーレムという魔物に対する親愛の表れの様で、あまりにも自然の中に溶け込むゴーレムと言う魔物に対して、ビアンカの胸に生まれていた魔物への敵意は見る見るうちに萎んでいった。
「村を守ってくれているゴーレムたちだよ」
リュカの言葉に、ビアンカは夫の発する言葉の温かさに思わず目頭を熱くした。リュカが不思議と魔物たちと仲良くなり、いつの間にかこうして多くの魔物たちと仲間になったことの、源流を見たような心地がした。リュカと言う不思議な人が、この村に流れる血を引いているのだと思うだけで、今まで覆い隠されていた彼の少しを覗き見れたような気がした。
「リュカ殿、我々は外で待っていますよ」
「あら、この村は魔物のみんなも平気よ。ピエールは前にも入ったことがあるじゃない」
ポピーがそうピエールを誘うが、王女から言葉を受けたピエールは丁重に「いいえ、ここはご家族で」と言い、ゴレムスの隣に立った。プックルもまた、その反対側に立ち、ゴレムスと並ぶ。魔物の仲間たちのその様子を見ていたアンクルは腕組みをしつつも、今のこの状況を見切ったように鼻を一つ鳴らした。
「ま、そういうことだよ」
「どういうこと?」
素直に問いかけるリュカに、アンクルは「分かんねぇヤツだなぁ」と盛大に溜め息をついて見せる。
「あれだろ、『家族水入らず』ってヤツだろ? お前らだけで言ってこいよ」
「アンクルはまだエルヘブンに来たことないよね。村に入ってみたくないの?」
ティミーが尚も問いかけて来るが、アンクルは天を突くように空へと伸びるエルヘブンの村の象徴たる小塔の先を見て、いかにも苦い顔つきを見せる。
「なんつーか、ちょっと近寄りがたいモンがあるなぁ、オレとしては」
「そうなの?」
「うーん、なんとなくだけどよ、ここにいてもあの先っぽから見張られてる感じがするんだよなぁ。……嫌な感じじゃないんだけどよ、なんつーか、気持ち悪いって言うか」
アンクルの的を得ていないようで的を得ている言葉に、リュカは思わず小さく噴き出してしまった。恐らくエルヘブンの村の長老たちは既にリュカたちがこの場に到着していることを知っている。アンクルが「見張られている」と感じるその感覚が鋭いなと、リュカは感心するように仲間を見上げる。
「じゃあお言葉に甘えて。僕たちだけで少し挨拶をしてくるよ」
「ゆっくりで構わないかと思います。ゴレムスも、仲間たちと少々話がしたいようですし」
ピエールの言葉は、ゴレムスの様子を見ていれば誰もがそう思わされるようなものだった。ゴレムスは以前より見知っているゴーレムの仲間たちと向き合い、既に無言の内に会話を始めているようにも見えた。
「そんな感じだね。じゃあ一晩泊めてもらおうか……母さんの部屋に」
「あの一番高いところ? お母さんはまだ行ったことないもんね、おばあさまの部屋って」
「一番高いところって、あの塔のこと? あそこにお義母様のお部屋があるの?」
「おばあさまお一人で使ってらしたはずだけど、とっても広いのよね。いつもきれいにされてるし」
各々に言葉を発しつつも、四人の視線はエルヘブンの村の頂上たるマーサの部屋に向かっている。母の部屋の真下にある祈りの部屋にて、エルヘブンに残された四人の長老が、リュカたちのことを待ち受けているのだろうと、リュカは確信している。
「じゃあ明日の朝、ここを出ることになるだろうから、それまでみんなもゆっくりしててね」
「がう」
「はい、では明日の朝」
「川の魚でも獲って食うかな」
「がうっ!」
アンクルの言葉に反応したプックルが元気な声を上げ、いの一番にと近くに流れる川に向かって走って行ってしまった。アンクルもがははと豪快に笑いながらプックルの後を追って飛んで行く。ピエールはその二人の行く先を目に追いつつも、今もその場に仲間のゴーレムと立つゴレムスを気にするように留まる。そしてゴレムスはリュカを振り返ると、言葉を交わす代わりに大きな拳を彼の前に差し出した。
「また後でね、ゴレムス」
そう言いながらリュカもまた拳を前に出し、ゴレムスの巨大な拳と静かに合わせた。言葉はなくとも通じ合える仲間に向けて、リュカは確かに拳で言葉を交わし、家族と共にエルヘブンの村へと足を踏み入れて行った。



目指す祈りの塔への道は、ひたすらに階段を上り続けるという、心持ちとしては登山にも似た行程だ。その道のりの中でビアンカは一言も文句など漏らさず、むしろこのエルヘブンと言う新しく訪れた村を楽しむ心を高めるように、清々しい顔つきで見下ろす景色の美しさに目を輝かせていた。
「不思議な造りの村ね。この階段って石、なのよね? それとも岩? 石を積み上げたようには見えないわよね」
「石を積み上げるんじゃ、あの空中に浮いてる階段なんてどうやって造るんだろ?」
「い、岩を削って造ったんじゃ、な、ないかしら……」
「岩にしたって、ヘンテコな岩だよねぇ。どれだけ大きくて尖った岩があったんだろ。……あ、ポピー、そっちじゃなくてこっちがいいよ」
常に上を向いて歩いているポピーを誘導するように、リュカは階段の真ん中に娘を歩かせるためにポピーの手を引く。ポピーはただ父を信じて、あくまでも下に広がる絶景の景色は見ず、希望や夢は空に広がっているのだと言うように顔を上に向けている。
「険しい山なら分かるけど、ここだけいきなり地面から飛び抜けてるわよね。マスタードラゴンがここにだけ、えいって尖った岩でも置いたのかしら」
「あははっ、そういうことやりそうだよね、プサンさんって!」
「わ、私は岩って言うよりも、な、何となくだけど、大きな木って感じがします……」
「大きな木かぁ。なるほどね、木も長い長い年月が経てば石になるのかも」
「確かにね~、木の方が説得力あるかも。岩や山って言うよりも、土に根を伸ばして育った木……あ、ちょっと! ティミー、そっちに行き過ぎたら落ちるわよっ!」
「大丈夫だって、お母さん! いざって時にはアンクルが助けて……」
「アンクルは今ここにはいないわよ、お、お兄ちゃん」
「ティミー、お母さんが一緒で嬉しいのは分かるけど、ちょっと落ち着こうな」
リュカの言葉にティミーは素直に歯を見せていかにも嬉しそうに笑う。その表情に、もう魔界に行くことを怖がる彼はいないように思える。しかし再び未来を怖がる勇者が現れても不思議ではないのは、リュカも理解している。何と言ってもティミーはまだ子供だ。成長著しい子供であるが、まだ大人になるには数年が必要な子供である。大人になったとて不安定さは付きまとうというのに、ましてや子供であれば大小様々な影響を受けて二度、三度と心が挫けることもあるかも知れない。そのような事態になればリュカはいつでも寄り添い、時には叱咤して子供の尻を叩いてやらねばと、親の自覚の中にそう思っている。
この世に二つとないようなエルヘブンの奇妙極まる地形を上り詰め、リュカたちは時間をかけてようやく祈りの塔のある頂上にまで来た。肝が冷えるような心細い中空の階段を上る中でも、ビアンカはただただ周囲に広がる絶景を目にして絶えず感嘆の溜息を漏らしていた。リュカが「怖くないの?」と問いかけると、ビアンカは笑ってこう答えた。
「何だか、飛び降りたって平気な気がしてくるのよね」
その自信は一体どこから来るのだろうと思えば、元来彼女に備わった勝ち気から来るのかも知れないと思うのが普通だろうが、今のリュカには彼女の言葉に特別な意味が含まれている気がしてならなかった。たとえここから飛び降りても、背に生える白い翼で空を自由に飛んでみせるとでも言いそうな、彼女に流れる血筋にその自信が見えるのだ。天空城に住まう天空人たちは皆、その背に大きな白い翼を持っている。天空人の血を引くビアンカもまた、その血筋から、白い翼をその背に負っていても決して可笑しいと思える話ではない。
先日、家族と共に訪れた天空城で、リュカは妻と子供たちの背中に、天空人らと同じような白い翼がはためくのを見た気がしている。あの光景はただの幻覚に違いないが、そのような現実がもしかしたらあったのかも知れないのだ。意図せず彼ら三人の背に白い翼が生えていることなどを幻にも見てしまうのはどういうわけだろうと思えば、それはリュカだけが天空の血を引いていないことに根差しているのだと、彼自身も己の僻みに気付いている。
祈りの塔の前に立つ二人の門番と軽く挨拶を交わし、リュカたちは長老たちの待つ祈りの塔へと向かう。エルヘブンの村人たちは、旅人も同然のリュカたちが村の中を歩き、真っすぐと長老たちのいる塔へ向かっても、どこまでも落ち着いている。村の中へ入れるのは、そもそも村を守る魔物たちを打ち破った者たちだけだ。そしてリュカは既に、エルヘブンの村そのものに認められた存在だ。それは本来この村で暮らし続けていたはずのマーサの子、という出生が何よりも固い約束となっている。
「ここにお義母様がいらっしゃったのね」
「この上のところよ、おばあ様が暮らしていらしたのは」
「下には長老様たちがいるんだよね。今もいるのかな?」
「きっといらっしゃるよ」
扉の奥の雰囲気を感じたわけでもなく、リュカはティミーの言葉に即座に返した。しかしそれは確信の元に返した言葉だ。エルヘブンの四人の長老はリュカがグランバニアを発つ前から、恐らく数日前よりリュカたちの訪問を予知していたに違いない。
以前には二度、リュカはこの地を訪れたことがあった。初めてこの村に足を踏み入れた時は、村を守るゴーレムたちとの戦いとなった。その時はグランバニアでこのエルヘブンの村の話を初めて耳にし、母マーサの故郷に向かうという、ほとんど何も分からない状況での訪問となった。そして二度目は、ここより北に位置する洞窟内の、海の神殿の秘密を長老らに聞くべく立ち寄ったのだ。その時、彼女たちはリュカに教えてくれなかった。四人の長老たちの言葉にリュカは、これは母の護りなのではないだろうかと、後になってそう考えたこともあった。
そして今、三度目の訪問となる。ルーラの使えるポピーは一人でこの村を訪れたこともあったようだが、その時彼女は自分にも兄ティミーと同じように戦える武器をと長老に話し、村の中で精錬された誘惑の剣を譲り受けたという。高い所が苦手な彼女が祈りの塔まで足を運ぶのは非常に骨の折れることだったろう。しかしそうまでして彼女は戦うための武器を所望していた。勇者という宿命を、兄だけに背負わせたくはないという思いが強かったのかも知れない。初め、武器の対価を払おうと手持ちの金を差し出したが、武器を作る村の職人は「マーサ様からの贈り物と思って受け取って欲しい」と、対価なしに女性でも扱えるその武器をポピーに渡したらしい。
今回の訪問を、四人の長老たちもその意味を知り得ているに違いない。既に一度、リュカから直接聞いたことだ。しかしその時は答えなかった。そして再びこの地を訪れたリュカに、今度こそ真実を語ってくれるだろうと、リュカは祈りの塔の扉をゆっくりと開いた。
塔の中には以前と同様に、四人の長老が東西南北の位置に各々床に座している。部屋の隅に焚かれる香が鼻を通り抜けるが、決して嫌悪を感じるような香りではない。頭がすっきりとするような清涼感を覚えるようなもので、たとえ神経が高ぶっていてもその心を落ち着かせ、たとえ精神が闇に沈みそうでもその心を浮き上がらせるような、人の心を平静の真ん中へと導くような香りだ。
扉を開け、部屋の中へと歩み進むリュカたちを振り返ることもない。言葉は一切なく、ただ静けさが祈りの塔の中に響いている。窓は閉められており、扉も閉じれば、外に聞こえていた鳥の囀りも聞こえなくなってしまった。掃除の行き届いたこの場所には、リュカたちが外から運んできてしまった土の汚れ以外は一切の汚れも見当たらない。清浄を保つことも、この祈りの塔と言う場所には必要な処置なのだろう。
余りの静けさに、流石のビアンカもひたすら口を噤んでいる。普段の活発な彼女ならば、客人が来ているのに何も応対しないのは良くないだとか、窓を開けた方がこのお香の匂いよりもすっきりするわよとか、あの階段から二階に行けるのねとか、特別話す必要もないことを話し出しそうなものだが、今は祈りの塔の中に充満する四人の長老たちの見えない力に圧されているのが分かる。
「私たちには分かります」
扉から入ったリュカたちに背を向ける南の長老が、塔の中を支配する静けさを静かに破るように、そう告げる。
「魔界へ行きたいと申すのですね……」
四人の長老たちの中央、綺麗に折りたたまれた濃紫色の布の上に、一つの水晶玉が置かれている。エルヘブンの四人の長老は巫女であり、天から授かる啓示を水晶玉の中に映し見る。リュカは一歩、南の長老の座る場所に近づき、水晶玉を覗き見た。しかし今は何も映し出されていない。若しくは、リュカには見えずに、四人の長老にのみ見える景色がそこに映っているのかも知れない。
「やはりご存じだったんですね」
四人の長老たちはリュカの声を聞いても尚、中央の水晶玉へと顔を向けている。リュカはふと、向かいに座る北の長老の様子を窺った。俯きがちの表情にはどこか苦悶の様子が見られ、細く眉間に皺を寄せながら両目は閉じられている。他の三人の長老たちもまた目を閉じ、彼女らは揃って瞑想しているようだった。ただの瞑想とも感じられないが、リュカには彼女たちが何をしているのかを具体的に知ることはできない。
「それにはまず洞窟の中、海の神殿の扉を開けなくてはなりません」
リュカが以前、子供たちとこの村を訪れた時には聞かなかった話だ。南の長老の声は小さいながらも、決意に満ちたような明確に聞き取れる声だった。リュカはその声に、これまで止められていた時が動き出したような感覚を得た。エルヘブンの村そのものによってかけられていた見えざる鍵が、その鍵を持つ長老たちの手で外されたのだ。
東の位置に座する長老が、緩やかに両手を水晶玉へと向ける。濃紫色の布の上に乗る水晶玉の中に、一筋の白い煙が生まれたかと思うと、それが一つの景色を為していく。白い煙が水しぶきとなり、水しぶきから激しく流れる水が見え、滝となり、滝を抱き込む岩盤が映り、岩盤と滝を背にした神殿の景色が映り込む。三体の女神像。静かにリュカを見つめている。この女神像を初めて目にした時、リュカはそれをビアンカと見間違えた。彼女ならば、女神像の如く背中に翼を生やした天空人の一人として、この場所に立っていたとしてもおかしくはないと、まだ行方の知れない妻を捜す旅の中でリュカは自然とそんなことを思っていた。
「古い言い伝えでは神殿に三つのリングを捧げた時……」
東の長老が言う。リュカの予感は当たっている。最後の一つとなるリングは、母マーサが持っていた。それを今は、リュカがその指に嵌めている。
「魔界への門が開くと言われています」
水晶玉に映る三体の女神像。リュカとビアンカが手にしている炎のリング、水のリング、命のリング。炎と水においては、まさか結婚指輪となるこのリングが魔界への扉を開く鍵となることなど、想像することもできなかった。しかし炎のリングは実際に、強敵であった溶岩原人の守りの中にあった。水のリングは普通の人間であれば誰もが近づかないような巨大な滝の裏に隠されていた。たとえばリュカが、魔物の仲間たちと共に旅をするような奇怪な旅人でなければ、双方の指輪にはたどり着けなかったのかも知れない。
「海の神殿の扉は何百年も鍵がかかったままなのです」
北の長老が水晶玉に両手を伸ばし、かき混ぜるように指を動かすと、水晶玉の中に映る景色が変わる。岩盤が抱き込む大きな滝へと景色が向かう。北の長老は両目を固く閉じたまま、指先に力を込める。リュカたちは一様に、長老の指先から見えない魔力が発生しているのを感じた。いわゆる呪文などではない。呪文とは異なる力が、彼女の指先に生まれている。恐らくリュカの母マーサもまた、同じような力を使うことができるに違いない。そしてその力が、この場にいる四人の長老の中でも飛び抜けているのもまた相違ないだろう。
水晶玉の中に映る滝に近づく。一面が水だけの景色となる。更に奥へ進もうと、北の長老は指先に力を込める。水の中に分け入る。岩盤に当たるはずの景色は、恐ろしいほどに真っ暗で、そこには深みもなく濃淡もなく、ただ一面が墨で塗りつぶされたかのように黒いだけだ。見ていると、その黒の中心へと吸い込まれそうで、目を背けたくなる。ティミーが見ていられないとばかりに目を瞑った。ビアンカも細めていた目をふっと閉じた。ポピーもしばらくはその黒に惹かれるように見つめていたが、これ以上見てはいけないとばかりに目を背けた。しかしリュカは一人、黒に吸い込まれても構わないというほどの気持ちでじっと水晶玉の中に映る一点の黒を見つめ続けていた。
「うわさでは天空の竜の神様が復活なされたようです」
西の席に座る長老がいくらか明るい声でそう言うと、水晶玉の中の景色は一筋の煙に戻り、かき消えてしまった。マスタードラゴンはこのエルヘブンの地にも飛んできており、その姿を村人たちも目にしているはずだ。ただ長老たちは実際に竜神の姿を見るまでもなく、竜神の復活をその身に感じているかのような言葉を口にする。たとえ祈りの塔から一歩たりとも足を踏み出さなくとも、彼女ら四人はマスタードラゴンの復活をその身に感じることができるに違いない。
「そのためかこの世界に穏やかな光が満ち始めました。もはや魔界の大魔王と言えどもおいそれとはこちらにやって来られないでしょう」
西の巫女の言葉を聞いたティミーが、思わず本音を小さく吐く。
「竜の神様ってプサンさんのことだよね? プサンさんってすごいのかすごくないのか本当に分かんない人だよね」
「……お兄ちゃん、失礼よ、そんなこと言って」
「何だよ、そんな風に言ったってさ、ポピーだってそう思うだろ?」
「長老様はプサンさんのお話をされているんじゃないもの。竜の神様のお話をしてらっしゃるのよ」
「でもマスタードラゴンって言っても、変身したいって思う人間の姿がプサンさんだよ? それってもう、マスタードラゴンがプサンさんだっていうことだよね?」
「……うーん、そうなのかな……」
「ほら! と言うことはさ、マスタードラゴンもすごかったりすごくなかったりするってことになるよね?」
ティミーの論調に振り回されるポピーは、頭の中でぐるぐると回るその意味に、何が正しいのかが分からなくなってしまう。竜神は威厳を持つべきと思うものの、その姿が一たび人間のプサンになってしまうと途端に誰よりも頼りなくなってしまう。
「……で、どうなの? プサンさんってすごいの? すごくないの?」
子供たちの会話を聞いていたビアンカが、まとめ役は貴方だと言うようにリュカに答えを求める。そしてリュカは即座に応える。
「どっちもすごくないと思うよ、僕は」
「「……お父さん」」
父が答えるならきっとそうだろうと思っていた通りの言葉がリュカの口から発せられ、ティミーもポピーも思わず息の合う双子の姿を見せるように声を揃えた。ビアンカが普段はあまり見られない夫の辛辣な様子に苦笑いするのを追うように、四人の巫女たちからも小さな笑い声が漏れる。
「まあ、でもとりあえず竜神が地上の世界を守ろうとしてくれてるのは有難いことだよ」
「そうよね。これでマスタードラゴンが魔界の魔物の味方になんてなっちゃってたらシャレにもならないものね」
「お母さん、結構コワイことを言うのね……」
「これでボクたちも……ココロオキナク、だっけ? 魔界に行けるよね!」
敵地に向かう勇者の姿として、今のティミーの姿は模範的なものだとリュカには思えた。そして言葉を先に発することで心を奮起させるその手法を無意識にもやり遂げる息子の姿が、妻ビアンカに似ていると、リュカは今もこうして家族の姿に勇気を奮わせられている。
「リュカ」
その声が一瞬、母マーサの声かとリュカは思ってしまった。しかし違う。それは南の長老が呼びかけた声だ。
「気を付けるのですよ」
母の声ではない。しかし母のような声だとリュカは思った。子供の進む道を誰よりも案じるような親の声だ。
エルヘブンの長老は今リュカたちが目の前にしている四人の巫女たちだ。しかし彼女たちは以前、この村に暮らし、この村の先導者でもあったリュカの母マーサを上に立てていた巫女たちだった。リュカは彼女たちがマーサとどのような関係性なのかを尋ねたことはない。尋ねるのも避けるべきこととして、リュカは敢えてその関係性を暴くようなこともしない。想像できるのは、マーサの子として生まれたリュカを、まるで大切な甥であるかのように扱う彼女らの心情だけだ。知るのはそれで十分だとリュカは思っている。どうせこの場所を去らねばならないのだから。
「はい、気をつけます」
伯母にも思える彼女の言葉に応えるのは甥の礼儀でもあり義務でもあると、リュカはそう返事をした。そして家族と共に祈りの塔の上部に位置する母の部屋へと向かった。



「さすがエルヘブンの長老さんだね。ボクたちのことみんなお見通しだったね」
マーサが暮らしていた祈りの塔の部屋は変わらず綺麗に保たれ、部屋を常に整えている使用人の女性はリュカたちが部屋へ招き入れた後に、ご家族でごゆっくりと静かに退出して行った。家族だけとなったこの部屋で、ティミーは早速寛ぎ始め、床に敷かれた絨毯の上に腰を下ろした。ポピーもその近くに静かに腰を下ろして、部屋を見渡す。絨毯は塵一つ見当たらないほどの清潔さが保たれている。部屋に置かれている数少ない家具類も磨かれたかのように傷も汚れもなく、窓の脇にまとめられているカーテンも皺の一つ一つにも気遣いが見られるほどに調えられている。それと言うのも、この部屋を清潔に保とうとする使用人の女性の心の表れなのだろう。彼女もまた、マーサと言う今も魔界に囚われるエルヘブン一の巫女に、格別の尊敬の念を抱いているに違いない。
「とっても綺麗にされていて、何だか嬉しいわね」
そうやって妻ビアンカもまた喜んでくれていることが、リュカにとっては嬉しいことだ。この場に家族しかいない気楽さからか、ビアンカは部屋の中を静かに歩き回り、棚の上に飾られている置物などを興味深そうに見ている。女性の部屋と言う割に圧倒的に華やかさの足りない部屋だが、綺麗に拭かれている机の上には常に新しい花が花瓶に差してある。花の放つささやかで爽やかな香りが更に、部屋の清浄さを際立たせる。
「ねえ、お父さん。海の神殿って私たちがここへ来るときに通った洞窟の中のアレよね?」
絨毯の上に足を崩しながら座るポピーが言うことを、リュカはすぐに理解した。初めにエルヘブンの地を訪れた時には、神殿の外部を少し覗き見た程度に留まった。その先に広がる本殿とも呼べる場所に立ち入るためには、あらゆる鍵を開けてしまうという奇妙な最後の鍵が必要だった。その本殿に、リュカたちは最後の鍵を使って入り込んだことがある。三体の女神像を水晶玉の中にではなく、実際にその目にしたことがある。その時のことを当然、ポピーも、ティミーも覚えている。
「三つのリング……」
窓の脇で足を止めたビアンカが、子供たちと同じように絨毯の上に胡坐をかいて座り込んでいるリュカを見つめる。リュカたちは既に、魔界を目指すことを明確に決めている。その手段を、ビアンカは具体的に知らされていない。しかし夫リュカが確実にその手段を知っているのだと確信している。そうでなければリュカが魔界を目指し、迷わずエルヘブンの地を訪ねるなどと言うこともしないはずだ。
「まずはそれを用意しないといけないわね」
そう言って、ビアンカはリュカの言葉を待つ。リュカが答えを言ってくれるだろうと待ってみたが、彼は何も言わない。答えはまだ濁しておきたいのだろうかと勘繰るビアンカは、夫の思いに添うようにと思いつつも、態度に表す。左手を胸の前に挙げ、手の甲をリュカに見せると、薬指を飾る小さな宝石がきらりと水色の光を放つ。
「私たちの持っているのがそれだといいんだけど……」
「……そうに違いないよ」
「あら、エラくはっきり言うのね」
「僕にしては珍しいって?」
「ふふっ、私の思ってること、よく分かるわね」
「ビアンカは顔に言いたいことが書いてあるから分かりやすい」
「失礼しちゃうわ。人を馬鹿にするような言い方して」
「馬鹿になんかしてないよ。僕には君の、そういうところがちょうどいいんだ」
こうして家族と言葉を交わしている間も、リュカはこの部屋に暮らしていた母の過去を傍に感じている。魔界から救い出すことが出来れば、母をこの場所に連れて和やかに会話をすることもできるのだと思うと、生まれて初めて経験する未来の出来事を輝かしく思える。その時を迎えることが出来れば、母から自分の知らない父の話を聞くこともできるだろう。期待の膨らむ未来を想像すれば、それはリュカの心をどこまでも浮上させる。
明日には旅立つという現実も忘れ、穏やかなひと時を過ごしていると、部屋の扉が二度ほど小さく叩かれた。下の階の祈りの間にいた長老だろうかと、リュカが部屋の主として出迎えると、そこには村の住人が三人、籠やら包みやらを抱えて立っていた。籠の中にはどうやらリュカたち家族のための食事が用意されているようだ。籠の蓋が閉じられていても、香ばしい匂いがリュカの鼻をくすぐる。
「ようこそエルヘブンの村へお越しくださいました。お食事のご用意が出来ておりますので少しお邪魔してもよろしいでしょうか」
女性のその言葉で、リュカたちがこの村を訪れることがすっかり村中の人々に知れていたことが分かる。村を挙げての歓迎という雰囲気がないのは、敢えてリュカたちの心を乱さないための心遣いなのかも知れない。しかし魔界という未知の世界を目指すリュカたちを労うかのように、籠には食べ切れないほどの温かな食事が用意されていた。
部屋の隅に置かれていたテーブルを動かし、食事を並べる。人数分の椅子などはないために、立食の形での食事となる。これほどはとても食べ切れないからと、ビアンカが村人たちの足を止め、一緒に食事をしましょうと勧めると、彼らは恐縮した様子ながらも共に歓談の場に残ってくれた。
並べられる食事とは別に、一抱えの風呂敷包みを手にしていた中年の男性がリュカに呼びかける。彼は村で防具屋を営む男性で、リュカたちが近い内にこの村を訪れると長老から聞いており、その日を心待ちにしていたらしい。次にリュカたちが村を訪れた際には是が非でも贈り物をしたい思っていたのだと、そう言いながら手にしていた包みを絨毯の上に広げて見せた。
「これは賢者のローブという、エルヘブンの民が村の外に出る際に身に着けることの多い防具です」
包みの中に畳まれていたのは、紫水晶の色を基調とした、強い魔力の込められたローブだった。織り込まれている糸そのものに魔力が込められているようで、胸元には鉄ではない金属で作られた装飾が施され、その中央に埋め込まれている翡翠色の宝玉の魔力もまたローブ全体を包んでいる。
「以前、お嬢さんがいらした時に少し寸法を直さねばと調整していたんですが、間に合って良かったです」
防具屋の話を聞いて、ポピーが気まずそうに舌を少し出して、真面目な彼女にしては珍しくその場を誤魔化そうとする。リュカも今になっていちいち問い詰めるようなこともしない。以前、ポピーがこの村を突発的に一人で訪れ、その際には誘惑の剣という武器を譲り受けたことをリュカは知っている。その際に防具屋の主人は、それならば自分はと、ポピーのために防具を拵えてくれたのだ。
「これって……とても立派な防具よ。あの、お値段はおいくらになりますか?」
包みの中に畳まれたままの賢者のローブを、ビアンカが覗き込みながら感嘆交じりにそう言うと、防具屋の主人はとんでもないと言うように首を横に振り、拒否するように両手を前に出す。
「これはお嬢さんへの贈り物です。貴方がたへのせめてもの応援の品物と思っていただければと」
「でも、悪いわ、そんなの。タダで頂くなんて」
「タダなものですか。貴方がたはこれからマーサ様をお救いになるために、危険な地へ赴かれる。これくらいの事しかできないと、私は悔しいほどなのです」
彼のその思いは本物なのだと、言葉の力強さや表情に見て取れた。エルヘブンの地に生まれ育ちながらも、閉ざされた魔界の門に対しては無力である自分たちの能力を、彼は心から口惜しいと感じている。リュカは防具屋を営むこの男性にも、間違いなく魔力の持つ者特有の雰囲気を感じている。恐らく何かしらの呪文を使うことができるに違いない。しかしそれは、閉ざされた魔界の門に通じるような力ではないのだ。そして魔界というこことは異なる世界に通じるような力でもないと、エルヘブンの民である彼にはそれが分かってしまっている。
包みの中に畳まれたままの賢者のローブを、ポピーは手に持ち広げてみた。首元から当てて寸法を合わせてみると、ローブにしては丈が少々短めに調整されていたが、それも普段のポピーの服装になるべく近い方が良いだろうという防具屋の主人の考えが反映されたものだった。ポピー自身、動きやすい服装を好むため、防具屋の主人の心遣いに心からの感謝の言葉を述べた。
しばらくは三人とも立食の席を共にしていたが、やはり村の中心部である祈りの塔という特別な場所であり、更にマーサの部屋という、本来立ち入ることも許されないような場所に立ち入っていることに緊張を感じるのか、少しばかりの歓談の後に彼らは静かに辞して行った。リュカたち家族にとっては母であり祖母である人が一人暮らしていた場所と思えば、緊張もなく、ただ彼女の暮らしていたその過去に想像を馳せるだけだ。家族で言葉を交わさぬ静かな時にも、目を部屋の中に巡らせ、その一つ一つに母の暮らした時を忙しく想像してしまう。
食事が終わり、ビアンカが部屋の隅にある台所へ食器類を片づけに行く。これほどの高地にありながらも、マーサの部屋まで水の道が通じていることに、ビアンカは初め感動したように水のレバーを操作したりしていた。食事の器はそのままにしておいて良いと村人からは言われていたが、そうできないのがビアンカだ。リュカが下手に手伝っても軽く追い払われるので、妻のしたいようにと部屋の台所で片づけをするその背中を見ながら、リュカは行儀悪く絨毯の上に寝転んだ。
「お父さん、食べた後にすぐに寝ると馬になるよ」
「あはは、じゃあ早く走れるようになるかなぁ」
「お兄ちゃん、それを言うなら牛よ」
「お父さんが牛になっちゃったら困るわねぇ」
「そんなの困るよ。だって牛になっちゃったら、どうやってここから降りるのさ」
「窓からルーラで出られるかな」
「牛さんになって、モーって言ってルーラを唱えるの? できるかしら」
「あら、メッキーだってルーラが使えるんだから問題なさそうだけど?」
「あ、そっか。別に言葉を喋れなくても呪文は使えるんだもんね」
「そうそう。じゃあ僕が牛になっても問題なさそうだね」
「ちょっと、お父さん、そんなことないでしょ! 私、お父さんには牛になってほしくないわ」
「もう、リュカはそうやってすぐにふざけるんだから。仕方ないわねぇ」
なんて穏やかな時なのだろうかと、リュカはしぶとく寝転がったまま部屋の天井を見つめる。一人で過ごす部屋にしては、天上もやたらと高い。祈りの塔の一部に、まるでその塔の先端に閉じ込められるように一人で暮らしていたマーサ。その身に帯びた類まれな能力のために、エルヘブンの村という、自ら忘れ去られた民族と言うほどに何者とも関わりのない場所で、厳重にその身を守護されていた母を今、この場所に迎えたい。もし母を迎えることができたなら、この祈りの塔の閉ざされた部屋も、明るく開けた場所とその目に映るに違いない。
すっかり寛ぐ気でいたリュカだが、そんな時に再び扉が外からコツコツと小さく叩かれた。食事の片づけをと再度この部屋を訪ってくれた村人だろうかと、少し重く感じる身体を起こして、リュカ自らが戸口にまで出た。
扉の外側に立っていたのは二人の老人だ。見たところ夫婦の様で、男性の手を女性が支えるように自身の手に乗せている。エルヘブンの奇怪で険しい土地に住んでいるためか、恐らく普通の土地に住む老人よりも足腰は逞しいのだろうが、それでもこの村の頂上に位置する祈りの塔の上階にまで足を運ぶのは少々骨が折れたようでいくらか疲労の色を見せている。二人のその様子を見て、リュカはすぐに老人夫婦を部屋の中へと招き入れた。
「明日には旅立つと聞きましてな。一度……お会いしておきたいと思うての」
老夫婦の妻が夫の様子を窺いながら、戸口に立つリュカにそう伝えた。リュカの顔を二人してじっと見つめるその視線に、リュカは束の間その場に立ち尽くした。背丈はビアンカと同じほどで、それほど小柄な二人ではない。部屋を歩く姿も、さほど老人を思わせないほどにしっかりとしたものだ。ただ彼らの住む家からの道のりはひたすら上りの道で、その道のりに些か疲れてしまったのだろう。
「おじいさん、おばあさん。こちらにどうぞ」
「おやおや、ご親切にどうもねぇ。何とも可愛いお嬢さんだこと」
ポピーが敷いた座布団の上に座り、顔の皺を刻ませつつ老夫婦の妻はにこりと笑んだ。老夫婦は村人が特別と感じるこの部屋に緊張する様子でもなく、そうかと言って無暗に寛いだ様子も見せず、ただにこにこと二人の子供の様子を嬉しそうに見つめている。
「リュカ、この棚に置いてあった茶葉、少し使わせていただいてもいいかしら」
老夫婦に何かしらのもてなしをと、ビアンカは棚の中に見つけた茶葉の入った缶をリュカに見せると、振り返ったビアンカの姿を見た老夫婦の目が自然と細くなる。
「ああ、使えそうなものだったら平気だと思うよ。それを君が使ったって、誰も怒りはしないよ」
「そうじゃろうなぁ。きっと使ってもらった方が喜ぶじゃろうて」
「そうじゃそうじゃ。茶葉とて、ただ置かれているだけでは、何のために茶葉になったかよう知れん」
リュカの言葉に追随するように、老夫婦がビアンカの背中を後押ししてくれたために、彼女は心置きなく缶の蓋を開けていた。間もなくビアンカの入れた茶が人数分用意され、絨毯の上に広げられた敷物の上に、輪を描くように乗せられた。
「ねえ、ところでおじいさんもおばあさんも、どうしてここへ来たの? ボクたちに何かお話があったんだよね?」
そう言ってティミーは湯気の立つ木の器に入る茶をふうふうと冷ますが、一口飲んで舌を軽く火傷し、今度は舌を出して空気に晒して冷ましていた。いかにも無邪気なティミーの様子を見る老夫婦はやはり揃って笑顔で、まるで何かを懐かしむように目を細めているようにリュカには見えた。
「少しばかり、昔話をの」
そう言って茶を啜る老夫婦の夫は、熱いものは熱ければ熱いほど良いと言った具合に、旨そうに茶を飲み下す。手から器を離さないところを見ると、少しばかり冷えた手を茶の器に温めているように見える。リュカは一度その場を立つと、母の使用していた寝床に調えられていた毛布を二組手にして戻り、老夫婦の肩にそれぞれ掛けてやった。その際に目の合った老夫婦の妻の瞳を見て、思わずその驚くまでに黒々とした瞳に自分を見たような気がした。
リュカが再び席に着き、しばらくは静かな時が流れた。老夫婦は二人して、マーサの一人暮らした祈りの塔の部屋をぐるりと見廻していた。殺風景とも言えるほどに質素なこの部屋を見て、何か感想を述べるまでもない。部屋の景色そのものを見ているというよりは、部屋に残る記憶を想像して懐かしむ様子にもリュカには見えた。
「もう何年前になるかのう……」
細める目は最早開いているのかどうかも分からないほどに細められているが、その目がリュカに向けられた。視線を強く感じることはないが、その代わりに老人の温かくも切ない思いが向けられているようにリュカには感じる。
「この村に一人の若者が迷い込んで来てのう」
声は穏やかだ。それは目の前の老人が時を経て獲得した雰囲気なのかも知れない。今となったからこうして、穏やかに話せるのだという、言葉の外に感じる雰囲気がある。
「村の娘と恋に落ちて、娘はその若者に連れられて村を出て行ったんじゃよ」
何かの御伽噺を聞いているかのようだった。数ある御伽噺の一つか、いくつか、このような始まりの物語があるだろうと思わせられる。エルヘブンという、いつからあり続ける村かも分からないこの場所に於いては、今では御伽噺となったような話の発祥の地とあっても何もおかしなこともない。
「娘の名はマーサ」
母の名が御伽噺の中に出て来ても、リュカは何も違和感を感じなかった。世にある御伽噺は既に、結末を迎えている。ただ母の生きる御伽噺の世界はまだ、結末を迎えていない。ただそれだけの違いだとリュカは思う。
「若者はたしかパパスとかいう名前じゃったな」
老人の語り口調はあくまでも柔らかい。ただただ遠くの過去を懐かしむ空気が漂う。そうしてその温かで、隙間に切なさが見える老人は再び茶を啜り、思い出すように目を閉じてしばし沈黙した。
「パパスおじいちゃん、やるね! かっこいいなー!」
ティミーの溌溂とした感想が最も正しいのだろう。村の外の人間を寄せ付けないこのエルヘブンに父が迷い込んだこと自体、万に一つとない奇跡に違いない。それから村に暮らす、村が最も必要としていた母と出会い、その上村人たちの反感を買ってでも母をこの村から連れ出し、妃としてグランバニアに迎えてしまった。一体どれだけの御伽噺の世界を父と母は生きて来たのかと思うが、リュカもまた大概同じようなものだ。妻は勇者の子孫、息子は勇者と、リュカはリュカでまた異なる御伽噺の世界に入り込んでしまっている。
「そんな事情があったなんて……リュカのご両親ってステキね」
ビアンカのその言葉に、リュカは図らずも胸が痛むのを感じた。妻を見れば、いつになく目をキラキラとさせ、明らかに陶酔するような表情をも見せている。リュカ自身、父を尊敬しているが、恐らく幼い頃から父への仄かな恋心を抱いていたビアンカのその様子を見れば、尊敬の念と並んで嫉妬のさざ波に起こる。どうせ自分は求婚の前夜に振られたと思い意気地を失いかけていたと、リュカが心の中で拗ねていると、ビアンカが夫の心を知ってか知らずか「ま、私にはリュカがステキな旦那様だけどね」と一言口にすれば、リュカの心は途端に通常よりも上の位置に浮上した。妻にそう言われて悪い気のする夫はいない。
「あの……ね? もし私が突然男の人と結婚したら、さみしい?」
一体何をどう思ったのか、唐突にそんなことを言い出すポピーにリュカは思わず「へっ?」と気の抜けた返事をする。ポピーは彼女なりに、祖母であるマーサの身に起こった出来事を自身に置き換えて考えてみたようだ。彼女もまた、乙女心に生きる少女の如く、その「ステキ」な出来事を想像の中でも体験したいのだろうと、リュカは父としてよりも親として、落ち着いて娘の言葉に応える。
「突然はきっとびっくりするとは思うけど……でもポピーの幸せが一番なんだから、僕はポピーが幸せなら嬉しいって思うと思うよ」
「……ふふっ、無理しちゃって」
「何だよ。じゃあビアンカはポピーが突然結婚するって言ったら反対するの?」
「相手がとんでもないろくでなしだったら反対するかも知れないけど、ポピーはそんな人を選ばないでしょ?」
「そんな人、選ばないわ! 私だってそんな人、イヤだもん」
「そう。なら喜んでお祝いしてあげる。いずれはそんな時も来るのね。楽しみだわ~」
「喜んでくれる? じゃあ私、マーサおばあちゃんみたいに情熱的な結婚するからね!」
まるで未来はそうと決まっているかのようなポピーの口調に、リュカは思わず顔を引きつらせ、ビアンカは娘の幸せを既に祝うように顔を綻ばせる。そしてリュカの不安定になった心に重しを乗せるかのように、ティミーが要らぬ言葉を付け足す。
「相手がコリンズ君じゃあ、情熱的って言ったってさ、ケンカで熱くなるだけじゃないの?」
「ちょ、ちょっと、お兄ちゃん! 誰がコリンズ君が相手だなんて言ったのよ!」
「他に誰かいるの?」
「たっくさんいるじゃない! まだ出会ってないステキな人と、これから出会うかも知れないでしょ!」
「それならコリンズ君が一番安心だと思うけどなぁ。だってヘンリー様とマリア様の娘になれるわけだしさ。絶対にポピーに優しくしてくれると思うよ」
「ティミーって結構、現実的なのねえ。それもちゃんとポピーの事を考えてくれてるってことよね。優しいお兄ちゃんね~」
「……まあ、まだポピーは子供なんだからさ、しばらくは僕たち家族と一緒。どうしても良さそうな人がいなければ、ずっとグランバニアで一緒に暮らしてもいいわけだし、うん」
「リュカ、顔が固いわよ。ほら、笑って笑って」
ビアンカがリュカの頬を両手につまむと、口角を引き上げるように上に引っ張る。口元は笑っても、リュカの眉はしかめられ、妙な表情を晒しているリュカを見て、ティミーもポピーも笑い、和やかな家族の様子を見る老爺も目を細めて笑っているようだった。ただ一人、この和やかな空気に染まらないのは、老人夫婦の妻の方だ。リュカたちの穏やかな家族の輪の中にあっても、その穏やかな雰囲気を感じるにつれ彼女の表情は悲し気に揺れていた。
「エルヘブンの娘が外にお嫁に行くなんてわしは反対したのに……」
堪らずに一言吐き出した老婆の言葉が、心地よいぬるま湯の中に放り込まれた小さくも鋭い氷の矢のようで、ぬるま湯の温度は少々下げられた。夫である老爺が妻の本音が場に及ぼした影響をとりなすように、隣に座る妻の手を擦るが、彼女は悲し気な表情を隠すこともなくただ瞳を揺らして湯呑の茶を見つめるだけだ。
その後もしばらく、老夫婦はマーサの部屋にて、リュカたち家族と言葉を交わした。主に話していたのは老爺で、母マーサの幼い頃の話などを少ししてくれた。生まれた時からマーサは類まれな能力を有する子として、村で厳重にその身を守ってきたと言う。老爺の言葉はそのまま、今リュカたちがいる祈りの塔のこの部屋に反映されている。マーサとしては守られるというよりもむしろ、この部屋に縛り付けられているという感覚が強かったに違いない。
それでもマーサは窓辺に飛んでくる鳥と友となり、空に浮かび形を変える雲を見ては外への憧れを強くし、成長し、少女となったマーサは時折その窓から無謀にも外へと抜け出したこともあったらしい。こんなに高い所から、とポピーが唖然とする前で老爺は笑いながら「友達の力を借りたんじゃろうなあ」とのんびりと言う。空を飛ぶ鳥たちの力を借りて、この場所から外へ飛び出す少女だった母の姿を想像すれば、それはビアンカも顔負けのお転婆だったとも思える。
エルヘブンの村に暮らす人々は誰もが、この村を永遠に存続させるために生きていることを自覚し、村の外に出ることは殆どないらしい。それというのも、この村に課せられた魔界の門の封印を守り続けるという義務と、この地上の世界を守り続けているという誇りの下に、一人一人が己の命を生きているからだろう。そして彼らを外の世界から守り続けているのが、エルヘブンの村を守護する魔物たちだ。エルヘブンという村は、人間と魔物が力を合わせて、魔界の門の封印を守り続けるという、奇妙極まる宿命を負わされている。一体それがいつから始まっているのかなどは、この老夫婦も知らないことだ。
長居しては迷惑だろうと、老夫婦は頃合いを見てマーサの部屋を辞した。部屋を去る際にも、再び二人はこの部屋の景色を、まるで目に焼き付けるかのようにじっくりと見廻して行った。老爺は扉のところでリュカをその細い目で見上げ、老婆は今も消えぬ悲し気な黒い瞳を伏せたまま、リュカに握手を請うた。リュカが手を差し出すと、その手を丁寧に皺の覆い両手で包み込み、そのままリュカの手を老婆は己の額に当てた。リュカはその時になって初めて、この老婆もまた類いまれな能力の持ち主であろうことを、与えられた加護の力を手に感じてそう思った。
「ここの人たちってあんまり外に出ないのかなあ? なんだかさみしいね……」
老夫婦が部屋を出てから、ティミーが閉じられた扉を見つめながらそう呟いた。グランバニアの王子に生まれ、同時に勇者の運命を背負ったティミーは、寧ろ城の中に留まり続けることを許されない。彼は生まれた時から、いつかは外の世界に出て世界を救う道を歩み始めなければならないと定められていた。そしてその運命を彼は、今やしっかりと受け入れ、明日には皆で魔界の門を目指す。そんな彼からすれば、一生をこの小さな村の中で終えるという人生を「寂しい」ものと感じてしまうのだろう。
「あのおばあさん、いつ見ても悲しそうよね。どうしてかなあ……」
「あら、ポピーは前にもあのおばあさんに会ったことがあるの?」
「うん。前もね、おばあさんがずっと遠くを見ていたのを見たことがあって、その時もとても悲しそうで……声をかけられなかったの」
「そう……。人が悲しんでいるのを見るのは、こちらも悲しくなるわね。何か私たちにできることがあればいいわね。ね、リュカ」
「……うん、そうだね」
ビアンカの言葉に返事をしつつも、リュカはこの部屋を辞して行った老婆の姿を脳裏に映していた。今では真っ白となってしまったあの髪も、若い頃は光を眩しく跳ね返すほどに黒く輝いていたのだろう。少々腰は曲がりながらも、部屋の中を歩く姿も凛としており、老婆の所作を細かく見れば洗練されたものだった。そしてエルヘブンの村に暮らす者の中でも老婆は恐らく、高い魔力をその身に秘めた人に違いない。今もリュカの手に残るのは、老婆がリュカに授けた強い加護の力だ。
「この村の人たちのためにも、絶対に母さんを救う」
その言葉が、エルヘブンの村人たちにも届くように、たった今この部屋を去って行った老夫婦にも届くようにと、リュカは両手を胸の前で合わせるようにして強く希望を持つ。それが家族の願いでもあり、村人たちの願いでもあり、世界に生きる人々の願いでもあるのだと信じて、リュカは母マーサを救い出し、母と共に今一度魔界の扉の封印を固くすることを心の中に誓う。悲しい思いをするのは一人でも少ない方が良いのは、考えるまでもない。それは、世界に生きる全ての人々の望みであるはずだ。

Comment

  1. スラきち より:

    初めまして、
    今も更新されていることが嬉しくて、、
    コメント失礼します。

    コロナ禍で
    スマホ版DQ5を小学生ぶりにプレイし全クリ後、
    DQ5ロスになり、
    このサイトと出会いました。
    とっても感動し
    時に泣きながら夜な夜な読ませていただいておりました。心から応援しております。

    • bibi より:

      スラきち 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうなんです、今ものんびり更新しております。まだ終わらないという・・・でも今年中には、とは思っています。

      初めてドラクエ5が発売されてからもう三十年が経つのに、今も尚楽しめるなんて、もう一つの文学作品として認められてもいいんじゃないかななんて思っています。当方の拙いお話をスラきちさんのDQ5ロスの穴埋めにしていただけるとは、光栄です。まだもう少し話は続きますが、またお時間ある時にお越しいただければ幸いです^^

  2. ケアル より:

    bibi様。

    ゲーム本編でも、この老夫婦からパパスとマーサの駆け落ちの話を聞けるんでしょうか? このあたりのゲーム本編の描写をあまり覚えていなくて…。

    リュカの言葉、母を魔界から連れ戻しマーサといっしょに魔界の扉を封印するという決意…これがマーサの末路のフラグだと思うと切ないです…。

    炎・水・命のリング、ゲーム本編では、ジャハンナに行った後、ルーラでエルヘブンに戻り三つのリングを回収できますが、bibiワールドではどうしようと考えていますか?

    次回は、いよいよ、いよいよ魔界に行くんですね。 次話楽しみです!

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      そうなんです。ゲームでは老夫婦の家に行って話を聞く形ですが、こちらのお話では訪ねてもらうことにしました。
      この時は誰もが、マーサを助けて再び魔界の扉を封印することに希望を持っていた、と。それはまだ勇者が幼いから。勇者が成人になり、立派に育つまではまだ魔界の王に立ち向かうことはできないと、リュカだけではなく他の誰もがそう思っていたけれど・・・という流れですね。ドラクエ4でも勇者が成長するまで、村人たちが大事に育てていましたね。まだ幼い子供を戦いの矢面に立たせるようなことなんてできないですからね。
      3つのリングについてはまだちょっと考え中です。話の流れで決まるかなぁ・・・。
      次回はもうしばらくお待ちください。いや~、子供の春休み中は全くこちらに手が付けられないという(笑)

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