躊躇逡巡からの脱出

 

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グランバニア城の上空には先ほどから暑い雲が立ち込め、広い森の上に大雨を降らそうとその色を濃くしている。深い森に含まれた水が空に立ち上り、雲を成し、厚みを増し、そして地上に恵みの雨となって降る。地上を潤し、地下に染み込み、川に流れ、人々はその恩恵を大いに受ける。そして再び水は粒となって空に立ち上り、雲と成って空を覆い、雨となる。その循環は即ち生命の循環にも似ている。
リュカは国王私室の窓から空に立ち込める灰色の雲を眺めた。今はまだ雨を我慢しているような空模様だと、森が雨に湿るのはあと少し後になるだろうと肌に感じる。灰色の空の向こうに強い日差しを透かして見ることができる。もしかしたら空の雲は風に流れ、森は再び日に晒されるかもしれないと期待をするが、風は落ち着いているようで、雲は一向に流れる気配はない。そして僅かに開く窓から流れて来る空気は確かに冷たくなっている。
執務用に備えられている机に片手を着きながら、リュカは右手に持つ一通の封筒を見つめた。ただの封筒ではない。剣と盾、それにまるで天空人の背に生える一対の翼が一体となった、友の国の紋章が刻印された手紙が、グランバニアの国王であるリュカ宛に直接届けられたのはつい先日だ。
中の手紙には既に目を通した。口が悪い彼にしては繊細な文字だというのは、もう何度となく手紙のやり取りをしているために当然知っている。口が悪いのは彼の繊細さを隠すためだということも、やはり知っている。もっと乱雑な文字を書く人だったら良かったのにと、リュカは困ったように笑いながら手にしていた手紙を机の上に置いた。
ビアンカがこのグランバニアに戻ってから既にひと月が経とうとしていた。その間、リュカは天空城に一時避難していた人々を全て地上へと送り届けた。待っていた人のところに戻れた人もいれば、自分の故郷も分からずにとりあえずは新たな地で生き始めた者もいる。その後の彼らの人生は、故郷のしきたりの中で、新たな土地の規則の中で、逞しく在って欲しいと願うばかりだ。これからリュカにできることは、グランバニアにも引き取った幾人かの彼らを、この国の新たな民として保護しつつ、以前よりこの国に暮らす民との調和を図っていくことだ。
テルパドールでも微力ながらと、数名の人々を受け入れてくれた。しかしそもそもが過酷な砂漠と言う環境だ。その上送り届けた人々はあのセントベレスでの高地で、寒さにこそ慣れていたが、暑さ極まるテルパドールの地において果たして心身ともに健やかな生活を営めるだろうかと少々不安が頭をもたげたが、それもリュカの取り越し苦労だった。伊達に奴隷の身に落とされて逞しく生き抜いてきた者たちではない。どのような環境でも今までの過酷さに比べれば屁でもないと、彼らはテルパドールの砂漠の環境を受け入れてくれた。
その際に、リュカはグランバニアに無事王妃が帰還した旨を女王アイシスに対面し口頭で伝えていた。本来ならば彼女を連れて共に礼をしたいが生憎とまだ体調が優れずと言い添えれば、アイシスは今はグランバニアのことだけを考えて下さいと気遣いの言葉を返してくれた。世界が平和になった暁には改めて王妃様ともお目にかかれましょうと、暗に勇者ティミーに対する期待をも覗かせていた。彼女のその言葉に、リュカは素直に頷いてみせた。既にリュカの心も前を向き、勇者を否定することもなく、平和を否定することもない。
机に置いた手紙には、ラインハットでも受け入れた人々の今の様子が書かれていた。ラインハットはかつてその存続が危ぶまれたような国だ。それ故に国民の警戒心はグランバニアよりも数段強く、初め国民は余所者を国に入れることに良い顔をしなかったようだ。一方で、あのセントベレスでの過酷な体験をその身に覚えているヘンリーとマリアがいるあの国で、今後の暮らしが想像できないような人々を放っておくこともできなかった。国民との折り合いは、受け入れる人の数を抑えるということで落ち着いたようだった。
その際にリュカは直接ラインハット王であるデールと対面していた。王の補佐を務める大臣もおり、両国の王が直接こうして話をすれば良いだろうと、リュカはヘンリーとマリアがちょうど城を空けている時を狙うように日程を組み、デールと話をするに留めたのだ。
その事を責める文章も当然、友の手紙には書かれていた。字こそ繊細だが、書かれた言葉は友の言葉そのままの汚いものだった。人の留守を狙ってこそこそラインハットに来るとは何事だ、早く一家揃ってラインハットに来い、多くの人々を救ったことに対する礼をさせないのはどういう了見だと、容赦なくリュカを責める言葉が書き連ねてあった。強い彼の言葉が手紙に書かれていても、リュカはまだラインハットに行き友と彼の妻に会う決心がつかない。
「あら、リュカ。部屋に戻っていたのね」
すっかり、とまでは行かないのかも知れないが、体調を良くして今ではグランバニア城内を子供たちやドリスと共に歩くようになったビアンカが、後ろ手に部屋の扉を閉めながらリュカに声をかける。リュカはどことなく気まずい思いを抱えたまま、机の上に置いていた手紙をそっと本の下に差し込み隠す。
「それでバレてないと思ってるの?」
「え?」
「どうして行って会ってあげないのよ」
姿勢よく部屋の中へつかつかと歩み進み、リュカの傍まで来たビアンカは何の躊躇もなくリュカが隠そうとした手紙を本の下から抜き取った。そしてリュカの目の前にその封筒を掲げると、不思議そうに夫の顔を覗き込む。
「友達を避けちゃダメじゃない」
「……ビアンカ、何を言ってるの」
事情をすっかり知っているようなビアンカの態度に、リュカはただそう言うだけだ。するとビアンカは夫の傍を離れ、今度は部屋の隅に置かれる大きなワードローブに向かい、扉を開け中の引き出しから一つの封筒を取り出す。それにはリュカが手にしていたものと同じラインハットの紋章が刻印されていた。
「私にも来てるわよ、手紙」
「あ……」
「ほら、私も一応この国の王妃様、でしょ? 直々にデール王からお手紙を頂戴したのよ」
十年ぶりにグランバニアに王妃が戻り、祝いの場が設けられその場でビアンカが王妃として披露されたことはリュカからデールにも伝えている。そして手紙を通じて、王妃捜索に関する助力に対しても当然礼を述べている。ラインハットも当然の如く、ビアンカがグランバニアに戻ったことを知っているのだ。
「本当ならあちらからグランバニアに来たいって。でも外には魔物も多くなっているんでしょう? 長旅で危険な目に遭わせるわけには行かないものね」
「ラインハットからグランバニアに? 船で? そんなの危険すぎるよ」
海に棲む魔物の数も陸と同様に増えているようで、運悪く船ごと魔物に沈められてしまうこともあるとリュカは聞いている。世界中の人々は一人残らず救われるべきと考えたところで、リュカの手も神の手も決して一人一人に行き渡るわけではない。
「だからこっちから行くしかないじゃない。リュカは移動呪文の使い手でしょ? ポピーもそうなんでしょ? 予定さえ調整できればいつでも行けるじゃないの」
「うん。まあ、いつでも行けるからさ、また今度って思ってて……」
「こういうのは間を置かずに行くべきなのよ。だってお礼だもの。お礼が遅くなればなるほど、それって白けちゃうわ。一国の王様ともあろう人がそんなことでいいの?」
夫婦という間柄だが、このようなことを言う時ビアンカはまるで説教をする姉のようだった。彼女の方が二年の間多く石の呪いの中にいて、それ故にリュカは彼女に年が追いついたと言っても、やはり彼女自身の性質自体は変えようもない。
「明後日にしましょう。私からオジロン様にお話ししておくわね」
「そんなに急だと向こうも困らないかな」
「あら、あなたがラインハットに行く時は大抵急だったんじゃないの? そう言うようなことがデール王からのお手紙にも書かれてたわよ」
「デール君……」
凡そ穏やかで卒ない態度を取るデールのことだから決して皮肉を込めてそのようなことを書き綴ったわけではないだろうが、しかしあのヘンリーの弟と言うことを考えればそれくらいの皮肉は書いていてもおかしくないと思ってしまう。
「子供たちも行ったことがあるんでしょう? じゃあ一緒にご挨拶させてもらうのがいいわよね」
「でもビアンカ、君はラインハットに行きたくないんじゃないの?」
リュカがラインハットに行くことを長らく保留にしていた理由は、そこにもあった。かつてリュカの故郷サンタローズを滅ぼしてしまったあの国に対し、ビアンカが決して良い感情を持っているはずがなかった。サラボナでの結婚式の際に会ったきりのヘンリーとは打ち解けた様子があったが、それはあくまでも彼個人に対する態度であり、ラインハットと言う国そのものに対する感情ではない。
「ラインハットが今も怖いって思ってるんじゃないかな」
リュカの言葉にビアンカは思案するように視線を逸らす。手にしているのはラインハット王であるデールから直接送られて来たものだ。それは実は、ビアンカが先に彼に対して送った手紙に対する返事という位置づけのものだった。リュカがあまりにもラインハットに触れずに過ごしているために、やきもきしたビアンカが先手を打つように相手国の王に対して直接手紙をしたためていた。返事として送られて来たデールからの手紙には、メッキーの嘴の跡が残っている。
「もう、二十年も経ってるのよね」
ビアンカが手にする手紙の送り主であるデールは、幼少の頃から玉座に就き、ラインハットと言う国を見つめてきたのだという。傾国の危機にあったラインハットの中にあって、彼は十余年という月日を経て帰還した義兄とその友の力を以て国は危機から救われたと、改めて手紙の中でお礼の言葉を述べていた。そして今は平穏な国となったラインハットにぜひ足を運んで欲しいと、一文字一文字丁寧に手紙に書かれていた。
「ここで私が行きたくない、なんて言ったらそれこそ国際問題なんじゃないの?」
「それは……僕がどうにかするよ。君が本当に行きたくないなら無理しなくていいし」
「私は行ってみたいと思ってるわよ。こんな優しいお手紙を下さる王様だし、ヘンリーさんとマリアさんがどんな暮らしをしてるかにも興味あるし、コリンズ王子……ですっけ? 子供たちとはもう会っているんでしょう? それなら尚更ご挨拶に行かないと」
「でもさ、僕だけがラインハットに行けばいいわけだし、君は子供たちとここで留守番してくれていて構わないんだよ」
「リュカ」
「ん?」
「本当はあなたがラインハットに行きたくないんじゃないの?」
「………………」
ビアンカの言葉が全て当たっているわけではない。しかしリュカの心情は今の彼女の言葉に近いものがあった。友の国に行きたくないという強い拒否感はない。そしてあの国に行って彼らに会わねばならない理由があることも自覚している。しかしそれ故に二の足を踏んでしまうのが現実なのだ。
「私がついて行ってあげるから大丈夫よ」
そう言ってビアンカはリュカの腕を手で優しく擦った。
「私に任せなさいって」
「そうやってすぐにお姉さんぶるんだよな、ビアンカは」
「そういうつもりはないのよ。でも夫が困っている時に助けるのが妻の役目でしょ」
「助け方が強いよ」
「リュカにはそれくらいでちょうど良いのよ」
彼女の言う通り、リュカには多少強引なほどに助け舟を出すのがちょうど良いのだろうと、彼自身も自然そう思ってしまう。そうでないとリュカは自分でも気づかない内に様々な事を一人胸の内に抱え込み、いつの間にか物事は悪化の一途を辿る危険性が高くなる。
「じゃあ明後日ね」
「僕からオジロンさんに話しておくよ。ちょうどこれから会う予定なんだ」
「あら、そうなの。じゃあ私は子供たちに伝えておくわね。きっとあの子たち、喜ぶわよ」
「そうかもね」
リュカが微笑むとビアンカも微笑み、そして彼女は再びデールからの手紙をワードローブの中にしまった。そして本棚の中から一冊の本を取り出すと、それを小脇に抱えて部屋の扉に向かう。
「私もこれから子供たちと一緒にお勉強よ」
「大変だね」
「あなたほどじゃないわ」
その言葉通りの労りの笑みを見せながら、ビアンカは颯爽と部屋を後にした。扉の外では侍女が一人待っていたらしく、お待たせしてごめんなさいと一言謝りの言葉を述べてからは、二人の足音が遠ざかって行くのが聞こえた。リュカも訓練所で待たせているであろうオジロンを思い出し、身に着けていたマントを外して椅子の背もたれに乱雑にかけると、そのまま部屋を出た。
雨が降るかと思われた空模様は、いつの間にか雲の隙間から陽の光が差すほどに好転していた。



今はグランバニアの国王として日々務めに励むリュカだが、それとは別に日々の鍛錬も欠かさないようにしている。しばらくの間、多くの人々の安住の地を定めるまでは殆ど身体を動かすこともなかったリュカだが、ある時廊下を走るティミーに追いつけなかったことがあった。その事実に衝撃を受け、リュカはそれ以来兵士の訓練所の一角を借りるようにして身体を鍛え直していた。
「あー、遅いぞ、リュカ!」
今日はオジロンと共に鍛錬を積み、一度手合わせをする予定だった。その場に従妹のドリスがいるとは予想していなかった。
「ドリス、君、こんなところにいていいの?」
「勝手に神父様のところにいって予定を変更してきたらしい……全く、神父様に迷惑をかけおって」
「だって親父とリュカが手合せするところなんて月に一度もないじゃん。そりゃあこっちを優先するでしょ」
「手合せって言ったって、それまではひたすら鍛錬だよ。そんなの面白くも何ともないでしょ」
「大丈夫。それも私の楽しみだから。伊達に武闘家やってんじゃないのよ」
既にオジロンもドリスも練習用の武闘着を身に着けている。広い訓練場ではグランバニアの兵士らが今も訓練に励んでいるが、国王と国王代理、そして姫がその場に集まっているとなれば兵士らの目も合間合間にこの国の代表者らに注がれてしまう。
基礎体力づくりから、リュカもオジロンも兵士と同じ項目をこなしていく。男たちと同じ項目を、女であるドリスも殆ど変わらずこなしていくのだから、この姫の強さに思わず舌を巻く。
「少しでも鍛錬を怠けると、途端に身体の動きが鈍くなるからな」
「……身をもって分かっています」
「毎日続けていればそれほど辛くなくなるもんね」
「実は真面目だよね、ドリスって」
オジロンとドリスの父娘は揃って日々の鍛錬に余念のない二人だった。朝は早起きで、まだ日々の務めが始まる前にこの訓練場で準備運動とばかりに鍛錬を積んでいる。その後に朝食の席に着くために、朝から良く食べるのだとリュカはビアンカから聞いたことがあった。ドリスとそのような他愛のない話をしているのかと思うと、二人の間にある平和に思わず顔が綻んだ。
リュカたちが黙々と鍛錬を続けている間に、訓練場にいる兵士が一部入れ替わっていた。ちょうど各所に勤める兵士の交代の時間だったようで、新たに訓練場に入って来た兵士らの中にはリュカたちが一堂に会して鍛錬を積んでいる様子を見て、思わず歓声を上げる者もいた。そしてその兵士を、同時に戻って来たジェイミー兵士長が嗜めていた。
「ジェイミーさんがいてくれるだけで、兵士たちはまとまりますね」
「やはり長という存在は大事なものだからな。長が柱となってくれるだけで、人々の心は散らずに集まるというものだ」
誰よりも長身のジェイミーはどこに居てもその存在が分かる。決して小さいわけではないリュカが隣に並んで立っても、リュカがまるで子供のごとく小さく見えてしまうのだから、彼の長身は抜きん出ている。
そのジェイミーと向かい合って話をしているのは、トレットだった。彼はかつて光の教団に属し、グランバニアの新年祭に行われた武闘大会ではリュカの対戦相手となった。しかし知らず光の教団の手先として送り込まれたであろう彼は、その手で一度グランバニアの国を窮地に追い込んでしまった。
当時はリュカに似通ったような容姿を晒していたが、今は後ろに一つに結んでいた髪も切り、さっぱりとした短髪になっていた。元来、真面目の上を行く生真面目とも呼べる彼の性格も相俟って、その後この国の兵となった彼はその実力から次期兵士長としての頭角も現しているという。しかし彼自身がそのような地位を全くもって望んでいないのだということも同時に聞いている。図らずもこの国を傷つけてしまった彼は、たとえ実力的に問題がなくとも、この国の兵士長の役を務めることはないのだろう。
リュカが歩き近づけば、トレットは畏れ多いと言わんばかりに引き下がろうとする。話があるのは兵士長だろうと静かに身を引こうとしたトレットに、リュカは呼びかける。
「トレットさん」
「は、はい」
「この国に残ってくれてありがとう」
リュカが素直に礼を言えば、トレットは口を閉じることも忘れて唖然としている。
「もうすっかり馴染んでくれた?」
リュカが話しかける口調はいつでも国王とは思えぬほどに親しみやすいものだ。しかしこの国に対して深い罪を負っているという意識を常に持つトレットには、まだその親しみも足りていない。
「皆様に親切にしていただいておりますので、私などには勿体ないことでありまして……」
「まだそんなに固いの? それじゃあ毎日苦しいでしょ。もっと気楽にしていいんだよ」
「いえ、しかし私は……」
「いいかい? 君は何も悪いことなんかしてないんだ。君がこれからするべきなのは、この国の人として毎日楽しく暮らしながら、人々の安全を守ること。君が心の底から分かってくれるまで、何度でも言うからね」
そう言いながらリュカはトレットの両肩を強く叩いた。背格好も殆ど同じ彼の正面に立つと、まるで鏡でも見ているような気になる。まじまじと彼を見れば、一体どこが自分に似ているのだろうかと思うほどに似ているところなど見つからないのだが、リュカとトレットの醸す雰囲気にはどこか似通ったものがある。
それは恐らく、深い自責の念を抱えることにあるのだろう。己のせいで、大事なものを失ってしまったという思いは、二人に共通して存在するものだ。リュカは幼い己の非力で父を喪い、己の無鉄砲で自身も妻もこの国を長らく離れる羽目になった。トレットは己の心の弱さにつけ込まれた悪意に操られ、この国を窮地に立たせた。
交代してこの訓練所に戻って来た兵士の中に、未だ見習いの立場であるピピンの姿もあった。彼の父パピンは、グランバニア新年祭での魔物襲撃の際に命を落とした。今では長となったジェイミーの更に上となる存在であり、グランバニアの兵士たちを率いる先導者だった。トレットが直接手を下し、パピンの命を奪ったわけではない。しかし間接的にであれ、確実にこの国の誇れる兵士たちの先導者を失わせてしまったことへの後悔の念は今後もトレットの胸の中に残り続けるだろう。
その後悔の思いがある限り、リュカはトレットがこの国に留まり暮らしていくのに十分な理由があると思っている。深い後悔があれば、もう二度と過ちを犯すまいと強く思い、前を向けるはずだ。その上で、トレットは根が真面目の上を行く生真面目な性質がある。その生真面目な性質を再び悪用されないようにと、寧ろ保護して行く考えさえリュカの頭の中にはある。
「それで、今ジェイミーさんに何を話していたの?」
リュカが近づき声をかける前、トレットはジェイミーに何かの報告を行っていたように見えた。聞けばトレットはグランバニアを囲む広い森の中を、凡そ単独で見回りを行っているらしい。彼もまた一流の武闘家の一人だ。その身軽さを利用し、森の木々の中に潜み、敵である魔物らの動きの変化を見ているという。
「近頃、再び魔物の動きが活発になっているようで、一部北西にてその動きがあったと報告を受けたところです」
トレットが木々の中に身を潜め敵の変化を目に留めたのは、グランバニアの北に広がる湖を隔てた北西に位置する北の教会にほど近い場所だった。一人でそんなところにまで行っていたのかと驚くリュカだが、極力身を隠して行動するトレットは敵に遭遇する確率も相当に低いらしい。
「北の教会を見据えるように、敵の魔物が群れを成しているようです」
「教会を襲うような空気は感じられませんでしたが、ただ何かを待っているような雰囲気がありました」
ジェイミーの言葉に続き、トレット自身も直接国王であるリュカに報告する。世界には今もまだ光の教団の力がしぶとく蠢いている。世界に残る三つの大国は各々光の教団を遠ざける意識を国民に根付かせるようにしているが、それでも完全に間に合っているわけではない。そして大国以外の細かな地域となれば、国の大きな防御がないために直接外界からの影響を受けやすい。
「……一度、魔物の群れは追い払っておいた方が良さそうだね。じゃあ僕が今から北の教会に行って……」
「冗談でもそのようなことを言うでないぞ、リュカ王よ」
リュカが久々の肩慣らしのような気軽な気持ちで、仲間の魔物を幾人か連れて出かけようとそんな言葉を口にすれば、オジロンがすかさずリュカの国王らしからぬ身軽さを止める。
「もう二度と、あのような悪夢を経験したくはないのだ」
「あ……」
オジロンが過去のその事を直接口にせずとも、彼が何を言っているのかはリュカのみならず周りにいる者たちの多くが理解していた。リュカはかつて仲間の魔物を引き連れ北の教会に向かい、そしてそのまま行方不明となった。あの時は頭に血が上り我を忘れていたために今とは事情は異なるが、同じような状況になるのではないかと言う人々の不安を招きかねないことをリュカは考えるべきだった。
「お任せください。北の教会付近に兵を派遣します。ただグランバニアの守りも固めておきたいため、出せる兵力には限りがありまして……」
「ああ、それならプックルやマッドやアンクル辺りにも協力してもらおうか。それと新しく仲間になったアムールやシンバたちの力も借りれば一気に片付くんじゃないかな」
リュカの口にした魔物の仲間たちが一斉に北の教会の周りで群れを成す魔物の群れに襲いかかれば、一体どちらが悪い魔物なのかも分からなくなるのではないかと言う不安が束の間ジェイミーの脳裏に過ったが、国王直々の言葉として有難く受け取ることにした。
「あまり時間をかけていられないもんね」
「そうですね、我が国の防衛を疎かにはできませんから」
「プックルたちもさ、最近あまり運動してないでしょ? だからちょうど良いんじゃないかな」
「はあ……そのようなものですか」
「ねえ、じゃあそこにあたしも連れてってよ。存分に運動できるんでしょ? あたしも運動不足なんだよね~」
練習用の武闘着に身を包んだドリスが生き生きとした目をジェイミーに向け、半ば強引に派遣兵の中に混ぜろと言葉を投げかける。困惑するジェイミーを助けるように、オジロンが娘を嗜める。
「何を言っておるのだ。お前はこのグランバニアに残り、きちんと姫としての役目を……」
「あたしずーっとこの城にいるの? このままずーっと外に出られないの? 王妃様もそろそろまた外に出て伸び伸びしたいわ~って言ってたよ。そりゃあそうだよね、この国に来る前までは外の世界を冒険してたんだもん。王妃様だって息苦しいんだよ、きっと」
「ビアンカ、そんなこと言ってるの?」
「何よリュカ、あんた知らないの? ちゃんと夫婦で話してないんじゃないの? そんなんで王妃様に愛想つかされたって知らないからね」
「そ、そんなことあるわけないだろ。それに今度、ビアンカは子供たちと一緒にラインハットに行くって決めてるし、全然外に出てないってことはない……」
「あーっ、何それっ!? ずるいっ! あたしも連れてってよ! あたしもラインハットに行ってみたい!」
「ダメだよ、ドリスは」
「頭ごなし、禁止!」
「オジロンさん、どうにかしてくださいよ」
「王妃様に王子王女を連れてラインハットへ行くなど、私は聞いておらんが。どういうことですかな、リュカ王?」
今日のこの訓練の際にリュカはオジロンにのみラインハットへビアンカも連れて行くことを知らせるつもりだった。しかし結果的にはドリスにジェイミーにトレットに、周囲にいる兵たちにも知られることとなってしまった。今から取り繕うような嘘を吐くこともできず、リュカは正直に事の次第をオジロンに話した。
「特別外の危険な世界を歩き回るということでもなし、すぐに戻ってくるのなら問題ないでしょうな」
「そうだよ、すぐに戻って来るならあたしが一緒にちょこっと付いて行ったって問題ないよね」
「……まあ、良い機会でもあるかも知れん。あちら側さえ問題なければ、ドリスも連れて行ってやってくだされ、リュカ王」
「ホント!? やった! じゃあリュカ、よろしくね!」
「ええ~、ホントですか、オジロンさん……」
「ただドリスだけではちと不安だから、誰か一人兵をつけておいた方が良いかも知れん」
「何それ、あたしをどれだけ子供扱いしてんのよ」
父に対して拗ねるドリスだが、オジロンは娘を子供扱いしているわけではない。子供ではないから父として心配しているのだろうと、その気持ちは自ずとリュカにも理解できる。
「誰か一人でいいのね? よしっ、じゃあ……ピピン! あんたがあたしの護衛役ね」
偶々目が合ったくらいの理由で、ドリスはその場で自身の護衛役を務める兵を決めてしまった。何故偶々ピピンと目が合ったのかと言えば、王族同士で何事かと言い争いをしている中でもドリス姫は美しいなどとピピンが勝手に見惚れていたためだった。ドリスに名指しされてからも、ピピンは何が起こったか分からない様子で突っ立っていたが、横に立っていた先輩の兵士がさも楽し気にピピンの背中を押し出せば、彼は唐突に舞台の上に立たされたように自分の台詞を探し始めた。
「あ、あの、えーと、ゴエイヤクって聞こえたような気がするんですけど、何の話ですか」
「ピピン、あんたも一緒にラインハットに行けるんだよ。嬉しいでしょ? あたしのおかげだからね」
「僕がラインハットへ……本当ですか? どうしてそんなことに……いや、なんか、嬉しいですけど」
事情が呑み込めていないピピンに、ドリスが興奮冷めやらぬ状態で説明をしている。すっかり二人ともラインハットへ行く予定となってしまったが、オジロンも認めてしまった状況ではリュカがこの場でその予定を覆す気力を強く起こすこともできない。そして恐らく、ドリスとピピンが同行することで、ティミーもポピーもビアンカも更に楽しんでくれるのではないかと言う仄かな期待もある。
当初リュカはラインハット行きを、一人で決行する予定だった。そうするべきだと思っていた。名目上はグランバニア王妃の無事の帰還を成し遂げたことへの協力のお礼だが、リュカにとってはその内容に限らない。彼の本当の目的は別にある。
きっと湿っぽく、暗い雰囲気になるに違いないと思っていたラインハット訪問だが、今のドリスやピピンの騒ぎぶりに、目を細めて心なしか喜んでいるオジロンを見れば、賑やかな訪問になりそうだと思わずリュカも微笑んでしまう。互いのためにもそれが良いのかも知れないと、リュカは諦めよりも希望を抱くように、再び間もなくオジロンや、はしゃぐドリスとの鍛錬に励み始めた。



「リュカ、ダイジョウブ?」
魔物の仲間たちが生活するのはグランバニア城二階の一角にある大広間だ。今そこには城の防備に当たる魔物の仲間以外の者たちが数名いる。リュカに声をかけたガンドフも、今の時間は休息の時間に当てられており、大きな一つ目を不安そうに揺らしてリュカを見つめている。
「うん、大丈夫だよ。ところでガンドフ……」
「ウン。ベホズン、モッテル」
リュカは明日、ラインハットへの訪問を予定している。昨日話していたグランバニアの北西に位置する北の教会付近での魔物の群れの動きの変化に対応するべく、つい先ほどルーラで魔物の仲間たちとグランバニア兵たちと共に現地へと赴いたところだった。リュカはあくまでも兵力を現地に送り届けるだけの役として、彼らを北の教会付近に連れて行った後にすぐに一人グランバニアへ引き返してきた。一時間ほど後に再び現地に飛び、状況を確かめることとなっている。恐らくその頃にはプックルを中心に平原で大暴れをして、群れを成していた魔物らを蹴散らしているだろう。
その間、リュカはこうして魔物たちが暮らす大広間へと足を運んできた。この時間、リュカは自身の自由時間として使うことを許されていた。その空き時間を無駄にせず、リュカは自分なりの明日のラインハット訪問の準備を整えようとしていた。
ガンドフが呼びに行くまでもなく、広間の奥から現れたベホズンはその大きな身の中に、一つの濃紫色の包みを浮かばせていた。リュカが普段身に着けるものと同様の、濃紫色の布だ。その包みの中には一つの木箱が収まっており、そしてその中に眠るのが、マリアの兄ヨシュアの遺骨だ。
「もっと明るい布に包んだ方が良かったかな」
「ウウン、コレガイイ。リュカトイッショ」
ガンドフは大きな一つ目を細めて穏やかに笑み、ベホズンの緑色の透明の身体の中に納まる濃紫色の布の包みを見つめている。リュカはせめて色だけは同じにと、侍女の一人にそれなりの大きな布を用意させていた。
「ヨシュアさんの色でもあるんだよ」
リュカはかつてあの大神殿からの脱出の際に、マリアの兄ヨシュアからの餞別として一揃いの旅装を受け取っていた。たとえ大神殿から逃れ地上に辿り着いたところで、奴隷の格好のままでは思うように行動できないだろうと、リュカたちの無事を信じて渡してくれたものだった。
「偶然、一緒だったんだよね。僕が小さい頃に使っていたマントと、色が」
餞別に受け取った中には旅人の服やブーツに脚絆など、旅をするのに必要であろう一揃いが入っていたが、その中には濃紫色のマントも納められていた。リュカとヘンリーとで分け合い使用することとなったが、概ねヨシュアと背格好が変わらないリュカが身に着けることとなったのだ。
「あの時に身に着けていたヨシュアさんからもらった服は、もうとっくにボロボロになっちゃったんだけどね」
ラインハットの国を乗っ取っていた偽太后を打ち破る際に、リュカが身に着けていた旅装は戦いでの損傷で文字通りボロボロになってしまった。それ故に、その後ラインハットを発つまでの間に、ヘンリーが新たなリュカの旅装を用立ててくれていた。着るに堪えないほどに襤褸ついてしまったからと言って、ヘンリーがヨシュアから譲り受けた旅装一式を捨ててしまったとは思えない。今もラインハットのどこかに、それは残されているのではないかとリュカは思う。
「ベホズン、今まで持っていてくれてありがとう」
リュカがそう言ってベホズンの身体を手で擦ると、ベホズンは大きな身体をブルブルと揺らして応える。そして器用に体内の濃紫色の包みを移動させ、待ち受けるリュカの両手にその包みを渡した。既にベホズンはその魂安らかにと回復呪文を何度か施していたが、リュカの手に渡したその包みにベホズンは最後にともう一度ベホマズンの呪文を施そうとする。しかしリュカがそれを止めた。
「ベホズンは魔力を取っておいて。この後北の教会から兵士たちが引き上げて来る。彼らの手当てをしないといけないかも知れないからね」
ベホズンはその高い回復能力のために、こうしてグランバニアの城で待機することが多い。今回のように兵たちを遠くに派遣する時などは、回復役として万全の体制を整えていなければならないと、魔力は極力温存しておくのが常だ。尚且つ、彼の扱う回復呪文はベホマズンと言う最高難度の呪文であり、魔力の消費も激しい。矢鱈と使用できるものではないのだ。
その代わりにと、リュカは両手に受け取った濃紫色の包みに祈りを捧げるように、自ら回復呪文を施した。既に命の灯が消えて久しい者に対して効果のある呪文ではないことは十分に理解している。蘇生呪文も受け付けないほどに朽ち果ててしまった身体のどこも癒すことはできない。しかし物事の神髄は、そのような表面的で物質的なものではない。
リュカの祈りは、神父が、シスターが、修道女が捧げるような聖なるものではない。その殆どが懺悔や後悔だ。あの時は、彼の言う通りにすることが正しいのだと信じた。しかしいざ自分の身が助かり、こうして今もこの世に生き続けていると、あの時もっと彼の判断に抗うべきだったのではないかと後悔の念が押し寄せる時がある。ヘンリーはあの時咄嗟にヨシュアの判断に抗ってみせた。自分もあの時友に続き同じように抗っていれば、もしかしたらマリアの兄もまた助けることができたのではないかと思い、助けられなかったことに懺悔してしまう。考えてもどうしようもないことだと分かっていても、ふとした時にその時の後悔や懺悔が頭をもたげ、まるで発作のようなその思考は止めようもない。
「遅くなってすみません」
いつまでも自分のところに留めておくべきではない魂だ。早く彼の帰りを待ち続ける大事な妹のところへ、届けてやらねばならない。そうしなければ二人の兄妹ともが、心休まる時を迎えられないだろう。
「明日、行きましょう」
明日のラインハット訪問はリュカが想像しているよりも賑やかなものになるかも知れない。自らの身を犠牲にしてまでも、常に目をつけられていたような二人の奴隷に大事な妹の未来を託した彼のことだ。妹が今も命を繋ぎ、幸せに暮らしていることを感じられればそれでよいと、寧ろ楽しく賑やかな場を望んでいるとも思える。
「マリア、ヨロコブ?」
「……うん、きっとね」
ガンドフの問いにリュカはそうとしか答えられなかった。リュカ自身がそう願って、応えるだけだった。それ以上の言葉を、リュカは見つけられない。

Comment

  1. ケアル より:

    bibi様。

    まさかドリスやピピンもラインハットに行くことになるなんて。 ドリスが外へ出るの初めてですよね。
    ラインハットでの会話楽しみですね。
    bibi様、ラインハットでの登場人物けっこう多いですよ?大丈夫ですか(汗)
    リュカ・ビアンカ・ティミー・ポピー、ドリス・ピピン、ヘンリー・マリア・コリンズ・デール・皇太后、皆に台詞回すんですよね?楽しみ(笑み)

    ヨシュアの遺骨のこと、知っているのはリュカとベホズンとガンドフだけでしたよね?
    どうやってマリアに話するのか…早速次話行きます!

    • bibi より:

      ケアル 様

      コメントをどうもありがとうございます。
      つい勢いでドリスとピピンを連れてきてしまいました。彼女はお話の途中、どこかで一度は外に出てもらいたかったので、もうそろそろ地上を離れようとする中でここしかないかもと、来てもらいました。ピピンは・・・面白いので(笑)
      登場人物多いですよね。でも全て人間で、話しまくれそうだなと、ちょっと楽しみにしています。もちろん、みんなに台詞をつけますよ。ラインハット兄弟の母君は先の戦いで亡くなっていますので、その方以外の人たちになると思います。
      いつもラインハット編は長くなりがちなので、それほど間延びさせずにしゃきっと終わらせたいところではあります。できるかな・・・。

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