覚悟は決まらないまま

 

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目を開けていても閉じていても、どちらもさほど変わらぬほどに暗いのは、ある意味で目覚めが良い。朝日の眩しさに目をしかめることもなく、すんなりと開く目に映るのは、微かに部屋の中に揺れるランプの火が映る天井だ。いつの間にかリュカは、空いていたベッドの上でぐっすりと眠っていたようだった。
どれだけ眠っていたのかは分からないが、ずしりと重く感じる身体の重みから、それほど長い時間を眠りに費やしていたとは思えなかった。しかし自身でベッドまで移動した記憶がない。もし自分のことをベッドまで運ぶことができる者がいるとすれば、それは仲間のアンクルしかいないだろうと、リュカはベッドに仰向けになったままゆっくりと部屋を見渡せば、暗い中でもそのアンクルと目が合うのを感じた。リュカの記憶ではアンクルは身ぎれいにするために宿の外へと出ていたはずだったが、リュカが眠っている間に宿へ戻ってきていたようだ。他にも同じように宿の外に出ていたプックルとピエールも、既に宿に戻り、どうやらお代わりのスープを食していたようだった。彼らの前の床には、空になった木の器が置かれている。
彼らに声をかけようと口を開いたリュカだが、声が出なかった。喉がからからに乾いていた。それを見たビアンカが口に人差し指を当てて静かにと伝えた後に、テーブルの水差しから水を器に注ぎ、リュカのところへ運んできた。
「まだあの子たち、寝てるから」
囁くようにそう言うと、ビアンカは木の器をリュカの口元へと運ぶ。水を受け取り、一口飲んだリュカだが、ふとビアンカが起きて水を運んできてくれたことに疑念を抱く。彼女だって共に旅をし、酷い疲れを感じているはずだが、教会で蘇生されてからというもの、一行に身体を休めた様子がない。そう思い、掠れたような声で一言「休んだの?」と聞けば、彼女はリュカが腰を下ろすベッドの空いた場所をポンポンと手で叩いた。リュカが気を失うように眠っている横で彼女も横になって休んでいたらしい。そんなこととは全く知らないリュカは、自身がどれほど深く眠っていたのかと驚き、思わず目を丸くした。そんなリュカを見て、ビアンカはくすくすと笑っている。
再びこの町を出て、向かうべき場所へ向かわねばならないことは分かっているが、ティミーとポピーが自然と目覚めるのを待とうと思っているのはリュカだけではない。先ほど目が合ったアンクルはまだしばらく身体を休めるように、目を閉じ両腕を前に組み胡坐をかいて座っている。町の水で身を清め、腹もふくれたピエールも落ち着いた様子で装備品の手入れをしているかと思って見れば、うつらうつらと舟を漕いでいる。プックルは欠伸をしながらのそりと立ち上がると、リュカの傍に立つビアンカの足元に歩み寄り、甘えるように大きな身体を摺り寄せた。リュカのことは散々構っていたんだから、今度はこっちに構ってほしいと言わんばかりの甘えた様子に、ビアンカは大きな可愛い相棒の毛並みを調えるように、頭から背中への立派な赤毛を両手で梳き始めた。目を細めて気持ちよさそうに頭を上げているプックルは、地獄の殺し屋キラーパンサーなどではなく、すっかり人慣れした家猫みたいなものだと、戦友のその様子にリュカは思わず小さく噴き出した。
リュカもプックルの喉を二、三度撫でてやると、そのままベッドから起き上がり、床に立つ。身に帯びていた剣も杖もベッド脇に置かれ、汚れに汚れたブーツが脱がされていたことにも気づかなかったのかと、リュカはよれよれになっている青の脚絆を足から外しながら、床に置かれているブーツに目を落とした。ティミーとポピーのブーツもベッド脇に置かれている。自身や彼らが眠っている間に全てビアンカがそうしてくれたのだろう。
リュカが何も言わずとも、ビアンカは既にベッドの枕元に用意しておいた大判の手拭いをリュカに手渡した。剣の手入れをしていたピエールの手から剣が零れ落ち、床に落ち、大きな音を立てた。しかしそれでも子供たちは身じろぐこともなく、相変わらず深い眠りに就いている。音に目を覚ましたピエールは慌てて剣を拾い上げると、ベッドから抜け出し床に立つリュカを見上げた。言葉にして問いかけるまでもなく、彼が手にしている手拭いを見ればこの後の行動は読め、小さく一つ頷いただけで再び剣の手入れを始めた。
すぐに戻るからとビアンカに言い残し、リュカは部屋を出た。リュカたちに当てられている大部屋の隣には、今も目覚めない天空人の男性がベッドに横たわっているはずだ。宿の女店主から、彼の容体が回復したという話は聞いておらず、以前見舞った時も彼はただ苦し気にうわ言を口にするだけで、はっきりと目を覚ましたところは見ていない。
リュカはふと気になり、隣の部屋の扉の向かった。耳をすませば、店主が宿泊客であるリュカたちのためにと用をしている音すら階下から聞こえるほどに静かだが、扉の向こうからは何一つ音は聞こえない。天空人の生命力は人間とは異なり強力で、特別な食事など取らずとも、部屋に水を置いておくだけで最低限、生命の維持はできるようだと宿の店主は話していた。
リュカたち大勢の客にかまけて、天空人の彼への世話が行き届かなくなっても申し訳ないと、リュカは念の為にと部屋の扉を軽く叩いて、彼の様子を見舞う目的で入室した。万が一、天空人の生命線である水が切れていては困ると、それだけを確かめて部屋を出ようと思いつつ中へと足を踏み入れた。
天空人の男性は変わらず、ベッドに仰向けになって眠っていた。床に一つの水の明かりが灯されているだけで、リュカたちが過ごす部屋よりも数段暗い。背に翼のあるアンクルは仰向けに眠ることを嫌っていたが、天空人の彼はそのような感覚も今はないような状態なのだろう。見た目にも、アンクルのような硬質の羽とは異なり、柔らかな白い羽根に包まれた翼を持つ天空人は、ベッドに仰向けに眠ることも特別辛いものではないのかも知れない。
呼吸は浅いが、彼がこのまま息絶えてしまうようなこともないのだろう。どのようにこの魔界へと侵入したのかは知れないが、彼は彼の正義で、彼の主であるマスタードラゴンのために働くべく、こうして今ここにいる。考えてみれば、彼一人だけがこの魔界に侵入した天空人なのかどうかも分からない。もしかしたら他にも彼のような、天空人の侵入者がいたのかも知れないが、今この場にいないと言うことはそういうことなのだろうと、リュカは分かりもしない彼らの事情を考えるのを止めた。
テーブルの上に置かれる器には、まだ半分ほど水が入っており、ベッドに横たわる天空人には恐らく十分なものと思われた。身を清めに行くためにリュカはビアンカに渡された手拭いの他にも、念の為にとドラゴンの杖を持って来ていた。ジャハンナの町は聖なる水の流れに囲まれた安全の中にあるとは言え、以前この町では現実に悪者に遭遇している。その者は魔物ではなく人間だったが、寧ろ人間の方に疑念を抱いているのが本当のところだ。
町を守る聖なる水はあくまでも、悪しき魔物を退けるためのものであって、人間であれば良きも悪しきも受け入れてしまう。それ故に以前の盗賊はこのジャハンナの町に忍び込むことにも成功してしまったに違いない。悪党というものは、自ら悪い方へ悪い方へと足を踏み入れて行くものだ。どのような経緯でこんな魔界になど来られたのかは不明だが、悪事に手を染めることにも慣れ、感覚も麻痺してしまった男は、いつの間にかこんな魔界にまで行きついてしまったのだ。万が一にも再び、そのような者と出会わないとも限らないと、リュカは護身用にもドラゴンの杖をベルトに挟み、携帯していた。
天空人の男性は負っていた怪我こそ回復呪文で治している状態で、彼が目覚めないのは偏に呪いにかかっているからだ。ティミーが解呪の呪文シャナクを施しても、この天空人が目覚めることはない。彼を解放するためには、呪いの術者そのものを倒さなくてはならないのだろうと、リュカは十年の月日を経てようやく救い出したビアンカのその時の状況を思い出す。彼女もまた強い石の呪いを受け、その術者であるイブールを倒すことによって呪いから解かれた。
体に直接傷を負っているわけではない彼に意味はないと分かりつつも、リュカはベッドに横たわる天空人に回復呪文を施した。リュカ自身、いくらか休んだおかげで魔力も大分回復し、人の手当てができる状態にあった。回復呪文の効果は天空人の男性の身体を包み込むように、広く行き渡る。しかし予想通り、天空人の目を覚まさせるような劇的な効果などは得られない。むしろ回復呪文の行動を切欠に、目を閉じたままの表情は微かに険しくなり、呪いの中にいる彼自身の苦痛を思い出させてしまったかのような印象さえ見せた。彼のその様子を見れば、リュカもまた釣られるように眉をひそめ、かざしていた手を静かに引いた。今の彼には、回復を目的とした呪文でさえも苦痛となるのかも知れないと、リュカは思わず小さな声で詫びた。
天空人の彼を救うためには間違いなく、エビルマウンテンに居する悪を倒さなくてはならないのだと分かる。リュカたちがその敵の根城の目前にまで迫った時から、まだ一日と経っていない。
リュカは広大な森のその奥に潜む、エビルマウンテンの山々を背に建つ、敵の居城の姿を目にした。風の帽子の魔力により森林の上方へと浮上し、その高みから、禍々しい像の立ち並ぶ悪の城の入口を見た。ジャハンナの町を守るような聖なる青白い光を湛えるのではなく、死の呪文を操る青い巨大鳥を思わせる、凍り付くような青の炎を大きな火台に灯らせていた。止む無く撤退していくリュカたちを嘲笑うように、冷たい炎は揺れていた。
凍り付くような火台の炎の中央に一つ、小さな火球とも思える赤い火が、宙でゆらゆらと揺れていた。あの小さな炎を見た瞬間、リュカの身体は勝手に怒りに震えた。見覚えのあるあの火の玉はただ偶然に、あの場所に漂っていたのではない。リュカには以前にも、あの火の玉に見覚えがあった。
ラインハット城より東に位置する古の遺跡。もう幼い頃の記憶で、様々なことが薄れているはずの記憶の中にも、いくつか鮮明にその時を留めるものがリュカの頭には残っている。その一つが、遺跡の前にゆらゆらと揺れていた、あの小さな火の玉だ。決して明るい橙の色味を帯びるような、温かな火ではない。目にする者に恐怖を抱かせ、憎しみの感情を思い出させ、それを決して忘れさせない記憶の刃を突き出すような、攻撃的で挑発的な火の玉だ。
「……ゲマ」
自ずと口から出た小さな呟きは、全く無意識のものだった。微かに目の前の空気を震わせるほどの、小さな声だった。それが切欠になったのかどうかは分からないが、唐突にベッドに横たわる天空人の様子に変化があった。
呻き声を漏らし始めた天空人の男性に気付いたリュカは、慌てて彼の様子を窺い見る。目を覚ましたのだろうかとその表情を間近に見るが、目はきつく閉じられている。眉間には深く皺が寄り、歯を食いしばる口元は痛みに堪えているかのようだ。夢に魘されているにしては、あまりにも不自然に身体を硬直させているようにも見えた。両手を荒っぽく動かす動作は、敵の攻撃から身を守るような動きに見える。閉じられた瞼の裏に、夢ではなく、記憶を見ているのかも知れない。しかしリュカが耳元で呼びかけても、肩に手をかけても、それに反応することはなく、今度は彼は苦し気に身を縮こまらせて、白い翼で身体を覆うようにして、完全に防御態勢を取り始めた。為す術もないリュカはただ視線をふらふらと漂わせつつも、何もせずにはいられないと言うように天空人の白い翼をただ優しく撫でた。
不用意に言葉をかけることも躊躇われ、リュカはただ何度も男性の白い翼を擦り続けた。周りに敵はいないのだと、今の貴方の身は安全だと知らせるために、リュカの手は天空人の男性の翼の上を何度も往復した。その内に、彼の様子は落ち着きを取り戻し、縮こまらせていた身体も弛み、再び規則正しい寝息を立て始めた。
あれほどの変化があれば目覚めても良さそうだと感じるが、それでも目を覚ますことのない天空人の様子に、やはり彼は呪いの中に閉じ込められているのだと思われた。彼を目覚めさせるためには当然のように、敵を倒さなくてはならない。再びエビルマウンテンへと向かわねばならない。その考えが頭を過るだけで今は、リュカの身体にも震えが生まれる。この震えがただ恐怖から生まれるものなのか、敵の城の様子を目に捉えたことによる高揚からなのか、小さな火の玉の中に見る仇敵を追い詰めることができるかも知れないという期待からなのか、どのような感情からくる震えなのかが分からない。
まとまらない頭で考え続けてもまとまらないままで良いことなどないと、リュカは一度じっと天空人の落ち着いた様子を目に確かめると、まだ何も決意を固めないままに部屋を後にした。人間よりも長寿の種族で、生命力もリュカたち人間の想像を遥かに超えている彼がこのままベッドに横たわったまま静かに息絶えることはないだろうと期待し、リュカは頭も心も明瞭にするためにと宿の浴場へふらつく足取りで向かった。



身を清めると言うことは同時に心も清めることなのだと、体中に及んでいた戦いの痕を水で綺麗に落としたリュカは自ずとそう感じた。旅の途中ではビアンカの装備する水の羽衣でも何度か身の汚れを払うことができたが、頭から水を被り、全身に水を浴びること自体が身を清めることなのだと、澱み濁っていた心の在処がいくらか見えてきたような気がした。
しかし清めた身の上に着るのは、旅に汚れ切ったターバンにマントに鎧に服だ。宿の店主に頼んで着替えを用意してもらうこともできただろうが、それは必要ないとリュカは思った。果たして身ぎれいにしたのかどうか疑わしいような格好で、リュカは仲間たちと滞在する部屋へと戻って行った。
扉を開ければ、目を覚まして少し経ったのだろうと思われる子供たちと目が合った。二人はまだ旅から戻って来たばかりの状態で、今はビアンカによって顔や手などをごしごしと拭かれている状況だった。ポピーの方が先に目を覚ましたのだろうか、彼女の旅の衣服の汚れはそのままだが、顔の汚れも綺麗に落とされ、髪に櫛も入れられ、旅に出る前のように整っている。彼女が頭に被っていた風の帽子は今、ベッドに腰かける彼女の膝の上で大人しくしているようだ。
「お父さん、お帰りなさい」
にこりと微笑むポピーを見ていると、本当にあの絶望にも等しい状況から抜け出してきたのだろうかと、現実を疑うほどに穏やかな雰囲気を感じられた。それはもしかしたら部屋が暗く、部屋の様子もはっきりとは見えない状態であるために、リュカの期待がそうと見せているだけなのかも知れない。
「さっぱりしたみたいだけど……汚れた服をそのまま着てきたのね。ごめんなさいね、さっき着替えを渡せば良かったわ。うっかりしちゃって……」
そう言いながらビアンカはまだ眠そうなティミーの腕に水の羽衣の袖を巻きつけて、汚れを拭っている。きれいさっぱりと汚れが落ちるわけではないが、水の羽衣に多分に含まれる水分が大まかにティミーの身体をきれいにしていく。
「いいんだよ。僕だってぼうっとしてた」
そう応えるリュカは旅の最中と変わらない格好で部屋に入り、そのまま椅子に腰かけた。いつもの濃紫色のマントの内側には軽い金属でできた鎧を着こんでいる。マントもターバンもところどころ破れ擦り切れ、襤褸ついているが、それ自体が身を守ってくれている証拠でもある。その上、中には鎧を着こみ、前線で戦うことにも念の為備えている。
ジャハンナの町の宿にいるのだから、鎧を再び着こむ必要はなかった。しかし旅の最中と変わらない装備品を身に着けることで、必要な緊張感が得られるのだと、リュカは敢えて汚れた鎧にマントにターバンを身に纏っていた。全てを綺麗さっぱりと新たにすれば、敵の根城を目にしたあの記憶をも薄れさせそうで、リュカは己の中に残る記憶を引きずり残すためにも旅の装備品に身を固めた。
リュカは椅子の背もたれに跨るようにして座り、背もたれに両腕を乗せ、顎を乗せ、ティミーを見つめた。ティミーもまた、天空の鎧を着こんだ状態のままだった。伝説の勇者にのみ装備することが許される鎧は、ティミーがベッドに横になっている時にも彼の身体を守るように、柔らかに少年の身体を包んでいたのだろう。ティミーが言うには、外見は重厚な作りをしている天空の武器も防具も、ほとんど重さを感じないらしい。何かしらの金属にも見える伝説の武器防具だが、それはあくまでも勇者という存在を守り、悪に立ち向かわせるための道具に過ぎず、勇者の存在と意思あってこそのものなのだろうと思われた。彼が今は休む時だと思えば、鎧もその意思を汲んで状態を自在に変化させているに違いない。
「ティミーもポピーも、食事はこれからかい?」
二人の子供たちは宿の女店主が用意してくれたスープを食べ切らない内に、あまりの疲労のために眠ってしまったのだった。食事の続きは彼らが目を覚ましてからまた用意するからと、店主の女性の厚意に甘え、先に二人を寝かせることにしていた。リュカが浴場で身ぎれいにして部屋に戻って来るのに、そう時間はかかっていない。リュカの言葉が切欠になったのかは分からないが、ティミーの腹が鳴る音が部屋に響き、リュカは思わずふっと笑みを零した。
「お腹が空くのは健康の証よ。よし! じゃあ、ちょっと下に行ってくるわね。スープを温め直して持ってくるから」
ビアンカが明るい声でティミーの頭を軽くポンと一つ叩くと、彼の隣に座っていたベッドから立ち上がり、リュカと入れ替わるように部屋を出ようとした。隣にいた母がいなくなり、たったそれだけで不安を見せるティミーの表情を、リュカは見た。ティミーがビアンカの死を間近に目にして、大きくなったとは言えまだ少年の背にかぶさって来た母の身体の重みを、彼はたった今起こったことのように思い出し、そしてこれからもそれを忘れないだろう。何にも代えがたい恐怖だったに違いない。リュカ自身、父パパスを目の前で喪った時の恐怖を今も鮮明に思い出すことができるほどなのだ。
横を通り過ぎようとするビアンカの手を、リュカが掴んだ。ビアンカは驚いたようにリュカを振り返るが、彼は「先に少し話をしよう」とだけ口にして、彼女に元の場所に戻るよう視線で促す。ビアンカもまた、多くを語らずとも理解できるリュカの意図を汲むように、ティミーとポピーの間に再び腰を下ろした。地上の宿に比べれば非常に固く、寝心地の悪いベッドだが、それでも僅か沈んだ母の座る場所に寄り添うように、ティミーもポピーも座る位置を直した。
部屋の壁に背を丸めて寄りかかり、じっと目を閉じているアンクルだが、明らかに起きて全ての音も声も聞いている。右腕に離すことなく抱えているデーモンスピアは一度戦いの汚れを落とし、水気も綺麗に払われているようだった。リュカが再び敵の根城へ向かうと言えば、アンクルは深く考えることなどせず、恐らくついて来てくれるのだろう。いつでも戦いの場に行く準備は出来ていると、魔物としての矜持を見せるような雰囲気を醸している。
部屋の扉近くに立つピエールもまた、戦いの汚れを落とし、装備品の汚れも払い、綺麗に整えている。彼も、むしろアンクル以上に、最終的にはリュカの意図に反することなく、共に旅立ってくれるに違いない。現に彼は一度、グランバニアでの話し合いの場で、リュカが魔界へ旅立つことを止めようとしたが、結局はこうして共に魔界に地にいる。リュカの意思を何よりも重んじる彼は、リュカが強い意思を見せれば、それに逆らい止めるほどの意思は持てないだろうと、リュカは思っている。
プックルは今、ビアンカと子供たちの足元に身を丸くして寝そべっている。彼はいつでも、大事なものを守るために率先して戦うという形を崩さない。その形は自分も似たところがあると、リュカは思う。守る力に長けているわけではない己にできることは、先に敵を倒してしまうことだと、キラーパンサーの生き方そのものを体現し、皆を守ってくれている。今は町の宿の中で身体全体を休ませる如く、両耳もやや伏せ気味に、聞き耳を立てることなく弛緩しているが、一度外に出ればその耳は常にぴんと立ち、周囲の音を拾うことに余念がない。
「また行かなくちゃならない」
唐突なリュカの言葉だが、話をする内容は分かっていたために、皆の表情が大きく変わることはなかった。暗がりの中だから、細かな表情の変化を見ることができないだけだったのかも知れない。しかしそれでも、誰もがその場から身じろぐこともなく、ただリュカの言葉に耳を傾けていた。
「また誰かが命を落とすかもしれない」
言葉を吐いているリュカ自身も、本当はこのような言葉を口にしたくはないのだと、その声はごく弱いものになってしまう。旅に出る前から、そんなことは分かっていたはずなのだと思っても、本心からそうと理解していたわけではないということは、往々にしてあることだ。実際にそのことが起こった時に初めて理解し、理解した時にはもう手遅れだと、時を戻すことはできないのだとリュカ自身が経験の上で分かっているはずだが、それでも同じことを繰り返す。
同じ事を繰り返さないために今できることは、ここで踏みとどまり、前に進むのを諦めることなのだろう。
「本当なら……僕一人で敵を倒せればと思うよ」
今ならそれを試みることができると、リュカは目を閉じ、脳裏に敵の根城の正面の景色を思い浮かべる。旅装に身を包み、宿の外に出て、魔界の暗い空を矢のように飛び、あの憎しみそのものとも思える小さな赤い火球の前に降り立つ。リュカ一人が行けば恐らく、あの火球はゆらゆらと不気味に揺れつつ、リュカを城の中へと誘うに違いない。どうせ待っているのだ。己の命が尽きない限りは、あの場所へ向かう他道はないと、リュカはそうとしか考えることができない。
「だけど君たちを騙して、置いて、一人で向かうこともできないよね」
リュカは過去に一度、ティミーとポピーに真実を告げずに、魔物の仲間たちと共にセントベレス山頂に建つ大神殿へ向かおうと行動を起こしたことがあった。あの場所が底なしに危険な場所だと分かっていた。あの場所を子供たちに知られることを恐れていた。あの場所は、リュカの隠したい過去の場所だった。
そんなリュカの意図を見破り、むしろ出し抜く形で、ティミーとポピーは身を隠して強引にセントベレスにまでついてきたのだ。もう一度同じように、ビアンカをも含めた家族に、その上魔物の仲間たちにも真実を告げずにここを単身出て行けば、二度と彼らはリュカの言葉に耳を貸さなくなるだろう。決定的な隠し事が明らかになった時、人の信頼は地に落ちる。
不幸にも、己の子供が勇者としての宿命を背負ってしまった。たとえリュカが単身で敵地へと向かっても、彼は必ず後を追いかけて来るに違いない。それは勇者としての使命を全うするためという側面も当然あるだろう。しかしそれ以上に、息子は父親の背を追いかけてくるのだろうと、リュカは思う。かつて自分もそうだったではないかと、幼い頃にラインハットの城下町に置いて行かれた自身の記憶を思い出す。
父パパスは恐らく、リュカを安全なところへ残してきたつもりだった。そしてパパスは単身で、ラインハット東の遺跡へと旅立った。まさかまだ六歳のリュカが、飼い猫のようなプックルを連れて、追いついてくるとは思いも寄らなかっただろう。今のティミーよりもポピーよりも幼かったリュカには尚更、父の背中しか見えていなかった。常に父と共に歩んできたまだ短い人生で、これから先もずっと父と共にあるのだと思い込んでいた子供のリュカが直線的な行動を起こすのは必然だった。
今、リュカの前に立つティミーは年も十歳となり、あの頃のリュカよりは数段身体も大きく逞しい。そしてその背には世界を救うと言われる勇者の肩書を負っている。まだ子供だが、片足を大人の世界に踏み入れているような時期に差し掛かろうとしている。自分が子供だった頃と比べるのは間違っているのだろうが、間違いないことは彼が自身の息子だと言うことだ。その関係性は死んでも変わらない。
「……本当は、たまらなく怖いよ、ボクだって」
震える声でそう告げるティミーの弱音を、リュカは正面で初めて聞いたような気がした。彼は常に前向きで、たとえ内心で怖がっていてもそれを口にすることは避けていた。それというのも、恐怖や弱気な言葉を口にすることで、それが現実のものになるのではないかという怖れの方が大きかったからだろう。その辺りは母ビアンカと、考え方が似ている。負の感情はなるべく表には出さずに、心の中に封じ込めておく。そうすることで息子も妻も、自分自身の心を誤魔化すことに成功するのだ。初めの内は誤魔化しに過ぎない対処でも、時間がそれを真実のものに仕立て上げてくれる。時間が恐怖を乗り越える力を与えてくれることを、聡く強い二人は誰から丁寧に教えられることもなく、その身に得ているのだろう。
「また、誰かが……って思ったら、怖いに決まってるよ」
しかし今のティミーは寧ろ、恐怖を口に出すことで、皆とそれを共有しようとしていた。自分一人ではもう抱えきれないような恐怖が、その身に及んでいたに違いない。彼をこれまでになく素直にさせているのは、ここが地上の明るい世界ではなく、光のない暗黒世界という環境だということもあるのだろう。進み続けてとうとう、ここまで来てしまった。前しか向いていなかった視線を後ろに向けても、果たして地上の世界に戻ることができるのかも分からないのが現実だ。前に進むしかないと思っても、進み続ければ誰かが、自分が、犠牲になるのかも知れない。かと言ってここで踏みとどまることは許されない。それは勇者としての宿命が許さないというよりも、ティミー自身の心が許さない、ということだ。
救いたい祖母がいる敵の地で、勇者という肩書を背負いつつ、家族と仲間と共にこの魔界に留まり、恐怖に足が竦んでたとえこのままジャハンナの町に留まり続けたところで、それは最早生きているとは言えないと、ティミーは思う。それならばいっそのこと、ここで心を閉ざして死んだように生きることも許されるのだろうかと、ティミーは勇者としての自身ではなく、単に自分自身としてのこととして考えようとするが、それはできない。
どうしたって彼の心には家族がいて、仲間がいて、地上にいるグランバニアの人々がいて、世界に生きる多くの人々がいる。出会った人々の顔に浮かぶ笑顔を、ティミーは頭からも心から消し去ることなどできない。考えれば考えるほど眩暈がしてくるようだが、彼の結論として導き出される答えが、変わることはない。
「怖いからさ、早く、また行った方がいい」
考えている内に、本当に怖気づく時が来るかもしれないと思うと、ティミーはその時が来る前に再び敵の地へと向かうのが良いのだと、そう言葉にした。
「お父さん」
静かだがはっきりとした声で、ポピーが呼びかける。ビアンカに調えてもらった金色の髪は部屋のランプの明かりを受けて鈍く光り、両脇に結ぶリボンの形も崩れていない。彼等をジャハンナの町へと運んでくれた風の帽子は、彼女の膝の上で大人しく休んでいるように見えた。
「生きとし生けるものはみんな、いつかは死んじゃうのよね」
その声が妙に落ち着いていて、娘のポピーが発した言葉ではないように聞こえた。まだまだ、というよりも娘をずっと子供だと思っている母ビアンカから見れば、見知らぬ人が発した言葉のようにも思え、それを拒みたい思い故に隣に座る娘の手に己の手を重ねた。
「分かってたはずなんだけど、本当は全然分かってなかったって、分かった」
死の呪文の餌食となった母がいて、ポピーの身を庇ったアンクルも呪文の餌食となり、リュカたちの戦線はそこで完全に途切れた。大事な戦力を失ったことも大いに理由だが、それ以上にポピー自身は気持ちが完全に途切れてしまったのだ。あの時、彼女はただただ呆然として、その場から動けなかった。撤退の糸口はポピーが頭に被っていた帽子にあったというのに、彼女は全くその事に思い及ばなかった。リュカが駆けこんで帽子を掴み、宙へ放り投げなければ、あの地で彼らは全滅していた。
「でも、今度はちゃんと覚悟を決めて行くから」
そう話して目を向けて来るポピーの、その瞳を見つめて、リュカは娘が言葉通りの思いを固めているのだと感じた。部屋をうっすらと照らすランプの明かりを受けても、ポピーの瞳が生き生きと輝くことはない。覚悟を決めると言うことは、何かを諦めると言うことなのだと、彼女の瞳にそう思わせられる。
この先再びもし、誰かが命を落とすようなことがあっても、二度と動じたり取り乱したりはしないと、ポピーはその覚悟をリュカに示していた。とても十歳の少女が示すような意志ではないだろうと、リュカは半ば睨むように彼女の目を見返す。それでもまるで動じないポピーに、やはり双子に生まれた彼女の中にも勇者の血は確かに受け継がれているのだろうと、自ずと思ってしまう。もしかしたら彼女は勇者として生まれず、勇者の傍らに生まれたからこそ、先に覚悟を決めることができるのかも知れない。
「リュカ」
ポピーの手に手を乗せつつ、ビアンカはベッドに腰かけながら夫の名を呼ぶ。彼ら一行の中での指揮者はあくまでもリュカだが、そのリュカに唯一対等に言葉を交わすことができるのは、妻であるビアンカしかいない。
本当なら口にしたい言葉があるのだろうが、それを今彼女は抑えている。仲間たちの行動の方向性を決めてしまうような一言になってしまうかもしれないと、ビアンカは彼女らしからぬ弱気を見せている。それというのも彼女がこの町で蘇生呪文によってこの世に蘇ったばかりだからだ。今の自分には皆の行動を積極的に促すような言葉をかけることなどできないと、ビアンカは確かに自信を失っているように見えた。
「この町に残るというのも、アリだよ」
リュカの言葉を想定していた者はおらず、プックル以外の皆が一様に顔を上げた。プックルは相変わらず静かな寝息を立てて、身体を丸めて眠り込んでいる。
「僕一人でもいいんだ、行くのは」
「何を言ってるのよ、リュカ。そんなの無茶に決まってるでしょ」
「いや……大丈夫。あの景色をしっかり覚えているから。今度はあっと言う間に、あの山々の前に行ける」
リュカは目を閉じ、瞼の裏に残っている景色を思い出す。ルーラという移動呪文の使える者の特性だろうか、記憶に留めた景色はまるで鮮明に描かれた一枚の絵のように、瞼の裏に映る。閉じる瞼のその場所に、人を嘲笑うような赤い火の玉がゆらゆらと揺れている。もしかしたらそれは今の今、リュカの瞼の裏に表れて誘い込んでいるのではないかと思うほどに、生きているような動きを見せている。
「だからもう、僕一人でも構わないんだ」
到底現実的ではないようなことを口にしてしまうのは、リュカこそが最も覚悟が決まらないからだった。たとえ敵地の目の前にまでルーラの力で飛んで着けたとしても、その直後から敵の群れに囲まれるかも知れない。リュカが呪文で降り立つ場所はまだ魔界の森の端っこで、あの場所には巨人ギガンテスの群れが棲息していた。
一人で向かう覚悟はできるが、皆と共に行く覚悟ができない。自分一人だけの命なら背負うことができるが、仲間たちの命も背負う重みに耐えられない。これまで当然のように思っていた、大事な仲間たちと危険な旅をすることというものが、ここまで来て怖気づき、それが当然のこととは思えなくなった。
一人で行動することは肩の荷も軽くなり、それだけに楽を感じるのかも知れない。そう考え始めると、その考えの中へと没入していくことに、今のリュカは気づかない。
「それが許されるとお思いですか、リュカ殿」
誰一人として望まない決意を固めようとしているリュカに声をかけたのはピエールだ。ビアンカはリュカの気持ちに寄り添い過ぎて、言葉を口にできなかった。ティミーとポピーは、父の考えに思いが付いて行かず、呆然としていた。アンクルは、リュカがそうと決意を固めるのなら強く拒む言葉を持たなかった。今も丸くなって眠っているプックルはただリュカを信じ、自分が置いて行かれることなど微塵も考えていないに違いない。
「もう一度身体を清めてきた方が良いかも知れません」
「……どういう意味だよ、ピエール」
「冷静になってくださいと申し上げております」
「僕は冷静でいるつもりなんだけどな」
「たった一人で敵地に向かうなど、正気の沙汰とは思えませんね」
「確かにね。正気の沙汰とは思えないかも知れないね。でもそうすることだって選択肢に含まれる……」
「含まれるわけがないでしょう。端からそんな選択肢など除外です。もしそのような選択があるとしたら、それはただの貴方の我儘に過ぎない」
厳しい物言いをするピエールだが、その声は語尾が震えていた。はっきりとは露にしないピエールのその感情に触れ、リュカは思わず顔を歪めた。ピエールがぶつけているのは、沸々と込み上げる怒りだ。その感情に触れたと思った瞬間に、リュカはピエールの怒りの理由に気付く。
かつてラインハット近くで遭遇し、それ以来長らくリュカの傍に付き、共に外の世界を旅してきた仲間がピエールだ。プックルが共に前を向いて戦う戦友だとすれば、ピエールは背を向け合い、互いに顔を見ないままに各々敵と戦うような戦友だ。リュカも彼を深く信頼しているからこそ、この暗黒世界にまで連れて来た。
ピエールの怒りは、それをここにきて裏切るのかという絶望にも近い怒りだ。リュカに裏切る意図はなくとも、ここで一人で先に進むと口にすること自体が、常に内に秘めているピエールの意志への裏切りとなる。あらゆる意味で、ピエールは遥か前から覚悟が出来ているのだろう。彼の覚悟の域に到底自身は達していないのだろうと、リュカはピエールを見ながらそうと感じる。
「……少々言い過ぎました。私こそ冷静ではないですね」
手入れの済んだ剣を装備し、ピエールは皆に背を向け、部屋の扉へと向かう。
「少し、外で頭を冷やしてくることにします」
「ピエール、僕も付き合うよ」
一人離れようとするピエールを、リュカは放っておくことはできなかった。寧ろ、今のピエールと二人で話がしたいと思った。今の彼ならば恐らく、肩を並べて話をすることができると感じた。
「こういう時は外の空気を吸うのがいいからね」
「いえ、しかし……」
「それにピエールとゆっくり話すこともあんまりなかったしさ。良い機会と思って。ね」
「お、お父さん!」
「私たちも一緒に……」
一人で行くのだと口にしたばかりの父に、本当にこの場に置いて行かれるのではないかと不安を見せるティミーとポピーに、リュカは「大丈夫」と笑って返す。
「君たちは先に食事だ。お腹が減ってるだろう」
「ティミーもポピーも大丈夫よ。ピエールがついてるわ」
「私が責任を持ってお父上をここへお連れします。ご安心ください、王子、王女」
「少し話をしたらすぐに戻ってくるよ」
父にはピエールが付いており、自身らの傍らには母がいるという安心感が勝ったようで、ティミーとポピーはそれ以上踏み込むこともなく、ただじっくりとリュカの目を見つめて頷いた。多少の不安の心持ちを見せつつも、「行ってらっしゃい」と手を振る二人に、リュカも手を振り返した。
「あんまり待たせるなよ」
部屋の壁に背を持たれながら話を聞いていたアンクルが、扉を出ようとするリュカに一言声をかけた。アンクルの声に感じる不安は、リュカとピエールだけでここを発ってしまう可能性を見ているからかも知れない。しかし万が一、そのような行動を取られてもアンクルは恐らくそれをも受け入れる覚悟を決めている。
「うん、すぐに戻るよ」
リュカが先に部屋を出て、ピエールが静かに扉を閉めると、その音に反応するようにプックルが両耳をぴくりと動かした。しかし目を開けることもなく、変わらず床に丸くなったまま、赤い尾の先で小さく床を一つ叩いただけだった。

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