困難は困難のまま
エビルマウンテン近くでの危機から逃げ、このジャハンナへと飛んで戻って来た時より、町の様子がいくらか明るくなっていることに気付いた。空からの陽光のないこの魔界の町では、町の中に置かれる聖なる水が微力ながらもその役割を果たしている。一日に一度は町の人の手によって汲み替えられるその水が、地上の陽光には遠く及ばないものの僅かに光を放ち、人々が暮らす町の中を明るく照らしてくれる。
ジャハンナの町の人は、この町を囲む水はマーサが地上の世界から持ち込んだのだと言っていた。一体どのようにしてそんなことができたのかはリュカたちには分からないが、地上の世界で日の光を浴びているであろうこの水は、地上の光をも内包して連れてきているのではないかと、リュカはジャハンナの町を照らす明かりの清らかさを見つめながら、そう感じた。
地上の世界で言えばまだ夜明けほどの時間帯なのだろう。町はまだ目覚めているとは言えず、静けさに包まれている。地上の世界と違うと感じるのは、朝という時間に鳥の囀りが聞こえないことだ。町の奥に立つ巨大水車が回る音は常に響いているものの、鳥が鳴く声も聞こえず、草むらから虫の声も聞こえない。
人間になりたいと望んだ魔物を人間の姿に変え、人間らしい生活をしてもらうためにジャハンナの町の状況を調えたとしても、地上世界に自然と生まれた人間たちが自然と作り出した集落や村や町などと根本的に異なるのはどうしようもない。母マーサも当然、そう感じているに違いない。しかしそれでも純粋に人間になりたいと願う魔物らを放っておくこともできず、その願いを叶える力を自身が持っているのであれば惜しみなく使うことを彼女は選択した。
これが仮初の世界だということは、マーサも理解しているのだろう。母マーサの願いはその先に広がっている。その為に今も尚、あのエビルマウンテンの奥で一人で、大魔王となったミルドラースと対峙しているのだ。そんな母の思いを直接確かめなければならないという思いはやはり、リュカの胸の内に沸々と生きている。
「まだ町の皆さんはお休みのようですが……朝早くから仕事にとりかかっている方もいらっしゃるようですね」
宿の裏口から出たリュカとピエールは、常に回り続ける巨大水車を遠くに見ながら、町の中央に向かって何となく歩いていた。特に向かう場所はない。ただ外に出て、外の空気を吸いながら、この町の中で言葉を交わせればよいと思っていただけだ。
リュカも大分暗闇の世界に慣れ、暗い中で目が利くようになってきたが、やはり魔物であるピエールには叶わない。彼には今、リュカには暗い景色にしか見えない遠く、町の外れにある畑に動く町の者の影が見えているようだった。畑に仕事に出ているものが人間の姿をしているのか、魔物の姿をしているのかも、ピエールには見えているに違いない。
「本当に……人間に心酔しているのでしょうね」
「……どうしてだろうね」
ピエールの理解を示すような言葉に返すリュカの口調には、隠し切れない棘がある。リュカ自身、特別反発の意識を持って言葉を返しているわけではない。ただの感想だ。
ジャハンナの町に住む、魔物から人間へと姿を変えた者たちは皆が皆、人間という生き物に対して深い憧れと希望を抱いているのは間違いない。そのような想いがなければ、マーサの力を介して人間への変貌を遂げることなどできなかっただろう。そして人間の姿を手に入れた元は魔物だった者たちは、善良な人間であろうと常に心掛けている。それが彼等の規則正しい生活状況に表れている。人間の生態や暮らしぶりを彼らに教えたのも、マーサなのだろう。
良い人間であろうとする元魔物たちが暮らすこの町で、唯一と言っても間違いではない悪い人間は、元から人間だった者だった。巨大水車の裏で、ジャハンナの町に忍び込んだ人間の盗賊と遭遇したリュカは、その事実だけで本能的に憤りを感じた。盗賊の男の存在そのものが、裏切りではないかと頭に血が上った。
「この町の人々の気持ちは、何となく私にも分かります」
「ピエールも人間になりたいの?」
「正直なところ、そう考える時もあります」
ピエールの言葉は、彼の心を正しく言い表していた。本心から深く、人間になりたいと願うことはない。それというのも、リュカという人間がピエールをピエールとして既に認めているからに他ならない。リュカにとってピエールは、スライムナイトという魔物であり、それでいて最も信頼のおける仲間だ。いつでも忠義を尽くそうとリュカに従っているようでも、実は彼自身で常に冷静に物事を見つめ、判断し、時にはリュカの耳が痛くなるようなことも正直に言ってくる。
たとえば、妻のビアンカがリュカを注意するのと、ピエールがリュカに忠告をしてくるのでは、リュカ自身の受け取り方はまるで異なる。時と場合によるが、ビアンカの言葉なら受け取れる時もあれば、ピエールの言葉だからこそ響く時もある。逆にビアンカの声が近過ぎて受け入れられない時もあれば、ピエールの声がまるで他人事のように思えて跳ね返してしまいたくなる時もある。ただいずれもリュカにとっては必要な声であることには変わりない。
「私がもし人間の姿をしていれば、貴方と話す時の位置もきっと違うだろうと、そう考えることもあります」
たとえリュカが魔物であるピエールや他の仲間たちを心から受け入れることができたとしても、それはあくまでもリュカ一人の話に留まってしまう。世界は人間と魔物を分けて考える環境だ。たった一人のピエールが、たった一人のリュカが、その世界に抗ったところで、世界ががらりと変わるわけはない。それならばその世界の中で心地よく生きるために、己の姿を変えてしまいたいと考えるピエールの思考は何も間違いではない。
リュカは常に心の中で、人間も魔物も関係なく、共に生きられる世界があればどれほど楽しいだろうと思っている節がある。それは母マーサも望んでいる世界だろう。もしそのような世界を実現出来たら、今よりもより良い世界が出来上がるのではないかという期待がある。しかしもしそれを無理に作り上げようとすれば、それはきっと上手く行かない。
「そう考えることもある、というだけです。決してそうありたいと思うわけではありません」
「なるほどね、うん。分かるよ、なんとなく」
「長らくこの姿で貴方と共に行動していますからね。今更、私が人間に姿を変えたところで、あまり良いことがあるようにも思えません」
「どんな姿になってもピエールはピエールだろうけど、君の姿はもう見慣れちゃったし、僕としてはこのままでいてくれた方がいいかなぁ」
「貴方にそう言っていただけるのはとても嬉しいことです」
「僕だけじゃなくて、きっとみんなそう思ってるよ」
リュカもビアンカも、グランバニアの者たちも皆、スライムナイトのピエールの存在に慣れ、魔物としての姿をしている彼に信頼を寄せている。ティミーやポピーに至っては、生まれた時からグランバニアに住む魔物に囲まれて暮らしているのだ。魔物は全て悪という思想に染まっていない人間はグランバニアだけではなく、他の場所にもいるに違いない。ただその数が圧倒的に少ないために、地上世界では魔物は悪という常識が成り立っている。
一体いつから人間対魔物という、ひっくり返せないような構図が成り立っているのかと思う。初めの初めの部分が明らかになれば、この常識でさえ覆すことができるのではと、リュカはピエールを見ながらそう思うが、たとえ原始の部分が今更判明したとしても、既に成り立っている常識を覆すには長い長い年月が必要になるのだろう。到底、リュカという人間が生きている間に成し遂げられるような物事ではない。それでも、この凝り固まってしまった常識の枠に小さな穴でも開けられれば、その綻びを徐々に広げていくことはできるだろう。その為にも、リュカや近しい人々が抱いている魔物に対する親しみの感情を、次へ次へとつないで行かなければならない。
「母さんは……そうじゃなかったのかな」
ぽつりと零したリュカの言葉に反応するように顔を向けるものの、ピエールは聞き返すこともなく、ただ次の主の言葉を待つ。このような静かな反応がピエールの心地よいところだと、リュカは気づかないままに言葉を続ける。
「魔物が人間になりたいからって、変える力を持っているからって、人間に変えてしまうのって……僕だったらそうしないような気がするんだよね」
父パパスの遺志を継ぎ、リュカが母マーサを救い出したいと強く思っているのは本心だ。何が何でも母を救い出し、できることなら再び魔界の門を固く閉ざしてしまうのが、地上世界の安寧を守るために必要なことに違いない。しかしマーサという人のことを考えると、リュカの頭には弱いながらも疑念が浮かんでしまう。
「何て言うか……そんなことしてもいいのかなって。だって、その人の生き方をまるごと変えちゃうんだよ。そんなことやっていいのって、この世で神様だけのような気がする」
「おや、それはマスタードラゴンならばそのようなことをしても許されると言うことでしょうか?」
「ううん、それは僕が許さない」
「ははっ、相変わらずマスタードラゴンへの当たりは強いですね」
「あの竜神は自分から神様になったって言うよりも、神様にさせられちゃったんじゃないかな。だって実際に、人間の姿になってたわけだし。神様でいるっていうのも、なかなか辛いものがあるんだと思うよ」
「お優しいですね」
「優しくはないよ。ただそう思うだけだよ」
ピエールの相槌がちょうど良く、リュカは自分で話そうとしていないことまで引き出され、言葉にしていく。
「もし自分に母さんみたいな力があったとして、もし“人間になりたい”って魔物を人間の姿に変えちゃったら、僕なら勘違いするかも」
「神にでもなったような気になってしまう、というところですね」
「だから、僕には母さんみたいな力は使えないな、きっと」
リュカとピエールが並んでゆっくりと歩いている内にも、ジャハンナの町の中には早朝を示すような明かりが徐々に広がって行く。水を使う自然でありながらも、魔力に頼る人工的な明かりだ。絶えず回る巨大水車が生み出す運動で、小さな村にも等しいジャハンナの明かりは賄われている。
暗い世界に、人間たちが暮らす町があるという不思議を、目に見える景色に改めて感じる。これは仮の姿に過ぎないという雰囲気が漂っている。人間ならば、陽の当たる地上の世界に生きるべきだという思いが、リュカの常識の中に成り立っている。しかしそれも、リュカという一人の短い人生を送って来た人間の中に育った常識に過ぎない。人一人が抱える常識とは、広大な世界に比べ、人間一人では到底経験することのできない長い長い歴史において、どれほどに小さなことなのかを考えれば、己の常識に囚われることが危険なのだと気づかされる。
一人で考え込んでいても、決して物事の善悪など分かりはしない。だからこうして今も信頼のおけるピエールと何気ない話をしながら歩いているのだ。人間はどうしても、他と関わり合いを持たなければそこで停滞してしまう。
「でも母さんの不思議な力も万能じゃないんだよね。ネロさんが魔物に戻ったみたいにさ」
マーサの能力の由来に関しては考えたところで分かりはしないが、彼女の手によって人間に生まれ変わった者でも、再び魔物の姿に戻ってしまうものもいる。その事実に触れると、人間と魔物の境界線というのは非常に曖昧なものにも思えてくる。
「魔物には様々な種がありますが、その中には魔物の姿になり果ててしまう人間もいます」
ピエールが話すのは、これまでに目にしてきた人型をした魔物のことを指していた。あのエビルマウンテンの奥に潜む大魔王ミルドラースもまた、元は人間だったと聞いている。そして死んでもリュカの記憶から決して消えることはないであろうあのゲマもまた、元は人間だったに違いない。この世界の混沌をもたらそうとしている根源が純粋な魔物ではなく、元は人間だったと言うことに思考が落ちると、リュカの胸にはある種の諦念に近い感情が生まれる。
「マーサ殿がされているのはそれとは対になるようなことですね。魔物を人間へと変えている」
「この町の人たちはみんな人間に憧れていたんだろう? 人間が好きで、人間になりたくて、それに応えて母さんがみんなを人間の姿に変えた」
「それというのも恐らくマーサ殿ご自身が、人間を愛しておられるからではないでしょうか」
ピエールの話す口調がまるで、マーサが人間ではないかのような雰囲気で、リュカは思わずピエールの兜の奥の目をじっと見つめた。リュカの思いには、マーサは己の母という意味だけがあり、それ以上でもそれ以下でもないのが本当のところだ。しかしあくまでも他人であるピエールから見れば、話に聞くマーサという人間は、果たして人間なのだろうかと疑問に思えるほどに人間離れしている存在のようだった。
「人間が好きな魔物に、人間のことを深く知ってほしいと、そうお考えになっておられるような気がするのです」
ピエールがそのように話すことができるのは、彼自身が同じような思いを抱いているからなのだろうとリュカは感じた。
彼と初めて対峙した時は当然のように敵対し、彼は他の魔物と同様に魔物の常識の中に正しく生き、リュカに剣を向けて来た。敵対する人と魔物の関係に純粋に疑問を抱いていたのはリュカだ。リュカは敵が魔物の姿をした魔物であろうが何だろうが、話すことのできる相手ならば先ずは話をしてみようと試みた。それはリュカが深く考えて行っていたことではない。ただ話をしてみたかったからだった。結局、リュカの質問攻めに遭うような攻撃に、魔物でありながらも元来生真面目なピエールは応えきることもできずに、それ以後は単純に成り行きでこれまで共にあるというような状態だ。
ふと過去の経緯を思い出して、リュカは思わず笑ってしまった。あの時ピエールは、リュカのことなど放ってどこかへふらりと去ることもできたはずだった。しかしそれをしなかったのは、彼の真面目な性格もあっただろうが、彼自身が人間という敵に、敵としての興味ではなく、その存在そのものに興味を持ったからなのだろう。魔物から見れば、リュカという人間はまるで人間らしからぬ人間のはずだ。そんな異質に対して興味が生じたのには、ピエールにある種の魔物としての隙があったからに他ならない。
そもそも彼は己の魔物としての生に対して疑問を抱いていたのかも知れない。己が魔物として生まれ、魔物としての生き方に邁進するのだという確固たる意志は弱かったのかも知れない。そのような魔物としての隙に、リュカという異質な人間が偶然にも入り込んでしまったのだ。
「僕はまだ母さんに出会ってないけど……ピエールの言葉を聞いたら、母さん、喜びそうな気がするな」
そう言って微笑むリュカの顔つきが母マーサにそっくりであることを知るのは、今の旅の中まではゴレムスしかいない。母子に共通した顔つきになど気づかないピエールは、ただいつものリュカの柔和な笑みを見て、兜の奥で同じように笑んでいた。ピエールの隠し切れない表情は緑スライムに現れ、緑スライムのにこやかな口角が更に僅かに上がるのをリュカは目にしていた。
視界は徐々に明るくなってきている。決して町が朝日に照らされることはないが、町のあちこちに置かれる聖なる水が光を帯び、薄く明るく町を照らし出していた。地上で見ればそれは夜に見る幻想的な光の空間とでも表現できるような景色だ。その明かりの中で、ジャハンナの町の住人は目覚め、一日の始まりを迎えている。
遠くに見えていた町の外れにある畑に、リュカとピエールは徐々に近づいていた。宿を出て、町の中央へ足を向けるには気が進まず、二人は特別考えもないままに小さな畑がいくつか広がる町はずれへと足を運んでいた。畑に見える影は、人の姿をしたものよりも、魔物の姿をした影が多く見える。その畑の周りを硬い動きで歩く者がいる。手にしているのは鋤や鍬ではなく、剣と弓だ。
「ロビンですね」
リュカがじっと見つめる先に見えた仲間の名を、ピエールが口にした。まだ離れた場所に見えるロビンはリュカたちが近づいてくることには気づかないようで、ただ決められた行動を取るのだと言うように、規則正しく畑の周りを歩いている。彼の歩くすぐ近くには、人影も見えた。杖をつき、僅かに丸まった背を見れば、それが町に暮らす魔物たちの面倒を見るゆきのふだということが分かった。
まだ距離はある中で、ロビンの赤い一つ目がこちらに向くのをリュカもピエールも目にした。手にしているものが鍬や鋤ではないところを見れば、ロビンは農作業に従事している立場ではないのだろう。遠くで彼が、ぎこちない動きで両手を上げて僅かに身を引いたのが分かった。その動きを見て、以前ティミーがロビンに教えた“人間の驚きの仕草”を真似したのだろうと、機械兵であるロビンの心が分かったような気がしてリュカは思わず破顔した。
「おはようございます、ゆきのふさん」
「こんな早くから散歩なんぞ、思いの外元気そうじゃな」
ロビンを連れて歩いてきたゆきのふもまた、老人の姿をしている割には歩き方は力強く、手にしている杖など本当は必要ないのではないかと思わせられる。実際のところ、必要ないのだろうが、彼は杖を人間の老人であるために必要な道具の一つとでも思っているのかも知れない。
「でももう畑には人も魔物も出ているじゃないですか」
「ああ……少し前から水の巡りがちと悪くてのう」
ジャハンナの町の畑に植わる作物は、地上世界のものとは大きく異なるものだ。この世界には太陽の光がない。本来、植物が必要とする光の力を、ジャハンナでは巨大水車が生み出す聖なる水の力によって得ている。町の命全てを抱えていると言っても過言ではない巨大水車の力が、いくらか弱まってきているのだとゆきのふは力ない表情で話す。
「土が固くなってきておるもんでな、皆で丁寧に土をほぐしておるんじゃよ」
この畑がジャハンナの町の食糧庫のようなものだ。ここで作物が一切育たなくなってしまえば、町の人々は直接的に飢えてしまう。
「何故水車の力が弱まっているのでしょうか」
そう言いながらピエールは遠くに見える巨大水車の動きを見つめる。相変わらず水車は水の音を立てて回り続けて入るものの、その回転は以前に見たよりも遅いように感じられた。
「母さんの……マーサの力と関係しているんですね?」
ピエールの言葉を受けても俯いたまま応えないゆきのふに、リュカは思ったことをそのまま口にした。ジャハンナの町を支える聖なる水を、地上世界から暗黒世界へと持ち込んだのはマーサだ。一体どのような方法でそのような大事を成し遂げたのかはリュカには知る由もないが、母マーサには人間にも魔物にも通じないような不思議な力があることは間違いない。
ゆきのふはマーサの子であるリュカには伝え辛いという優しさ故に、はっきりと自身から伝えることができなかっただけだった。しかしリュカ自身からそうと聞かれれば、嘘を吐くこともできない老人は素直に一つ小さく頷くだけだ。
「恐らくじゃがな。はっきりとしたことは分からん」
「前に僕たちがこの町にいた時には、そんなことはなかったんですか」
「水車小屋にいるネロがな」
ゆきのふの言うネロは、リュカたちが辛くもジャハンナの町に飛んで戻った際に手を貸してくれたアンクルホーンだ。彼はどうやら、調子の悪い水車小屋の様子を見ていた際に、空を凄まじい勢いで飛んで来るリュカたちを空に見て、慌てて外へと飛び出したらしい。動きの弱まる巨大水車に感じる不吉に、空を飛んで来る得体の知れない群れがてっきり敵襲かと見えたらしく、非力な人間たちが住む町を守らなくてはと逸散に空へと飛び上がり、リュカたちを見つけたのだ。
「じゃあ僕たちが戻る少し前から……」
「まあ、安心せい。少ししたら水車の調子も戻るじゃろうて」
そう言いながらリュカの肩に優しく手を置くゆきのふだが、その言葉や手の温度が、かえってリュカを不安にさせた。巨大水車に巡る聖なる水が守るのは、ジャハンナの町の外れにある畑だけではない。この町全てを外敵から守るために、澱ませることなく絶えず流れを作ることで、聖なる水は聖なる水で在り続けることができる。もし水車がぴたりと止まってしまえば、水は澱み、汚れ、聖なる力はみるみる失われてしまうだろう。そうなれば、もはやこの町は安全とは言えない。
「お主が生きている限り、マーサ様は大丈夫じゃ」
ゆきのふの言葉は決して確定した未来というわけではない。未来というのはあやふやで、いつ、どのような事情でひっくり返されるかは分かったものではない。しかし彼の言うことには本能的に信頼を寄せることもできた。
その時、まだ少し離れたところに見えている畑の辺りで、農作業を始めている人々の動きに乱れがあった。町の周囲を流れる水を引きやすいようにと、畑は町はずれの位置に作られている。
本来ならば聖なる水の力によって守られているその流れの向こう側、岩山の影に、外敵となる魔物の影が見えた。畑で農作業に勤しんでいた、町の魔物ではない。明らかにこのジャハンナの町に侵入し、町の住人を襲うことを目的とした、魔物の姿だ。
リュカとピエールは同時に駆け出した。まだ朝早い時間帯で、町の人々の多くは今も眠りに就いている。ここで騒ぎを起こせば町の住人は不安や驚きと共に目覚めるだろう。岩山に見える影を見るに、敵はこの町の様子を探りに来ただけと言った様子だ。数も多くはない。追い払ってしまえばこの場は凌げるだろうと、リュカもピエールも呪文の構えを取りつつ、敵へと近づいて行く。
そんな彼らの後ろから、凄まじい勢いで駆ける者があった。ロビンだ。四本の足を躍動させ、地面を跳ねる兎のような勢いで駆けて行く。あっという間にリュカとピエールの間を抜け、異変の見えた畑へと向かう。その途中にも彼は、左腕にボウガンを構え、狙いを定めていた。
町に侵入してきた魔物は背に翼を持つ者で、自身でもまさかこう容易くジャハンナの町に入り込めるとは思っていなかったというような驚きをその表情に示していた。しかし畑で農作業をしていた人間たちの姿を見ると、途端に本能的に、その目は怪しく光る。ジャハンナの町の畑に出ているのは、人間だけではない。人間になるためにと日々労働に身をやつしている魔物たちは、当然のように人間たちを守るためにと彼らを匿った。
リュカやピエールが呪文を放つまでもなかった。町の中へと飛び込もうとしていた魔物に、的確にロビンの放った矢が刺さった。地面を跳ねながら放ったにも関わらず、ロビンの放った矢は魔物の首にあった。キラーマシンの狙いの正確さを改めて感じ、リュカは思わず身震いするほどだった。
矢の勢いを受け、魔物はそのまま岩陰の向こう側へと落ちたようだった。苦し気な低い呻き声と共に、声は遠ざかる。あのまま命が尽きるかどうかは分からないが、今のところの窮地は免れたようだった。
ロビンは畑に入ることなく、その周りを進んでいた。どうやら畑という場所を荒してはいけないと教えられているようだ。しばらく畑の端に立ち、頭部を回転させ、赤い一つ目をぐるりと向けて周囲を確かめていたが、町を脅かす存在は彼のレーダーには引っかからなかったらしい。
「ゆきのふ殿、ロビンはああして町を守るために、町の中を回っているのですね」
「ああ、そうじゃ。しかしキラーマシンがああなるとはのう……。機械にも心があるというのかのう」
ゆきのふがそう言うのも無理はなかった。彼はキラーマシンであるロビンをリュカから受け入れたが、特別キラーマシンの構造に手をつけたわけでもなく、ただこの町のことを一つ一つ教えただけなのだ。ロビンの機械部分を一つも変えることなく、ロビンは己でゆきのふの言わんとしていることを学び、身に着け、実践している。それも、機械的に実践しているに留まらず、恐らくロビンはこの町の住人を守りたいという思いまで抱いているようにも見えるのだ。
「町の中にまで魔物が侵入したことは?」
「……ないことはない。しかしあれほど外からすんなりとということは、初めてじゃ」
それだけ町を守る聖なる水の力が弱まっていると言うことだと、ゆきのふの言葉に分かり、リュカは思わず眉をしかめて魔物の消えた岩山を見つめた。ロビンが警戒の体勢を解かず、頭部をぐるりと回しながらも、リュカのところへとゆっくり戻って来た。その行動自体が、ロビンに心があるのではないかと疑うところだ。今のこの状況で、ロビンがリュカのところへと戻ってくる理由はない。真っ直ぐに戻ってくるロビンの姿を見ると、彼がリュカに会えて喜んでいるのではないかと考えるのが自然だと、ゆきのふはそのような時ではないと思いつつもつい口元に笑みを浮かべてしまった。
「ロビン、ありがとう。これからも頼むね」
そう言いながらリュカがロビンの肩に手を置くと、ロビンは赤い一つ目を瞬かせ、「キューン」と小さな機械音で返事をした。
「マーサ様の御身も心配じゃが、わしはお主も心配じゃ」
ゆきのふの言葉が本心から出ていると言うことは、彼の真剣な口調から分かった。ジャハンナの町を旅立ち、戻って来たリュカは宿の浴場で一度身ぎれいにしたとは言え、旅にくたびれた旅装を再び身に纏っている。その汚れ具合や破れ具合に、リュカたちが過酷な旅に出ていたことがゆきのふには分かる。ジャハンナの町の住人として、マーサを救い出したい思いは当然強いが、それと引き換えにリュカという人間を危険な目に遭わせるわけにも行かない。
「この町に留まるというわけには……いかんかのう」
「……あはは、そうですね」
ジャハンナの町の住人として、マーサの手によって人間の姿を手に入れた魔物として、ゆきのふが言えることはそれだけだった。己の手でリュカの歩みを強く止めることはできないと分かっていた。
「そう言うわけにはいかないですね」
宿を出る前にリュカ自身が仲間たちに提案したジャハンナの町に留まるという未来を、リュカ自身ははっきりと否定した。皆の前で口にし、今は隣にいるピエールに厳しく拒まれた、リュカ一人で敵地へと向かうという手段も、決して現実的ではないことをリュカ自身重々理解している。
ジャハンナの町がたった今、外敵となる魔物の脅威にさらされた。町の守りの力が弱くなっていることは確かだ。母マーサを早く救わなくてはならない。今すぐにでも再び敵地へと行かねばならない。しかし一人で向かうことなどできない。このままピエールと二人で、とも頭を過るが、冷静な彼に止められるに違いない。家族も仲間も道連れにすることが避けようもない現実だと分かっていても、自身だけでは心に迷いが生じる。中途半端な決意のままでは、敵の根城近くまで飛んで行こうとしているルーラの呪文の精度にも影響が出るだろう。
そろそろ宿に戻るべきだというピエールの言葉に頷き、リュカはロビンとゆきのふに別れを告げて宿への道を引き返し始めた。ちょっとした散歩だと言って宿を出てから、それなりの時間が経っている。町の中を照らす青白い光は、ジャハンナの町の中を広く見渡せるほどにその明るさを増してきていた。再び畑で農作業に勤しむ人間と魔物たちの生活は、このジャハンナの町を囲む聖なる水の力に頼り切っている。
「私たちが地上の世界を離れてから、どれほどの時が経っているのでしょうね」
戻る宿はもう近くに見えている状況で、ピエールがふとそう口にした。常に暗闇に包まれたこの魔界では、一日という時を身体に感じることがない。旅の最中、まだ動けると思えば歩み続け、休息が必要だと感じればその場で皆で休んだ。日の出日の入りに合わせる一日とは異なり、仲間たちの疲労度によって食べ物を口にしたり、休まらないながらも束の間の休息を取り、過ごしてきた。
「ひと月は経っていないと思うんだけどね。どうなんだろう」
そう応えながら、リュカは地上世界の景色を思い出す。ジャハンナの町で、容易に魔物の侵入を許してしまうような事態がつい先ほど起こってしまった。マーサの力が弱まっているという証左であり、それは魔界の門を閉ざす力を維持することにも同様の影響を与えることは想像できた。地上世界と魔界との境が弱く薄くなれば、魔界から地上世界への影響も出てきてしまうのだろう。
現実に過去、地上世界にも魔物の大きな群れが現れ、グランバニアにラインハット、テルパドールという多くの人間が生きている三国に攻め込んだことがあった。当時は各国、国を亡ぼすような難からは逃れ、あの襲撃を機にどの国も魔物に対する守りを以前よりも固くしている。とは言え、もし大魔王ミルドラースが今、躊躇なく地上への攻撃を始めると決めてしまえば、以前のように人間たちが持ちこたえられるかどうかは分からない。
今更考えることでもないのだ。既にそんなことは分かっていた。未来には様々な可能性があり、最悪な未来の可能性に進まないために、リュカたちはこうして魔界という未知の世界へと足を踏み入れた。リュカの個人的な目的はあくまでも母マーサを救い出すことだが、それは同時に、マーサの願いごと守り抜くと言うことだ。
魔界へと連れ去られ、およそ三十年に渡り、たった一人で大魔王ミルドラースと対峙してきた母の願いは、息子リュカを守ること。しかしそれもまた、ただリュカ一人の命を守れれば良いという単純なものではない。リュカを守ると言うことは、リュカの家族も仲間も、リュカに関係するすべてのものを守ると言うことであり、それは結局地上世界全てを守らなければならないと言うことになってしまうのだ。リュカ一人を守るために、何か別のものを斬り捨てても良いということにはならない。リュカもマーサも、各々の願いの行く先に、地上世界の安寧を保つことという共通の目的がどうしても成り立ってしまう。
「勇者がこの世に生まれたのは、世界が必要としたからなんでしょうね」
ピエールの言葉は唐突なものだったが、リュカには彼の言おうとしている意味が胸に沁みるように分かった。世に悪しき者が生まれれば、それを正すための善き者も生まれる。息子ティミーの存在を考える時はいつでも、リュカはそうしてこの世の道理を持ち出して、自身を納得させようとしてきた。一度として心から納得することなどないが、この世に生きる者の一人としては理解できるものだ。そして今は特に、そうした客観的理解が必要なのだと、ピエールの言葉に教えられる。
「強い力に向かうためには、やはり強い力が必要です」
「そうだね。負けちゃったらそこでおしまいだから」
「強い力を持っていても、使わないに越したことはないですけどね」
「今は多分、そういう状況なのかも知れないね」
マーサとの対話に応じず、無理にでも魔界の門を開かせ、大魔王ミルドラースの力で地上世界を強引に制圧してしまうことも、もしかしたら可能なことなのかも知れない。しかし今でもそのような凶暴を働かないところを見れば、大魔王と言えどもやたらと地上世界を荒すことを望んではいないということだろう。
この魔界という世界を目にすれば、ミルドラースが無理に地上世界を荒したくないと考えるのも分かる気はした。彼は元々、人間だった。それがいつかの過去に、魔界へ閉じ込められ、永年この暗闇の世界で生き続けることとなった。そんな彼が本心から望むのはもしかしたら、悪しき魔物として地上世界を荒らしまわることではなく、ただ再び地上の光を見たいという、それだけのことなのかも知れない。
「私は王子が大魔王を打ち倒すものだと、信じています」
未来の出来事を断言することはないが、信じていることを断言するところがピエールらしいと、リュカは彼の言葉の素直さに「うん」と小さく返した。信じている仲間の言葉が自身を支えてくれるのだと、リュカは常に揺れがちな己の心が落ち着くのを感じる。
「しかし私たちが生きる世界は、悪を倒しておしまいというわけではありませんよね」
めでたしめでたし、で終われるのはお話の中の世界だけだ。悪を滅ぼした勇者がいたとして、彼はその後も生きていく。お話には語られない彼の人生は死ぬまで続き、たとえこの世から去ったとしても彼の話はその後に生きていく人々によって継がれていく。とてつもない年月が経ち、彼のことなど誰もが忘れ去ってしまったとしても、彼がこの世に生きていたという精神の粒は必ず、誰かの精神の粒となり、知らぬところで繋がっていく。
「私の夢を一つ、申し上げてもよろしいですか」
ピエールの言葉に驚いたリュカは思わず真顔で彼を振り返った。彼が自身の思いを、しかも夢を語るなどというのは珍しい。リュカは素直に「うん、聞かせてよ」と相槌を打つ。
「リュカ殿や、多くの皆さんと、人間と、分かり合うことが出来ればと思っています」
それは彼が魔物として、ジャハンナに暮らす人間の姿に変わった元魔物ではなく、魔物の姿に留まる魔物としてそう願っているのだと、リュカに伝わった。彼の願いは、そのままリュカの願いであり、マーサの願いでもあった。人間も魔物も共に手を取り合って生きることが出来ればと、リュカは外の世界で敵となる魔物と遭遇するたびに、無意識にもそう思ってしまう。実際に力を合わせて、助け合いながら旅をしている魔物の仲間がいるのだ。できないことではないと、リュカは言葉にせずとも常にそう思っている。
ピエールは敢えて、リュカの願いを自身の願いとして口にしたのだろう。それは本当に彼自身の願いでもあるのだろうが、その思いを言葉にして音にして、リュカに伝えることで、彼は主のふらつく心を一点に結び付けようとした。
「そのためにも我々は変わらず、手を取り合わなくてはなりません。誰もが、独りになってはいけない」
全ては結びついているのだと、ピエールの言葉に知らされる。しかもそれは血の繋がりであり、仲間としての繋がりであり、人間と魔物という種族を越えた繋がりであり、それらの繋がりはどこかが切れてしまえば必然と弱まってしまうのだと、ピエールは一人になろうとするリュカを無理にでも掴み、その手を引っ張る。主に対して不遜という意識はない。リュカという人間に対してはこれくらいの強引さが必要なのだと、ピエールは彼を支える優しくも強い妻に、彼を理解している優しくも素直ではない親友に、いつしか学んでいた。
「我々の進む道はきっと、想像以上に困難だと思われます」
「……でも、困難なんてさ、今に始まったことじゃないね」
「仰る通りです。我々には寧ろ、困難はつきものとも言えましょう」
「あんまり笑えないなぁ、それ。冗談にもならないよ」
「私は冗談は申しません」
「あははっ、ま、それがピエールの良いところだよ」
「どうですか、困難を抱え続ける覚悟はできましたか」
「ピエールも一緒に抱えてくれるんだよね?」
「当然です」
「僕、きっとまたいつか弱音を吐くと思うよ」
「いつでもお聞きします」
「でもあんまり付き合わせちゃ悪いよ」
「今更何を仰っているのですか。ここまで付き合わされたのですから、何も気になさることなどないでしょう」
「まあ、ね。それもそうかも。ものすごく長いこと、付き合わせちゃってるよね」
「そうです。しかしこれが私の……生き甲斐というものでしょう。魔物として生き甲斐を見つけることができたのですから、誇らしいことです」
「ありがとう、ピエール。僕の方こそ誇らしいよ、君みたいな立派なスライムナイトと出会えて」
どんな言葉でも受け止め、何かしらの言葉を返してくれるピエールという仲間に、リュカは強張っていた己の心が解されて行くのを感じていた。彼と話をして、何かが解決したというわけではない。寧ろ困難は困難として抱えたまま進むしかないのだと言うことが、はっきりと分かっただけだ。
しかしそれでも、その困難を共に抱えてくれるという彼に、リュカは素直に甘えることができた。それというのも、リュカがあらゆる面でピエールという仲間に全幅の信頼を置いているからだ。彼はあらゆる面で絶対に裏切ることはない。そして今、束の間会話をしたことで更にその信頼は募った。
目の前に迫る宿からは、温かな薬草のスープの匂いが小窓から漂っている。少し外を歩き、それだけで腹も空いたような気がするリュカはピエールと、皆と一緒にもう一度食事をすればそこで気持ちは整うだろうと、隣を歩くピエールの肩を叩いた。ピエールの緑スライムが僅かに口角を上げて、静かに返事をしていた。
Comment
bibi様。
ピエールと本当に長い付き合いになりましたよね、スラりんについで2番目に、ビビワールドでも初めて人間の言葉を話したのもピエールでしたよね、ピエール初登場の話、ラインハットの関所リンクしますね。
https://like-a-wind.com/text11-1/
bibi様が描写するピエールとヘンリーの漫才みたいな掛け合いは、ここから始まったんですね読み返してニヤニヤしちゃいました(笑み)
現実の話に戻りまして、リュカやっと心の整理がついたみたいですね、でも何かしらの対策を考えないと同じことになり今度こそパーティ全滅もあり得ることに…、bibi様がこの後どうするのか予測つかないです。
ちなみに、ロビンの会心の一撃の弓矢攻撃に拍手です!…ロビンを連れて行くもしかして?誰かと交代?
次話早めにお願いします。
ケアル 様
こちらにもコメントをどうもありがとうございます。
ピエールとの付き合いも長くなりましたね。私にとっては、困った時のピエール、という感じです。ゲーム内でも結構そういう位置にいるような気がします、彼。ヘンリーとの掛け合いはそんな前から始まっていましたか。もう初めの段階からピエールの立ち位置は決まっていたんですね。なんとなく、同じ緑カラーなので仲良くさせたかったのかなぁ(笑)
リュカはいつでもふらふらと、心が完全には定まらない状態でいる主人公です。困ったものです。でも彼はこういう人間なので、このままみんなに支えてもらいながら進んでいくと思われます。パーティー全滅の憂き目には・・・遭わないように気をつけたいと思います。
ロビンはこの機にもう一度登場してもらえてよかったです。本当は連れて行きたいところだけど、町に残ってもらうことになるかな。町の人たちと上手くコミュニケーションを取っているロビンとかも、本当は描きたいところですね。ほのぼの。