ゲマ
巨大な水の玉の中に、ゲマが閉じ込められている。聖なる気を大いに含んだ水がゲマの動きを封じ、同時に周りの攻撃からも守っているように見える。その状況を、リュカの母マーサが作り出していることに、リュカは半ば唖然としてその光景を見上げている。
外見はマントもローブも襤褸つかせながらも、潰されていない片目に光る赤の色に衰えは感じられない。その目は今、祭壇の上で両膝を着き、両手をゲマに向かって差し向けているマーサへ向けられている。リュカたちのあれほどの攻撃にも悠に耐えられる仇敵だが、何故か今、己を包み込む水の中で苦し気に身体を曲げている。ポピーの放ったイオナズンの大爆発にも、ビアンカが押し返したメラゾーマの炎にも耐え、まるでその身は不死身であるかのようにほとんど変わりなく動いていたにもかかわらず、清浄な水の塊の中でゲマはその身を折り曲げるようにして顔を歪めている。
ポピーがいち早く呪文を唱えようとするのを、リュカが手で制した。ゲマは水の中で苦し気に顏を歪めながらも、その目は見開き、祭壇の上のマーサを捉えている。たとえばポピーが遠隔呪文でゲマにイオナズンの呪文を浴びせたとして、その瞬間にゲマを捉えている水は霧散し、憎き仇敵の身体は解放される。その瞬間に敵が狙うのは、マーサの命かも知れない。ゲマのマーサを見る目には、明確な怒りや妬みと言った感情が見て取れる。苦し気に身体を曲げていても、ゲマの手にはしっかりと死神の鎌が握られている。ゲマの身体が自由を取り戻したらその時に、奴は死神の鎌をマーサに差し向けるのではないかと、リュカは一人、祭壇に向かって駆け始めた。隣をプックルが共に駆け始める。リュカはプックルの背に飛び乗り、逸散にマーサの元へ向かう。
ゲマが、自身を捉える聖なる水を、内側から凍てつかせてしまった。瞬時に白くなった氷の中から、ゲマは手にする死神の鎌で氷を切り裂く。吸い込む空気もないはずの場所で、ゲマは恐らく己を取り囲む聖なる水ごと飲み込み、輝く息を吐いたに違いなかった。しかしマーサも手を抜かない。絶えずこの祭壇の周りに流れ落ちてくる聖なる水を、ゲマに向かって放ち続ける。再び己の身体を包み込もうとする聖水に、ゲマは怒りの表情を隠しもせずに、手からメラゾーマを放ち、水を宙に消し去ろうとする。しかしゲマの放ったメラゾーマの火炎の威力が、先ほどに比べて落ちているように感じたビアンカは、祭壇の下でティミーとポピーの前のめりの行動を抑えつつも、祭壇を駆け上がっていくリュカとプックルの後ろ姿に既に手を向けていた。
自身に纏わりつく聖なる水をメラゾーマの炎で霧散させるのに時間がかかるのは、それが聖なる気を帯びているからだと、ゲマは当然気づいている。邪悪の中に身を置く魔族として生まれ変わったと信じ、それを誇りにすら思っているゲマにとって、聖なる気を帯びたもの全て、自身の力を抑制するものであり、敵だった。底なしの魔力を手に入れ、魔界と地上世界とを自由に行き来する特権も得て、この魔界と言う世界で高い地位を得ていることに、ゲマは自身も気付かない内に浸り、その実溺れていた。マーサの放つ聖水の塊の影響は、ゲマにその現実に僅か気づかせるようで、仇敵は忌々しいと感じるその気づきを打ち払うように、死神の鎌を大振りに振って目の前の空気を切り裂いた。
ゲマの片眼に映るのは、祭壇に両膝をついて両手を己に差し向けるマーサの姿。メラゾーマの炎に一瞬、聖水は辺りに霧散し、鎌で切り裂かれた空気の中、ゲマとマーサの間に空間が生まれた。己を見上げるマーサの表情には相変わらず、険しい顔つきなど一つも見られないのだ。それが、ゲマにとっては屈辱だった。地上世界のエルヘブン村の民に生まれ、地上世界と魔界とを隔てる門を管理する村の大巫女としての責務を、その身に帯びる力により請け負った。逃れられない運命と言えば、それはまだ子供の勇者と同じだ。
そして負った宿命のために、マーサは夫と子供を地上世界に残して、たった一人で魔界へと連れ去られ、三十年もの時をただ耐え忍んで過ごすに至った。恨み言一つ口にすることもなく、ただその身に負った宿命を受け入れ、あの祭壇で日々祈りを捧げる姿は、彼女が操る聖なる水と同様の清らかさに満ちており、それがゲマにとってはむしろ汚らわしいもののように思えた。今も、ゲマを見上げるマーサの漆黒の目には光があり、その光でゲマを上から諭すのではなく、ゲマという存在さえも受け入れようとする寛容を見せているようで、それがゲマには憎らしかった。
死神の鎌の長い柄を掴む両手に力がこもる。鎌を魔力で操り、憎らしいマーサに飛ばすこともできた。しかしそうさせなかったのはゲマの中にある理由も忘れてしまったような憎しみだ。己の手で、憎き敵を滅ぼすのだという意思が、ゲマを動かす。
宙を切り裂くように飛ぶゲマに向かって、同じく宙を鋭く飛ぶアンクルが向かう。横から飛んで来るアンクルの動きを打ち払うゲマの動きは一瞬、宙に留まる。そこを、常に狙いを定めていたゴレムスが矢を放つ。味方のアンクルの翼を掠め、矢はゲマの肩を打った。狙いは背中からの左胸だったが、外した。しかし傷を負わせたことは明らかで、破れた左肩のマント、ローブの内側からは毒々しい青の血が流れ出ている。痛みの感覚が鈍いのか、痛みを感じないほどの強い意思があるのか、ゲマは己の傷には構わず祭壇の上に両膝をつくマーサに突き進む。
マーサの目前で死神の鎌を振り上げるゲマは、己に与えられた使命など完全に忘れていた。憎き敵を倒すためとあっては、与えられた使命など脇に置いておけるものだろうと、その片目は爛々と赤く燃えていた。
振り下ろされた死神の鎌を、鎌を持つゲマの手に、跳躍したプックルが噛みついた。己に鎌の刃を向けられれば忽ちこの世からもあの世からも消されると分かっていても、プックルはもはやそれを恐れてはいなかった。現実に、長らく共に過ごしてきた戦友がいなくなってしまった。その姿を見せられて、己が怯んでいる場合ではないのだと、死神の鎌の刃先が脇腹に突きかけようとするのも構わず、ゲマの手にしぶとく食らいつく。
やはり痛みを感じないと、ゲマはその身にそぐわないような剛腕で、プックルのような大型の獣を振り払った。切られた脇腹の傷は深く、祭壇の脇に放られるように飛ぶプックルの介抱へと、アンクルが力の盾を備え向かう。一方でゲマの、その燃えるような赤い目はマーサしか見ていない。魔界の門を管理するエルヘブンの民だろうが何だろうが、この状況に在っても信念を曲げないような清浄を保ち続ける女が憎くてたまらないと、プックルに噛みつかれ傷だらけの手で握る死神の鎌を振るう。
痛みを感じないのは現実だが、肩に手に、傷を負っていることも現実だ。ゲマの振るう死神の鎌を、今度はマーサの正面に立つリュカが父パパスの剣で受け止めた。剣自体が意思を持つかの如く、鎌の刃に既につけている傷に、まるで合わさる鍵のように剣の刃が嵌る。ピエールと言う大事な仲間を奪ったこの死神の鎌を破壊してやると、そこにリュカの渾身の力が籠められる。
「……あなた……」
母を後ろに庇い、父の剣を手にしてゲマと戦う息子の後姿を見上げながら、マーサは思わずそう呟いた。
強い戦士だった。身体や力が強いだけではない。その心が強く、そして大らかだった。その全てにおいて、マーサは惹かれたのだ。パパスと言う人物、彼を育てたグランバニアと言う国、国の人々、広大な森林地帯、その他全てにおいて、彼を作り上げたものは愛おしいと思えた。
この世を去ったはずの愛する夫が今、己を守るように背中を向け、敵となる邪教の使途に立ち向かっている。息子であるはずのリュカの背中を見ながら、マーサの目には夫パパスの後姿が間違いなく映り込んでいた。死して尚、彼は必ず、力を与えてくれるのだと、息子の背中にそう感じられた。
ゲマを抑えるリュカの体中に湧き上がる力は、ビアンカが離れたところからも支えてくれているものだと感じる。バイキルトの効果を全身に感じるリュカは、一気に力をかけ、大きな鎌の刃の中ほどにまで父の剣の刃が食い込んだのを目の前に見た。ゲマの手にする死神の鎌の刃は、通常の金属の部類には収まらないようだった。まるで粘り気さえ感じる刃は、パパスの剣をその幅広い刀身の中ほどにまで食い込ませる状態にまで至っても、折れない。一体何で出来ているのかと、歯を食いしばりつつ更に力を込めたところで、ゲマが鎌の刃で剣の刃を捉えたまま捩じ切るように、大鎌を払った。リュカの手から離れた剣が、鎌の刃に捉われ攫われ、そのまま祭壇の床の上に叩きつけられた。
ゲマはもはや、何者にも容赦はしないという凄まじい形相を見せている。その表情に笑みはない。ただ鬼のような形相で、ただ一心に目の前の母と子を滅ぼしてやるのだと、半ばまで斬り込まれた広い幅の刃を、それ自体が死神の如く怪しく煌めかせて薙ぐ。
床にただ落ちていたはずのパパスの剣が、誰の手を借りることもなく、突如地から放たれる矢のように飛んだ。リュカは確かに感じていた。父の剣には父の魂が宿っている。リュカが扱うよりも長く、パパスはこの剣を愛用し、握る柄は父パパスの手に馴染んだ形に変形していた。その形に馴染むのが偶々、息子であるリュカだったということだ。
父の剣は父の意思を持ち、今その意思を剣自らが見せた。矢の如く地から放たれたパパスの剣は、ゲマの払う死神の鎌の半ばまで斬り込まれた刃に突進し、死しても尚守るべきものがあると、死神の鎌の刃を完全に折り割ってしまった。刃を失った鎌は、捕らえようとしていたリュカを素通りし、ゲマの手に収まったまま宙を斬っただけだ。
己の足元に転がった剣を、リュカはすぐさま手に取った。というよりも、剣がリュカの手に自ら収まったような状態だった。父の声が聞こえるわけではないが、剣を握る己の手に父の思いが流れ込んでくるようだった。あの時、リュカを守り切れなかったことを悔いているのだと、リュカは父の剣にそう聞いたような気がした。
「……今、守ってくれたよ、父さん」
死神の鎌の幅広の刃を失い、目の前のゲマは片目を見開いて、驚きを隠していない。不滅とも思っていた死神の鎌の刃が折られることなど、頭の隅にも思ってはいなかったのだろう。恐らく魔界における唯一無二の武器であり、それを使いこなすのは自身しかいないという自負もあったゲマという魔物の武器だった。折られた刃の破片はこの祭壇よりも下へと落ち、死神の鎌の悍ましい威力は失われた。
今が好機と、力の盾により傷を癒したプックルと、その傍で同じく様子を窺っていたアンクルが、同時に踏み込んだ。ゲマという悪しき者はどうしてもこの世から葬り去らなければならないのだという強い思いが、彼らに恐れを抱かせず、ただ前へと進めさせてしまう。
ゲマに向かって飛びかかったはずのプックルとアンクルだが、彼らは突然に、水の中へと飛び込んだように感じた。息苦しい。しかし息をすることも忘れて、水の中に映る景色に見入る。
アンクルの目に映るのは、森の景色。人間には迷いの森と呼ばれている、妖精の世界へと続くその森で、森に迷い込んできた人間と魔物の一行に遭遇した。ついて行く気なんかさらさらなかったんだと、過去の景色を見るアンクルが呟く。だけど、あそこでついて行かない退屈があるかよと、過去の自身を肯定したところで、アンクルは息苦しさから解放された。祭壇の床に投げ出されたアンクルは、まだ巨大な水玉の中に取り込まれているプックルを見る。
プックルの目に映るのは、人間の子供の足だ。その足は悪い足で、まだ小さなプックルを蹴ろうとしてくる。噛みついて仕返ししてやったこともあった。それでも悪い足はいたずらを止めなかった。そこに、別の人間の子供が現れ、プックルはそこで初めて人間の腕の温かさを知った。一人の子供は正義感が強くて、一人の子供はただただ優しくて、プックルはその二人には一度も噛みついたり引っ掻いたりすることはなかった。初めから、二人は良い人間だと分かったからだった。
そこで水の中から放り出されたプックルは、祭壇の上ですぐさま体勢を立て直し、慌てて状況を見る。アンクルも同じく、祭壇の上に立ち、ただ間近に浮かぶ水の玉の中を見上げていた。
マーサの操る巨大な聖水の玉の中に、ゲマの身体が封じられている。ゲマの赤い片目が揺れ動く水の中でただ一つ、光っているようにも見えた。水は柔らかく、聖なる気を帯びたそれはむしろ優しさに満ちているようだが、邪悪に染まったゲマにとっては聖なる気そのものが苦痛のものとなっている。
水の中で、ゲマの額の宝玉が怪しく光るのを、リュカは正面に見た。仇敵は宙に浮かびながら、正面のリュカを片目で見下ろしている。その目が果たして、苦しみに歪んでいるのか、悦びに細められているのか、リュカには分からない。しかしこの敵への攻撃の手を緩める気は毛頭ないのだと、リュカは握る父の剣を改めて握り直す。己もゲマを捉える水の中へと入るべく、静かに息を吸い込む。
額の宝玉の光は、呪文の前兆だった。底なしの魔力を持つゲマは、水の中も問題ないと言わんばかりに呪文を放つ。マーサの操る巨大な水の玉を吹き飛ばすように、メラゾーマの火炎を生み出し、まるで火炎で己を守るように大きく包んだ。次の瞬間、ゲマを包み込む水は霧散するが、それをも包むような水の流れが既にゲマの周りを取り囲んでいる。マーサも決して手を緩めない。しかしマーサの魔力のようで魔力ではない力は、限りあるものだ。ゲマを包む水の玉の大きさは先ほどに比べ小さくなっている。母が一体何を削ってこの力を生み出しているのだろうかという考えがリュカの頭を過れば、もう母の力を頼ってはいけないのだと、リュカは息を止め、剣の柄を固く握りしめ、水の中へと飛び込んだ。
目の前にいるのは、幼い頃の自分、だろうか。しかし記憶にはない。年もまだ二、三歳ほどに見える。黒髪に黒目に衣服の上から濃紫色のマントを身に着けている姿は、恐らく旅をしている途中なのだろう。旅をしているにしてもこれほどの幼子が一人で外を出歩くことは考えられない。
子供の手は、近くにある大人の手を求めて宙に彷徨う。大人は子供のその手に気付かない。二人いる大人は、父と母だろう。リュカの父パパスと母マーサならば、幼いリュカの手に気付き、手を伸ばしてくれるだろうという期待が、リュカの胸には当然のようにある。父とは幼い頃に死別し、母とは三十年の時を経てようやく再会できたほどに、共に在る時間は短いものだが、リュカは両親の愛情を疑ったことはない。それはリュカ自身が信じてきたものということと同時に、愛情深いサンチョから自然と教わったものでもある。
しかし、リュカの目に映る二人の大人は、伸ばされる子供の手に気付きもしない。子供はただ、父と母に振り向いてほしいだけなのだろう。その冷たい光景に、リュカの胸の中にも冷たい氷が生まれるようだった。
この父母は、自身らの子供だというのに、一切の関心を子供に寄せない。食事の時もただ食物を与えられるのみで目を合わせることもなく、旅の最中の就寝時にも、いかにも面倒事のように薄い毛布を子供の傍に置くだけで、かけてやることすらしない。その光景にリュカは悲しみに胸を痛めるよりもむしろ、腹が立って両親となる男女を怒鳴りつけたい気分にすらなる。何故そのような酷いことができるのかと、己よりも弱いもの、ましてや我が子ならば無条件に毛布に包んでやり、温めてやるのが人間と言うものだろうと、リュカは自ら手を伸ばして毛布をつかもうとしたが、それはただ目の前にある現象であり、掴むことのできないものだった。
ふと子供の表情に目を遣れば、子供の目には既に光がなかった。まだ二、三歳ほどの幼さにも関わらず、この子供は子供であるというのに未来に一切の光を見ていない。痛々しい。見ていられない。恐らく、愛情を受け育った者たちは皆、それが普通であるようにそう思うのだろう。リュカも同じだ。当然のように、子供が酷い目に遭っている場面を目にして、胸を痛めないではいられない。
一方で、その常識がこの親子らには通用しない。その内、リュカの見る現象は変わり、子供はいつかのリュカのように、五、六歳ほどにまで成長している。その目は更に暗く、何かを見ればただ絶望を抱くだけだと、何も見ようとはしない。子供にしては、聡い子供なのだろう。聡いだけに、報われない現状に泣き叫んで抗うこともなく、ただ大人しく諦め、その時その時が過ぎ去るのを静かに待っているだけだ。
両親が、少年に振り向いた瞬間があった。その両親の表情に、思わずリュカも期待した。少年も期待したように、両親の顔を見上げる。しかし期待は期待のままに終わった。両親の表情は、疲れ切っている。旅をする親子。何故旅をしているのかが今、分かった。子供は両親にとって、金と引き換えの道具に過ぎなかった。両親はやせ細っていた。少年もまた、やせ細っていた。これから少年ではなく、両親らが生きるためにと、少年を奴隷として売人に引き渡したのだ。
リュカも見たような景色が始まる。まだ五、六歳の少年ができることなどたかが知れている。しかし使用者は決して容赦はしない。替わりはいくらでもいるのだと言うように、使用者は少年を奴隷として働かせる。かつて大神殿建造のあの山頂で働かされていたヘンリーとの日々が、リュカの頭の中に蘇る。リュカは、ヘンリーが隣にいたから、どうにか命を繋ぐことができたと、そう思っている。
この少年にとって、親は救いの者たちではなかった。その代わりに、新たな場所では、新たな人との出会いがあった。厳しい奴隷の生活の中で彼は友人とも呼べるような少年と出会えたようだ。金の髪を持つ、一見根明で、しかしどこか隙のない雰囲気を持つ同い年ほどの少年に、彼の黒い目にも初めて光が差すかと思えた。リュカが今、どこか隙のない雰囲気と思えるのも、リュカ自身が大人になり、様々な経験を積んできた故の思いだろう。もしリュカが目の前にある少年と同じくらいの年齢であれば、そんなことは露ほども思わず、ただようやく話のできる人と出会えたことに嬉しい感情を抱くだけに違いない。少年たちは互いに、余裕などないのだ。互いを思いやることなどできず、各々の思いの中に籠って自身を守ることで精いっぱいだ。
そうして彼はやはり、金の少年に裏切られた。奴隷の身分同士での裏切りなど、それほど珍しいことではない。状況が状況だ。己を守るのに力を傾けなくてはならない状況で、他人を守る余裕などない。あの頃のリュカとヘンリーがただ特別だったというだけだ。リュカとヘンリーの関係は、子供の彼らを命懸けで守ろうとしたパパスの存在が根幹にある。パパスの死が、まだ少年だった彼らを支えた。しかし裏切られたこの黒の少年には、根っこがなかった。彼はある意味で、何者にもなることができた。負う宿命などのようなものは何もない。彼を作り上げるものは、全て、周囲の環境だった。
共に逃げるはずだった金の少年は、黒の少年を裏切り、黒の少年をダシにするように、一人で迷わずさっさと逃げ出した。まだ少年の身体で、たった一人で逃げたあの少年も、その後無事に生き延びているかなど誰も分からない。しかし現実に、黒の少年は一人奴隷として残され、その目は再び光を失い黒く染まり、その色は一層深みを増したようだった。
奴隷としての人生は続き、彼はなかなかしぶとく生きていた。働く場所が移り、雪の降る季節に備えて薪を作り、積み上げる作業についていた。少年は十二、三歳ほどに成長している。手斧を扱うのには慣れておらず、使用者からの怒りを受ける。彼は根が真面目なのか、怒りに触れるのがただ嫌なのかは分からないが、手斧を扱うことに集中するようにした。その内に、薪を割るのも上達し、仕事は速くなったが、奴隷としての働きであり、当然のように誰から褒められることも労われることもない。彼はそれ故に、自身にのみ、集中した。周りを見ずに、周りを気にしなければ、己を感じることもない。彼はただ、その時は薪と向き合うだけだった。
彼は自身の才能に気付いていなかった。それを見い出す者もおらず、才能が発現したのは神の悪戯と言っても過言ではないものだった。薪を割る斧の刃にうっかり触れた指に、小さな切り傷を作った。奴隷として働き通してきて、いわゆる苦痛を伴うことには慣れていたはずだったが、命を感じられない己からも赤い血がぷつりと出てきたのをじっと見つめて、ただ驚いただけだった。
驚きと共に、彼の傷ついた指から生まれたのは、火だった。自身に魔力が備わっていることにも気づいていなかった。ただの偶然、偶然が重なる。辺りには水気のない乾いた草地。彼の指先から飛んだ火が、草地に燃え移った。水もなく、風が吹き、火はあっと言う間に燃え広がった。圧倒される大火事の光景に、彼はまだ命にしがみつくようにその場から逃げ出した。命からがら逃げだした彼の黒い目に映る大火事は、辺り一帯を燃やし尽くすまで収まらないかも知れない。振り返る少年の黒い目は、恐ろしさに震えるのではなく、目覚めた自身の力に生まれて初めて希望を見い出したように光り輝いていた。
根っこのない少年は、何者にでもなることができた。少年が何者かになるのを決めるのは、少年の心次第だった。少年の心は既に、漆黒の闇の片隅に落ちていた。
光り輝く黒い目の中に現れたのは、今まで彼自身が無意識にも己の中に封じ込めていた怨念の塊だった。己に非凡な力があるのだと分かった瞬間、彼の目はこの世の中への怨念に染まり、この世の中に対して復讐してやるのだという強固な意志をその光に見せた。彼の思いは形となり、その目は燃え上がる復讐心を表すように真っ赤に染まり、心は“悪”へと引きずり込まれ、戻れもしないし、戻ろうともしなかったし、そもそも彼は“善”を知らなかった。
悪に染まり切ったゲマが今は、リュカの目の前にいる。赤の片眼でリュカを冷たく見るその目は、その実、リュカを見ていない。そしてリュカもまた、ゲマを通して、かつて人間の少年だったゲマを見る。少年が見ている先に、彼が覚えてもいない二人の大人の背中が見える。少年の手には、小さな火がある。為すべきことは一つだと、彼はその火を二人の大人、顔もよく分からない彼の両親に向かって投げつけようとする。が、手は動かない。火だけがみるみる大きくなり、それは少年の手には負えないほどの巨大な火炎となり、少年はただその火炎を持て余す。
目の前が瞬時にして真っ白になり、凍り付いた。そしてそれは爆発するように辺りに弾き飛んだ。ゲマがマーサの作り出す聖水の球の中で、輝く息を吐いたのだ。現実に引き戻され、リュカは目の前から飛びかかってくるゲマの、刃を失った死神の鎌の長い柄に激しく打たれ、祭壇の上に叩きつけられた。辛うじて父の剣は手から離さなかったが、リュカの胸の内に長年棲み続けていたはずのゲマへの憎しみが、必然と薄らいでしまっていた。
水の中に現れていたのは、人間だった頃のゲマの望みない人生。マーサの操る聖水の中では、否が応でも己と向き合わせられる力が働くのかも知れない。ジャハンナの町にはマーサの力により、魔物から人間へと生まれ変わった者たちが多く住んでいる。彼らも同じように、ジャハンナの町を取り囲む聖水の流れに身を浸し、魔物である自身と偽りなく向き合うことを乗り越え、憧れの人間になることを達成したのだろう。
マーサはゲマに、自身に向き合うことを望んでいた。母は恐らく、ゲマにも悔い改める力があるのだということを信じていた。そのようなことをマーサが望んでいることを、息子であるリュカにも見せたかったのかも知れないと感じるリュカ自身、父の剣を掴む右手に力が思うように入らないことに顏をしかめる。それは決して、ゲマの輝く息の極寒に当てられただけのことではない。
ゲマの人生は、誰にでも起こり得たことに思える。それをただの運と切り捨てるのは、あまりにも情がない。そのような無情は、次の無情を生み出すだけだろう。復讐は復讐を生み出すだけだ。ゲマがこの世の中に復讐しようとこれまでしてきたことに対して、今まさにリュカが復讐をしようとしている。
「お父さん!」
祭壇の階段を駆け上ってくる足音と共に、ティミーの声が聞こえた。輝く息の冷酷に一人取り込まれていたリュカの体温が、ティミーの回復呪文ベホマの効果でみるみる元の温度へと戻っていく。右手にはまるで張り付いて離れないとでも言うように、父の剣が手の中にある。しかし父は今、リュカに呼びかけようとはしない。相対するゲマという魔物に対して、意思を決めるのはリュカ自身なのだと、息子の意思に任せるようにリュカの手の中でその意思を待っているようだ。
「お父さん、下がってて!」
そう言いながら両手をゲマに向けるポピーは、普段は高いところも怖がるような至って普通の少女には到底見えない。勇者ティミーと血を分けた双子であることを誇りに思っていることが、彼女の姿にありありと現れている。
「リュカ!」
子供たちは気づかないようなリュカの戸惑いに、ビアンカは気づいたのかも知れない。リュカの右腕を濃紫色のマントの上から擦るように触れる。彼女の手は温かい。それはたとえ彼女が氷の呪文の使い手であろうとも、その温かさはリュカにとっては変わらない。リュカには己をこれほどに支えてくれる家族がいる。仲間もいる。しかしそれは、かつては人間だったゲマにも在り得た状況だった。人間だったゲマの人生のどこかで、誰かが、彼の手を取ってやれば、それだけでゲマの人生は反転していたのかも知れない。
構えることを忘れたリュカを見下ろし、ゲマはまるで恥辱を味わったかのように悔し気に顏を歪める。リュカの後ろではマーサが、ゲマを攻撃するのではなく、ゲマが自ら己を顧みることのできるようにと再び巨大な水玉を操り始める。しかしマーサにはもうゲマの動きを封じるほどの力が残されておらず、作りかけた水の玉は怒りの表情を隠さないゲマのメラゾーマにも満たない火球をぶつけられ、消滅してしまった。
宙に浮かぶゲマの背後から、頭上から、アンクルがデーモンスピアを振り下ろした。ゲマは刃の折れた死神の鎌の長い柄でそれを迎え撃つが、アンクルの勢いに押され、地に叩き落された。待ち構えていたプックルが跳びあがる宙でゲマを捉えると、祭壇の上に共に落ち、そのままゲマの身体を上から押さえつける。プックルの青い目は復讐の怒りに燃えている。よくもリュカの父を、よくも戦友のピエールをと、今のプックルにはその思いだけがある。その姿は、まさしくこれまでのリュカをそのまま鏡に映したような姿だった。
「プックル! 止めろ!」
リュカの声に、誰もが息を呑んだ。ゲマに対する攻撃をリュカが止めるなど、あり得ないことだと、皆がリュカを振り返り見る。押さえつけるプックルの力が弱まった瞬間を逃さず、ゲマは小さく息を吸い込んだだけで、辺りに激しい炎を吐き散らした。間近で炎に身体を焼かれたプックルは短い悲鳴を上げて飛び退き、プックルの拘束から逃れたゲマはリュカたちとの間に距離を取ろうと後退る。宙から再び攻撃の隙を窺うアンクルがいるが、リュカがプックルを制止する声を聞いては、単独で動くわけにも行かないと戸惑う表情を隠さないまま様子を窺っている。
「……ほっほっほっ、何様のつもりですか」
マントも衣服もボロボロになり、服の裾からはやはり足は見えない。ゲマに足はなく、この魔物は底を尽くことのない魔力を自在に使い、ふわりふわりと宙を移動している。底なしのようなその魔力は恐らく、彼が人間から魔物へとその生を変化させる際に手に入れたものなのかも知れない。ゲマという魔物となる前の、ゲマと言う名ですらなかったであろう少年の人生を垣間見てしまったがために、リュカの脳裏に走る憎き仇敵の見えなかった歴史を想像する思いが止まらない。
「僕は……」
何を言っても正解はないのだろうとリュカは思う。今更正解となるものを見つけたとしても、時間は不可逆的なもので、要するに全ては手遅れなのだ。過去を通り過ぎてきて、今にできることがあるとすれば、それはただ過去を含めた今を受け入れるということなのだろうか。
「僕は、お前だったのかも知れない」
リュカの人生、もし父がパパスでなかったら、もし母がマーサでなかったら、もし幼い頃にビアンカやプックルに出会っていなかったら、もしあの過酷な時に隣にいたのがヘンリーでなかったらと、振り返る己の人生の出来事一つ一つが、今のリュカと言う人間を作り上げていることを仇敵の前ではっきりと感じる。その中のただの一つでも違った出来事があれば、今のリュカと言う人間はいない。
「ふん、つまらない感想ですね」
リュカが同情の余地を見せ始めたその姿勢に、ゲマはまるで汚らしいものを見るような目を向けながら言葉を返す。折角ここまで復讐の心を育ててやったと言うのに、それをたかだか過去の出来事を見せられただけで復讐心を弱らせるなど、期待外れも良いところだとゲマはリュカの後ろで同じような漆黒の目を向けて来るマーサに視線を移す。
「お前が余計なことをするから、この男の目が曇ってしまったではないですか」
ゲマの言うリュカの目の曇りというのは、リュカの全身を支配していたような復讐心が無様に和らいでしまったと言うことに言及しているのだろう。何故ゲマは復讐の心を美しいと感じるのか。それはリュカの目の前に続いて露にされる予定だった、ゲマのその後の人生を肯定したいがためだった。まだ人間であった頃にゲマは己にも炎を扱う力があることを知った。その後も自身の内に秘めたる力に魅入られるように、ゲマはひたすらに研鑽を積んだ。彼には才能があった。ただその才能を誰とも分かち合うことはなく、ただ一人で、己の才能を伸ばし続けた。
誰かと分かち合う、他のために己の力を使う、それはリュカや家族や仲間たちにとっては特別なことではない。しかし誰にも打ち解けるような機会もなく、むしろすべての者たちに背を向けられてきた彼にとっては、頭の片隅にも浮かばない考えであり思いだった。他者を思いやるという行動をゲマは誰にも教えられることはなく、たとえその人生の途中でその機会があったとしても、ゲマにとってその時は手遅れだった。己の力に魅せられたその者は既に、悪魔に魂を売ってしまっていた。
「たとえ曇ろうが、雨や雪が降ろうが、その時お日様はただ隠れているだけです」
もうゲマを抑える聖水の玉を作り出すことはできず、マーサはリュカの後姿の向こう側にゲマを見据えて、言葉を交わす。マーサが立ち上がろうとした時によろめいたのを見て、ビアンカがマーサの身体を支えるように脇に立つ。
「あなたにも本当は、お日様の光が隠されているのですよ」
マーサの言葉に、リュカ以外の者たちは皆が皆、信じられないと言うように眉を顰めたり、小さく首を横に振ったりと、その言葉をそのままの意味に受け取れるものはいない。しかし唯一リュカだけは、ただ静かにゲマを見つめ、悪に染まり切ったような仇敵の中にも光が在るのかも知れないと、己の光ある漆黒の瞳を向ける。
「善良は全て、偽善だ。……馬鹿馬鹿しい限りだ」
真っ赤に染まったままもう戻らないゲマの片目に、再びの怒りが込み上げている。姿形はボロボロになりながらも、底なしの魔力を手に込め、ゲマの手に赤い火が灯り、爆発的に巨大化した。メラゾーマの火炎が辺り一帯を赤く悍ましく照らし、リュカたちの姿も呪われたような赤々とした明かりに照らされる。ポピーが敵の生み出す怨念籠る巨大火炎の力を封じ込めるために、マヒャドの呪文を放つが、メラゾーマの火炎は容赦なくマヒャドの氷をも瞬時に溶かし、むしろそれすらも養分にするかの如く取り込んでしまった。
ゲマの頭上に渦巻く巨大な火炎は、それ自体が魔界を照らす悪魔の太陽のようだった。メラゾーマというおどろおどろしく渦巻く火炎の中に、リュカはゲマの人生の行き着いた先を見たような気がして、唐突な無力感に襲われた。プックルに首を噛みつかれても、ピエールに鋭く身体を斬られても、ゴレムスの矢を身体に受けても、悪魔となったその身は滅びない。ポピーの呪文をも取り込んでしまう。今再び、ビアンカがゲマに対抗するべく呪文を唱えようとするが、隣にいるマーサがそれを止める。尽きない悪魔の力に、力で対抗することは不毛なのだと、マーサはビアンカが左手に持つ賢者の石を共に持ち、祈る。
「ゲマ」
そう言いながら、リュカは右手に持つ父の剣の剣先を、静かにゲマへと向けていた。ただ、それまでと異なるのは、憎しみに駆られて柄を握りしめていないということだ。この敵を、葬り去らねばならないことには変わりない。しかしそれはあくまでも、それこそ怨念や復讐の終わりない輪から抜け出せない仇敵を解放するためだ。
「ほっほっ、今頃命乞いですか」
にたりと笑みを浮かべるゲマを見ながら、リュカはその悪しき笑みにももはや憎しみを抱くことができなかった。仇敵の内側を垣間見てしまった。誰の身に降りかかってもおかしくはない人生だった。それが偶々この者に降りかかり、行き着いた先に“ゲマ”が創り上げられた。
「お前は……悪くなかったんだ」
リュカのその言葉は、同時に赦しの言葉だった。父を死に追いやり、母をこの魔界に閉じ込める役目を嬉々として努め、他にも数多に渡る極悪非道なことをやってのけてきたのだろう。その事実は決して許されるものではなく、罪として消えないものだ。しかしそれを許さないと責め続けた後に残るものは一体何なのだろうかと思えば、それは新たな“ゲマ”を生み出すことに他ならない。リュカ自身が“ゲマ”となる未来の可能性を生み出すことにもなる。世の中に起こることはほとんどが偶然なのだ。
「お父さん……」
リュカの妙な落ち着きが、隣に立つティミーにも伝わっているのか、勇者である少年の顔にも焦りの表情は見られなかった。天空の剣をゲマに向け、父であるリュカの隣に堂々と立ち構えている。
ビアンカとマーサが祈りを捧げる賢者の石を持つ二人の腕に、ポピーがそれぞれ手を添える。賢者の石が三人の甚大な魔力に反応し、辺り一帯を輝かせる。祭壇を囲む水の気配が強い聖なる光に晒され、ゲマをも一緒に包み込むように、聖なる光は優しく大きく広がっていく。
「ほーっほっほっほっ! 家族揃って、惨めに死ぬがいい!」
今のゲマが望んでいるもの、それは人間の怯えたような表情、絶望し切った様相だ。しかしこの瞬間においても、リュカを先頭に、誰一人そのような目をしていなかった。最後の最後まで諦めないのだというリュカたちの顔つきを見ていたゲマは、自身の方が怯えたような表情を晒していたことにも気づかなかった。
考える余地など必要ないというように、ゲマの手から放たれた巨大火炎の球は、その中心部をまるで昼間の太陽のごとく発光させながら、リュカたちへと向かった。大事なものを守るための正義をその身に帯びる義理の娘と、心根では勇者である兄にも負けない意志を持つ孫娘の、二人のかけがえのない家族の力を支えに、マーサは両手を広げてゲマの放った巨大火炎の球を宙に受け止める。決して攻撃的に弾き返すのではない。マーサにはそもそも、何者かを攻撃するような力はない。エルヘブンの民として生まれ、生まれながらにして村の大巫女の力を継いだ彼女に秘められた力は、ただ、自然の力と調和する穏やかながらも決してなくならない力だった。
間近に迫る火炎の威力に、意識が遠のきそうになる。ティミーが天空の盾を左腕に構え、ゲマの放ったメラゾーマの火炎をそのまま弾き返すことを試みる。しかしゲマの放った大火炎はあまりにも巨大で、この祭壇の上にあるもの全てを収めてしまうほどの魔力が込められている。メラゾーマの大火球を弾き返すことなどは不可能で、せいぜい自身の前の炎をいくらか弱めるほどの力しか生まれない。
「ティミー、ここで踏ん張ってくれ」
そう言ってティミーの肩に手を置いたリュカは、すぐにその手を離し、今度は反対側に身を低くしているプックルの頭の赤毛に手を置く。
「プックル」
「がう」
交わす言葉はそれだけで、リュカはプックルの背にいつものように跨った。すぐにでも皆を包み込んでしまいかねないメラゾーマの大火のその中に向かって、プックルは前足を掻いて構えるや否や、リュカを背に乗せたまま放たれた矢の如く突進していった。
ティミーが手にしている天空の盾が、父リュカを失ってたまるかと言うように、光を放つ。本来、その神々しい光は勇者であるティミー自身を守るために、あらゆる攻撃的な呪文を跳ね返してしまう力を秘めている。今その光は、大火炎の中に突進していくリュカとプックルの姿を、一直線に強く照らし出している。
メラゾーマの大火炎の只中を駆けるプックルの青い目が、火炎の向こう側に立つゲマの姿を捉えた。その背に乗るリュカの漆黒の瞳も、ゲマが待ち構えているその姿を見た。刃の折れた死神の鎌を両手に構え、炎の中を突き進んでくるリュカとプックルを鋭く見つめている。押し寄せる火炎の力が強まったように感じる。ビアンカとポピーの魔力を支えにして持ち堪えるマーサの力ががくんと弱まったのだ。母と共に在る自然の力と言うものには限りがないが、母マーサの身はあくまでも人間であり、人間の身体には当然のように限りがある。リュカはプックルの背に跨る両足にひと際力を込めた。プックルが応えるように、一段と速度を増し駆ける。
炎はリュカとプックルの身体にもまとわりついていた。メラゾーマの大火炎の中を抜けた二人自体が、まるで火炎の塊となり、ゲマへと突っ込む。ゲマの手にする死神の鎌の長い柄が、プックルに乗るリュカを打ちつけようと振るわれる。プックルが敵のその手に飛びかかり、鎌を握る手に噛みついた。攻撃の手を止められたゲマの顔つきに、苦々し気な表情が浮かぶ。
しかしリュカは、既にゲマの、本来あるべき姿を見たような気がしていた。ゲマは、ただ待っていた。逃げることなく、姑息な手段に頼ることもなく、この魔界の祭壇で、リュカと言う男と正面から対峙することを選んだ。いくらでも手段はあったはずだ。誰かを人質に取ることも可能だった。ピエールのみならず、他の仲間を手にかけることも奴ならば可能だったはずだ。
リュカは間近に見た。ゲマの、赤く染まっていたはずの片眼が、漆黒に塗り替えられた。その漆黒の中にほんの僅か、光の一粒が戻るのを、リュカは己の漆黒の瞳で見た。同時に、手にしていた父の剣は仇敵の胸を静かに貫いた。
斬りつけられようとも、矢を打たれようとも、呪文を浴びようともその身は滅びないゲマ。リュカの剣を受けても、その身体は滅びないはずだった。己の力に目覚めたが、己の心を律するような根っこを持たなかったゲマは、ただただ才能ある己の力に酔うだけだった。しかしそれも人間のままでは限界があると、あっさりと魔に染まってしまったのも、根を持たない人生故のことだった。魔物へと姿を変え、人間だったゲマの人生なるものはみるみる遠ざかり、奴に残されたものは漠然としてしまった世の中への復讐心だけだった。
ゲマが目の前のリュカの頭を鷲掴みにする。鋭い爪がリュカの濃紫色のターバンを越えて食い込もうとする。あまりの痛みにリュカは低い呻き声を出すが、苦し気に細められた目は正面のゲマを変わらず見つめ続ける。
「……お前は……悪くない……」
ターバンの内側から血が滲み、リュカの頬を流れ落ちる。ゲマは己が“悪”であることに根を感じていたのだと、リュカの頬を流れる涙を見て、初めて気づいた。根無しの人生を送った後に得た、“悪”に根を張った新たな魔物としての生に、無意識の内にも意味を見い出していた。それを、ゲマ自身を仇敵として、復讐心を育ててきたはずの男自身に覆された。それまで確固たる意味を持っていた“悪”は揺らぎ、その途端に、ゲマの存在に綻びが生じた。
剣が貫くゲマの胸から、光が生まれた。それはリュカが手にしているパパスの剣から生まれているものではない。剣はあくまでもきっかけを与えたに過ぎない。光を放っているのは、ゲマ自身だ。あまりの眩しさに、リュカもゲマも、互いに目を細め顔をしかめる。
「ぐっ、ぐはあ……! あ 熱いぃ~!」
どれだけ傷つけられようとも痛みを顔に表さなかったというのに、ゲマは己の身体の内側から漏れ出てきた光と熱に、慌てふためくように両手で胸を抑えた。掴まれていた頭を離されたリュカはそのまま床に倒れ、プックルも投げ出された。死神の鎌も床に落ち、派手な音を立てる。巨大火炎の球として放たれていたメラゾーマの呪文もまた、宙で端から溶けるように縮まり、最後にはメラほどの小さな火となって宙に残り、ふっと消えた。同時に、呪文を抑え続けていたビアンカとポピーはその場にへたり込み、力を使い果たしたマーサは、まるで糸が切れるようにその場に倒れ込んでしまった。
「なんですか この光は~っ!?」
悪の権化と、誰からも思われていたに違いないゲマの身体から放たれる光は、信じられないほどに神々しく、力のあるものだった。ゲマ自身、己の体の中にこれほどの正しき光が秘められているなど、想像の片隅にも過ったことはなかった。
「こ この私がこんな光に焼かれるなどと……そんな そんなことがあっては……」
マーサは、ゲマという極悪非道な魔物においても、その中には必ず善なる光があるはずだと信じ、諦めていなかった。彼はただ、取り返しのつかないほどの分厚い殻の中に閉じこもってしまっただけなのだと、愛する我が子にも教えてやりたいと願っていた。そうしなければリュカこそが、復讐の心に捉われたままの魔族の王になってしまうと、マーサの母としての心がそう動いていた。
ゲマの身体から放たれる光は凄まじく、もはや光だけがそこにあり、ゲマの姿が見えない。リュカを初め、皆がまともに目を開けてはいられない状況だ。光は、広い祭壇の上を覆い、祭壇の外に構えていたアンクルにもゴレムスにも、ゲマの放つ光は広がっていく。
その中でリュカは、目を閉じても眩しいその瞼の裏に、黒い自分の影を見たような気がした。自分と思うその影は、人間だった頃の、若かりし頃のゲマなのかも知れない。誰に手を差し伸べられることもなく、ただ自身にのみ向き合うその黒い影に、リュカはそうするべきだと手を伸ばした。気づいた影が振り返ったように動き、恐る恐る手を伸ばしてくるように見える。
リュカは掴もうとした。しかしあまりにも手遅れなのだと、影の手は引っ込められた。そしてそのまま、眩い光に包まれた。
「げぐぁ~っ!!」
ゲマの叫び声が響くが、その姿は既に光の中に消えていた。ゲマは己の内側から溢れ出て、膨れ上がって止まらない光の中に取り込まれ、悪魔の身体は光に焼かれた。仇敵ゲマを倒すことが、リュカの悲願だった。しかし今、その光景を目の当たりにして、リュカはただ父の剣を手に掴みながら、胸に虚しさと同情を抱くだけだった。
Comment
bibi様。
明けましておめでとうございます、本年も宜しくお願いします。
一つお聞きします。
ビアンカがリュカの所に行ったんですよね?
氷の呪文の使い手って書いてあるけど、ビアンカのことを指していますか?
マーサは最後、魔力を使い果たして倒れた設定になったんですね、ゲームではメラゾーマで亡くなります、bibiワールドでは魔力切れで亡くなる予感です。
次回は涙のシーンですね、どのように描写するか楽しみです。
ケアル 様
明けましておめでとうございます。
今年も早速コメントをどうもありがとうございます。
リュカのところに駆けつけたのは、ティミー、ポピー、ビアンカの三人で、氷の使い手〜のところは「たとえビアンカが氷の使い手であっても…」というようなたとえの話ということです。分かりづらくて申し訳ないです。
次回も見どころのところですね。ゲームとは少し設定が異なりますが、私なりに書いてみたいと思います。
bibi様
遅ればせながらあけましておめでとうございます
やっと読みました
こんなゲマを表現できるのはびbibi様だけですよ
すごいの一言です!!
復讐や憎しみのない世界に
今年こそ近づいて欲しいと現実の世界で
マーサのように祈ります。
なんの力もありませんが。
平和祈願
とも 様
どうもあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
こちらのゲマは、ちょっと皆様に受け入れられるかどうか分からないなぁと思いながらも、ヤツを完全な「悪」にはしたくなかったので、このような内容でまとめさせてもらいました。とも様には受け入れて頂けたようで何よりです。ありがとうございます。
復讐や憎しみのない世界……本当ですよね。現実の世界がとても不安定なので、色々と落ち着かないですが、私にも何かできることがあればしていきたいなと思いつつ、今年も頑張って行こうかと思っています。私もそれなりの年齢になってきてしまったので、何かを待つのではなく、自分にできることがあればと、こちらのサイトから色々と発信させてもらおうかなと思っています。なんせ、色々と発信されている方々や政治家にも、同い年が出ていたりするので、他人事じゃあイカンなと……そんなことを思う今日この頃です。