解放

 

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悪の権化とも思っていた仇敵の、その身体の内から夥しい光が溢れ、それが止むと今度は元よりも深い闇の景色が広がったように感じた。エビルマウンテンの山頂に位置する祭壇を広く囲むように水の気配はあり、青白い光は依然として消えていない。しかし聖なる気を帯びたその光は明らかに弱まり、何かの拍子にふっと消えてしまいそうなほどに感じられる。
敵の胸を貫いていたはずの剣を、リュカは静かに下ろした。剣の柄を掴んでいる感触もなかった。ただリュカの手を離れまいとする父パパスの意志だけがそこに働いているかのようで、パパスの剣は息子の手に収まっている。
宿敵ゲマの内側に、本人も知らない光が隠されているのを暴く切欠を与えたのは、このパパスの剣だった。死んでも守るのだという強烈な親の愛情を、パパスはただ持っていただけだ。ゲマに最も必要なものは、ただの愛情だった。しかしゲマは自ら必要なものから遠ざかり、決して近づこうとはしなかった。親子の愛情は美しいと、その口でまるで揶揄するように言っていたが、それは敵の本音だったのだ。ゲマは無意識にずっと家族の愛情に焦がれながらも、己の本心に気付かないでいた。しかしたとえこの場で気づいたところで、全ては手遅れだった。数多の罪を重ねてきたゲマと言う魔物の行き着く先は、一つしか許されていなかった。
目もつぶれるほどの光を放ち、この世からもあの世からも消え去ってしまったであろう宿敵は、手にしていた死神の鎌をも連れて一切の存在を消した。今、リュカの目の前にはただのエビルマウンテン山頂の虚空があるだけだ。現実らしい現実が目の前にあり、その景色を束の間見つめるだけで、リュカは己が全身に火傷を負っていることに、唐突に気づいた。あまりの痛みに、身体全体が痺れてくるようだと、力を失った両足は膝を折り、床に着き、そのまま前へと倒れ込んでしまった。リュカの傍には、同じように倒れているプックルが、既に意識を失っている。己と同じように酷い火傷を負っているプックルを目の端に捉え、リュカは戦友の傷を癒してやろうと手を伸ばす。
「お父さん!」
ゲマが生み出していた甚大な大きさの火球は消え失せ、しかしまだ熱の残る床の上を、ティミーが駆けて来る。ティミー自身も、あの巨大火球の熱に耐え、天空の盾の護りをリュカとプックルへと向けていた。しかし己の状態などはさて置いて、ティミーは目の前で息も絶え絶えの父と友達を救うべく、倒れる二人に向かって自らも倒れ込んだ。足がもつれ、立っていられないのは、ティミーも同じだった。
リュカの手がプックルの腹に届き、添えられる。ティミーの手が父リュカの背に添えられる。同時に回復呪文ベホマの呪文が発動され、リュカとプックルの傷がみるみる癒されて行った。プックルは目を覚ますなり、戦闘本能も同時に呼び覚まされるように、その場に飛び起きた。たった今まで戦っていた仇敵の姿を探すように、姿勢を低くして辺りを見回すが、その姿はどこにもない。その気配さえ感じられない。
「プックル、あいつは……いないよ」
戦友の声のする方を向けば、プックルの青の目には似たような顔つきをした見慣れた父子の姿があった。隣り合って座り、リュカがティミーの背中に手を添えてその身体を支えていた。そしてその手で今度は息子ティミーの体力を回復させようと、ベホマの呪文を唱えた。彼らは一様に傷こそ癒し、すぐにでも動けるほどの回復を見せたが、つい先ほどまでの激しい戦いから、途端に静かな暗黒世界の虚空に放り出されたようで、その心細さから能動的に動くことができなかった。沈黙の中に落とされたリュカもティミーもプックルも、こんな沈黙を冷静に破ってくれるはずの仲間がいないことに、嫌でも気づかされた。リュカは己の身に残る回復呪文の熱を感じ、本来ならばもう一人、回復呪文の使い手がいるはずなのにと、束の間何もない虚空をただ悲し気に見つめた。
その時、エビルマウンテンの空を覆う厚い雲が、不穏に動き出したのを誰もが感じた。祭壇の上で倒れていたマーサは不穏をその身に察知するなり、目を薄く開き、倒れた身体を起こそうと祭壇の床に手を着いた。マーサの命は尽きていない。尽きていない限りにはやるべきことがあると、マーサは己でも分からないような力が全身に帯びるのを感じ、まだ辺りに漂う水の一粒一粒へと呼びかける。
マーサの祈りは、全てのものへの祈りだった。善きにつけ悪しきにつけ、彼女の祈りの先には全てのものがある。それ故に彼女は、リュカの宿敵でもあったゲマに対してでさえも、憐れみを感じ、救いの手を伸ばそうとしていた。救えるものがあるのなら救わなければならないという彼女の思いは、エルヘブンの大巫女としてのものというよりも、愛する家族を持った母としての思いが強いのかも知れない。
「お母様! 無茶だわ、そんなの!」
強力な魔力を有するビアンカだからこそ、マーサの無理がその雰囲気に分かる。マーサはそもそも、魔力の強い人間ではない。ビアンカの目に映るマーサは、どこか、人間ではない気配を醸している。その雰囲気は夫であるリュカにも通じる。この母と子には、魔物を魔物と見ないような特別な瞳がある。それは恐らく、純粋な人間には届かないところにある力なのだろう。
「ねえ、おばあちゃん、私にも何かできることは……?」
母であるビアンカを凌ぐような魔力をその身に帯びるポピーが、どうにか冷静を保とうとしながらも、祖母であるマーサの腕に手をかけて止めようとする。ゲマの放った強大なメラゾーマの火炎球を抑えるために、マーサとビアンカと力を合わせ、その魔力を使ったポピーだが、マーサの為そうとしていることに己が手伝えるものがないということも半ば理解している。しかし理解しているからと言って、一人奮闘しようとする祖母を放っておくことはできない。
マーサが閉じていた目をゆっくりと開いて、目の前に共に座り、己を見つめている娘と孫を見つめる。息子リュカが、これほどに美しく勇敢で、優しさに溢れる家族に恵まれたことを我が事のように嬉しく思う。自身が母として何もしてやれなかったことの埋め合わせをしてほしいなどとは思わないが、これからも息子の力に支えに、そして息子リュカにもこの愛すべき家族のために生き続けて欲しいと願う。
「ありがとう」
ただただ感謝の念が言葉に出る。それがマーサの本心だった。全てのものに感謝の念を覚える。マーサは水の一粒一粒に至るまでの存在に、その思いが行き渡るのを感じることができる。エルヘブンの村に大巫女の立場として生まれた彼女が持つ、類まれな力が自然とそうさせる。
世界を救う勇者とはまた異なる血筋が、エルヘブンの村には代々伝わっていた。世界から隔絶されたような土地に住み、その血筋はひっそりと、しかし確かに継承されていた。地上世界と魔界とを繋ぐ魔界の門を管理する責務から、エルヘブンの民は逃げるわけには行かなかった。その責務こそがエルヘブンの民の誇りであり、呪縛であり、贖罪だった。一度、世界を危機に陥れた罪を償うことは永遠なのだと、ただ詫びるなどと言った何も生み出さないような行いではなく、地上世界の平穏を保つために、魔界の門の番人を務め続けてきた。地上世界を守るためにエルヘブンの民がすべきことはこれなのだと伝えられ、それを信じ、怠ることなく務めてきた。
かつてのグランバニアの王がエルヘブンの村に偶然にも足を踏み入れた時に、永遠に続くと思われたエルヘブンの時間が動いたのだ。それが果たして偶然だったか必然だったかなど、今となっては問題ではなく、ただそれが起こったこととして過去に存在する。時間は戻せないのだと何度でも痛感する。それならば、過去に起こったことを礎として、現に生き、未来に希望を見い出すだけなのだと、マーサはたった一人魔界に連れ去られてもその思いを絶やさなかった。
エビルマウンテンの山頂の上、魔界の空に暗雲が渦巻く。宿敵ゲマは、ゲマ自身が発した光に飲み込まれ、消え去った。魔界という世界において、エビルマウンテンの山頂から、辺り一帯の空気を震わすような影響を与えるようなことは、ゲマにもできなかった。ゲマという魔物にはそのような力はない。
頭上に厚く激しく渦巻く暗雲に、リュカはこの世界の大魔王となった者の憤りを見た。消え去ったゲマは大魔王ミルドラースに最も近い存在であったことは間違いない。その憤りは頼れる腹心を倒されたことに対する怒りや悲しみかと問われれば、即座に首を横に振ることができる。ゲマ自身が多くの魔物や部下を心なく使っていたのと同様に、ゲマ自身もまた、ミルドラースに無情に使われていただけだったに違いない。
ミルドラースの憤りは、祈るマーサの頭上高くに渦巻き、マーサの希望に乗せる祈りを潰そうとする。マーサの希望は、地上世界の安寧。その為に彼女は己の命を懸ける思いで長い間、エルヘブンの大巫女の力を大いに発して魔界の門を守りつつ、大魔王ミルドラースとの対話をも試みてきた。しかし今、これまでどうにか均衡に近い空気が保たれていたものが崩れかけている。崩す切欠を作ったのは、リュカたちだ。リュカたち人間が、仲間の魔物が、この魔界に入り込んできたことを切欠として、魔界と地上世界との均衡が崩れようとしている。しかしこれもまた、なるべくして起きた事に過ぎない。そしていつかは起きることだった。
リュカが両手を上に掲げた。その両手から発せられる風は唐突に勢いを増し、唱えるバギクロスの呪文を魔界の空へと放つ。渦巻く暗雲に抗うべく、リュカはバギクロスの呪文に己の残る魔力を全て注ぎ込むように、辺り一帯の空気を激しく揺るがすほどの暴風を巻き起こす。
息子リュカがその両手に暴風を操る姿を目の当たりにし、マーサはその姿にはっきりと息子の成長を見る。思い出の中のリュカはずっと赤ん坊のままで、その成長をいくら想像してもやはりリュカはマーサの中では赤ん坊のままだった。それが逞しい青年に成長し、守るべき家族を持ち、共に生きる魔物の仲間もおり、この魔界と言う異世界にまで足を踏み入れてきた。背丈も夫パパスに並んだだろうかと言うほどに大きくなり、空に向ける両腕もまた戦士の如く隆々としている。そしてその瞳が己と同じく漆黒の色に輝いているのを見ると、マーサの目からは自然と涙が零れた。
「リュカ」
思わず我が子の名を呼んでしまうのを止められない気持ちを汲むように、マーサの隣でビアンカが義母の腕を擦る。
「リュカ……」
涙声で我が子の名を呼ぶマーサの隣で、ポピーが同じように涙目になりながら、祖母の腕に抱きついている。
マーサの声がリュカには聞こえていない。リュカは魔界の空に渦巻く暗雲を暴風で散らし、空に魔力が溜まるのを防ぐのに必死だ。一体ミルドラースが何をしようとしているのかは分からないが、大魔王の魔力を空の一点に集中させることなど危険極まりないことだと、リュカはそれに抗う。それでも暗雲のそこここに閃く雷の気配を目にして、近くに立つティミーとプックルもまた、大魔王の力に抗うべく暗雲を遠くに見据える。暗雲の隙間にちらちらと閃く雷の一つ一つを目に確かめるのではなく、雷の気を帯びる己自身に感じるように、ティミーもプックルも対抗するような雷の気を暗雲の中に発生させる。散らばる暗雲のそこここに、光り輝く稲妻の気配が漂い、エビルマウンテンの山頂の空が激しく明滅する。大魔王の力に抗うにも限度がある。リュカたちの魔力が底を尽いてしまえば、抗うこともできなくなる。
リュカはただ、空の一点を見つめている。母マーサの真上、そこに暗雲は集まろうとする。恐らく大魔王ミルドラースにとって、相手となる者はマーサしかいないという思いや考えがあるのだろう。リュカたちのことは眼中にも入っていないようにも感じられる。対話の相手となるのは魔界の門を開くことのできるエルヘブンの大巫女マーサだけであり、他に用はないのだと言わんばかりに、ただただマーサの真上の空に力を集中させようとしている。
「本当にあなたはおどろくほど成長しましたね……」
一瞬、リュカは片手にバギクロスの暴風を操る間に、片手に父の剣を取り、空へと向けた。剣の先が雷の明滅に煌めき、たとえ暗雲から稲妻が落とされようとも、自らが避雷針となり受け止めることを示すように、暗雲へと剣先を突き上げる。リュカのその姿を見て、マーサの腕を擦るビアンカの手が思わず止まった。そして小刻みに震え出す。夫リュカの、自己犠牲を顧みない本性に誰よりも気づいているビアンカは、義母の救出と、夫の献身との板挟みに、己の心の迷いに素直になるしかなかった。
「今まで母はあなたに何もしてあげられなかったというのに……」
娘の苦しい思いにすぐさま至るマーサは、そっとその手に己の手を当て、腕から退けさせた。可愛い孫娘の、まだ己よりも一回り小さな手にも手を当てると、促すようにその手をも己から離した。誰よりも慈愛の深い雰囲気を漂わせるマーサだが、その身はエルヘブンの大巫女であり、地上世界の平穏を守る役目を一身に担う血筋に生まれた者だった。
リュカの行動を見ていた宙に留まるアンクルもまた、リュカだけに荷を負わすことなどあってはならないと、自らもデーモンスピアを構え、宙高くに舞い上がる。第一に、リュカはここで死んではならないのだと、アンクルはリュカを庇って世から消え去ってしまった仲間のピエールを想う。ピエールの動きには、まるで迷いがなかった。リュカを生かすという目的のために、自らを死神の鎌の前に晒すことに、ピエールは躊躇をしなかった。仲間の命懸けのその想いを目の当たりにした後で、アンクルもまた怖気づくことはなかった。捨て駒にされるのは御免だが、自ら捨て駒になるのは構わないという気持ちが、アンクルの胸の中に自然と生まれている。
広い祭壇を、地響きのような音と共に揺れが襲う。この祭壇はただ人間のマーサのために作られたものだ。エビルマウンテンの山頂に作られたこの祭壇を通じて、マーサは祈りを捧げ、魔界と地上世界とを繋ぎ止めている。その祭壇に、人間のために作られた階段を半ば壊しながらも、ゴレムスが上ってくる。
ゴレムスは冷静に、マーサの命が尽きかけていることを感じていた。しかしその行動は、冷静ではなかった。ゴレムスの脳裏に、マーサと過ごした日々が蘇る。エルヘブンの村に生きるゴーレムの中で、ゴレムスは最も小柄だった。大きければ大きいほど良いとされているゴーレムの中で小さなゴレムスが、マーサにとっては最もお気に入りの友達だった。村の外に出る時も、マーサは常にゴレムスと一緒だった。村の外で、見知らぬ男と遭遇した時も、ゴレムスはマーサと共に男を助けた。そしてやがてはその男、パパスと共に、マーサはエルヘブンの村を出るが、その時一緒にゴレムスはマーサの身を守り続けるためにと村を出た。
他にも仲間がいた。スラぼうもエルヘブンの村に共に住んでいた魔物だった。ミニモンにサーラ、キングスは、マーサがパパスと共にグランバニアへ向かう旅時の間に、新たに友達となった者たちだ。皆が皆、マーサが普通の人間ではないことに当然のように気づいていた。しかし彼女が何者なのかははっきりと分からないままだろう。彼女という者について最もその雰囲気を理解しているのは、今ではゴレムスただ一人に違いなかった。
ゴレムスの目に映るマーサは、人間ではない。彼女はまるで背に軽やかな羽を生やす妖精のようだと、ゴレムスの目には映っている。しかし妖精でもない。背に羽が生えているわけではない。彼女と言う存在が、自然の力と一体となり、その力を発揮する時に、マーサは束の間その存在を明らかにする。生物の命の源である水に最も親しみ、風を胸に抱き、火とは話をし、土は彼女の存在を隠し守る。その土を、ゴレムスは己の身体に表し、命尽きようとするマーサを最期まで守るのだと、人間用の祭壇の階段を壊しながらも上り切った。
アンクルが宙に浮かびながら、槍先を渦巻く暗雲へと向ける。下で、リュカが父の剣を掲げる。しかしそれらを全て包み守るように、ゴレムスは届くアンクルの足を掴み己へと引き寄せ、下へ下ろすと、大きなアンクルさえも一緒くたに守るように己の身体で皆の頭上に屋根を作った。
「ゴレムス、どいてくれ!」
バギクロスを操るリュカの両手から放たれる魔力が鈍っている。それは屋根を作るゴレムスに遠慮してのものではない。単に、リュカの魔力が弱まっているのだ。元来、リュカの魔力は決して強力なものではない。それを残りの力を振り絞るように、底など考えないままに、ありったけの魔力を放出して暴風を起こしているのだ。いつまでも持つようなものではないと父の行動を見ていたポピーは、その手を頭に被る風の帽子に当てていたが、風の帽子はこのエビルマウンテンの山頂の神聖であり、かつ邪悪でもある空気に圧倒されるように、本来の力を発揮しようとはしない。
「お願いよ! 私たちをここから連れ出してよ!」
ここまで来た目的は、マーサの救出だった。宿敵であるゲマを倒し、今の今、この場所からマーサを連れて逃げ出す好機なのだと、ポピーは父リュカの代わりにルーラの呪文をも唱えようとしていた。しかしいつもは冷静に脳裏に行くべき場所の景色が広がるが、まるで脳裏にも頭上の暗雲が立ち込めているかのように、思い浮かべようとする景色がかき消されてしまう。それならばと、風の帽子の力に頼ろうとしたが、風の帽子の魔力も大魔王の脅威に縮こまるように力を発揮できないのだ。
プックルが雄たけびを上げた。空に渦巻く暗雲が眩しく光り、雷は祭壇を避けるようにエビルマウンテンの山へと落ちた。轟音が鳴り響き、山が揺れる。息切れを起こすプックルに代わり、ティミーが集中し、暗雲の中に閃く雷の気配をまとめる。大魔王の力には、ティミー一人では到底抗い切れない。それ故に、逸らすのが精いっぱいで、ティミーもまたプックルと同じように大声を上げて雷を逸らした。祭壇の脇を光が落ち、同時に轟音が皆の耳を劈いた。魔力を放出し続けることには限界があると言うように、ティミーもまた息切れを起こし、その手から生み出される魔力が途端に弱まる。
リュカが一人、暴風を巻き起こし続け、持ち堪える。本当は魔力は底を尽いている。リュカが犠牲にしているのは、己の生命力だ。この方法をリュカは知っていた。
呪文を扱うのに必要なのは魔力だという常識を超えたところに、自己犠牲の呪文と言う禁忌の呪文が存在する。それを初めて知ったのは、まだグランバニアという国もよく知らない、ビアンカと共にテルパドールを訪れた時のことだった。テルパドールと言う砂漠の国で数日滞在していた時に、リュカは国の学者の手伝いをする仕事を得た時があった。その際に手にした書物に、禁忌の呪文である自己犠牲の呪文が二つ載っているのをリュカは目にした。
リュカにはこの呪文が何故禁忌とされているのかが理解できなかった。それほどにリュカにとっては何も特別なこととは感じられなかったのだ。己の身を犠牲にして大事な者たちを守れるのなら、その呪文を使うことに躊躇はないと思えた。しかし自己犠牲の呪文はそれほど容易いモノではなかった。大事な者たちの命が大事であると思うと共に、己の命をも大事だと思わなくてはならないのだ。それがリュカには難しかった。
しかし今、リュカは己の生命力をも賭して呪文を放ち続けている。自己を愛せているのだと気づいた。目的でもあり、夢でもあった母マーサに出会い、記憶の限り、初めて母の胸に抱かれた。その瞬間にリュカは確かに母の無償の愛を感じた。何の見返りも求めない、ただ与えるだけの愛を受け、リュカは自分自身を愛しても良いのだと、父を失って以来、ようやく地に足がついたような安心感に包まれたのを感じざるを得なかった。
リュカは共に旅をする仲間たちをまとめるリーダーの立場となる者だ。リュカが母マーサを救おうと命を削る行動を止められる者が、今はいない。リュカの生きる目的そのものがもはや母マーサの命そのものというほどに、リュカの想いは乱暴なまでに凝縮されている。もし彼のこの想いに対して冷酷にも反することができる者がいるとすれば、それは恐らく純粋にリュカにのみ心酔していたピエールしかいなかっただろう。
―――リュカ―――
リュカの思考の中に入り込んできた声があった。己の思い以外を受け付けようとはしないリュカの心をほぐすように、マーサは心でリュカに呼びかける。
―――でも、最期だけはあなたの助けになりましょう―――
「いやだ!」
―――さあ 下がりなさい……―――
「いやだ!!」
脳に響く母の声に抗うリュカの後ろで、マーサはビアンカとポピーの手を離れて立ち上がっていた。ポピーは風の帽子を握りしめながら、まるで地を歩いていないような、軽やかに遠ざかっていく祖母の後姿を見る。ビアンカは手にしている賢者の石の感覚も分からないまま、ただ義母の、全てを一身に背負っているような凛とした背中を見る。ビアンカよりも華奢な義母の身体に、一体どれだけの力や神秘が備わっているのだろうか。マーサが身に着ける緑のローブは、まるで地上世界のそこここに根付く草花の、木々の緑のようだった。人間がただ衣服として身に着けているのではない。マーサ自身が草花となり、木々となり、世界の命そのものであろうとする精神が、彼女の身に着けるローブを生き生きとした緑に染めているようにも思えた。
マーサの行く手を遮るように、巨大な手が壁を作る。ゴレムスは上からマーサを見下ろし、ただ静かに見つめている。ゴレムスの巨大な身体が作る屋根の内側に、皆が収まっている状況で、ゴレムスは片手をマーサの前に横にして立て、それ以上進むなと見つめる。
「ゴレムス」
マーサはゴレムスの手に寄り添い、両手を当て、額をつける。マーサがまだ幼い頃からこの巨人の手はマーサを守り続けてきてくれた。マーサはいつでもゴレムスに話しかけた。ゴーレムが言葉を持たない者であっても、それは問題にならなかった。エルヘブンの村に生まれ、特別な血を継承したマーサには、ゴレムスの内なる言葉も人間の言葉のように聞こえていた。
「ありがとう」
マーサは一言、感謝の言葉を口にした。彼女は常に、感謝の心を胸に抱いている。それは決して、そうあるべきだという義務に駆られての思いではない。ただただ、この世に生まれ、ここまで生かされてきたことに対する感謝の念が、己の命を感じるだけで自ずとそのような思いに変わるのだ。しかし今の彼女の言葉が、ゴレムスにははっきりと別れの言葉に聞こえた。
「……………………………マー、サ」
初めて聞いたゴレムスの低い低い声に、思わずリュカは上を見上げてゴレムスを見た。水の気配など感じられないゴレムスの目から、ぼたりと水が落ち、リュカの目の前に水溜りを作った。リュカは己の足元にできた小さな水溜りに目を落とすと、体中から力が抜けていくのを感じる。グランバニアで、リュカがまだ何も知らない時からずっと、ゴレムスはマーサの帰りを待ち続けていた。そのゴレムスの思いが全て詰まったような涙を目にして、限界を超えていたリュカの身体は立つことも保てなくなり、両膝を地について、その場に座り込んでしまった。
マーサがゴレムスの大きな手を二度ポンポンと叩くと、ゴレムスはそれを合図と受け取り、手の平を上に向け、マーサが手の平に乗るのを待った。エルヘブンに暮らしていたマーサがまだ子供の頃からの、変わらぬ合図だった。ゴーレムは主人となる者を守るための存在でもあり、また主人の命令には必ず従う存在でもある。今マーサを手の平に乗せることは、ゴーレムの存在意義に矛盾を生じさせるが、マーサが望むことをゴレムスは拒むことができない。
「……ゴレムス……やめてくれ……」
ゴレムスの巨大な手の平に乗るマーサは、リュカの元を離れていく。まるで生贄が捧げられるようなその形に、リュカは再び抗おうべく立ち上がろうとするが、地に着いた両膝は離れず、力は入らない。それは隣にいるティミーも同じで、リュカの腕に掴まってどうにか座る状態を保てている状況だ。同時にティミーは、父リュカにこれ以上立ち上がって欲しくはないと望んでいた。リュカの手は、既に剣をも握れないほどに力尽きている。常に意地でも離さないパパスの剣が今は、リュカの足元にできた小さな水溜りに落ちていた。リュカが父パパスを失いたくなかったのと同じく、ティミーもまた父リュカを失いたくはない。
「……お父さん……お父さん……!」
ティミーは己がこれくらいで力を使い果たしてしまうなどと、信じたくはなかった。しかし何故だか力が入らないのだ。辺りに漂う聖水の気配がみるみる濃くなっている。ゴレムスの手の平に乗り、上へと上がって行く祖母の姿が、まるでこの光のない魔界そのものを己の身に纏うローブの輝く緑に染めようとしているように見える。エルヘブンの大巫女の祈りの力は凄まじく、祖母を中心とした聖水の気配が目に見えて凝縮していくのが分かる。
ゴレムスの手の上に乗るマーサには、自身の足でその上に立っている感覚はなかった。ゴレムスの固い石の手の平を柔らかな土のように感じ、そこに根を張って立つ木の如く、マーサは友達のゴレムスの手の上で一本の木となっていた。
かつて、地上世界には世界樹と呼ばれる奇跡の大木があったという。その木の枝につく葉には、亡くなった人を蘇らせるほどの力が秘めてられており、決して枯れない世界樹の葉は今もこの世界にいくらか存在している。魔物が持っていることもある。過去に世界樹の枝葉が一人の天空人を助けたことなど、今を生きるリュカたちには知る由もない。かつて世界樹の立つ場所に、エルフと呼ばれる種族がひっそりと暮らす里があったことも、その里のあった場所に悪しき魔物の塔が建てられてしまったことも、そんな歴史をリュカたちは全く知らない。
しかしマーサはその身に、世界樹の恩恵を感じていた。マーサ自身も知らない世界樹の恩恵を感じることができた。それはただ彼女が、然るべき血筋を引いてきたという、それだけの理由だった。地上世界から世界樹の巨木は消え去ってしまったが、彼女の血に、世界樹と暮らしてきた過去の種族の記憶が残っているのかも知れない。
「全知全能の神よ! 我が願いを聞き給え……」
ゴレムスの手の上に立ち、両手を組み合わせ、マーサは祈りを捧げる。辺りの空気は震え、マーサの祈りに合わせ、聖なる水は彼女を幹にするように柱となり、まるで彼女を取り込んだ巨木の体を為す。青白い光を放っていた聖なる水は光を強め、白く輝き出す。
「われは偉大なる神の子にしてエルヘブンの民なり……」
マーサの祈る神とは、あらゆるものに宿るものだ。自然物、動物、人工物、当然魔物にも、それぞれ神は宿っているとマーサは信じている。その全てに対して、マーサは祈りを捧げる。
「神よ!」
「……母さん……」
下で、リュカが小さく呟くのをマーサは聞いた。すっかり低くなった声、その声は夫パパスにも似ている気がすると、思いが溢れればマーサの目からは自ずと涙が零れた。そして大事な者たちを守らねばならないという思いが強まり、彼女は視界を閉ざすように両目を閉じた。
「この命に代えて邪悪なる魔界の王ミルドラースの……」
眩い光はマーサの祈りと共に、暗黒の空を覆おうとしていた。凄まじい力だが、やはり呪文を操るような魔力ではない。
かつて世界樹は、砂漠の只中にただ一本、ぽつんと立っていた。それは世界樹の凄まじいまでの生命力が、周りの土地を容赦なく枯らしてしまうからだった。マーサの捧げる祈りの力で、魔界の空に立ち込める暗雲までもが白く輝き始める。いつまでも淀み、留まろうとするエビルマウンテンの暗雲を、強いばかりの生命の光で照らし、封じ込めようとしている。同時に、全身全霊で祈りを捧げるマーサ自身もまた、光の中に飲み込まれようとしている。ミルドラースの魔力を封じるための力を放つことは、己の命をも糧にするのだと言うように、マーサは己の身がたとえ機能しなくなっても祈りを止めない精神を保つ。
その時、光が止んだ。代わりに空は、嘘のように暗雲が立ち込め、マーサの真上に竜巻のような黒い雲が渦巻いた。黒い雲の中に光は見えなかった。しかし黒い雲は怒りの雷を産んだ。神は私だと吠えるような、怒りだけが込められた雷が、祈るマーサの身体を直撃した。
壊れたゴレムスの手の破片が、ぼろぼろと落ちて来る。その下で、時が止まったように状況を見つめているリュカたちを守るために、アンクルが落ちて来るゴレムスの手の破片を一身に受け止とめると同時に、その破片の中に共に落ちて来るマーサの身体をも受け止めた。反転するように弱まった光の中で、寧ろ染まりつつある闇の中で、アンクルは片腕にマーサの身体を抱えると、背中にまだ落ちて来る石を受けつつもリュカたちのところへと向かう。アンクルの片腕に抱えられるマーサの身体は人間を思わせるものではなかった。アンクルは人間を抱えている気がしなかった。まるで全ての命を使い果たして、中が空洞になってしまった枯れ枝のようだった。まだ温かく、命があること自体、現実のものとは思えなかった。
アンクルはただ、リュカたちの前に、命尽きようとしているリュカの母を静かに横たわらせることしかできなかった。枯れ枝と感じたことも嘘だと思った。アンクルの手を離れたマーサの身体は、まるで枝から落ちる木の葉のように、ふわりと、そこにある空気にも負けるような動きで床に自ずと横たわったのだ。
リュカは四つん這いになりながら横たわる母の元へと進むと、その手を取り、すぐさま回復呪文を唱えようとした。しかしリュカの手からは何の魔力も生まれない。既に魔力は尽きている。己の生命力をも魔力に変えることができるはずだと、リュカは懸命に母の手を握るが、リュカが生み出そうとする力を、母マーサは一切受け取ろうとはしない。代わりにと、ティミーが回復呪文を試みるが、唱えたベホマの呪文はマーサの身体を通り抜けて、見えないままどこかへ消えてしまった。回復呪文を受け止める身体が、マーサにはもう残されていないのだ。
「母さん……もういいよ……もういいから……」
これ以上頑張る必要などないのだと、リュカは倒れるマーサの手をただ擦る。母を死なせるわけには行かない。グランバニアに連れて帰らなければならないという思いは、グランバニアで母を待つ者たちの顔をリュカに思い起こさせる。スラぼうはマーサに飛びついて喜ぶだろう。ミニモンもはしゃいでマーサの周りを飛び回るに違いない。キングスはあの大きな水色の身体でマーサを受け止め、サーラなどはいつもの冷静さも失って泣いて喜んでくれるかも知れない。リュカが魔界に行くことを止めたオジロンも、義理の姉が城に戻ってきて喜ばないはずがない。リュカたちが魔界に赴いたことも知らないグランバニアの人々もまた、長きに渡りマーサの帰りを待ちわびている者が多くいる。
唯一、リュカが魔界に行くことを後押ししたのは、サンチョだった。サンチョはリュカを信じてくれた。リュカの成長を最も深く認めてくれていた。それ故に、パパスの悲願であったマーサの救出を、息子のリュカに託したのだ。リュカの成長を誰よりも理解していなければ、寧ろ最もリュカをグランバニアに引き留めたのもサンチョだっただろう。主であるパパスを失い、パパスの悲願でもあったマーサの救出にも失敗したとあっては、あまりにもサンチョに救いがないではないかと、リュカは無駄に終わろうとももう一度母に回復呪文を施そうとする。
そのリュカの意を受け取るように、マーサがゆっくりと目を開けた。開いたマーサの瞳は漆黒の色に染まっておらず、色が抜けたような灰色に変わっていた。その瞳に光は見えず、目の前で顔を覗き込むリュカをも映してはいない。ただ、彼女の胸に残る想いだけを頼りに、マーサは再び身を起こした。その手も、身体も、何もかも、リュカの身体をすり抜け、彼女は両膝を石床に着いて両手を組み合わせる。
「ミルド……ラースの……ま 魔力……を……」
マーサは決して、ミルドラースと言う大魔王を倒したいなどとは思っていない。ただ強大な力を持ってしまった元は人間だった者の、分不相応とも言えるその魔力を削ぎ、そうすることでミルドラースをもこの世に生かすことが良いことなのだと信じているのだ。誰も悪くない。仕方がなかった。それ故に救いがなければならないのだと、彼女は彼女に出来ることを出来得る限りするべきなのだと信じて、己を賭すことを止めない。
思いは強く、受け継いだ血もまた特別なものだった。しかしやはりマーサも、人の子だった。彼女の思いを支える身体は限界を超えており、風に吹かれてそのまま消えかねないほどに朧げになってしまった彼女の身体は、見えない空気のその上に乗るようにふわりと倒れた。
「はあはあ……。こ こんなはずは……」
声も小さい。小さいというよりは、どこか遠くから聞こえているような響きを感じる。現実に目の前にその姿を見ているというのに、既に母マーサはこの世から旅立とうとしているのが分かる。それほどに精魂尽き果てようとしているマーサだが、あまりにも強く育ってしまった息子リュカへの愛情のために、その身が尽き果てようとも諦めることができない。
「そ それほどまでにミルドラースの魔力が……」
「母さん……。僕が……僕たちがどうにかするから……」
倒れる母の手を取ろうとするリュカだが、もうその手に触れることができない。彼女は既に力を使い果たし、この世に身体を保てなくなってしまった。今、リュカたちの目の前に見えているのは、マーサの強烈な思いだ。その強烈な思いはたとえばそのまま高みを極めてしまった時に、一体何へと変貌を遂げるのか。それはもしかしたら、人間が魔物となる入口に近づいているのではないだろうかという考えが頭を過れば、リュカは母マーサの無理をどうにかして止めなければならないと感じた。
しかし愛する我が子リュカが必死に止めようとすればするほど、母マーサはそれに反するように立ち上がろうとする。リュカはマーサの子への愛情の深さに思い及ぶことはできない。三十年という月日は、マーサ自身も気付かない内に息子リュカへの愛情を酷く深いものに育ててしまった。リュカの言葉は今、届かない。マーサはまだ己に残っていると信じている力を全て出し切ろうと、ふらふらと身を起こし、祈りのために組み合わせることもできない両手を祭壇の床につきながら、上げることもできない顔に険しい表情を浮かべながら、ただ祈ろうとする。
「か 神よ……私のかわいいリュカのため今ひとたび私にチカラを……」
息子リュカが何を言おうと、マーサはそれを素直に聞き入れることはできない。ビアンカがその横で泣きじゃくっていても、ティミーとポピーが「おばあちゃん!」と呼びかけても、マーサはただ愛する皆のために力を尽くすことだけを胸に、祈る。聖なる水が再び辺りを震わせながら流れを作り、動き出す。しかしその動きは明らかに鈍さを見せており、アンクルはどうにか己の魔力で力添えをと手を出そうとするが、マーサがそれを受け付けない。プックルが床に着くマーサの手を舐めようとするが、プックルの舌はただ冷たい床を舐めただけだ。皆を屋根のように覆い、守ろうとするゴレムスは、目を閉じ、マーサの祈りを受け止めるように共に祈りを捧げる。
その時、リュカが手にしていた剣が鋭い煌めきを放った。リュカは常に手にする剣に、亡き父を思い、感じていた。思いというものはたとえ人間の目に見えずとも、必ずそこに存在するものだ。目に見えないものだからこそ、それは変幻自在であり、大小にも限りなく、あらゆるものへと影響を及ぼし得るものだ。
聖なる水の気配は薄まってきている。マーサに残る力はもう尽きかけている。マーサの現身は薄れ、消えかけている。それでも尚諦めず、愛する者たちを守るために立ち上がらなければならないというマーサの思いを正面から受け止めることができるのは、その声の主にしかできないことだったのかも知れない。
―――マーサ―――
どこからともなく不思議な声が聞こえてきた。その声に、リュカは思わず震えた。今は遠くなってしまったその声を、一度リュカはサンタローズの過去へ足を踏み入れた時に耳にしている。健在だった父と会い、懐かしいサンタローズのあの温かな家で少しの会話をした後、父パパスはただの旅人であったはずのリュカの頭に、まるで子供にそうするようにぽんぽんと手で軽く叩いた。別れの言葉は「元気に暮らすんだぞ」。その時の低い声の響きが今の声と重なり、リュカは信じられない思いでゆっくりと辺りを見渡した。
―――マーサ もう よい―――
優しくもあり、頼もしくもあり、勇ましくもあり、時には厳しくあらねばならないと思いながらも、やはり優しかった父の声が辺りに響く。リュカのみならず、皆もまた辺りを見渡している。しかしその中でマーサだけは只一人、唖然とした様子で何もない虚空を見上げている。そしてマーサの視線の先に小さな光が生まれ、それはみるみる大きくなり、光の中に気品と勇猛さを兼ね備えるように思わせる人影が現れ、皆の目にもその姿が映り込んだ。
―――お前は十分によくやった―――
今のマーサに声を届けられるのは、彼女が生涯の伴侶と定め、全ての苦楽を分かち合うことを誓った愛する夫パパスだけだった。マーサにとって、この世に生けるもの全ては、エルヘブンの大巫女としての使命から、守らねばならないものたちだった。しかしその中で唯一、マーサを守ることが認められる存在があるとすれば、それは夫であるパパスだけだった。
「あ あなた!」
マーサの漆黒の瞳に、かつて隣にあったグランバニア王パパスの姿が映っていた。父パパスの、グランバニア国王としての姿をリュカは知らない。しかし今目にしている父の高貴な姿をいつだか、夢に見たような気がする。
今もまだ記憶の中に残る父パパスは常に旅人であり、戦士であり、その姿は到底王族には見えないものだった。しかしサンタローズの村人の中には父の本当の姿を想像する者もいたようだった。ただの旅の戦士ではないと噂されていたらしい父は、その噂に違わず、やはり高貴なる血を引いた一国の王だった。今のリュカたちの目に映るパパスは、真紅のマントを身に着け、丈夫且つ上質な生地で作られた衣服を身に着け、腰には肌身離さず身に着けていた剣を提げて立つ姿だ。光は、剣を中心に放たれていた。リュカは思わず己の手にする父の剣を素早く見た。が、奇妙なことに、手にしているはずの剣が、手に掴んでいる感触もある父の剣が、目に見えないのだ。
パパスの剣に、パパスの魂は宿っていた。それをリュカは受け継ぎ、手にする剣に父への思いを意識的にも無意識にも、強固なものにしていた。リュカの思いを受け、宿る父の魂は力を得て、今はその姿をリュカたちの前に表している。死んでも守るという思いを、パパスはこの戦いの中でリュカを守ることに現した。そして今は、愛する妻マーサへの深い思いを表すように、剣に宿された彼の思いが生前の彼の姿を映し出している。
―――どうやら私たちの子は私たちを越えたようだ―――
父パパスが亡くなり、リュカは今後一生父を越えることはできないと感じていた。たとえ父が生きていようとも、恐らく父を越えることなどできなかっただろう。リュカの思い自体が父パパスを越えることなどあり得ないものだ。それほどにリュカの胸の中で、パパスという存在はこれ以上ないほどに大事なものであり続けた。
その父が自ら、息子であるリュカの事を一人前の大人として、成長した息子の姿を喜ぶような声で、はっきりと言葉に表した。決して嘘や建前などではない。人々に対して実直であった父が、息子に上辺だけのことを言うなどあるはずがない。誰よりも尊敬し、叶わないと思っていた父から認められたという感覚に、リュカの心は一瞬にして緊張と安堵を感じ、束の間呼吸をするのも忘れた。
―――子供たちの未来は子供たちに託そうではないか―――
パパスの低く、場違いなほどに穏やかな声に、マーサの身体からゆっくりと力が抜けて行った。彼女はとっくに限界を超えていた。身命を賭して我が子もその家族も、仲間たちも、世界も守らねばならないと一身にその責務を負っていたマーサだが、夫パパスの言葉に、張り詰めた一本の糸でどうにか保っていたような自身の存在をそっと手放した。
マーサはその場に軽やかに立ち上がった。しかしその姿は辺りに漂う水の気配に支えられたもので、見た目にも明らかに薄れている。リュカは母の身体を支えようと手を差し伸べるが、恐らくもう自身の重ささえ感じないマーサが、寧ろリュカに手を差し伸べた。不思議としか言いようのない現象だった。母の身体はそのまま水に溶けこむように器を失くし、今は魂だけが水の中に形を留めているようだった。
差し伸べられた朧げにも見える母の手を、リュカは取る。水であるはずだが、その手は温かかった。母マーサの魂を宿した水が、彼女の姿を映したまま、その場に浮かび上がる。祭壇の床から離れた母の姿を見て、リュカはようやく母は現実のこの上ないほどに重い責務から解放されたのだと、そっとその手を離そうとした。しかし今一度と、離した両手でリュカの頭を胸に抱き、そして放したマーサは、そのまま光を帯びる夫パパスの魂へと導かれて行く。
―――さあ マーサ。こっちへおいで―――
妻に対する夫の優しさを、リュカは初めて父パパスに見た。生前の父がどれほどマーサに会いたかったかを想像すれば、それはリュカの想像では到底補い切れないものだったに違いない。リュカ自身もまた、石の呪いを受け、八年もの間を生きる世界から隔絶された経験を持つ。意識もあるままに指先一つ動かせない現実の中に閉じ込められたものの、今は妻のビアンカも、息子のティミーも娘のポピーも、その健やかな姿を隣に感じることができる未来に進むことができた。しかしパパスは非業の死を遂げ、完全にこの世での未来を絶たれてしまった。遺す想いは深く、最愛の妻マーサの背負う宿命を思えば、幼いながらも厳しい世界へと放り出されてしまった幼い息子を思えば、パパスは死んでも死にきれない想いを抱き続けていたに違いない。
「はい あなた……」
マーサの声は、もうあまりこの世の空気を震わすこともできなくなっていた。そう聞こえたのは、リュカだけだった。三十年。それほど長い間をたった一人で、この魔界で持ち堪えてきた母を休ませてあげることができるのなら、今がそうするべき時なのだとリュカは自然と思うことができた。
母を救うことができるのは、父だけだった。パパス自身、そう思っていたに違いなかった。迎えるように両手を差し出すパパスに、マーサはただ受け止めてほしいというように、その胸に身を預けた。母は命を賭すことでようやく愛する夫に会えたのだ。もはや命を犠牲にすることでしか夫に会うことは叶わなかった。
光の中に浮かぶ父と母を、リュカはようやく一つの大きな夢を成し遂げたような思いで見上げていた。父の遺言を、手紙に書かれた思いを叶えることができたと、深い安堵を覚えると同時に弛んだ目尻から涙が零れた。
そんな息子リュカを、パパスとマーサが見つめる。息子がたった一人ならば、パパスもマーサも今のように穏やかな表情を見せてはいなかっただろう。しかし今のリュカには愛する家族がおり、信頼しきっている仲間たちがいる。息子の未来は開けている。逞しく成長した我が子はこれからも自ら未来を拓いて行けるだろうと、親から子への厚い信頼がそこにある。
マーサの目には、リュカの傍に留まろうと漂う水にその身を必死に潜らせている姿が見えていた。水との親和性の高いその魔物を、マーサも当然知っている。彼女には友達のスラぼうがおり、大きな友達のキングスもいる。同じような生態を持つ彼は本来、この世に残ってはいられなかったはずだが、彼の魂は今は生に執着していた。死して尚守らねばならないという想いを抱いていたのは、リュカの父パパスだけではない。パパスはリュカの父親として、しかし水に生きる彼はリュカの忠臣としてまだ死ぬことはできないと、必死に水に生きようとしている。
体の重さもまるで分からなくなったマーサは、まるで空気の如く軽やかに両手を組み合わせ、薄れた姿のまま祈りを捧げる。マーサの最期の祈りの力で動くのは、辺りに漂う水の気配だ。聖なる力を持つ水はそのまま癒しの力を内包し、リュカたちの周囲を取り囲むように広がり、集まった。リュカには母の唱えるメガザルの呪文の効果をその身にはっきりと感じることができた。しかしエルヘブンの大巫女の放つ自己犠牲の呪文の意義は、本来のメガザルの呪文に留まることはなかった。
リュカたちの負っていた傷を癒し、疲れ切っていた体力も回復していく。失われていた魔力もまた、その身に満ちて行くように感じられた。ゴレムスの壊れた身体にも、マーサの祈りの力は届く。マーサが己の命を全て使い切るように、全てをリュカたちに託すように、人間の血筋だけでは成し得ないエルヘブンの村に継がれてきた力を放出している。
リュカたちの目の前に、凄まじい癒しの力を受けた水が凝縮していく。青白い光を受けていた水の色が、鮮やかな緑へと変わっていく。彼は悪しき死神の鎌にも屈していなかった。己の命に執着した覚えはなかった。しかし主であるリュカの心を傷つけるようなことは決してしてはならないと決めていた。リュカを庇い、己がこの世から消え去ったとあっては、心優しき主の心にいつまでもしこりを残してしまいかねないと、ただ一心にリュカのためにとこの世に留まる執着を持っていた。ただでさえリュカは、父パパスを自身の無力故に失ってしまったものと後悔し続けているのだ。
マーサの祈りを受けた水の力が、ピエールというスライムナイトを蘇らせていく。代わりにマーサの身体は薄まり続ける。この世に蘇るリュカの友達の姿を見て、マーサは顔を綻ばせた。そして残る力でできることはここまでだと言うように、マーサはふわりと風に乗るように組み合わせていた両手を解き、脇に下ろした。
何が起こったのかも分からない様子のピエールに、プックルが飛びついた。倒れ込んだ二匹の魔物に向かって、リュカも加減なく飛びついた。唖然としているティミーの肩に手を置くビアンカは、もう片方の手で涙を拭っている。ピエールの顔を押さえつけて舐めるプックルの脇から、ポピーがピエールの緑スライムに抱きつき、大声を上げて泣いた。彼らの傍でアンクルは腕組みをし、起きた現象を信じられない様子で見つめている。
そんな彼ら全てをゴレムスが見下ろし眺め、そして巨人はゆっくりと光の中に浮かぶ二人の人影を見つめた。光の中、二つの人影が寄り添い、支え合う姿に向かって、ゴレムスはマーサの力によって復元された手を伸ばす。マーサの友達としてこれほど大きなゴーレムがグランバニアの国に入ることを、国王パパスがあっさりと認めてくれた過去がある。それは単に愛するマーサの願いだからと受け入れたものではなく、パパス自身が人間と魔物との間の可能性を信じたからだろう。人間も魔物も共に生きる世界を願うマーサの思いを、パパスも我が事のように共有したかったに違いなかった。その願いをささやかながらに叶えたのが、グランバニアという国だった。
パパスの幻影が、ゴレムスに向かって頭を下げる。それは偏に、感謝の礼だった。それに対しゴレムスもまた同じように、頭を下げた。エルヘブンの村に生まれ、孤独に生きることを強いられようとしていたマーサの身も心も救ってくれたことに対する感謝の思いが、この無機質の塊であるゴレムスの中に存在していた。人の思いは、石にも宿るのだと、ゴレムスは先代のグランバニア王の感謝の念をその巨体に受け止めた。
ゴレムスの目に映るマーサが、口を動かしている。何か言葉を発しているようだが、それは音にならない。しかしゴレムスにマーサの音は必要ではなかった。ただただマーサの存在をその身に残そうと、ゴレムスは敢えて目を閉じ、静かな瞑想へと没入し始めた。マーサのために生きることを続けてきたゴレムスにとって、マーサを失うことは、自身を失うことと同義だった。
―――リュカよ―――
パパスの声が、漂う水の中に響く。しかし辺りを漂い続けていた水の気配が見る間に薄らいでいく。聖なる気を帯びる青白い光が徐々に弱まり、パパスとマーサの影を支える光もまたその勢いを弱めていく。その弱い光にも、パパスとマーサの影は溶け込みそうになるほどに、彼らは光の中に姿を消していく。
―――私たちはいつでもお前たちを見守っている―――
リュカはいつでも身に帯びる父の剣に、父の遺志を感じていた。そして今、亡き父自らが目の前で、息子リュカに言葉をかけている。リュカはただ宙に浮かぶ、光の中に消え去りそうになる父と母の影を見つめ、一つ小さく頷いた。
―――頑張るのだぞ、リュカ。私たちの息子よ……―――
あの時のリュカはまだ幼く、弱かった。そんな子供のリュカに、パパスはただ背中を押すように“頑張れ”などとは言えなかった。しかし今や二人の子供を持つ父親となったリュカに、パパスはようやく本心から息子の背中を押すことができた。リュカもまたパパスの言葉を受け、ようやく真の意味で、己の背中に全てを背負う覚悟ができたような気がした。
弱まっていた光が収束し、一瞬、眩い光を放った。そしてそれはまた一瞬にして止み、辺りに残されたのは青白い聖なる光を失ったエビルマウンテンの祭壇の景色だった。しかし完全に光は消えてはいない。
両足で立つゴレムスの、マーサに向かって伸ばしていた左手が、淡く青白い光に包まれている。そこにマーサのこの世の平和を願う祈りが残っている。そしてそれを受け止めたゴレムスは、それをこの先もずっと残すことが己の為すべきことなのだと、永遠の瞑想の世界へと旅立った。この魔界という世界で、ゴレムスはマーサの想いを受け継ぎ、それを自らの石の体の中に封じ込めたのだ。

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