歓喜に包まれる城にて

 

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「世界が平和になったと思ってるのは、もしかしたら僕たちだけなのかも知れないね」
リュカがふとそう漏らすのは、既に山奥の村を後にした竜神の背の上でだ。行先は竜神に任せており、次に彼らがどこへ運ばれるかは分からない。地上の景色は飛ぶように過ぎ去り、頭の中に地図を思い描けば、この先にはカボチ村が見えるのではないかと思える方角に向かっているようだ。
「外に生きる魔物としては、“平和”というものが何なのか、今一つ分からないのも無理はないでしょう」
そういうピエールもリュカと出会う前は、ラインハット近くに生息するいわゆる普通の魔物だった。魔界に潜む大魔王が倒され、この地上世界を覆うとしていた悪しき気配が忽ち消え去ったために、あらゆる人間に襲い掛かり、人間をこの世から消し去ってしまえと言わんばかりの形相をした魔物がいなくなったことは間違いない。しかしだからと言って、この世界を生きる魔物たちがこれからどのように生きて行けばよいのか、急激な方向転換に戸惑っている者たちが多くいるのかもしれないと思うと、リュカは納得するように小さく息をついた。
「がう、がう」
「そうよ、私たちみたいに人間も魔物も仲良く手を取り合って生きていければいいんだわ」
まだ幼い頃に人間の手により救われたプックルは、これが当然とばかりにそう口にし、それを聞くポピーもまたこれが当然とばかりに明るい未来を口にする。求める理想は単純だ。その単純な理想自体に間違いはない。しかしその理想に、いかに現実を近づけていくか、それは決して単純な話にはならない。
先ほど立ち寄っていた山奥の村の近く、ピエールたちは遭遇した魔物使いとホイミスライム、ベホマスライムとしばし語り合っていた。主に語るのは鞭をしまい込んだ魔物使いだった。突然、空を覆う暗雲が晴れ、それと共に自身を支配していたかのような力が抜け出て、強張っていた全身が急に脱力したという。何が起こったのかは分からないが、何かが起こったのは間違いないと、辺りを見渡せば、自分と同じように立ち尽くしている魔物が数体。目の前には人間の住む村。そこで初めて、人間の村を襲おうとしていたのだと、自分の行動に気付いたのだという。ピエールは魔物使いが話す姿に、嘘偽りは感じなかった。この世に生きる魔物として、人間と敵対することに迷いはないが、だからと言って無謀にも単身で人間の村を襲うなど普通は考えるようなことではない。そして鞭を振り上げる自分を見て、慌てて逃げ出すホイミスライムとベホマスライムを目にして、得も言われぬ孤独感に後悔にと、魔物使いはその場で驚き戸惑うばかりだったという。
「さっきまで敵だったヤツと、いきなり仲良しこよしなんてのは、難しいんじゃねえの?」
「ボクたちにできることなんだから、できないことはないと思うんだけどな~」
「でも私たちはちょっと……特別、だからねぇ」
そう言いながらビアンカは夫リュカを見る。その面影に、彼の母マーサの顔がよく重なる。今では多くの魔物たちがリュカの周りに集まり、互いに信頼を置いている。それというのも、リュカが魔物と心を通じ合わせるような特別な力を有していたからだ。決して誰にでもできることではない。それはリュカであり、彼の母マーサであり、そしてそれは彼らの祖先の者たちから通じる特別な力に基づいたものなのだ。
ビアンカは大魔王ミルドラースの口から、リュカやマーサの正体なるものを聞かされた。それが真実かどうかは誰にも分からないが、彼や彼の母の特別な力を考えれば、その全てを否定できるものでもなかった。リュカがかつての魔王の血に連なるものだったとしても、ビアンカはそれを否定するどころか、寧ろ今までずっと謎めいていた彼の正体が明らかになったと、納得するような気持でその言葉を自らに収めてしまった。魔王という言葉の響きに、夫リュカを重ねて見れば、そこに恐怖は感じられない。もしかしたらかつての魔王と呼ばれた者も、残虐非道な行いをするような者ではなかったのではないかとすら、彼女は夫に寄り添うようにそう考えてしまう。
今、竜神の背に共に乗るプックルにピエールにアンクル、そして今はグランバニアで留守をしている魔物の仲間たちが多数、彼を信頼して共に在る。何故、リュカなのか。それが彼が特別な血を有しているからだと考えれば、それだけで理解が及ぶ。自らを大魔王と名乗った元は人間のミルドラースとは異なり、かつてこの世を混乱に陥れようとした魔王は、ただ単純に仲間である魔物たちを守るべく、悪しき人間を滅ぼそうとしたのではないだろうかとさえ、ビアンカの思考は発展してしまう。
リュカを見て、彼の母マーサを思い出して、どうしてもかつての魔王を悪と断じきれない自分が勇者の子孫という現実に、彼女は思わず心の中で笑ってしまった。壮大な時間の流れを感じる。長い長い時の中で、過去とはすっかり関係性を変えてしまったかつての敵同士であるならば、これからもいくらでも未来を築くことができるだろうと、やはりビアンカの思考は光ある方へと導かれていく。
「いきなり、なんて難しいだろうね」
妻の考えていることが分かっているかのように、リュカは穏やかな声で話し出す。飛行を続ける竜神の背から見える世界地図の景色は、カボチ村を過ぎて南の海上の景色に変わっていた。進む方向に霞む山々の景色が見え始める。この世界で最も高く聳えるセントベレス山の景色は、遥か上空を飛ぶ竜神の背からでもはっきりと前に見ることができる。雲を突き抜けて山頂を露わにするセントベレスには、未だあの大神殿がはっきりとその形を見せている。
人も魔物もいなくなってしまった、見かけばかりが美しい大神殿の地下深くに、光の教団の本体があった。教祖イブールは魔物であり、イブールの敵は全ての人間だった。地上世界に蔓延る人間どもの力を弱らせるためにと、光の教団という組織の力を使い、その触手を方々へと伸ばしていた。イブールにも正義があったのかも知れない。しかしイブールが翳す正義で、もし幸せになれるものがいるのだとしたら、それはイブールだけだったのだとリュカは思う。この広い世界で、たった一人が幸せになることに意味はない。たとえ独りよがりの幸せに浸ろうとしても、それは偽りのもとに仕上がったまやかしの幸せだ。そして非常に危うい幸せは、何か小さなことであっという間に崩れるものに違いない。
「でもずっと諦めずに、仲良くしようとしていけば、少しずつ変わっていくのかも知れないね」
リュカの言葉に込められた意味は、彼が生きている時間に限った話ではなかった。リュカは父パパスと母マーサの子であり、父母もまたその父母がおり、そしてそのまた上にも、とその系譜の始まりは見えないところにある。長い長い年月を経て、世界は形も色も変えていく。人が一人生きるだけの時間で、世界が劇的に変わってしまうようなことは、きっと望ましくはない。誰だって、自身の周りの生活環境が劇的に変わることなど望んでいないのだ。穏やかに、平和に、日々暮らしていければ、それが良いと思うのは人間も魔物も同じところだろう。
「そのために……これからもたくさん働かないといけないんだろうなぁ」
溜息交じりに零すリュカの言葉には、否応なしに彼に迫るグランバニア王としての責務がのしかかっているようだった。勇者である息子ティミーと共に、皆で力を合わせて大魔王を討ち倒し、それだけでも偉業を成し遂げたと言われて過言ではないリュカだが、彼らが生きる世界はこれからもどこまでも続いていく。寧ろ、これからこの世界の平穏を安定させるために、リュカは一国の王として力を発揮していかなければならないのだ。
「ボクも一緒にがんばるよ! ボクも“勇者”として、まだまだできることがあるよね!」
少々悲観的に遠くを見つめるリュカに対し、そんな父を励ますようにティミーが明るく立ち上がる。かれが勇者だから、目の前に光が見えるわけではないのだと、リュカは思う。彼が愛する我が子だから、今はありもしない光が彼の周りに満ちるのだろうと、リュカは思わずティミーを眩しそうに見つめた。子供が親である自分に対して光を見せてくれるのと同じほどに、果たして自身は子に対して光を与えることができているのだろうかと、リュカは不安にも感じるが、リュカが父でありティミーが息子であるという親子の絆は何があろうとも壊されることはない。
「おっ! ありゃあ砂漠の国じゃねえのか? なんだ、この神様はあの国に向かっていたのかよ」
アンクルが目線を向ける方向には大海原を南下し続けた先に、半ば岩山に囲まれたような陸地が見えている。空の遥か高く、竜神の背からもはっきりとその陸地に広い砂漠の景色が広がっているのが分かる。乾ききったような砂漠の土地に暮らすテルパドールの民たちもまた、大魔王が滅ぶと共に、国の窮地を脱していた。人間の城を守るように、砂漠の地にテルパドールの兵と共に魔物であるシュプリンガーが各々位置についている。そして彼らは空に竜神が飛んでくるのを見上げ、歓声を上げて両手を大きく振った。
「アイシス女王にご挨拶していった方が良いわよね?」
「うーん、どうかな」
ビアンカの当然のような勧めにリュカが渋るのは、テルパドールの民たちの盛り上がり様を見ていたからだ。竜神の背に乗る勇者ティミーの姿を目にするや否や、古くから勇者という希望を絶やさなかったテルパドールの人々はまるで発狂とも呼べるほどの熱量を見せて、勇者を迎えようとしていた。おおよそのことでは動じないティミーでも、砂漠の上に熱狂するテルパドールの人々の様子を見て、思わず目をぱちくりとさせている。
「みんな喜んでくれてるのは嬉しいけど……お兄ちゃん、あの中に行ける?」
「う~ん、どうかなぁ……」
勇者伝説を信仰していたような国で、女王アイシスの予言の通りに勇者はこの世に生み出され、そして勇者が大魔王を倒した今となっては、テルパドールの人々の熱狂は最高潮を迎えていると言ってもおかしくはない。テルパドールの人々の中にひとたび入れば、ティミーを中心にリュカたちはもみくちゃにされてしまいかねないと、誰もが思わず無言でテルパドールの騒ぎぶりを見つめる。
城の最上階、アイシスの姿があった。民の騒ぎぶりに対して、女王はただ静かにリュカたちを見上げているようだった。細かな表情は見えない。リュカたちには見えなかったが、アイシスは静かに涙を流していたのだった。それは民たちの喜ぶ姿に、まだ少年である勇者が偉業を成し遂げたことに、この世界が本当に救われたことに、彼女は一国の女王として心からの安堵を得たのだろう。それまで涙は堪えていた彼女だったが、竜神が運んできた勇者の元気な姿に、平和の実感と共に堪えていた涙が両頬を次々と落ち始めたのだ。
「……また、落ち着いてから改めて伺うのがよろしいかと」
魔物の目を持っているピエールには、砂漠の女王が嗚咽を漏らして泣いているのが見えていた。砂漠の女王としての体面を保つためにも、そしてティミーという勇者を砂漠の民の熱狂から救うためにも、ここには敢えて寄らずに済ませるのが良いと、ピエールはリュカに進言するのだった。彼の言葉はいつでも冷静だと信頼しているリュカは、とりあえずはテルパドールには寄らずにおこうと、ただティミーたちと共に砂漠の国に向かって大きく手を振り返した。それだけで人々はひと際大きな声を上げ、勇者家族に対して歓声を上げた。竜神はリュカの意を汲むように大きくテルパドールの上空を旋回すると、そのまま進路を東へと向ける。
再び海に出る。日はみるみる西へと遠ざかり、空は橙に染まり、あっという間に黄昏となる。東の空から一番星が見えたと思ったら、すぐ後には夜空がリュカたちの頭上を覆い始めた。地上世界の美しさを、竜神の背に乗りながら新たに知る。日が天に昇る昼間も、星や月が浮かぶ夜も、どちらも胸に迫るような美しさだ。刻一刻と変わるこの景色が、もしかしたらなくなっていたのかもしれないと思うと、リュカたちはただ静かに何の変哲もないような空の景色を眺めてしまう。当たり前がいかにありがたいものなのかを、魔界の暗黒の景色を思い出せば、より実感できる。朝が来ると思うから、夜は怖くない。夜が来ると思うから、昼間は生き生きと活動できる。この至って普通の出来事を、これからも守っていかなければならないと、竜神の背から見る景色に、その思いは胸に染みていく。
すっかり暗くなった。もう人は寝静まっているような時間なのかも知れない。地上の景色が夜空の下に暗く染められる頃にも関わらず、深い深い森の中に一点、明るい火の灯る場所がある。夜空に浮かぶ月に照らされ、森の中の頑強な城の姿が浮かび上がる。
逞しくも、竜神に向かって飛び上がってくるように見える姿を、プックルが見つけた。
「がうっ! がうっ!」
思わず飛び降りそうになるプックルを、アンクルが支える。暗がりの中を竜神に向かって真っすぐに飛び上がってくる姿は、魔物だ。しかしプックルが吠える声に、敵意は一切ない。森の中に建つ大きな頑強な城は、今や人間と魔物が共生する場所だ。
「メッキッキー!」
暗い影にしか見えないメッキ―が、ひと際元気な声を上げた。ただ、メッキ―は竜神が飛行する高度にまでは飛び上がることができず、もどかしそうに竜神の下を同じように旋回し始めた。リュカたちを迎えに来たのは明らかだった。グランバニアの人々もまた、城の中でリュカたちを待ちわびているに違いない。
「メッキー! ただいまー!」
「メッキー、元気そう。きっとみんなも元気だね!」
ティミーとポピーが揃って手を振る。竜神の背の上で高所にあるにも関わらず、ポピーはグランバニアに戻れた嬉しさに、一時的に高い所での恐怖を忘れているようだ。
と、その時、リュカたちが乗る竜神の背が、一瞬にして消えてしまった。足場を失ったリュカたちはバランスを崩し、咄嗟に互いの手を取るが、そのまま彼らの身体は落ちていく。この状況に、流石にポピーだけではなく皆が一様に声にもならない叫び声を上げた。空を切り裂いていくほどの勢いで下降するリュカたちを、唯一宙を飛行できるアンクルが捕まえ、己の背に乗せる。しかし皆が乗れるほどにアンクルは大きいわけではない。捕まえきれなかったプックルとピエールが、そのままグランバニアの森へと突っ込むように落ちていく。
「ぐおお~ん!」
城門近くから、雄たけびのような声を上げて飛び上がってくる魔物が一体、落ちてくるプックルとピエール目掛けて飛行する。その背はどうにかプックルを乗せ、その上にピエールが乗り、ふらふらとバランスを取りながらグランバニアの城門へと向かっていく。マッドは凱旋してきた魔物の仲間たちを祝うように、その口から激しい炎を吐き出した。夜の景色を一瞬明るく染めたその炎の下に、リュカたちははっきりとグランバニアの城を目にした。人々を外の魔物の脅威から守るべく、城下町ごと城の中へと収めたグランバニアの景色に、リュカは亡き父パパスの思いを感じる。父はただの戦士などではなかった。ただただ、守りたいものを守りたかっただけだった。グランバニアという国には、父のような思いがずっと受け継がれてきたに違いなかった。
アンクルとマッドによって、リュカたちはグランバニアの城門前へと降り立った。少し遅れて地上へと降りてきたメッキーは、何やら不思議そうな表情をして、松明に照らされる城の入り口を見つめている。しかしリュカたちがこのグランバニアに戻ってきたことを思えば、きっとどうでもよいことなのだというように、すぐさま嬉しそうにリュカたちの周りをぐるぐる回り始めた。
城門前には門番の兵が二人、それに常にグランバニアの森で国の守りを務めていたアームライオンのアムールたち五体の魔物、そこに並んで同じく森での警戒を怠らなかった武闘家トレット、加えてグランバニアへの襲撃を企てようとしていた魔物らを牽制する役目を負っていた爆弾岩のロッキーが並び立っていた。地上世界が平和になったことは、当然彼らも知っている。しかしそれだからと言って皆が皆、平和に浮かれて騒いで良いわけではないだろうと、彼らは今も尚外に出てグランバニアという国を守っているのだ。
「リュカ王! お帰りなさいませ!」
しかしやはりリュカたちを迎える兵士らの声はとびきり明るい。松明に照らされたその顔には、心の底からの喜びが現れている。彼らは一度も二度も、もしかしたらこのままリュカたちは帰還せず、この世界は闇に覆われてしまうのかもしれないと、意図せず想像したことだろう。王たちの帰還を信じる気持ちに偽りはなかったが、不安を感じる心にも偽りはなかった。グランバニアの上空が広く暗雲に覆われ、森に棲む魔物らの凶悪さが明らかに増したと見えた時、彼らの胸の中には考えたくもない絶望が広がろうとしていた。しかしその気持ちを無理にでも抑え込んで、その不安を超えたところで、主の帰還を信じ続けたのだ。
「ただいま」
リュカの落ち着いた、生きた声を耳にすると同時に、アムールとライアンが大声を上げて泣き出した。まるで獣の咆哮だ。その声が森に広く響き、未だ森に潜む魔物はその声に驚き戸惑い、危険を感じてかさらにグランバニアから距離を取ろうと密かに移動していた。
「国の者は皆、王様の帰りを待っていました!」
兵もまた感極まったように、そこでたまらず声を震わせた。風もないのに、城門の両脇に置かれる松明の火がごうっと一度燃え上がった。火というものは不思議なもので、いくらでも燃え盛り、生きとし生けるもの全てに恐怖を与えることもあれば、今のように人々の歓喜に合わせるように明るく燃え上がることもある。リュカたちの目に映った大きく燃え上がった松明の灯りは、共にグランバニアという国を守ってきたことを命あるもののように誇り、国の主の帰りを共に喜んでいるかのようだった。
「お父さん、行こうよ! 早く!」
「みんな、待っていてくれたんだって! これ以上待たせちゃいけないわ!」
ティミーが父の手を、ポピーは父と母の手を取り、淀みなく城門へと向かう。魔物の襲撃の危険を脱した今、グランバニアの城門は開け放たれている。既に城内、というよりも城下町からは明かりが漏れ、人々の熱気がここにまで流れ出してきているようだ。
「がう」
「リュカ」
「うん。でもちょっと待って」
そう言うと、リュカはここに居並ぶ国守りの者たちを労うように、一人一人の前に立ち握手を交わしたり、その身体を軽く叩いたりして感謝を伝えた。魔界に旅立ち、大魔王を倒した者だけが称えられるべきではない。こうして一人一人が自分の足で立ってくれているからこそ、この世界は守られたのだ。
「じゃあ、またね」
相変わらず王の威厳など微塵も感じさせない調子で、リュカは共に旅をしてきた家族と仲間たちと、熱気漂うグランバニアの城内へと歩き出した。



城内に足を踏み入れたすぐそこに、既にリュカたちを待つ者たちが立ち並んでいた。リュカは彼らの表情を一人一人、真摯に見つめた。城内には常に魔力による調整が可能な明かりが灯され、彼らの姿は初めからはっきりと目に見えていた。
「リュカ王、ご無事で何よりです」
姿勢よく正面に立つのは、メッサーラのサーラだ。彼の声は非常に落ち着いていた。常々冷静で、慌てるところを見たことがない彼だが、今は常よりも落ち着いているように見えた。
サーラの両脇にはキングスライムのキングスがその巨体を僅かに揺らし、ミニデーモンのミニモンが手に持つ大きなフォークを前に抱きかかえるように立っている。ミニモンの心に寄り添うかのように、その小さな肩にはスラぼうが乗り、まるで涙を浮かべたような水を含んだ二つの目でリュカを見つめている。
「……さあ、皆が待っています。お早く中へお進みください」
「いや……サーラさん。その前に、僕に確かめなきゃいけないことがある、よね?」
帰還したリュカたちを見渡して、敢えて確かめるまでもないと、サーラはリュカたちに道を開けようとしたのだが、それをリュカが止めた。
「いえ、こうして世界は救われたのです。あの方はそのことを最も望んでいたのです。私はそれだけでもう……十分です」
「約束を守れなくて、ごめん」
「あなたが謝ることなどではありません」
「でも約束を守れなかった」
「約束を守ることを決意して旅立たれたあなたのお心に嘘偽りなどなかったはず。それが、肝要なことです。第一……」
一度、表情を歪めたサーラだが、すぐに元の表情へと戻った。ただ、それまで開いていた両手は軽く握られている。
「息子である貴方を差し置いて、私が何を言えるでしょう。貴方が良ければ、それで良いのです」
サーラにそう言われれば、リュカにはもう返せる言葉はなかった。いくらサーラたちに謝りの言葉を述べても、リュカがマーサの子であるという事実の前では、その言葉も空振りのようなものとなってしまう。これ以上リュカがサーラたちに対して申し訳ないと述べても、それは寧ろサーラたちを苦しめることとなる。
「今はゴレムスが、魔界で母さんの心を引き継いでくれている」
魔界の奥深く、エビルマウンテンの山頂にある祭壇で、ゴレムスはマーサの祈りの力を絶やさぬよう、自らの意志を石の中に留めている。ゴレムスの手から放たれている淡く青白い光は、悪しき大魔王のいなくなった魔界において、ジャハンナの町に住む人々や、魔界に生きる魔物たちの心を惑わせないよう今も魔界を照らし続けているはずだ。
「ゴレムスが望んだことですね?」
「そう、だね」
サーラはそれ以上詳しい話をリュカから聞き出そうとはしなかった。話を聞いていたミニモンが、両目からぼたぼたと涙を零し、しゃくりあげ始めてしまった。揃ってその肩の上に乗るスラぼうまでもが、まるで身体ごと溶けてしまうのではないかと思うほどの涙を流し始める。
「ミニモン、泣くのは我慢しなさいとあれほど……」
「ちがうっ、これは、リュカたちが帰ってきてうれしいってナミダだ! だから、いいだろっ」
「うわーん! リュカー、おかえりー!」
ミニモンもスラぼうも、リュカたちの帰還を心から喜ぶ気持ちに微塵の嘘もなかった。ただ、それと同時に、本当にマーサを失ったのだということが胸の奥に突き刺さるように分かり、自分でもどちらか分からないような涙がただあふれ出てきてしまったのだった。
彼らのやや後ろで大きく包み込むようにその姿を見せていたキングスライムのキングスが、ゆっくりと前に進み出てきて、リュカ、ミニモン、スラぼうをひと包みにするように柔らかく寄り添った。その表情は、自らの悲しみを表すと言うよりも、母を喪ったリュカに温かく寄り添うような優しさ溢れるものだった。キングスの目からも涙が零れている。しかし彼は声を上げることもなく、涙を零しながらもただリュカに寄り添った。
「……マーサ様にお会いできたのですね」
サーラの声は僅かに震えている。リュカが生まれるよりも前から、サーラたちはマーサを慕い、このグランバニアで共に暮らしていた。その時間は、今となってはそれほど長くなかったと言えてしまうのかも知れない。しかし魔物である彼らの生き方を一変させ、人間の暮らす城で共に生活するようになった彼らにとって、マーサという人間は言わば彼らの母のようなものであり、神のような存在と言っても間違いではないのかも知れない。
「うん。ありがとう、みんなのおかげだよ」
短いリュカのこの言葉に、自分を支えてくれた皆への感謝の気持ちが大いに込められていた。どれほど長い言葉にしても言い尽くせないほど、リュカは“皆”に感謝している。魔界に囚われた母に会い、言葉を交わすことなど、自分一人では到底成し遂げることのできなかったことだ。それが叶ったのは、全て“皆”がいてくれたおかげなのだ。
「いえ、私なぞ何もお役に立てず……」
「違うよ。みんな、一人一人がいてくれたおかげなんだ。これは本当のことだよ。だから、ありがとう」
リュカは母をこれほどに慕ってくれる魔物たちがいるから、自身はここで涙を流さなくて済むのだと、笑顔でいることができた。自分の代わりにこうして泣いてくれる者たちがいる、それが有難かった。手を差し出したリュカに、サーラもまた自らの手を差し出し、握手を交わす。サーラの外見は悪魔そのもので、角にも翼にも色にも、禍禍しささえ感じられる。しかしリュカと握手を交わしたその時、それまで堪えていた涙がサーラの目から零れ落ちた。悪魔が涙を流すところなど、誰も想像したことがないだろう。悪魔に似合う表情というのは、嘲笑や憤怒のようなものに決まっている。人々は当然のようにそう考える。しかし目の前のメッサーラはリュカと固く握手を交わしながら、堪えきれなかった涙を零し、嗚咽を漏らし始めた。悪魔の様相で、誰よりも人情味溢れる感情のまま、主の死を悼んでいる。
「なんだよ、あんたみたいなヤツでも泣くんだな」
同じような悪魔の姿をしているアンクルが、どこかからかうようにサーラに言葉をぶつける。それもまた、仲間を思ってのことだと、リュカには分かっている。決して馬鹿にしているのではない、信頼の上で仲間を救い上げようとしているのだ。
「……フッ、私も初めて知りました」
「がう、がう」
「奥でゆっくり話をしましょう。マーサ殿はやはり……リュカ殿の母君なのだと、私はあらゆる意味で痛感いたしましたよ」
魔界の奥底で初めて目にしたマーサの姿を、プックルもピエールもしっかりと目に焼き付け、覚えている。その姿をマーサをずっと慕ってきた彼らに話すのが義務なのだと、ピエールとプックルはサーラたちを伴うようにグランバニアの城下町へと歩き始める。
「リュカ、さあ、行きましょう」
「みんなにも話さなくちゃならないことが、たっくさんあるもんね!」
「ほら、ミニモンもスラぼうも、泣いてちゃおばあ様が悲しんじゃう。ねっ、泣き止んで……ぐすっ」
釣られて泣いてしまうポピーの肩に優しく手を置き、リュカは明るく広がるグランバニアの城下町に向かって、どこまでも優しくどこまでも強い仲間たちと共に歩き進んでいった。



明るい城下町の景色、本来この時間であれば城内の灯りは落とされ、人々は間もなく寝静まる頃と言ったところだが、今の今そんなことは関係ないとばかりに、まるで昼間のような明るさに包まれている。そして人々の賑わう音に熱気に、城下町全体の温度が上がっているようにも感じられた。決して不快なものではなく、喜びに満ちている人々の明るい表情に声に態度に、グランバニアの人々は訪れた平和を心から喜びあっていた。
リュカたちが揃って姿を現すと、ひと際高い歓声が人々の間に上がり、混乱を極めたかのような勢いで人々がリュカたちのところへと押し寄せた。祝宴には酒がつきものということで、既に足取りも危うい者たちも当たり前のようにそこここにいるようだ。
グランバニアという国は一風変わった国で、王と民との間にはまるで垣根というものがない。年に一度は王も民も関係なく、武道大会が開かれるような、ある意味で公平極まる国なのだ。その騒ぎの中に放り込まれては、それまで涙を見せていたミニモンもスラぼうも、サーラも、国王らの凱旋と平和の訪れに喜び合う民たちの中で共に笑顔を見せるようになる。
「あ! リュカ王!」
群衆の中から姿を現したのは、かつてのグランバニア兵士長パピンの息子であるピピンだった。彼はその軽薄に見える性格から少々軽んじられやすい少年だが、その実力は父であるパピンの強さを思い出させるようなものだ。明るい表情で歩み寄ってくる彼だが、彼もまたリュカと同じように父を亡くしている。父を失った悲しみは確かに彼の胸の中にあるだろうが、彼はこうして皆の前で笑顔を振りまき、きっと父の思い出ごとその笑顔の中に包み込んでいるのだろうと、リュカのその強さを実のところ尊敬している。
「この度のご活躍! グランバニアの民として、これほど誇らしいことはありません!」
ティミーとポピーの兄のような存在として、彼はこのグランバニアで育ってくれた。親の不在の時、ピピンという少年が双子の子供たちといてくれたことを、リュカは心から良かったと思っている。ティミーとポピーがこれほど明るく真っすぐに育ったのは、ピピンの存在もまた大きなものだっただろう。
「リュカ王。無事のご帰還、嬉しく存じます」
ピピンの背後に立つのは、今では彼の保護者のような立場となった兵士長ジェイミーだ。グランバニアの群衆の中から頭一つ分飛び出したような高身長のジェイミーは、リュカの前で恭しく頭を下げる。それでも人々の中から頭が飛び出ている。
「ピピン、ジェイミー兵士長も、国を守ってくれてありがとう。みんなのおかげでこうして帰ってこられたよ」
「いや~、リュカ王、聞いてくださいよ、こちらも大変だったんですよ~」
「こら、ピピン、王にそのような口の利き方をするんじゃない。王もお疲れなのだ」
「いいんだよ、ジェイミー」
「でもお父さん、先にオジロンさんたちにご挨拶しないといけないんじゃないかしら……?」
「ピピン! 後で遊ぼうよ!」
「王子がお元気で何よりです! はい! 後ほど遊びましょう! ……でも、手加減してくださいね?」
群衆の勢いは熱気が溢れ、リュカたちは人ごみに押されるように移動させられる。背の高いジェイミーの陰に隠れ、初めは見えなかったが、彼の足元にはこの国に暮らすことになったカレブとマリーの兄妹の姿もあった。リュカは二人と目が合うと、にこやかに手を振って見せた。それだけで明るく輝くような笑顔を見せる兄と妹を見て、リュカもまた嬉しくなる。彼らの兄妹の世話を引き受けてくれたピピンの母にも小さく頷いて見せると、彼女はまるで我が子が凱旋したかのような感動を持って、エプロンの裾で涙を拭っていた。
人々の輪の中に入り込み、リュカの足元に跳ねたのは、スラりんだ。リュカの足に弾むようにぶつかってきて、自己主張するように声を上げている。
「ピキー! ピキキー!」
「スラりん、ただいま」
足元に弾んできたところを捕まえると、リュカはスラりんを自分の肩の上に乗せてやった。リュカが自分の足で世界を歩き出し、初めて旅の仲間になった魔物がこのスラりんだった。体が小さいために、いつでもどこでもスラりんはリュカの傍にくっついていることができたが、魔界への旅にはついていかなかった。リュカの傍にいることよりも、リュカが大事に思うこのグランバニアという国を守らなければならないと、同じスライムであるスラぼうの心に寄り添ったというところもあった。魔界に囚われるマーサに会いたいという気持ちを抑え、この国に残ることを決めたスラぼうがいれば、スラりんもまたリュカの傍を離れることができると、己の我儘を抑えたのだ。
「うふふ、スラりんったら、リュカに甘えるわねぇ」
リュカの肩にべったりと張りつくようにその柔らかい身体を変形させるスラりんを見て、ビアンカはスラりんを撫でながら思わず笑う。もう危険な戦いに出ることもない、無事にこの国に帰ってきたリュカにならば、いくら甘えるように張り付いても構わないだろうと、スラりんはしっかりとリュカの肩に乗っている。
「リュカ王よ、よくぞ戻られたの」
「ミンナ、ゲンキ。ウレシイ」
リュカたちに群がる民たちは、今やこのグランバニアの重鎮の位置にもいるようなマーリンに道を開け、マーリンについてきたガンドフもまた、その大きな熊のような体でのっしのっしと歩いてきた。
「マーリンもガンドフも、ありがとう」
「大事なさそうで何よりじゃ」
マーリンの声は低く、抑えられたようなものだった。それというのも、リュカたちが無事に戻ってきた姿を目にして、自身でも予想していなかった感動が胸に溢れたからだった。今ではグランバニアという国を支える重鎮の一人となっている自身がここで心乱すわけにもいかないと、心なしか緑色のフードを目深に被る。
そのような立場にはないガンドフは、マーリンの感動をも合わせて表現するように、その茶色のふかふかの毛皮に包み込む形でリュカを抱きしめた。力加減を少々間違えたか、ガンドフの抱擁に会ったリュカは思わず苦し気にうめき声を漏らす。
「リュカ、イキテル。ヨカッタ!」
「げほっ、そうだね。生きて帰れて良かったよ」
「ガンドフ、リュカ殿が苦しそうだから、その辺で……うわっ!」
ピエールの声を聞いたガンドフは、リュカを離すや否や、今度はピエールをその逞しい両腕の中に抱き込んだ。完全に抱き上げられてしまったピエールは地面から浮き上がる形で、ガンドフに完全に捕まった。その姿を見て、ティミーもポピーも嬉しそうにガンドフの身体に自ら抱き着いた。
「ガンドフ、ただいまー!」
「あははっ、ガンドフ、相変わらずもじゃもじゃー」
「ティミー、ポピー、イイコ、イイコ」
両側から抱き着かれたガンドフは、ピエールを解放し、今度は二人の子供たちの頭を優しく撫でる。ガンドフも他の魔物の仲間たち同様、リュカとビアンカが長らく不在の時に、赤ん坊だった双子の面倒を見ていた魔物だ。まるでまだ赤ん坊であるかのような力加減で、ガンドフは二人の頭をごく優しく何度も撫でている。
「マーリンもガンドフも、ベホズンも、お留守番ちゃんとできてた?」
少々からかうような調子で、ビアンカが彼らの後ろで見守るような顔をして大きな緑の身体を震わせているベホズンにも目を向け、はきはきと言う。ベホズンのその大きく柔らかな身体は、国の者たちにも好かれる要素を十分に持っており、人々はベホズンを国の守りの功労者だというようにリュカたちの前に押し出す。
そしてそのベホズンの大きな身体に半分隠れるようにいたのは、大きな白い翼を背に持つ天空人のグラシアだった。彼女はこのグランバニア城の一室に暮らしており、普段はあまり人前に姿を見せることはない。しかしグランバニアに暮らす魔物たちとはよく交流しており、その中でも彼女はキングスやベホズンと言った仲間と特別に仲が良いようだった。言葉を交わすでもなく、ただ隣にいて心地よいと感じるのか、ベホズンもグラシアも互いに自然そのものの様子で寄り添っている。
「天空の城のことと言い、竜の神様のことと言い、本当にありがとうございました」
彼女はかつて、天空城が地上へと落ちてしまったことを切欠に、この地上へと落とされてしまった天空人の一人だった。リュカは彼女を見ながら、ふと魔界の町ジャハンナに行き着いた天空人のことをも思い出す。大魔王を滅ぼしたことで、魔界に囚われてしまったあの天空人もまた救われてほしいと願う。
「伝説の勇者とその家族に神のご加護がありますように」
リュカたちの前で両手を組み合わせ、祈りを捧げる姿を見せるグラシアは、白い翼さえなければもはや人間と見分けがつかないほどにその姿は人間らしいものに見える。それは彼女がこのグランバニアで長らく留まり、魔物をも受け入れるこの国で通常の天空人としての精神を保つよりも、人間に近く、魔物に近く、この地上世界に誰よりも近い天空人となったが故なのかも知れない。
「グラシアさん、もう帰っちゃう?」
彼女が目の前で祈りを捧げる姿を見て、ポピーは得も言われぬ不安を抱いたようだった。彼女が背に負う白い翼のその見た目に、どうしてもあの天空城という彼女の“家”を想像し、思わず素直にそう聞いてしまったのだ。
「ずっとこのお城にいてほしいな」
「ふふ、ありがとうございます、王女様」
「平和になったんだもの。これで好きなだけ天空城と行き来できるわね」
そう言葉を添えるビアンカは、グラシアの正面に立ち両手を差し出す。グラシアも合わせて両手を差し出し、二人はにこやかに握手を交わす。天空人であるグラシアと、天空人の血を引くビアンカ。かつての御伽噺。かつて天空人と人間との間に生まれた勇者。二人がこうして握手を交わしている場面に、リュカは御伽噺の一つの結末を見たような気分になる。どうせ見る結末なら、良いものがいいに決まっている。
「そうよね、お母さん! じゃあ、グラシアさんにはこのまま城に残ってもらって、好きな時に天空城に行ってもらえればいいんだわ」
「私がたまに村に帰るようなものよ。ねえ?」
「あははっ、なるほど、そうかも知れませんね」
グラシアが声を上げて笑うのを初めて見たグランバニアの人々の間で、小さな歓声が上がる。これからもずっと、彼女も皆も、平和になったこの世界で互いに見たこともないような喜びに満ちた表情を見せ合って行くのだろう。
「これは王様」
ベホズンやグラシアと共にリュカたちの前に姿を現すのは、グランバニアの国を広く見守るシスターだ。彼女と共に、城下町奥に位置する教会からは神父もまたここで皆と平和を喜び合っていたようだ。
「モンスターたちも王様のお手伝いをしたんですよね」
そう言うシスターが見るのはリュカと共に帰還したプックルにピエール、アンクルという魔物の仲間たちだ。グランバニアの国を守るために国に残った魔物の仲間たちの姿は、シスターたち国に在る者たちは皆、その雄姿を目にしてきた。そしてリュカたちと共に旅立ち、魔界の旅を無事に終えて帰ってきた魔物たちもまた、さぞ勇敢に戦ってきたのだろうと彼女は帰還した魔物たちを順に見つめる。
「やはり生きとし生けるものはみな、神の子ですわ」
シスターのその言葉は、そのままリュカの母マーサが思い続けてきたことなのだろうと、リュカは目の前のシスターに母の姿を見るようだった。決して姿かたちに囚われない、大事とするのはその中に籠る心の在り方なのだと、リュカを初め、グランバニアに暮らす人々はその真理に気付いている。未だ、こうして人間と魔物が共に暮らす国など、グランバニアにしかないだろう。人間でも魔物でも、良い者もいれば悪い者もいる。至って当たり前で自然なことを、このグランバニアという国は気づかせてくれるのだ。
「魔界の王は滅び去り、再び神の城が高く舞い上がったと聞きましたぞ」
常に冷静さを失わずに、しかしその表情には微笑みを湛えている神父が、今は実ににこやかで晴れ晴れしい顔つきを見せている。世に生きる者たちの全ての安寧を願う、その先頭に立つ立場でもある神父がこうして正面から笑顔を見せてくれることで、リュカはまたこの世界は本当に救われたのだと実感する。
「めでたいですなあ。わっはっはっはっ」
高らかに笑う神父の声は、リュカたちだけではなく周りにいる皆をも驚かせる。神父という立場の者が己の意思をまったく隠すことなく前面に出し、笑い声を上げる姿を誰も見たことがなかったのだ。神に祈り続ける神父として、神の城が再びその本来の姿を取り戻したということもまた、彼の精神を強くしているに違いない。今は己の役目を忘れてしまうくらいに、彼もまた多くの人々と同じように嬉しさを爆発させているのだろう。
代わる代わる、国に凱旋したリュカたちの前に人々が来ては、口々に礼を述べていく。共に武道大会に出場していた武器屋のイーサンも、祝い酒に顔を赤くしながら「商売あがったりだぁ!」と嬉しそうに叫んでいた。そこここに漂う酒の臭いに、ティミーとポピーだけではなく、リュカもまた少々気分を悪くしかけていた。
「リュカ王、そろそろ国王の間へ……」
群衆のどこにいても目立つ長身の兵士長ジェイミーが、リュカの傍に寄ってきて耳打ちするようにそう告げる。ジェイミーに言われる前に、既にリュカはこの場にはいない者たちのことを考えていた。ただ国王として、平和を民衆と共に喜び合うことは大事なことだと、自らこの場を離れる意思は示せないでいたのだった。
ジェイミーが兵士ら数人と共に、リュカたちのために道を開けるよう人々を促す。そこにピピンも紛れ込み、兵の役割を果たすというよりは、ティミーとポピーの兄としての役割を果たすように、双子の話に耳を傾けていた。魔界での話を二人から聞くピピンは、目玉が飛び出るほどの驚きを見せて、興味津々に話に聞き入っていた。リュカもビアンカも、まるで本当の兄弟のような三人の姿を見れば、自然とその顔には笑顔が浮かぶ。この二人の愛する子供たちが、これほど良い子に育ってくれたのは、ピピンのお陰でもあるのだと彼の調子の良さそうな話しぶりにも窺える。
リュカたちがグランバニア城の上階に向かう途中、城下町の噴水広場近くで見慣れない人間が一人、紛れ込んでいるのをリュカは見た。グランバニアという国には、それなりの多くの人々が暮らし、リュカ自身もまたすべての民を一人一人その顔を把握しているわけではない。しかしそれを差し置いても、思わずリュカは見慣れないと感じたその男をじっくりと凝視してしまった。
いかにも国民に溶け込み、馴染んでいるように見せているが、リュカの目に映るその中年の男は、その平々凡々は姿には似つかわしくない、きらりと光る琥珀色の目をリュカへと向けてきた。服も平素なもので、体格もどちらかというと細身、背も高くなく、黒縁の眼鏡をかけて、片手に酒の入ったグラスを持っている。今は祝いの時であり、誰かれとなく配られるグラスをただ受け取ったのだろう。
リュカはジェイミーに一言断りを入れると、訝し気な顔つきを隠さないままその男へと近づいていった。まるでリュカの行動をお見通しと言わんばかりの変わらぬ表情で迎えるその中年の男は、直前まで素知らぬ顔をしながらリュカのことを見もしていなかった。しかしいざリュカが近づいてくるのに気づくと、この国の王が近づいてくるという緊張感もなく、ただゆったりとリュカのことを見ているだけだった。
いかにも目立たない市民という姿の中年の男は、敢えて目立たない服装を選び、周囲に溶け込むことを目的としているかのようだった。祝いの場に用意されている簡素な木のテーブルに手を付きながら、もう片方の手に持つグラスをリュカに向かって軽く掲げて見せる。どこか特徴的な琥珀色の目が、黒縁眼鏡の奥からリュカを悠然と見据えている。
「わっはっはっはっ。人々の喜ぶ姿はいつ見てもよいものだな」
姿は平民を装っているようでも、その言葉遣いはまるで平民を表していない。外見を真似るのは容易だが、その中身まで真似るのはできなかったのだろう。男の言葉がたとえば、リュカのような国王から発せられるものであれば、特別奇妙にも感じないところだ。言葉の持つ雰囲気というのは、相応の立場に合ったものが求められるというものだ。まるで平民の姿をしている男が言うには、あまりにちぐはぐな言葉であり、しかもこの国の王に向かって言うような言葉でもない。
「どれ……私もいっぱい」
そう言うなり、男は手にしていたグラスの酒を一気に飲み干してしまった。喉を鳴らして飲むような勢いに、リュカは思わず止めようと手を前に出したが、まるでグラスから酒が一瞬にして消えたかのように見え、リュカの手は戸惑いと共に宙に留まった。リュカのみならず、すぐ後ろに来ていたティミーもポピーも、ビアンカも目を丸くしている。
「あ、あの、あなたは……」
リュカは国の人々一人一人を把握しているわけではない。その中で何故この男に特別に目が留まったのか、何故わざわざ近づき声をかけようと思ったのか。そこに理由はなく、ただ導かれたというのが本当のところだった。
「え? 私が誰かだって?」
リュカよりも大分背が低い、体の線も細い。比べればどちらが優位なのかは一目瞭然とも言える状況だった。リュカの護衛としてついているジェイミー兵士長などにおいては、顔を真下に向けるような形で男を見下ろしている。しかしそれでもこの男は兵士長のいかつい顔つきにも怯えることなく驚くこともなく、ただにこやかにジェイミーを見上げてにこにこと機嫌よく微笑んでいる。
「王様のお知り合いですか? ……のようには見えないですけどねえ」
同じくリュカについてきていたピピンが、いつも通り物怖じしない態度で見知らぬ中年の男をじっくりと見つめている。そのピピンにも、男は嬉しそうに笑顔を返すだけだ。先ほど一気に飲み干した酒が影響しているのか、男の顔は仄かに赤味がかっている。しかしそれさえもどこか“真似”をしているようにも見え、僅かな不自然さを感じるリュカはどうしても訝し気な顔つきを崩せない。
「リュカ、まだ分からないか?」
「………………」
そう言えば、このグランバニアへ到着するや否や、リュカたちはそれまで乗っていた竜神の背から唐突に落とされる羽目になった。他の地域を回っていた時には、竜神は地に降りてリュカたちを下ろすなり、神の力でも使ったか、突然にリュカたちを町の中へを送り込んだりと、竜神なりに人間への配慮があったのを感じた。しかしこのグランバニアの上空で、竜神はまだリュカたちを背に乗せたまま突然その姿を消してしまったのだ。何をするか分からない不安な竜神のこと、そのまま天空城へ帰った、とは想像できない。そして今も尚、こうして琥珀色の目でリュカを楽し気に見つめている。
「私だよ、プサンだよ、プサン」
果たしていたずらに成功したような自慢げな顔つきを、神という立場で表せるものかと思うが、プサンは難なくそのような表情をリュカたちに見せていた。竜神の姿でももしかしたら、普段からそのような顔つきをしているのかも知れないが、ただ竜の姿をしているから分かりづらかっただけなのかも知れない。
「えーっ!? プサンさんって、あのプサンさん!?」
「どうしてプサンさんがここにいるの……?」
リュカたちの尽力のお陰で、竜神の姿を取り戻したはずのプサンが、今こうして竜神の姿に戻る前の人間の姿で楽し気に祝いの場に溶け込んでいる。ティミーもポピーもただ男の名を口にしているだけで、この場にいる誰もが彼をまさか人間ではないとは思わない。ましてやここに復活した竜神がいるなどと、誰が想像できるだろうか。事態に気付いていないビアンカもまた、ただ不思議そうにリュカたちの知り合いということであれば挨拶をと慌てて頭を下げている。
「やはり人間というのはいいものだなあ……」
そう言っていかにも酒に酔ったようにしゃっくりをするプサンだが、それすらも人間を“真似”ているようで、その姿に真実味をリュカは感じない。しかし彼の言う言葉には嘘がないと感じていた。『やはり人間というのはいいものだなあ……』と思わず彼が口にしたのは、竜神の本音なのだろう。
リュカたちよりも余程、プサンは人間という生き物を見つめてきたはずだ。何せ彼は二十年間もあの閉ざされた洞窟の中でトロッコに乗ってぐるぐると回り続けていたのだ。今冷静になって考えてみれば、二十年間もの間トロッコが壊れずに、一人の男を乗せたままぐるぐると回り続けることができるだろうかという疑念が沸くが、恐らく二十年もの間あの洞窟の中に一人いたことは間違いない。
「なあ、リュカもそう思うだろう?」
酔いどれの言葉だというように、プサンは演出しているのかも知れない。しかしその言葉には真実が込められているのだと、間近に見るプサンの琥珀色の目にリュカはそう感じた。竜神が込めるその意味には、神であるプサンが、魔族の王の子孫である可能性を秘めるリュカに対して、『人間とはよいものだ』と聞いている、と。リュカは柔らかな雰囲気を醸すプサンの目を見つめながら、己の漆黒の瞳に光を湛えて、応える。
「ええ……決して捨てたものではありません」
どう応えるのが正しいのかなど、リュカには分からない。しかしプサンのように人間を全て良いと受け入れる気にはなれなかった。良いも悪いも含めて、人間という生き物なのだと、リュカはかつては人間だった者たちが魔に落ちて行ったことを決して忘れることはできないし、忘れてはならないと思っている。何百年も前にこの世界を破滅に追いやろうとしたのが己の先祖であるかも知れないという歴史もあれば、この度地上世界を滅ぼそうと力を尽くしていたのが元は人間であったという新たな歴史も生まれてしまった。
良い者も悪い者もいる中で、リュカたちがこれからもできることは、良い世界を築いていくためにはどうするのが最善なのかを考え続けることだと、リュカはこの場に賑わうグランバニアの人々の姿を広く見渡す。そしてそのリュカを、プサンはただ静かに穏やかに見つめるのだった。
「リュカ殿、王の間に待つ皆さまをあまり待たせてはなりません」
ピエールはリュカの後ろに控えながらも、少し前からプサンの正体に気付いていた。そしてこの竜神をさほど敬わない彼は、ただ冷静に主であるリュカの行動だけを優先させようと、頃合いを見て口を挟んできたのだった。ピエールの援けに甘えるように、リュカはプサンに一度だけ目配せをすると、プサンもまたウインクを返した。まるで「任せておきなさい」と言わんばかりの自信溢れるその態度に、リュカは寧ろ不安が増すのだった。
「あーあ。プサンさんまたやっちゃったよ。これでまたとうぶん天空城に帰らないんだろうな……」
「プサンさん、ホントは人間に生まれたかったのかな……?」
王の間に向かい始めた時にティミーとポピーがそう話すのを聞いて、ビアンカは思わず首を傾げる。
「天空城に、人間にって、二人とも何を言ってるの?」
「あっ、そっか。お母さんは初めて見たんだよね、プサンさんのこと」
「あれ、マスタードラゴンだよ」
ポピーにティミーに、何ということもないように話す二人についていけず、ビアンカはまた首を傾げてしまう。普段は頭の回転の速いビアンカだが、あまりに現実離れした状況に、子供たちの言葉を理解するのに少々時間がかかった。
「ビアンカ、あれがマスタードラゴンなんだよ。ああやって気ままに人間の姿に化けちゃうんだ」
「え……ええっ!?」
「あっ、そうだ。あとでグラシアさんにマスタードラゴンが来てるって教えてあげようよ」
「今、このお城にマスタードラゴンが来てること知ったら、びっくりするよね、グラシアさん」
今はリュカたちの傍を離れ、天空人グラシアは主に魔物の仲間であるベホズンと共に行動し、グランバニアに人々と一緒になって祝いの賑わいを見せている。まさかこんなところに彼女の主とも言えるマスタードラゴンがいるなど、思いもよらないところだろう。
「わ、私は初めて見たけど……今の人がマスタードラゴンなの?」
以前に、マスタードラゴンは人間の姿に化けて地上世界に紛れ込んでいたことを、ビアンカは聞いたことがあった。しかし彼女の想像する人間に化ける神様というのが、まさかあのような平々凡々の姿をした中年の小柄な男というところには行き当っていなかった。世界を統べる神なのだから、どのような人間に扮したとしても、神の空気が滲み出てしまうものだろうと、彼女は無意識にも期待していたのだ。
「天空の人たちがあんなに慌ててた意味がようやくわかったわ……」
マスタードラゴンの姿で、遥か高みにある空を悠々と飛んでいれば、竜神に危機など訪れようもないだろう。しかし今はこうして、一般の人間の男性よりもひ弱にも見える身体で、特別何かの力を有している様子もなく、呑気にグランバニアと言う人間の国に潜り込んでいる竜神という状況を考えれば、天空人たちが不安を抱くのも無理はない。
「あ、あ、あの、リュカ王、一体どういうことでしょうか……?」
リュカの護衛として傍についているジェイミーが、聞こえる話に多少の混乱を見せつつも、状況を確認しようとする。真面目なジェイミーを無駄に不安がらせることもないだろうと、リュカははぐらかすように「ああ、大丈夫だよ。あの人、何にもしないから」と、やや雑に伝えるだけで済ませてしまった。リュカは嘘を言ったつもりはない。神が敢えて何もしないのは本当のところだ。神というのは恐らく、その存在そのものに意味があると、リュカは後ろでリュカたちを静かに見続けているプサンの視線を感じながら、グランバニア上階へと向かう。
「リュカよ。王の間へは、お主たちだけでゆくがよい」
階段を上る手前でそう言葉をかけてきたのは、リュカたちの留守を預かっていた魔物の一人であるマーリンだった。リュカは当然のように、共に魔界を旅し、死闘を潜り抜けてきた魔物の仲間たちと共に王の間へ向かうつもりでいた。マーリンにそう言われるまで、プックル、ピエール、アンクルとこの場で離れることを微塵も考えていなかった。
「そうですね。今、最も優先されるべきは“王の凱旋”であり、“勇者の凱旋”です」
ピエールはマーリンの言葉に素直に納得を示す。寧ろ王と共に並んで自身が凱旋を果たしたと見せるなど、今見せるべきものではないと、魔物の騎士としてその場で立ち止まる。
「がう」
プックルもまた、大人しくその場で座って見せた。短い一言に『もう平和になったのだから、いつでも会える』という安心を見せ、赤い尾を落ち着いた様子でゆらゆらと揺らしている。二度も離れ離れになった過去を、プックルは乗り越えたように「にゃあ」ともう一度鳴いて見せた。
「オレたちが一緒にいっても、なんだか“ミノオキドコロガナイ”って感じになりそうだしなぁ」
あくまでも現実的に状況を想像するアンクルは、たとえ共に王の間に入ったとしても、寧ろ互いに気まずいような状態になりはしまいかと、そんなことを口にする。彼の、感動とはかけ離れたようなそんな言葉にある意味で救われたように、ビアンカは笑いながらリュカに言い添える。
「大丈夫よ、リュカ。私たちは家族としてついていってあげるから、一人じゃないわよ。寂しくないでしょ?」
「もちろんよ! お父さんを一人なんかにしないわ!」
「オジロンさんたちに報告って言っても、すぐに終わるよね? みんなともすぐに後で会えるから、平気だよ!」
「……あの、僕ってそんなに寂しがり屋に見えてるの?」
妻も子供たちも揃って口にするそのような言葉に、リュカはふと自身に不安を覚える。これではまるで自分が一番子供だと、困ったような顔でそう言うリュカに、彼を囲む者たちが思わず笑い声を上げてしまう。これほどに平和で穏やかな空気が、このグランバニアの中で漂っていることに、リュカは図らずも感動を胸に滲ませる。
「これ以上オジロン殿たちを待たせてはならんぞ。早う行くがよい」
マーリンの言い方は、いかにも国の重鎮としてオジロンやサンチョの隣で常に共にグランバニアと言う国を支えてきた魔物の言いぶりだった。彼を置いて、オジロンたちの苦労をこれほどに理解している魔物もいないのだろう。これ以上待たせるなと言うマーリンの言葉には、リュカたちを思うのと同時に、ずっとリュカたちを待ち続けてきた彼らに対する情愛もあるのだ。
「うん。じゃあ、行ってきます」
兵士長ジェイミーが先導する形で、リュカ、ビアンカ、ティミー、ポピーが王の間へと続く階段を上がっていく。その姿を、プックル、ピエール、アンクル、だけではなく、他の仲間の魔物たちも、多くの人々もまた、歓声を上げて見送った。



城の二階にある居住階を通り過ぎ、更に上へと向かう。外から日差しが差し込むことはない。既にグランバニアは夜更けを迎えようとしている時間帯だ。陽光輝く空を見渡す代わりに広がるのは、無数にも思える星々が浮かぶ夜空だ。城の回廊に出ると、城内の熱気から解放されたように、涼しい風が肌を触れていく。グランバニアと言う国は年中を通じて温暖な気候の地域で、夜でも寒気を感じるようなことはない。今こうして涼しさを感じるのは、それだけ城下町の熱気が高まっていたということだ。
ジェイミーの後に続いて、リュカたちはゆっくりと回廊を歩いていく。国を包み込むようにある森林は静かで、時折夜の鳥が控えめに鳴き声を聞かせてくれるだけだ。森から吹いてくる風は穏やかで、つい先日までこの場所が暗雲の下に、月も星もない暗闇に包まれていたとは想像できない。人間であるリュカたちにはほとんど視界の聞かないような夜の森だが、ここにも確かに平和が訪れているのだという雰囲気を感じることができる。
「ジェイミーさん」
「はい、何でしょうか」
国王に呼ばれては、前を歩き続けることも不敬に当たると、ジェイミーは足を止めてリュカを振り返る。そのつもりもなかったリュカは、これ以上待たせてはならない人々に会うためにと、ジェイミーの横に並んで自ら歩き始めた。今度は遅れてはならないと、兵士長は慌てて国王と歩調を合わせるように歩き出す。
「後で色々と、教えてください」
「……と、言いますと?」
「グランバニアも、大変だったんでしょう?」
そう言いながら、リュカはジェイミーの右足に回復呪文を施した。彼は決して足を引きずって歩いていたわけではない。たとえ痛みがあろうとも、彼はそれを痛みとも思わずに平静を保ち行動していた。誰にも悟られることはなかった。しかしリュカは、予想以上にゆっくりとしたジェイミーの歩みに、ふと彼の右足の負傷に気付いたのだった。
「……いえ、貴方がたの苛酷な旅に比べれば、何のことはありません」
「たとえそうだとしてもだよ、僕は一応この国の王でしょ? だから色々と聞いておかないとね」
「はっ……貴方がそう望むのであれば、私はいくらでも話しましょう」
「うん、よろしくね。……この平和はさ、決して僕たちだけで成し遂げたものじゃないから」
「ジェイミーさん、ボクも後でお話聞きたい!」
「リュカの言う通りよ。私たちだけじゃきっと、どうにもならなかったんだわ」
「ジェイミーさんも無事で良かったの……」
肌を撫でる夜風は涼しく優しい。しかし仄かにその中に混じるのは、森の焼けたような臭いだ。リュカたちの帰還を祝うように、グランバニアの人々はただただ喜びの表情を見せてくれる。しかしこの場所にも魔の手は確実に伸び、リュカたちの知らない危機を迎えていたのは、今は見えない夜のグランバニアでも気づく臭いだったり雰囲気だったりに微細に感じられるのだ。
回廊を端まで歩き、突き当りを右へと曲がろうかとした時、リュカたちの目の前に素早く動く影を感じ、皆が思わず身構えた。しかし共に歩くジェイミーは、ふっと小さな笑みを零すだけで、特別リュカたちを護衛すべく剣を構えるでもない。危険を一切感じないという姿勢のジェイミーに、リュカたちも身構えていた姿勢を崩す。
夜空の星々の中、うっすらと浮かび上がるその姿は、まるでどこかのお姫様のようだった。リュカはふわりとしたドレスに身を包んだ彼女の姿に、思わず母マーサがこの国に帰ってきたらもしかしたらこのような景色が、と想像してしまった。
「おかえり、みんな」
まさしくグランバニア国の姫であるドリスが、姫らしくドレスを身にまとってリュカたちを待っていた。夜の暗さに、ドレスの色はよく分からない。ドリスは普段、動きやすい服装を好み、スカート丈も短いものをよく身に着けているが、今はおしとやかなお姫様のごとく足元まで覆う長い丈のドレスを着ていた。
身に着ける服によって人は、その所作が自然と変わるものだ。今のドリスは普段の活発な彼女とは異なり、しとやかに両手を前に静かに合わせ、美しい立ち姿を見せている。優れた武闘家としての面も持つ彼女のこと、背筋を伸ばした良い姿勢を保つことには慣れている。
「父のオジロンから聞いたわ。王様たちが魔界の王をやっつけたんだってね」
ドリスの言葉遣いまでは、姫君らしい上品なものとはならなかった。しかしそんな彼女の言葉に、リュカは安心した。彼女も彼女で、一応は自身の姫君らしくない言葉遣いを気にしているようで、直後につい笑いながら言い添える。
「なーんて、本当は王様にこんなクチの聞き方しちゃいけないよね。でもこういうのってなかなか直らなくて……」
本当は、ドリスはリュカにこんなことを話したいわけではなかった。もっと話すべきことがあるはずだと分かっていた。誰も足を踏み入れたことがないような魔界という場所から、無事に帰還を果たしたのだ。外の世界に憧れるドリスとしては、いくらでもリュカの冒険譚を聞き出したいと思う。魔界とは一体どのような場所なのか、魔物はどれほど強いのか、魔界と言うくらいだからとてもおどろおどろしいのか、水や食べ物はどうしたのか、そこに人間はいないのか、考え出せばキリがない。
しかし彼女が最も聞きたかったのは、リュカの母マーサのことだ。彼は母を救いに行くのだと、魔界へ旅立つことを決めたのだ。しかし今、彼の隣に母はいない。それだけで、彼に何があったのかは察して余りあるというものだった。聞くに及ばない質問など、晴れて凱旋を果たしたばかりの国王に投げるべきではないと、ドリスはただ優しい笑みを浮かべて、リュカを労う言葉を言おうと口を開いた。
「リュカ王、ステキよ」
長々と語るのは後だと、彼女の今の想いを集めたものが、こんな言葉だった。王妃も王子も王女も、こうして無事に一緒に帰ってきてくれた。魔物の仲間たちもこの城に着いていると聞いている。それがどれほど成し遂げがたいことだったか、ドリスはこのグランバニアをも襲おうとしていた魔物の群れの様子を思い出せば、自ずと知れるというものだった。
リュカの母マーサについては、ドリス自身よりももっと、そのことを知りたいと思っている者がいる。彼を差し置いて自分が、という気には到底なれないと、ドリスは交わす言葉もそこまでにしてリュカたちを王の間へ向かうようにその眼差しで促した。
「ドリスお姉ちゃん、今日はちょっとおすましだね」
ティミーが少々からかうようにドリスにそう言うが、ドリスはいつものような元気を見せてティミーに言い返すこともしない。もう少しここで星を見るのだと、屋上庭園に留まるドリスの目には、夜の暗さに紛れて見えない涙が浮かんでいた。リュカたちが帰ってきたと知ってからも、ドリスは彼らを実際に目にするまで、本当に彼らが戻ってきたのかと疑う気持ちを捨てられなかったのだ。そしていざ、何事もなく戻ってきたようなリュカたちの姿を目にして、気が抜けたように目に涙が浮かび、それを悟られまいと一人屋上庭園に残ったのだった。
ドリスも一緒に王の間へと彼女を心配するポピーを、ビアンカが先に王の間へ行きましょうと促す。ポピーがドリスを大事に思うのと同じように、ビアンカもまたドリスを可愛い妹のように大事に思っている。それ故に今は彼女を一人にしておいた方が良いのだと、人を心配させるような涙など見せたくないと理解するビアンカは、ドリスの心情を汲むようにただ静かに「ドリス、また後でね」と声をかけるに留めた。その温かな王妃に手の感触に、ドリスは声もなく、ただ後ろを向いて頷くだけだった。
屋上庭園を右手に見て、左手に王の間の扉が見える。扉の両側に焚かれる松明の灯りに浮かび上がるのは、門番の兵たちと、兵よりもふくよかな体型をした一人の男の姿だ。暗い中でも、リュカはすぐに彼が誰だかを悟る。リュカたちが気づくよりもずっと前から、扉の前でじっと静かに待ち続けていた彼は、それまでは絶対に取り乱すことなく王たちをお迎えするのだと平静を保っていた。が、ひとたび松明の灯りの中にリュカたちの姿が見えると、それまでの決意などなかったかのように込み上げる涙をまるで堪えず、横にいる兵たちをも驚かせるほどに両頬から涙を溢れさせた。
「ぼ、坊ちゃん」
サンチョはいつでもついこう呼んでしまうのだ。彼の中でリュカは、いつまで経っても手の中に納まるような可愛らしい赤ん坊であり、素直で可愛らしい男の子であり、勇敢でも可愛らしい青年なのだった。リュカがどれほど成長しようとも、サンチョの前ではずっと子供なのだ。そしてそれはきっと、亡きパパス、亡きマーサが経験するはずだった父母としての愛情から生まれるものなのだ。
しかし両脇に立つ二人のグランバニア兵の気配に遅れて気づいたように、サンチョは溢れる涙を手の甲でぐいっと拭うと、表情を引き締めて改めて国王リュカに向き直る。
「いえ、リュカ王! お帰りなさいませ!」
サンチョの元気な声を聞いて、今度はリュカが表情を歪ませる番だった。頭を下げるサンチョの姿は、果たしてこれほど小さかっただろうかと、サンチョのふくよかな体型を分かっているリュカは思わず眉を顰める。サンチョが懸命に声を張って、リュカにおかえりなさいと声をかけてくれる。一体これまでに何度、こうしてサンチョにおかえりなさいと言ってもらってきたのだろうか。
リュカがこの世に誕生したその瞬間から、サンチョはリュカの父パパスと母マーサと共に、その誕生を喜んでくれたのだろう。リュカは当然、その時のサンチョの様子を知ることはできない。しかし彼は常に父の従者として、その役割を全うするようにリュカの傍におり、いつでもリュカのことを最優先に考え動いてくれていたことに、彼の気持ちを窺い知れる。大事なグランバニアの王子ということも当然、その理由にあったのは間違いない。しかし決してそれだけではないのだと、顔を上げたサンチョが全く隠していない涙顔に、リュカはサンチョの“もう一人の親”としての愛情を深く感じるのだ。
「サンチョ、ただいま」
その言葉を口にした途端、リュカはあのサンタローズの幼い頃の記憶が蘇るのを否応なしに感じた。あの時は村の中で遊んで帰るだけだった。小さな村で、頼れる村人たちがいて、その中で遊んで帰ってくるリュカに、サンチョはにこやかに「お帰りなさいませ、坊ちゃん」と家のどこからでも姿を現して声をかけてくれた。
今にして思う。サンチョはきっと、リュカに寂しい思いをさせないようにと、努めて“母”の役割を自ら負っていたのだろう。子供のいないサンチョに、ましてや男である彼に、母親の役割など非常に困難だったに違いない。しかしサンチョは、リュカの母マーサが魔界に連れ去られてしまったという現実を見てしまっているのだ。彼の主であり、リュカの父であるパパスを支えるのと同時に、唐突に母と離れ離れになってしまった生まれて間もないリュカをあらゆることから守るためにも、サンチョはきっとリュカの母になろうとしていたのだと、リュカは幼い頃に何もかもを包み込んでくれる雰囲気を見せていた彼を今になってそのように感じられる。
「この度のご活躍、このサンチョ、どれほど嬉しかったことか……」
到底堪えられる涙ではないと、サンチョはどうにか堪えようとしながらも、両頬からぼたぼたと涙を流しながらリュカに話す。リュカも思わず涙腺は緩むが、目の前でこれほどまでにサンチョが泣いてくれると、自分の分まで泣いてくれているようで、代わりにリュカは思わず笑みを浮かべることができた。
リュカたちが魔界の奥底にいるその時、グランバニアの上空にも暗雲が流れ込み、それはあっという間にこの地の空を覆った。吹いたことのない冷たい風がどこからともなく吹き荒んだ。その光景は、一瞬にしてグランバニアの人々を不安に陥れてしまった。森に棲む魔物が唐突に我を失ったかのように目を光らせ、凶暴を見せた。そこに、魔物自体の意思は感じられないと、サンチョは感じていた。近頃では専ら城の中で内務に勤しんでいた彼もこの状況においては、自らの武器としている大金槌を手にして外へ出ざるを得なかった。
敵となる魔物と向き合いながらも、サンチョの脳裏には常に魔界へと旅立ったリュカたちのことが映っていた。グランバニアが暗雲に包まれ、森の魔物が凶暴化しているこの状況に、サンチョは大金槌を振るいながらも、大事な大事なリュカたちに何事かが起こったのかとその手は常に震えていた。気が気ではなかった。もしかしたらと考えようとする思考を止めるためにも、彼は目の前の敵に向き合った。
時間にしてどれほどだったのか、彼にはその感覚がなかった。一瞬、一瞬を、とにかく過ごしていただけだ。ただ、今度は唐突に暗雲が晴れ渡り、隠れていた明るい空が開けた時、その状況を身に知ったかのように途端に身体から力が抜けてしまった。その時彼の背後に迫る魔物の一撃を打ち払ってくれたのは、実はピピンだったことを未だにサンチョは知らない。
「その昔、先代パパス王とまだ赤ン坊だったリュカ王を連れてこの城を出た時……まさかこんな日が来ようとは夢にも……」
サンチョも考えていることはリュカと同じようなことだった。やはり彼の胸中を占めるのは、幼いリュカとの日々なのだ。人は誰しも幸せだったころの思い出を拠り所として生きているのかも知れない。リュカも、幼い頃に父とサンチョと過ごしたあのサンタローズでの日々を忘れることはできない。サンチョに至っては、リュカよりも尚、その頃の思い出は深く濃く残っているに違いない。それは親が子を看るに等しい時間だった。自らも親となったリュカにはその時のサンチョの想いが、我がことのように想像することができる。
「サンチョ」
涙をぼたぼたと落とすサンチョの前で、同じように泣くわけには行かないと、リュカはどうにか顔に笑みを湛える。しかしその頬はやや引きつっている。目頭は勝手に熱くなる。松明の灯りに照らされたサンチョの髪には白髪が増えたようだと感じる。年月を感じる。その年月は果たして幸せなものだっただろうか。どれだけ今まで心配や迷惑をかけてきたのかと、リュカは実の親に感謝するがごとく、サンチョの前で頭を下げる。
「今まで本当にありがとう」
「そんな……私が不甲斐ないばかりに……」
「たくさん苦労をかけたね」
「なんの……坊ちゃんが生きてくれさえすれば、もうそれで……うっうっうっ……」
涙に暮れるようなサンチョだが、このまま泣き崩れてしまっては示しもつかないと、どうにかして顔を上げリュカを正面に見つめる。その時、サンチョの目に映るのは間違いなくリュカであるにも関わらず、彼はリュカではない者を目に映していた。
「…………マーサ、様……」
サンチョには、目の前に立つリュカの姿に、マーサが映し重なっているのが見えていた。幼い頃からよく似ていると、サンチョはリュカにそう言ったこともあった。今のサンチョの前に立つリュカの表情は、似ているということに留まらず、まるで生き写しのように見える。リュカと言う愛する息子を通じ、マーサがこうして長年に渡るサンチョの忠義を労いに来ているようで、止めようと思っていた涙は更にとめどなく溢れてしまう。
「サンチョ、相変わらず泣き虫だなあ」
ティミーはあくまでも朗らかにそう言う。このような時は、子供のこの無垢な明るさに救われる。涙を流していてはいつまでも王の間に向かうことができないと、サンチョを筆頭にリュカもビアンカも、共に付いていたジェイミーも涙ぐんでいる状況から脱することができた。
「泣いている場合ではないですよね。……さあ、リュカ王、皆が待ちかねていますぞ」
「みんなをこれ以上お待たせするわけには行かないものね。ただでさえ私たち、色々と寄り道してきちゃったんだし」
「……そうだったね」
考えてみれば、魔界から地上世界へと戻ってから一体どれほどの時間が経過しているのか、リュカたちは誰も知らない。世界を竜神の背に乗って巡ってきたことも合わせれば、このグランバニアに着くのは相当に遅くなってしまったのは間違いない。
「サンチョにはまた後でたっぷり話すよ。魔界で会った母さんのことも……」
「……マーサ様にお会いになられたのですね。それは良かった……本当に良かったです」
魔界へと旅立つことを決めたリュカの背中を、サンチョは押したのだ。それはただ、マーサに成長した息子リュカと会ってほしいから、それだけだった。主であるパパスの宿願を果たすためにも、マーサをこのグランバニアに連れ戻してほしいと願っていたには違いないが、彼はただ、母と子を会わせたかった。息子であるリュカに母マーサに会ってほしいという思いよりも、寧ろ母マーサに愛する息子に会わせたいという思いの方が強かった。やはり彼は、リュカの親代わりということなのだ。
「ああ、またサンチョが泣いちゃうよ!」
「サンチョおじさん、泣かないで……」
「ははは……ティミー王子にポピー王女にそう言われてしまえば、このサンチョ、頑張って涙を引っ込めなくてはなりませんな……」
サンチョにとって双子は、孫のようなただただ可愛いという二人なのだ。そんな二人に励まされては、サンチョは改めて思う双子の優しさに可愛らしさに、その頬は自然と緩み始めてしまう。そんなサンチョを見ながらビアンカはつい山奥の村に暮らす父ダンカンを思う。祖父と孫の立場という意味で、父ダンカンとサンチョは似たようなところに立っているのかも知れない。そしてその関係はとても微笑ましいものだと、彼女はまだ目に涙を残しながらも同じように微笑む。
「さあ、行きましょ……リュカ」
妻の声がいつものようにはきはきとした明るいものだと感じ、リュカもまた気持ちは明るく落ち着く。夜の暗さに、扉の両脇に焚かれる松明に、リュカたちの互いの笑顔が浮かび上がっている。
「うん。じゃあ、行こうか」
リュカの声を切欠に、二人の兵たちが扉をゆっくりと開く。王の間には多くの灯りがあるのだろう。暗い夜の中では眩しいと感じるほどの明るい王の間へと、リュカたちは揃って足を踏み入れる。



正面の玉座に座る者はいない。そこに座すことができるのは、この国の王であるリュカだけだ。しかしリュカは、扉が開いた時に、玉座に座る者の幻影を見ていた。王の間に足を踏み入れたリュカのその表情に気付いた者はいない。しかしリュカは一人密かに目を見張った。
幼い頃にこのグランバニアを離れ、リュカは決してこのような場面を目にしたことはなかった。しかし今、リュカの目にはグランバニアの玉座に悠然と座る父パパスの姿が見えていた。それはもしかしたら、リュカの願望が、ただリュカの目にだけ映っているのかも知れない。
非常ににこやかな父の表情を、リュカは久しぶりに目にした。これが己の願望から出来上がったような幻影だとしても、それでも父パパスはきっとリュカをこうして笑みを浮かべて迎えてくれるに違いないと思う。決して言葉を交わすことなどできない幻影は、無事に帰ってきたリュカを“よくやった”と褒めてくれているのだと、リュカは見える父の幻影にそう感じる。幼い頃、ビアンカと無茶をしてレヌール城の夜の冒険に出かけて戻った時も、パパスは叱らなければならないのに、息子の成長が嬉しいと喜んでしまったことがあった。父が喜んでくれるように、自身は逞しく成長できただろうかと、リュカは見える玉座の父に自然を浮かぶ笑みを見せた。
無事に国へと帰還した国王一家を迎えるように、玉座の脇に立つのは、国王代理として長年この国を守ってきたパパスの弟であるオジロンだ。サンチョのように泣き崩れるようなことはなかったが、リュカを見つめるその目にはやはり涙が浮かんでいた。思えばオジロンもまた、長らく苦労、心労を重ねてきたのだ。世界が平和を取り戻す直前には、グランバニアの危機にオジロン自らも一人の戦士となり、国を守るべく皆と共にその働きを見せた。その姿をリュカは見ていないが、彼の真の姿が一流の武闘家であることを知っているために、この国を思うオジロンがその働きを見せないということもなかっただろうと想像する。
扉は二人の兵によって閉じられ、兵士長ジェイミーは既に両側に列をなして並び立つ兵の先頭に入り、同じく並び立つ。リュカたちを先導していたサンチョもまた、リュカたちを玉座へと誘導した後に、自らはオジロンと対を為すような位置に移動し、そこに立つ。
大きな玉座。今はそこに父パパスの幻影は見えない。そこに今座るのは、今の国王であるリュカなのだと、年季をも感じられる玉座はぽっかりと空いた状態で国王を待つ。ビアンカがリュカに目配せする。国王として今、為すべきことは、この玉座に座り、国王の帰還をここに示し、世界に平和が訪れたことを示すことなのだと、リュカはビアンカと共に大きな玉座に共に静かに腰を下ろした。父と母の堂々たる姿を目にして、ティミーとポピーもまた玉座の両側にそれぞれ立ち、並び立つ兵たちの姿を見つめる。彼らがいるから、こうしてグランバニアの国は守られているのだと、彼ら一人一人の清々しい表情を見ながらそう感じる。ティミーは勇者として生まれ、家族や魔物の仲間たちと共に魔界と言う見知らぬ世界を旅をすることにもなったが、それだけで世界が守られたわけではないのだ。こうしてグランバニアを守り、待ってくれてる人々がいるから、宿命を受け入れ、悪にも立ち向かうことができる。そしてそんな危険を冒し、悪に立ち向かう者たちがいるから、グランバニアの国の民らもまた決して手を抜かずに国を守る覚悟を決めることができるのだ。すべては、互いの為に。互いを思うことこそが、平和が続く礎となる。
オジロンが一歩前に進み出て、国王一家帰還の祝いの言葉を述べようとした時、閉じられている扉の向こう側で何やら人々の話し声が聞こえ始めた。今、扉の向こう側にいるのは番をしている二人の兵と、庭園で一人星空を見上げているであろうドリスだけのはずだ。しかし聞こえる人の声はその三人にとどまらず、一体どれほどの人がそこにいるのだろうかと思わせるほどの、多くの人の声がみるみる賑わってきている。その状況に、玉座に並んで座るリュカとビアンカは顔を見合わせ、想像できる状況に思わず吹き出すように笑ってしまう。
門番が必死になって止めていたにも関わらず、扉は豪快に開かれてしまった。王の間にいる兵たちがざわめき、咄嗟に武器を構えるが、扉から入り込んできたのは、城下町で騒いでいた国の者たちだった。ここは深い森に囲まれた、王と民との間に垣根のない、きっと世にも珍しい国。
「ばんざい! ばんざい!」
「王様たちが帰ってきた! 王様! オレはもう嬉しくって嬉しくって。ヒック……」
「リュカ王! あなた様は父上を超えられましたぞ!」
「王様、ステキよ!」
「ララララー。世界に平和がおとずれたー。えらいぞティミーわれらが伝説のー」
城下町で騒いでいた民たちは、国王一家が上階へ上がっていったのを見送ったはずだったが、あまりの喜びに見送るだけでは気持ちが収まらなかったのだろう。国王は王の間で、玉座に戻って初めて国への帰還を果たしたと言えるのだと言わんばかりに、国民たちもまた真の王の帰還を共に祝おうと、普段は認められていないグランバニア城の上階への入場が半ば強引に許可されてしまったのだった。
「まったく……仕方がないのう」
溜息をつくオジロンだが、その表情は誰よりも楽し気に見える。かつてこの国では、幾度も危機が訪れ、その度に国には暗い影が落ちていた。先の王妃であるマーサが魔物に連れ去られ、妻を救おうと旅立った先代の王パパスは魔物の前に倒れ、数年を経て国に戻った息子リュカもまた妻ビアンカと共に行方知れずとなった。しかし国王となったリュカはこうして国に戻り、王妃ビアンカも王子ティミーも王女ポピーも、国を、世界を救った勇者の家族として今、元気にここにいる。終わりよければ、などと一言にまとめて良い過去ではない。しかし今の今、目の前で誰もがその顔に笑みを浮かべ、嬉しさを爆発させている状況では、長年の不安定を乗り越えた実感がわいてくるのも止められず、オジロンもいつになく心も体も軽くなるのを感じた。
「リュカ王、これは……無礼講ということでよろしいですかな?」
「あはは、今さらですよ、オジロンさん」
リュカが玉座に着きながらそう応えると、オジロンは見たこともないほどに顔を明るくし、王の間へと入り込んできたグランバニアの民たちの間へと入り込んでいってしまった。本当はこの場で誰よりも喜びを爆発させたいのがオジロンなのかもしれないと、リュカは誰ともなく相手を見つけてダンスを踊り出すオジロンを見ながら思わず声を立てて笑ってしまう。
王の間に押し寄せる人々の熱気で、途端に内部の温度が上がり暑くなる。しかしそんなことにはお構いなしに、誰もかれもが互いに喜びを表すように王の間の中で踊っている。初めは職務に就いていなくてはと真面目に兵たちの様子を見ていたジェイミー兵士長も、強引に天空人グラシアに誘われては、慣れない踊りをせざるを得なかった。サンチョのところへ話に来たシスターも、周りで楽しく踊る人々がいれば、その中に混ざって楽しく踊り始める。リュカはサンチョの踊る姿など今まで目にしたことはなかった。太った体の割に身軽でもあるサンチョは、難なくシスターをエスコートしながら踊っている。もう涙は引っ込み、サンチョの顔には滲み出て溢れている喜びが、多くの皺となって現れ出ていた。
「パパスおじいちゃん、サンチョおじさんのこともちゃんと見守ってるよね」
リュカの傍でそう言うポピーには、もしかしたら亡き祖父パパスの姿が見えているのだろうかと、リュカには感じられた。たとえそうでなくとも、ポピーがサンチョに対してそう思えることが、リュカには嬉しかった。この国で生まれたリュカを見てきたサンチョは、それと同じようにこの国で生まれたティミーとポピーを見てきてくれた。リュカやティミー、ポピーからの感謝だけではなく、亡き父パパスもまた従者サンチョへの感謝は計り知れないものがあるに違いない。それを直接言えない父に代わり、リュカはこれからもサンチョに感謝の言葉を伝え続けようと、彼の喜びに溢れる状況を見ながらそう心に思う。
「あわわわ……私はそういう踊りはちょっと……」
「なーに言ってんの。こういうのは考えるもんじゃない、感じるものなんだって!」
この賑やかな王の間で、そんな会話が聞こえたわけではない。しかしリュカの目に映った二人の姿を見て、リュカは思わずそんな言葉を交わしているに違いないと二人を見てしまったのだ。この賑わいにすっかり元気を取り戻したようなドリスに力強く手を引かれるのは、人間の姿をしたプサンだ。一流の武闘家としての動きをするドリスに対して、プサンはついていくのに必死だ。踊りは通常、男性がエスコートするものなのだが、それがこの二人に関してはまるで逆転している。天空城の主として、この地上世界を統べるマスタードラゴンであっても、力強い一人の人間の姫に振り回されてしまう姿はあまりに可笑しい。
「わあっ! みんなも来たんだ!」
ティミーは人々の後に続いて入ってきた魔物の仲間たちの姿に、思わず歓声を上げた。この王の間に常々入れる魔物の仲間は恐らくマーリンぐらいのものだ。しかし今はオジロンの言った無礼講を表すように、続々と魔物の仲間たちが王の間へと入ってくる。
「がうがうー!」
「ピキキー!」
「本当に我々が入っても良いのでしょうか……?」
「ミンナ、ウレシイ、ガンドフモ、ウレシイ!」
「今日だけは特別じゃ!」
「メッキッキー!」
「ぐお~ん、ぐおお~ん!」
「マッド、ここで火を吹いてはなりません」
「リュカー、来ちゃったよー!」
「『リュカ、よくやった……』……うわーん! パパスさまー、マーサさまー!」
「今のがリュカのオヤジの声なのかよ、ミニモン?」
「メ……メ……」
何やら危うい音を出しているロッキーを、両側からキングスとベホズンが包み込むように宥めている。爆弾岩のロッキーが嬉しさを爆発させたら何が起こるのかは分からないと、大きな身体をした二体が協力してロッキーに寄り添っているようだ。
「これじゃあもう、ムチャクチャじゃない、ねえ?」
呆れたような声でそう言うビアンカだが、その実は誰よりもその騒ぎの中に混ざりたいという思いで水色の瞳はキラキラと輝いていた。その好奇心に満ちたような表情こそビアンカだと、リュカは隣に座る妻の笑顔を見て自分のことのように嬉しくなる。
「僕たちも一緒に踊ろう」
リュカからそんな言葉をかけたことなどなかった。しかし今のこの状況、これほどまでに多くの人々に魔物にと、ごった返した王の間の中にあっては、落ち着いて二人で玉座に座っていられるほどリュカも大人しくはなかった。世界に平和が訪れた。おとぎ話に聞くような幸せな結末には、皆が喜び踊る姿が相応しいのは違いないと、リュカはビアンカの手を取る。
「うふふ、リュカからダンスに誘ってくれるなんてね」
「ホントだね。きっとこの先、こんなことないよ」
「じゃあこの機を逃しちゃいけないわね」
賑わう中でそう言葉を交わすと、リュカとビアンカも玉座を立ち、そのまま人々の中へと入り込んでいく。
「二人もおいで!」
「一緒にみんなで踊りましょう!」
「やったあ!!」
「うん!!」
人々の中に、魔物の仲間もいる中で、リュカとビアンカは互いに手を取り、その近くでティミーとポピーもまた兄妹で手を取り合い、元気に踊り始める。王たちも踊り始めたと、人々の熱気はますます盛り上がり、王の間の中は大変な賑やかさとなった。人々の幸せな顔つきを、職務に就いている兵たちもにこやかに見つめている。中には皆と混じって踊り出す兵もいる。
この賑わいの中でリュカとビアンカは、互いの声が聞こえるようにと顔を近づけ合い、言葉を交わす。
「ねえ、リュカ……」
「うん?」
「私、あなたにめぐりあえたこと、本当に心から神様に感謝してるわ」
「僕の方こそ……まあ、神様に感謝してるかどうかはよく分からないけどね」
そう言いながらリュカはちらりとプサンへと視線を投げる。プサンは相変わらずドリスに振り回され、もはや目を回しているようにも見える。そんな彼らの姿を見て、ビアンカは少しだけ申し訳なさそうに小さく笑う。
「絶対に私の前からいなくならないでね」
明るい調子で言うものだから、リュカは咄嗟には彼女の不安に気づかなかった。世界に平和が訪れ、皆がこうして喜び合い、全ては丸く収まったのだと、言ってしまうのは簡単だ。しかし自分も彼女も一度はこの城から行方不明になるという悲劇に見舞われたのだ。十年という月日を空白に過ごした彼女にとっては、離れ離れになったあの時のことが記憶からなくならない限り、この不安というものは一生消えないのかも知れない。
「私のこと、絶対に離さないで……」
「……うん、絶対に」
繋いでいた手を離し、リュカは両腕でビアンカを抱きしめた。公然とそのようなことをされたらいつもは恥ずかしさに自ら離れるようなビアンカだが、今は大人しくリュカに身体を寄せているだけだ。そんな王と王妃の姿に、王子と王女が、人々が、魔物の仲間たちまでが、沸くような歓声を上げる。グランバニアの者たちにとっては、こうして王と王妃が揃って仲睦まじくする姿を見ることそのものが、喜びの対象なのだった。この国は長年、国王家族がこうして平和の中に安らかに過ごせる状況になかった。それがようやく今、叶ったのだ。平和という形が今、彼らの目にしっかりと見えている。

どこからともなく 不思議な声が 聞こえる

リュカは皆と共にこの訪れた平和というものをその身に感じている時、ふと、この場を大きく包み込むような温かな雰囲気を感じたような気がした。ちらりと大きな玉座に目を向ける。しかしそこには誰の姿もなく、この国の王であるリュカをただ待っているというように玉座は静かに、賑やかに喜び合う人々を見つめているだけだ。

見てください あなた。
子供たちの あの幸せそうな顔を。

彼女が見下ろす景色は、彼女がその身に帯びた宿命が果たされた証ともなるものだった。もう三十年、この地を離れることとなり、終ぞ国に戻ることは叶わなかった。連れ去られた魔界で一人、地上世界の平和を、人々の安寧を、ひたすら祈り続けてきた。エルヘブンに、魔界の門の番人としてその力を有して生まれた時から、彼女の運命は半ば決められていたようなものだった。
しかし彼女は、与えられた運命に悲観することなく、人としての幸せを見ることができた。今、彼女の眼下にあるのは、心からの笑顔で家族と共に、国の者たちと共に平和を喜ぶ息子リュカの姿だ。我が子が心の底から喜び、嬉しそうに彼の可愛い妻と、子供たちと、国の皆と笑顔を交わし合っている。スラぼうが孫娘ポピーの肩に乗っている。ミニモンが宙を飛び回り、近くにまで飛び上がってきて不思議そうにこちらを見ている。キングスは仲の良さそうなスライムベホマズンと一緒に並び合い、その身体に孫息子ティミーを乗せて、楽し気に身体を揺らしている。サーラは騒ぎ合う人々を嬉しく眺めながら、国の兵士長と言葉を交わしているようだ。この場にいないゴレムスのことも、彼女は決して忘れていない。最も仲の良かった友だちのゴレムスは今もしっかりと魔界と言う世界を見つめ、そこには彼女の心も半分置いてある。
実態のない自身が涙を流すことはないと、マーサはただ微笑む。しかしその頬には、生きていたころのような温かな涙が伝うのだった。

ああ 見ているとも。

マーサの言葉に応える低い声がある。彼女と並び立つように浮かぶその男もまた、グランバニアの王の間で賑やかに喜び合う民たちをにこやかに見渡している。長らく留守にし、終には戻れなかったこの城を守り抜いてきた者たちが大勢ここにいる。
弟であるオジロンにはどれほどの苦労と心労をかけたか分からない。兄王が戻らない中で、よくぞこのグランバニアを守ってくれたと、彼は弟を見つめながら心の中で礼を言う。再び感極まって涙を流している従者サンチョは、今日一日で涙が枯れてしまうのではないかと思うほどに、もう隠すこともなく大いに泣いて喜んでいる。彼には公私にわたり大変に世話になったと、パパスは彼にも温かな視線を落とし、心の中で礼を尽くす。苛酷な運命に導かれてしまった息子の、大いなる心のよりどころになってくれたに違いないと、パパスはふとこちらを見上げたサンチョと視線を交わせたような気がした。
王の間に数匹の魔物が入り込んでいるこの情景を、パパスは改めて驚きを持って見つめる。グランバニアに魔物が棲むようになったのは、妻マーサが連れてきた魔物たちがその始まりだった。しかし今では、その数が信じられないほどに増えている。その中でも最も凶悪に見えるキラーパンサーが、息子リュカの足元でこれでもかというほどに甘えてその大きな身体を擦り付けている。パパスにはそれがあの時の猫だと分かっている。彼は当初から、リュカが連れてきた猫がキラーパンサーの子供だと分かっていた。それ故に、当時は密かに驚いたのだ。血は争えないものだと、魔物を懐かせてしまう息子の力に妻マーサの力が継がれているのだとその時はっきりと感じていたのだった。
リュカがこちらを見上げている。しかし焦点は合っていない。リュカのことだ、きっと何かを感じてこちらを見ているに違いない。できることならもう一度言葉を交わしたい。よくぞ生きてくれていたと、あの絶望の時からよくぞ生き延びてくれていたと、息子を褒めてやりたい。しかしどうやら、それは叶わないようだ。

私たちの 子供は
私たちが かなえられなかった夢を
かなえてくれたようだ。

たとえ父の言葉が息子に伝えられなくとも、今は、彼の隣に愛する妻がおり、愛する子供たちがおり、愛する国の民たちがいる。人はいつまでも生き続けられるわけではない。それ故に、人の想いというのは絶やされることなく、大事に大事に継がれていくのだろう。親から子へ、子から孫へ、人から人へと継がれていく想いは、どこまでも、時を超えて。

さあ こっちへ おいで

子の元を離れがたくなるのは、父パパスも母マーサも同じだ。しかしいつまでも子の傍にいられるわけではない。だが、あの子は今、今を生きる大事な者たちと共に笑うことができている。愛する我が子が笑って過ごすことができる世界に、彼らは子を託すことができる。

はい あなた……。

子の元を離れがたい気持ちは、隣に共に旅立つ伴侶がいれば抑えることができると、妻は夫の声に導かれるように向かう。向かう先に何があるのか、彼らは知らない。誰も知らない。しかしそれさえも、生きる子供たちの元気な姿があれば己のことなど二の次になってしまう親心に、パパスもマーサも導かれるままにグランバニアの地を旅立っていく。

「リュカ、どうかしたの?」
ぽかんと宙を見つめているリュカに、ビアンカが騒がしい中で寄り添い問いかける。
「…………うん、なんでもないよ」
「……そう、それならいいのよ」
そう言いながら、ビアンカは夫の目じりに浮かぶ涙には気づかないふりをした。
リュカの目に、両親の姿が映ることはなかった。しかし彼は今、このグランバニアの国で人々も魔物も喜び合う賑やかな平和に、自然と父と母を想った。この平和を迎えることができたのは、決して今を生きる人々だけの想いだけではなく、これまでに生きてきた人々の想いもまた積み重なっているのだ。そうして心というのは、強さを増していく。
この強い心を、次の子たちへと、そのまた先の子たちへと、繋げていくのがこれからの務めなのだと、リュカは目尻に滲む涙をすっきりとした気持ちで指で払った。

強き心は 時を超えて



平和とは、迎えたところで終わるものではない。それが今のグランバニアにも見えている。
魔物との戦いにより傷ついた森は、時間をかけてその姿を癒していく。この世界には人の怪我を治してしまう回復呪文は存在するが、その呪文は自然を即座に元通りにするような力を持っているわけではない。神が人間にその力を敢えて与えなかったのかどうかは、誰にも分からないが、リュカはそれで良かったのだと思っている。
一部焼けてしまったグランバニアの森だが、そこを元の通りに森を復活させるのではなく、マーリンの提案によりそこには新たに畑を作ることにした。平和な世の中になったということは、これから人が増えていくだろうと考えれば、必然とそれに応じた食料が必要となる。人が生きるには、水と食料が必要だ。足りなければ困るものだが、余って困るものでもないと、時折国王であるリュカ自身も畑に姿を現し、畑づくりに励む人々に混じって自ら鍬を持つこともあった。
ただ、一国の王であるリュカが一日中畑仕事に従事することもできず、彼はその立場に負う務めを果たすべく、始終自分の足で民たちの暮らしぶりを見て回っていた。オジロンやサンチョはほとんど玉座に座っていないようなリュカに困った顔をしながらも、それでこそリュカと言う人間なのだろうと、かつてのグランバニア王パパスを思い出したりもしていた。リュカの父パパスもまた、あまり落ち着きある王とは言えない王だったのだ。何せ、幼子を連れて旅に出てしまう国王だ。血は争えないと、オジロンもサンチョも互いに顔を見合わせて、笑みを見せつつも小さく溜息をつくだけだった。
森の魔物も大人しくなり、新たに作った畑を荒らすこともない。時折、人間たちの様子を見に来るように、どこからともなく魔物が姿を現すが、決して人間を襲ってくるようなことはない。相変わらず国の守りについているアムールやシンバたちの存在も、森の魔物らの行動を抑えている一つの理由だった。平和になったからと言って、グランバニアは国の守りを一切捨てたというわけではない。危機と言うのはいつ起こるか分からないものだと、二度も国王不在の時を過ごしたグランバニアの民たちはその記憶をしっかりと胸に留めている。平和を喜んで享受すると共に、敵は魔物に限らないということも彼らは冷静に理解しているのだった。
一日一日を過ごしていたら、あれからあっという間にふた月が経っていた。そんなある日の、夕食を終えた時間に、王家族私室にてリュカはランプの灯りに古びた巻物を広げ、机の上に見ていた。その姿を目にして近づいてくる彼女の気配にも気づかず、リュカは集中して巻物をじっと見つめている。
「どうしたのよ、そんな難しい顔をして」
急に聞こえた妻の声に身体をびくつかせ、リュカははっと彼女を見上げた。森では夜の鳥が静かに鳴く頃合いで、机の上のランプの灯りに照らされるのはリュカとビアンカの二人の顔だけだ。ティミーとポピーは、既に一日の学びも務めも終え、広いベッドの上で自由な寝姿で眠りに就いている。
「ああ、何でもないよ。ビアンカも早く寝ないと……」
「あら、私に何か隠し事しようとしても、ムダよ」
ビアンカはリュカに釘を刺すようにそう言うと、彼が机に広げている巻物に目を落とす。そこには魔物と人間の絵が描かれており、添えられている言葉は現代の言葉ではないために一切読むことができない。それはリュカも同じはずだが、それを彼はぼんやりと長いこと見つめていたようだった。
「それって確か……魔界のあの町でもらった……」
「うん……そうだね」
魔界に唯一存在していた人間の町ジャハンナ。そこの水車小屋に暮らすアンクルホーンのネロから、リュカはこの禁断の巻物を譲り受けていた。何が書かれているか、詳しいことは分からない。しかしあの町に暮らす、魔物から人間へと変身を遂げた者たちについての秘密の一端が、ここに書かれていることは間違いないと、リュカは描かれている絵にそう感じていた。
その秘密を唯一知っていたのは、リュカの母マーサだったのだろう。ジャハンナの町に暮らす人々は皆、マーサの手により魔物から人間へと生まれ変わることができた。リュカとしては、それは幸せなことなのだろうかと疑問に感じるところもあるが、ジャハンナに暮らす人々は叶った夢に溺れることもなく、人間という命を誰よりも大事に感じるかのように幸せに生きているようだった。
「……で、どうしたいの?」
気付けば、向かいの椅子に腰を下ろしたビアンカが、もう答えは分かっているけど念のため聞いておこうと言うように、リュカを窺いみるように橙色のランプの灯りに夫を見つめている。すべてお見通しのような妻の水を含んだような瞳を見れば、リュカは隠す意味もないだろうと、気を楽にして妻に告げる。
「ゴレムスに会いに行こうかなって思っててさ」
リュカの思いの根源は、本当にそれだけだった。地上世界が平和を迎え、このグランバニアだけではなく、ラインハットもテルパドールもサラボナも、各地魔物に脅かされることのない暮らしを取り戻している知らせを受けている。リュカたちの願いは、この世界の平和だった。今ではそれがようやく、地上においてはもたらされたということだ。
一つの大いなる願いは果たされ、この地上世界各地で、多くの人々の喜ぶ顔が見られるようになった。一つの願いた果たされると、人間というものはそれに満足することなく、さらなる願いを見つけてしまうものなのだ。
「リュカらしいわね。そんなことを、そんなに気軽に言うなんて」
今、魔界という場所がどのような状況なのか、この地上世界に暮らす者たちは誰一人としてそれを知らない。そもそも、こうして魔界に思いを馳せている者がリュカ以外にいるだろうかと、ビアンカは夫の果てしない優しさと好奇心に、ただ小さく笑うしかない。
「気軽に言ってるつもりはないんだけどなぁ」
「つもりはなくても、そう聞こえちゃうのよ。でも、リュカはそれでいいと思うわよ」
魔界での旅を終えて、既にふた月以上が経つ。ビアンカはあの魔界での死闘を思い出せば、決してリュカをあの場所へ行かせてはならないと思う。が、彼が“決めて”しまえば、彼女にはどうすることもできないのが真実だった。
「いつ?」
「止めないんだ、ビアンカ」
「止めたら、止まるの?」
「いやあ、どうかなぁ……」
さらさら止める気もないリュカの様子に、やはりビアンカは笑ってしまう。その小さく噴き出す息に、ランプの灯が僅かに揺れた。
「あーあ。私も一緒に行きたいけど、ちょっと無理かな~」
そう言いながら自身の腹部に両手を当てるビアンカを見て、リュカは思わず目を見張る。
「えっ!? ホントに??」
「さあ、どうでしょう」
「でも、だって……」
「ちょっと……指折り数えようとするの、止めてくれる?」
「あ、ごめん……」
身を乗り出しリュカの手を抑えたビアンカは、彼と目を見合わせると、二人同時に噴き出した。何かにつけ笑いだしてしまうこの状況が、二人にとってのこの上なく幸せな時間なのだ。
「でもどうやって行くのよ。ティミーを連れて行くの? 勇者がいないとあの魔界の門は……」
「うーん、ティミーは喜ぶだろうけど、この国の王と王子がまたいなくなるなんて言ったら、さすがにサンチョにもオジロンさんにも悪いかなって」
「じゃあ、どうするの?」
「とりあえずはマスタードラゴンに相談してみようかなと思ってて」
「……神様を味方につけてるんだから、あんたって強いわよねぇ……」
「だって、この世界に僕たちを戻してくれたのは、間違いなくマスタードラゴンだと思うんだよ。それなら僕たちが魔界に行くのを手伝ってもくれるんじゃないかな~って」
「神様が魔界行きを手伝うものかしら……」
「まあ、できることからやってみるよ」
「あなたって本当は、見かけによらず欲張りなところがあるわよね」
ビアンカの言葉に「心外だなぁ」とむくれて見せるリュカだが、彼女なりの誉め言葉なのだろうと受け取り、その顔には笑みが浮かんでいる。そして彼女が言う「欲張り」という言葉を、リュカ自身の思う言葉に言い換えて、伝える。
「僕はただ、何も諦めないだけだよ」

-(完)-

Comment

  1. とも より:

    まずは完結致しました事おめでとうございます!!

    私は10年ほど前から読ませていただきました
    私事にはなりますが、最初は骨折の入院中でした。
    その後脳腫瘍が見つかり度々入院・手術を経験しましたが何度も立ち上がってきました
    (今は仕事できるくらいに回復してます)
    アキラメナイって大事!!

    ドラクエ5は一番大好きなゲーム、思い出もたくさんあります
    こんな素敵な小説にしてくださりありがとうございます!!
    あぁなんと言葉にしていいかわからないくらい感動してます

    入院中、何もする事がないと何度も読み直してきましたが又最初から読みたくなりました
    たまにお時間できましたら短編をお願いしたいです
    …無理のない程度に
    (ちなみに私も双子には弟か妹がいるだろうなと想像してました❤︎)

    はぁ胸がいっぱいです
    改めてゲームを作って世に出してくれた方々に感謝
    そしてbibiサマ、日々の忙しいなか完結まで創作し、さらにたわいもない私のコメント(自分語りしがち)にもいつも返信いただき感謝感激雨嵐デス
    お疲れ様でした!!

    • bibi より:

      とも 様

      どうもありがとうございます。
      10年ほど前から……完結までに時間がかかってしまって申し訳なかったです(汗)
      私なりに後悔ないようにと書いていたら、こんなに時間がかかってしまいました……。
      その間、とも様は色々とご苦労をされていたのですね。それほどの辛い境遇を経て尚、「アキラメナイって大事!」と口にすることができるのは、とも様ご自身の強さだと思います。素晴らしいことです。私も見習わせていただきます。

      何だかやたらとお話があるので、いつでもどこでもお気軽にお越しいただいて、読んでくださればこれほどうれしいことはございません。短編も、何か思いついたら書いてみようと思います。さっぱりとここ(ドラクエ5)から抜け出すのも無理かもしれないので(笑)

      そもそも、このドラゴンクエストという素晴らしいゲームがなければ、私の書く話しなんぞ存在しなかったわけで。この作品に関わってきた方々皆様に感謝の気持ちは尽きません。ゲームも楽しませてもらって、尚且つこうして話を書く楽しみまでいただけたという、おかげで人生が楽しくなりました。

      とも様のように読んでくださる方々がいらっしゃったから、こうして続けることができました。長らく飽きずにお読みいただいて、本当にありがとうございました。こちらこそ、深く深く感謝いたします!

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