2017/12/03

関所を越えて

 

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長閑な春の陽気が辺り一帯に広がっていた。冬を終えたばかりの地面だが、暦の上では間もなく到来する初夏の季節に向けて、勢いよく草の葉を上に上にと伸ばしている。誕生したばかりの蝶は季節を追いかけるように、せわしなくあちこちの花を飛び回る。日差しも高くなり、陽が出ている時間が伸び、父子の旅路は万事上手く進んでいた。陽が伸びたおかげで、一日に移動できる距離もぐんと伸びた。
「この調子で行けば、ラインハットまではあと一週間ほどで着くだろう。だがリュカ、無理は禁物だ。疲れた時はちゃんと言うのだぞ」
パパスの気遣う言葉に、リュカは子供扱いするなと言わんばかりに元気に答える。
「ぼく、全然へーきだよ。全然疲れないよ。もっと早く歩いてもへーきだよ」
「そうか、頼もしい限りだな」
パパスはそう言いながら微笑んだ。このサンタローズにいる間に、リュカがまるで今そこに勢い良く伸びている草花のような、目を見張る成長を遂げたのをパパスは感じていた。サンタローズでは村の洞窟に一人で入ったり、アルカパでは友達の女の子と二人で魔物がうろつく町の外に出て、お化け退治をするなど、今までのリュカでは考えられないような活発な行動を起こした。
リュカは大人しく父の後に隠れてついてくるような、静かで控えめな子供だった。それがこうも変わったというのは、サンタローズで彼を変化させる原因があったということだ。
恐らく、あの少女だろう。サンタローズであの活発な少女に二年ぶりに会い、リュカの中で眠っていた活動的なもう一人のリュカが目を覚ましたのかもしれない。そのおかげでリュカは心身ともにずいぶん強くなった。以前までだったら、何か嫌なことや辛いことがあれば、堪えようとはするものの、涙を堪えることはできなかった。しかし今のリュカは、たとえ嫌なこと辛いことに遭おうとも、簡単には涙を見せないようになった。それと言うのも、あの少女に真正面切って子供扱いされたのが悔しかったからだろう。
同時に、守らなければならない、という意識もあったのかもしれない。男の子は女の子を守るものなんだという意識が、リュカを成長させた。リュカの足元でじゃれつく大きな猫もそうだ。この猫が危機に陥ったら、リュカは迷わず猫を助けるためにできることをするだろう。
何か守らなければならない存在ができた時、人は強くなれる。そう考えた時、パパスは心の中で大きく頷いた。自分も例外なくそうだからだ。
そんな息子の成長を見ていた時に、サンタローズの村にラインハットからの遣いが来た。ラインハット国王からの手紙を受け取り、直々に呼び出されたことを知った。しかしその理由は一切伏せられている。
パパスには思い当たる節があったが、そんな父の思惑などリュカは知る由もない。サンタローズの村人も、サンチョ以外は誰ひとりとして良い顔をしていなかった。せっかく二年ぶりに村に戻って来た英雄を、国王と言う権力者が強引に奪って行った感覚が、村人たちにはあった。
パパスは村人たちをなだめ、すぐに村に戻ることを約束し、サンタローズを後にした。ラインハット国王のことだ。パパスがサンタローズにいることを風の便りに聞き、ただ話がしたいという理由で呼び出している可能性も捨てられない。豪胆で憎めない性格だが、気まぐれなところがあるのが、パパスの知るラインハット国王だ。
ただ、そのラインハット国は今、王位継承問題に揺れているらしい。パパスはサンタローズを出る際に、村人の話からそう聞いていた。まだ現国王は若く健在であるのに、そのような問題が起こるなど普通ではないとパパスは感じていた。
継承問題の当事者である子供らはいい迷惑だろう。彼らはまだリュカほどに幼いと聞く。継承問題の矢面に立たされたところで、まだ幼い国王の子供たちはただ戸惑うばかりに違いない。思慮の浅い大人が勝手に騒いでいるだけの話なのだ。
それにしてもあのラインハット国王が何故自らそのおかしな継承問題を払拭しないのか、パパスにはそれが疑問だった。国王である彼が一言発すれば、それだけで国中が騒ぐような継承問題もあっという間に解決するであろうに、彼がそれをできないのは何か理由でもあるのか、パパスにはそれが引っ掛かっていた。
それとは外に、ラインハットで何か起きているのか。王位継承問題など、大した問題ではないのではないか。
自分がラインハット国王に呼び出された本当の理由は、何なのか。
パパスはこれから向かう東の空に浮かぶ分厚い雲を見遣った。雨を降らせるような雲ではないようだ。しかし見ているだけで胸を悪くするような、厚みのある灰色の雲だ。パパスは自然と胸の中に現れる不穏な気持ちをどこかへ追いやろうと、脳天を照らす太陽を仰ぎ見た。



世界中の景色が徐々に変わって来ているのをこうして歩いているだけでも感じる。今年の冬は嫌に長かった。暦の上ではとっくに春を迎えている時期に、空からは平然と雪が落ちていた。サンタローズの村の中には寒風が吹きすさび、村人たちは残りわずかな薪を使って焚火で暖を取っていた。
春の訪れは唐突だった。村に、世界に春風がそよいできたのと同時に、リュカが村に戻って来た。一体どこへ行っていたのか、ラインハットからの遣いが来て、村を出なければならない時に、村のどこを探してもリュカは見つからなかった。しかし村の木々に緑が芽吹き、川の上を流れる風が緩やかになった途端、その風に乗って来るかのようにリュカは戻って来た。アルカパの町から連れて来たあの大きな猫を連れ、教会に姿を現した。
パパスは教会で祈りを捧げていた時、もしこのままリュカが姿を現わさなければ、村にリュカを残して一人で旅立つつもりでいた。その旨を家にいたサンチョには伝えていた。リュカはみるみるうちに成長している。おそらくサンタローズでサンチョとともに留守番をすることもできるだろう、パパスはそう考え、ラインハットへの旅にリュカを連れて行かない選択を、まさに神の前で誓おうとしていたところだった。
ちょうどその時、リュカが教会の扉を開け、春の暖かな日差しを背中に浴びてそこに現れた。パパスのすぐそばで神父が「神が連れて来てくれた」と言うのを聞いた時、パパスはその言葉が真実なんだと悟った。神は「何があっても息子を手放すな」と、リュカをここに連れて来たのだと感じた。その時はそう確信を得た。
しかしこうして旅路を進めていると、果たしてリュカを連れて来たのは正解だったのかと悩む瞬間が幾度となくある。旅路の途中で遭遇する魔物の数が明らかに増えている。リュカがまだ赤ん坊の頃はそれほどでもなかった。遭遇したとしてもパパスの剣に敵う魔物はまずいなかった上、数も少なかった。
サンタローズより東に進むにつれ、茂みの中に隠れる魔物の数が多くなってきたのが目に見える。強さはそれほどではない。ただ数が増えている。パパスの剣で一度に倒すには無理がある。
ラインハット王国へ行くには、大陸を分かつ大河の下をくぐる地下道を通る必要があった。大河の手前にはラインハットの関所がある。進む東の方向に、それらしき影を見たが、そこへ着くにはまだ数時間とかかるだろう。
「お父さん、あれ、あそこにマモノがいるよ」
リュカにそう言われるまで、パパスは魔物の気配に気づかなかった。リュカの指さす茂みを見れば、茂みの色と同じ緑色をした、液状の魔物が六体いる。バブルスライムという毒性を持つ魔物だ。
「リュカ、下がっていなさい。あっちの木の後ろに隠れて……」
パパスが言い終わらないうちに、横から飛び出した影があった。リュカの連れている大猫、プックルだ。春の草原を疾走する大猫は、バブルスライムが群れをなすど真ん中に飛び込んで行った。口から覗く牙が妙に鋭い。何やら口の中に本来の牙とは違う何かを装着していることを、パパスこの時初めて気付いた。
プックルの攻撃にバブルスライムが一気に散らばった。不意の攻撃に慌てふためく様が明らかだった。保護色である春の鮮やかな茂みの中に隠れ、大猫の様子を窺っている。プックルは喉の奥をぐるるるっと鳴らしながら、再び敵の中に飛び込もうと前足を踏ん張っている。
パパスが呆気に取られていると、横に違う闘気を感じた。リュカがブーメランを右手に構えて、気を漲らせているのを見て、パパスは目を疑った。自ら魔物と正面から向き合う息子の姿を、パパスは初めて目にした。
茂みの中から、バブルスライムが三体、揃ってプックルに襲いかかって来た。液状の身体を長く伸ばし、攻撃を仕掛ける魔物に、リュカが放ったブーメランが空を切り裂いて飛んで行く。ブーメランはバブルスライム三体の伸びた身体を真っ二つにし、魔物はその場で力を失い、土の上に溶けてしまった。
下級の魔物とは言え、まだ六歳の幼い息子が三体のバブルスライムを一度に倒してしまい、パパスは思わず手にしている剣先を下ろしてしまった。まだ三体のバブルスライムの群れが周りで様子を窺っているにも関わらず、一瞬気を抜いた。その隙に残りのバブルスライム三体が一斉にパパスに向かって茂みの中から飛び出した。虚を突かれたパパスは、振り向き様一体をどうにか剣の餌食にしたが、残り二体に腕を掠められ、顔をしかめる。
パパスが改めて魔物に向き直った時には、既に大猫の鋭い爪と、リュカの投げたブーメランに魔物たちは倒れていた。
「お父さん、大丈夫?」
リュカに言われ、パパスは魔物の攻撃を受けた左腕を見た。幸い、バブルスライムの毒は受けていないようだが、かすり傷から血が滲んでいるのを見て、素早く回復呪文をかけた。傷が塞がり、毒の侵入を防ぐ。
「リュカ」
「何?」
「……強く、なったな」
リュカは初めて父に「強くなった」と言われ、満面の笑みを父に見せた。今まで父に守られてばかりの子供の自分が、強さで父に認められたような言葉に、リュカの心が躍った。心の中で、常に父のその言葉を待っていたのだ。
「ぼく、もっともっと強くなって、お父さんと一緒にタビができるようにするよ」
リュカが武器のブーメランを右手に握りしめながら、パパスに笑顔を向けて言う。そんな息子の無邪気な顔を見て、パパスは少なからず罪悪感を感じていた。旅を続けていることで、息子を無理に頑張らせているのではないか、素直で良い子であるが故に、不憫に感じてしまう瞬間がある。それが今だった。
「リュカが元気で育ってくれれば、父さんはそれでいいんだ」
パパスは思わず呟いた。リュカはパパスに頭を撫でられ、キョトンとしている。
「怪我はないか、リュカ」
「う、うん、大丈夫だよ」
「では、行こう」
パパスは腰に差している剣を確認した後、リュカの前を歩き始めた。プックルが立ち止っているリュカを見上げて首を傾げている。止まって父の背中を見続けていたリュカだが、思い直したように笑顔を取り戻し、父の背中を追って歩き始めた。



サンタローズを出て四日目、サンタローズとラインハットを隔てた大河のほとりに着いた。平和な時代ならば、この大河を往来する旅行者が多くいるのだろうが、今はパパスとリュカの二人しかいない。大河を挟んで向こうに見える大陸が新しい場所だと思うと、リュカの心は無意識にも弾んだ。
川の流れはやや早かった。雪解け水を多く含んでいるからだろう。水面は初夏のような日差しを受けてキラキラと輝いている。リュカが飛んだり跳ねたりして川の様子を覗こうとしている姿を見て、パパスは思わず微笑んだ。
橋の手前に関所があった。石造りの簡素な建物だが、屋根の上にはラインハット国を象徴する赤い国旗がたなびいている。青空に赤の旗が波を打ち、間に白い雲がたなびく光景は、いかにも鮮やかだった。
関所の建物の中から、国の兵士が一人姿を現した。中は数人の兵士が寝泊まりできるような広さがあるようだが、実際に関所に駐在している兵士はパパス達の前に現れた年若い兵士と、もう一人だけのようだ。まだ顔にそばかすの跡さえ残すほどの若い兵士は、リュカの足元で身構えている巨大な猫を見て、思わず自身も身構えた。
「ここから先は我がラインハット王国。用のない者の立ち入りは……」
「私はサンタローズに住むパパスという者だ。ラインハット国王に呼ばれお城に伺う途中である。どうか通されたい」
パパスの威風堂々とした態度に、ラインハットの若い兵士は一瞬気圧されたように身を引いた。身なりはいかにも旅慣れた男、それだけなのだが、その内側から発せられる独特の気がまだ年若い兵士をひるませる。黒々とした癖のある髪を後ろで束ね、口元には同じ色の髭を蓄える。手入れはされているようで、無造作に生やしているわけでもない。鉄製の胸あてには幾筋もの傷が付き、これまでの旅の危険を同じ数だけ刻みつけている。陽に焼けた肌が尚のこと男を屈強な戦士に仕立て上げている。
そして何よりも男の鋭い視線に、兵士は思わず息を呑んだ。男は決して相手を威嚇するつもりも脅かすつもりもないのだろう。しかし自然と生まれる男の気高い雰囲気に、若い兵士はまだ自国でも会ったことのないラインハット国王の前に立たされているかのような疑似体験を味わっていた。
兵士が立ち尽くしていると、関所の建物の中からもう一人の兵士が姿を現した。年長のその兵士はパパスたちの会話を聞いていたようで、パパスの前に進み出ると、改めて驚いたように目を見開いた。
「おお、あなたがパパス殿ですか。連絡は受けています。どうぞお通りください」
「己を証する者を特に持ち合わせておらぬが、構わないだろうか」
「お国元を示すもの、何か一つでもあればありがたいのですが」
年長の兵士にそう言われ。パパスは道具袋の中から一つの金貨を取りだした。リュカは物珍しそうにそれを覗きこんだ。その金貨にはリュカの見たこともない強そうな鳥の形が象られていた。周りに文字も刻み込まれていたが、リュカには読めなかった。
その金貨を見て、兵士は深々と頭を下げ、パパスとリュカに道を開けた。年若い兵士も慌ててその横で頭を下げる。パパスは兵士二人に軽く頭を下げると、リュカに先に行くように促した。リュカはプックルを連れ、先に関所を過ぎて、大河の地下を渡るトンネルに向かった。暗い入り口を見せるトンネルだが、近づいてみてみれば中には明かりが灯っているようだった。道も石造りで平らに整備されている。リュカは洞窟探索の気分で楽しげに海底トンネルに足を踏み入れた。
パパスはそんなリュカの後姿を見ながら、まだ頭を下げている兵士に問いかける。
「ところで、ラインハットの様子はいかがなものかな」
年長の兵士はゆっくりと頭を上げると、渋い表情で答えた。
「噂されている話とそう大差はございません。しかしそれ以上のことは私の口からは何も申し上げられません」
「うむ、分かった。では急ぐとしよう」
「我が国王も首を長くして貴方をお待ちしていることでしょう」
パパスは今一度礼を言うと、関所を通り過ぎ、リュカの後を追った。パパスの姿がトンネルの中に消えると、年若い兵士が先輩兵士に窺うように聞く。
「あのパパスという男は一体どのような……?」
まだ何も知らない子供のような表情で聞いてくる後輩に、年長の兵士はうっすらと生える髭を指で撫でつけながらこそりと笑う。
「パパスなどと呼び捨てで言った今の自分を、後で恥じることになるぞ、お前」
「え、どうしてですか」
「来るべき時が来たら教えてやろう。今のお前が知るにはまだ早い」
勿体ぶる先輩兵士に、年若い兵士はつまらなそうに口を尖らせていた。その表情がいかにも子供で、年長の兵士はまたくすりと笑ってしまった。

パパスは海底トンネルの中に立ち止るリュカの小さな後姿を見つけると、歩幅を大きくしてすぐに追いついた。リュカは内部を照らす明かりを間近で見上げていた。プックルも同じようにじっと明かりを見上げている、かと思ったら、明かりに群がる虫に集中しているようだ。
「どうした、リュカ」
「うん、これってどうやって明かりがついているの?」
「これは、絶えず油を差しているのだろう。さっきの人たちが明かりが消えないようにしてくれているんだよ」
「ふうん、サンタローズのドウクツも、ドワーフのおじいさんのドウクツも、これくらい明るかったら歩きやすいのに」
「……? ああ、そうだな」
リュカがいつドワーフという架空の存在を知ったのだろうかとパパスは首を傾げたが、リュカはそのまますたすたと先を進み始めてしまった。明かりが灯っているとは言え、かなりの間隔でランプがあるため、トンネルの大部分はかなり暗い状態だ。しかしリュカは既に暗闇に目が慣れたらしく、足取りも危なげなく前に進む。一緒にいる大猫は元々暗闇に目が利くようで、何の困難もなく暗がりに身を置いている。
「そうだ、お父さん、ぼくね、ヨウセイさんの世界に行ったんだよ」
リュカが振り向いて話し始める。トンネルの暗がりの中で話すにしてはあまりにもメルヘンな話で、パパスには一瞬何のことだか分からなかった。
「妖精? 妖精って、あの妖精か?」
「お父さん、知ってるんだね。ぼく、ヨウセイさんって初め、ユウレイさんかと思ったんだよ。だって透き通ってたから」
やけに現実味のある空想の話をしているとパパスは眉をひそめた。何かの本で童話でも読んだにしては、リュカはまるで自分の身に起きた出来事のように生き生きと話している。第一、リュカはまだ本が読めない。妖精にドワーフ、妖精の世界に住む魔物、雪の女王と、リュカは次から次へと迷いなく正確に、物語を進めて行く。
途中でブーメランという単語を聞いた時、パパスは一度聞き流していたが、リュカが一通り話し終えると、深く呼吸をして落ち着いてから話し始めた。
「リュカ、そのブーメランを見せてくれるか」
「うん、いいよ」
リュカは妖精の村のドワーフに譲り受けたブーメランをパパスに渡した。一見すると、ただの木製のブーメランで、カーブの部分に植物の文様が描かれている。手に持つところは丈夫な布で巻かれ、滑り止めにもなり、手の馴染みも良い。木製のはずだが、まるで鉄を鍛えたかのように濃密な固さがあった。両端を持って力を入れてみたが、全く曲がらなかった。
「お父さん、こわさないでよ」
父の行動に、リュカが慌てて言った。パパスはブーメランをリュカに返しながら、考えていたことを口にした。
「リュカ、そこは妖精の世界、だったのか?」
「うん、そうだよ。ベラがそう言ってたもん」
「妖精、だけじゃなかったんだな。魔物もいたんだな」
「色んなマモノがいたよ。おっきなりんごのマモノとか、トゲトゲのたまねぎみたいなのとか、うさぎとか……」
リュカはまた妖精の世界での出来事を楽しそうに話し始めたが、パパスはリュカの話も上の空に考え込み始めた。
もしかしたら、己の目指す世界の近くに、息子は足を踏み入れたのではないのか。妖精の世界の話はリュカの作り話などではない。どういうわけだか分からないが、リュカは実際に妖精の世界という、この人間の世界とは異なる場所に少しの間、身を置いていたのだ。
妖精の世界を信じられない理由もない。パパス自身、この人間界とは別の世界を目指して旅をしているのだ。人間界と妖精界とを行き来した息子、これが何を意味するか、パパスはそれを考えただけで胸の中に希望が満ちてくるのを感じた。
しばらく歩いて行くと、再び外の光が前方から差しこんできた。白い世界に目を細め、リュカはプックルと共に外に向かって駆けだした。光に溶け込んでいった息子の小さな姿を、パパスは見失わないように急ぎ足で追いかけた。
「お父さん、ぼくたち、こんなおっきな川を歩いたんだね」
リュカが興奮した様子でパパスに言う。たかだかトンネルを一つ抜けただけだと言うのに、季節も巡ったかのように暑い日差しが肌に突き刺さる。陽に晒された石の上を歩くプックルが熱がって、走って草地に逃げてしまった。
「トンネルの中が涼しかったから、余計に暑く感じるのかも知れないな」
実際にトンネルの中はむしろうすら寒いほどだった。気候はまだ春のもので、日陰に入ればそれなりにまだ肌寒いくらいなのだ。
トンネルを抜けたところに、観光客用だろうか、川の眺望を楽しむための高台が設けられていた。魔物の数が多くなり、今では観光客の姿もないが、美しい川の眺めはいつの時代も変わらない。パパスは猫と一緒に草地に座り込んでいるリュカに呼びかける。
「リュカ、ここから先はラインハットの国だ」
トンネルの先の大陸に足を踏み入れれば、もうそこはラインハットの国。リュカが生まれて初めて足を踏み入れる地だ。リュカもその事実を感じているのか、期待に胸を膨らませて大陸を眺めている。
「この上からの川の眺めはなかなかのものらしいぞ。川の向こうにいるサンタローズの村の皆にも、ここから挨拶をしておこうか」
パパスが階段を上がりながらそう言うと、リュカも笑顔でついてきた。プックルは涼しい草地の心地よさから、その場で待つことにしたようだ。草地の間に潜む虫を鼻先で見つけようとしている。
高台に上ると、川上からの涼やかな風が父子の頬を撫でた。観光客用という名目だけに、安全のための木の柵が周りに巡っている。リュカの背丈では木の柵の高さにちょうど目線が来るようで、リュカは何とか川の景色をちゃんと見ようと、柵の間に顔を突っ込んだ。
そんなリュカの姿を見て、パパスは微笑みながらリュカの隣にしゃがみこんだ。リュカがきょとんとしていると、パパスはリュカの足を指さして、自分の肩を指さした。
「よし、あまり時間はないがお前にも見せてやろう」
リュカが首にまたがると、パパスはそのまま立ち上がり、リュカを肩車した。リュカが慌てて父の頭にしがみつく。リュカはこの時初めて、父がかなりの癖毛であることに気付いた。父の頭をまじまじと見る機会など、なかったのだ。根元からあちこちに跳ねる黒髪は、自分のさらりとした黒髪とは違うのだと、目の前の川ではなく、思わず父と自分の髪の毛を見比べた。
「リュカ、どうだ、綺麗だろう」
父の声にリュカは顔を上げて川を眺めた。渡って来た大きな川が涼やかな風に細かな波を立てている。陽の光をまんべんなく反射し、眩しいほどに輝いている。空の青を映した川の水面は、空よりも深く青い。
目を凝らしてみると、澄んだ水の中に魚が泳いでいるのが見えた。
「お父さん、魚がいるよ」
「ん? どこだ?」
「ほら、あそこ、いっぱいいる」
リュカの指さす川の中に、魚が群れをなして泳いでいる姿がある。まだ稚魚だろうか、その小さな体を寄せ合って水の中を漂っている。その周りに、親と思われる魚の姿はない。もうあの稚魚は各々自分の力で生きていかねばならないのだろう。
パパスはその稚魚を見ながら、今日の食事は野草にしようと考えていた。幸い、ようやく訪れた春の力で、草原には食べられる野草がそこらじゅうに生い茂っている。
リュカが川の中をじっと飽くことなく見続けている一方で、パパスは自分らと同じように川を眺めている人の影を見た。一人の老人が木の杖に両手を乗せて、川の流れを眺めている。目を細め、まるで立ちながら眠っているかのようだ。
「もし……どうかされたか、ご老人」
パパスはよく通る声で老人に問いかけた。その声に、リュカも一緒になって老人を見る。しかしそんな気遣う父子の方には向かず、老人はただ川流れを眺めている。
「ほっといてくだされ。わしは川の流れを見ながらこの国の行く末を案じているだけじゃて……」
「この国と仰るのは……ラインハットのことですかな」
パパスの問いかけには答えず、老人はどこか悲しげに、川の流れに目を落としている。そこに魚はいない。ただ水が滔々と流れているだけだ。煌めく光を浴びて水面を光らせる川の流れも、何故か無味なものに感じてしまう。
「ふむ……。あまり風に当たると身体に毒ですぞ」
パパスが一言声をかけると、老人は一層目を細めた。寂しげに笑ったようなその表情に、パパスは再度「一体何があったのか」と問いかけたくなる衝動に駆られたが、老人が答えないのは明白だった。恐らく、老人もその答えを持っていないだろう。漠然とした不安が、老人を包んでいるのだ。
パパスはリュカを肩から下ろすと、老人に一礼した。リュカも慌てて父を真似て頭を下げる。
「では、ごめん」
一言だけ添えると、パパスはリュカを促して階段を下りて行った。階段の下、リュカたちが通って来たトンネルの日陰のところに、プックルが欠伸をして待っている。「やっと来たの?」と言わんばかりの眠たげなプックルに、リュカは「プックルも一緒に来ればよかったのに。魚がいっぱいいたよ」と普通に話しかける。
日陰から出ないプックルの傍に寄ったリュカは、プックルと同じように日陰で一時涼む。汗ばんだ肌にトンネルを抜ける風が当たり、体中が程良くひんやりとしてくる。
「さあ、リュカ、行くぞ」
パパスはそんなリュカたちを先導するかのように、トンネルの中へと足を踏み入れた。リュカがきょとんとして父を見上げると、パパスははたと気付いたように頭を掻いた。
「おっと、いかん! ラインハットに行くんだったな……」
うっかりした父の姿を見て、リュカは思わず笑った。何事にも落ち着いて、間違えることなどないと思っていた父が、そんな部分を見せたことに、リュカはちょっと得したような気分になった。
「お父さん、ラインハットに行きたくないの?」
リュカはふざけて言ったつもりだったが、パパスはリュカのその言葉に一瞬返す言葉を失った。先ほどの老人の姿が脳裏に浮かぶ。ラインハット国の未来を案じている老人を見て、少なからず弱気になっている自分がいる。
リュカの言う通り、もしかしたら自分はラインハットへ行くことを心のどこかで躊躇しているのかもしれない。
しかしパパスはそんな不安を振り払い、リュカに笑いかける。
「父さんだって間違えることはあるんだぞ。笑うなんてひどいじゃないか、リュカ」
「だって、お父さんが道を間違えるなんて、なかったから」
リュカがまた思い出したように笑う。パパスは我が子のその笑顔を見て、心の中に渦巻く不安をどこかに押しやることに成功した。我が子の笑顔があれば、何物にも打ち勝てる。
「さて、行くとしよう」
パパスがリュカの手を引いて、トンネルから出る。プックルも続いて出て来たが、日向の暑さに不機嫌そうに足を速め、リュカとパパスの前を歩き始めた。ふさふさの赤毛の尻尾を揺らしながら、その尻尾に巻きつけてあるビアンカの黄色いリボンが風になびいている。ビアンカはこの暑いくらいの春の陽気を喜んでいるに違いないと、リュカはふとアルカパの街並みを思い出した。
リュカは後ろを振り返って、川向こうの景色に目をやった。もうサンタローズもアルカパも見えない。広大な草原や森林地帯が広がるだけで、人の気配は一切ない。
プックルの尻尾に揺れるビアンカのリボンを見ながら、リュカは「今度ビアンカと一緒に遊べるのはいつかな?」と考え始めていた。



ラインハットの関所を出て二日目、リュカたちの前には大きな森が広がっている。初夏のような日差しを受けて、青々と活力に漲っている。リュカは父がその森に向かって歩いて行く後を、遅れずについて行く。リュカの足元にいるプックルはさほど疲れも見せずに、リュカにぴたりと寄り添って軽やかに歩く。
「あの森に守られるようにラインハットのお城があるんだ」
パパスがそう言いながら森を指さす。リュカの視線の先にはただ森が広がるだけだ。まだ城の影も形も見えない。
しかしその前に、リュカには父に一つ聞くことがあった。
「オシロって何、お父さん」
リュカが問いかけると、パパスはその言葉に目を見開いて驚いた。リュカには『城』と言う者に対する認識がないようだ。
「お城を知らないか、リュカ」
「うん」
「そう言えば、お前はあの女の子とレヌール城に行ったんじゃなかったのか」
「うん、行ったよ」
「あれも立派なお城だよ」
「……あの森の向こうに、お化けがたくさんいるの?」
リュカの記憶のレヌール城は、雨が降っていて暗くて、お化けや魔物が棲みついている場所でしかなかった。パパスは複雑な思いでリュカの頭を軽く叩くと、安心させるように言う。
「リュカ、お城っていうのは人が沢山いて賑やかで楽しいところなんだ。お化けがいるところじゃない」
「楽しいところなの?」
「ああ、サンタローズやアルカパよりももっと人がいるところだ。また新しい友達もできるかも知れないぞ」
「ともだち? ビアンカみたいなコかな」
「今度はお前と同じ年くらいの男の子の友達ができると思うぞ、父さんは」
父の言葉にリュカの気持ちが上を向いた。父と共に旅をするのが嫌な訳ではないが、しかし、アルカパで友達と遊ぶ楽しさを知ってしまったリュカは、父に「新しい友達ができる」と言われ、自然と嬉しくなるのを止められなかった。
「どんな人だろうね、プックル。また一緒に木登りしてくれるかな。プックルにも優しくしてくれるかな。かけっこはどっちがはやいかな」
リュカが困惑顔のプックルに楽しそうに話しかけるのを、パパスはまた複雑な表情で見つめていた。
目的が森の向こうと聞いたリュカは、疲れも忘れてプックルと先を行き始めた。明らかに魔物に対する警戒心をかなり緩めている。
森の中にうごめく魔物の気配に気がついたのは、後ろを歩くパパスだった。楽しげに森を目指す人間の子供と猫の姿を、森の陰に身を潜めて待ち構えている。その影だけ見える魔物の姿は、確かにサンタローズ付近では見かけない魔物の姿だった。
「リュカ、気をつけろ。魔物がいるようだ」
父の声に後ろを振り向いたリュカの背後に、魔物たちが姿を現した。二体の大きな緑色のスライムが、鉄の鎧をガチャガチャと鳴らす騎士を乗せている。リュカとそう変わらない大きさの騎士は、二体とも右手に剣を煌めかせている。馬の代わりとしているスライムは常に細かく弾んでおり、いつ前に飛び出そうかと構えているようだ。その意思がまるで騎士と一体化しているようで、リュカは騎士とスライムをまじまじと見つめた。
「スライムナイトか」
パパスはそう呟くと、既にブーメランを構えている息子の少し後ろで戦闘態勢を整えた。相手としては少し強いかもしれない。しかし今のリュカならば一人で倒せるのではないかと、パパスは息子の冷静な構えを見てそう思った。リュカの横では大猫も牙をむき出しにして、姿勢を低くしている。
スライムナイトが動き出す前に、リュカの放ったブーメランがスライムナイト目指して飛んだ。油断していた一体に命中したが、硬い鎧に正面から当たり、あまり大きなダメージには至っていない。
戻って来たブーメランを、リュカは下に構えた。パパスはリュカの冷静な判断に内心舌を巻いていた。ナイトは硬い鎧で守られているが、足としているスライムはその柔らかい胴体がむき出しだ。リュカはそこを狙おうと言うのだろう。
プックルがもう一体のスライムナイトに飛びかかる。スライムナイトも剣を片手に応戦する。プックルが鉄の牙をむき出しにして襲いかかると、スライムナイトは左手の盾でそれをはじき返し、すぐさま剣を薙いだ。プックルの赤いたてがみが一部、ばっさりと切り取られた。
「何故、魔物が人間の仲間に? 目を覚ませ、キラーパンサー」
スライムナイトがはっきりとした言葉で喋ったことに、リュカの表情が変わった。思わず、戦闘態勢を解き、話しかける。
「しゃべれるんだ。そう言えばヨウセイさんの世界にも、緑色の服を着たおじいさんがしゃべれたよ」
まさか人間から気さくに話しかけられるなどとは思っていなかったスライムナイトは、一瞬、何が起きたのか分からず、辺りを見渡した。仲間のスライムナイトは「俺じゃない」と言うように、首を横に振っている。
「ねぇ、ぼくたちラインハットっていうところに行きたいんだ。そっちにあるみたいだから、通してほしいな」
人間の子供に話しかけられた経験などないスライムナイトは、完全に動きを止めた。呆気にとられていて、言葉が返せないようだ。
「通ってもいいかな」
「……いや、そういうわけには」
「どうして?」
「どうしてって、魔物と人間は相対する者、ここでみすみす人間を見逃すわけには……」
「ぼくたち、何か悪いことしたかな」
「え~と、いや、悪いことは別に何も」
「じゃあいいよね」
「いや、良いことはない」
「どうして?」
知恵をつけた頃の人間の子供の「どうして?」攻撃に、スライムナイトが思わず無言になってしまう。兜で表情の見えない騎士の代わりに、土台の緑色のスライムが困ったような表情を浮かべている。
一方、リュカは至って普通に、人と話すような顔をして答えを待っている。パパスはそんな息子を見て、思わず構えていた剣を下に下ろした。
「ぼく、キミとそんなに戦いたくないんだけどな。オシロに行きたいだけなんだけど」
「人間が魔物と遭えば、決まって戦うものだ」
「ぼくはたたかいたくないのに、どうしてたたかわなきゃいけないの?」
「……そこに理由はない」
「うーん、わかんない」
リュカの穏やかなペースに巻き込まれているスライムナイトも、剣を手にしているものの、それをリュカに向けてはいない。何か逡巡するその動きに、パパスが問いかける。
「スライムナイトよ、そなたも戦うことに迷っているようだが」
男にそう言われ、スライムナイトは真面目に考え込んでしまった。隣のもう一体も同じように首を傾げて唸っている。
「そなたには騎士道の精神というものがあるのだろう。それが子供を殺めることを拒んでいる、そうではないかな」
「……そうかも知れぬ。いや、それだけではないのかも知れぬ」
「では、私に良い考えがある」
パパスはそう言うと、剣を振り上げ、木の枝を一本切り取った。それを更に二つに折ると、それらをスライムナイトたちに投げる。手前に転がった木の枝を見て、スライムナイトは怪訝そうに首を傾げた。
「剣ではなく、その木の棒で戦ったら良い。そうすれば人間の子供とも戦えるのではないか」
スライムナイトは目の前の木の枝を拾うと、軽く二、三度素振りをしてみた。そしてリュカをもう一度見据えると、剣を納め、棒を右手に構えた。
「リュカ」
名を呼ばれたリュカは、振り向きざま、父に疑いの眼差しを向けた。
「お父さん、ぼくはたたかいたくない」
リュカの主張に頷くも、パパスは息子を諭すように言い聞かせる。
「リュカ、お前は優しい子だ。戦いが好きじゃない、それは間違ったことじゃない。しかし自分の身を守るために、戦わなければならない時があるんだ」
強い父に憧れ、棒を剣に見立てて素振りの練習をしたこともある。アルカパの町でサンチョに樫の杖を買ってもらった時も、父に少しだけ近づいたようで嬉しかった記憶も新しい。
しかしリュカはサンタローズに戻って来てからの旅で、新しいことに気がつき始めていた。世の中の魔物全てが悪いヤツじゃないんじゃないか、ということに。今、目の前にいるスライムナイトも、実際に剣を納めて、代わりに木の棒を構えている。リュカを本気で倒すつもりはないのは明らかだ。
「ぼく……強くなりたいけど、でも、なんだか、よくわからないよ、お父さん」
「強くなるのが悪いことじゃない。その力の使い道をちゃんと考えることができれば、それでいい」
そう言うパパスの剣は、しっかりと鞘に収まっている。その姿を見て、スライムナイトが不思議そうに声をかける。
「お前は戦わないのか」
「戦うのはこの子だ。……ああ、それとその猫だ」
プックルはリュカの隣でじっと座り込んでいた。欠伸などして、緊張感をまるで失っていた。
「お父さん、ぼく一人でたたかうの?」
「ああ、そうだ」
「そんなのムリだよ。ぼく一人でなんか、たたかえないよ」
「お前ならできる、大丈夫だ。父さんの知らないところで、色んな冒険をしてきたんだろう?」
サンタローズに戻って来た時のリュカと、今のリュカとでは考えられないような成長があったはずだ。ブーメランの構え一つにしても、一体どこで身に付けたのか、パパスには驚くことばかりだった。
子供には子供の世界がある。大人に守られるばかりの世界では成長できない子供も、子供だけの世界では自分が主役になり、自ら成長していかなければならない。リュカはおそらくそうやってここまで強くなったのだろう、パパスはそう想像した。
「リュカが強くなってくれるのは嬉しいんだよ、父さんは」
父が喜ぶ顔を見るのは、リュカも嬉しい。ほころんだ父の表情を見て、リュカは改めてブーメランを握る手に力を込めた。強くなりたいけど戦いたくない、という矛盾した思いは成立しないと、リュカはおぼろげに理解している。強くなるためには戦わなければならないと、今は自分に言い聞かせて、リュカはじりじりと足元を固めた。
スライムナイトが大きく地面を弾んで、リュカに襲いかかって来た。リュカはブーメランを手にしたまま、横っ跳びに交わす。しかしその先にはもう一体のスライムナイト。リュカが気付いた時には、もう木の棒で背中を殴られた。衝撃に咳き込み、痛さに顔が歪む。
リュカを打ったスライムナイトに、今度はプックルが飛びかかる。スライムナイトの腕に噛みつくが、鉄の篭手に阻まれ、ダメージは与えられない。しかし、プックルはその鉄の篭手を顎の力ではぎ取ってしまった。魔物が手にしていた木の棒も一緒になって、吹っ飛んで行く。篭手が外れたスライムナイトの腕は緑色で、どうやって鉄の篭手を装備していたのか不思議に思うようなスライム状をしていた。
スライムナイトが慌てて篭手を拾おうとした隙に、既に立ち上がっていたリュカがブーメランを放った。下手に構えていたブーメランは地面低く飛んで行き、緑色のスライムに直撃した。スライムはぐったりと気を失い、同時にスライムナイトもそのままの姿勢で動かなくなった。
「貴様は戦わないのか」
残されたスライムナイトがパパスに木の棒を向ける。リュカたちが戦う傍で、パパスはずっと剣を抜き身で構えていた。だが、リュカが打たれた時も前に出ることはなく、じっくりとその戦いを見つめていた。
「息子は強い」
「とんだ馬鹿親だな。息子が死ぬかも知れない窮地の時だというのに」
「息子は死なせない。俺が守る」
パパスは凄みを利かせる形相で、抜き身の剣先をスライムナイトに向ける。彼の覇気が剣に伝わり、その剣先を向けられているだけで、スライムナイトは思わず一歩、二歩と後ずさってしまった。緑色のスライムが、上の騎士を不安げに見上げる。
この男に勝負を挑んだら、その瞬間に倒されることが分かってしまった。パパスが剣を下ろすと同時に、呼吸ができるようになったことに、スライムナイトはこの男の覇気だけで呼吸すら止められていたことに気がついた。剣を構えられただけで、呼吸ができなくなるような相手だ。敵うはずがなかった。
「お前は私の息子の格好の相手だ。たのむ、戦ってやってくれ」
人間に戦いを教えろと乞われたのは初めてのことで、スライムナイトは思わず首を傾げた。剣を木の棒に持ち替えたところで、当たりどころが悪ければやはり命を奪ってしまうことになる。そんな危険を冒してまで、この人間の男は息子と戦ってくれと頼んでいるのだ。
「本気で戦う相手が必要なのだ」
親であるパパスは、息子であるリュカに剣の稽古をつけるにしても、本気で戦うことはできない。実力は雲泥の差だ。魔物にすら優しい息子には本気で戦う相手が、しかも実力が拮抗している相手が必要だと、パパスは考えていた。
スライムナイトは再び木の棒を片手に、リュカに向き直った。リュカは父をちらっと横目で見た後、魔物にブーメランを構える。プックルはリュカの隣で体勢を低くしている。
リュカが放ったブーメランが地面の草を掠めながら飛んで行く。緑色のスライムが慌ててジャンプし、攻撃を避ける。着地するや否や、スライムナイトは地面を弾んでリュカに接近してきた。リュカは戻って来るブーメランを待てず、その場を離れた。丸腰のまま敵の攻撃を受けるのは避けられたが、ブーメランはあらぬ方向へと飛んで行ってしまった。
「あの武器では接近戦は不利だ。これを取れ」
そう言われて、リュカは宙に飛んできた木の棒を咄嗟に掴んだ。倒したもう一体のスライムナイトが持っていたものだ。
丈夫な木の棒を両手で持ち、剣のように構える。父が魔物と戦う姿が、自分に宿る。実際に敵を目の前にし、父が後ろで見守るこの環境で、リュカはまるで本物の剣を手にしているかのような気分になった。
決して目の前の魔物を倒したいわけではない。むしろ、魔物と戦うのはリュカに取って苦痛にも等しい。しかし今は、父に良いところを見せたいと言う、幼心に芽生えた欲に天秤が傾いていた。
脇をしめて、姿勢を低くし、前に出した左足で地面を踏みしめる。相手はたかが人間の子供だと言うのに、スライムナイトはそんな子供の気迫に満ちた状態を見て、真剣に相手する事を決めた。
スライムナイトが棒を振り上げて突進してきた。リュカも手にしている木の棒で攻撃を受け止める。そのまま体を捻って攻撃から逃れる。態勢を崩したスライムナイトにリュカが間髪入れずに打ちに行く。それを盾ではじき返され、その衝撃にリュカの腕が痺れた。
息子と魔物が戦う光景を、パパスは集中して見つめていた。その足元にはプックルが大人しく座っている。時折、尻尾をパタンパタンと地面に打つのを見て、パパスは思わず小さく笑った。恐らく、自分も戦いに参加したいが、主人が今までにない闘気を漲らせて魔物と戦っている間に入り込めない、そんなもどかしさを表現しているようだ。
成長すれば地獄の殺し屋とも呼ばれるキラーパンサーの子供が、リュカという人間の子供に従っているという不思議に、パパスは改めて我が息子の計り知れない能力を考えた。我が子は、とてつもない未来を作るのではと、情けなくも不安がよぎった。
地面を蹴ってリュカが攻撃に移る。横に払うように、木の棒を緑色のスライムに打ちつけた。スライムが顔をしかめ、次には怒りの表情でリュカを突き飛ばした。地面を転がるリュカに追い打ちをかけようと、スライムナイトは高くジャンプし、リュカを押しつぶそうとした。まだ起き上がれないリュカは、慌てて木の棒を前に構えたが、防御空しくそのままスライムにぐにゃりと押しつぶされる。スライムナイトがリュカの上から退いた時、リュカは危うく気を失いかけていた。
スライムナイトも先ほどリュカに殴られた緑色のスライムが、まだ顔をしかめている。相当痛かったようだ。人間が片足を引きずるように、スライムナイトが地面をズルズルと移動する。そして棒を捨て、再び剣を手にし、パパスに向き直った。
「子供にしてはかなり強いだろうが、所詮はまだ子供だ。私もかなりやられはしたが、子供に負けることはない」
「勝負はまだ終わっていないようだが」
パパスの言葉に、スライムナイトは動きを止めた。何かが風を切る音がしたかと思えば、それはスライムナイトの手を直撃した。持っていた剣と、鉄の篭手が吹っ飛び、地面に投げ出された。そしてリュカの手元にブーメランが戻った。
スライムナイトが勝利を確信し、目を離した隙に、リュカは自分で回復呪文を唱え、体力を回復した。いつの間にかブーメランが落ちているところまで移動していたリュカは、迷わずそれを拾い、狙いを定めて投げたのだ。
パパスはそんな息子の行動を一部始終、見ていた。その間、リュカは一度も父を振り返ることなく、全て自分で戦いを完結させようと、一人で頭を働かせ、行動していた。
「人間の子供が、これほどまでに強いとは」
スライムナイトは敵ながら、人間の子供であるリュカの実力に感心した。リュカはまだ気を抜くことなく、じっとスライムナイトを見続けている。初め、戦う気などなかったリュカが、今ではすっかり戦士の顔つきになっていた。
「ラインハットの城に行くのか」
剣も篭手も投げ出されたまま、スライムナイトはパパスに聞いた。もう戦意はないようだ。
「ああ、そのつもりだ。通してくれるのか」
パパスも剣を鞘に納めていた。そんな父と魔物の姿を見て、リュカは安心したように二人に近づいて行った。
「通るのは自由だ。しかしあの国は……我らの国だ」
スライムナイトの言葉の意味が分からず、パパスは眉をひそめた。
「我らの国、というのは一体どういうことだ」
「あの国はいずれ……。用があるのだろう、己の目で確かめてくるがいい」
歯切れの悪い言葉を残し、スライムナイトは仲間のもう一体を回復しに行った。長い時間、伸びていた仲間のスライムナイトは、意識を取り戻すと慌てて立ち上がる。まだ戦闘が終わっていないと、剣を構えようとしたところで、仲間に止められた。一言二言話したところで、伸びていたスライムナイトは大人しく森へ戻って行った。
「ラインハットに、何が起こっているんだ」
去ろうとするスライムナイトの背中に問いかけるパパスだが、スライムナイトは振り返ることなく、そのまま森へと姿を消してしまった。
森の彼方で烏の集団がぎゃあぎゃあと騒ぎながら飛んで行く。森の中には初夏の強い日差しがこぼれる。太陽はまだ空高く、ちょうど昼時を示している。烏が騒ぎ立てるには不似合いな時間帯だった。
「リュカ、少し急ぐぞ」
「……うん」
父が漠然と感じる不安を、リュカも同じように感じていた。森の中で騒いでいた烏が、目的もなく集団で、宙を旋回しているように見える。そんな烏に向かって歩き始めた父の後を、リュカは今までに感じたことのない緊張感を持ちながら、急ぎ足で進み始めた。

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