2017/12/03
幼馴染への期待
「パパス殿が残していたのはその剣じゃったか」
リュカとヘンリーはサンタローズの村の老人の家に立ち寄っていた。外の雨はもう止んでおり、雲に隠れた太陽が西にぼんやりと光を滲ませているのが窓から見えた。屋根からの雨漏りもほとんど止まり、雨を受けていた桶には時折水が落ちて跳ねるだけだ。
リュカは天空の剣を重そうに床に引きずっていた。抜き身の剣は床に引きずられてもどこも刃零れすることもなく、つい先ほど磨き上げたかのように光輝いている。剣自体が輝くようなその光に、老人は眩しそうに目を細めて剣を見つめていた。
「伝説の剣、だそうです」
リュカが静かに言い、剣を老人の前に出そうと力を込めると、老人はそんなリュカの動きを手で制して止めた。
「お主にも使えないということじゃな」
老人に言い当てられ、リュカは剣を持つ手を止めて驚きの目で老人を見た。目を細め、まるで微笑んでいるかのような老人の表情に、リュカは剣を持ち上げようとしていた手を止めた。
「パパス殿が悔しがっていたのはその剣のことじゃったか」
「父が悔しがっていた?」
「あの時は剣とは知らなかったがな。ただ布に巻かれたものを抱えて、意気消沈しておった。『どうして私ではないのか』、そう呟いていたな」
今のリュカと全く同じ思いを、父も過去に感じていた。真実としてそのことを知らされると、リュカは一層悔しい気持ちが増すのを感じる。父は生前、恐らくリュカに多かれ少なかれ期待していたのではないだろうか。決してリュカが触れることがなかった剣だが、パパスはいつかは成長したリュカがこの剣を装備し、母を助けに行くことを夢見ていたのかも知れない。
ただ、まだ幼かったリュカにこの剣を触れさせる勇気がパパスにはなかった。もし六歳になったばかりの息子がこの剣を装備できてしまったら、果たしてパパスは我が息子を勇者と認めた上で旅に連れ出すことができただろうか。その覚悟ができなかったから、幼いリュカに天空の剣を見せることすらしなかったに違いなかった。
父の思いは複雑だっただろう。覚悟ができない一方で、パパスはこうして天空の剣とリュカ宛の手紙を遺していた。幼い息子に自分の望みを叶えてもらうなど考えられなかったが、もし息子が勇者なら、妻を救う望みを捨てない限り、幼いリュカに伝説の装備を調え、危険な旅の先頭に立たせるくらいの覚悟が必要なのだ。
その父の覚悟が、今、自分の懐にある父の手紙だ。パパスは当時まだ幼いリュカを連れながら、成長したリュカを想像していた。大人になり、いっぱしの戦士として成長したリュカを思い描きながら、パパスは立派になった息子に自らの夢を託そうとこの手紙を書いたのだろう。リュカは手紙の一文字一文字をまた後で読み返そうと、静かに思った。
その後ほどなくしてリュカとヘンリーは老人の家を出て、村の入り口に向かった。すでに陽は西に傾き、空の色が優しくなっていた。
「あの白馬、怒ってるかもな」
「村に着いてからずっと構ってなかったからね。綱は繋いでなかったよね」
「ああ、多分逃げないだろうって思って、繋いでない。逃げられてたら……どうしようもないな」
「いなくなってたら仕方ないよ。ただ外に出ると魔物がいるから、無事でいてくれるといいけど」
建物のない見晴らしの良い村の中を早足で進む。空が晴れてきて西日が差すようになると、村の景色は一面、橙色に染まった。臭気漂う毒の沼地も、破壊された建物の残骸も、朽ちた木々も、全てが一様に橙色に染められるとそれだけで村が浄化されるような雰囲気に包まれた。
村の入り口では、二人の嫌な予想を裏切るように、白馬が村の方を向いてじっと佇んでいた。随分前から二人が戻ってくるのが分かっていたかのように、少々興奮した様子で大きな尻尾をぶるんと振った。
「ごめんね、相当待たせたね」
リュカがそう言いながら白馬の首をさすると、白馬は長い首を下げてリュカに顔を寄せた。サンタローズの村に着いた時は急いで村に入ってしまったため、白馬の身体から馬車の荷台を外すことすらしていなかった。リュカとヘンリーが村の中にいた間、白馬はずっとこの馬車の荷台という足かせをつけられていたのだ。
白馬の身体に装着させている馬車との繋ぎを外し、リュカは白馬を自由にさせてやった。白馬はぶるるるっと首を振り、リュカに確認を取るようにじっと見つめる。
「ちょっと散歩しておいで。喉も渇いてるだろ、川があるから水を飲んでくるといいよ」
まるで人間に話しかけるように喋るリュカを見て、ヘンリーは嘆息していた。
「連れて行ってやらなくていいのかよ」
「彼女は一人で大丈夫だよ。水の匂いも草の匂いも、僕たちよりよっぽど彼女の方が分かってる」
「そりゃまあ、そうかもな」
リュカが白馬の脇腹をぽんぽんと叩いてやると、白馬は心得たように歩き出し、村の中に流れる川へと歩いて行った。やがて駆け出し、あっという間にその姿は見えなくなった。
「僕たちと会う前はきっと、一人で生きていたんだよ。だから僕たちよりも生き方を知ってるのかもね」
「そうだな、ただ大きいだけじゃないんだな、あの馬」
ヘンリーがそう言いながら村の入り口で朽ちかけている門柱の残骸にもたれかかった時、足元に妙な感覚を得て、思わず小さな悲鳴を上げた。ぐにゃりと何かを踏みつぶすような気持ちの悪い感覚に、ヘンリーは思わず馬の糞を踏んでしまったのかと、そろそろと足元を見下ろした。
そこにいたのは、半透明な水色の塊だった。水たまりのような液体ではなく、かと言って氷のような固体でもなく、触れれば柔らかそうなゼリー状の物体だ。ヘンリーが怪訝な顔で見下ろしている横で、リュカがしゃがみ込んでその物体をまじまじと見つめる。青いゼリー状のものがひとりでにぐねぐねと動き出すと、ヘンリーは飛び退き、リュカは楽しげにより近づいた。
ゆっくりと雫形になった青いゼリーには、二つのまん丸の目と、常に笑っているように開いた口がついている。村の入り口近くとは言え、村の中に入ってきてしまった魔物の姿に、リュカはふとサンタローズの村が心配になった。それほどに外と村との境界がなくなってしまっているということなのかと、リュカは寂れてしまったサンタローズの村を改めて振り返った。
片膝を立てながら後ろを向いたリュカの背中に、スライムが体当たりをする。しかしそんなスライムの攻撃に、リュカの身体がほんの少しよろめくだけで、代わりにスライムがその反動で地面に転がる。リュカがスライムに向き直ると、笑い顔の青い雫は地面の上で身体を揺らしてリュカをじっと見上げている。そんな大人しいスライムを見下ろしていると、リュカは幼い頃のことをふと思い出した。
「君、もしかして前にも会ったことがある?」
リュカはそう言いながら、幼い時にやったように、スライムの前に両手を差し出した。魔物を前にしているとは思えないリュカの行動に、もはやヘンリーは呆れるだけだった。相手がスライムでなければ、リュカの頭を殴りつけて正気に戻そうとしていたかもしれない。
リュカの期待通り、スライムはリュカの両手の上に飛び乗ってきた。小さい頃は両手に余るほど大きな魔物だったが、今では片手でも平気なくらい、小さく感じる。リュカの両手の上で身体を震わせているが、それは恐怖でも怒りでもなく、恐らくリュカと同じ気持ちに違いなかった。
「よし、一緒に行こうか」
リュカの言っている言葉が良い意味であることを感じ、スライムはリュカの手の上でひとしきり嬉しそうに身体を揺らした。どうやら言葉は話せないようだ。発する声も『ピキー』という小動物にも似た声だった。
「これってもしかして、魔物を仲間にしたってことか?」
ヘンリーに言われて、リュカは初めて今の状況に気がついた。彼の言う通り、スライムを連れて行くということは、新しい仲間が増えたということだ。リュカは両手に上に乗るスライムを見ながら、まるでいっぱしの大人に話しかけるように、真面目な顔でスライムに聞いた。
「僕たちはこれから危険な旅に出るんだ。君もその覚悟はある? そうじゃなきゃ、ここに残った方がいいよ」
「スライムにそんなこと聞いてわかんのかよ」
思わず溜め息を漏らしながらヘンリーが言うと、リュカの両手に乗るスライムが突然、ヘンリーに向かって飛びかかってきた。避ける間もなくスライムの体当たりを顔面に食らったヘンリーは、たまらずその場で尻もちをついた。地面に着地したスライムは目を三角にして怒りを表している。
「馬鹿にするなって言ってるみたいだよ」
「馬鹿にするも何も、俺は当然のことを言っただけだろ」
ヘンリーが赤くなった鼻を押さえながらそう言うと、スライムは再び地面の上から飛び上がろうと身体を縮こまらせた。そんなスライムを抑えるように、リュカがスライムの顔だか身体だかわからないところに手を置き、宥めてやった。
「この人はヘンリーって言って、僕の友達なんだ。これから一緒に旅をすることになるから、仲良くしてね」
「結局連れてくんじゃねぇか」
「でもちゃんと旅に出る覚悟があるかどうか聞いておかないと」
「その覚悟は確認できたのかよ」
「だって何だか楽しそうだよ。これって連れて行ってもらいたいってことだよね」
リュカの手の上でスライムは笑ったように広げた口を見せて、ゆるゆる揺れている。ひんやりしているスライムだが、リュカの手の温度に馴染むように、徐々に表面がぬるくなっていく。その温度が心地よいのか、スライムは大きく開いていた目を細めてうっとりし始めた。
「覚悟の欠片も感じられないけど、お前が連れてくって言うんなら連れてってやろうぜ」
ヘンリーがスライムに向けて、恐る恐る指先を近づける。もしかしたら噛まれるんじゃないかと思いながら、ヘンリーは人差し指でスライムを突っついた。スライムはリュカの手の上でふるふると揺れるだけで、突っついたヘンリーの指先を寄り目で見つめるだけだ。
「じゃあ今日から僕たちの仲間だ。よろしくね」
「ピキー」
リュカの言葉にはどういうわけだか反応するスライムに、ヘンリーは首を傾げていた。
「馬車にまだ食いものが残ってたよな。とにかく腹が減った。木の実でも何でもいいから、ちょっと食うぞ」
そう言いながらヘンリーはふらつく足取りのまま馬車の荷台に上がりこんだ。魔法力のほとんどを使い果たしたに違いないヘンリーは、とにかく食べ物と飲み物と、睡眠を欲していた。そんな彼の後ろ姿を見ながら、リュカはまだ自分に余力があるのだと気付いた。疲労困憊していたら、こうして両手の上にスライムを乗せているだけでも相当な重みを感じるはずだ。
「君は……何を食べるのかな。とりあえず水があるから飲んでみる?」
リュカが何を言っても、スライムはただ笑顔でリュカを見つめるだけだ。馬車の荷台にスライムを下ろそうとしたが、スライムはリュカの腕を伝って上がり、肩に乗ってしまった。
「いつもそうしてくれると両手が空くから、僕も楽かも」
馬車の荷台に両手をついて上がりこむ時も、スライムは器用に微妙に移動しながら、リュカの肩や首や背中から離れまいとした。完全にリュカに懐いてしまったスライムを見て、ヘンリーは木の実を口に頬張りながらもごもごと言う。
「白馬が戻ってきたら、お前を蹴っ飛ばすかもな」
「え、どうして?」
「さあ、どうしてだろうな」
口の中に残る木の実の残りを一気に流し込むように、ヘンリーは皮袋の水をごくごくと飲んだ。皮袋の口を開けたままリュカに手渡すと、ヘンリーはすぐに横になった。男一人が寝転がったところで、馬車の荷台は有り余るほどに広い。リュカは手渡された水を飲むと、今度は肩に乗るスライムに水の注ぎ口を向けてやる。スライムは心得たように大口を開け、皮袋に残った水を全部飲み干す勢いで水を飲んだ。
「やっぱり君は水でできてるの?」
リュカの素朴な問いに応えるはずもなく、スライムはリュカの肩の上で満足そうに揺れている。その温度は心なしか少し冷たくなったように感じた。
馬車の荷台の真ん中で、既にヘンリーが寝息を立てていた。よくここまで戻ってこれたと思えるほどに、彼の体力は限界を迎えていたようだ。洞窟探索の時に泥まみれになった二人は今、泥が渇いて服やマントからぼろぼろと土が落ちるような状態だった。馬車の荷台に敷かれた敷物の上に、土が降り積もる。オラクルベリーの町で購入してからさほど経たない内に、馬車の荷台はすっかり旅慣れた景色になった。
リュカは馬車の壁に背をもたせかけ、横目で外の様子を眺めた。西日は既に弱くなり、辺りは暗くなり始めている。雨はすっかり止み、幌馬車の後ろの景色を望めば、東の空にはいくつかの星が早くも瞬いていた。
水を少し飲んだだけで身体が安らいだリュカは、まだ西日の明るさの残る中、懐から父の手紙を取り出した。小さな筒から丁寧に取り出し、一字一句を覚えてしまうほどの気持ちで、手紙を何度も読み返す。この手紙を書いている時の父を想像することは容易ではないが、それでもこの手紙を読んでいるだけで父が近くにいてくれるような安心した気持ちになる。リュカは安らぐ心と共に、手紙を右手を添えながら、舟を漕ぎだしていた。
「村の中に魔物を連れてきて平気なのかよ」
「平気だよ。だって悪いことしそうな顔に見える?」
「いきなり豹変するかもしれねぇぞ」
「万が一そうなったとしても大丈夫だよ。まさか火を吹くなんてこともないだろうし」
「それはないな」
馬車の荷台で一寝入りしたリュカとヘンリーは、揃って夜のサンタローズの村を歩いていた。雨降りだった昨日とは違い、空には月が輝き星が瞬く。村の寂れた様子は月明かりの下で露わになってしまうが、火を点ける必要のないくらい足元は明るかった。
そんな二人の足元を、仲間になったばかりのスライムがぺったんぺったんと一緒に進んでいる。初めて人間の村に入ったスライムだが、リュカ達以外の人間の姿が見えない村の中ではのびのびとしているようだった。うっかり毒の沼に入ってしまったこともあったが、川の水で軽く洗い流すと、すぐに元の通り弾みながら進み始めた。毒の沼に入っても平気なところを見ると、これほど平和に見えるスライムもやはり魔物なのだと、リュカは不思議な気持ちになった。
優しい月や星に照らされたからと言って、滅ぼされた村がかつての平和を取り戻すわけではない。崩れた建物はそのままで、焼き尽くされた場所からは草木も生えない。村を流れる川に架かっていた木の橋は破壊されたままで、かつて畑だった地は汚され、もう作物を育てることはできない。何もかもが突然で、一瞬の出来事だったに違いない。リュカには想像することしかできなかったが、逃げ惑う村人たちの中にサンチョがいたのかも知れないと思うと、胸が潰れる思いがした。
村は静かで、川のせせらぎの音だけが微かに耳に届く。山の高みから流れている川は、滅ぼされた村とは関係なしに、もしかしたら村が生まれる前からずっと変わらず流れているのかもしれない。人の営みはほとんど途絶えてしまったが、村を包む自然は相変わらず豊かで、川の水も中に棲む魚がありありと見えるほどに澄んでいる。
前を揚々と進んでいたスライムが、立ち止まったリュカを振り返った。リュカは西の空を見上げていた。陽もすっかり落ち、空全体が藍色に染まり、白い月に照らされた景色は青白く遠くまで見渡せそうだった。
「ヘンリー、次に行くところ、決めたよ」
リュカは西の夜空に広がる無数の星を次々と目で追いながら、はっきりとそう言った。ヘンリーは返事もせずに、同じように西の空を見上げている。
「隣町のアルカパに行ってみようと思うんだ。友達がいるはずだから」
滅ぼされた故郷に立つ者の声色とは思えないほど、リュカの声は明るかった。月はまだ東の空に留まっている。背後から月明かりを浴びる二人は、互いの表情を見ることはできない。しかしリュカが自然にほほ笑んでいるのが、ヘンリーは見なくとも分かった。
「友達か。ビアンカってやつだな」
「うん、きっと彼女なら色々知ってると思うんだ、この村のことも、もしかしたらサンチョのことも」
「話を聞いてると、相当頼りになりそうだよな、お前の姉ちゃん」
「僕のこと覚えててくれてるといいんだけど」
「ガキの頃に二人で町の外に出て冒険したんだろ。忘れるもんかよ、そんなとんでもないこと」
「そうかなぁ、ビアンカにとっては別に大したことじゃなかったかも知れないんだよなぁ」
「どんだけ勇ましいんだ、その女」
ヘンリーが苦々しげに言うのを見て、リュカは彼の気持ちを察してこっそり笑った。初めに彼女の話をした時、ヘンリーは興味本位でビアンカに会ってみたいと言っていたが、今はさほど会いたくないように見える。恐らくヘンリーは、想像上のビアンカが苦手なのだろう。自分より強く出てこられるような年上の女性を想像しただけで、ヘンリーは自然と拒否反応が出るらしい。
「優しい人だよ。怖がらないで大丈夫だよ、ヘンリー」
リュカが楽しげにそう言うのを聞いて、ヘンリーはムッとした様子でリュカを横目で睨む。
「別に怖くはないけどよ、なんつーかな、そういう女ってどう扱ったらいいのかわかんねぇんだよな」
「しっかりしたお姉ちゃんだと思えばいいんじゃない、ヘンリーよりも年が一つ上なんだから」
「姉ちゃんねぇ、ピンとこないな」
「そうか、君はお兄さんだもんね」
リュカがさらりと言った事実に、ヘンリーは言葉も返せず黙り込んだ。決して忘れていたわけではないが、リュカが口にしなければ思い出さなかった弟のことを、ヘンリーは図らずも思い出した。
東の空は既に深い夜に包まれている。まだ少し雨雲が残っているのか、見える星の数は少ない。東の空に移動して行った雨雲は今頃、ラインハットに雨を降らせているのだろうかと、ヘンリーはぼんやりと東の夜空を眺めた。
「とりあえずはアルカパって町だな」
ヘンリーはアルカパの町がある西に背を向けながら、独り言のようにそう言った。隣町の幼馴染に思いを馳せるリュカはヘンリーの異変などには気づかずに、ただ嬉しそうに「うん、そうだね」と頷いて返事をしただけだ。
「朝早くに出れば、明るいうちに町には着くと思う。小さい頃の僕が歩いて行けた距離だから、大したことないよ」
「じゃあ今のうちに村の人たちへ挨拶に行った方がいいんじゃないのか」
ヘンリーは言いながら後ろめたい気持ちになった。挨拶する村人と言っても、数えるほどしかいない。ラインハットに襲撃され、サンタローズの村人たちは散り散りになってしまった。村の洞窟には魔物に化したとしか思えない、かつての村人たちや兵士たちの姿があった。何の前触れもなく、全く身に覚えのない突然の襲撃に、村人たちは逃げ惑い、命を落としてしまったり、難を逃れた村人たちもほとんどがサンタローズを離れてしまったに違いない。
それもこれも全ては、狂ってしまったと言ってもいいラインハットの仕業だ。このサンタローズの村にいる限り、結局はその事実に当たってしまうことに、ヘンリーはいたたまれない気持ちで胸が塞がる。
「挨拶は僕が行って来るよ。ヘンリーは馬の様子を見に行って来てくれるかな」
リュカがどういう意図でそう言ったのかは分からなかったが、ヘンリーは素直にその言葉に頷いた。現実から逃げるようですっきりはしないが、サンタローズに詫びたい気持ちを持っていても、今のヘンリーにはどうすることもできない。第一、もうラインハットという国にとって、ヘンリーはいないも同然の存在に違いなかった。あの国に、ヘンリーは存在ごと消されたに等しいのだ。
「ありがとう、リュカ」
珍しく礼を言うヘンリーに、リュカは小さく驚いて彼を振り向き見た。しかしヘンリーはリュカに背を向けたまま、東の夜空を見上げている。
「挨拶、頼むな」
「うん。後であの洞穴の宿で」
二人はそれだけの言葉を交わすと、逆方向に向かってそれぞれ歩き出した。リュカは教会に向かい、ヘンリーは村の入り口へ歩いて行く。二人の足元にいたスライムは、互いに違う方向に歩き出した二人を見て慌てたように地面の上に跳ねた。初めリュカの後をついて行こうと進み始めたスライムだったが、後ろで力なく遠ざかるもう一人の足音を聞き、くるりと振り返った。迷いなく歩いて行くリュカを見送りつつ、結局スライムは村の入り口に戻って行くヘンリーの後を追いかけて行った。
「何だ、お前リュカのところに行ったんじゃなかったのか」
奇妙なぺったんぺったんと言う音を聞き、ヘンリーが気味悪そうに立ち止まって後ろを振り返ると、少し距離を空けてスライムがヘンリーを見上げていた。月明かりは明るく、それがさきほど仲間になったばかりのスライムだということはすぐに分かったが、何故スライムがリュカの後についていかなかったのか不思議だった。
スライムは立ち止まったヘンリーを注意深い様子で見上げている。微動だにしないスライムに、ヘンリーはしゃがみ込んで、猫を呼ぶように手招きした。
「俺はあいつの親分……じゃないか。友達だ。だから信用しろよ、怖いことしないから」
じっと見つめてくるスライムを、ヘンリーはほんの少し怖がり身構えていた。スライムも用心深くヘンリーに近づき、その瞬間に彼の表情や雰囲気が自然と和らいだのを感じたのか、スライムは手招きするヘンリーの手の上に乗った。意表を突かれたヘンリーはスライムを取り落としそうになったが、スライム自身がぴょんぴょんと移動してヘンリーの肩の上に乗った。
「お前、ひんやりしてるんだな。暑い時にはちょうど良さそうだ」
夜となった今は、少し涼しさを感じるほどの気温だ。ヘンリーは首の辺りに留まるスライムの冷たさに少し身体を震わせたが、悪い感触ではなかった。自分の身体に生き物が触れている感触は、思いの外安心できるものだった。
「リュカほど体つきはよくないだろうけど、まあまあの乗り心地だろ」
ヘンリーが横目にスライムを捉えながらそう言うと、スライムは返事をするように小さくピィと鳴いた。肩に乗るスライムの感触はまあまあどっしりしているが、耳元で鳴くその声は小鳥のようだった。
村の入り口に戻ると、白馬は大人しく主人の帰りを待つようにじっと佇んでいた。遠くからも人間の存在を感じていたのか、ヘンリーが見つける前から白馬は落ち着いた様子でヘンリーのことを見つめていた。
「水はちゃんと飲んできたのか」
近くに来て声をかけるヘンリーに、白馬は首を傾げるようにして彼を見る。リュカのようには意思疎通がうまく行かないと、ヘンリーは苦笑いしながら馬の長い首を撫でてやった。
「あいつの言うことならすぐに分かって頷きそうなもんなのにな」
そう言いながら白馬の首を撫でていると、肩に乗っていたスライムがずり落ちそうになり、ヘンリーは慌てて空いている手で支えた。多少なで肩のヘンリーの肩に乗っていると、なだらかな滑り台を行くように徐々に落ちてきてしまうらしい。ヘンリーはぐにゃぐにゃしたスライムを掴むと、そのまま白馬の背に乗せてやった。何が起こったのか分からないような顔つきで、スライムは安定感のある白馬の背でヘンリーを見下ろしている。
「これからはお前たちも仲間なんだ。仲良くしろよ」
白馬が長い首をぐるっと振り向けて、背に乗る小さな雫を横目に見る。スライムは巨馬の迫力ある姿に委縮し、背の上で小さな身を更に縮こまらせた。白馬の鞍は外して馬車の荷台の横に置いてある。馬の滑らかな毛並みの上に乗るスライムは、びくびくしながら後退していたが、その滑らかな毛流れに乗るようにして地面のぽとりと落ちてしまった。
地面の落ちた雫形の魔物に、白馬は興味深そうに顔を近づける。大きな馬の顔が近づいてくると、スライムは身体をぶるぶるふるわせながら、その場に固まった。しかし白馬が顔を摺り寄せてくると、スライムは安心したように自分からもすり寄った。
月明かりの下で交わされた馬と魔物の挨拶に、ヘンリーは小さく溜め息をついた。
「仲良くなるのなんて、案外簡単なのかもな」
地面まで頭を下げた白馬の首の上を、スライムは坂を上るようにじりじり上に進んで行く。初めの時のように結局白馬の背の上で落ち着いたスライムは、ヘンリーを見ながら満足そうに一声鳴いた。
「良かったな。これからいつまで続くか分からない旅だからな、仲良くしていこうぜ」
ヘンリーは白馬の首元に手を当てながら、空を見上げて言う。夜空は良く晴れ、真っ黒な空に無数の星が瞬き、明るい月が村の景色を照らしている。もう村とは呼べないほどに壊され、立ち直っていないサンタローズの傷は、ヘンリーには想像できないほどに深い。教会のシスターの悲痛な声が、今もヘンリーの耳にこだまする。
『ひどい! ひどいわ! パパスさんのせいで、王子様が行方不明になっただなんて!』
神に仕える者とは思えないほどの、激情のこもった声だった。彼女が意図的に言ったわけではないと分かっていながら、ヘンリーはあの時、彼女の憎しみの感情に身体を貫かれた気がした。その後も彼女は話を続けていたが、ヘンリーの記憶からその後の話は消えてしまっている。そして気付いたら、自分の身体は教会の外に出ていた。外で感じた雨粒の冷たさに、ヘンリーは無意識に教会の外に出てきてしまったのだと知った。
もしヘンリーがその王子様だとシスターに自白したら、彼女は憎悪のこもった表情を隠しもせずに、神に仕える我が身を忘れ、彼を殺していたかもしれない。『あなたのせいで村が滅ぼされたのだ』と責められ、ナイフを突き立てられても、何も言えないままヘンリーはその場に倒れることを望んだだろう。そしてもしそうなっていたら、果たしてリュカは倒れるヘンリーを助けてくれただろうか。
考えるまでもない。恐らくリュカは、何の迷いもなく助けたに違いなかった。そもそもリュカは、ヘンリーを敵などとは考えていない。ヘンリーにはいまだに信じられないが、リュカの中でヘンリーは、被害者なのだ。共に辛い十余年の奴隷生活を過ごし、人生の一時期を果てしない肉体労働に費やした、仲間であり友達、そう思っているに違いない。
何度もリュカの本心を疑ったが、彼は何一つ嘘をついていない。ただあのシスターの口から真実を聞いた時、もしかしたらリュカは一瞬、ヘンリーに強い感情を持ったのかも知れなかった。自分の感情を押し殺すように、ひたすら黙って耐えていたようなリュカの雰囲気を思い出すと、ヘンリーは今でも身体が震える。
リュカは破壊し尽くされたかつての我が家を見た時、一時我を忘れ、昔の幸せな記憶に心が飛んで行ってしまった。いつも穏やかで現実的なリュカが、現実から逃げ出し、夢のような昔の記憶に逃げ出してしまうなど、ヘンリーには想像もできないことだった。それほどにリュカにとっては目の前の光景が衝撃的で、まともに見ていられないほどだったのだと、ヘンリーは思わず唇をかみしめた。
「俺は、あいつの助けになりたい」
ヘンリーの独白を聞く者は今、スライムと白馬だけだ。白馬は静かに前を向いたままで、その背に乗るスライムは青白い月明かりを浴びてゆらゆら揺れている。
「俺の自己満足かも知れないけど、とにかく助けてやりたいんだ」
ヘンリーのごく小さな声に、白馬がぴくりと耳を動かす。しかし前を向いたままで、その声の主を振り向き見ることはない。白馬の背に乗るスライムは、ヘンリーの方を向いていた。まん丸の目をとろんとさせ、身体全体でうつらうつらとしている。魔物の凶悪さとはかけ離れた無垢なその仕草に、ヘンリーは思わずふっと笑みをこぼした。
「お前には全然関係のないことだったな。それに、俺が今こうしてこんなこと言ってたって、どうしようもないんだよな」
ヘンリーは真っ黒な夜空に浮かぶ半月を見上げた。円を描く月ではないが、それでも煌々と地上を照らしている。月に感情があるとは思えないが、月を見て感情を動かされるのはどうしようもない。白く明るい月を見て、ヘンリーは濁っていた気持ちが徐々に浄化されていくような、透明な気分になって行くのを感じた。
「考えたってどうしようもない。できることをやる、それだけだ。とりあえずは、ビアンカって女に会う、会って話を聞く、簡単なことじゃねぇか」
いつもの軽い口調に戻りながら、ヘンリーは再びサンタローズの村を見渡した。村の再興など、今後数年は見通しが立たないだろう。もしかしたらこのままこの村は滅びてしまうかもしれない。月明かりに照らされるサンタローズの村を、ヘンリーは目に焼き付けるように眺めた。
「この村も、いつか絶対に救う」
村一つを救うなど、今のヘンリーにできることではなかった。しかし彼はそう言わずにはいられなかった。その夢を叶えなければならないほどの罪を、自分は犯してしまったのだ。村を救うために何をしたらいいのかも今は分からないが、滅びかけているこのサンタローズを再興させようと、一人心に誓った。
月はまだ、東から西に向かう途中だ。ヘンリーはまだ東の空に浮かぶ月に背を向けて、リュカが向かうと言うアルカパの町のある西に目を向けた。西の空もすっかり夜の闇に包まれ、星が無数に煌めいている。サンタローズが山に囲まれた村であるため、西の景色を遠くまで見通すことはできない。見えるのは山の稜線だけだ。
「どれだけ気の強い姉ちゃんなんだろうな。会うのが楽しみだぜ」
言葉にしてみると、気持ちもいくらか高揚した。リュカが心の底から楽しみにしている気持ちが、ヘンリーにも少し分かったような気がした。
「どうされたのですか、こんな暗い中教会へいらして」
「明日、ここを出ようと思って、それを伝えに来たんです」
「まあ、もう行かれるんですか。では神父様を呼んできますから、ここに掛けて待っててくださいね」
教会の長椅子の端に座り、小さな灯りの下で何やら書き物をしていたシスターは、リュカが教会へ入って来るなり立ち上がって彼を振り向き見た。暗くて良くは分からないが、彼女がどこか険しい表情をしているのが、リュカには分かった。彼女の雰囲気がこの暗い教会以上に沈んでいた。
シスターが教会の奥へ姿を消すと、リュカは彼女が座っていた場所に近づいて行った。長椅子の前に折りたたみ式の台があり、そこに一冊の書物が置かれていた。台の端に置かれた小さなランプは、危うげな明かりを書物に零している。書物は開かれたままだ。
リュカは長椅子に座って、書物に書かれた文字に目を落とした。それは彼女が個人で書き綴る雑記帳のようなものだった。そのことに気付いた瞬間リュカは目を離そうとしたが、雑記帳の中の言葉が、リュカの目を嫌でも引きつけた。
「これって……僕たちのことなんだろうな」
雑記帳にはこの村に久方ぶりに訪れた旅人二人のことが記されていた。そこに記された自分の名前に、リュカにはこの雑記帳が身近なものに感じられた。人の日記のようなものを勝手に読むことが悪いことだということを、この時リュカは忘れて、シスターの雑記帳をぱらぱらとめくり始めた。過去に遡れば、当時のサンタローズのことを知ることができるかもしれないと、リュカは期待しながら前のページへ、前のページへと紙をめくって行く。
リュカが期待していたのは、サンタローズの平和な時の記録だ。まだ村が壊される前、村人たちの様子はどんなものだったのか、もしかしたら子供の頃の自分のことも書かれているかも知れないと、パラパラとページをめくる。しかしそんなリュカの期待を裏切るような乱れた文字を目にした瞬間、リュカの手が止まった。
『ラインハットの襲撃』その文字はやっと読めるほどに乱れていた。そのページだけ、文字は乱れに乱れていた。当時のシスターの気持ちが直接伝わってくるような激しさに、リュカは心の中では拒否しながら、文字を追う目は止められなかった。ラインハットへの憎しみや怒りを、神に告白するのではなく、この雑記帳にぶつけたのが分かる。当時の彼女が、この雑記帳の中で声の限り叫んでいるようだった。
『ラインハット王国第一王子、ヘンリー王子の失踪』その一文に目が止まると、リュカはやはりこの場にヘンリーを連れてこなくて正解だったと、小さく息をついた。シスターはラインハットの第一王子の名前を知っている。そしてサンタローズを襲った悲劇に直接結び付くその事実に、憎しみを抱いている。雑記帳の中には、ヘンリーを名指しした怒りや憎悪の言葉が羅列している個所もあった。
リュカは目を閉じて雑記帳から逃げ出した。そしてそのまま、雑記帳を閉じた。やはりシスター個人のものを見てはいけなかったのだと、リュカは目を閉じたままその場でうなだれた。知らなくても良かったことなのか、知っておかなくてはいけなかったことのか、リュカには何も分からなかった。
「でもヘンリーは、僕の友達なんだ」
声に出して言えば、それは本当のことだった。彼が原因で村が滅ぼされたわけでもなく、父が死んだわけでもない。物事の原因をたどることは容易ではない。一つの原因に辿りついたところで、その原因が生まれが原因がまたあるはずなのだ。リュカには『あの時ヘンリーがつかまらなければ』などという表面的な原因を責める気にはなれなかった。そんなことを責めようとすれば、リュカとパパスがあの時期にラインハットを訪れたことも、様々な悲劇の原因の一つになる。
原因は単純なものではない。無数のことが偶然にも重なりあって、無数の出来事を生み出す。リュカは閉じた雑記帳の中につづられたシスターの叫ぶような思いが、いずれ時と共に静まってくれることを祈った。彼女自身もシスターとして徳を積み、胸の内に潜む憎しみや怒りを散らして手放すことを望んでいるのかも知れない。だから今もこうして、滅びかけたサンタローズの村でシスターを務めているとも考えられた。
教会の奥からシスターが神父を連れて再び姿を現した。暗い影にしか見えない二人の姿だが、背の高い修道帽を被った神父の雰囲気は、シスターの今にも壊れそうな余裕のない雰囲気とは対をなしているようだった。長椅子に座っていたリュカはその場で立ち上がり、ゆっくりと向かって来る神父とシスターに小さく頭を下げた。
「リュカ君、だったね。もう旅立つと聞きましたが、旅のアテはあるのかい?」
感じる落ち着いた雰囲気とは違い、神父の口調は気さくなものだった。リュカは知らず緊張していた心の糸が緩むのを感じる。
「隣町のアルカパに行こうと思ってます。僕の友達がいるはずなんです」
「友達というのは、君が今共に旅をしている彼とは他に?」
シスターにいくらか話を聞いているのか、神父はヘンリーのことを知っているらしい。昨日このサンタローズに来た時、神父はヘンリーに会っていないはずだ。
「小さい頃、一緒に遊んでいた女の子です。もしかしたらその人が何か知ってるかも知れないので、訪ねてみようと思います」
「そうか。君のお父さんも旅に出る前には必ず、この教会へ寄ってくれたよ。懐かしいな」
仄かなランプの灯りに照らされる神父の顔には、深い皺が幾筋も刻まれている。髭はしっかりと剃っているが、それでも実際の年よりは老けて見えた。この村を襲った悲劇が、神父を一気に疲労させてしまったのだろう。
「お父上との思い出は、ちゃんと見つけられたかね」
神父の語り口は丁寧で優しく、そして見透かすように鋭い。常人には見えないような何かを、見通す力を得ているかのようだ。
「はい、父はちゃんと僕に遺してくれていました。それを見つけられたので、大丈夫です」
「それは良かった。お父上も本望だろう」
神父はまさか、リュカが天空の剣という伝説の武器と、パパスが残した手紙を手にしているとは知らないだろう。しかし生前のパパスが当時どれほどの危険な旅をしていたか、リュカよりもよほど知っている。そんなパパスが最愛の我が子に何かを残していることは、容易に想像できることだったようだ。
「隣町の女の子と会うのも、久しぶりなんでしょう?」
シスターにそう聞かれ、リュカは昔を懐かしみながら顔を綻ばせる。
「十年以上会ってないなぁ」
「年は同じくらいだったの?」
「二つ上です。だから今は十八くらいになってるのかな」
「もう女の子じゃなくって、立派な女性になってるわね、きっと」
「どうだろう。あんまりそういう感じがしないんだよなぁ。うん、多分、変わってないと思う」
リュカが妙に自信を持って言うのを見て、シスターは首を傾げる。
「変わってないって、どういうことなの」
「お転婆な子だったんだ。町の外に出て冒険したいとか、魔法を得意気に見せたり、猫を助けるために本当に町の外に出たり。木登りも上手だった」
「まあ、まるで男の子みたいね」
シスターがくすくす笑う姿が、リュカには嬉しかった。この村に来た時、シスターはシスターらしい頬笑みを浮かべてはいたものの、本当の笑顔を忘れているようだった。サンタローズの村が襲われた時から、きっと彼女は笑顔になることもできず、そして笑い方を忘れたに違いなかった。それが今は、見ず知らずのお転婆な女の子の話を聞いて、自然と笑顔を零している。
「もしかしたら、筋骨たくましい女性になってたりして」
「ええ? そんなのイヤだなぁ」
「やっぱり女の子らしい方がいい?」
「そういうわけじゃないけど、たくましくなってたら、旅に連れて行けって言いそう」
「そっか、町の外に出て冒険をしたいような子だものね。間違いなく言うわね。でもそれも楽しそうじゃない」
シスターの言うように、筋骨たくましくなったビアンカと久しぶりに再会し、彼女が力こぶでも見せながら「一緒に旅に行きましょう!」なんて言って来るのを想像したリュカは、思わず吹き出してしまった。恐らく、今は馬車の荷台に置いてある天空の剣を目にしたら、彼女は興味津々の顔で剣を手に取るだろう。そしてその剣が、パパスが遺したものだと知ったら、ビアンカは涙を流すかもしれない。男泣きするビアンカを想像しながら、リュカは彼女が父のことを好きだったことを思い出した。正確に言うと思い出したわけではなく、たった今、彼女のそんな感情に気がついたというところだ。
リュカはそこまで想像して、実はビアンカと再会できるのを心底楽しみにしている自分を知った。幼い頃の彼女との冒険は、当時よりも今の方が綺麗なものに感じられた。レヌール城の雨の冷たさも、雷の心臓が止まりそうになるような閃光も、青白い幽霊たちも、彼女と一緒だったから楽しく話せるような思い出になった。二つ年上だからということではなく、彼女は小さい頃から頼りになる女の子だった。そんな彼女ともし旅をすることができたら、色々と相談に乗ってくれて、様々なことをてきぱきと決めてくれるかもしれないと、リュカは既に頭の中でヘンリーとビアンカと三人で旅を続ける姿を想像していた。
「旅をするなら楽しい方がいいわよ」
「そうだね、旅をするにしても、ここで暮らすにしても、楽しい方がいい」
リュカはシスターの明るい笑顔を見ながらそう言った。一瞬、虚を突かれたような顔をしたシスターだが、リュカの独特な穏やかな雰囲気に、再び笑みをこぼした。
「そうね、楽しく暮らしていけるよう、頑張るわ」
「うん、一緒に頑張ろう。と言っても、僕はもう結構楽しんでるけどね」
シスターはリュカの顔を窺うように見つめたが、リュカは自然と笑うだけだ。十余年ぶりに故郷の村に訪れた青年は、幼い頃に父を亡くし、父の遺志を継いでいつ終わるとも知れない旅を続けている。彼は父を亡くした時のことや、十余年もの長い間、何をしていたのかは語らない。語って楽になるようなことだったら、彼は神父やシスターにこれまでのことを語っているだろう。しかし彼は自分のことについては何も語ろうとはせず、ただ村のことや過去の父のことを聞くだけだ。
シスターはリュカがこの教会に来る前まで開いていた雑記帳が閉じられているのを目にした。彼女が神父を連れてくる前、リュカはこの場所で長椅子に腰掛けていた。恐らくリュカは開かれたままの雑記帳を見ていたのだろう。そのことに気付いたシスターだったが、雑記帳の変化に触れてはいけないような暖かい雰囲気が今、辺りに漂っている。リュカが雑記帳を閉じてしまった理由が気になった彼女だが、たった今、楽しく暮らしていけるよう頑張ると約束したばかりだ。楽しく暮らすためには、敢えて目を瞑らなくてはならないこともあるのだと自身に言い聞かせ、閉じられた雑記帳から目を離した。
「そろそろ宿に戻ります。友達が待ってるので」
リュカはそう言いながら小さく頭を下げた。神父が右手を差し出すのを見て、リュカは自分の右手も差しだし、固く握手をした。
「ほんのわずかな時間だったが、君がこの村に来られたのも神のお導きだろう。これからもいつでも訪ねてくるといい、ここは君の故郷なんだから」
「サンタローズがこんなことになっていて、本当は……とてもショックだったけど、それでもここに来られて良かったです。絶対にまた来ます。それまでどうか、元気に暮らしていてください」
「リュカ君も、道中気をつけて」
神父の手はいくらか骨ばっていたが、それでも力強いものだった。破壊されたこの村で、十年以上もこの村を見守り続けてきたのだ。心が強く逞しくなければ、すっかり人気のなくなったこの村で生きて行くのは難しいだろう。もしかしたら神父にしてもシスターにしても、サンタローズに残ることは彼らの義務に等しいものなのかも知れない。決して彼らのせいではないが、救うことのできなかったサンタローズの村人たちを放り出してどこかへ移り住むことなど考えられない、そう思っているのかも知れないとリュカは思った。
教会を後にしたリュカは、外に出て夜空を見上げた。昨日とは打って変わって眩しいほどの月明かりが村を照らしている。しかし月明かりに照らされる村の姿は悲惨なものに変わりない。毒の沼地も、鈍く光る大きな黒い水溜りのように見え、時折底から黒いあぶくが嫌な音と共に上がってくる様は昼間以上に不気味なものだった。
ヘンリーが既に待っているだろうと、リュカは教会近くの洞穴の宿へと向かっていた。しかし途中、リュカは足を止める。この道を右に折れれば、かつて父とサンチョと住んでいた家に辿りつくと考えた瞬間、リュカはもう道を曲がっていた。
しばらく進み、植物の枯れ果ててしまった土の上を歩き、毒の沼地を慎重に避けながら、リュカは自分の家があった場所の前で立ち止まった。村全体と同じように月明かりに照らされるかつての家だが、今はヘンリーが灯す明かりが欲しいとリュカは思った。
屋根も壁もない家の中に入り、足元に転がる砕けた石などに注意しながら、リュカは家の中から空を見上げた。もう家の形をなしていないこの場所からは、綺麗な星空が見渡せた。いつだったか、こうして夜の星空を見上げたことがあると、リュカは冷たい床に寝転がりながらぼんやりと星の海を眺める。
『星の海、ねぇ。リュカって結構ロマンチストなのね』
ビアンカの明るい声が聞こえた気がした。その時見上げた星空は、このサンタローズの村からではなく、アルカパの町からだったと、リュカは当時の記憶を目を瞑って思い出そうとした。細かいことは思い出せなかったが、ただ彼女が早口に喋り、リュカを圧倒していたしていたような雰囲気を思い出す。そんな雰囲気を、リュカは無意識にも楽しんでいたのだと、今になって気がついた。
隣でぴょんぴょん跳ねるように動く三つ編みが、今でも横にあるような気になる。明日になれば、恐らくそんなに変わっていないビアンカと会えるのだと、リュカは自然と笑顔になったまま再び目を開けた。夜空に無数に散らばる星の中から一つ、すっと星が夜空を流れた。
「楽しみだな、ビアンカと会うの」
声に出して言ってみると、それは本当のことだった。滅ぼされた故郷にいるというのに、明日が楽しみで仕方がないという気持ちに、リュカは少し罪の意識さえ感じるほどだった。しかしリュカは楽しもうとする気持ちを抑えようとは思わなかった。つい先ほど、シスターとも話していたように、旅をするにしてもここで暮らすにしても、何をするにしても楽しんだ方が良いに決まっているのだ。
夜のひんやりした空気に、リュカの身体も少しずつ冷えて行く。だが彼の胸に残る様々な思い出は、彼の心まで冷やすことはない。辛い記憶がある一方で、子供の頃の温かな記憶もまた多く残っている。今は不思議と、温かな記憶に身体ごと包まれるような感覚を、リュカは感じていた。