2017/12/03

思い出に向かって

 

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サンタローズの教会の灯りは消えていた。今は村人だけではなく、村を取り巻く木々も山々も鳥たちも寝静まっている。昨夜まで月が見えていた夜空にはいつの間にか雲がかかり、村には静かに雨が降り始めていたが、土砂降りの雨でもない限り、リュカもヘンリーもこの村に留まるつもりはなかった。
「もう挨拶はいいのか」
「うん、大丈夫。もうこれっきりここに来ないわけじゃないしさ」
「それもそうだな」
静まり返った村で、二人はひそひそ声で話しながら村の入り口に向かう。まだ二人の姿が見える前から、待ちかねたような馬のいななきが聞こえた。その声に応えるように、リュカの肩に乗るスライムが身体を揺らす。
「あんまり動くと落ちるから気をつけて」
「ピー」
「……会話、なんだよな」
新しく仲間になったスライムとリュカが自然に言葉や声のやり取りをしているのを見て、ヘンリーは首を傾げる。せっかく仲間になったのだからと、ヘンリーもリュカと同じようにスライムと言葉を交わそうとしてみた。しかし自分の期待するような返事が来ないと、ヘンリーは早くも意思疎通を諦めかけていた。
「お前さ、このスライムの言ってること、分かってるのか」
「ううん、良く分からない」
リュカのさらりとした返事に、ヘンリーは口を開けたまま眉根を寄せた。ヘンリーの疑問などお構いなしに、リュカは足早く前を歩き、リュカの左肩ではスライムが歩くリズムに合わせて身体を揺らしている。
「でも喋ってるじゃないか」
「伝えたいことを言ってるだけだよ。だって地面に落ちて欲しくないでしょ」
「そりゃそうかも知れないけど。こいつも返事してるし、てっきり会話してるのかと……」
「伝えたいって思ってるから、伝わってるんじゃないかな。ねぇ」
「ピィ」
タイミング良く返事をするスライムを見て、ヘンリーは再び首を傾げた。ただタイミング良く声を出しているだけなのかと、ヘンリーがスライムをまじまじと見つめていると、後ろの視線を感じたのか、スライムが身体を回転させてヘンリーを見つめ返してきた。魔物とは思えない邪気のない丸い目に、赤い口はやはり笑っている。雫形の身体に雨が当たっているが、元々水に近い身体なのか、雨を弾くこともなくそのまま身体に吸収しているようだ。
「不思議なヤツ」
ヘンリーが指先で突っつくと、スライムの身体はゼリーやプリンのようにプルプルと揺れる。ほど良い弾力が面白く、ヘンリーが何度も突っついていると、突然スライムの目が三角になった。怒った表情だとヘンリーが気がついた瞬間には、スライムがヘンリーの顔面に飛びかかっていた。突っついている分には楽しいと思える弾力も、飛びかかられてぶつかる衝撃はなかなかのものだった。ヘンリーの身体はよろめき、飛びかかったスライムもそのまま地面に落ちて弾んだ。
「おい、リュカ、こいつは本当に仲間なのかよ」
顔面を抑えながらヘンリーが言うと、リュカは笑いながら地面にしゃがみ込んだ。スライムに手を差し伸べると、スライムはリュカの腕を伝って上がり、再び彼の左肩に身体を落ちつけた。
「ヘンリーがいたずらするからだよ」
「いたずらじゃない。こいつの身体が面白いだけだ」
「とにかく、仲良くしてね。一緒に旅をするんだから」
「俺に言わないでこいつに言え」
「ピー」
ヘンリーとスライムが同じような抗議の声を上げたのを見て、リュカは思わず吹き出してしまった。すでに仲が良さそうなヘンリーとスライムの雰囲気を感じながら、リュカは安心した様子で、村の入り口に待つ白馬のところへと急いだ。



晴れていれば、既に太陽は東の空に高々と昇っている頃だろう。しかし未だ太陽の姿は拝めない。しとしとと降り続く雨の中、リュカとヘンリーはアルカパの町に向けてゆっくりと馬車を進めていた。道は見通しの良い草原が続き、北側にはずっと山並みが続いている。その山々の頂きも雲に隠れ、山のふもとに広がる森も霧がかかるような景色に包まれている。視界の悪い森の中には、魔物の姿もあるようだった。
「魔物も雨はあまり好きじゃないのかもね」
「なあ、こうやって歩いてると、昔の頃のこととか思い出すのか」
ヘンリーにそう言われ、リュカは歩きながら辺りの風景を見渡してみた。実際、懐かしいと思えるほどの記憶はなかった。幼い頃はただ父に連れられるがまま、旅をしてきたのだ。サンタローズの村は変わってしまったが、村を囲む山々の姿は全くと言っていいほど変わっていないのだろう。しかしその山々がリュカの幼い頃の記憶を呼び起こすわけでもない。
ただ、サンタローズからアルカパまでの道のりを歩いた時の記憶は主に、ビアンカが中心だった。景色などに目がいかないほど、彼女はサンタローズからアルカパまでの道のりの間、喋っていたような記憶が蘇ってくる。
「楽しそうだったよ」
他人事のように言うリュカに、ヘンリーは無言で首を傾げる。
「ああ、お前の姉ちゃんのことか」
「ちょっとの間だけだったけど、旅に出られて嬉しかったんだろうね。はしゃいで呪文を使って、お母さんに怒られてた」
「絵に描いたようなガキんちょだな」
ヘンリーの小馬鹿にしたような言い方に、リュカはちょっとした違和感を覚えた。真面目な顔をして隣を歩く彼に言う。
「ビアンカはちゃんとした女の子だったと思うよ。あの時は良く分かってなかったけど、今考えるとそんな風に思う」
「そうかぁ? 楽しくてはしゃいで、勢いで呪文使って怒られるような子供だったんだろ」
「でもオシャレに気を遣ってたんじゃないかな。サンタローズの村でリボンを選ぶのに真剣だったような」
「リボンって、女が髪を結えるやつか」
「僕にも『どれが似合う?』って聞いてきたもん。だから覚えてるんだ、こんなこと」
昔の記憶が鮮明なわけではないが、話しているうちにリュカの脳裏には当時の場面が一枚、また一枚と切り取った絵のように蘇ってくる。
「やっぱり実際に会ってみないと全然想像がつかないな。でもその時からもう十年以上経ってるんだよな。とんでもなく美人になってたらどうする?」
「どうするって?」
色気もへったくれもない子供のような表情で聞き返してくるリュカを見て、ヘンリーは溜め息をついた。
「お前ってそういうこと、何にも考えなさそうだよな」
「よく分からないけど、そもそもビアンカがとんでもなく美人になってるのが想像できないや」
「そんなにマズイ顔だったのか」
「こんなことビアンカに会っても言えないけど、正直に言うと、はっきりとビアンカの顔が思い出せないんだ」
彼女との思い出は小さなことをきっかけに溢れるほど蘇ってくるのだが、彼女の顔を思い出そうとすると、どんな顔も違うように思えてしまう。目は水色で大きく、金色の髪を二つの三つ編みに結っていたのははっきりと思い出せる。身体全部を覆うような大きな濃緑色のマントを羽織り、服は目にも鮮やかなオレンジ色だった。彼女の姿全体はぼんやりと思い出せるのだが、彼女の顔を思い出そうとすると、何故か彼女の後姿ばかりが頭の中に浮かび上がってしまう。走る彼女の二つの三つ編みが、元気にぴょんぴょん跳ねている光景がリュカの頭の中で行ったり来たりしている。
「そうか、いつもビアンカの後ろを走って追っかけてたから、後ろ姿の方が印象が強いんだ」
「そんなもんか? 何だか言い訳に聞こえるぞ」
「言い訳って、なんの?」
「あんまり可愛くなかったから、あえて俺には言わないんじゃないのか」
「可愛いかどうかは分からないけど、どっちにしたってビアンカはビアンカだよ。会って話をしたら、絶対に一緒に旅に出たいって言うだろうから、ヘンリーも覚悟しておいてね」
「一緒に旅に行きたいって言ったら、連れて行くのか?」
「僕が決めてどうこうなる話じゃない気がする。きっと彼女はついてくるよ」
「……強気な姉ちゃんかあ。俺はどっちかって言うと可愛い妹の方がいいけどなあ」
ヘンリーが両手を頭の後ろに組みながら空を仰ぐ。空にはまだ灰色の雲が立ち込めているが、いつの間にか雨は止んでいた。雲の後ろに隠れた太陽が今にも隙間から顔を出しそうだ。まだサンタローズの村を出てから二時間と経っていない。
村を旅立ってから一度も後ろを振り向いていなかったリュカは、ゆっくりと進む馬車の隣で歩きながら後ろを向いた。山々に隠され、村の景色はもう見えなくなっていた。北に連なる山の頂辺りに漂っていた雲も、どこかに流され消えていた。彼らが進む西の方角にも山々が連なっているが、その稜線をはっきりとさせるような太陽の光が山の間から覗けた。
「思ってたよりも町に着くのは早いかも」
サンタローズからアルカパまでの道のりをはっきりと覚えているわけではない。当時は外の景色を眺めるのは二の次で、ビアンカの行動について行くことが第一だった。まだ子供だったビアンカだが、当時憧れだったパパスと短い旅ができることに浮かれていたはずだ。そんな彼女の楽しそうな感情に付き合わされたリュカはと言えば、嫌がるよりもむしろ一緒に楽しんでいた。だから当時のことを思い出そうとすると、自然と笑みが零れてしまうのだ。
「あの時、僕はまだほんの子供だったんだ」
「そんなことは知ってる。それがどうしたんだ」
「子供の僕が歩いて半日くらいで隣町に行けたんだよ。今の僕だったら、ましてや馬車で進んでるんだから、半日もかかるはずないよね」
「早く着く分にはいいじゃねぇか。何か問題か?」
「えーと、心の準備ができてないって言うか」
「何を今さら言ってんだ。散々ビアンカって女のこと話してきたじゃねぇか。むしろ俺の方が心の準備なんてできてねぇよ、会ったこともないんだから」
「そっか、そうだよね」
「それに、その女が一緒に旅に出たいなんて言ってきたら俺は断るつもりだからな」
予想しなかったヘンリーの言葉に、リュカは驚いた表情で彼を見返す。
「当然だろ。相手は女だ。危険な旅に連れ回すなんてできるかよ」
「でもビアンカが一緒に行きたいって言ったら、断るなんてできないよ、きっと」
「それでも断る。旅の最中に怪我の一つでもさせてみろよ、嫁にもらう羽目になるぞ」
「嫁にもらうって、怪我をさせるとどうして嫁にもらわなきゃいけないの?」
「それが男の責任ってヤツだ。こういうことは感覚的に覚えておけよな」
「ふうん、そうなんだ」
リュカが納得したようなしないような曖昧な返事をしている間に、ヘンリーは馬車の荷台に飛び乗った。荷台には食料と水、それと天空の剣が置かれている。ヘンリーは喉を潤すために、水の入った皮袋を手にとって荷台の幌から顔を出した。
「飲むか?」
「ううん、大丈夫。近くに川があったらまた足しておきたいね」
「水を足す前に町に着きそうだけどな」
水が漏れないようにきつく締めてある蓋を取り、ヘンリーはいつも通り皮袋から直接水を飲む。川から汲み上げた直後は冷たい水だったが、既に常温となり、何のつっかえもなくヘンリーの喉を潤す。
「僕かヘンリーのどっちかが、マリアさんを嫁にもらわないといけないのかな」
ぼんやりとしたリュカの口調だが、唐突な内容に、ヘンリーは口に含んでいた水を勢いよく吹き出した。尻に水がかかった白馬が、何か言いたげな表情で後ろのヘンリーをちらっと見た。だがヘンリーは白馬の様子に気づくこともなく、げほげほと顔を赤くして咳き込んでいる。
「どうしたの、ヘンリー」
「何でそんな話になるんだよ」
袖口で口を拭うヘンリーを見ながら、リュカは何か変わった話でもしただろうかと首を傾げて考えた。ヘンリーは落ち着いて皮袋の蓋を閉め、まだ水のたっぷり入った皮袋を馬車の荷台に転がした。呼吸を調えるために二、三度深く息をつくと、荷台に腰掛けたまま話し出す。
「どうして突然マリアちゃんが出てくるんだ」
「どうしてって、だって怪我をさせた女の子は嫁にもらわないといけないんでしょ。だったらあの場所から逃げる時に、マリアさんには辛い思いさせたかなぁって」
「それはそうかも知れないけど……お前、それで本当にマリアちゃんを嫁にもらえるのか」
「責任を取らなきゃいけないんだったら、仕方ないよ」
リュカの言い方が事務的で無感情で、それでも真面目な顔をしているリュカを見て、ヘンリーは無性に腹が立った。自分から持ち出した話題ということも忘れて、ヘンリーは見るからに不機嫌になって黙り込んだ。
「小さい頃はビアンカにも怪我させちゃったのかなぁ。でもあれはお互い様だった気がする。いやあの時は僕の方が小さかったから、ビアンカに責任を取ってもらうことになるのかな」
リュカの独り言の内容があまりにも突拍子もなく、ヘンリーは腹を立てているのも馬鹿らしいと、毒気を抜かれたようにぽかんとした顔つきでリュカを見た。リュカ自身は案外真剣に考えている様子で、ヘンリーは口を挟む気も起きずに、ただ呆れたように目を細めてリュカを後ろから見ていた。
「僕は二人もお嫁さんにもらわないといけないの?」
困った顔つきで振り向くリュカに、ヘンリーは真剣に溜め息をついた。
「何バカなこと言ってんだ、お前は」
「だって責任を取らないといけないんでしょ」
「責任を取る以前に、二人から断られるかも知れないだろ。『あなたのお嫁になるなんてお断りよ』ってな」
想像していなかったヘンリーの考えを聞かされ、リュカはしばし考え込んだ後、少し落ち込んだように肩を落とした。同時にリュカの肩に乗っていたスライムが同時にずり落ちて、地面に落ちてしまった。
「それはそれでショックだな。でもそうかも知れないよね。第一、ビアンカなんてもう誰かと結婚してるかも知れないし」
「年頃だからな、お前の姉さん。もうガキんちょだっているかも知れねぇ。『子供の時一緒に遊んだリュカおじさんよ~』って紹介されてりして」
ヘンリーが意地の悪い笑みを浮かべながら、馬車の荷台から飛び降りた。ゆっくり進む馬車の速さに懸命についていくスライムを地面から拾い上げ、リュカの肩に乗せてやった。スライムがヘンリーの方を向いて、いつも通り目を丸くしている。
「ピー」
笑った形の口のままスライムが一声鳴くと、ヘンリーは初めて目の前の魔物と会話をしたような気分になった。自然と笑顔になるのを抑えられないまま、隣を歩くリュカに話しかける。
「そう言えばこいつに名前がないな」
「名前?」
「つけてやろうぜ、名前。名前がないと呼ぶにも不便だ」
ヘンリーがリュカの肩に乗るスライムを指でつっつくと、今度はスライムも楽しそうに身体を揺らした。どうやらヘンリーを警戒する意識がかなり緩んだようだ。
「スライムって呼ぶのも何だか冷たい気がするもんね、仲間なんだし」
「このデカイ馬にも名前をつけてやろうか、ついでだから」
「ついでなんて言ったら怒るよ、彼女」
リュカの言う通り、白馬は歩きながらヘンリーをじとりと横目で見ていた。人間の言葉が分かるかのような白馬の行動に、ヘンリーは馬車から少し離れて歩き始める。
「誰かに名前をつけるなんて初めてだよ。どんなのがいいかなぁ」
「あれ? お前、小さい頃にあのデカイ猫を連れてたじゃねぇか。名前で呼んでなかったか」
「プックルのこと?」
「そう、そんな名前だったな。あの猫、お前の飼い猫だったんじゃないのか」
「僕の友達だけど、名前をつけたのはビアンカだよ」
「姉ちゃんがつけたのか。そのプックルって、確か何かの絵本に載ってた名前なんだよな」
小さい頃を思い出すようにヘンリーが遠くを見遣る。その本には確か他にも何人かの名前が載っていたような気がしたが、どんな名前だったか、そもそもその絵本がどんなものだったのかもヘンリーには思い出せなかった。絵本だったから、ごく幼い頃に読んだものだったのだろう。
小さい頃の記憶の中から、ヘンリーは一つの伝記を思い出した。伝記と言っても、それこそ絵本にでもなりそうなおとぎ話の一つだ。
「馬車には天空の剣が乗ってるな」
唐突に聞いてきたヘンリーに、リュカはこくこくと頷いて返事をする。
「それがどうかしたの?」
「俺たちはさ、伝説の勇者を探す旅をしているんだぜ」
「そうだね、そんなつもりはなかったけど、そうなっちゃったね」
何が何だか分からないまま、リュカはヘンリーの話に合わせる。ヘンリーは伝記の内容を徐々におぼろげに思い出していく。幼い頃は内容もよく分からないままただ字面を目で追っていたに過ぎないが、それでも印象に残った場面は、絵本でなくとも一つの景色として蘇ってくる。
「俺が小さい頃に読んだ伝記があるんだけど、その中に立派な白馬が出てくるんだ」
「どういう話なの?」
「話はよく思い出せないけど、その白馬の名前はどうしてだか覚えてる。パトリシアっていうメス馬だ」
「パトリシア……かっこいいね。僕には絶対に思いつかないや」
「今考えると、あの伝記には伝説の勇者のことが書かれてたのかも知れないな。ただ、有用な情報とかじゃなくて、強い勇者様は悪を倒して世界を救いましたっていう、定番の話だったと思うけど」
「それじゃあもう決まりだよ。君はこれからパトリシアだ。パトリシア、よろしくね」
白馬のすぐ横を歩いていたリュカは、彼女の長い首を軽く叩きながらそう言った。するとパトリシアと名付けられた白馬は、名付けられたその名前の音の余韻に浸るように、少しの間目を閉じた。白馬が足を止めたため、進んでいた馬車自体の動きも止まる。白馬の隣を歩いていたリュカもヘンリーも何事かと白馬を見るが、止まっていたのはごくわずかな時間で、パトリシアは再び目を開けるとすぐに歩きだした。
しかしその足取りは今までよりもどこか確かなものに感じられた。そうと気付いたのも、しばらく歩いた後にリュカとヘンリーが今まで以上に疲れを感じたからだった。パトリシアの歩みは今までに比べて少し速くなっていた。
「どうかしたの、パトリシア。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
リュカがパトリシアの横腹を軽く叩きながらそう言うと、パトリシアは主人の思いに合わせて歩む速度を緩めた。
「名前が気に入らなかったんじゃないのか。だから怒って歩くのが速くなったとか」
「そんな感じはしないけどなぁ。だってかっこいいよ、パトリシアって。ねぇ」
リュカが同意を求めるようにパトリシアを見上げると、彼女もそれに応えるようにゆっくりと瞬きをした。そんな優しい仕草を見て、リュカもヘンリーも彼女が名を気に入ったのだと感じた。
「こいつはどうする? 俺が馬の名前をつけたんだから、こいつの名前はお前がつけろよ」
ヘンリーに言われ、リュカは肩に乗るスライムを目の端に捉えた。そして手を差し出してスライムを手の上に乗せると、正面から見つめる。スライムはまるで期待するようなキラキラとした眼差しでリュカを笑いながら見つめている。
「この子の名前、どんなのがいいかな。何かこう、可愛い名前がいいよね」
「確かにあんまり勇ましい名前は似合わないだろうな、見た目がコレだから」
アルカパへの道を進みながら、リュカは魔物がうろつく外を歩いている危機感を微塵も持ち合わせないまま、真剣にスライムの名前を考え始めた。何かの名前を考えるというのはこれほど難しいものなのかと、リュカは心底思った。
「僕はヘンリーやビアンカみたいに小さい頃に本なんて読んでないから、そういうお話って知らないんだよね。何か可愛い名前を知ってたら良かったな」
「オスかメスかも分からないもんな、こいつ。そもそもオスもメスもないのかね」
ヘンリーがリュカの肩に乗っていたスライムを掴んで全体を見回してみたが、オスメスの判断できるようなところは見当たらなかった。スライムの身体は半透明の水色で、どこから見ても継ぎ目も何もない、つるりとした物体だった。骨も筋肉もないこのスライムが、一体どうやってこの雫形の形を保っているのか、ヘンリーは不思議そうにまじまじと見つめる。
「ヘンリー、ちょっと僕にも見せて」
両手の上に乗せて色々な角度で眺めていたヘンリーからスライムを受け取ると、リュカは彼と同じように仲間のスライムを真剣な目つきで見まわし始めた。リュカの手の上に乗るスライムはどうしたら良いのか分からない様子で、リュカが顔を覗きこめば、恥ずかしそうに身体を反転させて後ろを向いてしまう。それも身体ごと反転させるのではなく、顔だけ後ろに向いてしまう奇妙な動きをするスライムを見て、リュカは新しい発見をしたように目を輝かせる。
「へぇ、くるりんって後ろを向くんだね、面白いなぁ。僕だったら首の骨を折ってるよ」
「水みたいなもんだから、目と口だけ移動させられんのかね。いざって時に便利そうだな」
「あ、スラりんってどう? なんとなく思いついたんだけど」
「さっきのくるりんにかかってるんだろ、それ」
「うーん、そうなのかな。そうかも知れない。でもいいよね、かわいいし」
「まあ悪くはないかもな。……しかしお前、将来いいオヤジになりそうだな、そのセンス」
「君はこれからスラりんだよ。スラりん、これからもよろしくね」
リュカがスライムの顔を覗きこみながらそう言うと、少し目線を逸らしていたスライムもリュカの決めた呼び名に応えるように、元気に「ピィー」と鳴いた。
「パトリシアにスラりん。すごいなぁ、僕たちの旅ってこうしてどんどん仲間が増えて行くのかな」
「そうかもな。そんで次に仲間になるのは、もしかしたらお前の姉ちゃん……あんまり気が乗らないな」
「楽しいと思うんだけどな、ビアンカが仲間になってくれたら。きっと戦力にもなるし。呪文が得意だったからね」
リュカがそう諭そうとしても、ヘンリーは顔を曇らせるだけだった。ただ単に自分より年上の女が仲間になるのが、本能的に怖いのかも知れない。リュカといる時のような心地よく自由な雰囲気の中に身を置いておくことがもうできなくなるかも知れないと、ヘンリーはまだ見ぬリュカの幼馴染に内心、戦々恐々としていた。
一方リュカは、白馬とスライムに名前をつけたことで、互いの絆が深まったような満足感を得ていた。かつて共に遊び、冒険をしたプックルのことを思い出す。プックルも初めはただの大きな猫という印象しかなかった。アルカパの町の子供につかまっているところをビアンカが怒り、助け出すのだと言い出し、彼女と一緒に町の外に出てお化け退治をした。約束を果たしたと堂々と猫を助け、彼女はリュカの追いつかないスピードであれこれと言い、あっという間に猫の名前がプックルに決まったような記憶がリュカには残っている。しかし彼女が話をとんとんと進めなければ、リュカ一人では猫は名前もつけられないまま、猫でしかなったに違いなかった。名前をつけ、呼ぶということが、それだけで絆が深まることなのだとリュカは当時から知っていたはずだが、ヘンリーに提案されるまでそのことに気づくこともなかった。
プックルが今、どこにいるのかは分からない。リュカは思いめぐらすように、ふと後ろの景色を眺めた。プックルと別れたのはここからはるか東、ラインハット城よりもさらに東に進んだ遺跡の中だ。アルカパの町近くになり、遥か東の景色は山々に隠されているが、リュカはその山の向こうの景色を見透かすような気持ちで目を細め眺める。
足を止めたリュカを見て、ヘンリーが不審そうに彼の視線を追う。
「どうかしたのか」
「ヘンリーは帰りたいって思わないの?」
リュカの言葉にヘンリーは押し黙った。彼らが見つめる山々は太陽の光に照らされ、緑色に輝いている。空にはいくつかぷかりぷかりと雲が浮かぶだけで、概ね青空が広がっていた。朝方まで降っていた雨のおかげで、景色がいつも以上にはっきりと遠くまで見渡せる。空気が澄んでいる。彼らとサンタローズ、ラインハットを隔てるものは、目の前の山々ですらその役目を果たしていないように感じられた。彼らが手を伸ばせば、向かおうとすれば、その場所は動かずにじっと彼らを待っている。
「どうして帰りたいって思えるんだ」
リュカは何一つ具体的に話したわけではない。ラインハットに帰りたいと思わないのかと、はっきり聞いたわけではないが、ヘンリーは彼の言葉を誤魔化して聞く気分にはなれなかった。リュカの前でラインハットのことを誤魔化すことは、それだけで罪深いことのような気がした。
「だって君の故郷だよ」
ラインハットの話を持ち出して一番辛い思いをするのはリュカのはずだと、ヘンリーは思っている。しかしリュカはそんな素振りなど微塵も見せずに、まるで今日の昼飯は何にするかといった調子でそんな重大なことを聞いてくる。普通のことを聞いて何か問題でもあるのかと、リュカは小首を傾げてすらいる。
「故郷って言ってもな、誰も俺のことなんて待ってやしないよ」
「行ってみないと分からないじゃないか」
「あの国で、俺はもう殺されてるんだ。いないはずの俺が戻ったら、おかしなことになるだろ」
「誰にどう思われるとかじゃなくってさ、ヘンリーが帰りたいと思わないの?」
リュカにそう言われ、ヘンリーは考えもしなかった考えに直面した。自分がラインハットに戻りたいかどうかなど、考えたこともなかった。自分はラインハットには戻るべきではない、それだけを考えていた。
「僕はこれからアルカパの町に行って、僕の昔のことを知ってる人に会いに行くんだ。サンタローズの村でだって、神父様やシスター、おじいさんも僕のことを覚えててくれた」
リュカは今まで歩いてきた道のりを見つめながら、はっきりと話す。ヘンリーは口を挟まずに、ただ黙って彼の言葉に耳を傾ける。
「自分で思った以上に嬉しかったんだよ、たとえ村があんな状況になっててもね。僕のことを名前で呼んでくれるだけで、受け入れられた気がした」
リュカはそう言うと、スラりん、パトリシアと名前で呼んでそれぞれ身体を撫でてやった。名前をつけられ、呼ばれた白馬も魔物も、どこか目の輝きが今までと違うように見える。名前をつけられるまでは他の馬や魔物と同様の扱いから抜け出せないものだったが、名を与え、呼んでやると、それだけで本人たちの意識が違って来るのが目に見えた。自分はスラりんだ、パトリシアだと、自ら意思表示するような強い意思のこもった瞳になった。
ヘンリーは心の表面では嫌だと思いながらも、故郷にいるはずの父や弟のことを思い出すのを止められなかった。城にいる多くの兵士や使用人にも、廊下ですれ違えば『ヘンリー王子』と名を呼ばれた。いたずらばかりして迷惑がられていたが、誰もがヘンリーを知っていて、その名を呼んだ。
自分には生まれながらに名前があるのだから、名を呼ばれるのは当たり前のことだと思っていた。ラインハットを離れても、隣にいるリュカはいつでもヘンリーを名で呼ぶ。しかしオラクルベリーの町やサンタローズの村で、ヘンリーを名で呼ぶ者は一人としていない。ましてやサンタローズではヘンリーの名を明かすことすら避けなければならなかった。村を滅ぼした敵国の王子だと証明するその名は、堂々と明かせるものではなかった。
「知ってる誰かに会って、話をしたいって思うでしょ」
リュカの言葉はヘンリー自身も意識しない心の中心を貫くような威力があった。リュカが今、幼馴染にアルカパの町で会えるのを期待する気持ちと同じように、ヘンリーの心の中にもかつての城の人たちと会えることを期待する気持ちが膨れ上がりそうになる。父王やデールにはもちろん、城中に勤める者たちにも会いたいとすら思う。それは十余年という年月が、郷愁を誘うには十分過ぎるものだからなのか、ヘンリーには全く分からなかった。
しかしその中で一人、彼の意思を挫いてしまう人物がいた。デールの傍にいつでもどこでもつきまとう、あの化粧の濃い女だ。一度たりとも母だと思ったことはない、あの女だった。素顔を見た記憶はない。いつでも化粧で顔を隠し、父の気を惹き、ヘンリーを遠ざけ、デールを生温いベールで覆っていた。
リュカはビアンカの顔を良く覚えていないと言っていたが、ヘンリーは今でもあの継母の顔をはっきりと覚えていた。嫌なものの方が覚えているのかも知れないと、彼はひきつった笑いを見せる。
「俺の思い出はさ、お前ほどキレイなものじゃないんだよ」
小さな声で呟くヘンリーを見ていたリュカだったが、その言葉を理解した瞬間、彼から視線を逸らしてしまった。幼い頃父に連れられラインハットを訪れた時、城で出会った人々のことを思い出す中、リュカはすぐに彼の母の姿を思い出した。当時はデールの部屋にいた彼女がヘンリーの母だとは分からなかった。何一つ似ていないと、幼心に思っていた。そしてリュカ自身、彼女の雰囲気から全てが苦手なものだった。
ヘンリーがラインハットに戻りたくない理由は、恐らくただ一つなのだ。この世でただ一人の母に会うことが、怖いに違いなかった。そんな思いを抱える彼を、リュカは自分の母親捜しの旅に付き合わせていることに、ふとした罪悪感を覚えた。
「僕たちは先の見えない旅をしてるよね。父さんの手紙で伝説の勇者なんて人が出てきたり、天空の剣が置いてあったりしたけど、伝説の勇者って誰だろうって思うし、これからどうしたらいいのかなんて誰にも分からない」
リュカはそう言いながら、再びアルカパの町に向かって歩き出した。彼らの当面の目的はアルカパの町に行って、リュカの幼馴染に会い、話を聞くことだ。しかしその話も思い出話に終わる可能性が高い。彼女が何かを知っているとは限らず、アルカパまでの旅路は、彼らの目的である伝説の勇者を探すこととは無関係のまま徒労に終わるかもしれないのだ。
それでもリュカはアルカパに行ってビアンカに会いたいと思った。それは旅の目的とは違うところで、リュカの勝手な意思によるものだ。彼女に会って話をして元気をもらって、その先に目的があるわけではない。彼女に会えれば有用な話が聞けるかもしれないなんてことは、ただの無謀な期待に過ぎず、今も変わらないと信じる彼女にただ会って話をしたいだけだ。
「何も分からないんだから、何かをやりたいって思ったらそれをやるべきなんだと思う。だからヘンリーも何かやりたいことがあったら、遠慮なく言ってよ」
「やりたいことっつったって、俺はお前の旅の手助けを……」
「何が助けになるかなんてわからないよ。君のやりたいことが、もしかしたら伝説の勇者を探す手がかりになるかも知れないでしょ。だから、やりたいって思ったことがあったら、とりあえず何でもやってみる。僕がビアンカに会いに行くのはそんな感じだよ」
リュカにそう言われ、ヘンリーは改めてこの隣にいる友人の頭が単純に出来上がっていることを思い知らされた。単純だが素直で、そしてしぶとい。興味のあることには素直に首を突っ込んだりするが、定めている目的から目を逸らしているわけではない。リュカは執念深いとさえ言えるほど、一つの目的に向かって邁進していく性格をしている。
そんなリュカの性格が羨ましいと、ヘンリーは思った。そして彼を羨ましいと思う気持ちに気付き、ヘンリーは実は自分もリュカのように素直になりたいのだと、初めてはっきりと認識した。今まではどこか意地の悪いひねくれた気持ちで、リュカの素直さを認めていた。どうせリュカと俺は違う、リュカの素直さや純粋さは持って生まれたものだと、自らの素直さを諦めていた。
リュカはアルカパの町に向かって歩きながら、隣を歩くヘンリーに笑いかけながら言う。
「楽しく行こうよ。やりたいことはやって、やりたくないことはなるべくやらない。それでやらなきゃいけないことがあったら、迷わずやる。それでいいんじゃないかな」
「言葉にしたら、エライ簡単なもんだな。分かったよ、俺も自分のやりたいことがあったら、言うようにする」
「せっかく生きてるんだしさ、僕たち。そうした方がいいよ」
物事は簡単で単純だが、一つの小さなことにこだわり始めると、一番大切なものを見失ってしまう。リュカの隣で歩いていたヘンリーは、再び後ろを振り向いて、太陽の光に照らされた山々の稜線を眺めた。緑が濃くなり始めた山々はじきに夏を迎えるだろう。彼らを照らす太陽の光も、修道院を旅立った時と比べてかなり強さを増している。
アルカパの町に着いた後、リュカの幼馴染の女に会ったら、その後続ける旅について話をすることになるだろう。その時、もし旅の指針が何も決まらないようだったら、ヘンリーは真剣に自分のやりたいことについて考えようと心に決めた。自分のしたいことが何なのか、ヘンリー自身、もうはっきりと気付いている。
東に見える山々の稜線は既に遠くになり、進む方向を見ればまた新しい山々が目の前に迫ってきていた。まだ町の景色は見えないが、アルカパの町は目の前の山々のふもとに広がっているのだろう。隣を歩くリュカの足取りは軽い。彼が幼馴染の女の子に会えるのを心から楽しみにしているのは明らかだった。スラりんと名付けた肩に乗るスライムに話しかけ、スラりんの明るい返事を聞いてまた笑顔になっている。
ヘンリーは強い日差しを手をかざして見上げながら、ラインハットに戻る頃は夏になっているかもしれないと、自身を奮い立たせるような思いを胸に刻みつけた。

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