2017/12/03

無常な年月

 

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北側をぐるりと山に囲まれ、まだ東寄りの空に浮かぶ太陽の光に晒される町が、リュカ達の目の前に現れた。サンタローズの村のように山間に集落があるわけではなく、山のふもとに開けた平地を利用した町は、訪れる旅人を快く迎え入れてくれる雰囲気を醸している。
町の建物を見つけた時、リュカは内心ほっとしていた。オラクルベリーの町で旅の戦士に会った時、このアルカパの町のことを聞いたわけではなかったが、サンタローズのあの惨状を見てきたばかりのリュカにとってはアルカパにも何か異変があるのではないかと心のどこかで案じていたところがあった。しかしリュカのそのような不安などかき消してくれるように、アルカパの町には変わらず人々の生活が息づいていた。町の入り口のほど近くまで来ると、町の人々の会話までが楽しげな音として聞こえてくる。
リュカは町の入り口から入る前に一度足を止め、外からのアルカパの町をもう一度よく見渡した。そして一度首を傾げる。
「おかしいな、こんなに小さい町だったかな」
幼い頃に訪れたアルカパの町は、リュカにとってはとても大きな町だった。町には大きな広場があり、店の数もサンタローズとは比べ物にならないほどあった記憶がある。ビアンカが父母と共に暮らしていた宿屋は立派で、彼女は宿からの眺めがいいのだとリュカを案内し、一緒に星空を眺めたこともあった。
「オラクルベリーみたいな町だったのか?」
ヘンリーが隣に立って問いかけると、リュカは首を横に振りながら答える。
「ああいう賑やかな町じゃなかったけど、でもなんとなく小さく見えるんだよね」
「俺たちが大きくなったからじゃないのか。子供の頃と今じゃ、見え方も違うのかもな」
「そういうことかな」
町に入ってみれば分かると、リュカは町の入り口に向かって再び歩きだした。その時、肩に乗っていたスラりんが小さく「ピィ」と鳴いて、リュカはスラりんを肩に乗せていたことを思い出した。
「こいつは留守番だな」
ヘンリーがスラりんのとんがった頭を握って持ち上げると、スラりんは身体を震わせてその手から逃れようとする。ヘンリーの手から落ちたスラりんを両手に受けたリュカは、その笑った顔を覗きこみながら問いかける。
「一緒に町に行きたい?」
「あえて聞くか、それを」
リュカが真剣に聞いている横で、ヘンリーは諦めたように息をついた。スラりんが考え込むように身体を揺らした後、自ら馬車の荷台の方を向いたことに、リュカもヘンリーも驚いた表情でそれを見た。二人ともスラりんはてっきり一緒に来たがるものだと思っていた。
「人がいっぱいいるから、怖いのかな」
リュカがスラりんを持ち上げて、パトリシアの背に乗せてやる。スラりんは相変わらずゆっくりを身体を揺らして、笑った表情でリュカを見下ろしている。そしてパトリシアの背の上をぴょんぴょんと跳ねて進みながら、自ら馬車の荷台に入って行ってしまった。スラりんの後ろ姿を見て、リュカははたと思い出した。
「そうだ、天空の剣は持っておいた方がいいかな」
「馬車はここら辺に止めさせてもらうとして、そうだな、持っておいた方がいいだろうな」
「ビアンカにも自慢しないと。父さんの手紙と一緒に見せてあげよう」
リュカが明るい調子で言うのを、ヘンリーは少し羨むような気持ちで見ていた。荷台の奥に置いてあった天空の剣を手にリュカが町に向かって歩き出す後ろから、ヘンリーはつい東の空を眺めたが、すぐに視線を前に向けてリュカの後に続いた。
まだ六歳の時に父に連れられて訪れただけの町だったが、思った以上に町の様子を覚えていた。町全体が木々に囲まれ、自然の防壁となっている。町の入り口には形ばかりの門があり、その脇には門番の姿があるはずだった。昼間にはしっかりと目を光らせ、外に出ようとするやんちゃな子供たちを厳しい目をして止めたりするのが彼の仕事だった。
幼い頃、リュカはビアンカと共にレヌール城へ向かうべく、夜にアルカパの町を出たことがあった。その時門番がいたはずだが、最も警戒しなければならない夜に堂々と居眠りをしていたのを覚えている。地面に寝る門番の横を、ビアンカと難なく通り過ぎたのを思い出し、同時にその時の酒臭さをも鼻が思い出した。
リュカはキョロキョロと辺りを見回して、門番の姿を探した。しかし酒の臭いはどこからも漂わず、町を守るべき門番の姿はどこにも見当たらなかった。過去の記憶と少し違うだけで、リュカはこの町に流れた年月を嫌でも感じた。リュカの頭の中では十余年も前にビアンカに連れられて歩き回った町の姿しかないが、長い年月の間に町の人々も年を取り、この町に留まる人もいれば、町を出て行く人もいたのだろう。
オラクルベリーの町だって、十年前はそれほど大きな町ではなく、一つの集落に過ぎなかったのだと聞いている。十年も経てば、様々なことが変わってしまうのだと、リュカは自然と沸き起こる己の期待を、意図的に少々押さえつけるようにした。
入り口から真っ直ぐに伸びる大きな目抜き通りを進むと、ビアンカの住んでいる大きな宿屋がある。通りの横には商店が軒を連ね、陽が中天に差しかかった今頃は買い物客で賑わっている。町の住人が食材の買い出しに来ていたり、商売人が商品の仕入れに店を覗いていたり、年頃の娘などは服飾店でとっかえひっかえして気に行った服を探したりしている。
リュカはその人混みの中に、ビアンカを見つけようとした。宿屋の娘としててきぱき働いているイメージが、既にリュカの頭の中にできていた。母親と一緒に宿を切り盛りし、客に用意する食事のための買い出しに来ていてもおかしくないと、野菜や果物、山の幸が並ぶ食材店を中心に覗いて行った。
食材店は多くの女性で賑わっている。その中から一人、まだ若い母親が幼い子供を連れて店から出てきた。母親はもしかしたら自分たちとそう変わらないくらいの歳なのかも知れないと、リュカは思わず目を凝らしてその女性を見る。金色の短い髪に隠れた女性の顔が、リュカの視線に気づいたように振り向いた。
女性がビアンカでないことに、どういうわけかリュカは心の奥でほっとしていた。
サンタローズを出て、アルカパの町に向かう途中、ずっとビアンカと会えるのを楽しみにしてきたはずだった。十年の時を経ても、きっと彼女は変わっていないだろうと、リュカの中には確信に近い思いがある。たとえ彼女が母親になり、子供を連れていようとも、リュカはその子供にもにこやかに話しかけるイメージが出来上がっていた。それらは至って普通の幼馴染との再会の場面だ。
しかし今、リュカはじっと見ていた女性がビアンカではなかったことに、ほっと息をつく。どんな顔をして再会の挨拶を交わせば良いのか、そんなことは考えなくても良いはずなのに、リュカは何故か笑顔の練習をしようとしていることに気付き、自分で驚いた。
「何してるんだろう、僕」
「何だよ、あの人じゃないのか」
「うん、違う。ビアンカじゃない」
「てっきりお前がじっと見てるから、そうだと思ったじゃねぇか」
二人の若者に見つめられていた子連れの女性は、子供をかばうように抱き上げると、足早にその場を去ってしまった。どうやらリュカとヘンリーは不審者と見られたようだ。
「似てたのか?」
「どうだろう、よく分からない」
心ここにあらずのリュカの返事を聞いて、ヘンリーが怪訝そうにリュカを横目で見る。
「そんなんだと、ここで姉ちゃんに会っても分からないかもな。とりあえず宿屋に行ってみようぜ、そこに間違いなくいるんだろ」
「たぶんね。でも、どうなんだろう、いるのかな」
「なんだよそれ、いるって言ってたじゃないかよ」
ヘンリーはいつもの調子で聞き返しただけだったが、今のリュカにはその言葉が耳についた。自分でも分からない何かに、ヘンリーが勝手に踏み込んできそうな気がして、リュカは思わず強い口調で返す。
「だってあれから十年以上も経ってるんだよ。ビアンカがどうなってるかなんて、僕には分からないよ。その間に色んな楽しいことがあって、僕のことなんか忘れてるかも知れない。家族がいて、平和で、そんなところに僕が行ったら、やっぱり迷惑なのかな」
急に落ち込み出したリュカを見て、ヘンリーは一体何があったんだと不安げに彼の様子を窺う。町の大通りを移動しながら並ぶ店を見て行った彼らは、既にアルカパの宿屋が見えるところにまで足を進めていた。町の自慢とも言える大きな宿屋は今も多くの旅人を受け入れ、泊めているのだろう。オラクルベリーの町ほど大きな町ではないが、この大通りを歩いてきただけでも何人かの旅人をすれ違った。彼らは皆、今日の寝床を求めてあの宿屋に向かうはずだ。
「この町に宿屋はあそこしかないのか」
何の脈絡もないことを聞かれ、リュカは我に返ったようにヘンリーを見返す。過去を思い出しても、この町に宿屋は一軒しかなかったとリュカが言うと、ヘンリーは有無も言わさぬ様子で前を歩き始めた。
「やらなきゃいけないことは迷わずやる、だろ。とっとと姉ちゃんに会いに行こうぜ」
目的地が目の前に見えている今、ヘンリーの足を止めることはできないとリュカはすぐに悟った。大通りは広く、人を避けて進む必要もない。何の障害もない大通りの真ん中を堂々と歩いて行くヘンリーの後ろから、リュカは先ほどまで落ち込んだりいらついたりした原因も分からぬまま、彼の後を慌てて追いかけて行った。



宿の目の前まで来て、二人は大きな三階建の建物を見上げた。アルカパの町の中では際立って大きな建物に、今も一人の旅人が扉を開けて中へ入って行った。正面二階には大きなテラスがあり、そこには何人かの人々が昼時の時間を楽しんでいるようだ。宿から出された昼食をテラスで食べているのか、ほのかにパンの良い香りが彼らのいるところにまで漂っている。
リュカが宿屋の扉を開けると、ロビーには先ほど入ったばかりの一人の旅人が記帳しているところだった。リュカは宿の中に入った瞬間、懐かしさよりもむしろ緊張が身体にまとわりつくのを感じた。十年以上の年月が過ぎたアルカパの宿屋は、外見こそ赤屋根の三階建で変わらないものだが、中の様子はリュカにとっては何も知らない未知の世界にすら思えた。
先に入っていた旅人が記帳を終えると、カウンターで接客をしていた人が彼に鍵を渡し、部屋の位置を案内した。旅人が移動した直後、リュカは宿のカウンターにいた小柄な男性と目が合った。
リュカにはっきりとした記憶は残っていないが、その男性はビアンカの父ダンカンではなかった。見れば思い出すはずの記憶の奥に閉じ込められたその顔が、目の前の男性とまったく合わない。リュカやヘンリーよりも十歳以上は年上であろうその男性は、新しい宿泊客となる二人に人懐こい笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ」
その言葉をビアンカの声で聞くつもりだったリュカには、どうしようもない違和感がまとわりついた。しかしすぐに思い直す。もしかしたらこの男性がビアンカの旦那となる人かも知れないと思った瞬間、今度は更に強い違和感を覚えた。
「お泊りですか?」
「ああ、二人部屋で頼む」
思い出に耽ってその場で立ちつくすリュカに代わり、ヘンリーが宿泊の手続きを進めた。その間もリュカはヘンリーの横でちらちらと宿のカウンターに立つ男性を見ていた。よく見てみると、男性はリュカ達よりも二十歳ほども上のようにも見えた。ビアンカがそれほど年上の男性と結婚したのかと、リュカはどこか認めたくない思いで男性を見続ける。
しかし思い返してみれば、ビアンカは父に憧れていた。彼女が年の離れた男性と一緒になることは十分に考えられると、気がつけばリュカはカウンター内に立つ男性を睨むように見つめていた。その様子に気づいたヘンリーが、リュカを正気に戻すように頭を叩く。
「ところでさ、ここに俺らくらいの若い女の子はいないのか?」
唐突に聞き出すヘンリーに、リュカは責めるような視線を彼に向けた。リュカの気持ちが整わない内に、宿の男性があご髭を右手で撫でつけながら応じる。
「若い女の子はいないねぇ。うちのかみさんは若いなんてとても言えないし。誰か知り合いでも探しているのかい?」
男性が帳簿に書かれた名前を確認しながらそう言っていると、奥の部屋から彼の妻がいそいそと出てきた。目の前の男性がダンカンでないと分かりながらも、奥から出てきた妻がビアンカの母ではないことを確認するようにリュカは彼女をじっと見つめた。するとその視線に気づいた彼女が顔をしかめてリュカを見返した。
「お客さん、どうかしましたか?」
女性に聞かれ、リュカはここに来た理由を伝えようと、息をついて気持ちを整えた。
「ここにビアンカっていう女の子がいませんか?」
言う声が少しだけ震えたのを、リュカは感じた。抑えていたはずの過剰な期待が口から出てしまいそうだった。ビアンカがこの宿にいないはずがないのだと、目の前の女性が答える前に、自分に言い聞かせた。
「ビアンカ? 誰だい、それは」
女性は主人がいるカウンターのところにまで来て、先ほどヘンリーが記帳を済ませたばかりの名簿に目を通し始めた。
「客としてじゃなく、この宿屋に住んでいなかったか?」
追いかけて聞くヘンリーに、女性は名簿から目を離して、思い出したように「ああ」と声を出した。
「あたしら夫婦は七年ほど前、ダンカンっていう人からここを買い取って宿を始めたのさ」
ダンカンというビアンカの父の名前が出て来て一瞬気が緩んだリュカだったが、その内容を心の中で復唱すると、心が音を立てて崩れ落ちてしまいそうだった。
「七年前か。ずいぶん前の話だな」
呟くように言うヘンリーの横で、リュカの頭の中は女性の言葉で埋め尽くされそうになっていた。
ビアンカがいない。七年も前に、ビアンカたち家族はこの宿を売ってどこかへ行ってしまった。七年前、僕は何をしていただろう。七年前、僕はまだ十歳くらいで、ビアンカは十二歳。僕はあの場所で何とか生きていただけだった。毎日死ぬんじゃないかと思いながら、死んでたまるかって思いながら生きてた。その頃ビアンカはどんなことをしていたんだろう。どうしてこの宿を売ることになってしまったんだろう。彼女はこの大きくて立派なこの宿屋を自慢して話していた。きっと離れたくなかったはずだ。この宿を手放して、この町のどこか他の場所で暮らしているのだろうか。
ここにいるはずだったビアンカがいない。会えると信じ、再会を果たし、旅の理由を離せば必ず彼女はついてくるに違いないと、想像を膨らませていたリュカだが、その想像は期待ごとしぼんでいってしまった。目の前にいない彼女の無事を確認する手立てはない。七年前でも今ほどではないだろうが、魔物がうろついていたことは変わりない。万が一、この町を離れ、どこか他の地へ移り住むとしたら、途中魔物に襲われなかった可能性は万に一つもないだろう。その旅路の途中、もし強い魔物に出遭い、倒すことも逃げることもできなかったら。
そこまで一気に考えた後、身体がぐらつき、リュカは慌てて宿のカウンターにしがみついた。カウンターに乗せた手に汗が噴き出していて、しがみついた手が木のカウンターの上を滑った。
「おい、大丈夫か」
ヘンリーに身体を支えられ、リュカはこめかみに流れる汗を拭いながら、何とか微笑んだ。宿の主人もその妻も、リュカの普通ではない様子に互いに顔を見合わせる。
「顔色がよろしくないようですね。すぐにお部屋に案内しますので、すぐにお休みになった方が良さそうですよ」
「はい、そうさせてもらいます」
素直に従うリュカに、カウンターの中から出てきた妻が部屋を案内するべく、ゆっくりと上り階段まで歩いて行く。その後をリュカ、ヘンリーと続いて宿の廊下を歩いて行った。
「もし外の空気が吸いたいとなったら、テラスに出ているのもいいと思いますよ。今日はお天気もいいですし」
「じゃあ荷物を置いたらそこに行ってみるか」
ヘンリーにそう言われて、リュカは自分が一つも荷物を持っていないことに気付いた。後ろを見ると、ヘンリーが旅の荷物と、布でぐるぐる巻きにした天空の剣を大事そうに抱えて歩いてきている。立ち止まったリュカに「早く行こうぜ」と素っ気なく言って、ヘンリーが先に階段に向かって行った。リュカは心の中で礼を言いながら、足取りを確かにして後を追いかけるように階段に向かった。
案内された部屋は二階で、手入れの行き届いた一室だった。宿の従業員に数人の女性がいるようだったが、その中にもビアンカの姿はもちろん見当たらなかった。つい彼女を探してしまうリュカの視線と、一時でも目が合ってしまった女性従業員は皆、照れるようにしてその視線からすぐに逃れてしまっていた。
部屋に荷物を置くと、リュカとヘンリーはさきほど案内されたテラスに行ってみることにした。ちょうど彼らのいる階からテラスへ出られる出入り口があるようだ。廊下の突き当たりに見える扉の上側に『テラス』の文字を見つけると、二人は古めかしくも手入れのされた木の扉を開いてテラスへと出た。
宿に宿泊する人々が共同で使うテラスは思った以上に広く、椅子とテーブルがゆとりある配置で数組置かれていた。憩いの雰囲気を漂わせる花が飾られ、爽やかな風に乗って花の香りがテラス中に行きわたっている。花にはミツバチが留まり、蝶がふわふわと回りを飛び、この場所にいるだけで嫌なことや悲しいことから少し逃れられるような気分にさえなる。たとえビアンカたち家族がこの宿にいなくても、宿屋がまだ立派に生きていることに、リュカはようやくほっとした気持ちになった。
テラス席には旅人と思われる三人組のいかつい男性と、端の席でのんびり茶をすすっている老人が一人いた。リュカとヘンリーがテラスに出た直後、ギロリと睨むような視線を向けてきた三人組を見て、二人は警戒するようにその三人から離れて座ることにした。
町にはこの宿屋を覗いて他に高い建物はない。遠くまで見渡せるこのテラスからは、目を凝らせば町の入り口に近い広場まで眺めることができる。広場は木々に囲まれており、広場の様子までは分からないが、夏前のほど良く暖かくなってきた今日は広場に多くの人々が集まっているのだろうと想像し、リュカは顔を綻ばせた。広場の木にビアンカとプックルと木登りをしたことを思い出し、目を凝らせば木々の間に子供たちの姿が見えるのではないかと、リュカは目を細めて遠くを見つめた。
「宿のおばちゃんがコレくれたぞ。飲んでおけよ」
いつの間にかヘンリーが手にしていたのは、薄紫色の液体が入ったグラスだった。テーブルに置かれたグラスを覗きこんで匂いを嗅いでみると、仄かな果実の良い香りがした。
「ブドウだね」
「この辺りでは良く採れるのかもな」
過去に葡萄ジュースを飲んだ記憶を掘り起こそうとしても、リュカにもヘンリーにも思い出せなかった。しかし匂いの記憶が残っているということは、恐らく子供の頃に一度は口にしたことがあるはずだった。思い出せない記憶と共に葡萄ジュースを飲む二人だったが、口の中に広がる爽やかな甘さにさほど嫌気は差さなかった。掘り起こせない記憶はそれほど嫌なものではないようだ。
「しかしどこにいるのかね、お前の姉ちゃん」
「この町にいるのかな。もしいれば誰かが知ってるだろうから、町の人たちに聞いてみようかな」
「そうだよな、きっとそんなお転婆な子供だったら、町の有名人だろ。その辺の人に聞いたって知ってるかも知れないぜ」
そう言って再び葡萄ジュースを飲むヘンリーを見た後、リュカはテラスから町の景色をぼんやり眺めた。ほど近いところに町の教会があり、屋根の天辺には何にも遮られない太陽の光を浴びる十字架が掲げられている。そう言えば町に来たと言うのにまだ教会に行っていないなと、リュカは後で教会に寄ろうと思っていると、ふと近くから視線を感じた。目の前のヘンリーではなく、彼の後ろからリュカとヘンリーの様子を窺うような遠慮がちな視線が向けられている。
「誰かを探しておるのかね、旅人さんよ」
テラスの端の席に座っていた老人が穏やかな声で話しかけてきた。目が細く、話してこなければまるで眠っているかのようなその表情を見て、リュカは葡萄ジュースの入ったグラスを持って立ち上がった。
「そちらに行ってもいいですか」
「もちろんじゃよ。じいさんの話相手をしてくれるのかね、うれしいのう」
にこにこと笑みを絶やさぬ老人のいる席へリュカが移動すると、ヘンリーも後に続いて席を立った。
テラスには心地よい緩やかな風が吹いている。日差しは暖かで、町の中には人々の生活の音が心地よい雑音として響いてくる。町の平和の中にいると、自分が終わりの見えない旅をしていることをつい忘れそうになってしまう。
しかし現実には外にうろつく魔物は増えたと、旅人は口を揃えて話す。まだ子供だった十年以上前と比べて確実に世界は変わっている。現に、ビアンカが今、ここにいないのだ。リュカはつい目を逸らしそうになってしまう現実に改めて向き直り、老人の向かいの席から話しかける。
「探しておる人がおらんかったのか」
早速話の続きをと、老人が話しかけてきた。近くで見る老人の表情は、意外に年を取っていないのかも知れないと思うほど、肌つやが若々しかった。
「ここにいると思ってきてみたんですけど、いないみたいで。でもまだ今日この町に来たばかりなので、町の中を捜してみようと思ってます」
「久しぶりにこの町に来たのかね」
「昔この町に来たのはもう十年以上前になります。僕はまだこんな小さい子供でした」
そう言いながらリュカが椅子に座る自分の頭よりも、頭一つ分低い位置に手をかざすと、老人はどこか嬉しそうにうんうんと頷いた。元々細い目が更に細まり、その目の中で何かを思い出しているような雰囲気が漂う。
「おじいさんはどうしてここに? どこかからこの町に来たんですか」
リュカが尋ねると、老人はにこやかに、しかし少し元気のない様子で話し始めた。
「わしは、昔この宿をやっていたダンカンさんの知り合いでの。久しぶりに会いに来たのじゃ」
「え……」
リュカが聞き返すことも忘れて言葉を失っていると、老人は手入れの行き届いたテラスを眺めながら話を続ける。
「けどダンカンさんは身体を悪くして宿屋を止め、はるか海の向こうの山奥の村に引っ越して行ったらしい。あのかわいい娘さんにも会いたかったのう。残念じゃわい」
唐突に聞かされた新しい事実に、リュカの頭が自ずと拒否しようと回転を止めた。この宿屋にはいなくても、町の中を捜せばビアンカがひょっこり姿を現すのではと、気持ちのどこかで楽観視していた部分が踏みつぶされてしまったようだった。
だがまだ希望を捨てきれないリュカは、隣に座るヘンリーを見ると真剣な表情で問いかけた。
「ヘンリー、地図は持ってる?」
「お前が持ってるんじゃないのかよ」
「じゃあ部屋に置いて来ちゃったんだ」
「地図なんか見て、何をするつもりだよ」
ヘンリーに怪訝な目を向けられながらも、リュカは簡単に仕上げた手書きの地図の地形を頭の中に思い出そうと目を瞑った。老人は『はるか海の向こうの山奥の村』と言ったが、リュカが旅の戦士に聞いて仕上げた地図に海など描き込まれていない。あの地図はオラクルベリーからサンタローズまでの道しか記されておらず、海の向こうの情報については一切ないはずだった。
「海の向こうの山奥の村って、ここからどれくらい遠いんでしょうか」
余裕を失くした目の前の青年の様子を見て、老人はにこやかな表情のまま、彼に「一先ず落ち着いたらどうじゃ」と、葡萄ジュースの入ったグラスを勧めた。勧められるがまま、リュカは葡萄ジュースを一口飲んだ。熱を持っていた身体全体の温度がほんの少し落ち、リュカは一つ息をつく。
「わしら老人にとっては憧れの土地じゃよ。何せ有名な温泉のある村じゃからな。ここからだと、どれくらいかかるんじゃろうなぁ。ふたつき、みつき、いや、半年ほどはかかるんじゃないかのう」
「そんなに遠いところなのか」
「なんせ広い海を越えて、そこからさらにずっと西にまで旅をしなければならんらしいからの。わしのような年寄りにはとてもとても……」
老人はそう言いながら、西に傾き、強さも落ち着いてきた太陽を眩しそうに見上げた。リュカもつられて白く輝く太陽を見上げた。ビアンカたちが移り住んだと言う遥か西の山奥の村というのが、あの太陽よりも遠いところなのではと、途方もない想像をして肩を落とした。
「どうして……そんなに遠いところに行っちゃったんだろう」
アルカパの町で立派な宿屋を営み、町の人々とも良好な関係の付き合いがあったはずなのに、何故それほど遠い場所へ行ってしまったのか、リュカには初め、良く分からなかった。いくらダンカンの具合が良くないからと言って、具合が良くないのなら尚更それほどの長旅には耐えられないのではないかと、ダンカン家族の移住に否定的な感情しか出てこない。
ダンカン家族がこの町を出て行ったのは七年ほど前だ。七年前、既にサンタローズの村は襲撃に遭い、焼き払われて数年が経っていた頃だ。その事実に思い当った瞬間、ダンカン一家がアルカパの町を離れる決意を固めたことがほんの少し理解できた気がした。
隣の村が突如、何の前触れもなく滅ぼされた衝撃は、当時のアルカパの町をも包みこんだに違いなかった。大人の足で歩いて半日もかからない距離の村が焼き討ちにあったとしたら、この町の人たちがその事実を知るのにさほど時間もかからなかっただろう。ダンカン夫妻やビアンカがその悲劇を知った時、一体どんな気持ちだったのだろうか。きっと悲しんでくれたのだろうと、リュカは彼らが移住を決めた思いを理解できる一つの理由に行き当たった気がした。
ビアンカがここにいないのは仕方がないと、リュカは無理やりにでも気持ちを浮上させようとした。ふと隣に座るヘンリーを見てみると、彼は彼で何やら考え込むようにテーブルの一点を見つめていた。もしかしたら彼もサンタローズへのラインハットの襲撃のことを頭の中に思い描いているのかも知れない。明るい太陽に照らされた彼の顔には、必要以上に影が落ちているような雰囲気をリュカは感じた。
「お主もダンカンと知り合いじゃったんか」
老人の窺うような問いに、リュカは顔を上げて応える。
「僕はダンカンさんの娘と知り合いなんです。ビアンカって言う女の子なんですけど」
「おお、おお、あの可愛い女の子じゃな。わしも覚えておるわい。そうか、ビアンカちゃんと言うのか」
老人は白いあご髭を撫でながら、過去を懐かしむように目を閉じて回想する。
「まあ愛想の良い子じゃったのう。宿の客には元気に挨拶して回っておった。べっぴんさんじゃったから、町の男の子とも噂されとったようじゃ」
「それって、いつくらいの話なんですか」
「さて、思い返して見ると、あれはダンカンがこの町を出る一年ほど前じゃったかのう。まさかその一年後にこの町を出て行ってしまうとは思いもしとらんかったが」
老人が見たビアンカの姿は、リュカが知っている彼女よりも二つ年を取った頃のようだった。十歳くらいになったビアンカの姿を想像しようとしたリュカだが、そもそも彼女の顔をはっきりと覚えていないリュカには無理だった。
「まだ十歳そこそこで男と噂されるなんて、ませた子供だったんだな」
「何せ僕の父さんが好きだったからね、ビアンカは」
「それじゃあ他の男には目もくれないな、お前の親父さんが相手じゃあ太刀打ちしようがない」
「今頃、何人もの男を振り向かせるようなべっぴんさんになっとるじゃろうなぁ」
男三人がそれぞれ方向性の違う想像をしていると、同じテラス席にいた体つきの良い男三人組が遠くから話しかけてきた。
「じいさん、俺らちょっと酒でも飲んでくるわ」
「ああ、宿の部屋は取ってあるから、適当に帰って寝たらええ」
「おう、悪いな」
男たちはそれだけを伝えると、リュカとヘンリーを無遠慮にじろじろと見てから、テラスを出て行った。ヘンリーがテーブルに片肘をつきながら睨み返すのを、リュカは肩を叩いて止めた。
「知り合いなんですか、あの人たち」
男たちが去った後、リュカは率直に老人に問い掛けた。
「わしの護衛じゃよ。まさかわし一人で外に冒険に出るわけには行かんじゃろ」
老人はそう言いながら空気の抜けるような笑い声を上げた。若く、健康的で、体力もあるリュカにとっては、旅をするのに護衛をつけることなど思いつきもしなかった。目の前の老人にとっては、たとえサンタローズからアルカパの町に行くにしても、魔物がうろつく外の世界を一人で歩き回ることができないのだ。だから護衛をつけ、なるべく危険を減らし、このアルカパの町に来るまでの道のりも、リュカたちとは比べ物にならないほどに命を賭けたものに違いなかった。
そんな危険を冒してまで町に着いたら、会いたかった人物は遥か西の山奥の村に行ってしまっていた。それはリュカが感じた衝撃よりもずっと大きな衝撃だっただろう。そして恐らく、この目の前の老人は生きている間にダンカンに会うことを諦めている。広い海を渡って、広い陸地をひたすら西へ行く体力も気力も、もうこの老人には残されていないのだ。
リュカは常に笑ったような表情の老人に小さく頭を下げた。老人はそんな青年を見て小首を傾げたが、さほど気にする様子もなく、テーブルに置かれたままの紅茶の残りをズズズと飲みほした。
「さあて、わしは部屋に戻ることにしようかの。お前さんたちはこれからどうするんじゃ」
老人に言われ、リュカは思わず「うーん」と唸ってしまった。アルカパの町に来た目的が果たせないことが分かった今、何をすれば良いのか頭の中を探り始める。
「そうだ、勇者について何か知りませんか」
「ユウシャ? なんじゃ、それは」
「伝説の勇者の話です。僕たち、その人を探しているんです」
「ああ、あのおとぎ話で出てくる勇者のことか。なんじゃ、そんないるかどうかも分からんものを探しておるんか」
老人の言葉は世界中で共通する一般的なものだった。世界中に住む人々のほぼすべての人たちが、伝説の勇者の存在をおとぎ話の中だけの存在だと認めている。現実にいるはずがないのだと、ほとんどの人々が勇者が現実にいることを否定している。一縷の望みを賭けて聞いてみたリュカだったが、老人のその反応を見てすぐに引き下がった。
「でも僕はいるって信じてるんです」
これだけは言っておきたいと、リュカは老人の細い目を真っ直ぐに見つめながらそう伝えた。彼の自信は、幼い時に体験した妖精の国での冒険が基になっている。サンタローズの村で妖精に出会い、妖精の国に行き、ベラという妖精とプックルとで冒険をし、妖精の女王であるポワンにフルートを渡した。これは紛れもない事実なのだ。リュカは今でも、一面真っ白な雪に包まれた妖精の国を、あの凍えるような寒さと共に思い出すことができる。
リュカの真剣な表情を見て、老人は到底茶化す気にもならず、ただ目の前の青年に暖かいアドバイスをと、やはりにこやかに話しかけた。
「お主ら、情報を集めるのに一番手っ取り早い方法を知っておるか?」
老人にそう問いかけられ、リュカもヘンリーもそれぞれ首を傾げて考える。まるで子供のような純朴な表情で考える二人の青年を見て、老人は嫌味なく笑う。
「人は酒を飲みながら、互いに腹の割った話をするもんじゃよ。この町にも酒場があるはず。行ってみたらどうじゃ」
「酒場ねぇ……」
ヘンリーが苦虫を噛み潰したような顔をするのを、リュカは横でこっそり笑う。
「無理に酒を飲まなくても大丈夫だよ。ちゃんとジュースもあるはずだから」
「お前に言われたくねぇ。それにお前だって別に酒に強いわけじゃないだろ、偉そうに言うな」
「いざとなったらまた僕がおぶってあげるから安心していいよ」
「その勝ち誇ったような顔、腹が立つから止めろ」
「なんじゃ、二人とも酒が飲めんのか、人生を半分くらい損しておるのう」
楽しげに笑う老人の前で、二人は揃って肩をすぼめた。
「とりあえず行ってみたらええ。……まあ、わしも夜になったら行こうとは思うとるがの」
老人はそう言うと席を立ち、意外にしっかりとした足取りでテラスから出て行った。テーブルに残された皿やカップは後で宿の従業員が片づけることになっているようだ。先ほどまでテラスにいた三人組の男たちが着いていたテーブルにも皿やグラスがあったはずだが、既に片付けられている。
リュカはグラスに残っていた葡萄ジュースを最後の一滴まで飲み干した。見れば太陽が西に傾いてから大分時間が過ぎていたようで、西から照りつける日差しは青色から橙色に変わり始めていた。テラスに吹く風も、少しひんやりとしてきている。
「お前の喜ぶ顔が見られなくて残念だよ」
そう言うと、ヘンリーもグラスに半分ほど残っていた葡萄ジュースを一気に飲み干した。
「楽しいことは取っておいた方がいいって、小さい頃に聞いたことがあるよ」
「そういう考え方も、アリだな」
「生きてれば、きっと会えるよ」
リュカの言ったその言葉が、果たして彼自身のことを言っているのか、遥か西に行ってしまった彼女のことを言っているのか、ヘンリーには分からなかった。そしてその言葉の意味を、ヘンリーは追究しようとはしなかった。
「なあ、腹減らない?」
「うん、減った」
「即答だな」
「だってさっきまであんなに美味しそうなパンの匂いがしてたんだよ」
「行ってみるか、酒場」
「酒を飲みに行くんじゃなくて、食事だね、僕たちの場合は。何を食べようかなぁ」
「俺らは貧乏なんだからな、ちょっとだけにしとけよ」
「お金に困ったら、またヘンリーが働けば大丈夫だよ」
「ふざけんな、今度はお前が働け」
二人はアルカパの町に来た目的を、とりあえず忘れることにした。幼馴染の女の子がもうこの町にいなかったことは、リュカに大きな衝撃をもたらしたが、その事実を変えることはできない。だが生きて旅を続けていればいつかきっと会えるに違いないと、リュカはビアンカの二つの三つ編みがぴょんぴょん跳ねる元気な姿を、無意識に脳裏に思い描いていた。

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